団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

竹 高分子ポリプロピレン複合材料

2015年01月30日 | Weblog

  「中越パルプ工業と出光ライオンコンポジット、三幸商会の3社で、「竹」が素材のナノセルロースを用いたポリオレフィン樹脂に均一分散させる「高分子ポリプロピレン複合材料」の開発に成功したと26日発表した。セルロースは鋼鉄の5分の1の軽さで、しかも鋼鉄の5倍の強度を持つファイバー。「自動車や電機・電子材料などの軽量化に期待」ができ、サンプル出荷の準備を進めている。」

  このニュースを知って思い出したことがある。17歳でカナダの高校へ転入した。カナダの学生にこんな質問をされた。「日本人は家の床に竹を敷いてその上で暮らしているって聞いたけれど、それって痛くない?それに竹を食べるそうだけど固くない?」 私は偏見に癖癖しながら、つたない英語でできるだけ誤解を説こうと努力した。「私たちは竹の上で生活していません。絨毯のような畳を床に使っています。竹を食べるのではなくて、アスパラガスのように芽を食べます。とても柔らくて美味しいですよ。そうそう、エジソンを知っていますか?」の私の質問にカナダ人学生は私に馬鹿にされたと思って怒りを露わにした。私は電球を指差して「今、私たちが夜の暗闇でも電燈のおかげでこうして明るい生活を送れるでしょう。エジソンは電球のフィラメントに日本の竹を使ったんですよ」と日本の小学校で教わったことを言った。カナダ人学生の頭の中の竹=野蛮、後進国という図式は崩れたようだった。

  日本の山野は竹の浸食にさらされている。私が住む町でも緑豊かな自然に囲まれているが、散歩しながら観察すると多くの場所で年々竹林が面積を拡げている。竹の子は美味しい。けれどやはり山は多くの樹種で構成されていた方が良い。中越パルプ、出光ライオン、三幸商会3社の共同開発による「高分子ポリピロピレン複合材料」は日本の山野の景色を変えるかもしれない。資源のない日本だが竹はいくらでもある。私が17歳の時、カナダでメイドインジャパンの自動車が竹でできていると言えたらどんなに痛快であっただろう。

  世の中どれ程進んだと言っても、世界はまだ偏見、傲慢、誤解に
満ち溢れている。今回の「イスラム国」テロ集団による野蛮な人質事件の報道に接しても、いかに我々がお互いに相手の事を知らないか思い知らされる。偏見や誤解は山野の竹のごとく旺盛な繁殖力を持ち人々の心に入り込んで偏狭さ傲慢さを増幅させてしまう。今回開発された「高分子ポリプロピリン複合材料」が竹とポリオレフィン樹脂を融合して強靱な物質になるように、人類も強力な友好関係で結合する混合体になるための国際理解を育成していかなければならない。もはや1国1宗教1言語1文化1イデオロギーで世界人口60億の人間をひとつに束ね治めることはできない。「イスラム国」のイスラム教による世界折伏の野望は、ただの竹と同じであって、竹一種類では自然も世界も成り立たない。「イスラム国」の現状の破竹の勢いにも必ず限界はある。なぜなら個人はつまるところ皆わがままであり、次々と湧く小さな不満も溜まると、やがて大きく膨らんで暴発を始める。最初の夢と理想を残酷に打ち砕く。人類征服の野望の歴史はその繰り返しである。


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春の兆しそろいぶみ

2015年01月28日 | Weblog

  日記にその日の天気、最高最低気温、万歩計の数字を書き込む。23日金曜日まで降り続いた雨が止み、気持ちよく晴れ24日、25日と温度も上がった。そんな天気に誘われて熱海市の糸川沿いの桜を観に行った。まだ咲こうかな、もう少し待とうかなと迷いのあるような咲き加減だったが楽しめた。ちょうど『あたみ桜 糸川桜まつり』1月24日から2月15日の初日だった。観光客も多かった。梅園も咲き始めたと聞いていたが、やはり桜に心ひかれた。

  妻と暖かな陽射しを浴びながら歩いた。桜の木にたくさんのウグイス色のメジロが嬉しそうに「チーチュル チー」と鳴いて飛び交っていた。色がウグイスと似ているので混同しやすいが、ウグイスは警戒心が強く人の目にふれることは滅多にない。ぽかぽか陽気に桜にメジロ。気持ちはすっかり4月の気分だった。海外で暮らしていた時、どれ程望んでも得られなかった日本のほんわか春が私を幸せにする。

  妻の好きなラーメン屋に小一時間並んで「ワンタン麺」を食べた。大満足で帰路についた。右手側にキラキラ光る太平洋を見ながらちょっとしたドライブを気取って家に戻った。

  ふとマンションの屋上を見上げるとアオサギが4羽手摺に止まっていた。桜を観た帰りにアオサギの回帰に出会えたようだ。いよいよ春かなと浮き浮き気分になる。

  普段私が住む町に居ついているアオサギは2羽である。縄張りがあるらしい。2羽以外にアオサギが集まるのは繁殖期でしかありえない。マンションの前の道路に松並木がある。十数本の松しか残っていないが高さが20メートルはある。アオサギは毎年産卵期になると、どこからともなく集合してペアを組んで産卵羽化する。去年は8組のアオサギがそれぞれ卵を孵した。

  私はアオサギの生態についての知識を持ち合わせない。観察するにアオサギは一夫一婦制で毎年同じ巣を使うようだ。巣は松の木のてっぺんにある。風雨を防ぐ屋根や壁の代わりになるモノはない。産卵するとオスとメスが交代でエサとなる魚を川へ獲りに行く。1日に約300gの生きた魚を食べると図鑑にでていた。巣の準備に1週間。産卵して孵化するまでに26日ヒナを約2か月育てる。飛べるようになるのは孵化してから50日かかるという。雨風をしのぐのは自分自身の体なのだ。

  川には魚が群れをなしてたくさんいる。と言ってもつがいの親鳥がせっせと自分の巣の雛に運ぶ餌は100㎏を超えると言う。いったいあの川のどこにそれだけの魚がいるのかと疑問がわく。これだけのアオサギの集団だと総量は大変な数字になる。ここがアオサギの繁殖地に選ばれているということは、それだけの餌の魚がいるに違いない。アオサギは大きな鳥である。羽を広げて飛ぶさまは見応えがある。

  家に入ると家の南側から差し込んだ陽が床に当たっていた。太陽光線が春に向かって舵を切り始めた。まさに春の兆しのそろいぶみである。天気予報では寒さが戻るという。かまわない。行きつ戻りつしながらも季節は巡る。大好きなミソサザエが鳴くのも、もうまじか。

(写真:営巣を始めたアオサギ)


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宗教戦争

2015年01月26日 | Weblog

  旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードに住んでいた時だった。妻が出張でコソボへ行くことになった。たった1泊だったが、その間私は居ても立っても居られなかった。コソボはイスラム教とセルビア正教との住民との宗教戦争状態にあった。とうとう一睡もできなかった。夜遅く帰宅した妻を抱きしめて、はじめて生きた心地が戻った。

  今回のイスラム国が二人の日本人を人質にして200億円を超える身代金を要求した。テレビに二人の人質の親が映されていた。私はたった1日でも妻が戦闘真っ最中の現場に赴いただけでもあれだけの不安と焦燥に駆られた。

 人質の二人の日本人は、すでに半年近くも音信不通だったが、人質のオレンジ色の囚人服のようなモノを着せられ突然テレビ画面に映された。彼らの親としてどれ程切ないか身につまされた。

  旧ユーゴスラビアがNATOの空爆を受けていた当時、住んでいたベオグラードにも多くの新聞社や放送局の記者が押し寄せた。日本の名だたる新聞社通信社放送局の特派員は一流のホテルに陣取っていた。戦地にいたことは間違いがなかった。しかし決して無茶で危険な取材はしないようだった。一方フリーでマスコミ各社の下請けのような形をとって命がけで取材する人々がいた。世の中は危険に近寄らない元請と危険をあえておかさなければならない下請けでできている。危険を冒すフリーの記者に会って話を聞いたことがある。戦地には戦争ビジネスというものがあることを教えてもらった。戦争地帯でしか成り立たない仕事がある。生きるためとは言え、命を失う危険が伴う。危険が故に報酬も多くなる。名声や脚光を浴びることができる。報酬だけでなく仕事に伴う高揚感や使命感に魅力を感じると聞いた。親不孝と家族を犠牲にする罪悪感に悩まされるとも言っていた。人質になった二人の親の気持を人質にされた2人の本人たちが一番分かっていると思う。達成しようとした目的に目が眩んで、その過程にある危険が見えなくなっていたか、覚悟があって行動していたかどちらかだ。いずれであっても殺した側には神という大義と信仰があり、殺された側には個人の自己責任という名分以外に前面に出す特定宗教の神はなかったように思われる。宗教戦争において勝てば聖戦となり、負ければ残酷な殺戮とみなされる。

  宗教が出現以来、人類の歴史は宗教戦争の歴史である。ヨーロッパのキリスト教国はパリの新聞社で12人がイスラム教徒によるテロの犠牲になって以来イスラム教のテロ集団との戦争を宣言さえしている。キリスト教も17世紀にカトリック対プロテスタントの30年戦争を皮切りにヨーロッパ全土に拡がった。その荒廃と混乱から逃れて新天地アメリカへの移住が進んだ。イスラム国の出現自体がイスラム教のスンニ派とシーア派の争いが源である。

  宗教に関して私の意見を代弁してくれる言葉がある。「私はどんな宗教であれ、信仰は個人的なものであり、静かに見せびらかせることなく奉ずるべきものだと思っている・・・信仰はたまさかの贅沢をすることでもない・・・それは日常生活の欠くべからず一部であり、意識していようといなかろうと、人の行動と思考を決める導き手なのである」『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』ポール・アダム著 42ページ3行目から8行目にある主人公のヴァイオリン職人ジョヴァンニ・カスティリョーネの言葉。

 宗教はあくまでも個人とその個人が信ずる神との関係である。日本国憲法は信教の自由を保証する。いかなる宗教も個人的な範疇に留まるべきである。人類は、未だに、やおよろずの神々をそれぞれの信者が盾にして、オラ方が真実で正当だと他方を攻める、困った生き物である。


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空耳空目

2015年01月22日 | Weblog

  新聞の見出しにまわりの文字より4,5倍太く大きな字で“セクハラおやじ”と書いてある。内心、「新聞でこんなこと言うのと」疑問が湧いた。案の定、“セクハラやじ”を“セクハラおやじ”と私が勝手に読んだのだ。空目である。人は読みたいように読む。私の潜在思考の中で“セクハラおやじ”は強い存在感を持っているに違いない。

 大相撲春場所を観ていた。呼び出しが「ひが~し~たからㇰ~じ、たから~ㇰじ」と聞こえた。私は「凄い名前が出てきたな。宝くじか。相撲界も昨今の名前の変化が浸透してきたな」と感心。テレビの画面のテロップには「宝富士」と出た。空耳だった。誰もいない部屋で赤面した。

 空耳が多い。ずいぶん前のことだが、妻が夜中に寝ぼけて「恥骨が痛い」と言いだした。婦人科の医師である妻が言うのだ。これは大変だと身がこわばった。救急車を呼ばなければいけないかもと、何回か聞き質すと「地底湖が見たい」だった。妻が以前旅行した岩手県岩泉の龍泉洞の地底湖のことだった。これがきっかけとなって“地底湖”へ夫婦で行けた。地底湖は美しかった。

 知り合いのアメリカ人は「どういたしまして」を「Don’t touch my mustache」と言う。たしかにアメリカ人が言うと「どういたしまして」と聞こえる。空耳は英語の発音の勉強にも役立つ。高校の英語の先生が「What time is it now?を『掘った芋いじるな』と言えば通じる」と教えてくれた。私がカナダへ行った時、確かに問題なく通じた。Water(水)も藁(ワラ)で通じた。

 私の全身の器官に集中力とか注意深さというものが備わっていないかと心配になることがある。器官の総元締は脳である。目による見間違い。耳による聞き違い。口による喋り間違い。手による動作間違い。足の操作違い。それぞれの器官に命令を発し管理するのは脳である。やはり私は頭が悪い。

 年齢を重ねるごとに老化という魔物が全身の器官に影響を与える。もともと鈍かった私だが、“頭が悪い”は“老化の所為”と大義名分が付与され、他人との比例比較に情状酌量が有利働くようになった。メデタシ。60年以上待っていた甲斐が出てきたというものだ。

 頭が悪い、つまり集中力がない・記憶力が悪い・要約力がない・分析力がない・表現力がないということは決して悪いことばかりではない。頭が悪いと自覚してから、私は⑴できること、⑵できないこと、⑶やればできるようになるかもしれない、と3分類するようになった。私にできそうもないことは諦める。⑶のもしかしたら私にもできるかもしれないと思ったら、どんなに時間がかかっても喰らいついて離さない。こんな私でも10年20年30年と続けていれば、何とかなることもある。「失敗する人には二種類ある。考えたけれど動かなかった人。動いたけれど考えなかった人」(アメリカの教育者 ローレンス・ピーター) たとえ頭が悪くても、それなりに考えることはできる。動くこともできる。しぶとく生きよう。

 空耳空目は続く。それを楽しみながら歳を重ねていくつもりでいる。


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受験と下痢

2015年01月20日 | Weblog

  1月15日歯医者へ行った。歯周病の治療である。上下全ての歯を6回に分けて治療する。その日は4回目だった。麻酔をかけ歯肉にメスを入れ歯の根元の方まで特別な器具で歯石や汚れを落とす。麻酔がかかっていても「ガリガリ」と大工さんがノミで木を削るような作業に気分が悪くなる。約一時間の治療が終わった。一週間後の予約と支払いを済ませて帰路についた。顔全体が腫れぼったく大顔が更にでかくなっている恥ずかしさと麻酔のしびれがタラコ唇を連想させ電車の中でマスクをしているにも関わらず顔をずっと伏せていた。乗客が減ってきた。雨が車窓に強く降りつけていた。風も強かった。外の景色は楽しめなかった。仕方なく車内の中吊り広告を読んだ。

 「受験生の下痢止め『ストッパ』」 今年も受験の時期がやってきた。受験と下痢。私自身は経験がない。塾で教えていた時、S君という非常に優秀な生徒がいた。中学1年から高校3年まで6年間英語を教えた。学校と違って塾なら中高一貫で教えることもできる。S君は柔道部に属していた。毎日厳しい練習を学校でしてから塾へ来た。文武両道を見事に果たしていた。大学も難関校を受験した。S君には大きな悩みがあった。普段は何もないのに受験などの大事な時に下痢をする。現役で受験した国立大学の入試でも下痢のために受験会場に行くこともできなかった。2年目も。結局、私立大学に入学し、卒業した。そして目指した国立大学の大学院へ進学し工学博士号を修得した。

 今は京都の電力機器メーカーの会社で元気に働いている。結婚式にも招待された。子供も二人生まれた。下痢に悩まされることはないという。S君との出逢いがなかったら受験と下痢は私の中では無縁であったに違いない。今年も多くの受験生が下痢で本来の学力を発揮できずに目指す学校へ進学できない受験生もいるだろう。下痢止めの薬がせめて受験生から試験を受ける機会を奪うのを『ストッパ』してくれることを願った。

 夜妻と夕飯を食べていると、「ガキッ」と左側の奥歯が異物を噛んだ。歯の治療の後なので固いものを避けてやわらかな食べ物だけだった。左側だったのでまたインプラントが抜けたのかと思った。(今日、歯医者から帰って来たばかりなのに。なんで昨日こういうことにならないの)と腹が立った。調べてみると右側の上の歯の虫歯の詰め物が採れていた。詰め物を見ると真っ黒に変色していた。きっと相当古いものだろう。詰め物が外れた歯はぽっかり穴があき、鋭い歯先が舌を傷つけそうだった。気になってよく眠れなかった。16日電話で事情を話した。再び2時間かけて歯医者へ戻ることになった。何事も自分の思うようには事は運ばない。

 ギリシャの詩人アイスキュロスは「そうあるべきことはやがてそうなっていくだろう」と言った。この歳になってやっとアイスキュロスの言葉が少し信じられるようになった気がする。不運だと思われた事が、のちに幸運のきっかけだったというようなことが私の人生にもたくさんあった。紆余曲折があって時間がかかろうが前を向いて進みさえすれば、やがて願いは叶う。S君もそう思ってこの時季、受験を振り返っているかもしれない。


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セックスレス

2015年01月16日 | Weblog

 驚いた。1月14日夜9時のNHKニュースを観ていた。ニュースではアナウンサーが「結婚していて1ヶ月以上、性交渉がない、いわゆる『セックスレス』の人の割合は45%にのぼり、10年前に比べ13ポイント近く増えた」という内容のものだった。NHKがこのような内容のニュースを伝えること自体、普通とは思えなかった。もっと驚いたのは、街頭インタビューだった。NHKの若い男性職員が街頭で「セックスレスの夫婦が45%に増えているという調査結果がでましたが」と問うた。私は多くの日本人はこの手の質問は逃げると思った。怒る人もいるのではと案じた。あにはからんや老若男女みなきちんと答えた。私はNHKのヤラセなのか、何百人にもインタビューしてNHKのニュースの方針に合致する答えだけを選んだのかと疑がった。待てよ。これはテレビだ。ラジオではない。顔も姿も映る。それなのに、みな堂々と返答している。日本人は変わったのだと私は自分に言い聞かせた。

 私は常日頃、最近の外国人旅行者の増加を肌で感じていた。NHKの男性は、多くの外国人にも同じ質問を繰り返した。アメリカ、オーストラリア、シンガポールどこの国の人も私が予想した通りに恥ずかしがりもせず率直に答えた。性におおらかな国はたくさんある。スペインからの50歳を超えている夫婦の妻は「それは少ないわね。私たちは週2回、もっと多い時もあるわ」と答えた。私はただうなだれるだけだった。

 セックスレスどころかブレスレス(息をするのをやめる)に日ごと近づいている私はこのNHKのニュース内容とあっけからんと答える街ゆく現代の日本人に度肝を抜かれた。日本家族計画協会の調査結果に日本の先行きへの懸念は募るが、街頭の人々の変化には明るさを感じた。


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最低!

2015年01月14日 | Weblog

  1月2日我が家に6家族総勢15人が集まった。カナダ、ブラジル、イタリア、日本からの参集であった。それぞれを各地に訪れるとなったら大ごとだ。特にブラジルは格安航空券でも最低往復で60万円だそうだ。運賃はともかく狭い航空機の座席に私は3時間も我慢ができなくなっている。天から与えられた機会であった。飲み、食べ、話して楽しんだ。

 私の長男夫婦には2人の男の子がいる。13歳と8歳である。私の友人の長女はブラジルに住み、次女はカナダ人と結婚してトロントに住む。次女には二人の女の子がいる。3歳と5箇月。

 いつしか私の孫の男の子8歳と友人の孫3歳が先日購入したアイルランド製の薪ストーブもどきの前の床に座り込んでいた。まるで本物の薪が燃えているように辺りを赤く染めていた。その明りの前で3歳の女の子が持ってきた釣ゲームを8歳の私の孫が一緒に遊んでいた。

 私は目を疑った。人見知りの激しい8歳の孫が楽しそうに兄と妹のように仲良く遊んでいる。8歳の孫が生まれたころ、長男の妻は私にこう言った。「父親がいない母と子だけの家庭のようです。夫は家に寝るためだけに午前2時過ぎに帰って来ます。合理化と人員削減で同僚の一人が過労死してから更にひどくなり、最近頭が割れるように痛いと言い心配です」 当時日本は失われた20年の不景気真っ只中であった。8歳の孫はずっと母親べったりで私にさえなつかなかった。

  3歳の女の子はカナダで英語を母国語として育てられている。今回の母親の母国である日本への里帰り中、ものすごいスピードで日本語を習得しているといってもまだ3歳である。英語も日本語も幼児の域を出ていない。語彙が少ない。そんな彼女が好んで「最低」と適時に発するのには驚かされている、と友人の奥さんが話してくれた。残念ながら私はその言葉を耳にできなかった。

  私の8歳の孫は日本語だけしか話せない。しかし2人の前に言葉の壁はない。その二人を私の長男がじっと見ている。いい光景である。12月、8歳の孫はサッカーの試合中、相手チームの選手と激突して右肘を複雑骨折した。救急車で病院に運ばれ手術を受けた。右手は三角巾で吊っている。使えるのは左手だけだ。それでも優しく3歳の言葉も通じない女の子と遊んであげる。

  別れの時が来た。3歳の女の子は激しく大きな声を上げて泣いた。その晩私は客を車で送るために酒を飲んでいなかった。8歳の孫に一緒に女の子を宿泊先まで送ってあげようと誘った。女の子は泣き止んだ。私の車の後部座席に並んで座った。目的地に着いた。父親に抱かれた女の子は別れを察知した。大声を上げて泣き始めた。だれも彼女を止められない。8歳の孫はずっと下を向いていた。別れ際に左手を彼女に向けて振った。彼女が一瞬泣き止んだが、更に激しく泣き声を上げた。おそらく彼女の頭の中で彼女の別れの辛さを「最低!」という日本語で表現することで乗り切ろうとしていたのではないのだろうか。

  人生に別れはつきものだ。別れと出逢いの連続である。まだ3歳の日本語もよくわからない女の子にとっても、私の8歳の孫にもずいぶん早い別れと出逢いの繰り返しの試練が始まった。距離は別れの哀しさ辛さを増幅する。所詮人は一人で生まれて一人で消えてゆく。だからと言って出逢いを拒めない。別れも出逢いにも精一杯を尽くすしかない。

  孫に「ありがとう」と言った。孫が大きく頷いた。


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待てッ

2015年01月08日 | Weblog

  「待てッ」と鋭い声。さては追手がきたか。脇差しに手を伸ばすが、刀がない。それもそのはず、ここは2015年になったばかりの日本である。私はエレベーターに入って「⇦開く⇨」を押したままあとから乗る人のために気配りで目配り手配りを動員して便宜をはかっていた。見ると70歳くらいの男性老人が杖で私を指しながら「待て、と言ったら待てッ」と言い放った。聞き捨てならぬ物言い。右手に刀、いや杖。左側にお小姓、いやたぶん孫。10歳くらいの男の子。4,5メートル後ろに奥方様と御寮人様、いや妻と娘。4人すべて陰鬱な感じ。特に妻と娘と孫が暗い。老人はエレベーターに乗り込もうとした。「しっかり押さえていろ」と老人が孫を叱咤する。孫に表情がない。孫はドアを押さえて祖母と母親を待つ。老人は後ろの二人に「さっさと歩け」と一喝。一同全員がエレベーターに入ると後ろに誰か乗る客がいるか確かめもしなかった。「さっさと出せ」と言うかのように私を睨み付けた。

 私は「待てッ」と言われて待ったのだから老人からの何らかの言葉を待った。「かたじけない」とか「大儀であった」とか。何だか知らないが老人は私を睨み付ける。眼光が鋭い。恐いくらい鋭い。エレベーターの中は敵、いや私以外の人が4人と私の計5人。孫が「1」と「⇨閉じる⇦」を押した。エレベーターが動き出す。でも中の雰囲気はまるでお葬式。誰ひとり何も言わない。暗い。

 私はその状況を私が知る日常に戻してみた。老人はエレベーターの中でドアを閉じずに開けて待っている私に声をかける。「乗ります。待ってください」と乗り込む。「あと二人乗るので待ってください」あとに続く妻と娘を待つ。「足元に気を付けなさい」と妻に声をかけ手を貸す。「すみません。助かりました。ありがとう」奥さんや娘さんからも「すみません。ありがとうございました」と会釈されながら言ってもらえる。それが普通である。現実は違った。美輪明宏が何かの番組で言っていた。「弱い人は自分を守るのに精いっぱい。人に優しくする余裕がない。自分が強くなければ、人に優しくできない」

 私は全員を見ることができる壁側に立っていた。そしてこの一団のことを推理した。老人男性はとてつもない金持ち。孫たちに今度の税制改正で教育資金1人1500万円までを含む限度額いっぱいの5000万円の相続税のかからない贈与を決めた。孫が2人なら1億円、3人なら1億5千万円、4人なら2億円、5人なら2億5千万円。金の力で威張っているのか。金の力で家族を縛り付けているのか。

 私もこんな嫌な想いをしてまでエレベーターを使いたくないが、以前駅の階段から足を踏み外して転げ落ちそうになった。安全のためにエスカレーターでもエレベーターでもあれば躊躇しないで利用することにしている。改札を出て、私がバスに乗って窓から見ると、4人はタクシーに乗った。きっと近くの温泉のホテルか旅館に行くのだろう。タクシーに乗る時、老人は「開けろ」と大声を出した。あまりの大声に、周りの人々が驚いて老人を見ていた。

 帰宅してテレビでニュースを観た。北海道のJR線で特急に乗っていた68歳の男が車内でタバコを吸っているのを車掌に注意され、逆切れしてシートに備え付けのテーブルを壊したり車掌に暴力をふるい、特急を90分間止めたという。日本全国に暴走老人がいるらしい。世界中どこの国にもおかしな不可思議な行動をとる人々がいる。私は老人になった。金持ちでも権力者でもないが、人に迷惑をかけたり不愉快にしないよう生きているつもりだ。

 動物写真家のジュペール夫妻は「お互いに敬意を払い、大切にする(原文ではcelebrate:賞賛する)気持ちがなければ人間も絶滅する」と言った。「ありがとう」の一言は人間種を保存する魔法の言葉である。寅さんのように誰もが柔和に声をかけあえられる頃に戻ってほしいものだ。


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箱根駅伝と電車を見下ろす土手の上の少年

2015年01月06日 | Weblog

  1月2日今年も箱根大学駅伝を見に行った。妻も一緒だった。妻の一人で田舎に暮らす母親が、風邪をひいて寝込んでいる。「風邪をうつすといけないので来なくてよい」と電話があった。私たちも夫婦で風邪をひいている。もうすでに2週間以上になる。それでも人間業と思えぬ若者たちの走る姿を拝む気持ちで崇めたかった。妻はテレビでしか駅伝を見たことがない。電車で小田原へ出た。ずいぶん長い間待ったがそのおかげで今年は選手たちが走る国道1号線の道路脇の一番前で応援できた。妻は日陰だったせいか冷えて足の裏の感覚がなくなったと言った。それでも妻は毎年私が感じることを実際自分の目で見て感じたようだ。

 目の前を小田原の中継点にあと数キロの地点を選手たちは疾風のように走り抜けた。妻は大満足だった。私もそんな妻を見て嬉しかった。福袋でも買おうかと商店街や駅ビルへ誘ったが、妻は「もう帰ろう」とだけ言った。二人はそれぞれさっき見た駅伝選手の超人のような走りに圧倒されていた。

 帰りの電車は都会の通勤ラッシュ並に混んでいた。ある駅に電車が止まった。「時間調整のため4分止まります」と車内放送があった。妻はキラメク太平洋を見ていた。私は山側の土手にひとりの少年がいるのを見つけた。おそらく7,8歳だろう。じっとして電車を見ている。この少年を見て私は自分の少年時代を思い出した。汽車が好きで家から自転車で10分くらいの国鉄の駅へほとんど毎日汽車を見に行った。駅の改札口は、駅員がこれから乗車する客の検札をしたり、到着した客から切符を受け取る馬蹄形の囲いがあった。5,6箇所あった。すべてが使わていることはなかった。空いている囲いの中は駅のプラットホームが良く見渡せた。囲いの中は20センチくらい高くなっていた。

 制服の駅員にも憧れた。汽車に乗り降りできる乗降客を羨ましいと思った。旅の始まり、終わりを駅で見ることができた。始まりと終わりの向うに拡がり続くそれぞれの旅人の物語に想いを馳せた。自分の小さな生活範囲の縛りを駅の改札の一段高い囲いの中で解き、夢を膨らませていた。土手の上の少年を4分間ずっと見続けた。あの少年と私は約60年という時間差を有する。あの少年の60年後を思った。当然60年後に私はこの世にいない。私が少年の時、ああなりたい、こうしたいと夢見たことのほとんどが実現しなかった。駅伝の選手や海外で日本で活躍するスポーツ選手のような運動神経も才能もなかった。それでも私は生き続けてきた。

 電車が発車した。土手の上の少年はまだ電車を見下ろしていた。私は見えなくなるまで少年を目で追った。電車がトンネルに入った。妻が横にいた。私がまだ駅へ汽車を見に行っていた頃、私はひとりだった。今は妻がいる。駅で見知らぬ人々の始まりと終わりを眺めていたのと違う。通りすがりにならない。駅伝の選手や土手の上の少年のように私の目の前を疾走したり、消えていかない。私の話を聞き私に話しをしてくれる。ずっと一緒にいられる。電車がトンネルを抜けた。陽ざしが妻の顔をパッと明るく照らした。


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雪が降るゴミも降る

2015年01月02日 | Weblog

  1日元旦の夕方から雨が降り始めた。朝は太平洋に昇る初日の出を拝めたほどよく晴れていた。午後から雲が多くなり、陽が沈む頃には雨になった。

  2日の朝目を覚まして窓の外を見るとうっすらと白く雪が積もっていた。私が住む町に雪が降るのは年数回しかない。狭心症になって医師に温暖な地で暮らすよう勧められた。ここに住んですでに11年近くになる。温暖で暮らしやすい。狭心症の再発も抑えられている。

  妻の医務官としての最後の任地は旧樺太、現ロシアのサハリンだった。マイナス40度が当たり前の厳寒地だった。心臓バイパス手術を受けたばかりの私には厳しすぎる環境だった。体調を崩して真冬だけ私は一人妻をサハリンに残したまま東京に戻った。

  サハリンで妻はこの町の今住むマンションの新聞広告を見つけて東京の私に連絡してきた。それがはじまりだった。すでにマンションは完売になっていたが、不思議な縁で購入することができた。結局妻は医務官を退職して日本に戻り東京の病院の勤務医となった。遠距離通勤を私の健康のためにと続けてくれている。

  あのサハリンの寒さを経験していても今の私はたかだかマイナス0.1度でも「寒い」ともらしてしまう。数メートルのサハリンでの積雪の中でも何とか暮らしたのに、今はうっすら雪化粧しただけでも大ごとにとらえる。その軟弱さとどっぷりと恵まれた環境を当然のように思い込んでいる傲慢さに自分ながらあきれ返る。

  自然は、雪が降っても雨が地面を濡らしても風が吹いても堂々と美しい。そんな感傷にしたっていると妻が声を上げた。「や~だゴミ箱が落ちてゴミが散乱してる。白い花が咲いていると思っちゃった」 見ると窓の外の低い植え込みにゴミが散乱していた。高さ40センチくらいの四角のゴミ箱が横倒しになっていた。妻が履物を玄関から持って来てゴム手袋をして窓の外に出た。私が手伝おうとすると「あなたにはできない。私に任せて」と訳の分からないことを言った。しばらくたって理解した。ゴミといっても夫婦生活に関するものだった。使用済のティッシュと使い終わった避妊具が上階からゴミ箱ごと落ちて来て散乱していた。信じられない。言葉がない。こんなプライベートなものをこの寒い時に窓から外に捨てたのか?ゴミ箱ごと?謎が謎を呼ぶ。それとも嫌がらせか。怒りがこみ上げた。高層集合住宅の1階はゴミ捨て場ではない。1階を購入したのは間違いだったのか。私は妻に「透明の袋に入れて玄関ホールの共同郵便受けのところに“落とし物”と書いた紙を貼って置いておけば」と提案した。妻は何も言わなかった。我が家のゴミと一緒に“降ってきたゴミ”すべてを黄色の指定ゴミ袋に入れてゴミ置き場に出した。

  雪は降る、ゴミも降る。自然はけっしてゴミをうまない。自浄する。ゴミを出すのは人間だけだ。人間は自然には勝てない。想像もできない事が現実に起こる。新年早々勉強になった。幸運のサキガケととらえたい。


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