団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

竹内結子さん・3年日記

2020年10月30日 | Weblog

  9月27日女優竹内結子さんが40歳の若さで自ら命を絶った。遺書はなく、死を選んだ理由が不明である。竹内さんが出演した映画もテレビ番組も観たことがない。私は彼女のニュースを知った時、自分の母親のことを思い出した。私の母は、5人目の子の出産の時に死んだ。あの日母親は、「赤ちゃんを助けて…」と言いながら死んだ。赤ちゃんも一緒に死んだ。竹内さんには子供が二人いる。一人はまだ生後9か月である。私の母親が死の間際でも子を助けて欲しいと叫んだ。でも竹内さんは、出産して新しい命を得たのに、自らの命を絶った。私の心の中に、コールタールのようにへばりつく“なぜ”が消えない。

 私は竹内結子さんが出演した映画もテレビドラマも観たことがない。日曜日朝7時から放送の日本テレビの『所さんの目がテン』でナレーターを竹内結子さんが担当していた。私はナレーターが上手い人は、良い役者でもあると思っている。岸田今日子、藤村志保、市原悦子、宇野重吉。竹内結子さんも、そのうちに私のベストナレーターランキングに入ってくると感じていた。

 NHKテレビの『世界は欲しいモノにあふれてる』に出ていた俳優三浦春馬さんも7月に自らの命を絶った。30歳だった。爽やかな感じがした。嫌味がなく死ななければならない悩みを持つ人とは見えなかった。好きな番組の出演者が立て続けに自殺した。二人の自殺の理由は闇の中だ。本人以外の誰にもわからない。

 小説『サーフ・スプラッシュ』(桜井亜美著・幻冬舎文庫)に竹内結子さんが解説を書いている。「帰る家は暖かい家庭そのものに見えたが、カギがかかった空間がいくつもあるような場所だった。足早に台所を通り過ぎる時、一人の人間として父が必要とした女の人が、彼女の子供達のために食事の支度をしている。番の食卓の賑やかな景色が、私にはガラス越しのものに見えた。……私は父に人生を好きに生きてくれたらいいと思っていた。連れ子という荷物がいることを面倒にかんじられたくなかったのだ。その思いが自分の心に無理を課していたとは気付かなかった。」

 竹内結子さんも三浦春馬さんも家庭環境が複雑だったようだ。私も生みの親が死んだ後、母の妹が継母として父に嫁いできた。竹内結子さんが書いている情景は、自分が経験したことに似ている。“ガラス越し”“荷物”という言葉が私の心に刺さる。私はかつてガラスの心の持ち主と、ある人から言われたことがある。竹内結子さんが書いた文章に、私はガラスの心を感じた。

 そんなガラスの心の持ち主が、本屋で日記帳を買った。もうダメだ。もうじき死んじゃうかもしれないと騒いでいるのにである。迷った末、買ったのは3年日記。今使っている日記帳は、3年日記という3年間連続で書ける日記帳である。3年日記を使う前、5年日記を買っていた。5年に時間の長さに何の抵抗もなかった。今の5年は、とてつもなく向こうに見える。1年日記だと夢がない。3年なら頑張れば、何とかなりそうだ。かつてのピリピリしたガラスのハートの持ち主は、すっかり歳と共に、図太くなった。いけしゃあしゃあと3年日記を、まだ10月なのに買った。竹内結子さんや三浦春馬さんに申し訳なく思う。私も複雑な家庭で幼少期を過ごし、離婚も経験した。多くの人々に助けられ、コキゾウ(古稀+3歳)になった。50歳代で心臓バイパス手術を受けた。失敗だったが、修復手術をしてくれた医師が「10年前なら、この手術はできませんでしたよ。与えられた命です。大切にして生きてください」と言ってくれた。おまけの命、医学の進歩に与えられた命。あと3年日記を書き続けようぞ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イノシシ

2020年10月28日 | Weblog

  交番へ電話した。留守だった。隣の地区で自治会長をしている友人にメールを送った。どうしてもイノシシの情報が欲しかったのだ。私は散歩を日課としている。このところ天気がよく散歩には快適な日が続いている。

 最近、熊が人を襲う事件が、あちこちで起きている。野生の動物は恐い。私は数年前に、今も散歩する道で、猿2匹に追いかけられた。橋に逃げ込み何とか助かった。あの頃はまだ65歳ぐらいで、走ることができた。今は歩くのも脳と脚との連携が悪くモタツクことが多い。猿に追いかけられても、たぶん逃げ切れない。

 17年前に家を購入して、入居したばかりの頃、日中、町の広報車が回ってきた。「昨日、自転車に乗っていた人が、イノシシに襲われ、川に転落して大けがを負いました。できるだけ川沿いの道を歩かないようにしてください」。私はえらい所に越してきてしまったと思った。その後イノシシが出るとの情報は、聞かなかった。喉元過ぎれば熱さを忘れる。何もなかったように散歩の日課は続いた。

 先週の金曜日、住む集合住宅の玄関を出て、川沿いの道を歩き始めた。川と集合住宅の間に市道がある。この市道は坂になっている。坂に沿って石垣が組まれている。石垣と道路の間は、幅1メートルくらいあって雑草が生い茂っている。あちこち掘られたような、それも新しい痕跡がみられた。犬が掘ったにしては大きい石が転がっていすぎる。犬を連れて散歩する人が多いが、犬はほとんどが小型犬で、とてもこのような大きな石を動かすことなどできる犬などいないはず。目を凝らして足跡がないか、落し物がないか探した。わからない。帰宅してから交番へ電話した。せめてイノシシ情報だけでも聞きたかった。3回かけたが出なかった。仕方がないので自治会長をしている友人にメールした。すぐ返事が来た。「猪の出没は山の畑などでよく聞きます。また、山の道路などでも足跡が見受けられます。注意してください。」 切迫感がないので、向こうでは出ていないのだろう。私はできるだけイノシシに出会いそうな場所を避けるようにしている。

 日曜日、住む集合住宅の管理委員会があって、委員をしている妻が参加した。そこで最近、集合住宅の下の道路にイノシシが出るとの報告があり、夜、気をつけるようにと言われたそうだ。住民の一人が、犬の散歩中、通りかかった人から、夜、イノシシの親子2頭が土を掘っているのを見たと聞いたという。やはりイノシシだった。やっと疑問が解けた。私は干支がイノシシである。猪突猛進だとか融通が利かないとかいろいろ言われるが、自己暗示にかからないようにしている。イノシシはどう猛である。何しろ力がある。掘った場所を見ても、石などを簡単に跳ねのけている。

 交番に知らせたところで、四六時中、警護してもらえるわけではない。自分で自分の身を守るしかない。熊が出没して人間に危害を加えるのは、今年、ドングリなどの山で餌になる物が少ないからだという。ここのイノシシが、どのような理由で、道路脇を掘り起こしているのかわからない。

 夜な夜な、イノシシは出てきて道路端を掘り起こしている。今朝も新しい痕跡があった。散歩の道順を変えるしかない。イノシシは夜行性と言われているが、実は昼行性である。夜、行動するのは、人間を恐れているからだという。あの地面の掘り具合から想像すれば、私のような老人はひとたまりもないであろう。

 コロナが恐い。イノシシが恐い。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おっとっと

2020年10月26日 | Weblog

 土曜日に妻と近所のスーパーへ買い物に行った。買う物を紙に書いてあった。いつものように二手に分かれて、短時間で買い物を済ませた。レジで合流した。商品を灰色のカゴから目が覚めるようなミカン色のカゴに、店の人が値札読み取り器を商品に当ててから、移した。ミカン色のカゴに買い物の紙に書いてない奇妙な箱が入った。『おっとっと』だった。

 帰りの車の中で、妻に「どうして『おっとっと』買ったの?」と尋ねようとした。でもやめた。私だって買い物していて、目にしたモノを考えもしないでカゴに入れることがある。まだ私たち夫婦が、海外に暮らしていた時、帰国休暇で妻の実家に滞在した。妻の両親は、年金暮らしの質素な生活をしていた。普段近くに居られない罪滅ぼしと、親孝行の真似事のつもりでスーパーへ買い物に誘った。欲しいモノ、何でも買ってあげようという魂胆だった。普段は質素な生活をしている二人だった。2年に一度しか帰ってこられない私たちだったので、せめて二人に金額を気にしないで食べたいモノを買って欲しかった。妻の父親は、レジに並んでいると、ポイっと物をカゴにいれ、「これもお願い」と言った。干しブドウが上にのった蒸しパンだった。恒例になった私たちの帰国休暇時の買い物、義父は必ず蒸しパンをレジの前でカゴに入れた。兄妹が多く、貧しい子供時代を送った義父。きっと蒸しパンに特別な想いをずっと持ち続けていたのであろう。人にはそれぞれモノに対して思い入れを持っている。妻の『おっとっと』も、きっと彼女の気持ちの中で何かにつながっているに違いない。

 それにしても『おっとっと』の名称は、可笑しい。と言う私は、『おっとっと』を買って食べたことはない。でも「おっとっと」は、日常に連発している。毎朝、体重を測ってから着替える。これが現在大仕事なのである。靴下がはけない。片足立ちすると、体が揺れてあっちへこっちへグラグラ。気持ちは、靴下ぐらい簡単に、はけるわいという上から目線。体は、特に脚の筋肉は、気持ちと仲が悪い。脚の筋肉は、気持ちのいうことを無視している。「おっとっと」と言いながら、右は左へケンケンするように跳ねる。靴下だけではない。風呂上がり、体を拭いて、下着をつける時にも同じ現象が起きる。下着に足を差し入れる。この「おっとっと」は、脚の筋肉ではなくて、足の指が悪さをすることで発せられる。気持ち的には、子供の頃から、さっと足を入れ、さっと引き上げ、はい終わりになる。だが足の指一本一本が、まるでチャペルの壁のツタのように、下着に絡みつく。狭い着替え所を片足でピョンピョン。壁にぶつかることもある。気持ちと足の指は、連携しない。自分の体なのに、もどかしいものである。

 『おっとっと』の名前は、森永製菓の社員たちが酒を酌み交わしていた時に思いついたそうだ。盃に酒を注いでいる時、酒がこぼれそうになり、「おっとっと」と言った。それを当時売り出そうとしていた商品の名前にした。咄嗟の行動制御で発する「おっとっと」と、魚を“とと”と重ねてできた名称だとか。

 妻は私が心配するほど酒が好き。晩酌を欠かさない。土曜日の夜、妻が『おっとっと』をつまみにしていた。「食べてみて」と小さな魚の形の大きさの割に、腹が膨らんだ煎餅のようなものを、10個ぐらい私の手のひらに乗せた。こぼれそうになった。つい「おっとっと」と言ってしまった。顔を見合わせて笑った。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銀ダラ

2020年10月22日 | Weblog

  我が家の朝食の献立は、年がら年中同じだ。味噌汁、納豆、焼き魚、焼海苔、ヨーグルト、バナナ。納豆に私だけネギとわさび漬けをたっぷり入れる。焼き魚は、紅鮭か銀ダラの西京味噌漬けか粕漬のどれか。私が好きなのは、銀ダラの粕漬である。以前、まだ築地市場が豊洲へ移転する前、場外市場にナカトウ食品があった。魚の西京味噌漬けと粕漬の専門店だった。残念ながら築地市場移転を機に閉店してしまった。その後、あちこちの店の味噌漬け粕漬の魚を買ってみたが、ナカトウほどの私の口に合うものを探せなかった。そこで無謀にも自分で西京味噌漬けと粕漬を試してみることにした。まだ道半ばで、ガッテンできるものは、できない。しかしだんだん自分好みの味になってきている。

 幸い、終の棲家として海に近い集合住宅を見つけた。その近くに市民市場がある。魚の種類が多く、新鮮で安い。どこでもそうだが、私はまず店の人と知り合いになる。知り合いになるコツは、質問をたくさんすることである。今日は何がお勧めか、何という名の魚か、どう食べればいいのか、どこで獲れたのか。店員が多い店では、質問したことに気持ちよく上手く答えてくれた人を選ぶ。小さな店なら店主と顔なじみになる。市民市場にはたくさんの人が働いている。行くたびに決めた人に挨拶する。通うほどに情報がたくさん入るようになる。

 銀ダラの粕漬は、美味い。私は買ってきた生の銀ダラをまず塩水で洗い、30分くらい塩水に漬ける。洗ってよく水気を拭き取る。ボールに酒粕を入れ、味醂で解く。塩少々に醤油を数滴。バットに液だれを入れならす。そこにガーゼを敷き、魚を並べる。(写真:イシモチの酒粕付け)ガーゼで魚を包む。ガーゼに包んだ魚を何回かひっくり返して、両面にたっぷり酒粕のタレをつける。バット全体にラップして、3日間冷蔵庫に入れておく。その後、ガーゼをはずせば、酒粕などがついていない、まっさらさらの銀ダラが出て来る。たくさん銀ダラが手に入れば、作り置きして冷凍する。

 朝、焼いた銀ダラは、私を幸せにしてくれる。まず香。酒粕。この名前何とかならないのか。粕ではない。りっぱな調味料である。鼻孔を通過する、火で化学変化を起こしたような芳しさが、何とも言えない。この香りで目がさめる。箸が銀ダラに触れると、パラリと身がゆり根の一片の如く剥がれる。この瞬間がたまらない。他の魚でこれほど身の剥がれのよいものは、そうない。漆黒の皮にも、酒粕がしみ込んでいる。こんがり焼けた皮も美味い。皮の黒さが、身の白さを倍増させる。酒で酔って桃色がかった白さである。ついに身が口に入る。しっとりとした銀ダラの油脂が拡がる。同時にコンガリ焼けた酒粕の香りが口の裏から鼻に抜けてくる。米と良く合う。

 外出は、生活必需品の買い物と散歩だけの毎日である。開発途上国での海外生活を思えば、現状でも恵まれている。海外にいれば、常によそ者だった。今は自分の国で、食べたいものを不自由なく入手でき、電気水道ガス電話なども問題がない。在外にいた時は、家族や友達に2年に一度くらいしか会えなかった。何千キロという距離に、引き裂かれていた。しかし銀ダラの酒粕付けは、自分が家族や友達の近くにいると実感させてくれる。もうしばらく耐えてみよう。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

首相、学者、教養

2020年10月20日 | Weblog

  菅首相が誕生して1カ月になる。日本学術会議の任命問題に関して、どこかの県知事に「教養レベルが露見した。学問をされた人ではない。単位を取るために大学を出た人」と言われた。またアメリカのトランプ大統領がコロナに感染した時、お見舞いのツイッターの英語に「レベルが低すぎる」と一部のマスコミや政治家に叩かれた。また菅首相の卒業大学が法政大学であることを揶揄するむきもある。

 教養とは学者だけが持てるものではない。鎌倉の円覚寺の一角に標語板があった。そこに「教養とは、気配り目配り手配りである」という内容が書かれていた。私はこの標語を自分の人生の指標とする。気配り目配り手配りできるための教養を身につけたい。人の口に戸は立てられない。言いたい放題である。だからこそ気配り目配り手配りが必要なのである。

 日本には「末は博士か大臣か」という表現がある。優秀な学童に対する期待を表す。日本学術会議に推薦されるような学者は皆、博士であろう。それを任命する内閣総理大臣も大臣である。博士と大臣は、立派な目標達成の証だ。見事に目標達成した優秀であるはずの双方が気配り目配り手配りある対応ができていない。哀しい現実である。

 英語に関係する仕事をしていた者として、菅首相の英語のレベルを考察した。何をもって菅首相の英語のレベルが低いと判定するのかわからない。何をしても何を言っても、批判する人がいる。教養、英語のレベル、出身大学を語る底辺にあるのは、驕りに違いない。人間も猿と同じで、序列社会である。何事も序列をつけないと落ち着かない。哀しい性だが、それで社会が治まっているのも事実である。だからこそ、その序列の中で気配り目配り手配りが関係の潤滑油となり得る。

 まだまだ日本の英語教育は、成果を上げていない。私は、英語の教科書を、英語を母国語とする国々の子供用の辞書にしたらいいと思っている。教養があると自負する偉い英語学者のように、難しい単語をたくさん知っていることより、子供でも理解できる優しい単語で、難しい単語と同じことをある程度表現できることの方が役に立つ。例をあげる。学者は英語でscholar。定義は①a person who goes to school; a student or pupil a person with a great deal of knowledgeとなる。Scholarを知らなくても①②のような説明をすれば、英語を話す人と会話はできる。わからない単語は、説明を簡単な単語を使ってしてもらえば通ずる。私は、この方法を駆使して塾で教えた。生徒に興味ある単語を選ばせて、定義を理解させた。単語を言って、それを英英辞書と同じように説明しているうちに、生徒の英語力は、向上した。

 菅首相の英語がどの程度であれ、その文章に首相の気配り目配り手配りが、十分込められていると、相手が理解すれば、立派に目的は遂げられる。日本の内閣総理大臣の周りには、語学に堪能な役人がたくさんいる。アメリカのトランプ大統領が日本語でツイッターを書くだろうか。

 私は、大学を出ていなくても立派な教養豊かな人を、たくさん知っている。東大を出ても、どうしようもない、人間的に魅力を感じない人もたくさん知っている。自分以外は、すべて馬鹿が、主流な現代社会。コロナ禍、政府は金を配ってGO TO 〇〇と躍起になっている。GO TO~という名前も気に入らない。私は、政府がやっているこのような政策は、ローマ時代のパンとサーカスにしか見えない。なぜなら多くの日本人は、コロナが恐くて、旅行にも外食にも出かけられない。危険を冒してまで、家を出る勇気がない。もっと恐ろしいのは、コロナに未だ治療法も予防法もない。途方もない予算を組んだが、コロナの原因究明と治療と予防に対してでなく、経済を上向かせるために、旅行だ外食だ買い物だに国民を誘導しようとしている。その恩恵にあずかれるのは、国民のごく一部である。今私が欲しいのは、安心である。旅も豪華な外食も買い物も、私に安心を与えることはできない。この未曽有の恐怖の中、政府が打ち出す政策に、気配り目配り手配りを感じられないのは、私だけだろうか。教養のレベルが低い、英語のレベルがひどい、出身大学がどこは、関係ない。日本をこのコロナ禍から気配り目配り手配りを尽くして、私たち国民を救い出してくれるなら、それ以上は望まない。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誤振り込みと善意の組み戻し

2020年10月16日 | Weblog

  散歩に良い季節になった。コロナ禍で家にずっといるので、閉塞感が溜まる。天井があり、四隅に壁。外の景色は、まだガラスを通した平面的なもの。散歩で外に出ると、違う世界が拡がっている。まず天井がない。無限の空間がある。晴れていれば、青い空。壁もない。自然が立体的に迫る。川、山、樹木、蜘蛛の巣、鳥、虫。落葉も目立ってきた。樹木の葉が緑から黄色や茶色などに変わり、そして地面に落ちる。落ちた葉が重なっている。車が通ったり、風が吹くとさわさわと音を立てて転がるように動く。

  先日の台風14号の影響で、このところの天気は変わりやすい。気温は上がったり下がったり。毎日、家を出るころを見計らって、雨にあわないよう散歩をしている。雨が降るか降らないかの読みが当たると、嬉しい。一昨日、いつものように散歩に出た。5分の4の行程を歩き終え、住んでいる集合住宅が目に入るところまで来た。雨がパラっと体に当たるようになった。走りたいのに、足がいうことをきかない。急いでいるが、実際の速度は同じ。できるだけ木々の下を歩く。雨足が強くなって、地面が濡れ始めた。あまり濡れることなく玄関にたどり着いた。何か得した気分で書斎に戻った。

  パソコンの裏にある固定電話の子機が鳴った。妻からだった。銀行から連絡があって、組み戻しで先日、間違って振り込んだお金が戻って口座に入金されたと教えてくれた。終活で私は自分の口座を閉じ、今は妻の口座だけしかない。散歩で雨にあわなかったことで、何かいいことあるかもの予感が当たった気がした。思わず天井に向かって手を合わせた。間違って振り込みを受けた方への謝罪と感謝。組み戻しのために尽力してくれた銀行と振込先のゆうちょ銀行。目を閉じて頭を下げた。やはり日本人には、立派な人が多い。私が犯した間違いは、オレオレ詐欺とは反対の迷惑行為である。頼まれもしないのに、自分の口座に、ある日突然知らない人から入金があれば、誰だって驚く。鼠小僧次郎吉ではあるまいし、いまどき金を振り込みでばらまく人がいるはずがない。ネコババしようと思えばできないことはない。善意で戻すことにしても、手間がかかる。気分だって害される。迷惑この上ない。

  私の経験を通して、間違って振り込みをしてしまう老人が多いことを知った。何もかもAIだITだとの変革で、画面上の指で操作することが多くなった。ATMの狭い空間に閉じ込められると、まるで催眠術にかかったような気分になる。恐怖心が冷静さを奪う。年齢を重ねるごとに、ATM恐怖症がつのる。

  今回の失敗:①口座番号を間違ってメモした②受取人がメモと違ったことに、老人の深い人生経験が勝手に想像力で判断してしまった③せっかちが歯止めをこえた。これからの対策。振り込みは銀行の窓口で係員の補助のもとで行う。ATMでの振り込みは、振り込みカードをあらかじめ作成してあるところだけにする。

  多くの方々に迷惑をかけた。もっともっと私は、気をつけて生きて行かなければいけない。妻が言った。「他人に迷惑かけないよう、二人で助け合って生きて行こう」 私たちは、Better Halfたらんと努力してきた。ますますこれから助け合っていかねば、更に他人に迷惑をかけてしまう。

 妻が勤めに出ている間、私はずっと一人になる。一人で散歩して、ロングブレスを続けながら、どうしたら他人に迷惑をかけないで、この世で行きていかれるか考える。散歩で自己啓発に努めたい。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ポテトサラダとミートローフの結婚記念日

2020年10月14日 | Weblog

  10月10日夕方、北海道から男爵イモとメ―クイーンがたくさん届いた。その日は、私たちの29回目の結婚記念日だった。二人で相談して、妻は、私が好きなポテトサラダを作る。私は、妻が好きなミートローフを作ることにした。台所で二人並んで調理した。コロナ禍、毎日気が滅入ることばかり。でも料理は、時間を忘れて没頭できる。届いたばかりの北海道のジャガイモは、私たちの関心を一気に吸い取った。

  横でポテトサラダ作りに一所懸命な妻をチラチラ見ながら思った。もう結婚して29年が経ったとは。

  50歳を過ぎた頃、私は自分がこんなに健康でいいのだろうかと、いい気になっていた。再婚したのが44歳だった。相手は33歳だった。結婚後まもなく妻の仕事の関係で、海外に暮らすことになった。私は自分の仕事を辞めて、同伴者として妻について行った。ネパール、セネガル、ユーゴスラビアと何事もなく順調に暮らせた。4か国目の赴任地は、地中海に面した北アフリカのチュニジアだった。ある日買い物をして帰宅した時、家の前の階段を登っていた時、心臓が痛くなり、息ができなくなった。妻に話すと、チュニスの病院で精密検査を受ける手配をしてくれた。結果は、狭心症と診断された。その病院ですぐ心臓バイパス手術を受けるようにと医師に勧められた。

  妻は日本の病院で、更に検査を受けてからにした方が良いと判断した。妻をチュニジアに残して、私一人で帰国した。診断結果は、やはりバイパス手術が必要だと言われた。しかし、その病院の手術室が改装工事中で、3カ月先でないと手術ができないので待つことになった。2001年の1月に手術を受けた。死を意識した。『辞世帳』と題して、大学ノート1冊に自分の想いの丈を、書き残した。脚から取った血管をバイパスにした。手術は長時間にわたった。手術直後、担当医師は「うまく行きました」と言った。しかし、その後の造影検査で、脚の血管を使ったバイパスは全て機能していないことがわかった。かろうじて内胸動脈を使ったバイパスだけが生きていた。しかし、この血管にもクランクができていて血流を妨げていることがわかった。病院を変えて再手術ということになった。その担当医師によれば、先の私の手術は、技術に問題があったという。唯一残ったバイパスのクランクは、ピンセットで挟んだ後だと断言した。有り得ない手術だそうだ。とにかく、私は生き抜いた。

  3年前の正月、狭心症で再びカテーテル手術を受けた。時間がたつと心臓の冠動脈に詰まりが出て来る。ステントを入れてもらった。進歩した医学によって、私は、体のあちこちを、なだめすかして生きている。こうして再婚後、妻と29年生きてきた。10月10日、ささやかに二人だけで結婚記念日を祝った。友人からもらったシャンパンをあけた。妻のポテトサラダは美味い。妻は、ジャガイモに偏見を持っている。でもポテトサラダは食べる。私のミートローフは、周りをマッシュポテトで包んである。ジャガイモが好きでない妻は、ジャガイモが使われていないかのように、美味しそうに食べてくれる。

  妻は、このコロナ禍の時間が、ロシアのサハリンで暮らしていた時と似ているという。厳寒の地で治安も悪く、ほとんど外に出られなかった。過去に学ぶことは多い。29年間妻といろいろな事を乗り切ってきた。コロナ、何するものぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高級国民と裁判

2020年10月12日 | Weblog

  73歳の私の老化が他の人より異常に早いのではないかと疑る。2019年4月19日、東京の池袋で横断歩道を渡っていた松永真菜さんと長女の莉子さん3歳が、旧通産省工業技術院の元院長飯塚幸三被告が運転する車にはねられ死亡した。被告は当時87歳だった。

 私は、老化を日々感じる。運転免許証をまだ所持している。運転は、妻の駅への送迎と近くの買い物にのみ使用している。老人が、まだ幼い若い、人生これからという人を事故に巻き込むニュースをみるたびに、自分の運転能力に自信を失う。バックは、しんどい。モニター画面にカメラを通して、後ろの様子が映し出される。その画面の中の案内の指示線に沿ってバックする。横の妻は、「右に曲がってるよ」あるときは「左に曲がっているよ」と言う。画面から車外のサイドミラーに視線を移す。モニター画面の感覚とサイドミラーのとは、違う。雨など降っている時は、カメラ画像は曇り、サイドミラーは雨のしずくで見えない。バックは、するたびに不安がつのる。

 過去に一度だけ、アクセルとブレーキの操作を誤ったことがある。いわゆる急発進というやつである。どんなに慎重に運転していても、体や神経に衰えを感じる。咄嗟の出来事に対する反射的行動が、のろくなった。

 先日、買った商品の支払いをATMから振り込んだ。家で口座番号をメモして駅のATMへ行った。前の人がずいぶん時間をかけていて、待つ時間が長かった。少しイライラした。自分の番が来て、ATMの操作を始めた。メモした口座番号を見ながら、慎重に打ち込んだ。受取人の名前が違った。年寄りは、勝手に想像した。あの人も相当歳だったので、たぶん名義を息子さんに買えたのだろう。完了のボタンを押した。帰宅してから、心配になった。振込先へ連絡してみた。まったく違う人に振り込んでしまった。落ち込んだ。妻に相談して、銀行に連絡した。誤振り込みの書類を作成した。あとは受け取った人の善意を信じるしかない。私は、運転ばかりではない。もう社会生活にさえ、支障をきたし始めている。

 私が高齢者であることは、どうしようもない。しかし私は絶対に他人に迷惑はかけたくない。ましてや、人生これからの人たちの命を奪うことなどもってのほかである。

 最近、お世話になった元大使だった80代後半の方から手紙をもらった。昨年、彼は、奥さんを亡くされ、現在ひとりで生活している。もちろん運転免許証は、とうの昔に返上している。「…当方は、お陰様で、独居生活を楽しんでおります。後期高齢者に対する福祉施策の充実のお陰で、訪問介護士やヘルパーさん始め、毎週20名以上の方々のお世話になっております。同署、御習字。ピアノのレッスン、24時間小生の側にいる愛犬のプードルによる慰安など多くの娯しみに恵まれています。…」 

 飯塚被告を高級国民と世間では呼ぶ。何を根拠に彼をそう言うのか、私にはよくわからない。しかし手紙をくれた元大使を高級国民と言うなら、私は納得できる。周りの人々への感謝を忘れず、孤高に、歳相応に生きている、と感じる。私もそうなりたいと思う。

 これから無罪を主張して、原因を車の不具合とする飯塚被告の裁判が続く。アマゾンプライムでアメリカの裁判ドラマ『ブルBULL 心を操る天才』を観た。裁判で科学的手段を駆使して、依頼者を勝たせる。奥さんと長女を奪われた松永拓也さんにドクター、ジェイソン・ブルのような人がいて、助けてくれたら。それがだめなら、せめて遠山の金さんタイプの裁判官と、私は望む。現実は、かくも不条理で残酷である。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シャインマスカット、ピオーネ、クイーンニナ

2020年10月08日 | Weblog

  宅急便が届いた。長野県東御市のこばやし葡萄園からだった。中にシャインマスカット、ピオーネ、クイーンニナが一房づつ白いお包みにまとわれていた。ブドウの上にメモがあった。「…今年もブドウを注文して頂きありがとうございました。七月の長雨、八月の猛暑と作物には大変な年でしたが、無事にブドウ作りができました。ありがとうございました。少しですがブドウを送らせて頂きました。…」 ただ店頭に並ぶブドウを見ているだけだと、農家の苦労など知る由もない。その苦労の甲斐あって、商品として出荷される。農家の収穫の喜びが、文面から伝わる。

  私は毎年、家族親戚知人友人にこばやし葡萄園からブドウを送っている。2004年妻が外務省の医務官を辞めて、日本に帰国した。それ以来続けている。16年間続いた。後期高齢者になり、交際の範囲が年ごとに縮小する。年賀状を出すのを止めた。礼に欠くのは承知している。これも終活だと割り切った。届いた賀状にだけ、返事を書くだけになった。それでも関係を断ちがたい人々がいる。私は、生きている限り、まだ生きていますよ、と知らせるつもりでブドウを送っている。私はなんとかまだ生きているが、受け取ってくれる人々がポツリ、またポツリと鬼籍に入った。それは矢島渚男の「船のやうに 年逝く人をこぼしつつ」の感である。旦那さんが亡くなっても奥さんに、奥さんが亡くなっても、旦那さんにブドウを届ける。哀しい。でも私は、ブドウを一粒口にした人が、「ああ、あいつまだ生きている」と瞬間的にわかってくれることだけ期待する。

  2004年、こばやし葡萄園では“巨峰”だけしかつくっていなかった。シャインマスカットが出てきたのは、つい最近だ。こばやし葡萄園でもシャインマスカットを作り始めた。勧められて、シャインマスカットと巨峰を半々にして送ることにした。世の中の変化はめぐるましい。私たち夫婦が海外で暮らすようになった1990年頃、携帯電話は普及していなかった。パソコンも家庭で使える人は少なかった。今ではパソコンも携帯も誰でも使うようになった。農業も進化している。品種改良が進んでいる。ブドウもリンゴもトマトも、次から次へと新種が出て来る。去年ピオーネが追加された。今年、こばやし葡萄園からクイーンニナが登場した。すべて種なしで、皮ごと食べられる。

  ブドウを受け取った人たちから連絡が来る。期待はしていないが、嬉しい。電話。葉書。メール。礼状。連絡が来ない人もいる。もしかしたら…。予感が当たることもある。

  こちらが生きていることを知らせる。あちらからも、そうであることを知らせてもらえる。童謡の『やぎさんゆうびん』の歌が浮かぶ。

  今年は特にコロナ禍で、家にこもりがちである。私はこれということもせず、うつ病患者のように家にいる。農家は、長雨だろうが、猛暑だろうが作物を育てる。収穫すると、今度は宅配業者が、それぞれの宛先に届けてくれる。感謝しつつも、社会活動から離脱している自分を責める。

  今年も何とかブドウを届けられた。そう私はまだ生きている。台所へ行って、冷蔵庫を開けて、シャインマスカットを一粒口に入れた。妄想、迷い、不安、怒りが、かみ砕かれた皮と果実と果汁と一緒になった。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラジオ番組と彼岸花

2020年10月06日 | Weblog

  散歩中、珍しい所に咲いている彼岸花を見つけた。川沿いコンクリートで作られた古い欄干がある。欄干の下は高さ7mの石垣がほぼ垂直に落ち込んでいる。欄干の高さは、80㎝くらい。40㎝幅の支柱が並ぶ。その上にコンクリート製の手摺が乗っている。支柱と支柱の間は、25㎝くらいの空間がある。その空間に彼岸花が2輪咲いていた。この彼岸花が咲いている場所は、普通植物が育つ場所とは考えられない。なぜなら欄干の根元もコンクリートなのだ。根を張れない。彼岸花には球根がある。球根が収まる地面などない。あるのは、雨で流されてきて積もった数㎝の土砂だけ。それなのに彼岸花は花を咲かせた。それも支柱と支柱の間から花だけ出して。古いコンクリートの灰褐色に苔むした枯れた緑色を背景に、燃える炎のような曼殊沙華色の彼岸花。絵のような光景が私を惹きつけた。

 私はラジオをよく聴いている。ニッポン放送の『辛坊治郎 ズーム そこまで言うか』が好きだ。先日その番組の中で辛坊さんが彼岸花について話した。彼の博識と勉強熱心さには感心しきりである。彼は彼岸花が一斉に咲くのは、おそらく桜のソメイヨシノ種と同じく同一クローンなのではないかとの思うと言っていた。

 ラジオは、もっぱらニッポン放送を聴いている。住む集合住宅が建つ場所のせいか、ラジオの受信状態がよくない。英語力維持のために、本当はAFSというアメリカ軍のラジオ放送が聴きたいのだが、受信できない。テレビは日中、NHKのニュース以外、観たい番組がない。放送局を選択できないので、ニッポン放送を多く聴く。良い番組もあるが、この放送局の出演者起用に偏向が著しいので、嫌気がさしている。私がラジオを聴くことができるのは、妻が勤めに出ている日中だけである。ニッポン放送には、声の良い局専属のアナウンサーが多くいるにも関わらず、お笑いタレントなど多く起用して番組の質の低下を自ら起こしている。

 彼岸花の多くは、群生している。その様は圧巻だが個々の花としての存在感がない。確かに何千本何万本と一斉に咲く彼岸花には圧倒される。しかし川の土手の欄干の隙間にポツンと咲く彼岸花には、もっと魅せられる。私は、大きな組織で働いた経験がない。いつも一匹狼だった。だから本来群生する彼岸花が、ポツンと他の花から離れて孤高に咲いていたものなら、立ち止まってしまう。

 最初週一で放送されていたニッポン放送の番組が急に月曜日から木曜日まで毎日放送されるようになった。週一の時は、それなりに準備も十分にされていたのか、内容も良かった。ところが連続になると内容の劣化がはっきりと出て来る。時間を埋めるためのだらだらとした放送になってつまらなくなる。辛坊治郎さんの『ズーム そこまで言うか』も最初金曜日だけだった。月から木になると、さすがの辛坊治郎さんでも、ボロが出る。ナイツというお笑いコンビも、週一から月から木まで通しで『ナイツのラジオショー』を始めたが、ただの時間つぶし番組になってしまった。この番組変更の反動で、原田龍二さん安東弘樹さん草野満代さんなどが番組を失った。

 何か大きな力が、裏で暗躍しているのかもしれない。世間には抗えない大きな力が、うごめいているのを、多々見受けられる。何でも群れると、思わぬ力を生むことがある。私はそういうものに、恐怖を感じる。群生する彼岸花より、ポツンと他から離れて咲く彼岸花に魅かれる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする