団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

訓辞・碑文

2017年02月25日 | Weblog

お詫び:2月28日投稿分を都合により本日に変更しました。

①  鎌倉 円覚寺 北条時宗公御廟所 掲示板

高い積りで低いのが教養
低い積りで高いのが気位
深い積りで浅いのが知識
浅い積りで深いのが欲望
厚い積りで薄いのが人情
薄い積りで厚いのが面皮
強い積りで弱いのが根性
弱い積りで強いのが自我
多い積りで少ないのが分別
少ない積りで多いのが無駄
いくら立派と言われる資格をもっていても
教養がともなわなければ半人前
教養の基本は気配り目配り手配り

②  アメリカ ニューヨーク 自由の女神 台座の詩 

Give me your tired,
your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these,
the homeless,
tempest-tossed to me,
I lift my lamp beside the golden door!”
Emma Lazarus, 1883

疲れ果て、
貧しさにあえぎ、
自由の息吹を求める群衆を、
私に与えたまえ。
人生の高波に揉まれ、拒まれ続ける哀れな人々を。
戻る祖国なく、
動乱に弄ばれた人々を、
私のもとに送りたまえ。
私は希望の灯を掲げて照らそう、
自由の国はここなのだと。
エマ・ラザラス(意訳 青山沙羅)

③  哲学者 池田晶子がイタリアで見たという 墓碑銘「次はお前だ」 

 

①  私はここに書かれている教養というものを身に着けようと今日まで生きてきた。まだまだ道半ばであるが、気持ちは変わらない。これからも気配り目配り手配りできる教養を目指していく。私の人間関係も気配り目配り手配りを基本としている。どんな学歴、地位にある人でもこの基準を満たさない人とは付き合わないようにしている。いまのところそのお陰で数は少ないが、良い友人たちに恵まれている。

②  トランプ新大統領になってアメリカは、難民受け入れや不法滞在に厳しくなっている。日本人が合法的にアメリカに移民するには、約2000人の割り当て移民枠に厳しい審査を経て入らなければならない。アメリカは日本を同盟国だと言うが、この数はそれを否定しているように私には思える。1986年の統計によれば、アジア全体の割り当て数は11万9千6百人の中で日本はもっとも少ない。割り当て移民の他に非割り当て移民があり、すでにアメリカの市民権を持つ人なら2親等までの家族親戚を呼び寄せることができる。難民や不法滞在はこの合法的移民には含まれない。アメリカは移民の国である。自由の女神の台座の詩が謳う精神がただ運よく先に取得した人々によって変えられてしまうのは残念である。私がカナダの学校から3日かけて大陸を友人たちと車で横断してニューヨークで初めて自由の女神の台座の詩を読んだ。あの時、アメリカという国がどういう国なのか理解できた気がした。憧れた。無制限に難民を受け入れることができなくても、正当な理由がある難民にとって最後の希望であってほしい。密入国や不正滞在は、法で判断するしかない。

③  「次はお前だ」の墓碑銘をイタリアで直接自分の目で見たわけではない。哲学者の故池田昌子がどこかに書いていたのを読んだ。実際に池田がその墓碑銘を見たのかも定かでない。仮定かもしれない。それはどうでもいい。「次はお前だ」は私の心を鷲づかみにした。何と強烈。私はできればこの言葉を避けたい。だが逃げないことにした。落ち込んだ時は、自らこの言葉に面と向き合う。そして考える。時が経つにつれて「次はお前だ」は、最初ほどの刺々しさが薄れてきた。たった5文字の言葉が私を深い考えに沈める。私はその時間を大切にしている。

 


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果物・フルーツ

2017年02月24日 | Weblog

①    イチゴ

②    パパイアソロ

③    マルダハマンゴ

①    ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史 (上下巻)』【河出書房新社刊各1900円+税】を読んでいる。まるで人間(サピエンス)の歴史を天空から俯瞰してみているような感覚になる。その中で果物について触れていた。人間がまだ狩猟生活をしていた時、美味しそうなイチジクを見つけると人々は、むさぼり食べた。ある時に食べられるだけ食べるしかなかった。乾燥させて保存することも、現代のように冷蔵保存冷凍保存もできなかった。私の子どもの頃とあまり違いがなかった気がする。私はイチゴが果物の中で一番好きだ。父親が家の庭にいろいろな果物の木や苗を植えた。イチゴが赤くなって父親の許可が出るまで毎日頼まれもしないのに見張った。当時店でイチゴを売っていたのを見たことがなかった。母親が採れたイチゴをきれいにして練乳をかけてくれた。練乳をつけてもつけなくてもイチゴの甘酸っぱさが私をとても満足させた。毎年イチゴが実をつけるのを楽しみに待った。長い時間待って、やっと口にして、その味に満足したという経験が私をイチゴ好きにしたのだろう。10代後半でカナダへ行き、学校の友人のつてでバンクーバーのイチゴ農家で収穫のアルバイトをした。一日でクビになった。作業中に相当な数のイチゴを食べたのが辞めさせられた理由だった。先日遊びに来た孫がイチゴ好きだと言うので食べ放題のイチゴ農園へ一緒に行った。3歳以上30分間食べ放題でひとり1900円だった。私はとてもイチゴだけをそんなにたくさん食べられる自信がない。外で待った。孫一家は練乳をお替りするほど食べたという。若さをまぶしく感じた。

②    アフリカのセネガルもトロピカルフルーツがたくさんあった。ダカールの市場へ買い出しに行くのは私の大事な日課だった。一年中フルーツが出回っていた。中でもパパイアソロは私をとりこにさせた。普通パパイアは黄色か橙色である。パパイアソロはサーモンピンク色である。甘さも上品で香りも良い。ところが見た目、外側はみな同じ色形なのだ。市場へ行くとパパイア売りはたくさんいる。私「パパイアソロ?」 売り子「ウイウイ、パパイアソロ、セ ボン」 売り手は皆パパイアソロというが、家に帰って切ると8,9割が普通のパパイアだった。やがて正直な中年男性のパパイア売りに出会った。彼は時々しか市場に売りに来なかった。彼がパパイアソロと言ってそうでなかったことは一度もなかった。二つに切って種を取り除き、そこへたっぷりレモン汁をかけスプーンで掬って口に運ぶ。至福の瞬間。

③    ネパールでマルダハマンゴを初めて市場で見かけた時、何で未熟なこんなマンゴ売ってるのと、買う気はまったくわかなかった。しかしマルダハマンゴは緑色のマンゴなのだ。友人がそう教えてくれたのは市場から消えてからだった。結局1年待つことになった。この1年は悔やまれる。それでも2シーズン楽しめた。とにかく美味い。セネガルにもマンゴはあったが、ネパールのマルダハマンゴが最高だった。

 現在の人類はアフリカから地球上に拡がったと言われている。私はかつてそれが不思議でならなかった。しかし『サピエンス全史』を読んで理解できるようになったと勝手に思い込んでいる。狩猟生活をしていた人々は、この先へ行けばもっと美味い果物や食物があるのではの期待に後押しされて、未踏の地を突き進んだのだろう。気が遠くなるような長い時間、あらゆる困難をも挑戦する回数と人数と偶然の組み合わせで乗り越えてきたに違いない。2月23日(木)にアメリカ航空宇宙局(NASA)は「地球から約39光年(1光年は約9兆4600億キロメートル)先の宇宙で、生命が存在する可能性のある惑星が七個も見つかった。すべての惑星の表面に液体の水が存在する可能性があり、一部には海があるかもしれない。質量やサイズは地球と同じぐらいで生命が存在する可能性もある」と発表した。山口百恵の『さよならの向こう側』(作詞 阿木耀子 作曲 宇崎竜童)の出だしに♪何億光年輝く星にも寿命があると~♪を聞いたとき、百恵さんの美しさと何億光年という脳が破裂してしまいそうな時間に圧倒された。NASAが発見を発表した39光年先がすぐそこに感じる。はたしてその七つの惑星にも美味い果物が存在するのかと食いしん坊は、朝食のヨーグルトの中に置かれた大きなイチゴ見て想いを馳せる。


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デパート 百貨店

2017年02月22日 | Weblog

①    ロンドン ハロッズ

②    横浜 そごう

③    上田 ほていや

①    ロンドンのハロッズは、ジェフリー・アーチャーの小説『チェルシー・テラスへの道』の舞台になったと言われる。私が初めてロンドンのハロッズへ行ったのは、妻が英国へ留学した時だった。店そのもの建物、内装、商品陳列、にも感心したが、店員の客対応に驚嘆した。商品知識がロンドンのタクシー運転手がロンドン中の道路に精通しているのと同じくらい豊かで専門的だった。店員の心の中は読めないが、ヨーロッパのどこでも感じる白人以外の者への上から目線を感じなかった。内心、彼らは我慢しているのかと猜疑心を持つが、権威ある対応にイチコロになってしまう。彼らの客対応の原点は「この商品を理解して買ってくれるなら、客の人種、宗教、肌の色、外見と財布の中身は、関係ない」であるようだった。食品売り場、文房具売り場、家具売り場、食器売り場、どこも夢のような空間であった。日本の多くのデパートは現在凋落の一途をたどっている。店員の表情態度にも覇気がない。昨日の経済指標でも前年度の売り上げの減少が発表された。日本のデパートでは店員は、まず客の品定めをする。デパートで優遇されるのは、外商を通す客だけだ。店に来る客には心のこもらないマニュアル式で対応する。試しにデパートの入り口に設けられた案内所へ行ってみるがいい。特に横浜高島屋の案内女性は、あからさまに見た目や身なりで態度が変わる。あれではデパートの凋落は、止められない。商人ではない。せいぜい『チェルシー・テラスへの道』を精読して、客商売のイロハを学び直おしたらどうだろう。私は自分の見た目が、けして彼女たちのお目に適うとは思わないが、デパート好きで結構な買い物をする爺さんであることは自負している。

②    高島屋のローズサークルに入会して毎月積み立てると1年後に1ヵ月分の掛け金が加算されたカードを受け取れる。今時これだけの金利は、銀行預金ではつかない。これに魅かれてローズサークルに入っている。しかし私は横浜そごうの方が好きだ。店員に大差はないが品揃えと出店している店に良いものが多い。案内所の対応も高島屋よりはマシである。

③    生まれて初めてエスカレーターという動く階段に乗ったのは、上田にただ一軒のデパート『ほていや』だった。友達と一緒にエスカレーターに乗るためだけに出かけた。記念すべき第一歩を折りたたまれた板に置いた。文明開化の鐘が頭の中で鳴り響いた。折りたたまれて平だった板の次の板が垂直に折れ階段状になり上の階に近づくと再び私が立っていた板の次の板が平行に戻り吸い込まれていく。この動きが魔法のようだった。何回も謎を解き明かそうと上り下りを繰り返した。エスカレーターを設置できるデパートという存在が『ジャックと豆の木』の豆の木のように天高く感じた。あこがれた。デパート好きになる予感があった。これと同じ光景をネパールのカトマンズのスーパーにネパールで初めてエスカレーターが設置された時見た。多くのネパール人客が、10代だった私と同じ表情でエスカレーターに乗っていた。その“ほていや”もすでにない。

 栄枯盛衰。永遠に繁栄を続けられる組織形態はないだろう。私が生きてきたこの70年の間でも多くの企業、店が消えた。デパートの凋落は、止まりそうにない。デパートへ実際に買い物に行って、店員の商品知識のなさ、プロ意識の欠乏、客扱いの下手さに愕然とする。経営悪化の影響による正社員の雇用減少とパート派遣の増加。これでは店員教育がおろそかになって当たり前である。ジリ貧の悪の渦巻きは勢いを増すばかりか。武田信玄は『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、あだは敵』と言った。『人』を店員に置き換えて、捲土重来を期して欲しいものである。特に案内の女性には『情けは味方、あだは敵』を忘れないでいただきたい。


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お気に入りの家具

2017年02月20日 | Weblog

①    フランスベッド ウォーターベッド

②    ベオグラード 喫茶店『?(はてな)』 樫の木のテーブルとイス

③    横浜 ダニエル ライティングデスク

 ①    ウォーターベッドを使い始めて35年経った。昨夜もそのベッドで就寝した。そして今朝目を覚ましたのもそのベッドである。私は30歳ころからひどい腰痛に悩まされた。東京の大学を出て親が経営する家具店で働き始めて教え子が、ある日挨拶に来た。私が腰痛で悩んでいると言うと彼はウォーターベッドを勧めた。高価な買い物だったが、腰痛を軽減できればと清水の舞台から飛び降りたつもりで購入した。最初は慣れていないせいか、寝ていて船酔いのような気分になって安眠どころか寝不足になった。しかし1ヵ月が過ぎたころから腰痛がなくなった。それからずっとウォーターベッドを今日まで使っている。数年に一度、7本のビニール製のシリンダーの水を取り替え防腐剤の投入が厄介だったが、腰痛の苦しさを思えば我慢できた。やがて離婚後13年間の男やもめ生活に終止符を打って再婚した。それからもウォーターベッドを使い続けた。妻も最初気分が悪いと言っていたが、やがて慣れた。妻が海外勤務についた11年間の4ヵ国の勤務地にもウォーターベッドを持ちこんだ。ウォーターベッドは実に引っ越しに便利な家具なのである。ベッドの木枠は4片に分解できシリンダーの水を抜けばシリンダーは小さく折りたためてしまう。最後の任地となったロシアのサハリンへはさすがに持って行かなかった。寒冷地なのでもしもベッドのシリンダーの水が凍ったらと思ったからだった。このサハリンでの数年を除けば私たち夫婦は家では必ずこのベッドに寝ている。さすがにこんなに長年使い続けてくると、ビニール製のシリンダーがいつ水漏れを起こすかと不安になる。私は妻に再三新しい普通のベッドを買おうと提案するのだが、妻は首を縦に振らない。私より妻の方がウォーターベッドを気に入っているのか、ただのケチなのか定かではない。

②    旧ユーゴスラビアのベオグラードにお気に入りの喫茶店があった。店名は「?」である。日本人はその店を「はてな」と呼ぶ。この店のテーブルとイスは100年を超す古いものだ。ある時店主に冗談でテーブルとイスを売ってほしいと尋ねた。店主は即座に断った。私は友人にあれと同じテーブルとイスを作ってくれる家具職人を探してもらい注文した。そのテーブルとイスが我が家のベランダにある。

③    横浜元町に「ダニエル」という家具屋がある。私はダニエルのライティングデスクを45年以上使っている。

  家具を選ぶのは難しい。一人で使うのと夫婦二人、家族で使うのは、また違う。家具は高価なものが多い。高ければいいというわけでもない。長く使えば使うほど愛着がわく家具が我が家にもあるのが嬉しい。ソファ、机、ダイニングテーブルなど家具は、けっこうあるが、愛着を感じる家具はそうはない。せいぜい大切に使っていきたい。


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群生する黄色、青、黒い草花

2017年02月16日 | Weblog

①    カタバミ

②    オオイヌノフグリ

③    クロユリ

①    2002年2月私は心臓バイパス手術を受けた。人工心肺装置を作動させ、私の心臓と肺が止められた。私は麻酔で眠っていた。長い手術時間、私はずっと花畑にいた。ユーゴスラビアの画家タピの作品に『FIELD OF HAPPINESS』がある。タピはチュニジアのオリーブ畑を描いた。そのチュニジアに私は3年間暮らした。オリーブ畑。整然とオリーブの木が並んでいる。そのオリーブの木の下は、黄色い花が一面に咲いている。タピの絵と私がチュニジアで見た景色が重なる。オリーブの木々と黄色い花。人がいない。動物も虫もいない。何も動かない。音もない。明るいけれど太陽は出ていない。静かな静かな世界。それは私の目から見えているらしく、私自身もそこに登場しなかった。私は穏やかな気持ちでずっと静止画の中にいた。私が麻酔から覚めて現実の世界に戻ったのは、翌日の朝だった。妻と二人の子どもたちがベッドの脇にいた。後で聞いた話では、手術が終わってICU(集中治療室)に運ばれそこで家族に会ったという。妻の「大丈夫?」の問いかけに、私は目を開けて、うなずいたという。その時はまだ口から肺へチューブが通されていた。目から涙がこぼれ落ちたそうだが、私に記憶はない。覚えているのはオリーブ畑の黄色い花とICUで朝、食べた手術後初めて口にした山菜そばのことだけである。黄色い花はカタバミの花だと後で知った。

②    寺が経営する西保育園へ通った。保育園からの帰り道はコーちゃんと美津子ちゃんの3人で矢出沢川の土手の上の道を使った。コーちゃんを家まで送った。コーちゃんは障害がある子だった。美津子ちゃんはコーちゃんと私より1つ年上だった。美津子ちゃんの家は私の家の近くだった。コーちゃんを送った後、二人で道草しながら帰った。土手に花畑のように青い細かな花がびっしり咲いていた。ところどころにカンゾウの芽が出ていた。美津子ちゃんは青い花が好きと言った。私はカンゾウの芽の方が好きだったけれどそれは言わなかった。青い花を摘んで美津子ちゃんにあげた。そして言った「美津子ちゃん僕と結婚しよう」と。美津子ちゃんが笑った。それからしばらくして美津子ちゃんは卒園して小学校へ行った。その後会うことはなかった。ずっと後で青い花の名が“オオイヌノフグリ”というとんでもない名であることを知った。

③    2003年から妻の任地はロシアのサハリンに移った。そこで拙著『サハリン 旅の始まり』の主人公リンさんに会った。ある日リンさんが私に尋ねた。「クロユリ見たいですか?クロユリは私が大好きな花です」 私は「はい、見たいです」と答えた。次の日リンさんは、悪路を数時間運転してクロユリの群生地へ連れて行ってくれた。リンさんは、地面に横たわりクロユリの花を優しくもたげ、鼻を近づけた。私はリンさんのその姿に見惚れていた。

 他にもテキサスのブルーボンネット、旧ユーゴスラビアの赤いケシ、ハンガリーのヒマワリ畑、セネガルのゴルフ場に数日だけ一斉に開花する名も知らぬ赤い花などが心に残っている。群生する草花は、一つでもそれなりにきれいである。それが群生するとそのまとまった美しさ力強さ勢いに圧倒される。人間も同じだと思う。一人では、できないことでも、家族、仲間、国などの集合体になれば、大きな力となる。しかし人間には常に権力闘争が付きまとう。権力を握った者に間違った方向に引きずりまわされるのはご免こうむりたい。それを防げるのは、まず個々の責任である。アメリカ、IS、北朝鮮、東芝、東京都、本来美しく咲いているはずの花々の中に、それを枯らし滅ぼそうとする強力な外来種のようなものが入り込んできている。危機が迫る。花々を守るには、原因を除去するしかない。①も②も③も自然の中で淘汰されて私にその美しい光景を見せてくれた。群生の花の力を私たち人間も、あやかりたいものである。


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医者の言葉

2017年02月14日 | Weblog

①  「胃を切除する必要はありません」高校生の時、セカンドオピニオンをしてくれた個人医院宮下内科医

②  「もう大丈夫。あなたが心臓の病気で死ぬことはありませんよ」糖尿病により合併症で狭心症の最初のバイパス手術が失敗して、再手術をしてくれた細川心臓外科医

③  「一日1万歩と摂取カロリー1800を6日頑張って7日目に一食好きなものを褒美として食べてもいいです」糖尿病教育入院で指導してくれた朔医師

①    2月になって皮膚科にかかった。右脚の大腿部の裏側にイボが2つできそれらが大きくなってきたので診てもらった。医師はイボを診て言った。「水イボです。大人の水イボは珍しいな。HIVか梅毒かな」 私は耳を疑った。このところ天使のように清らかな禁欲生活を送っている。医師の一言は、患者に無限大の想像力を働かせることになる。高校受験の中学3年生の時、受験日が迫ってきた冬休み直前、私は肝機能障害で体が動かなくなってしまった。緊急入院した病院が悪かった。何とか高校には合格したものの、その病院の医師の言葉に従って病院から高校に通った。入退院を繰り返した。数か月後、その医師は私を胃潰瘍と診断して胃を全摘すると言い出した。父親が心配して市内の個人開業医に相談した。快くその医師は私を診察検査してくれた。そして①の言葉を笑顔で述べた。もしあの時父親が今でいうセカンドオピニオンを求めなかったら、今の私はまったく違った人生を歩んでいたか、すでに死んでいたかもしれない。

②    私は妻の第4番目の海外勤務地チュニジアで現地の病院で「狭心症」と診断された。現地の医師は、バイパス手術ができるのでチュニジアでの手術を勧めた。しかし妻は日本での手術を受けるよう私を説得した。私だけ単身で帰国した。日本の病院での診断も手術を要するであった。ところが運悪く病院の手術室の改修工事で手術は3か月待たなければならなかった。待って受けた手術は失敗だった。3本つけたバイパスのうち左太ももから移植した2本は機能せず、内胸動脈の1本だけが残った。ところがその1本もクランク状に曲がり血液の流れに支障が生じてしまった。手術の失敗は、私に大きな負担となり、死も覚悟した。しかし妻が手を尽くしてある病院を探してくれた。そこで私は細川医師のカテーテル手術を受けた。手術前の説明でクランクを修正する時、カテーテルの先端が血管を突き抜ける可能性があり、危険なことを知らされた。細川先生はクランクをまっすぐに治してくれた。まっすぐになったバイパスに血液が正常に流れている私の心臓の録画映像を見せながら細川先生が言った言葉に私も妻も涙した。

③    私の糖尿病を見つけてくれたのは妻である。妻が勤務医として働いた病院の糖尿病教育入院への参加を勧めて手続きをしてくれた。2週間で体重が減った。教育入院によって私は一生糖尿病と共存しなければならないことを知らされた。朔医師の講義は勉強になった。

 医者の言葉は、診察、治療、投薬、手術以上に患者に効く。言葉は、人を生かしも殺しもする。私の妻は、私のホームドクターとしても妻としても、この23年間毎日私の健康を見守ってくれている。妻の助けがなかったならば、私の命はもうずっと以前にこと切れていたであろう。妻のためにもう少し生きて恩返しをできたらと願っている。


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築地市場

2017年02月10日 | Weblog

築地市場

①  日本 築地市場

②  セネガル ダカールの市場

③  ロシア サハリン ユジノサハリンスクの市場

 私は外国へ行くと市場と動物園を訪れる。市場と動物園はその国や都市の生活をもっとも肌で感じられる場所だと思う。日本の商業形態は、個人消費→交換・略奪→市→店→大規模小売店→ショッピングモールと形を変えてきた。今では多くの個人商店が集まる通りは、シャッター街と呼ばれ廃業店舗が並ぶ。妻の海外勤務に同行した。妻の最初の任地は、ネパールだった。商社員や在留邦人から「あなたはここで何をしているのですか」とよく尋ねられた。私は仕事を持たない男がいかに見下されるかを実体験した。妻が働き、夫が付いて歩いている。ひきこもりになって当たり前の冷たい世間に負けそうだった。妻は励ましてくれた。同胞である日本人に卑下嘲笑されながら時間が過ぎた。ネパールでの生活は日本での恵まれたものではなかった。停電、断水は毎日。私がやらなければいけないことはたくさんあった。水は直接飲料にならなかった。濾過器で3回濾過してから煮沸消毒した。毎日の日課となった。人間は水がなければ、生きていられない。電気がなくても生きられる。停電になると、プロパンガス、炭のコンロを使った。プロパンガスも大雨などで買えなくなることもあった。人間は食べなければならない。食料の調達は私の大事な仕事だった。生鮮食料品は毎日市場へ買い出しに行く。日本とは衛生状況が異なり、夫婦が健康に過ごすには自分たちで安心できる環境を維持するしかなかった。私はネパールで明確に自分の立場を自覚した。その後妻はセネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアと転勤した。私は各地で市場を巡り日々食料を調達した。やがてその生活を楽しめるまでになった。

①    築地市場が豊洲へ移転するかどうかでもめている。築地はいまや海外からの観光客が押し寄せる観光名所である。築地の場外市場は、まさにどこの国にもある市場の様を呈している。市場は本来、自然集合し発達を遂げる。どうしてもカオスが付きまとう。以前小説を書くために築地へ取材に通った。取材に応じた業者の多くは、東京都が築地市場を管理運営していて、市場長は絶大な権力を握っている話を聞かせてくれた。貢物が半端でないとも聞いた。つまり自然体でカオスの中から一定の形を持つ市場でなく、役所役人が深く入り込んで管理運営する結果、今回のような豊洲へ移転できない問題は起こった。本来市場自体がカオスなのに、役所役人の方がカオスになっている。私は今のままの場所で築地市場が存続してほしいと願っている。

②    セネガルの市場でたくさんの知り合いができた。クレソンを売るおばさん、パパイアソロとマンゴを売るおじさん、漁で片手を失ったロブスター売りのおじいさん。陽気で人の好い商売人だった。

③    サハリンの冬の屋外市場の商品がすべてコチンコチンに凍っている。そんな中でたくましく今も同じように働く人たちの姿が目に浮かぶ。


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富士山

2017年02月08日 | Weblog

富士山

①    カナダ留学を終えて客船キャンベラ号から見た富士山

②    妻の海外勤務中、日本へ一時帰国した時、飛行機の窓から見た富士山

③    子供の頃、遠足で登った長野県の山の頂上から見た小さな小さな富士山

①    カナダ留学中、まわりのカナダ人やアメリカ人は、日本のことをほとんど知らなかった。私たちが日本で外国人を見ると「This is a pen.」と言っていたのと同様「Fujiyama,Geisha ,Harakiri」とよく言われた。カナダへ渡る前に私は富士山を近くでまともに見たことがなかった。だから日本に来たことがない外国人に富士山のことを聞かれても答えに窮した。「富士山の頂上から日本全部を見渡せるって本当」と質問されあきれた。カナダにいた時、私は富士山の絵葉書を持ち歩いていた。その絵葉書の富士山が私の脳裏にこびりつくように残った。カナダから日本へ戻る時、私はバンクーバーから英国船籍の『キャンベラ号』を選んだ。飛行機代と船代はほとんど同額だった。キャンベラ号は、バンクーバー、サンフランシスコ、ホノルル経由で横浜まで約2週間かかる。一番安いクラスの乗客になった。食事代込みでサンフランシスコ、ホノルルで観光もできた。船酔いがひどく、最初の頃はほとんどベッドから頭をあげることさえできなかった。太平洋を半分来たころからやっと船に慣れた。横浜に到着する前夜、「明日の朝、日の出とともに、天気が良いので富士山が見えます。早起きしてどうぞご覧ください」と船内放送された。私はカナダでずっと持ち歩いていた絵葉書を思い出した。横浜で降りる客のためのパーティが終わった後、部屋に戻らずそのまま私はデッキで夜明けを待つことにした。船のボーイが毛布をたくさん持ってきてくれた。毛布を体に何枚もまいて夜空の星を見た。カナダでの思い出が浮かんでは消えた。夜が明け始めた。日本の陸地のシルエット。そして富士山。「帰って来た。日本へ帰って来た」 富士山がシルエットからカラー絵葉書のように姿を変えてくる。私のまわりにたくさんの乗客が集まってきた。朝日の光が人々の顔を赤く染めた。その何人もの頬に光る涙が見られた。私も涙をぬぐった。

②    13年間の妻の海外勤務に同行していた時、帰国休暇などで日本へは十数回戻った。飛行機会社によっては、「窓から富士山が綺麗に見えます」などと案内してくれ飛行機の飛行角度を変えたり、旋回してくれることがあった。長く日本を離れていて帰国する時、上空から見る富士山は、まるで「お帰りなさい」と言ってくれるようで嬉しいものだ。

③    高校2年生で日本を離れる前、私は富士山を近くで見たことがなかった。小学校の遠足で登った太郎山という1600メートル級の山から見た一回だけだった。小さな小さな富士山だった。それでもクラス全員が大喜びした。家に帰って親に「富士山見えた」と報告した。

  富士山に似た山は世界にも日本にもある。でも富士山は有名すぎる山である。日本で世界で人々は、富士山を語り継いでそのイメージは拡散している。富士山を実際に見ると、人それぞれ感じ方が違う。それでいい。現在私が住む町から富士山は見られない。しかし車で30分も行けば、大きな大きな富士山を見ることができる。富士山の近くに住んでいることが、今日本に戻ってきているという安堵と喜びを私に与えてくれている。もうここから外に出ないぞ。


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英語の学び方

2017年02月06日 | Weblog

英語の学び方

①    エコーで学べ

②    只管朗読

③    英英辞書

①  私はラジオが好きで毎日聴いている。民放ラジオはコマーシャルが耳障りである。ニッポン放送に好きな番組が多い。好きな番組のスポンサーに限って嫌いな会社のコマーシャルなのが気にくわない。特に“過払い金”と“聞くだけの英会話”のコマーシャルは耳をふさぎたくなる。過払い金の司法事務所はニッポン放送をほぼ手中に収めたようで朝から晩まであの手この手でコマーシャルを流し続けている。“聞くだけの英会話”ではないけれど、同じコマーシャルを聴かされ続けると、否が応でも忌み嫌う過払い金コマーシャルの司法事務所名、陳腐なセリフ、電話番号、営業時間まで頭に残ってしまう。私は英語を学んでいて、私の英語という場合、話せて聞ける実用英語だが、エコー方式に気が付いた。カナダの学校の授業で初めて会得した方法である。その後このエコー方式を使うことで飛躍的に英語の理解力が高まった。耳に入る英語を私は頭の中で聞いたままに繰り返す。繰り返しながら英語を追いかける。声を出すことはない。声を出したら、おそらくエコーのように素早く繰り返すことは不可能であろう。繰り返すことができるようになれば、意味がわからなくても音が脳に蓄積されていくようだ。次に同じ表現に接した時、「これ聞いたことある」が脳に快い反応を生む。授業、講義、教会での説教、映画、テレビ、会話、私はすべての耳に入る英語に対してエコー方式に追いかけるようになった。

②  中学の英語教科書を仏教僧侶がお経を唱えるように大きな声を出して読む。ただ“聞くだけの英会話”と違うのは、自分の声を出して、それを聞くという手順が違う。わざわざ高いお金を払うことなく、自前でできる。これも結局はエコー方式の訓練になる。只管朗読を推奨したのは、日本の英語教育で大きな功績を残し、同時通訳のさきがけとして活躍した國弘正雄である。「音読が全て。意味の分かった英文を繰り返し音読し、書き写すことが英語習得に最も効果的だ」参考図書:「英語の話し方―同時通訳者の提言」サイマル出版

③  “聞くだけの英会話”だけでは英語は話せるようにも聞けるようにも読めるようにもならない。最後は語彙力である。語彙力をつけるには、日本の中学英語レベルの単語力で解説する英英辞書を読むことだ。私はLongman Junior English Dictionary A W Frisby著を使った。この辞書を読むことで、どんな難しい言葉でも中学英語レベルの単語で解説できるようになれる。

  日本人は外国語習得が不得手だと言われる。そんなことは決してない。その言葉が話されている地に暮らし、その地の人々と働いていれば、日常会話は習得できる。それができなければ、個人のやる気と集中力と継続しか方法はない。楽な方法を探し求めるのではなくて、藤沢周平の息子の机の貼り紙の「椅子にいかにじっと坐って居られるかが勝負である」が実践できるかどうかである。学問に王道なし。外国語習得にも近道はなかった。


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ラーメン

2017年02月02日 | Weblog

ラーメン

①  つかもと食堂 40円ラーメン

②  どさん子ラーメン みそコーンラーメン

③  熱海 わんたんや らーめん

 ①    昨日久しぶりに熱海の“わんたんや”でラーメンを食べた。旨かった。650円だった。ラーメンを食べると子どもの頃近所にあった“つかもと食堂”のラーメンを思い出だす。40円だった。4歳の時、母がお産で亡くなった。4人の幼い子どもが残された。父一人では到底面倒を見切れなかった。近所の人たちがいろいろ助けてくれた。つかもと食堂のおじさんとおばさんも何かと手を差し伸べてくれた。時々私たちを食堂に連れて行ってラーメンを食べさせてくれた。もともと外食も出前とも縁のない家庭だった。焦燥しきった父とは裏腹に子ども達は母を失うことの意味がわかっていなかった。だからみな単純にラーメンをつかもと食堂で食べさせてもらうことを喜んだ。しばらくして私は東京の父の姉の家庭に預けられた。さみしいことと同様につかもと食堂のラーメンをまた食べたい気持ちが強かった。東京で半年、それから直江津の母の妹の家庭に移された。私が父の家に戻ったのは、母の妹が継母として父に嫁いだ後だった。事の成り行きは難しくてわからなかった。でもつかもと食堂のラーメンを再び食べた時の喜びは、鮮明に記憶に残っている。

②    カナダから帰国するとラーメン事情は大きく変化していた。もちろんつかもと食堂も引っ越して食堂から旅館に転業していた。全国展開のラーメンのチェーン店があちこちにオープンしていた。中でも“どさん子”のみそラーメンが好きになった。結婚したが10年のしないうちに離婚した。二人の子どもが残された。長男が全寮制の高校へ行き、長女はアメリカの友人の家庭に預かってもらった。一人残された私は、ほとんど外食になった。どさんこのみそラーメンをよく食べた。あきなかった。特にコーンが入ったみそラーメンは旨かった。

③    13年間にわたった再婚した妻の外国勤務での同行が終わって日本に帰国した。通うようになった理髪店の主人に熱海の“わんたんや”を教えてもらい一度行ってみた。店の前に行列があって、ずいぶん待たされた。でも“つかもと食堂”のラーメンと同じくらい旨かった。わんたんやの店主は相当な年齢である。渋い人だ。ラーメンやわんたんを茹でるのは彼だけだ。頑として持ち場を手放さない。厨房がいつもきれいに磨かれている。私はラーメンのうんちくは語れない。旨いものは旨い。自分の感じ方を信じる。

  昨今、あるテレビ番組で日本人が麺をすすってズルズル音を立てるヌーハラ(ヌードル・ハラスメント)を取り上げていた。外国人に不快な行為だそうだ。私は外国に住んで日本人の私にとって不快な行為はたくさん見た。しかしそれを公然とその国の人に伝えたことはない。そもそもマナーは、支配者側の基準規範である。文化は違うからこそ面白い。私は、どうしようもない、どうすることも自分ではできないたくさんの悲しみも悔しさも無念さをも受け入れようとしてきた。外国人に何を言われても、旨いが熱いラーメンをそそる行為は、不甲斐ない私が日常の清濁を併せ呑む演出なのかもしれない。


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