団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

公園の老人

2007年12月28日 | Weblog
 ベオグラードのカリメグダン公園へよく散歩にでかけた。家から歩いて40分ぐらいで行けた。広い公園だ。中には動物園も博物館もあった。スズカケ、樫、プラタナスなどの大きな木がたくさんあった。古城からはドナウ河とサバ河の合流地点を見下ろせた。 ヨーロッパの公園ではよく見られる光景だが、あちこちのベンチでひとりたたずむ老人がいた。きちんとした身なりで微動だにせずにじっと一点を見つめ時間を止めている。

 日本に帰国して公園へ行ってもまずこのようなヨーロッパや北米の風景は見られない。老人がいても元気な集団であり、孫の子守りか犬の散歩である。ひとりでポツンとしている老人は見かけられない。西洋人と日本人の老人の違いは、個人と集団の違いだと思う。西洋人は個人の自由を得るために、家族から自立する。自由を得るために代償を支払う。それが老後の孤独だと思う。

 日本では個人の自由は、尊重されない。多くの老人が家族の介護を当然のように受ける。 私の母は、公言した。「私の財産は、私の老後を看てくれる者に譲る」 それを妹が受け、土地建物の名義も書き換えられた。ところが二人の関係が今になってぎくしゃくしている。契約という観点から言うと、私の出番はない。

 私の妻の実家へ妻と行って泊まった。私はそうしたことを後悔した。見たくないこと、聞きたくないことを多く見聞きしなければならなかった。義母は義父が亡くなったあと、一人で大きな家に住んでいる。妻が言う。「私はお母さんの家来なの?」 義母は明言する。「そうだよ。お前は私の家来だよ。子どもはみんな親の家来だよ。だから言うことを聞かなきゃいけないのよ。お前は私の面倒を看てくれなきゃいけない。ここへ帰ってこなければいけない。そうすればこの家屋敷はお前にやる」 妻、「私はそんなものいらない」 延々と接点のない、答のない話し合いが続いた。

 ベオグラードの公園のベンチに座る老人達は、孤独である。じっと公園のベンチに座り、ものを思い続ける。日向ぼっこをしているわけでもない。何故なら彼らはずっと同じベンチにいる。太陽の光りの移動と動きをともにしない。朝になると公園へ来て、夕方には家へ帰える。犬も連れていない。孫も一緒ではない。ただひとり自立を全うしようと自分に言い聞かせているかのように。それを見ている若者達も、いつか自分もいまの自由の代償として、ああなることを自覚しているようだ。そこに大人の寂しくも毅然とした成熟をみる。まるで背中に「私にも青春があった。若くて躍動の若さがあった。楽しいこともたくさんあった。無茶もした。今度は君たちの番だ。私は毎日、私の青春をここで思い出し、なぞっているのさ」と書いてあるかのように私には思えた。

 私は今年還暦を迎えた。私の今までの人生を振り返ると、ずいぶん勝手気まま、自由に生きてきた。私自身の老後を子ども達に看て欲しいとは思わない。思ってはならないと考えている。私が自由に生きた代償を支払わなくてはいけない。まずどう支払うかを考えたい。適当なカリメグダンのような公園が家の近くにはない。私は終の棲家として購入した今住む家の中の書斎で、ひとり考えている。考えるために自分の過去を思いつくままに書いている。そうしながら私は自分を納得させていこうと思う。自由の代償の重みを今になって強く感じている。

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クリスマス会

2007年12月25日 | Weblog
 東京の友人の家で20人ほどが集まってクリスマスの食事会をした。午後一時から始めた。

 私の担当は七面鳥の丸焼きだった。その日の朝5時に起きて3羽焼いた。一羽はクリスマス会のため、あとの2羽は東京に住む二人の子供の家族のために焼いた。子ども達に届けてから、会場の友人の家に到着した。

 それぞれが持ち寄った料理やワインでテーブルはいっぱいになった。 会には私と同じ主夫をしている日本人女性と結婚した30代半ばのフランス人男性がいた。彼と知り合ってすでに7年が経つ。ずっと私は彼を見ていて偉いと思う。フランスで暮らしているならいざ知らず、日本で日本語を話せずに暮らすことは並大抵の苦労ではない。彼は現在一人で3歳の女の子の面倒をみている。奥さんが入院しているからである。もうじき赤ちゃんが生まれる。奥さんが働き、彼は家事をこなし、子供の面倒もみる。理由は奥さんが好きだからである。ただそれだけの理由で結論をだしている。彼も以前はフランスで仕事を持っていた。結婚には難しい問題がつきまとう。ましてや彼の場合は、国際結婚である。私が主夫だといっても子育ては、彼ほどしていない。彼はちゃんと子育てもやっている。それでも彼を見ていると、海外で暮らしていた頃の私自身を思い出す。私の場合はもっとずっとチャランポランであったことは、言うまでもないが。

 その彼が私の焼いた七面鳥を切る役を果たしてくれた。実にフランス的に見事に切り分けてくれた。その姿は食べ物(肉)に対する愛情と、その食を分かつ人々に対する愛情を感じた。彼は料理もプロ級の腕を持っている。そしてパフォーマンスのエスプリも楽しませてくれた。七面鳥を焼いた私はその姿をとても嬉しく、そして楽しんでいた。人はそれぞれに得意不得意を持つ。それを補完しあって人間社会は成り立つ。日本人が焼いたアメリカ産の七面鳥をフランス人が切る。彼は切りながらフランスのクリスマスで皆が七面鳥のどこの部分の肉を好むかなど興味ある話しをしてくれる。そうしてそれぞれ参加者が協力して準備を整えた。ワインは日本、フランスの赤がたくさん用意されていた。

 「乾杯!」で食事が始まった。私は車を運転してきていたので、ワインを飲むことは妻に任せて、食べることと話すことを楽しんだ。ワインを子どもの頃から飲んでいる彼は、飲むほどに饒舌になり、会を楽しく盛り上げた。ビンゴゲームも工夫して日本語とフランス語で司会をしてくれた。

 大人がほとんどのパーティーに3歳の女の子を連れてきて、そして迷惑もかけず、きちんと食事をさせ、教え諭さなければいけないところでは、きちんと躾もしていた。そして彼自身もその会を存分に楽しむ彼の姿は、切なくも力強く頼もしく思った。これからもこの家族をずっと見守っていたい。とても楽しいクリスマス会だった。

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リレー

2007年12月19日 | Weblog

 私の父は町の運動会のリレーの最終走者を何回もつとめた。劇的なごぼう抜きで優勝したことがある。身長は低かったが、運動はなんでも得意だった。人生は人と人との善意のリレーだとよく話していた。そんな父と違って、私は運動が苦手だった。父が倒れ入院した。
 
まだ話しができた父に尋ねた。「海外出張があるんだけれど、行ってもいい?」父は言った。「俺のことで仕事を止めるな。まだ大丈夫。帰りを待てる」 あとのことは母に任せて旅立った。6日間の出張だった。2回出張先から母に電話した。「大丈夫。小康状態だよ」

 帰国して成田からの母へ電話した。父が危篤だと知った。東京の娘へ連絡して、一緒に最終電車で病院へ行こうと思った。ところが最終列車には間に合わなかった。娘とタクシーに乗った。高速道路をタクシーはひた走った。私の頭の中は父の回想で破裂しそうになっていた。娘はそんな私をそっと見守っていた。タクシーの料金メーターだけが、勢いよくカチャカチャ金額表示を快活にあげていた。タクシーの運転手は、父の入院していた病院まで行って、また東京へ燃料の補給なしで戻れると思っていた。ところが高速を出た後、峠のてっぺんで遂に音をあげた。「お客さん、申し訳ない。こんな時にお役に立てなくて。このタクシーはプロパンガスで走るヤツなんです。このまま走ればワシが帰れなくなります。ここで限界です。私があの店に行って何とかお客さんが病院へ向かえるようにします」 彼は小さなネオンサインが灯るスナックのような店の前に車を止め、中へ入っていった。しばらくして若い女性と一緒に出てきた。「この女性がお客さんを車で送ります。今店の人が峠の下の町のタクシー会社に電話してタクシーを呼んでくれました。途中でタクシーに乗り換えてください。本当に申し訳ございません。お嬢さん、よろしくお願いします」そう言って私にも若い女性にも深く頭を下げた。

 女性の軽自動車に乗り換えた。たくさんのディズニーの人形で車中は華やかだった。娘を助手席に座らせ、私は後部座席に入った。女性は何も言わなかった。カーステレオの音楽も消した。車の中はなぜか暖かかった。車一台通らない峠道、女性の車のヘッドライトが夜の闇を切り裂いていた。40分ほど走ると前方から二個の明かりが進んできた。タクシーだった。車を下りるとき、1万円札を女性に渡そうとした。彼女は「私も先月父を交通事故で亡くしました。同じ病院です。早く行ってあげてください。お互い様ですよ」 彼女はお金を受け取らずUターンして来た道を戻っていった。住所も名前も聞けなかった。

 父は待っていた。個室に移されていた。医師は「手はつくしましたが」と頭を下げた。父には孫が9人いる。私はひとりひとり順番に部屋に入らせ「お別れしてきなさい」と言った。孫の次に私の姉妹3人、そして私が部屋に入った。危篤状態の父に私が東京からここまでどうやって来たか、一方的に話した。「父ちゃんが言っていた通りだね。人には親切に。そうしていればそれはちゃんとリレーのようにきれいに繋がり、いつかは自分に戻ってきてくれる。いつもかあちゃんは、父ちゃんはバカがつくほど他人にやさしいって言ってたね。それが今日帰ってきたんだね。俺を待っていてくれてありがとう。もういいよ」 酸素マスクの下で父の長い息づかいが深く静かに続いた。私から父に伝えたいことは、出張に出かける前、手紙にしたため父に渡しておいた。ごつごつの職人の手を握り、禿げ上がった頭を撫で、最後に硬い額に手をしばらく置いてから部屋を出た。母と代わった。そしてその後すぐ母と二人だけの時、父は息を引き取った。享年72歳だった。
 今年、私は還暦を迎えた。父の好きだった新年恒例の大学対抗箱根駅伝まで、あとわずかである。


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一期一会 鍵のない食器棚

2007年12月13日 | Weblog
 時々町内にある骨董店へ、休日の楽しみとして夫婦で行く。ある日、そこでベルギーのオーロラ社製の食器棚を見つけた。これは凄いぞとさっそく店の人に値段を尋ねた。店の人の様子が何かおかしい。売り惜しみだな、と勘ぐった。どこでもそうだが、値段の表示のないときは気をつけたほうが良い。店の人が重い口を開いた。「実は鍵が見つからなくて。ずっと探しているのですが。鍵がないのを承知で買ってくださるならお安くしておきます」 「ノープロブレム、問題ありません」 そう私は自分に言い聞かせた。たとえ鍵がなくて開かなくても、この食器棚は残る、と訳の分からない結論を出した。思いもかけぬ値段に小躍りした。もちろん妻は家で、いつものごとく早速インターネットで新品の時の値段調査である。オーロラ社はすでに会社を閉鎖してしまった。妻は目を輝かせて命令口調で私に言う。「どんなことをしても、この食器棚の扉を私のために開けて!」

 私はない知恵を絞った。まずハローページで『鍵開けます』欄から近くで格安のところを見つけようとした。でも建具屋さんならもっと食器棚の鍵に詳しいかもしれないと思った。建具屋のページをめくった。誠実そうな会社名をみこんで電話した。年配の職人らしいおじいさんの声に聞こえた。「とりあえず、見せてください。住所は?」 私はマンションの名前を言った。「ああそうですか。そこの仕事させていただきました。明日その近くに行くので食器棚見せてください」 凄い。これは幸先がいいぞ、と私は手を叩いた。

 翌日、おじいさんが来て食器棚をみてくれた。「こんな仕組みの鍵初めて見ました。お客さん、私にやらせてください。少し時間はかかるかもしれないが、私は開けたい。この仕事もう長くやっていますが、こんな鍵開けてみたい」 さすが職人さんである。私も嬉しかった。「どんなに時間がかかってもいいので、やってください。お任せします」 彼はしばらく鍵穴にいろいろ射したり、寸法を測ってメモ帳に書いたりした。仕組みを図にして書き取り帰って行った。

 それから1ヶ月半くらいしておじいさんから電話が入った。「2,3鍵を作ってみたので、試させてください」 開いたらどうしようと想像し、私は興奮した。何しろ毎日開かない食器棚をレモンオイルで磨きこんでいた。「貴方は我が家の食器棚になるべくして、遠いベルギーから日本へ来た。どんな家においでになったかはわかりませんが、どうぞ御開きください」と語り続けた。おじいさんが到着。運命の瞬間が3回続き、どの鍵も不成功に終わった。おじいさんは肩を落として「もう一度やってみます」と帰って行った。あの様子だとそうとう自信があったのだろう。

 それから2ヶ月後、再び待ちに待ったおじいさんからの電話だった。「私は東京へ3回行きました。知り合いの町工場の友人に私の図の通りの鍵を作ってもらいました」 前回と同じように自信を持って、入ってきた。今度は何と1つの鍵しか持っていなかった。食器棚の前に両膝をつき、神妙な顔をして鍵を差し入れた。「ガチャッ」 あ、あいた!見事!おじいさんと私は固い握手をした。抱き合って踊りたかったぐらい、嬉しかった。おじいさんの目も何となく潤んでいた。 私にふと心配が心をよぎった。すでにお願いしてから4ヶ月が経っている。おじいさんは、鍵を作ってもらうために東京へも行っている。これだけ時間も技術も要した鍵だ。一体いくら請求されるのだろう。恐る恐る聞いた。おじいさんは「1万円いただけますか?」と恐縮しながら言った。「それではいくらなんでも」嬉しそうに私は言った。「いいえ、それでいいんです。私がお願いしてさせていただいた仕事です。本当嬉しいです。何年ぶりですかね。こんなおもしろい仕事。それにしてもこの鍵は良くできています。よほど高価なものを入れる食器棚なんですね」 なんというりっぱな職人魂だろう。日本にはこんな職人さんがまだいるのである。

 この鍵のない食器棚のおかげで、私はまた素晴らしい出会いに遭遇できた。日本の職人は凄い。 (写真:鍵のなかった食器棚)

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人間関係問題 忠告

2007年12月10日 | Weblog
 忠告を国語辞書で引くと、『心をこめて、過ちや欠点などを直すように言うこと。またその言葉、いさめ』と書いてある。

 私は60年の自分の人生のほとんどをエエカッコシイと見栄で生きてきた。他人に良く思われたくて、それを最優先にして生きてきた。そのために無理に無理を重ねた。他人を優先して家族を後回しにしてしまった。大きな間違いだった。人間、大事な人はひとりしかいない。それは配偶者である。妻を大切に生きていれば、あとは自然にうまくいく。2回目の結婚で初めてそのことに気がついた。遅かったけれど、気がつけてよかったと思う。人生、誰だって褒められれば、気分が良い。

 高倉健が『あなたに褒められたくて』という本を以前書いた。(著者 高倉 健 発行所 有限会社林泉舎 発売 集英社 1991年6月10日第一刷発行) この本は高倉健のエッセイ集である。本の最後の章、“あなたに褒められたくて”で高倉は彼の母親のことを書いている。母親の死に目に撮影のため会えず、墓に入った母の前で高倉が言う。「お母さん。僕はあなたに褒められたくて、ただ、それだけで、・・・」と祈る。本の結びは“あなたに代わって、褒めてくれる人を誰か見つけなきゃね”とある。高倉の母親は高倉に忠告をし続けた。褒めるという行為は、幾多の忠告があって初めてなされる。褒め殺しとは違う。褒め殺しには姑息な魂胆が見え隠れする。愛すればこそ、気遣うからこそ、忠告してくれる。

 先日、私はある友人から忠告を受けた。嬉しかった。彼の忠告が、砂漠の砂に水が吸い込まれるように私の傷んだ心に浸みた。私は感じた。彼が心をこめて、私のことをいさめていることを。彼が私に期待をこめて、変わることを願って忠告してくれていることを。

 「あなたの最近の文章、推敲されていますか?もう一度推敲されて書き直されれば、きっと前のようになりますよ。量は問題ではありません。質です。毎日書き続けることではありません。あなたが何を私たちに伝えたいかということですよ」 最近、妻からも同じ忠告を受けていた。他の友人からも、「無理しないで、ペースを落としたら、もっと肩の力を抜いたほうがいいよ」と言われていた。

 忠告は痛い。痛い忠告だからこそ、そのことを反省し、やり直す。何度だってやり直す。私の人生はやり直しの連続だった。心臓の病気を理由にちょっと生き急いだ。私自身もこれからまわりの人々に的確な忠告のできる人になりたい。それで人の役に立てれれば良い。忠告を肥やしに人間として私は成長を続けたい。忠告をしてくれる人が私にはまだいる。忠告をいただける限り、私はやり直せる。何という果報者だろう。たくさんの忠告をいただいて、最後の最後で“あなたに褒められたい”。

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セカンドライフ問題 図書館利用

2007年12月06日 | Weblog
 私は小学校の時、無謀にも学校の図書館の本をすべて読破しようと考えた。もちろん何千冊もある本を全て読むことなど、私ごときにできるはずがなかった。それでも何回か全校生徒の中で月間借り出し冊数のトップ賞をもらったことがある。

 小学生5年生で読んだパール・バックの『大地』は、私に強烈な印象を与えた。私は幼くして母の病死を経験した。『大地』の中に出てくる阿藍(オーラン)が、王龍(ワンルン)の子供を働いている農地から家にもどり、赤ん坊を産むとその子をかごに入れ、かごを口で引っ張って這って戻り、農作業を続けるシーンに母親への強い畏敬を感じ、自分の母と重ねてしまい、声をだして泣いたことを覚えている。

 学校の勉強より、本が私を連れて行く未知の世界のほうがずっと魅力があった。教科書は嫌いだった。行間に伏線がなく、書いている人の気持ちが伝わらないことが歯がゆかった。直接的な表現の羅列にうんざりしていた。結果、学校の成績は、さほど良くなかった。

 本好きな私は、今でも八重洲ブックセンター、丸善、紀伊国屋書店、有燐堂などの大書店に入れば何時間でも、まるで洞窟の中の宝の山に遭遇したかのように、ひとつひとつの宝のような本に心奪われる。

 いろいろな国に暮らして図書館が整備されている国は、数が非常に少ないことを知った。宗教的に大きな制約が課せられている国もある。表現の自由が日本ほどの国もなかった。ネパールやセネガルでは本屋をほとんど見かけなかった。あっても洋書専門で価格は信じられないほど高価だった。あのような現実を見て、日本がいかに恵まれているかを思い知った。小学校から中学校、高校それぞれに図書館があり、図書館司書の先生が配属されていた。留学したカナダでも図書館の恩恵を強く感じた。図書館があって当たり前と思っていた。

 ネパールのアメリカ文化センターでは、図書室の図書の盗難とページの引き裂きに頭を抱えていた。貧しいが故に学んで貧しさから這い上がりたい、そんな向学心があだとなっている。本が与える知識を貪欲に吸収しようとする態度は、意欲は手段を選ばない。意欲があるが、本が読めない。本があるのに読まない。現実はままならない。

 勝海舟は人から借りた辞書を幾晩も徹夜して写し取り、やっと写し終わって寝てしまい、雨漏りで写した辞書をダメにして、最初からやり直さなければならなかった。本が、辞書が多くの人の人生を変えた。それは今でも起こり得ることだと思う。日本の図書館にも問題は多い。それでも世界の国々の中では、最も恵まれていると思う。加えて日本の毎年の出版部数は世界でもトップクラスである。表現の自由のおかげで、どんな本でもほとんど規制されていない。その多くの本を無料で各地の図書館で借り出し、利用できる。こんな素晴らしい恩恵を受けないことはない。

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お願い

2007年12月04日 | Weblog
 感じることがありまして、これから投稿を3日に一度に改めます。さらに自分の文章を推敲して、みなさまに読んで頂くにたる文章を書きたいと願っております。よろしくお願いいたします。次回は12月6日(木曜日)になります。

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才能問題 暗記力

2007年12月03日 | Weblog
 私は頭が悪い。暗記がからきしダメである。憶えようとすればするほど憶えられなくなる。試験に出るような数値、公式はうまく憶えられない。何十年ぶりかで高校の同級会に出席した。ご丁寧に当時の試験の成績結果の順位表をもってきた物好きがいた。これで私は興ざめした。当たり前である。私は常に追試に追いまくられていた。同級会というのは、あの3年間成績優秀を記録獲得した者のために開かれるらしい。きっと高校という閉じ込められた3年間の栄光を永遠に保持し誇りたいのであろう。私は犬の遠吠えだと揶揄されてもかまわない。私は日本の高校時代、優秀な生徒をきらびやかに目立たせるための重責をにらっていたと自負している。成績の悪い生徒がいるから、できる生徒が賞賛される。感謝されていいはずである。負け惜しみである。

 ところ変われば、成績の評価の仕方が違ってくる。私がカナダに留学したのは正解だった。特に不得意とした数学は、日本より3年は進度が遅かったために私にも良く理解でき、トップクラスの成績を取れた。高校の同級生には信じられないことだと思う。一度染み付いた固定概念はなかなか払拭できない。加えてカナダの学校の成績評価は日本のように試験の成績だけでは決まらない。日本にはほとんどなかったレポートの宿題が高く判定され、その他にもスピーチやディベートにも配点がなされた。日本の高校時代はだれでもが未来への可能性持っていたのに、ただ試験の成績だけが重視されていた。それも暗記でなんとかなることだった。

 高校での成績や入学した大学で人の将来は決して計ることはできない。現実に高校時代の成績順が社会での成功度にも現れているかというとそうでもない。だから人生やめられない。

 カナダの学校にブルース・ジョンストンという天才がいた。彼はキリスト教の聖書を全て暗記していた。「旧約聖書 出エジプト記 1章2節」と尋ねられれば、たちどころにすらすら言えた。これだけではない。彼は食堂で全生徒職員の生徒番号と職員番号を暗記していた。食べに来た生徒、職員のリストに印をつけるのは、ものの数秒だった。彼が記録をつけない日は、長蛇の列ができたものだ。

 暗記力も才能である。私はその才能を与えられなかった。忘れるのも便利なことで、私はそのおかげで今日まで何とか人生やってこられた気がする。負け惜しみかな?

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