団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

冬の生ビール

2021年12月30日 | Weblog

  結婚する前、妻が英国のロンドン大学へ留学していた時、4回会いに行った。大学の寮が満室だったので、一般のアパートを借りて住んでいた。そのアパートのオーナーは、アゼルバイジャン出身だった。戦争を逃れて英国に亡命した人だった。祖国から持ち込んだ資金でアパートを買って経営していた。古いアパートで、水回りや電気系統に問題が多く、私が行くたびに大家の彼と会って修理を依頼していた。とても温厚な人だった。妻が女一人でアパート暮らしをしていたので、防犯にも気を配ってくれていた。ある日、誘われて日本食品の店に行くことになった。彼は日本のビールが大好きで、その店へ時々ビールを買いに行っていた。私たちが日本から来ているので日本の食品をその店で買えばいいと連れて行ってくれたのだ。古い大きなベンツにのせて行ってもらった。車の中でいろいろな話をしてくれた。今まで飲んだビールでアサヒビールのスーパードライが一番美味いと言った。そういう外国人に何人にも会った。

 私は正直、ビールの味がよくわからない。アサヒだろうがキリンだろうがサントリーだろうが、その違いがわからない。ただ生ビールだけは美味いと思う。キリンが今年、キリンホームタップという家庭で生ビールを飲めるサービスを開始した。生ビールのサーバーを貸し出して、月に2回1リットル入りのペットボトルに入ったビールの原液を2本送ってくれる。さっそく最小単位である月4本の契約でこのサービスを受けることにして申し込んだ。

 12月中旬にビールサーバーとビールの原液2本が届いた。機械に弱い私だが、何とか説明書通りに組み立ててセットできた。その夜、仕事を終えて帰宅した妻と初めて家で生ビールを飲んだ。美味かった。店で飲む生ビールと同じだと思った。妻は、多くの酒好きの人と同じで、外では「まず、ビール」で飲み始める。私は、アルコールの入った飲み物を混ぜて飲むと必ず悪酔いする。だからアルコール飲料は1種類にしている。妻は、それほど生ビールに感激しなかった。妻は、家に物が増えることを嫌う。金がかかることも嫌う。そういう考えがビールの味に強く影響したのだろう。

 次の日、妻は定番のジントニックに戻った。私は冷やしたグラスに生ビールを、とサーバーを操作するもサーバーからビールが出てこない。やはり機械音痴の私のセッティングか操作方法が間違っていたのかもしれない。あきらめて冷蔵庫から買い置きの缶ビールを出して飲んだ。昨夜の生ビールとの違いを、嫌というほど知らされた。

 初めての家庭生ビールサービスなので、いろいろ問題があるのだろう。次の日、キリンから封書が届いた。何か困ったことがあったら電話してくれとあった。電話した。係の女性の言うとおりにサーバーのあちこちを点検して報告した。結局、ガスユニットを交換することになった。丁寧な対応にキリンがこのサービスに並々ならぬ力を入れていると感じた。

 28日に新しいガスユニットが届いた。交換した。また美味い生ビールを飲めるようになった。正月休暇に入った妻も「まずビール」の気分を取り戻したようだ。二人で冷えたグラスに注いだ生ビールで乾杯した。今年もあと2日。この正月は、生ビールでほろ酔い気分になって、嫌なことを忘れて過ごそうと思う。来年は、友達と生ビールで正月を祝えることを切に願う。


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日本人はシャケを食え

2021年12月28日 | Weblog

  12月25日の夜、我が家でもクリスマスのための特別な夕飯を用意した。コロナ前なら、友人を招いて賑やかに飲んで食べるのが我が家のクリスマスだった。夫婦二人だけの寂しいクリスマスを盛り上げようと、妻の好きな二つの料理を作ることにした。サーモンマリネと鳩のロースト。

 農林水産省は、このところ毎年クリスマス前にツイッターで『サーモンでクリス鱒(マス)』と銘打ってサーモン料理を紹介している。日本の役所らしからぬと思いきや、やはり裏があった。きっかけは2018年12月23日に放送された「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」の第45話「クリスマスを楽しみに」だとされている。怪人・サーモンが登場し、「ノーチキン!」「日本人ならシャケを食え!」などと、人々に鮭を食べるよう強要した。これが農林水産省を動かしたらしい。私は、農林水産省の『サーモンでクリス鱒』に誘発されたわけではない。もちろん放送された番組のことなど全く知らなかった。根っからの天邪鬼的な性格が影響していると思う。以前からクリスマスには、怪人・サーモンと同じく“ノーチキン!”“日本人ならシャケを食え!”と考えていた。

 暮らしたネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジアでは鮭は流通していなかった。それもその筈で、その国々で鮭は獲れない。セネガルのダカールのスーパーには、クリスマスシーズンに限って北欧から生の鮭が空輸されていた。ただ最後の妻の任地のサハリンでは、鮭が買えたばかりか、私自身が鮭を釣って料理して食べることができた。良い思い出である。13年間の海外生活を終えて、日本に帰国して何が嬉しいって、美味い米と鮭が毎日食べられることだ。私たち夫婦は、毎朝鮭を食べているが、飽きることがない。

 おそらく農林水産省が鮭を食べることを推奨しているのは、鮭の漁獲高が安定しているからであろう。以前から鮭の人工ふ化が普及して、毎年、多くの河川に放流されている。獲りすぎ食べすぎで、絶滅を危惧されているウナギやマグロやサンマなどと違う。私はウナギもマグロもサンマも好きだ。特にウナギの減少を心配している。ウナギも鮭のように養殖技術が進歩して欲しい。それまではウナギのシラスの捕獲を隔年にでもして、保護するのも一つの案かもしれない。今回のコロナで飲食産業に補助金をこれだけ払えたのだから、ウナギ屋への補償金も払えるのでは。「鮭を食べて!」と言える農林水産省なら「今年1年ウナギを食べないで!」とも言えるのではないか。土用丑の日だけは解禁してもいいかもしれない。その我慢がいつか「クリスマスにはウナギ」と言えるまでにシラスの漁獲高の増加につながるかもしれない。何もしなければ、地球上から本当に絶滅してしまうかもしれない。

 サーモンマリネは、食べる24時間前に仕込んだ。ディル、塩、砂糖、胡椒、ねずの実、レモンの皮で作ったマリネ用薬味で鮭の半身を被う。24時間漬けておく。食べる直前、水道水でマリネ用薬味を洗い流す。水分を拭き取り、薄く斜めにスライスする。ルコラと茹でたジャガイモを添えてテーブルに出した。今回のサーモンマリネは、塩の分量が少し多すぎたようだ。

 25日の夜、久しぶりにワインを開けた。サーモンに冷えた白ワイン。鳩に赤ワイン。二人だけのクリスマスの晩餐。ワインの酔いは、コロナの恐怖を黙らせてくれた。


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SDGs

2021年12月24日 | Weblog

  最近テレビに登場する国会議員の襟に丸いバッジをよく見る。何かと思って調べるとSDGsのバッジだとわかった。私は頭字語いわゆる略語が苦手、と言うよりも嫌いである。歌手のDAIGOさんは、この略語を頻繁に使うことで有名だ。私は、略して短く言うより、長くて面倒でもすべてを言ったり書く方がいい。

 SDGsとはSustainable Development Goals (持続可能な開発目標)を表す。2015年9月の国連サミットで採択された。2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標である。17のゴール・169のターゲットから構成されている。

  17のゴールとは:1.貧困をなくそう No poverty 2.飢餓をゼロに Zero hunger3.すべての人に健康と福祉を  4.Good health and well-being質の高い教育をみんなに Quality education5.ジェンダー平等を実現しよう Gender equality 6.安全な水とトイレを世界中に Clean water and sanitation 7.エネルギーをみんなに そしてクリーンに Affordable and clean energy 8.働きがいも経済成長も Decent work and economic growth 9.産業と技術革新の基盤をつくろう Industry, innovation, infrastructure 10.人や国の不平等をなくそう Reduced inequalities 11.住み続けられるまちづくりを Sustainable cities and communities 12.つくる責任 つかう責任 Responsible consumption, production 13.気候変動に具体的な対策を Climate action 14.海の豊かさを守ろう Life below water 15.陸の豊かさも守ろう Life on land 16.平和と公正をすべての人に Peace, justice and strong institutions 17.パートナーシップで目標を達成しよう Partnerships for the goals

  目標を標語やスローガンにすると、美辞麗句の理想になりがちである。今までにも多くの頭字語が作られてきた。以前、まだ長野県に住んでいた頃、多くの工場の入り口に“ISO認定工場”という看板をよく見た。今でもあるのかどうかわからないが、あまり聞かない。その時代時代にこのような頭字語が作られては消えていくのだろう。

  SDGsの17のゴールの1番〈貧困をなくそう〉を読んで、真っ先にネパールで暮らした時のことを思った。(ネパールの山村の子供たち)ネパールは世界の最貧国の一つである。(1日河原で石を砕いている女性たち)実際にネパールで暮らして見えたのは、カースト制度や男女差別が貧困の一つの原因ではないか、であった。そしてネパールの次にアフリカのセネガルで暮らした。セネガルも世界の最貧国の一つである。ここで見えたのは、砂漠化(砂漠を走るダカールラリー)による貧困と政府や政治の腐敗だった。〈貧困をなくそう〉は、とても良いゴールだと思う。しかし実現困難な目標であろう。自然環境、気候、宗教、政治、教育環境、インフラ整備などの総合的な問題が現状を作り出している。貧困という括りも難しい。ネパールのように国民一人当たりの年収が低くても、農産物が豊富なので、食べることには不自由がない国もある。ただ金銭的な収入だけで、貧困と決めつけるのは、無理がある。かつてブータン王国の人々の幸福度が世界一だと言われた時があった。ブータン国民は「雨風をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだ」とのコメントが印象的だった。そのブータンも現在では幸福度が下がってしまったようだ。

  国会議員の襟のSDGsのバッジがいつまで付けられているか疑問である。参議院議員選挙の候補者の事前ポスター掲示と同じ運命なら悲しい。それにしても国会議員は、毎月100万円の使い道自由で領収書不用の交通費をもらえてSDGsのバッジはないでしょう。


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タッチパネルが私を拒む!

2021年12月22日 | Weblog

  寒い日が続いている。地球の温暖化が危機的状態だと聞いている。毎年冬が来るたびに寒さが緩和していくのではと危惧している。寒いと何となくまだ地球は大丈夫そうと思ってしまう。寒さは、防寒下着やダウンの上着や手袋で防げる。問題は、このところの腰痛である。坐って居ることが多い。腰痛対策の運動を毎日欠かさずに続けている。それでもこの数か月腰痛に悩まされている。

  昨日は散歩を兼ねて郵便局へ行ってきた。どうしても孫たちへのクリスマスプレゼントの図書カードとお年玉を現金封筒で送りたかった。お年玉は、満年齢の数の500円玉を送る。段ボール紙を土台にしてセロテープで貼り止める。孫たちの年齢が上がってきて、3人の合計金額は、結構な額になる。それでも1歳の1枚からずっと続けているので、孫が継続の力を感じ取ってくれることを期待している。市販の500円玉貯金ブックを孫が生まれた時贈ってある。初孫は来年成人式を迎える。お年玉や誕生日や合格祝いなども500円玉を年齢の数で祝った。

  郵便局の窓口で現金封筒を局員に渡した。ロボットのようなカクンカクンと歩いて入って来た姿を見られたのだろう。局員が現金封筒を手に取り、「中に内が入っているのですか?」とずいぶん大きな声で尋ねた。おかしなことを聞くなと思った。現金封筒なのだから、現金に決まっているじゃないか。それでも私は、気持ちを押し殺して、「現金です。500円玉でお年玉を入れてあります」 若い局員は、何も言わずに封筒を秤の上に置いた。年内にやっておかなければならない仕事を一つ終わらせることができた。帰りはバスに乗った。今まで席を譲られたことがなかったが、私より明らかに年上の女性が「どうぞ」と立ち上がった。

  とぼとぼ歩いて家に戻った。台所の食洗器が洗い終わっていた。電源を切ろうと青いランプのタッチパネルを指で押した。その場所が電源を切るところだと確信していた。ウンともスンともない。

  二日前にも同じことが起こっていた。私は、自分の指や体から特殊な電波か何かが出ていて、タッチパネルが機能しないのかもしれないと思った。妻が帰宅するまで放っておいた。帰宅した妻が操作した。「電源切れたよ」と言った。妻は魔法使いか!どうして妻にできて、私にできないのだろう。妻は、食洗機の購入をあれほど反対していたのに。こんなのおかしいと思った。そしてちゃんと見ているべきだったのに、妻が食洗器のタッチパネルに触れるのを、まったく見ていなかった。

  最初に電源が切れなかった時、妻にメールを送って、どうすればよいか尋ねた。前日に妻は、いとも簡単にタッチパネルを操作して電源を切った。返事が来た。「ハンドクリームを手に付け、5分後くらいに手が乾いたら、もう一度試してみて」 おそらく妻は、私の皮膚がカサカサで静電気か何かがタッチパネルの反応を阻害していると思ったのだろう。 その通りにしてみたが、食洗機の電源は切れなかった。

  二日続いた珍現象。昨夜、帰宅した妻が食洗機の前に立った。私は目を大きく見開いて、事の成り行きを見守った。妻は、私が押し続けていた場所と違う場所を押した。電源が切れた。何ということか。私はずっと違う場所を押していたのだ。私は、3日前まで普通に操作できていた。いよいよ私の脳も認知症かと落ち込む。妻は「認知症じゃないよ」と言ってくれる。でも私は、自分の中で変化が進行しているのを察知している。

 今朝、食洗機の前に立って、その一連の動きを観察してみた。食洗機が全作業を終えると、私が押し続けていた場所のライトが、緑色から青色に変わった。メインスイッチのライトは消えていた。きっと私は、このライトの色に反応していたと思う。私は、思い込みが若い時から強い。青が「ここ押して」と私を誘うように光輝いていて、蛾が光に誘われるように、そこを押していた。本当は、メインスイッチを押さなければいけなかったのだ。その記憶がキレイに消えていたのだ。ところがメインスイッチの灯は、この時点では消えている。

 いずれにせよ、私の中に、老化という私とは別の生き物が、ジワジワと侵蝕してきている感じがする。でも負けないぞ。せめて現状維持に留めて、悪化を止めなければ。


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親と子・兄弟姉妹

2021年12月20日 | Weblog

  一時期石原慎太郎の小説でない本『NOと言えない日本』(カッパホームズ)『息子たちと私―子供あっての親』(幻冬舎)『拝啓息子たちへー父から四人の子への人生の手紙』(カッパホームズ)『息子をサラリーマンにしない法―我が子はオレを超えて行け』(カッパホームズ)を読んだ。私自身、子育てに悩んでいたこともあって、何か彼の著書から学びたかった。どこに書いてあったか忘れたが、“子供に早い時期に死を見させる。冷たくなった死体に触れさせる”と書いてあった。私の祖母が亡くなった。私は二人の子供を冷たくなった祖母に触れさせた。そして祖母が私にしてくれたことを話した。それがどう私の子供に影響を与えたかはわからない。しかし石原慎太郎の著書に私が影響されたのは確かだ。

 

 あれほどの本を書いた石原慎太郎の四人の子供たちが、現在どういう風になっているか興味を持っている。12月11日朝テレビ朝日の『週刊ニュースレーダー』を観ていた。石原慎太郎の次男の石原良純さんがこの番組にレギュラー出演している。いつも辛口の批評を展開している。10月の衆議院議員選挙で落選した石原家の長男石原伸晃元議員の雇用助成金問題が取り上げられていた。石原良純さんのように政治的なしがらみの強い人が、政治的な批評を語るのは、以前から好ましくないと思っていた。石原良純さんの兄石原伸晃元議員への批評は、あまりにも身内話でいつもの辛口批評は出てこなかった。正直、石原慎太郎の本に書いてある四人の子供たちと違和感を持った。

 

 親と子、子の中でも兄弟姉妹の関係は、難しいものだ。私も関係で長年苦しんだ経験がある。テレビのCMで一卵性親子などとか仲良し3人娘という設定が多い。それはそうだろう。仲が悪い親子や兄弟姉妹が、CMになっても、観せられる方はウンザリするだけ。私は自分の子育てに関して反省しかない。子供たちに申し訳ないと反省している。子育ては、親の人生の最大事業だと思う。子供たちを親が思うとおりに育てることなどできない。私は、石原慎太郎のように自分の子供たちに関する本など書ける文才を持ち合わせていない。ただ私が言えることは、親は子供の反面教師たれる。これだけは自信がある。子供たちは、私の悪い所をきちんと見てきた。だから今、自分の家庭を持って、自分たちが私から受けた悪い影響を、自分の子供たちには経験させないよう気を配っている。私にはその様子が手に取るように見て取れる。

 

 神田沙也加さんが札幌のホテルで18日に亡くなっているのを発見された。35歳の若さである。彼女の両親も離婚している。沙也加さん自身も離婚していた。親にとって、自分の子が自分より先に死ぬことは、耐えられないことであろう。

 

 17日、大阪の心療内科クリニックでの放火殺人事件で24人の方が犠牲になった。若い人も多い。その方々の親の気持ちを思う。

 

 今年もあと11日。世の中、コロナでクリスマスも正月もない。今年は丸一年コロナに普通の生活を奪われた。普通の人、普通の生活がいかに恵まれたことであるか、今頃になって知った。遅くはない。まだ生きている。再挑戦するぞ。

 


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70歳が分かれ道

2021年12月16日 | Weblog

 高校の同窓生の北陸道街道歩きのグループが、11月21日ついに京都に到着したそうだ。快挙だ!同窓生の一団が月に到達したように嬉しかった。実際今までに彼らが歩いた距離を合計すれば、おそらく月にそのくらいの距離になるかもしれない。一度に全行程を歩くのではなく、日程を7回に分けて、歩き続けた。このグループは、北陸道だけでなく、東海道など他の街道も歩破している。

  私の高校の同窓生ということは、平均74歳である。同窓生で同じ年代と言っても、その老化度に格差が出てきている。私は、集合住宅の階段の上り下りにさえ苦労している。北陸道を歩き切った同窓生は、健脚かつ健康に恵まれている。まさに戦後の人生百年時代を引っ張る人たちであるに違いない。

 私は日本の高校の途中から、カナダの高校へ移ってしまった。だから高校の修学旅行に行くことができなかった。長年、同級生の多くに、いつか有志で高校の修学旅行の再現を一緒にさせて欲しいと申し出ていた。いまだにそれが実現していない。北陸街道の最終地点が京都で11月20日に京都のホテルで打ち上げの会があるとの案内が来た。京都と聞いただけで、修学旅行の再現の夢が疼いた。案内には、打ち上げの会だけの参加でも良いとあった。心惹かれた。でも結局参加は諦めた。

 コロナ禍でこの1年半以上、自粛というより軟禁状態で暮らしてきた。孫や子供達にも会うことなく、友人知人たちとの接触も遠慮してきた。自分がコロナに感染することも恐い。それよりもっと怖いのは、自分が他の人にコロナを感染させてしまうことだ。同じ集合住宅に住む友人たちとさえ、行き来ができなくなった。私は、ただの臆病者かもしれない。糖尿病をはじめ、いろいろな病気を抱えている。医者からは、私の免疫力が極端に低いので、コロナの予防に万全を期すように言われている。

 低い免疫力を高めるために運動療法の一環として散歩をしている。一日5千歩が目標である。北陸道を歩いた同窓生の歩数と比べれば、月とスッポンだ。自分に優しく他人に厳しい私は、毎日、何とか楽をして5千歩を達成しようと、知恵を働かせる。その努力は、普段見せることのないものである。おそらく私の脳は、こういう状況で一番稼働しているに違いない。

 健康で活発に行動している同窓生たちを羨ましく思う。そんな時は、既に鬼籍に名を記している同級生や友人を想う。彼らがどれ程もっと生きたいと願ったことかを考えれば、他の人を羨ましく思う気が消える。今を受け入れられる。

 『よりよく老いるには「70歳が分かれ道」?帯津医師の見解〈週刊朝日〉』という記事がある。その中に「(1)よりよく老いるためには70代が重要になってくる (2)70代をプラスにとらえられるかどうかが分かれ目 (3)70代だからこそできることを見つけ大切にしよう」という和田秀樹著『70歳が老化の分かれ道』(詩想新書)からの引用があった。

 数字は不思議なもの。気にしだすときりがない。70代を人生の節目とするのも一つの考え方。そこで私は考えた。(1)よりよく老いるためには今日が重要になってくる(2)今日をプラスにとらえるかどうかが分かれ目(3)今日だからこそできることを見つけ大切にしよう


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手にビニール袋

2021年12月14日 | Weblog

  我が家の朝食の献立は、英国人ばりに毎朝同じである。焼いた鮭、私は刻んだネギたっぷりの納豆、妻はネギなし納豆、味噌汁、焼海苔3枚、ミニトマト1個、ブルーベリー入りヨーグルト、妻とバナナ半分づつ。一日3回の食事の中で一番量的に重い。海外で暮らして時に現地で手に入れることができなかったモノが多い。帰国してこれらの食品を容易に手に入るようになると、海外での13年間の“食べたい”との強い思いは、帰国して約18年経っても、未だに続いているようだ。特に米、鮭、納豆への思い入れは強い。

 

 先日、朝9時に銀行での用事のために、車を運転して出かけた。住む町にその銀行の支店がないので隣の町まで行った。隣の町には、私が魚をよく買う、いい魚屋がある。獲れたてや生きたままの魚介類を豊富に扱っている。値段も安い。銀行の用事が、思いのほか早く終わった。このまま家に帰るのもせっかく来たのでモッタイナイと思った。そうだあの魚屋に寄って行こう。確かあの店は9時半の開店だ。

 

 魚屋の駐車場に車を止めて店に向かった。店の入り口は2か所ある。時間は9時25分。えッ行列。さすが繁盛店は違う。私の前にすでに5人並んでいた。私が列の後ろにつくと、じきにもう3人がやって来て列が伸びた。店の反対側のドアの前にも相当な人数が並んでいた。私の一人前の女性の手に目がいった。両手をビニール袋に入れている。(写真:女性と同じように妻にビニール袋を手にかぶせて撮ったもの) 私はきっとこの女性は、コロナ対策として手袋の代わりにビニール袋を使っているのかも。もしくは手に何か障害か病気を持っていうかもと思った。周りの人たちの話が耳に入り始めてやっとどういうことなのか理解できた。今日は月に1回の鮭の切り身の特売日だった。

 

 店が開いた。二つある入り口からどっと人が、一つ方向に向かう。鮭が置かれた場所に客が押し寄せる。テレビで観たデパートの福袋めがけて突進するあの光景が目の前にあった。私は鮭を買うためにここへ来たのではない。店の違う方向から現場を観察していた。店のレジのおばさんが突進する集団に叫ぶ。「危険ですから押さないでください。鮭の数は十分あります。終わってもすぐ補充します。あわてる必要はありません」 おばさんと私の目があった。私は目を開け、口を開け、光景に驚いていた。おばさんが私に「どうしてこうなるんですかね。いくらでも鮭は用意しているのに」とため息交じりにつぶやいた。

 

 手にビニール袋を入れた女性が、レジに来た。手にビニール袋はもうなかった。替わりに、鮭の切り身がたくさん入ったビニール袋を持っていた。女性は冷凍の鮭の切り身を素早く掴むために、ビニール袋を手にかぶせていたのだ。鮭のコーナーは、1メートル四方の四角いステンレス製で、鮭はトングで取るため時間がかかる。ビニール袋を鮭の切り身でいっぱいにした客がレジに並ぶ。みな、嬉しそうだった。

 

 私は、お目当ての魚をカゴに入れた後、だれもいなくなった鮭の切り身のコーナーへ行った。そして一番きれいな形の切り身を一切れ袋に入れた。

 

 国会議員の月百万円の交通費が問題になっている。領収書も使い道の報告もいらないという。一方地方の魚屋で鮭の切り身の特売日に、手にビニール袋をかぶせて、争奪戦に加わる庶民がいる。1円でも安い商品を買おうとする。国会議員は、お手盛りで税金をあの手この手でかすめ取る。悲しい現実である。でも選挙のたびに、そういう国会議員を当選させるのも庶民である。今朝、ビニール袋を手に鮭を買っていた女性と同じ、鮭の切り身を焼いて、妻と食べた。鮭の味は、いつもより塩辛かった。

 


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理事長>学長

2021年12月10日 | Weblog

 ラジオニッポン放送に日本大学がスポンサーになっている『風水占い』のコーナーがある。そこで日本大学の理念が若い男女によって謳われている。私は、大学の提供で『風水占い』かと腑に落ちずに聞き流していた。

 日本大学の田中英寿理事長は、田中容疑者は先月29日、取引業者からのリベートなどおよそ1億2000万円の収入を除外して申告し、5300万円ほどを脱税した疑いで逮捕された。一連の報道で“理事長”ばかりが取りざたされていることに疑問を持った。私は、大学なら学長が一番偉いと思っている。日本大学の学長が誰かも知らない。でも理事長の名は、報道が繰り返されるので、覚えた。

  調べてみた。学校法人である私立大学では、理事長が頂点でその下に理事会がある。大学の学長、高校の校長、中学校の校長、小学校の校長、幼稚園の園長は、その下に位置する。会社組織で言えば、理事長が社長で理事会は重役陣で学長・校長・園長は、支社長とでもいうのかも。公立の学校は、文部科学省が理事長であり理事会なのか。いずれにせよ、学長でなく理事長がここまで表に出てくることは、正常でない。

  私は以前から宗教法人と学校法人の税金課税に興味を持っている。私は、カナダ留学する前に、軽井沢のキリスト教のアメリカ人宣教師の子弟が学ぶ学校で、英語を勉強した。その学校があった聖書学院の敷地は、戦後マッカーサー元帥の日本にキリスト教を布教するために招聘した宣教師に払い下げられた何万坪という土地だった。宣教師は、宗教法人を設立してまもなく、土地を売り払い、アメリカに帰国した。土地売却金10数億円を無税でアメリカに持ち帰った。私は、このことの顛末を知って腹が立った。戦勝国ということで、日本人の土地を没収して、それを宣教師に渡して、宗教法人故に無税で宣教師がアメリカにその金を持って引き上げた。どう考えても理不尽な気がする。

  学校法人にしても宗教法人にしても、理念、目的、使命を持って活動するなら非課税も生きるというものだ。行政側は、完全に人間を善と決めつけている。しかし一部の人間は、どこまでも悪で、ずる賢い。役所で一旦、宗教法人として学校法人として、登録されれば、まあまあなあなあの関係になってしまう。厳しい監査が行われているとは、とても思えない。

  今回の日本大学の田中英寿元理事長が、どのような裁きを受けるのか注目している。私のわだかまりや疑問に、今までの報道の中で、一番わかりやすく、これだと思えた、田中容疑者の検察で話したことの記事がある。

  「検事さん、私を最初から悪人と決めつけているんでしょう。たしかに見た目も評判もよくないことは分かっていますし、ヤクザみたいなもんです。しかし、私は相撲道に生きる男です。相撲取りがコメに困ることはないんです。だから、口利きのようなことはしませんし、知りません。頼まれてもアゴにする(角界用語で「断る」の意)。検事さんも相撲取りになれば分かります。検事さん、東大出身ですか? 日大だと思ってバカにしていますよね。その通りバカです。私はマワシで学士になりました。検事さんは真面目に勉強されて学士になったはずです。でも、同じ学士です。大学で差別しないで下さい。マワシさえあればコメには困りませんし、コメは白いですよ。私はシロです」


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車の中の会話

2021年12月08日 | Weblog

  テレビのCMには、私に訴えることのないモノが多い。そんな中、私の注意をグッと引き寄せたCMがある。ホンダの『STEP WGN「家族の空間」編』である。「乗ろう。話そう。家族で。」と訴える。車に乗った家族が話して、笑って、喧嘩しての様子が映し出される。

 

 十代後半、招かれて滞在したカナダやアメリカで友人家族と車で旅をした。ホンダのCMは、遠い昔の旅を思い出させた。長距離の車の旅は、狭い空間に閉じ込められる。子供達には、苦痛である。家族それぞれに工夫があった。多かったのは、ゲーム。日本の“シリトリ”や“私は誰でしょう”や“ナゾナゾ”。次に歌。クリスチャンの家庭が多かったので、讃美歌が主だった。喧嘩もあった。家族の中で私ひとりが日本人で異人種だったので、私に多くの質問があった。カナダ人やアメリカ人が日本をどれほど理解しているか、日本の知識を持っているかの調査になり興味深かった。

 

 日本に帰国して英語塾を始めた。小さな塾が再婚して閉鎖する頃、塾生が400名ほどになっていた。市内だけでなく、近郊の市町村から通う生徒も多かった。塾が終わる9時頃、塾の前の道路には迎えの車が列をなしていた。それを見るたびに、申し訳なく思った。ある時、生徒の親の開業医の父親と話す機会があった。迎えが大変ではないかと尋ねた。父親は、「そんなことありません。車の中でやっと父親になれます。普段は忙しくて、息子とまともに話すことがありませんでした。でも先生の塾に通うようになり、迎えに来て、家までの時間は、息子はよく話します。それが嬉しくて。授業中、先生がこんな話をしてくれた、なんて話すので、まるで先生の授業に出ているようです。とにかく親子の関係が良くなり、先生には感謝しています」 私は恥ずかしくなったが、嬉しかった。

 

 塾を閉めると妻の海外赴任に同行した。13年間、妻の配偶者として主夫をした。国によっては、交通事情や防犯の観点から、運転手を雇わなければならなかった。私が運転でき妻の職場への送り迎えができた国では、車の中での妻との会話は、塾をやっていた時、生徒の開業医の父親の気持ちが実感として理解できた。

 

 日本に帰国して、妻は勤務医になった。遠距離通勤している。朝、私は駅まで妻を車で送っている。その時、私は心掛けていることがある。妻を3回声で笑わせること。今の車は、ボイスレコーダーが付いている。私たち夫婦の車内の会話がすべて録音されている。それを再生して聞いたら、さぞかし恥ずかしい内容だろう。家から駅までは4,5分である。遠距離通勤して、病院での激務を、こなさなければならない妻のスタートを、何とか心地よいものにしたいと毎朝思う。駅で妻と別れ、家に向かう。車内に話し声も笑い声もない。

 

 夕方、妻が乗った電車が駅に到着する少し前に駅のロータリーに車を止めて妻を待つ。塾の前に迎えの車が列をなしたように、駅の前に多くの迎えの車が並ぶ。妻が改札を出て、小走りで車に乗り込む。会話が再開。きっと待っていたどの車の中でも、会話が始まっているのだろう。見送るより、出迎えの方がはるかに嬉しい。小さな車の中ではあるが、車内は花園のように明るくなり、会話は小鳥のさえずりのようにテンションがあがる。

 


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おもてなし

2021年12月06日 | Weblog

  『家族との食事や人の集まりで、あなたの意識をすべてそこに向けるという贈り物を差し出すのは、おもてなしのひとつの形である。あなたは、他の人の言葉や感情を自分の意識に迎え入れています。相手が敷居をこえてあなたの世界の住人になるのを受け入れているのです』ロナルド・シャープ (ケイト・マーフィ著 『LISTEN』日経BP 2200円+税 384ページ)

  再婚した後の人生は、それ以前の人生とは全く違うものとなった。何が違ったかというと、再婚を契機に仕事を辞めたことだ。私の人生は、4部作で構成されている。第1部:結婚前、第2部:最初の結婚と離婚と引き取った2人の子供の養育、第3部:再婚して仕事を辞めて妻の海外赴任に同行した生活、第4部:日本に帰国して現在の地での生活。

 妻は私と結婚する前、一日中医師として働きづくめだった。夜勤をして、次の日朝から診察という日を続けていた。私も彼女と結婚する前、酷い時は一日に4つの仕事を掛け持ちしていた。自分が経営していた塾と英会話学校、専門学校講師、予備校講師、家庭教師。2人の子供を育てるためだった。妻も私も自分の時間などなかった。そんな二人が結婚した。今までの二人の生活を続けていたら結婚など成り立つわけがない。

 ある日、私は妻を彼女が勤めていた病院へ迎えに行った。まだ勤務明けまでに時間があった。私は医師の休憩室で待った。そこで医師の求人誌を手に取った。パラパラページをめくっていた。外務省の医務官募集の記事が目に留まった。このまま妻が今のような過密な勤務をしていれば、結婚も破綻するかも、嫌、彼女の体や精神がもつまい。私はダメもとで彼女に医務官の話をしてみた。真剣だった。その気持ちが彼女に伝わったようだ。試験だけ受けてみると言った。そして医務官として採用されることになった。

 妻は、医務官としてネパールを皮切りに、5ヵ国で勤務した。二人の生活がガラリと変わった。あれほど時間と仕事に追われていた二人に時間にゆとりが生まれた。二人とも自分のまわりの半径2メートルの世界にしか存在できていなかった。まず二人の間に一緒にいる時間がたっぷりとできた。そして二人だけの世界に多くの人々との交流が加わった。職場の同僚、在留邦人、現地の人々、日本から私たちを訪ねてきた家族友人。

 私は料理に興味はあったが、本格的に習う機会がなかった。時間は、あった。料理の本を見ながら、料理して多くの人々を家に招いた。ケイト・マーフィの『LISTEN』の384ページを読んで、NHKの『のど自慢』で合格の鐘がなるように私の心で鳴り響いた。私は料理でおもてなしをしようと躍起だった。でも本当は、食べ物や飲み物でおもてなしをしていたのではなく、私たちの世界に客人たちを受け入れていたのだと。

 妻の2番目の任地、アフリカのセネガルで、私は本格的なフランス料理を習った。先生は、日本の商社の支社長の奥さんだった。彼女は、フランスのレストランでシェフとして働いていた経験があった。これで料理もすこし上達した。手間や時間をかける料理が好きになった。乞食鶏は1日仕事になる。(写真:粘土でチキンを丸ごと包み焼く好きな中国料理『乞食鶏』)持ち前の人の話を聞くのが好きな性格と、海外生活で培った料理で、“我が夫婦のオモテナシ”は向上した。帰国して、家族友人知人へのおもてなし生活に拍車がかかった。それがこのコロナ禍でピタリと止まってしまった。いつ私たちの“おもてなし”が再開されるかわからない。彼の話が聴きたい。彼女の話が聴きたい。せいぜいその日のために、もう少し料理の腕をあげておこう。先週、妻の誕生日にローストビーフで祝った。


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