団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

病院船+水プラント船

2010年03月30日 | Weblog
 真っ青なカリブ海に浮かぶアメリカ海軍病院船USNS COMFORT(コンフォート)号が白い船体を光らせる。COMFORTは、「慰める、励ます、癒す」などの意味を持つ。震度7の大地震で壊滅的な被害をだしたハイチに、アメリカから病院船が到着した。ベッド数1000、手術室12、医師総勢600名、何とも頼りがいのある雄姿と充実した設備である。一方日本から派遣された医療派遣団は、わずか十数名の一週間あまりで総計500名の治療をしたと外務省で岡田外務大臣に報告した。一体これぽっちの援助にいくらの金をかけているのか。

 以前私は、日本国も病院船『広島』『長崎』を建造運営することを提案した。日本は、政権が自由民主党から民主党に変わった。そのことによって自衛隊のインド洋での海上燃料給油活動が1月で終わった。これから民主党の案によれば、アフガニスタンへは、民間人を中心とした教育や農業支援を展開するという。おっせかいな海外援助にまだ懲りていない。

 今まで自由民主党は、付け焼刃的な国際貢献に終始していた。長期的展望に立ち、この先100年200年を視野に入れた国際貢献体制を構築するべきである。 病院船は、日本の今後の世界で大きな存在感を発揮できる。世界唯一の被爆国日本は、原爆症治療の先駆者であり、研究も進んでいる。世界中で原子力発電所の建設が増えている。チェルノブイリのような事故がいつ起きるかも知れぬ。日本の病院船は、原爆症をはじめ戦争、災害による負傷者救助を中立国の立場でできる。まさに日本は適任国である。

 加えて今回のハイチ、チリ両国の大地震で、人々が最も必要とした飲料水においても日本は高い技術とノウハウを持っている。船の名前を『奥・井ノ上』とイラクで殉死した二人の外交官の名をつけた真水プラント船の建造も一案である。船に真水製造プラントを組み込み、現地で最悪海水から、可能であればできるだけ安全な水源から取水して飲料水にろ過精製する。それでもできなければ、タンカーを真水輸送できるように改造した水運搬船を同行させる。飲料水は、ペットボトルやポリタンクに詰め、現地で製造して被災者に届ける。日本は、水のプラントでもペットボトル成型機でも実績も実力もある。

 時期は、今を逸すれば、後発の諸国が、また日本を追い抜いていくに違いない。平和憲法を掲げる日本だからこそ意義がある。ここで発想の転換をはかり、長期的展望に立つべきである。日本の船の建造技術と実績、水の精製プラント、プラスティック成型機技術、日本の高度医療の進歩、共に国際社会に貢献できる大きな強みである。病院船も水プラント船も、国内の災害にも必ずや役立つと信じる。ともすれば日本の政治は、「俺らが地域」の我田引水ばかりに気を取られた旧態依然の島国的発想に終始する。ここで大きく目を海外に向け、新しい援助貢献の道を切り開いて欲しい。私が生きているうちに『広島』『長崎』『奥・井ノ上』の世界平和に貢献する雄姿を見られたら嬉しいのだが。

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渦潮

2010年03月25日 | Weblog
 小学5年生の頃、私は極度な死恐怖症になった。夜中にガバッと起き上がり、いつか死んで、全てが無に帰すことへのどう考えても答えを見いだせない、やるせなさに頭をかきむしった。眠れなくなり、柱時計の振り子の音がひとつ聞こえるたびに、永遠の無への接近に思え、恐怖におののいた。やっと眠りにつくと、なぜか教科書の写真でしか見たことがない渦潮に巻き込まれ、グルグル回りながら、吸い込まれていく恐ろしいものだった。以後この恐ろしい渦潮を何回夢で見たことか。その度に私は、寝床を飛び出て、床を手で叩いて「嫌だ、嫌だ」と叫んだ。

 日常の諸問題にとらわれていても、潜在的な無に吸い込まれる恐怖は、依然として時々爆発した。でもなぜか、心臓バイパス手術を受けた後から、死への恐怖が和らいだ。手術前に『辞世帳』と題して、大学ノートに言葉を残しておきたい人々に手紙を書いた。手術室の工事で2ヶ月延期された。手術直前に大学ノート一冊にびっしり書き上げた。それが効をそうしたのか、以前のような恐怖はなくなった。一回目の手術は、失敗だったが、別の病院で名医の修正手術でかろうじて生き延びた。身体障害者手帳を持つ身になったが、あれから10年近くの時間が経った。毎日、オマケの人生に感謝している。

 3月14日、ついに私は、本物の渦潮をこの目で見た。四国旅行3泊4日の最後の日、バスで瀬戸内海のしまなみ海道めぐりに行った。来島海狭急流体験ツアーにオプションで参加した。心臓バイパス手術を受ける前だったら、きっと参加しなかっただろう。見れば、あの死への恐怖と夢がよみがえり落ち込んでウツ状態になっただろう。それどころか自分の目で実際に渦潮を見て、私は感動した。時速18キロで高低さ2メートルという圧倒的海水のエネルギーは、海の中の急流となっていた。潮の満ち引きにより南、北と流れる方向を変える。今までは恥ずかしい話、大好きな牡蠣は宮城県産のものしか買わなかった。瀬戸内海と聞いただけで、海が汚染して海水もよどんでいると勝手に決め込んでいた。イタリアのベニスと同じく、瀬戸内海もこの海流のおかげで、頻繁に海水が淀むことなく入れ替わっている。渦潮は、人生そのものだと思う。もまれ、ぶつかり、流され、右往左往して、やがて渦を巻いて消えてゆく。

 私は、小学校や中学校の教科書に載っていた写真や絵画を鮮明に覚えている。その写真が原風景となり、いつの日か自分の目で見たいという願望を持った。鳴門海峡の渦潮の写真が小学校の社会科か理科の教科書に載っていた。その写真が50年経っても記憶にある。実物を見るのに50年かかった。恐怖を感じることはなかった。懐かしい風景にさえ思えた。こうして私の人生が、柱時計の針のように進んでいく。逃げられないのだから、真正面から死の渦潮に立ち向かって行こうと思っている。62年の長い時間が、私にやっと諦めなのか覚悟なのかを与えてくれたように思える。
(写真:愛媛県 瀬戸内海 来島の渦潮)

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麻酔

2010年03月19日 | Weblog
 ここは歯科医院。私は扇状に拡がる診察区切りの7番の治療台に仰向けになっている。歯科医が右下の奥歯の周りに塗る麻酔薬を「少し痺れるかもしれません。5,6分お待ち下さい。それから麻酔の注射を打ちます」と言いながら少し乱暴に塗って、違う患者の治療台に急ぎ足で楽屋裏のような回廊を移動していった。

 そのすぐ後に「○○さん」の連呼が始まった。この歯科医院はビルの2,3階が診療区域になっている。ビルは円筒型で真ん中が吹き抜け。吹き抜けのまわりが通路で放射状に仕切られた診察空間が10席あり、他の空間は、受付会計カウンター、レントゲン室、作業室、待合室になっている。治療台は、すべて吹き抜けの方を向いている。治療台の裏は、歯科医、看護師、歯科技工士が移動できるように職員用通路である。その通路をドタドタパタパタと何人もの人が行き交う。緊張が伝わる。この歯科医院には総勢9名の歯科医がいる。2階は、一般歯科、3階は、インプラントと歯周病の専門医と別れている。3階には3名の歯科医がいた。全員○○さんのところに集る。 

 8年前、私が心臓の手術を受けた時、事前にカテーテル検査をした。その時、血圧が急に低下して検査室が大騒ぎになったことを思い出した。私はもう少しで向こうの世界へ旅立つところまでいった。まったく人間の体は、だれのものでも神秘だらけである。いつ何が起こるかわかりはしない。

 再び「○○さん」「○○さ~ん」 「大丈夫ですか~?」と3名の歯科医がかわるがわるに声をかけている。私の塗麻酔薬も効いてきた。いつしか私は○○さんになりかわり、気が遠くなってきたように感じる。「○○さ~ん」が「山本さ~ん」に聞こえた。不思議な時間が経過した。10分、いや15分が過ぎた。どうやら○○さんは気を取り戻したようだ。「○○さん、気がついた?」「はい、じゃあ静かに深呼吸してくださ~い」 7番の治療台で私も、静かに深呼吸をしている。3階全体が緊張のあまり静けさが重苦しくおおっていたが、あちこちで安堵の芽が吹き始めた。もう走り回る職員もいない。全員の耳が○○さんに集って情報収集している。「○○さん。わかりますか?静かに深呼吸を続けて下さい」 ○○さん担当の歯科医師がそこに残り、私担当の歯科医が同僚の歯科医と戻ってくる。小さな声で「血圧が148ありました」「高血圧で内科治療受けてるの?」「いないようです」「内科医のところへ行くように言って」「はい、そうします」 

「山本さん、お待たせしました」 何もなかったようにこの階の責任者でもある歯科医は、私の治療台の脇に腰をおろした。「はい、では麻酔の注射を打ちます」私は、もうすっかり○○さんになりきっていた。全身が固まった。麻酔は恐い、と言うべきだ。そんなこと言える分けない。塗り麻酔で歯茎は痺れ、脳にまで十分効いているようだ。注射針が歯肉に触る感触だけで痛くも痒くもない。「大丈夫ですか?」の歯科医の問いかけが、先ほどの大騒ぎの現場に重複する。一瞬私は、気が遠のくような気分になった。日頃から妻に私ほどムードに浸りきる人間を知らない、と言われている。今回もそうなってしまったようだ。古い奥歯の冠を外して、中を検査治療して型を取った。新しい冠ができるのは、一週間後である。しっかり麻酔が効き、口の痺れが、これを書いている3時間たった今でも残っている。何はともあれ、無事帰宅できてよかった。

 いろいろな国で歯の治療を受けたが、どこの国の歯科医院でも個室診療で他の患者のプライバシーを知るよしもなかった。最近日本でも、このスピーチプライバシー(会話による個人情報保護、侵害防止)問題が取り沙汰されるように、やっとなってきた。医療分野はこの点で最も遅れている。私は、なぜ外国の医者歯医者が完全予約制で個室の中でプライバシーにまで考慮して、それでもなお、ちゃんと高額な収入を得られるのかわからない。一方日本の病院では、2時間待ちの検査1時間、最後に目も合わせないプライバシー保護なしの1分診療で終わる。諸外国の病院でこれだけの数の患者の診療をすれば、大変な収入をあげるだろうが、日本の病院は赤字だという。不可解なことである。

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ルーツ

2010年03月16日 | Weblog

 3月8日月曜日NHKテレビで夜の10時から『世界遺産への招待状:アフリカ奴隷の家』が放送された。私の拙著『ニッポン人?!』の150ページに“喧嘩”を書いて載せた。テレビを観ていて、あの光景がよみがえった。

『ニッポン人?!』から抜粋:『ゴレ島は、私が二年暮らしたセネガルの首都ダカールの沖あい、数キロに浮かぶ島である。かつてポルトガル、オランダ、イギリス、フランスが、軍事力で領有し、奴隷積み出し港として使った要塞の島だ。世界遺産にも指定された。アメリカのテレビドラマ『ルーツ』で、一躍世界にこの島の名が知られた。  日本から客が来ると、私はゴレ島を案内する事にしていた。ダカール港から、二百人乗りのりっぱな渡し船が出ている。船はゴレ島の住民の日常の交通手段としても、利用されている。その日も観光客と住人で、船は満員だった。  出港してまもなくすると、甲板で騒ぎがあり、人だかりができた。私達の席はそのすぐ近くだったので、嫌でも言い合いが耳に入った。それも英語だった。アメリカからの黒人男性観光客と島の若い男が、掴み掛からんばかりに興奮していた。セネガルの若者「アメリカの黒人は皆、奴隷で売られたアフリカのカスだ、ここに来てでかい面するんじゃねーよ」 アメリカ人「何を言うんだ。私たちはなりたくて奴隷になったのではない。先祖は白人奴隷商人に捕まり、売られたのだ」 若者「あんたは歴史を知らないよ。奴隷制度はここに昔からあるんだ。どっちにいたって奴隷は奴隷だ」 アメリカ人(泣いて、拳を上げて)「ヘイリーの『ルーツ』を読んだか」 若者「またクンタ・キンテかよ。自分に都合の好い事しか書いてねーよ」 アメリカ人「君はそれでも黒人か」 若者「アフリカにずっといればだれでも黒人になる。アフリカの太陽から身を守るには、黒い肌が必要なんだ」  勢いは若者にあった。一見、町のアンチャン風だが、いっぱしの論客だ。フランス語が共通言語のセネガルで、これほどのアメリカ英語を話すのは立派だ、と私は感心した。  船がゴレ島の港に着いた。ギラつく強力な日射しの中、人々は何も無かったように、静かに上陸し始めた』

  この番組はセネガルのゴレ島を紹介したものだった。まず番組はナレーターが「ヨーロッパ人が来るまで幸せに暮らしていた~」と始めた。私はこれに疑問を持った。人間は白人だろうが、黒人だろうが、黄色人種だろうが、どんな人間にも善悪の全てを備えている。歴史の検証は、一方の言い分だけでなく、総合的かつ客観的に行われなければならない。被害者意識と加害者としての罪悪感だけで、奴隷問題や日本の戦争責任問題を解決することはできないと思う。

 ゴレ島に観光で訪れる人々は、来る以前からある程度悲劇を期待してしまう。ガイドは、つい受けを狙い、感情的になり過剰な演出をしてしまう。私の本の中で、アメリカの黒人観光客に喧嘩を売ったゴレ島の黒人青年にも彼なりの主張がある。アメリカ嫌いの感情を持っていることも事実である。黒人同士なら理解しあえるというのは、幻想に過ぎない。イスラム教の中にも、キリスト教にも、日本人同士でもあらゆる闘争や論争やいがみ合いは存在する。

 私は、ヨーロッパ人が来る前、セネガルの人々がみな幸せに暮らしていたとは信じない。なぜならセネガルが現在より過去のほうが部族間闘争も食料問題も深刻であった。独立した現在でも、セネガルは、世界の最貧国のひとつである。多くの独立したアフリカの国々で部族同士の凄惨きわまる争いもある。ヨーロッパの白人国家が、アフリカを喰いものにしたことも事実である。現実は、現実として認め、その上でアフリカを考えたい。百聞は一見にしかず、ではあるが、同時に旅は偏見を産み、テレビ番組は混乱を生むこともある。


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耳垢

2010年03月11日 | Weblog
 最近、テレビで医学に関する健康番組が多く放送される。役に立つもあるが、私は、脅迫されているようで不快さを感じることのほうが多い。

 耳鼻科の医師がテレビの健康番組で「耳垢は、耳掃除などしなくても、自然に耳の中の繊毛がネジのように回転して耳垢などの異物を耳孔から出してしまう」と言うのを聞いて思い出した事がある。まだ会社を経営していた30年以上も前、「耳垢がこぼれそうですよ」と女性事務員に言われ、火が出るほど恥ずかしい思いをしたことがある。テレビで耳垢は自然に出てくる、と言った耳鼻科の医師の話を実証していたことになる。私の耳は、ちゃんと機能していたのだ。人体の不思議は、こんな小さな箇所にも見られる。自分は、自分がと、自分のことは、何でもわかっているような口をきき、行動しているが、実は自分のことも自分の体のこともわかっていない。

 離婚して子ども二人、一人を全寮制の高校へ、一人をアメリカの友人に預け、私ひとりで暮らしていた。ともすれば投げやりな生活態度であった。気をつけてはいたが、「男ヤモメにウジがわき、女ヤモメに花が咲く」といわれるように至らぬ点は多々あった。どんなに外見に気を使って、流行のスーツを着、クリーニング屋で洗ってもらいパリパリのワイシャツを着て、ブランドのネクタイで首をしめて、毎日ヒゲを剃っていても、耳の中まで気がまわらなかった。

 「耳垢がこぼれそう!」事件以来綿棒で頻繁に耳を掃除するようになった。竹製や金属性の耳かきを使い、耳の中を傷つけ、耳鼻科へ行ったこともある。耳鼻科の医師は、耳かきは綿棒が一番安全だと教えてくれた。

 耳掃除は、おそらく幼児体験によるものかも知れない。子どものころ、母親に耳掃除をしてもらうのが好きだった。日の当たる縁側で、母親の膝に頭を乗せ、こそばゆさに身をよじらせながら、その気持ち良さに体全体で反応していた。

 歯に関して、歯科医師が「歯磨きは、市販の歯磨きペーストを使うと、口の中に本来ある唾液の殺菌作用や口臭をおさえる機能が低下する。歯磨きをやりすぎは良くない」とあるテレビ番組で言った。これも唾液という人間の持つ素晴らしい機能を紹介している。多くの日本人が、過度に臭いや清潔を気にしすぎている。他人に自分がどう思われているかを意識過ぎるあまりに、人体が持つ自然の力を犠牲にしていることもある。

 私も加齢臭があるに違いない。人間の臭覚は、どんなニオイにも順応する。凄いことだ。ルンペンにハゲはいないそうだ。洗髪をしすぎて、その挙句、ハゲになり、高いカツラで真実を隠すのも、人間の悲劇のひとつではないだろうか。私の髪の毛もずいぶん薄くなってきた。禿げてもカツラを買う気は、ない。何事もやりすぎより、適度でおさえるのがコツのようだ。

 子どもの頃、怪我をしてあちこち傷だらけになり、カサブタにチョッカイを出しては、血をだした。カサブタの下のピンクの新しい皮膚に畏敬の念を抱いた。還暦を過ぎても、子どもの頃の疑問はちっとも解けない。わからないことだらけの体の不思議に、綿棒で、耳の中をコチョコチョしながら感謝する毎日である。

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日本橋高島屋

2010年03月08日 | Weblog
 1月24日の日曜日、東京の友人夫婦に誘われて、伊豆・伊東のサザンクロスゴルフ場で久しぶりにゴルフをやった。快晴で富士山も見えた。相変わらずどうしようもないヘボゴルフであったが、気持ちよく楽しめた。

 月曜日に少し汚れたゴルフズボンを家の近くの白洋舎へ持っていった。白洋舎は、値段は高いが信頼できる仕事をしてくれる。いつものようにカウンターで係りが、念入りに一点一点ボタン、ほつれ、シミ、などを調べてくれた。「お客様、ここがほつれています」とズボンの膝の辺りの内側を指差した。高島屋だけでなく日本の有名デパートでは、商品を店員と客の双方できちんと点検して確認しあうのが普通である。時には内心「そこまでしなくても」と思うこともある。だからこそ客は、デパートでの買い物に信頼をおけるのである。ズボンは裾あげもしたので、店員は点検するチャンスは余計にあった。それでも買って帰った夜、妻がその糸が出ているのをを見つけ「高い割りに仕上がりが雑ね」と嫌味を言われたのを思い出した。ということは、メーカーや店員の点検に手落ちがあったことになる。必ずするはずの商品を渡す前の双方の点検はなかった。返品するにも東京まで出て行く気がしなかったのでそのままにしていた。ここで私が、品物を持って行くか、せめて電話だけでもいれて置けば、今回の事件は起きなかった。悔やまれる。

 白洋舎の店員は「当社でお預かりして洗うと縫い目が開く場合があります。まだ新しいようですが?」「はい、まだ買ったばかりです」「これは、買ったお店に持って行って、お話しされたほうがよろしいかと思いますが」ということで、家にズボンを持ち帰った。過去に縫い目から出ていた糸を無理やり抜いて、ズボンがほつれてしまった経験が何回かあったからだった。

 妻に事情を報告した。「だから買ってきた日に言ったでしょう。ユニクロの1980円のズボンでいいのに無理するから。1980円のズボンなら10本以上買えるでしょう。それに何かあっても捨てたって惜しくないでしょう。これと1980円のズボンのどこが違うの。生地だって縫製だって中国で安く作って、売る店の名前が違うだけじゃない。見得は、最大の浪費よ。馬鹿みたい」 返す言葉がなかった。

 翌日私は、ズボンを持って日本橋の高島屋へ行った。ただの糸くずかもしれないが、白洋舎のおばさんのアドバイスに従い、事をはっきりさせたかった。ほつれるくらいの欠陥ならそれなりの対応をしてもらい、何もなければ安心して白洋舎に出せると思った。それにしても行ったり来たりと手間のかかることだと苦笑した。

 日本橋の高島屋の入り口の近くに案内所があり、その脇に“執事”が座っていた。執事に事の経過を説明した。そしてズボンの糸を見てもらった。「はい、わかりました。では一緒に売り場へ行きましょう」 そう言ってまず売り場の主任にパパス(男性洋品専門会社)の売り場に来るよう電話してくれた。執事に案内されて5階のパパスへ行った。執事が糸の箇所を示し、「今、ここのフロアの責任者が来るので、対応して下さい」とパパスの女性店員に言って戻った。しばらく店員と私のふたりだけになった。

 やがて責任者らしい若い男性がやってきた。名刺を出し自分がこのフロアの責任者だと自己紹介した。私は、ズボンを広げ糸のほつれを捜した。ない。どんなに眼を皿のように探しても糸がない。最初「知らない」としらばくれていたが、ついに女性店員が「糸は私が抜きました」と言った。私は「やられた」と内心思った。証拠隠滅。これではミステリー小説だ。糸が消えた。パパスの女性店員の態度は悪かった。「糸を捜せない」と売り場の主任に告げた。店員は、何より空気が読めていないし、失礼である。このままここにいても、「あった、ない。言った、言わない。やった、やらない。聞いた、聞かない」となる。私は、パパスを出た。このようなケースでは、最高責任者の店長に事の詳細を手紙で説明して、今後の店員教育に役立ててもらうに限ると判断した。ズボンに未練はなかった。自分の日本のデフレを食い止めよう、デパートを支えようなんていう、お節介と思い上がりが恥ずかしくなった。気に入った信頼できる会社の商品を少し高くても買えば、結局そのほうが得だと信じていた。信用は、築くのに長い時間がかかるが、失うのは一瞬である。白洋舎の店員も信用を支えようとああ言ってくれたに違いない。

 後日、私は事の顛末を日本橋高島屋の店長あてに手紙を書いた。しかし店長から直接の返信はなかった。金を返せ、謝れ、どうこうしろと総会屋まがいの脅しではない。受け取った信書に受取人の名で返信するのは、最低のマナーだと思う。この対応に正直がっかりした。この体勢では、あのような店員がいても不思議はない。替わりに紳士服売り場のフロアマネジャーから「ズボンをお預かりしています」と返信があった。私はズボンを預けていない。失礼があったので、ズボンを受け取ることを拒否したのである。私の真意は、日本橋高島屋には通じなかったようである。

 京大名誉教授で数学者の森毅さんが以前「50歳過ぎたら謝るのが仕事と思えばよい」と何かに書いていた。森さんは、社会的に責任を持つようになったら、その責任下にいる子ども、社員、部下、生徒の不始末を謝罪することが大切な仕事であると言っているのだと思う。それが教育でもある。そう自覚している。“長”のつく責任者が少なくなってきている。もつれ、からまった問題を解決する方法は、冷静に話し合い、非は詫び、糺すべきは、糺すことだと私は思う。世の中の仕組みや約束ごとが崩れてきているのかと心配だ。

 高いレッスン料であったが、大変良い勉強をさせてもらった。これからは売り手、買い手両方のために、商品を受け取る時、お金を受け取る時、入念な確認検査をする決意をした。油断のならない人間社会である。

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てっちゃん

2010年03月03日 | Weblog
 てっちゃんが死んだ。2月26日のことである。中学校に入学して一番早く仲良くなったのがてっちゃんだった。私は西小学校から三中に入学し、てっちゃんは北小学校からだった。てっちゃんはお母さんを亡くしたばかりだった。母を亡くしたことにおいては、私が先輩だった。てっちゃんはお母さんの妹さんが継母として来て、何となくしっくりいかないと悩んでいた。どこからこういう話になったのかは、覚えていない。

 しかし私も4歳で母親が死に、数年間東京と直江津の親戚に預けられた。母親の妹が継母として家に来た。幼い妹2人はすぐ「かあちゃん」と言えた。でも姉と私は、どうしても「かあちゃんは死んじゃった。かあちゃんは二人いない」と「おばちゃん」と呼んでいた。てっちゃんにそのことを話した。てっちゃんは涙をこぶしでぬぐってた。

 それからてっちゃんとよく遊ぶようになった。てっちゃんの家にも行った。ごはんもよく食べさせてもらった。きれいでやさしい新しいお母さんだった。てっちゃんは鉱石ラジオを自分で作るほど機械いじりや理科数学が得意だった。

 私の家ではアンゴラウサギをたくさん飼っていた。餌の草取りは私の仕事だった。てっちゃんは手伝ってくれた。刈り取った草を麻袋2つにギュウギュウ詰めにして担いだ。家までけっこう距離があった。帰り道、てっちゃんの得意技の水の一気飲みをよくやって見せてくれた。水道の蛇口の下に顔を入れ、蛇口の真下に口を上に向け、ほとばしる水を飲み続ける。長い時間続ける。そして胃が水でパンパンになり、腹をゆすって胃の中の水がチャボンチャボンと音を立てる。私には到底できない芸当だった。

 やがて同じ高校の入試を受けた。発表の日、二人で見に行った。二人の番号が並んで記載されていた。二人でお祝いをすることにした。日昌亭に入った。そこは焼きソバが有名な店だった。二人のお金を合わせて、メニューの中の一番高いものを食べて、合格を祝うことにした。“あげわんたん”が一番高かった。あげわんたんがどういうものなのかも知らずに「あげわんたん2つ」と声を合わせて注文した。調理場からおじさんが出てきて「本当にあげわんたんでいいの?」と聞いた。私たち二人は顔を見合わせて同時にお金をおじさんに見せた。二人が考えたのは、おじさんは私たちが一番高い品を注文したので払えるかどうか心配になって「本当にいいの?」と聞かれたと決め付けていた。おじさんは「いいならいいんだよ」とわけのわからない事を言って調理場に戻って行った。

 やがて大きな皿の上にポテトチップのような油であげたワンタンが山のように盛り付けられて出てきた。これがあげわんたん! 二人でバリバリ音を立てて「美味しいね」と大見得をきって高校合格を祝った。あの日何をどう食べても旨かったと思う。

 おかげで以後てっちゃんに会えばあげわんたんの話で盛り上がった。高校2年生が終わった時、私はカナダの高校へ転校した。てっちゃんは、その後苦手の英語を猛勉強してストレートで東京工業大学に合格した。 もうあげわんたんの話をする相手がいなくなった。3月4日午前10時からの告別式に行く。合掌。

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