団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

領土問題

2010年09月28日 | Weblog

 私は小学生の時、個人の土地所有が不思議でならなかった。大地主もいれば、まったく土地を所有しない者もいる。一体ここはだれだれの土地といつからどうやって決められたのか知りたくてたまらなかった。私が泳ぎに行ったり、魚獲りに夢中になっていた千曲川の川原に畑があった。ある夏、洪水で川の流れが変わり、畑があった川原は消えた。私が父に尋ねると「もともと川は、国家のもので、問題はない」と答えた。私は「国家って言ったって、国ができる前はだれのものだったの?」といつもの質問攻勢をかけた。「だれのものでもなかったのと違うか」と父の答えは、はっきりしなくなった。私「千曲川だって何千年の間にこの盆地の中、流れをあっちこっちと大きく変えてるけど、そのたびに地主も変わったの?」父「・・・」 結局土地を入手できるのは、目ざとい早い者勝ちなのだと私は勝手に理解したつもりになっていた。

 17歳でカナダの高校に転校した。学校がある町で農地が1ヘクタール(3千坪)5ドルで売買されていると聞いた。一方カナダに昔から住んでいた原住民であるインディアンは、特別居留地に押し込められていた。インディアンが長く自由に住み暮らした土地に余所者が大西洋を渡って来て、国家を成立させ、法律をつくった。地球上では、常に侵略征服した側が、征服後、征服者の法律の元、地表の所有権が発生して国家の庇護を受ける。

 9月24日、沖縄県石垣市にある那覇地方検察局は、中国人船長を処分保留のまま釈放すると発表した。腰砕け、尻すぼみ、後じさり。いつものことだが、政府与党は、「冷静に」「粛々に」と歯の浮くような憲法や憲章に使われる理想幻想的な美辞麗句を並べるだけである。日本の政治屋や官僚の常識が通用しない気分が悪くなるような現実や仕打ちに出会うと、即、尻尾を丸めてしまう。嫌なものを見たくないので眼をそむける。中途半端な正義では、利害得失にしのぎをけずるジャングルと化した世界での外交ができるものではない。

 秀才や優等生や3つのバンを受け継いだ世襲者ばかりの日本国の舵をとる人々は、中国のように国際社会に身を置きながら、なりふり構わず自国の一党独裁と海外覇権に猛進する国家への対処ができない。国際的には孤独な自称お坊ちゃまと野心満々多勢の新興ガキ大将との対立の構図である。お坊ちゃまは、優雅に言の葉遊びを楽しむ振りをするしかないようだ。

 この事件を傍観していて、昔、砂場で遊んだ“棒倒し”を思い出した。砂場に砂の山を築いて頂上に棒を立てる。子どもたちがその山を取り囲み、順番に一人一回両手で自分の手元に砂を山から掻きとってくる。棒を倒した者が敗者となる。今回の尖閣諸島事件の舞台の島は、まさに日の丸が立つ“棒倒し”の砂山である。お坊ちゃま一人で遊んでいたゲームに勝手に参加してきた中国は、ルールを無視して、日の丸の棒ごと砂山を自分の領土であると、ひとかき、またひとかきと地上から海底からとあらゆる手段で引きつけようとしているように見える。日本が過去に国際社会での未成熟さゆえに犯した醜い罪を、今度は中国が犯そうとしている。どれほど領土主権を拡大すれば気が済むのか。

 日本国憲法の前文は《われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。》と謳う。「国際社会は、利害得失のジャングルで強い者が生き残る」という信念を持ってなりふり構わず突き進む国と、彼らに「小日本」と見下され憲法の前文で「日本さえ邪心を持たなければ、他国はすべて日本より善良な国だから、世界も日本も幸福になれる」と謳うわが国は、どう対峙するというのだろう。日本は、夢のような美辞麗句の言葉だけの理想に押しつぶされそうになっている。理想は理想。現実は現実。ジャングルで生き抜く術は、学校では教えてくれない。自分を守れるのは、自分だけである。ジャングルのことは、ジャングルで学ぶしかない。私は、このところ日本にこのままずっと住むことが不安でならない。情けないがジャングルで生き抜く術を一番知らないのは、私なのかもしれない。

 
そんな情けない私が思いつくひとつの解決法は、沖縄の普天間基地を尖閣諸島に移転することだ。瀬戸内海をまたいで四国と本州の間に4本の大橋を架け、北海道と本州をトンネルでつないだ土木工法技術を持つ日本である。できないはずがない。中国は日本と権益を争う東シナ海の島も無い海の中に『白樺』という天然ガス掘削海上基地をすでに強行建設した。どのみち普天間の海上に滑走路を作る計画である。無人島のままにしておいたことが隙を与えた。ほったらかしにしておく理由はない。日本人がひとりでも尖閣に住み、島を有効に活かしてこそ、日本固有の領土となる。一刻を争う。高速道路無料化より高校授業料無料化より優先されるべき事案だ。


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23229歩

2010年09月22日 | Weblog

 毎日楽しみに開けるブログが3つある。『山の恵み里の恵み』gooブログは、そのひとつである。作者は、神出鬼没なので、毎日開けなければ、つかまらない。つかまえることができると、何か一日得したような気分になる。このところの猛暑で『山の恵み里の恵み』さんは、8月2日に投稿して以来、8月30日の再登場だったので私を心配させた。この間の動向が、久々のブログで見えてきた。「二百十日目前だというのに、日射しは相変わらず強烈。・・・・・朝は朝寝、昼は昼寝、夕は夕涼み、夜は夜寝・・」『山の恵み里の恵み』さんにとっても今年の酷暑はこたえたに違いない。私もこの期間ほとんど家にこもって同じような生活をしていた。

 『山の恵み里の恵み』さんは健脚である。6月3日投稿に投稿された『立峠に立つ』には“5月31日旅人:爺っちゃん2人”と書いてあるので、仲間と歩いたのだろう。総歩数23、229歩の数字にびっくり。早速私の日記で調べると、同じ日の私の総歩数は、11、640歩だった。自分ではもうこれ以上無理というところまで歩いたつもりだった。一日1800カロリーの食事療法中の私が、一食で約1000カロリーはあるカツ丼を食べても大丈夫か、と思った数字だ。爺っちゃん二人が山を歩いて23、229歩に脱帽。江戸時代の江戸に住んでいた人々は、ある学者の推定で一日平均3万歩歩いていたというから、『山の恵み里の恵み』さんは、私よりずっと江戸人に近いことになる。また歩いた後、切符の購入の仕方によって浮いたお金で缶入りのお茶『お~いお茶』を買って飲んだ話が載っている。普段奥さんが入れたお茶を保温水筒に入れて持ち歩く『山の恵み里の恵み』さんが、自動販売機でお茶を買うのは、事件である。しかしその後で「まずかった」とあり、私は安心した。

 やっと暑さもおさまり、『山の恵み里の恵み』さんの活動のエンジンがかかったようだ。私にはもうできない鈍行各駅停車の列車の旅、農作業、山菜取り、きのこ採りを『山の恵み里の恵み』さんのブログで体験させてもらえる。私の子供の頃の故郷で経験したこと、サハリンの山中奥深くにリンさんと入り、ワラビ、キノコ、ウド、木の実を採った思い出がよみがえる。近ごろの私の歩数は、『山の恵み里の恵み』さんの半分以下でも、共に歩いている気分や収穫をあげる喜びが味わえる。

 健康で健脚な『山の恵み里の恵み』さんのような生き方は、もう私には無理だ。しかし憧れる。『山の恵み里の恵み』さんは定年退職後、群れることもなく、時代に迎合することもなく淡々と生きている。自分の足で、ほとんどひとりで好きな山奥深く分け入って行く。一見、
天衣無縫のようであるが、しがらみや煩悩を持ち前の深い学究心で闘い、抜け出たしぶさがある。そのうしろ姿を私はじっと追い続けてゆきたいと思っている。


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テレビ討論

2010年09月16日 | Weblog
 8月14日8時から10時45分までNHK総合テレビで「日本のこれから 日韓の若者が徹底討論」が放映された。NHKの一歩前進の試みへの勇気に敬意を表する。

 私がカナダの高校で今から46年前、学んでいた時、社会科の授業で「広島・長崎の原爆投下の賛否の討論」が2日間にわたって行われた。2つに分かれた生徒は、最初の日、賛成派になって、次の日否定派として激論を交わした。その日のために1週間の準備期間が与えられた。どの生徒も賛成、反対のための予習をしなければならなかった。私は、日本人だ。日本に原爆を投下されたことに肯定などできるはずがない。私は怒りに震えた。それで終わったら感情だけの話である。反面、私はこの討論形式の授業に人間としての成熟さを感じた。学ぶということは、冷酷で非情なことだと思えた。学問は、感情を持ち込んだら学べないこともあると知った。私は両派になりきって調査予習した。私は肯定側のことで何をどう話したかは、よくおぼえていない。反対側では「百歩譲って、日本に戦争を仕掛けた罪が、日本人にあっても、あの日人間と一緒に一瞬にして殺された犬、猫、蛇、鯉、金魚、スズメ、カラス、鳩、トンボ、蝶、ハエ、ノミ、シラミすべての人間以外の生き物に何の責任もない。戦争をする愚かな人間に、人間以外の生き物を滅ぼすことは許されない」というようなことを言った。白熱した教室の雰囲気の中、拍手がパラパラと鳴り、女生徒で涙を浮かべた者もいた。討論の成績でA+という評価は、後にもさきのも、これ1回だけだった。

 ハーバード大学などのアメリカの大学でもこのような争う両派に分かれ激論を交わし、次に立場を逆転させて再び討論する講座があるという。ハーバード大学のサンデル教授の公開講座が日本でも話題になっている。サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』早川書房 2300円が売れている。サンデル教授の講座でも教授と学生との白熱した質疑応答が人気の原因だといわれている。アメリカの討論は、相手を論破するという勝ち負けにこだわる戦いだと思う。アメリカの裁判が検察側と被告側の知恵比べ論争にあけくれ、勝訴敗訴の決定を闘うのと似ている。正義とか遵法とは、別次元になっている気が私にはどうしてもぬぐえない。私は、アメリカの方式をそのまま日本に持ち込むことを推奨していない。勝ち負けより、相手の立場にお互いが立つことによって、理解が深まれば良いと考えている。

 今回の日韓の若者の討論も、もう一歩踏み込んで、日本人、韓国人の立場を逆転させて討論してみたらと考えた。サイデン教授が司会したら面白い。日韓双方の文化の成熟への一助になると考える。感情だけでお互いを非難していたら、いつまでたっても平行線をたどるしかない。憎しみや誤解は、そうやって孫の代まで延々と引きずられてゆく。

 今回のNHKの討論に参加した若者の中にさきの戦争を経験した者は一人もいない。すべてが親や家族や文献からの伝承である。何千年、何万年放っておけば、歴史は詳細を葬り、次々と史実を年表の中に数行の無機質な記述に変ってしまう。そうして風化するのを待つか、人間の英知を活かし、科学的に相手の立場に立ち、感情だけでなく深い教養と哲学を持って、相互理解に、相互協力に進めていくかである。 どちらにせよ、NHKが今回のような企画を実行したことを評価したい。願わくば、韓国においても、このような企画が順次、実施されることを願わずにいられない。

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侵入者?

2010年09月13日 | Weblog
 9月11日から12日にかけて、東京から5人の客を迎えた。大きな8人乗りの車でやってきた。12日の朝、富士山を見せたくて芦ノ湖へ客の車に便乗させてもらい案内した。良い天気だったが、富士山だけが雲におおわれていた。成川美術館で芦ノ湖を見渡し、絵画や妻の大好きな万華鏡を見て、小田原へ向かった。小田原で昼食をと、予定していたが、赤ちゃんが泣きだし、どうなだめても泣き止まなかった。小田原の駅で、私たち夫婦を降ろしてもらい、客はそのまま東京へ帰ることになった。電車で家に戻った。

 昨夜の残りモノとソーメンで昼食を済ませた。休む間もなく、あと室内を掃除して、シーツや枕カバー、タオルを洗って、ベランダに乾した。ベランダはほとんど干し物で埋め尽くされた。猛暑日が戻り、洗濯日和だった。終わるとぐったり疲れた。寝室のエアコンを効かしてお昼寝をしようとベッドに横になった。電話が鳴った。客がもう東京に到着したのかと、出ると客ではなく、孫だった。先日手配した長野の巨峰が着いたとお礼の電話だった。私が話していると、トイレに行こうとしたのか、妻が寝室のドアを開けた。すると突然「キャァー」と声を上げた。きっとまた何か虫でも見たのだろう、と思いつつも、私は電話を切って寝室を飛び出した。妻は洗面室にいるらしい。ベランダを見た。洗濯物で埋め尽くされたスノコの上を小猿が走り竹林に逃げ込もうとしていた。いるいる。向こうに大人の猿が5匹、小猿が3匹。妻は洗面室にいた。顔が青ざめている。「猿、猿よ。3匹。台所にいたの。バタンと音がして、私を見ると次々と逃げたの。ここから入ったのよ。網戸を開けて」 猿はズラッと並んで、こちらをじっと見つめている。妻の甲高い声にも反応しない。網戸は、私でも開けるのがしんどいほどかたくしぶい。食べるための猿の必死さが、開けたのだろう。

 最近、静岡県の三島市近辺で噛み付き猿が何十人という人を噛み、怪我をさせている。いくら小さな猿と云え、集団で襲ってきたら私たち夫婦だってどうされるかわからない。ましてや子連れの動物は、恐いと聞いている。家のすべての窓や引き戸の鍵をかけ、台所を点検した。近所の八百屋では、猿にひんぱんにバナナが盗まれている。みかん屋のおばさんの家では、糖尿病で低血糖対策に買い置きしている氷砂糖をごっそり持っていかれたという。窓際の棚にあったバナナ、みかんはそのままだった。おそらく妻が寝室から出たのは、猿が台所に入った瞬間だったのだろう。昨夜客が持ってきてくれた虎屋の羊羹は、そのままだった。流しの横の調理台には、昼食の残りのソーメンと焼いた太刀魚の切り身とメザシの残りがのっていた。被害はなかったようだ。しかし私の気持ちはどうにも収まらない。

 ネパールにいた時、ククリという蛮刀を持った強盗に入られた。妻のカバンがざっくりククリで切り開かれていた。カメラ、高価なクリスタルの置物、私の下着(?不思議)を盗まれた。その時も盗まれたモノより、他人が私の家に入ってきたことを非常に不愉快に思った。それと同じく、今回もその思いにとらわれた。

 怪我もさせられず二人が無事であったこと、すこし足跡や手のカタはあるけれど、被害がなかったことは喜ばしい。猿の一団がベランダで雨宿りしたことが過去にあった。マーキングの尿と糞の片付けに苦労した。それ以後は月の一、二回ベランダの前を通り過ぎる程度だった。猿と私たちは、明確に住み分けられていると私は勝手に思っていた。潜在意識の中に強盗や凶悪犯への恐怖がある。夢に見ることもある。これからは猿への警戒が加わった。

 落ち着いてから、東京の孫に電話した。急に電話を切った理由を説明し、失礼を謝った。孫は猿の話しを信じられないのだろう。ジジのおとぎ話のように喜んで聞いていた。人間は、決して自然を征服してはいない。こんど孫が訪ねて来たら、ゆっくりそんなことを話してみたい。しばらく夢の中にでてくる強盗や侵入犯の顔は、猿に違いない。

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配偶者

2010年09月08日 | Weblog
 クリントン元アメリカ大統領が夫人のヒラリーさんとアーカンソー州へ行った時、ヒラリー夫人の子供の頃の同級生、ガソリンスタンドのチェーンを持つ男性と会った。その場を離れると、クリントン元大統領が「もしかしたら君は、ガソリンスタンドチェーンのオーナーと結婚していたかも知れないね」とヒラリー夫人に減らず口をたたいた。ヒラリー夫人は「いいえ、彼はアメリカ大統領になっていたでしょう」とズバリと逆襲したそうだ。これには、元大統領、グーの音もでなかった。クリントン元大統領の戸惑う顔が眼に浮かぶ。ヒラリー夫人という得がたい内助があったからこそ、クリントンがアメリカ大統領になれたことを具現する逸話である。これはこれで、“割れ鍋に綴じ蓋”いや“婦唱夫随”を証明するような似合いの夫婦といえる。

 日本は、まだ男尊女卑の国である。大人のオムツのテレビコマーシャルで奥さんが旦那にオムツを薦めると「俺は男だぞ!」と言うのがある。不愉快なコマーシャルが多い中、これには突出した嫌悪感を持つ。老化に男も女もない。赤ん坊の時、男がゆえに、オシメをしなかったというなら、許せる。だれでも男女に関係なく、オムツの世話になったではないか。最近、このコマーシャル「俺は男だぞ」の部分だけがカットされた。どなたかが苦情を寄せたのだろう。良識が、まだこの国にあるのだ、と少し安心した。過去に多くの日本の男性は、優しい奥さんの老老介護で何とか老後を生きた。今では夫が定年退職と共に、離婚する話しがいくらでもある。「俺は男だぞ」と言って一生を送れた時代は、ほとんどの男性には、もう終わったといえる。

 私は英語のベタ-ハーフbetter―half(伴侶)という表現が好きだ。配偶者に対して自分より優れた相手という謙譲の心がけが、憎らしいほどあらわれている。お世辞でなく、心からそう思える夫婦は、理想である。私もそうなりたいと願っている。

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気配

2010年09月03日 | Weblog
 朝、いつものように、妻が7:03発の東海道線の電車に間に合うように、6時48分に地下の駐車場から車で道路に出た。川沿いの道路を橋に向かって進む。毎日30度を超える猛暑日が続いている。それでも朝晩確実に温度が下がってきた。突然、妻が「トンボ!あんなにたくさん」と声をあげた。目をこらすと、いるいる、あっちにもこっちにも。ごく普通のトンボである。赤トンボでもシオガラトンボでもオニヤンマでもない。地味なウスバキトンボという種類だ。橋を渡って、来た道の反対側の川沿いを駅に向かって下っていった。太平洋側から射し込む、朝のやわらかな陽の光を浴びて、川面を飛ぶトンボの羽が反射して光っている。

 秋の気配を感じた。日本の季節の変化は、素晴らしい。季節から季節の変わり目に、どこからともなく漂いだす変化への気配が好きだ。特に冬から春、夏から秋への気配がいい。冬、しもやけをかばいながらコタツを出て、外をとびまわっていた。氷が張り詰めた池の上で遊び、やがて氷が解け始める。冬の間、「どうしたの!」と思う程、力不足だった太陽の光線に温かみが増し、氷が消え、波打つ池の水がぬるんでくる。あの池の水のぬるみがどれほど春を伝えてくれたことか。あの春が来るという実感が喜びをくれた。

  昼間、セミが狂ったように鳴く暑い夏、寝苦しい夜、汗でぐっしょりぬれた体を横たえた寝床に開け放った窓から、さぁーっとなんとなく涼しく感じる一陣の風が吹きぬける。日ごとに差し込む陽射しの角度が緩み、日の出日の入りの時間が後退前進し始める。

 気配は優しい。気配は気配りに通じる。急激な変化より、日々一次元、二次元、三次元、四次元の微かな振動するような変化の信号が嬉しい。日本の自然は、その信号に素直に反応する。その反応に触れる最上の方法は、散歩だろう。足と腰の故障と熱中症対策でずっと散歩に出られないでいる。今年の猛暑は、私の体力を削いでいる。ただ息するだけの日々を過している。動物によっては冬眠をする。人間になぜ夏眠がないのかと不満だ。こんな散歩もできない夏なら、夏眠して秋を待てたらどんなに楽だろう。

 文句を言いながらも、気配をつかまえた。がぜん元気がでてきた。あともう少し、あともう少しで、秋が来る。秋が来たら、この40日近くの散歩できなかった分を取り戻そうと思っている。日本の政治屋政治は最低だが、自然は最高だ!だから民主党の代表選の結果がどうだろうと私はこれからも日本に住む。日本の素晴らしい自然を愛で、世界でもたぐい稀な季節感あふれた美味しい食べ物をいただき、整ったインフラの中で本を読んで暮らす。散歩に出て、時折、自然の気配を体感できれば、我が人生それでよしとしたい。

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