団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

娘、息子問題 団塊ジュニアの悲鳴

2007年06月30日 | Weblog
とうとうマスコミは私が心配していたことを報道し始めた。

 まず週刊エコノミストの6月19日号が『娘、息子の悲惨な職場』を特集した。続いて週刊読売ウイークリーも同じような特集を組んだ。

 いわゆる団塊ジュニアと呼ばれる若者が悲鳴をあげている。格差社会、勝ち組、負け組みなどと騒がれている。団塊ジュニアのほとんどが就職氷河期を生きてきた。正社員になれず、フリーターでなんとか凌いできた者も多くいる。職につかず家にこもる者もいる。パラサイト問題もある。おおきな社会問題だ。

 私にも二人の子供がいる。息子と娘。二人とも疲れきっている。息子の同期入社の同僚が過労死した。息子の妻は痛く心配している。週日は毎晩午前零時以降の帰宅。休日出勤も多く、二人の孫は母子家庭で育っているような状態である。何より心配なのは、息子が疲れきっていることである。

 娘は結婚して4年になるが、出産の話はまるで聞かない。息子同様連日残業で帰宅は10時を過ぎている。よく夫婦の仲がおかしくならないものだと感心している。やはり娘の健康が心配だ。

 二人の子供の上司は、団塊世代である。皮肉なものである。成せば為る。自分達は今の若者以上にがんばった。こんなことできなくてどうする、の根性論を持ち出す。だめなら去れ、代わりはいくらでもいる、とはっぱをかける。

 日本は今の状態を目指していたのだろうか?労働は生活の全てではない。せめて労働、私生活、睡眠の3つの基本が均等であって欲しい。私が暮らした国々は、貧しくてもずっと人間らしい暮らしをしていた。だんだん日本が収容所列島化している気がしてならない。

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娘、息子問題 寿司修行

2007年06月29日 | Weblog
 約5箇月間、東京特派員の長男を預かった。彼は、東京のアメリカンスクール12年生で、州立ミシガン大学への進学も決まっていた。卒業単位を全て習得したので、アメリカンスクールの卒業式まで、寿司職人の修行をしたいと、我が家にホームステイした。彼の夢は、両親に自分が握った寿司を食べてもらうことだった。 

 私の知り合いの『だるま』寿司で、修行することになった。店主と女将さん二人でやっている、小さなカウンターだけの寿司屋だった。ここの店主は、毎晩店が終わると、夜行列車で東京の築地へ仕入れに行った。朝の一番電車で戻り、少し寝て夕方から仕込みをした。 

 毎日、午後四時に店に入り、閉店の11時まで修行した。5箇月という限られた時間内で、できるだけ多くのことを学びたいと、真剣だった。 少年は、腹巻が大好きで、七色の腹巻を曜日ごとに変えていた。そんな彼の茶目っ気が、田舎の人々を喜ばせ、彼を受け入れ易くさせた。 

 『だるま』の店主は、寿司職人に多い頑固親父だが、アメリカ人の弟子のまじめで真剣な修行する態度に絆されて、熱心に指導した。米の研ぎ方、炊き方、寿司飯の調合と段階を追って教えた。東京で刺身包丁、砥石など必要な道具を買ってきて、親身な指導をした。そうして5箇月が過ぎた。 

 『だるま』の店主から私に電話が入った。「今週の金曜日八時から、東京から両親を招待し、アメリカ人寿司職人デビューのお披露目をしたいので、出席してください」 

 その日、店には『貸し切り』の札が掛かった。彼の両親は、正装してカウンターに座っていた。真新しい白衣と、豆絞りの捩り鉢巻き姿の彼は、手際よく次々と握った。鉄火巻きを口にした両親の目頭に、光るものがあった。 寿司を握り、腹巻の好きな日本大好きな高校生は今はアメリカと日本の架け橋となり活躍している。

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社会問題 跡継ぎ

2007年06月28日 | Weblog
 私が羨ましいと思う親子を知っている。
 その親子の住む町は、経団連の故土光敏光会長が書いた本の中でも取り上げられたほどの産業の町である。東京の大田区、大阪の住吉区と同じように中小企業の工場が多い。 その中に、K工業というプラスチックの金型を造る会社がある。

 社長のFさんは中学を卒業してすぐ、工員として会社に就職した。機械いじりが子供の時から大好きだった。会社では金型の部署に配属になり、そこで独学で金型を学びながら働いた。いつしか会社でナンバーワンの金型技術者になっていた。日本は高度成長期に突入して、金型の需要はうなぎのぼりに増加した。Fさんは思い切って独立した。 以前同じ会社に勤めていた女性と結婚した。一姫二太郎の三人の子供に恵まれた。

 長男のK君のことで、知人を通じてFさんから相談を持ちかけられた。 中学三年生の長男は、中学でずっと成績が学年一位の優秀な子だった。最終的に進学高校を決める三者懇談会が中学校であった。K君は、工業高校の機械科への進学を決めていた。父親のFさんも跡を継ぎたいという長男の申し出を喜んでいた。ところが中学校の担任教師は、K君は優秀で、東大を狙って普通高校に進学するべきだと主張した。 

 私への相談は、息子を高校の機械科へ進学させることは間違っているか、であった。まず私はK君に会った。自分の意見をはっきりと言える賢そうな少年だった。 「私は父親が大好きで、尊敬しています。小さい時から、父親がうちの工場で働いているのを見てきました。私は父親のようになりたいのです。それには父親が使っている機械を、自分も使えるようになりたいのです。父親は、最近どんどん新しい機械が出てくるので、ついていけないと言います。私が勉強して、父親を手伝いたいのです。だから機械科へ行きたいのです」 

 K君は機械科を卒業して、父親と他社が追随できない金型を造った。今は寝たきりになった父親を、K君は夫婦で手厚く介護している。跡を継いだ会社も順調。今年の年賀状の一家の写真に、四人目の子供が加わった。まだ日本にも頼もしい跡継ぎがいる。きっと日本中にK君のような跡継ぎがたくさんいると思う。だから日本はまだまだぽしゃらない。

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社会問題 スポーツ界

2007年06月27日 | Weblog
 私は、中学生の時、野球部に入部した。一年生が92人入部した。正選手になれる可能性は、限りなくゼロに近かった。一箇月経たないうちに、30人が退部した。それでも62人が残った。 野球部と言っても、練習でボールに触わることさえできなかった。二、三年生部員が練習するグラウンドを、一年生は遠巻きにして、腰を屈めて、途切れなく大声をだし続けさせられた。正選手でない二、三年生が、憲兵のように回ってきて、声が小さいと「うさぎ跳び、百回」 姿勢が悪いと「腕立て伏せ百回」と言って、憂さ晴らししていた。これは日本人の体質だと思う。戦争中も、苛めは、酷かったと聞いた。 

 運動部は、ギルドで封建時代の社会そのものだ。日本のスポーツが昨今、成績がふるわないのは、旧態依然な運動部の封建性と、年功序列、嫉妬の所為だ。実力の世界が、しきたりに振り回されている。 

 カナダ、アメリカの学校でも、スポーツは盛んである。私の留学したカナダの学校もスポーツが盛んだった。完全な実力社会で、学年、年齢に関係なく、優れた選手は、当然のように正選手になり、活躍する。反面、実力を示せなかったり、故障すれば、容赦なくはずされる。

 シーズンチーム制で、その年度シーズンごとに選手は選抜される。カナダの学校では、陸上競技、野球、アメフト、サッカー、バレーボール、バスケットボール、アイスホッケーが年間四期に区切られていた。運動能力の高い生徒は、年間四期全てに、なにかのスポーツの選手として活躍した。当然どれにも選ばれない生徒もいる。 

 スポーツ選手の層の厚さを語るなら、カナダ、アメリカ方式が優れていると思う。日本は、野球ならずっと野球、サッカーならずっとサッカーと融通が利かない。 学業にしても、スポーツにしても日本独特の根性システムの所為で、結局才能を開花させないで消えていく人が多く埋もれている。

 カナダ、アメリカでは、数学がだめなら地理?野球がだめなら水泳は?と次から次へと敗者復活の道が多く与えられる。実に面倒くさいシステムが稼動している。

 日本は格差社会では断じてない。格差を意図的につくり維持することで、一部の人たちが得する社会である。とにかく面倒くさいことを避けてしまう。週刊朝日に“議員、公務員に美しい国、日本”とあったが本当だ。中学の野球部でいうと3年生が議員と公務員で、国民は万年一年生のように扱われている。そして極めつけは、日本の大学のように入学試験に合格すれば(選挙に当選すれば、公務員になれば)、卒業(自分で辞めるというまで、退職するまで)トコロテン。つまりお手盛りの退職金、年金でアガリとなる。 

 団塊世代がこれから多くのスポーツチームの監督の主流になると思う。変えて欲しい。何とかこの辺で戦前からのスポーツ界の悪習を断ち切って欲しい。野球では早稲田大学の斉藤佑樹、ゴルフでは杉並学院高の石川遼が先輩、マスコミから嫉妬とヤッカミ攻撃に曝されているらしい。実力社会になってこそ日本の近代化が成熟する。
 

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社会問題 小さな自由

2007年06月26日 | Weblog
 ブルガリアのソフィアに友人を訪ねた。

 国に初めてオープンしたアメリカのハンバーガーチェーン『マクドナルド』へ行った。長い行列ができていた。その多くは子供連れだった。だんだん注文カウンターに近づき様子が見えてきた。

 子供二人と両親、客の多くはこのパターン。注文するのは、一番安い『マックセット』(日本円にして120円くらい)だった。四人いるのにどうして二セットしか買わないのかな、と不思議に思った。 

 理由は、私達が『ビッグマックセット』四人分を求めて、マクドナルドピエロの派手な色彩に塗られた像の脇に席を確保してまもなくわかった。

 隣の席に親子四人の客がいた。金髪の年の頃八歳と四歳ぐらいの兄と妹。母親が編んだのであろう毛糸のマフラーを首に巻いたまま、ハンバーガーにかぶりついていた。二人は大きな紙カップのコカコーラを差し込んだストローで飲み、揚げたてのフライドポテトを小さな細い指で一本一本つまみ上げ、口に運ぶ。アメリカのハンバーガーを嬉々として頬張る我が子を、まるでルーブル美術館の名画を鑑賞するように見とれる父と母。何とも言い難い光景だった。 

 ブルガリアは、ソ連の衛星国として疎んじられた長くて暗い時代をやっと抜けようとしている。ソ連時代、モスクワに向けて物資がトラックに満載されて出発し、空っぽか、荷物があってもほとんど武器弾薬を積んで帰ってきた、と友人がビッグマックをコーラで流し込んで語った。 

 隣のテーブルの家族四人が同じく全員食べられなくても、この家族には小さな自由が戻ってきた。 私は戦後の私の両親の姿を思い出した。

 日本の団塊世代の親も自分で食べるもの、着るものを我慢し、切りつめて子供の踏み石となった。自由は、平和の光景を生み、平和は希望をひとびとに与える。ずっと平和が続いて欲しい。団塊世代は、戦争を知らない世代だ。このまま戦争を知らない世代を続ける責任がある。一般庶民にあるのは、哀しいかな投票権だけかもしれない。大事な一票だ。来月には参院選挙がある。
(写真:日本のマクドナルド店) 

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セカンドライフ問題 柳

2007年06月25日 | Weblog
 今年も柳が芽を吹いた。私は柳が好きだ。全身から力を抜いて、だらりとしている。一見、弱々しく見えるが、なかなかどうしてしぶとい。強風が吹きつけても、風に身をまかせ、結局生き残る。一昨年の台風十一号で、裏の竹林はほぼ全滅した。けれど柳は、何もなかったように立っている。 

 私は、妻に「あなたは柳のような人ね」と言われる。打たれ強いのだそうだ。一見再起不能かと思われても、いつしか立ち直っているそうだ。自分では、そうなのかどうかわからない。でも柳を見ると心が和む。 

 カナダのブリティッシュ・コロンビア州にオカナガン湖がある。この湖のまわりは、フルーツ王国と呼ばれ、チェリー、りんご、ぶどう、プラム、洋梨がたくさん栽培されている。日系人も多くが農業に携わっている。 日本の四国から移民したKさんは、広大な果樹園で、りんごとチェリーを育てていた。湖から少し南に住んでいた。

 Kさんは、果物の収穫期にアルバイトを雇った。私も友人と、約二週間住み込みで働いた。 Kさんの家は、絵のように美しい景色の中にあった。家のすぐそばをきれいな水が流れる小川があり、そのほとりに大きな柳が十本あった。農作業に疲れ宿舎に戻ると、川岸に腰を下ろして、靴、靴下を脱いで、脚を小川の冷たい水に浸した。柳が気持ちよい微風に揺らぎ、サワサワと音をたてた。夕食も二十人全員が、柳の下の大きなテーブルで楽しく食べた。 

 将来家を建てたら、柳を植えようと思った。 マンションを買った時、部屋から柳を見たいと販売会社に希望した。買った部屋が一階の角なので、早速柳を植えてもらえた。北側には川が流れ、緑濃い山が迫る。オカナガンのKさんの農場の柳には負けるけれど、満足している。 

 団塊世代は打たれ強い。良くこの歳までやってきた。これからはそう打たれることはないと思う。柳のようにしなやかに暮らしていったらいいな、と柳を見ながら考えている。

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社会問題 性教育

2007年06月24日 | Weblog
 ギラ先生の本名は、松本仁。でも生徒は皆、先生をギラ先生と、親しみと尊敬を持って呼んでいた。

 私の担任ではなかったが、理科を三年間教わった。私の担任のT先生は病弱で、三年間ほとんど学校に来なかった。そんなわけで、私たちのクラスは、ギラ先生を頼りにしていた。 ギラ先生は、バスケットボールクラブの顧問だった。その指導力で、チームは県大会に連続で出場していた。 

 ギラはあだ名で、ギラギラしている存在感と、当時流行った映画『ゴジラ』のラをダブらせた。エネルギッシュで熱血漢の先生にぴったりだった。 ギラ先生は教え方が上手かった。先生の話に、生徒全員引き込まれた。クラスには、他の先生が、手を焼いていた不良少年が数人いたが、彼らもギラ先生には一目置いていた。ギラ先生は、体も大きく、押しだしがよいこともあるけれど、なにより生徒を思う熱い気持ちが、私たちに伝わってきた。

 中学三年になり、高校受験の志望校を決めなければならない時期になった。悩む生徒が多かった。団塊の世代のトップランナーで、一歳年上の学年は二クラスしかなかったのに、我が学年は九クラスだった。当然、高校入試の倍率も高くなる。 

「お前たちは、入試の倍率にビビッているようだが、そんなもの恐れるに足りない。母ちゃんの卵巣からたった一個の卵が出て、父ちゃんの睾丸から約三億の精子が用意ドンでスタートした。三億だぞ。一個の卵に一匹の精子しか入れない。お前たちこそ、三億倍の勝利者だ。高校の入試平均倍率が1・5倍だって。なんだそんなもの。三億から勝ち上がったお前たちには、もっと大きな未来がある。心しろ!」 ギラ先生は、理科の『生殖』の授業で言った。 

 私は、自分の子供達にこの話を、性教育としてしたことがある。私と二人の子供と3人、風呂での裸の教室だった。あの時の私たちと同じように、目を輝かせて熱心に聴いてくれた。妻は、ギラ先生の話は性教育としても優れていると褒めた。良い教師の良い話は、四十数年経っても忘れない。団塊世代の競争は激しく厳しいものだった。だからこそ定年退職後は穏やかなものであって欲しい。(写真:高校合格発表)

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セカンドライフ問題 花火

2007年06月23日 | Weblog
 ネパールの首都カトマンズは盆地にある。標高千三百メートル。この標高はちょうどマラリアの媒体である、ハマダラ蚊の繁殖できない位置になる。

 ネパールを旅行していると不思議に思うことがある。なぜ、わざわざこんな不便な山の高いところに、ひとが住んでいるのだろうかと。答えは蚊から逃げるためだと聞いた。

 インドやイギリスが、軍事力でネパールを支配下に置けなかったのは、印ネ国境のタライ平野がマラリアの発症地帯で軍隊の侵入を拒んだからだといわれている。中国がネパールを支配下におけなかったのは、ヒマラヤの山々が要塞になり中国軍の侵入を拒んだという。カトマンズは自然の要塞に守られた首都である。

 飛行機でカトマンズ国際空港に着陸するときは、窓から下を見ないほうが良い。盆地の底に向けて降下する機体は、盆地の外輪の山の頂上スレスレに飛ぶ。この頂を出来るだけ低く越えないと、空港の滑走路の長さをフルに活用できない、着地角度のキツイ着陸となる。いつも晴れていれば事はもっと容易であるが、カトマンズ盆地は雷雨、濃霧、気圧変化、乱気流、風向多変、突風など問題が多いのである。機長の腕の見せ所である。 

 その盆地に三年暮らした。大洪水、停電、断水、赤痢、肝炎、寄生虫問題いろいろ経験をした。人々の生活は、いまだ日本の明治時代並という人もいる。しかし、人間味の実に深い人々が暮らす地である。カースト制度でがんじがらめにされている。下層階級の生活の貧しさは目を覆うばかりである。

 私はカトマンズで気候のいい冬、花火大会をやるのが夢である。カトマンズの真ん中を流れるバグマティ川の中州から、空高く次から次へと花火を打ち上げる。援助にも限度があり、ネパール人全員に行き渡るわけもない。私個人の財力や能力では何もできない。だからせめて一瞬の花火の美しさを提供したい。彼らの瞳の中に、美しい日本の花火を映したい。そして叫びたい。「玉屋!」「鍵屋!」「ネパール万歳!」と。

 以前花火は火薬を使うので、海外に花火を持ち出すのは不可能と思っていたが、最近スーパーで売っている花火がほとんど中国製だと知った。花火がちゃんと輸入されている。これから何とか可能性を探りたい。 (写真:カトマンズ国際空港 JALチャーター便到着)

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セカンドライフ問題 外国留学生の引き受け

2007年06月22日 | Weblog
アメリカ人の英語教師デイブ・ハントは、駅蕎麦が大好きだった。

 駅蕎麦と言っても、電車を増結するため停車時間が5分ある駅の上りホーム内の蕎麦屋である。 彼は駅蕎麦が食べたくなると、電車が到着する時間を見計らって駅に行く。入場券を買ってホームに入る。

 乗客が駅蕎麦の店に殺到する。「月見一つ」 「おばちゃん、てんぷら蕎麦一つ」 「たぬき一つ」 客は我先にと注文を浴びせる。ハントさんも負けてはいない。押し合い圧し合い、「蕎麦一つ」と注文。遠慮なんてしていられない。外国人だからといって、なんの特別扱いもない。 

 蕎麦をゲット。刻みネギをたっぷり放り込み、七味唐辛子をネギが見えなくなるほどたっぷりかける。どんぶりを片手に持ち、割り箸を口に咥え、片手で割る。箸を左手に持ち、どんぶりの中の蕎麦、ネギ、汁、七味唐辛子を、すばやく混ぜる。音を立て、汁を飛ばして食べる。あともう少しで終わる頃、発車のベルがけたたましく鳴る。最後の汁を飲み乾す。「おばちゃん、ごっそお」とどんぶりを返す。乗客は、慌てふためいて電車に戻る。ハントさんは、ゆうゆうと改札口に引き返し、駅の売店へ直行。

 リポビタンDを買い、腰に片手を添えて、グーッと一気飲み。戦うように食べた蕎麦の後のリポビタンDは、なぜか良く効く感じがすると言った。 

 彼は休暇でアメリカに帰ると、家族や友人に、駅蕎麦の食べ方を自作の寸劇で披露し、大受けされた。アメリカに戻っていることを忘れて、失敗も多かった。あちこちで、スープの器を手で持って、口を当てて音を立てて飲み、スープのヌードルを『チュー、スッポン』とやってしまった。周りの人々の反応で、我に帰り、気まずい思いをしたという。 

 ハントさんは新幹線が開通して、在来線が廃止された年に、アメリカに帰国した。「駅蕎麦のあの食べ方は最高だった」と、最後まで惜しんでいた。 

 今日本に住む多くの外国人がニッポン症候群という病気なのだそうだ。どういう病気かというと、日本で自国では考えられないほどの収入をあげているが、日本の生活が好きになれない。満員電車、蒸し暑い夏の気候、交通渋滞、規制だらけの役所の規則。一方文化的に東京にいればコンサート、スポーツ、演劇と何でも観ることができ、食べ物もどこの国の食べ物もほとんど入手できる。便利さ、安全さも捨てがたい。帰国しようか、するまいかと悩む。そしてどんどん時間が過ぎ、自国に戻っても自分の居場所、ポジションがない。あせる。何もできない。どうしようと悩む。これがニッポン症候群である。 

 日本が好きで日本に根をおろして、日本人以上に日本人になりきって生活している人びとも多い。団塊世代がこれから多くの外国人留学生を家庭に受け入れることを提案する。日本はアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドへと多くの留学生を送り出している。にもかかわらず反対にそれらの国々から受け入れる留学生の数は少ない。せめて50-50の関係でいたいものである。この辺を改善しないとグローバル化はまだまだである。世話になるだけなって、こちらで知らん顔では、ますます日本人はずるいと思われる。ニッポン症候群はさらに増加する。正直、増えて欲しい。団塊世代が少しでもこれから彼らの役に立てるよう、まず積極的に留学生を受け入れよう。特に自分の子供が海外留学でホームステイしたならば、これは義務だと私は思う。

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健康問題 インプラント義歯

2007年06月21日 | Weblog
 8020運動というのがある。80歳で自分の歯を20本残そうという運動である。長生きする人は、歯が丈夫だそうだ。8020を目指して、私も歯の手入れには気をつけている。

 團伊玖磨が総入れ歯にする時の話を読んだことがある。入れ歯は、なかなか思うようにできないものらしい。團は、まず日本全国から任せるに足る歯科医をさがした。当時、團の歯は総入れ歯にするほどのものではなかった。しかし團は、いずれその日が来るのなら、健康で元気なうちに、完璧な入れ歯を作ろうと考えた。歯科医を決め、團は決意の程を訴えた。歯科医は、團の決意に感心した。そして良い入れ歯は、良い土台が有ってはじめて機能すると話した。團は納得して、全ての歯を抜いて、顎の骨を平らに削る手術を受けた。この話を読んだ時、私もその時が来たら、團と同じにしようと思った。

 歯周病の治療を始める時、歯科医に團の入れ歯の話をした。文明は確実に進歩している。歯科医は、笑って言った。「今はもうそうする必要はありません。インプラントという、顎の骨にボルトを埋めて、その上に義歯をはめ込む、素晴らしい方法があります。これだと顎全体の骨を、入れ歯用に平らに削る必要はなく、一本ごとに手術でき、自分の歯のように丈夫です」 と言った。

 インプラントの義歯を、とりあえず二本入れることにした。ボルト埋め込みが、二本で四十万円。そのボルトにはめ込む義歯が材質により一本十万から十五万。私の年齢、体力を考え、今ならできると決断した。車を買い換えるのはしばらくあきらめた。

 心臓冠動脈にステントも入っている。自分の体の中に人工の異物がまた増える。私は更にサイボーグ化される。『備えあれば憂いなし』 と言う。この決断が正しかったと後で思えれば良いのだが。再び私の体に大きな投資をしてしまった。衰えていく身体、精々できる範囲で改造していくつもりだ。

 それにしても恵まれた時代に生きている。何事にも適正時間がある。あとになってあの時やっておけばよかったと悔やむ前に今何ができるかをじっくり検討してみる必要がある。歯の手入れ法は、5月20日の歯編を参照して欲しい。

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