散歩を何とか続けている。少し気温が低いと感じれば、「今日はやめておこう」と横着で出不精のもう一人の私が呟く。「ダメダメ、最近の筋肉や体全体の老化を考えれば、歩いて現状維持しなければ」と少しまともなほうの私が諭す。しばらくの葛藤。とにかく着替える。玄関に足を押し出させる。ウォーキングシューズを靴の棚から三和土に置く。靴紐をほどかなくてもこのシューズは履ける横着シューズである。側のファスナーを下し足を押し込む。ドアのロックを外す。ここまでくればもう逃げられない。1階のホールに降りて、総合表玄関のドアを開け道路に出た。
住む集合住宅はメタセコイアが11本植えられている。この木の葉もすっかり茶色くなり半分くらい落ちている。あちこち落ち葉だらけ。家の前は川のふちに沿う道路である。川の流れに沿うように道路は傾斜になっている。この傾斜にのれば、私の重い体も自然に前進できる。桜の並木が並ぶ。桜の木の葉はほぼ落ちてしまっている。その葉が道路脇に魚のウロコのように重なり合っていた。葉の吹きだまり!何か歌があったな。♪落ち葉の舞い散る停車場は悲しい女の吹きだまり♪ 奥村チヨの『終着駅』(作詞千家和也作曲浜圭介)
風が吹く。坂道を転がるように葉が輪になって私より速いスピードで突き進む。木枯らし!葉が舞い上がる。舞い上がった葉は、落ちることなく回転する。一枚だけではない。百枚くらいで一団を構成。まるでセンチェリオン(ローマ軍の百人部隊)の行進のよう。色はローマ軍の鎧のように渋い。風が止む。静かに葉がパラパラと地面に落ちる。しばらくするとまた風。新幹線のガード下を抜け、東海道線の鉄橋近くまで何度も葉軍の行進を見ることができた。
橋を渡って川の反対側の遊歩道に出た。今度は山の上の方までよく見える。今年の紅葉は色づきが例年よりずっといい。海に近いところの紅葉は潮風の影響であまりきれいでないと言われる。今年は気温の変動が激しい分、紅葉が内陸部並みにきれいなのだろう。春の山を見上げて山桜を探すように、私は好きな赤系統の紅葉を探す。あるある。ポツンポツンと。これに陽があたり、まるで赤サンゴのように光り浮き上がる。いいな~。見とれる。
日常生活では悩みも心配も怖れもある。散歩はそのすべてを飛び越えさせてくれる。落ち葉の吹きだまりのように積み重なったそれらを一陣の風のように散り散りにしてくれる。また何もなかったように元に戻るのはわかっていても、その一時に微かな快感を持つ。季節の移り変わりに接することが、これほど心の薬になるとは。若い頃はただガムシャラに時間と闘った。自然に目を向けることもなかった。散歩など私の生活とは無縁だった。やっと自分が息を吸って吐いているのを確かめられるようになれた。徘徊老人になりきって町のあちこちを巡った。
海まで来てしまった。水平線を見た。そろそろ暗くなってきた。陽が暮れるのが早い。すでに薄暗くなってきた。家に近づくと、来るときの坂が逆に抵抗となる。それでも道路わきの枯れ葉落ち葉が応援しているように勝手に解釈して足を運んだ。あと少し。メタセコイアの木に隠れた家が見える。こうして散歩しても帰ってこられる私の温かい巣がそこにある。
巣に戻って夕食の準備をしながらCDを聴いた。♪枯れ葉散る夕暮れは来る日の寒さをものがたり~~♪『恋人よ』五輪真弓 (歌作詞作曲) あと1時間で妻も巣に戻る。