団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

暗闇の猿

2023年09月28日 | Weblog

  住んでいる集合住宅の階段の踊り場にシャッターがある。以前台風で雨が吹き込んで、エレベーターの床下が浸水した。その後、雨風の侵入に備えて、シャッターを付けることになった。

 妻は、シャッターが閉まった状態が嫌いなようだ。私は、気にならない。朝出勤する時、玄関のドアを開けて、まず踊り場のシャッターが開いているか、確認する。天気が良くて、閉まっていると、フックシャッター棒を使って開ける。「ガラガラガラ」と結構大きな音が出る。私は、他の住民に迷惑になるのではと心配になる。妻は、まったく気にならないらしい。そういう妻の豪気さが羨ましい。昨夜、そのシャッターに貼り紙があった。

 妻を駅に迎えに行くために、玄関を出た。階段が暗い。踊り場のシャッターが閉まっていた。何やら白い紙が貼ってある。駅に急いでいたので、書いてある内容を確かめることなく駐車場に向かった。駅から妻を迎えて帰ってきた。案の定、妻が踊り場のシャッターが閉まっているのを見つけ、「雨降っていないから、シャッター開けよう」と言った。私は、貼り紙を読み上げた。妻が黙った。妻は、猿を怖がっている。家の中で虫を見つけると、ムンクの絵の中の人のような体勢になる。信じられないほどの金切り声を出す。

 何年も前の夏、網戸にしてあった。子猿が網戸を開けて、台所に入っていた。たまたま妻が台所に行き、子猿と遭遇した。あまりの金切り声で、子猿は、居間を横切って、入って来た網戸から外へ走って出た。それ以来妻は、用心深く家の中の窓や戸の鍵をチェックするようになった。

 数週間前、深夜に洗面所の方から「ドォスッシィン」と大きな音がした。妻がトイレに起き、電気を付けようとしたら、スイッチの近くに黒いゴギブリがいたので、驚いてひっくり返って床に落ちた。実際にゴキブリはいなかった。おそらく自分の指の影をゴキブリだと思ったらしい。

 26日27日と集合住宅の植え込みの伐採が植木屋によって行われた。26日は何事もなく仕事をしていた。27日午後突然猿の大集団が集合住宅を取り囲んだ。私は、これは動画で撮って、妻が帰宅したら見せなければと携帯を猿に向けた、すると1匹の猿が、牙をむきだし、私の方へ飛びあがった。ガラスを隔ててではあっても、小心者の私は、ギョっとした。南側と北側に分かれていた。数えると30匹を超えていた。とにかく子猿が多い。ベランダの洗濯物の中から私の首巻用タオルを子猿が引き抜き、タオルで遊び始めた。他の猿たちが竹林の草むらで運動会のように走り回っていた。私のタオルをいじりまわしていた猿も運動会に加わろうとタオルを投げ捨てて、竹林に向かった。

 植木屋は、仕事にならなかったらしい。階段の踊り場にも入り込んだという。30匹を超える集団である。一斉にとびかかられたら勝ち目はない。ここの管理人が貼り紙をしたのは、危険を感じたからであろう。

 福井の恐竜博物館でたくさんの恐竜を見て来た。もう恐竜はこの世に存在していないと知っているから恐くない。でも猿は、現存する。猿は、夜行性でないのが救い。でも恐怖心にブレーキが掛からない。暗闇に猿。身の毛がよだつ。妻を笑っていられない。


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福井県立恐竜博物館

2023年09月26日 | Weblog

  2泊3日で福井と富山を旅してきた。友人のNさんが福井で講演するのに便乗した。N夫妻は、18日に福井入りしていた。私たち夫婦は、20日に東海道新幹線で米原まで行って、北陸本線の特急に乗り換えて、福井に行った。福井駅でN夫妻と合流した。レンタカーを借りた。

 まず改装を終えたばかりの県立恐竜博物館へ行った。平日だったが、駐車場は満車だった。予約がないと入館できないそうだ。さいわいN夫妻が事前に予約しておいてくれたので、入館することができた。午後2時に集合することにして、それぞれの夫婦で館内を回った。館内は、別世界である。人類の起源は、おおよそ200万年前だといわれている。恐竜の起源は、なんと2億4000万年前だ。6500万年前に絶滅した。今では化石しか残っていない。

  人生たかだか100年とすれば、億年、千万年は、宇宙のように深淵な時空となる。自分の存在は、空中の塵より小さく感じる。私は、その感覚が好きだ。特にこの数年、コロナ、ロシアのウクライナ侵攻、中国や北朝鮮の不気味な動き、気候変動による災害、地震、友人知人の死去、家族の病気などで、気持ちが荒んでいる。恐竜博物館の中では、恐竜の時代にいるかのような錯覚におちいる。心配や不安が消える。錯覚できるように、館内には工夫がされている。まるで恐竜が生きているかのように再現され、鳴き声や足音や歩く振動までもが、演出されている。外の現代社会から離脱できる。それが私には、嬉しい。

  私が子どもの頃、恐竜は子供たちにまだそれほど人気がなかった。私たち団塊世代のすぐあとの年代から恐竜は、子供たちの関心を集め人気化した。それ以来人気が続いて、子供たちが、難しい言いづらい恐竜の名前をいとも簡単にスラスラ言うのを聞いた。暗記力の弱い私は、それを聞くたびにいたく感心したものだ。

  Nさんによると来年度から福井県立大学に恐竜学部が新設され、学生の募集が始まるそうだ。Nさんが東京農業大学で副学長だった時の学長が現在福井県立大学の学長をしている。進士五十八学長は、恐竜博物館や恐竜学部の創設に尽力したそうだ。郷土にこれだけの貢献ができるとは、凄い人である。

  恐竜博物館の後、今度の旅の私が行きたかった平泉寺白山神社へ向かった。前回訪れた時は、私たち以外人がいなかったが、ずいぶん観光客が来ていて驚いた。相変わらず苔がきれいだった。

  Nさんが次に日本一の大仏を観に行こうと言った。私は、自分の耳を疑った。大仏といえば、鎌倉の大仏と奈良の東大寺でしょう。福井に日本一の大仏があるとは、聞いたことがなかった。

  大師山清大寺に行った。勝山市出身の多田清氏が380億円をかけて1987年に建立したという。最初に行った恐竜博物館は、総事業費140億円だという。大仏のある清大寺は、税金の滞納によって差し押さえとなった。今は、廃墟のようになっている。

  恐竜の2億4000万年、清大寺の380億円目がくらむような数字。旅を終え、帰宅した。現実の世界に戻った。

 来年3月北陸新幹線は、福井を通って敦賀まで伸びる。そうしたら。もう一度福井に行きたいと願っている。Nさん夫婦との楽しく美味しい旅がまたできたらいい。


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『命の嘆願書』

2023年09月20日 | Weblog

 【都合により9月22日投稿予定を本日投稿】

 私は、小学校6年生の時、パールバックの『大地』を学校の図書館から借りて読んだ。王龍(ワンルン)の妻阿蘭(オラン)が農作業中に産気づいた。阿蘭は、家に戻り出産した。すぐに生まれた赤子をツブラ(藁製の赤ん坊を入れておく籠状の物)に入れ、ツブラのヒモを口に咥えて、這って引っ張って畑に戻った。4歳の時、生母を失くした私は、阿蘭の母親としての凄さに圧倒された。いつしか自分の生母と阿蘭を重ねた。泣いた。本を読んであれほど泣いたことはない。長い間、私が読んで一番感動したのは、『大地』だった。

 15年ほど前、小林多美男著『忘れられた墓標』(全3巻 人間の科学社発行)を読んだ。衝撃を受けた。『大地』を読んだ時のようだった。妻にも友人たちにも読んでもらった。妻も感動した。私は、小林多美男に興味を持った。わざわざ京都府の舞鶴の引揚者記念館へ調査で行ったこともある。小林がシベリアから1951年に舞鶴に帰って来た時、小林は、アメリカ軍によって数週間にわたって取り調べを受けた。何か手がかりをつかめたらと願った。まず記念館では、親族以外に資料は公開できないと言われた。友人の大学教授にアメリカの公文書図書館で小林の資料文献を探す方法を教えてもらったが、実現しなかった。

 小林多美男について多くのページを割いて書かれた本『命の嘆願書』(井手裕彦著 集広舎発行 8800円+税)を多美男の長女がわざわざ届けてくれた。厚さ6.6㎝重さ2.8㎏文字数135万字。注:(小林多美男 1914年横須賀に生まれる。1934年渡満 翌1935年憲兵、主として東北満地方で満州国治安対策、対ソ諜報勤務に従事、その間ロシア語を専攻する。1946年7月末熱河省承徳に転勤。終戦を迎え、特命憲兵少佐を命ぜられ、軍使となって終戦処理に当たる。その後ソ連に抑留、外蒙古、シベリアを転々。1951年帰国 1985年小説『忘れられた墓標』1部2部3部を人間の科学社から出版) 出版後、数年のちに他界した。

 『命の嘆願書』の著者井手裕彦氏は、この本を3年間で書き上げたという。もちろん現役の新聞記者であった当時から資料を集め、証言を書き留めていたであろう。本を出版するのがどれだけ大変なことか私も経験した。資料集めや関係者への取材に、常に高い壁が立ちふさがる。それを越えてこそ、一冊の本が誕生する。小林多美男は、70歳を過ぎてから書き始めている。家族にも話さなかったことも赤裸々に綴った。井手裕彦氏もおそらく小林の著書を読んで影響を受けたと信じる。

 まだ読み始めていない。毎日、『命の嘆願書』を持ち上げ、重さを感じる。私が小林の足跡を知りたいと願って、舞鶴へ行ったり、アメリカの公文書館へ調査に行こうと思って、実現できなかった。でもこの『命の嘆願書』に大きな期待がある。私が知ろうとした小林多美男の事の多くが文字になっているであろう。最近、集中力の欠如か、本を長い時間読むことができない。そんなことは言ってはいられない。読めなくなる前に、どうしても読んでおきたい。

 妻も読む気満々だ。冗談で、妻に通勤の電車の中で読んだらと言うと、「鞄の中の弁当だけでも重いのに、どうやってそんな重い本持ち運ぶの?でも読みたい」 しばらくは、私たち夫婦の多くの時間が『命の嘆願書』を読むのに割かれ、話しもする。嬉しい贈り物である。

 小学生の時の『大地』。同じくらい感銘した『忘れられた墓標』。『命の嘆願書』はいかに。


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おしくらまんじゅう

2023年09月20日 | Weblog

  ♪おしくらまんじゅう、押されて泣くな♪ ラグビーワールドカップの日本対イングランド戦を観ていた時、突然、なぜか子供の時の“おしくらまんじゅう”の遊びと掛け声を思い出した。“おしくらまんじゅう”とラグビーは、比べること自体、馬鹿げているであろう。戦後間もない食料難の時代の痩せた子供たちが、寒さしのぎに押し合いへし合う遊びと、鍛え上げ、その上恵まれた身体を持つ選ばれし15人の運動選手のチームが、相手チームとボールをぶつかり合って取り合うスポーツとでは雲泥の差がある。私が“おしくらまんじゅう”とラグビーを結びつけたのは、体を接触させて押し合う姿からだ。私が子どもの時、“おしくらまんじゅう”は、大勢の子供たちが参加した。2人だけでの“おしくらまんじゅう”なら尻相撲のように尻と尻での押し合いになる。大勢が参加すれば、ラグビーのスクラムの塊のようになった。それだけ大人数の子供たちが、押し合いへし合う。手も足も体も誰かに密着した。子供達のルールとして、手や足は使わないはずだったが、興奮して、終いには、喧嘩の様相だった。寒さ対策には、効果があった。汗をかくこともあった。あの経験から、ラグビーを観ていて、子どもの頃の“おしくらまんじゅう”を思い出したのだろう。

 しかしラグビーは、タフでラフなスポーツだ。今、大相撲9月場所で熱戦が続いている。1対1の相撲では、立ち合いまでに仕切りを3~4回繰り返してお互いの呼吸を整える。相撲は、最も激しい格闘技だと言われている。そのことに異議はない。相撲が個人競技であるのに対してラクビーは、15人対15人の闘いである。それこそラグビー選手は、皆、関取のような体の持主だ。つまりラグビーは、関取が15人集まっていると考えればいい。以前、ラグビーを若い時にやっていた人は、体を触るとすぐに分かると聞いた。筋肉が違うそうだ。私は、ラグビーに向いていない。筋肉質ではない。いわゆる中肉中背のごく普通の体格。運動神経に関して、他人に褒められたこともなく、自分でもスポーツに向いていないと自覚している。何より小心者で、他人と全力でぶつかり合うことなど想像さえできない。

 カナダ留学時代、アメリカンフットボールを体育の授業で経験したが、変てこなイビツなボールの取り扱いに戸惑った。アメリカンフットボールもラグビーもボールの形は同じである。ルールなど知らずにプレイして、ボールをパスされた途端、タックルされた。その恐怖心から、以後絶対にボールの近くに行かないよう逃げ回っていた。

 先日、孫の高校サッカー選手権大会の東京1次予選を応援に行った。サッカーコートがやけに広く感じた。子どもの頃、すごく大きく感じた物でも、大人になって見ると結構小さくて驚くことがあった。コキロク(古稀+6歳)になって、サッカーコートがあれほど大きく見えるのは、老いた証拠か。

 ラグビーワールドカップ観戦は、大相撲観戦と同じくらい楽しみだ。前回のラグビーワールドカップの時、テレビを大画面のモノに変えた。迫力ある試合を大画面で楽しめた。今回、会場がフランスで、時差のせいで、ライブの実況放送は、ほとんど観られない。録画したり、You-tubeのダイジェスト版を観ている。

 “おしくらまんじゅう”しかやったことのない私だが、力一杯日本を応援したい。


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日本人は口うるさい

2023年09月14日 | Weblog

  以前、チュニジアに暮らしていた時、チュニジア人の友人から「日本人は口うるさい」と言われたことがある。私個人を指して言ったのではなく、日本人全般に対してだった。そのチュニジア人は、チュニジア政府から日本へ派遣されていたことがあった。その時知り合った日本人女性と結婚した。チュニジアに赴任した多くの日本人は、何らかの形で、この夫婦に助けられていた。私たち夫婦も、いろいろ世話になっていた。

 それぞれの国の国民には、国民性というものがあると、7カ国で暮らした私は実際の体験から学んだ。確かに私自身、中途半端な潔癖症であり、またちっとも完璧でない完璧主義者だったかもしれない。他人に厳しく、自分には甘いと気づいている。偏差値が幅を利かせ、すべてが成績順で評価される。結果、上下意識に過度に敏感となった。日本で仕事をしていた時から、頑固で他人や家族に自分の考え方やり方を無理強いすることが多かった。再婚して妻の仕事の関係で、海外勤務に同行した。赴任地は、発展途上国が多かった。日本では考えられなかったが、国によっては、運転手、メイド、門番、ガードマン、庭師などを雇うこともあった。妻は、働いていたので、家の事は、私が担当した。日本で従業員を雇っていた感覚で、外国でも雇っていた人々に接した。口は出さなくても、心の中で常にどっちが上でどっちが下か意識していた。大きな間違いだった。その国その国の国民性や、働いてくれる人達の性格を理解することなく、日本人にしか通用しないことを押し付けてしまっていた。「郷に入っては郷に従え」という。寛容でおおらかに、その地の文化伝統を受け入れることがうまくできなかった。今思えば、自分のしていたことは、なんとも恥ずかしい。

 数か月前、ラジオのニッポン放送「辛坊治郎 ズーム そこまで言うか!」に経営評論家の坂口孝則さんがゲスト出演した。坂口さんは、「日本人は『口うるさい客』のせいで世界のマーケットで“日本外し”の動きがある」と語った。「日本人は『口うるさい客』」に私は、痛く反応した。チュニジアで「日本人は口うるさい」と言われたことがよみがえった。あの時も決して良い気分はしなかった。今回もグサッとこたえた。

 坂口さんの話が続く。「…ぶっちゃけ日本儲からないから、日本を外しちゃって韓国とか違うところに寄って、アメリカに行こうみたいな動きがすごくある。その原因のひとつに日本人の「杓子定規さ」を指摘する声が多い。…東日本大震災の仮設住宅をめぐって、最終確認の段階で「釘の色が1本違う。全部、作り直せ」と言われたという。…こんなことやらせているのに、供給難とか笑わせますね。…世界では「すごく口うるさいような消費者として日本人は映っている。日本独特の規格の細かさや融通の効かない慣習があっても、これまでは高く買い取る“上客”だったが、今では様々な分野で「買い負ける」ことが増えており、海外勢からすると日本は“避けたい面倒な客”になりつつある。」

 何か日本の悪口を言われているようで気分が沈む。私も海外で暮らして、いかに日本人が自分たちの杓子定規に固執しているか実感した。キュウリの出荷の際、真っすぐでなければいけない。商品の包装紙の折り目が正しいか、などなど。

 “口うるさい”ことは悪いことではない。まだ日本国に勢いがあった頃、“口うるさい”“杓子定規さ”“完璧主義”が功を奏して、“Made in Japan”は、世界に受け入れられた。今はどうだろう。私が買った車も家電製品など欠陥品が多く、故障や不具合がある。不満。信頼を欠いている。

 私は、日本の勢いがそがれたのは、小中学校の農繁休業での農家支援がなくなったことと、中学卒業時の普通科、商業科、機械科、農業科などへの成績順の振り分けが原因だと思っている。日本の製品が劣化したのではなく、日本の国民が劣化したと思う。今でも政治は、変わることなく、3流いや4流だ。今こそ、日本人は、自分たち自身に“口うるさく”なるべき時である。


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炎天下のサッカー応援

2023年09月12日 | Weblog

9月10日日曜日、東京へ孫のサッカーの試合の応援に妻と行った。台風13号の影響で、試合ができるか心配だったが、結局台風は上陸することなく太平洋上で熱帯低気圧になった。猛暑日が続いていたが、8,9日と気温が下がった。しかし予報では、10日から再び気温が上昇して東京は33℃を超えるとあった。この夏、暑さは異常だった。私は、ずっと夏バテで家に籠っていた。不要不急の外出は、避けるようにとのテレビから注意を守っていた。長男から、「○○の高校最後の試合になるかもしれない」のメールに万難を排して、応援に出かける決心をした。妻は、猛反対だった。私のどうしても行くとの主張に負け、妻が介助で同行するという条件で行くことが決まった。東京に住む長女の家族も一緒に応援にすると言って来た。ところが試合2日前に長女の小学生の子がコロナに感染した。長女一家は、自宅待機しなければならなくなった。試合後久しぶりに皆で集まって食事の計画もダメになった。長男一家と私たち夫婦での会食となり、予約の変更をした。

 当日、猛暑対策としてアフリカで使っていた紫外線よけの上着に帽子、日傘、水に濡らして体温を下げるショッキングピンクの布、凍ったペットボトル2本を用意した。電車とバスを乗り継いで、会場に着いた。私立高校の校庭が会場だった。立派な施設で地面は、人工芝で被われていた。今の高校は、こんなにも立派なんだと感心した。まだ前の試合が行われていた。日陰の涼しそうな場所を探した。観覧席はなかった。校庭の隅のコンクリートの仕切りの上に腰を降ろした。

 いよいよ孫の高校の試合になった。校庭の周りで前の試合を応援していた人々が、帰って今度は、次の試合の応援をする人々が入って来た。どうやら私たちが座った場所は、孫の高校の対戦相手の応援する人々の場所だったようだ。気にしない。孫の学校の名前が入ったT シャツを着た生徒が私たちの座っていた前を通った。私は、その中の一人を呼び止めた。「○○○○の背番号教えてくれる?」 他の2人を呼び止め、3人で校庭の反対側の練習を始めた孫のチームの選手たちを見て探してくれた。「8番です」 校庭は広く、選手の姿は小さくしか見えない。私は、メガネをしていても、小さな背番号までは見えない。

 試合が始まった。8番の選手が、目の前にいる。私たちの場所から5メートルくらいだ。声をかければ届く。でも声はかけない。余計な邪念は禁物。孫にボールが渡った。ドリブルして相手ゴールに切り込んでいった。コート端で、相手の選手と絡む。ボールを蹴りだし、相手選手をかわした。孫がボールを勢いよくゴールに蹴り込んだ。ゴ~~~~~ル。何と開始3分で孫がゴールを決めた。試合は、4対0で孫の高校が勝った。私は、クラブ活動で正選手になったことがない。長男もスポーツクラブに所属したが、鳴かず飛ばずだった。

 コンクリートの仕切りに長時間座っていた。日陰とは言え、紫外線を浴びた。妻は、以前熱中症になった時と同じくらい顏も出ている膚が赤くなっていた。日傘もショッキングピンクの布も防暑用品のどれもこれも守ってくれなかった。約2時間会場にいた。疲れた。でも高揚感があった。

 這う這うの体で会場から、駅周辺の約束の食事会場に向かった。長男一家が来た。4年ぶりの再会。主賓の孫は、私より10センチ背が高く、顔は私の半分。日焼けして精悍。おそらく私の家系で、一番身長が高い。スポーツがまるきしダメだった私と違って孫は、50人の部員がいるチームで正選手でゴールを決めた。出来過ぎだ。でも嬉しい。


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心配日常

2023年09月08日 | Weblog

  日本各地で台風、ゲリラ豪雨、干ばつ、猛暑などの被害が出ている。どうにかしたくても、相手は、自然なので打つ手がない。

 妻は、新幹線で遠距離通勤して東京の職場で働いている。2日前に仕事が終わった妻からメールが来た。「最近、JR在来線の電車が遅れてばかりなので、今日は、乗り換えを違う駅にしてみます。乗り換え時間が1分なので、乗ることができたらメールします」 私は、乗り換え1分に反対だった。最近、駅構内の階段やエスカレーターで転倒する人を何人も見た。妻は、運動神経が優れているとはいえない。年齢的にも、無理ができない。私は、すぐにメールで返事した。メールも瞬時にやり取りできるものではないらしい。急ぐ時、必要な時に、意外と役に立たない。今回も連絡のやり取りは、できなかった。心配は、頂点に達した。

 私は、妻の1分乗り換えを阻止するための行動に出た。車で新幹線が止まる駅まで行き、入場券を買って、新幹線の改札で妻を待つ。駅に到着したのが、妻が乗った列車が到着する2分前だった。メールでその駅で待っていると知らせてあったが、妻がメールを読んだかは定かでない。駐車場に車を入れて、改札に向かった。妻が改札から出て来た。「乗るはずの電車、もう出ちゃった」 帰りの車中、私は、妻に説教した。もう2度と今回のような無謀で危険なことを繰り返させないように。

 8日朝、台風13号が近づいていた。すぐネットでJRの運行状況を調べた。在来線は運行見合わせ。新幹線は、平常運転だった。すぐ朝食を摂った。妻は、あわただしく出勤の用意をして、5時50分に家を出た。まだ暗かった。雨が強く降っていた。風も強くなっていた。新幹線が止まる駅まで急いだ。妻は駅で降り、改札に走り、打ち合わせておいたちゃんと動いていたら、両手で丸の仕草をした。私は、来た道を引き返した。家の近くの新幹線が走るのを見られる場所に車を停めた。妻が乗った新幹線が通過するのを携帯の時刻を見ながら待った。時間通りに新幹線が勢いよく通過した。胸が熱くなった。「いってらっしゃい」

 こんどの日曜日、高校3年生でサッカーをしている孫の試合の応援に行く予定だ。良い機会なので、4年ぶりに長男家族長女の家族と会ってランチをすることになった。試合は、11時からなので、まず皆で応援する。終わったら2時に長男が予約してくれたレストランで食事をする。楽しみにしていた。7日長女からメールがきた。孫がコロナに感染したという。長女一家は、自宅待機になる。というわけで日曜日の4年ぶりの皆が集まることができなくなった。

 心配事がつきない。コキロクは、時間を持て余している。待つのは仕事、散歩が日課と言ってきた。待つのは仕事、散歩が日課、心配日常と言い換えなければならない。

 ニュースを観たり聴いたりするのを避けるようになっている。中国や北朝鮮やロシアの暴走が酷くなるばかり。異常気象、コロナ、政治不信、原子力発電所の汚染水、ジャニーズ問題。どれも私に何とかできる問題ではない。心配しかできない。心配の向こうに私の祈りがある。心配する。そして祈る。死ぬまでそうするしかない。


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重いランドセル

2023年09月06日 | Weblog

  夏休みが終わった。朝、近くの小学校の生徒たちが、背にランドセル、両手に荷物を持って登校する姿を見た。ランドセルが重そうだった。

 先日、テレビで小学生のランドセルが重すぎるのではということが取りあげられていた。私は「えッ、まだそんなこと言っているの」と驚いた。私が小学校に入学したのは、もう68年前である。

 テレビの番組によると今のランドセルの平均的な重さは、4.28㎏だそうだ。これは大人に換算すると18.9㎏になるとか。私は、こんな重い物を肩で負っていれば、日本人の身長が伸びないはずだと思った。大リーグで活躍する大谷翔平選手やバスケットボールの渡邊雄太選手のような背の高い日本人もいるが、まだまだ日本人の平均身長は低いまま。特に私は、街で見かける、最近の中学生や高校生の身長が低いと感じている。昔、日本人女性は、重労働を強いられ、なお食生活も貧しかったので、背の小さい人が多かったと聞いている。しかし今、食生活も向上して、生活もずっと豊かになったはずなのに、平均身長は低いままである。私は、ランドセルの重さも関係があるのではと思っている。変えられることは、変えて、学校生活をより良い物にして欲しい。どこかの研究所が、ランドセルの重さと日本人の平均身長の関係を調べてくれることを期待したい。

 日本の学校教育の全てが悪いとは言わない。良い点もたくさんある。変わって欲しいのは、まずランドセルに教科書など自分の持ち物すべてを入れて登下校することだ。現在、タブレットを生徒に1台ずつ配布してあって、そのタブレットも毎日家に持ち帰っているという。タブレットの重さは、相当なものである。私の60年以上前の経験から、家に持ち帰った教科書や教材などほとんど家で使うことはなかった。なぜ未だにそういう無駄と思えることが続いているのか理由を知りたい。

 私は、10代後半からカナダの全寮制の高校へ転校した。寮制だったので、教室と寮は、歩いて数分だった。寮で勉強する教科書だけを手で持って行けば済んだ。私の長女は、私の離婚が原因で、アメリカの友人家庭に世話になった。小学校2年生だった。友人の家の前からスクールバスで小学校に通った。ランドセルでなくリュックサックを背負って行った。

 アメリカの学校の様子は、テレビの映画やドラマでも観ることができる。私や私の長女が経験したのもあの通りだった。学校に生徒名が記された個人用ロッカーが、教室の外の廊下に用意されていた。そこから家で必要なものだけ持って帰宅した。

 他のテレビ番組で、昭和のヤンキーの鞄のことを取りあげていた。高校生のヤンキーが学校に持ってゆく鞄を薄くして粋がっていた。私もそういう鞄を見た記憶がある。私が通った高校にはいなかった気がする。これっておそらく小学校中学校の押さえつけの反動だと思う。6年間重いランドセルを背負わされ、中学校で重い肩掛け鞄や手提げ鞄を持たされた。高校生ぐらいなると反抗心も出てくる。それでも学校側なのか文部省は、何も変えてこなかった。

 今年も夏休みが終わった。小学校の生徒たちの重そうなランドセルを見た。来年、生徒たちが、重いランドセルから解放され、のびのびとスキップして登下校する姿を見てみたいものだ。


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馬肉事件

2023年09月04日 | Weblog

  歌手のMileiの歌声に聞きほれている。最近の若い歌手が歌っていても、私は、その歌詞を、ほとんど聞き取ることができない。コキロクは、歳のせいで難聴なのかもしれない。Mileiの歌う歌詞は、驚くほど良く聴き取れる。嬉しい。まるで補聴器を使っているかのようだ。聞き取りがきちんとできると、世界が変わる。聴き取れなくても、聴き取れたふりをするのは、気が引けるものだ。

 Mileiは、自分のことをほとんど公表していない。謎多き歌手らしい。そういうところにも、私は好感を持った。多くの芸能人、特にお笑い芸人たちは、誰が好きだの、嫌いだの、仲間内の事の暴露合戦に終始している。私にとってそんなことはどうでもいい。歌手なら、私が聴いて、心に響くことが一番大事である。俳優ならその演技が真に迫っているかどうかが重要。漫才ならボケとツッコミの面白さ。落語家なら話術。その点でMileiは、私の目に適っている。

 偶然、彼女が、テレビに出演しているのを観た。Mileiは、馬肉に衝撃を受けたと話していた。私は、いつもの早とちりで、彼女は人が馬肉を食べることにでも驚いたのかと思った。つい最近、ネットのニュースに『馬肉事件』が出ていた。

  8月24日(木)日刊スポーツ配信『全日本プロレスで活躍した「テキサスの荒馬」テリー・ファンクが23日亡くなった。79歳だった。…和田京平レフェリーがテリーさんとの思い出を語った。…「テキサスの荒馬」の「馬刺し事件」を超えるものはないという。ジャイアント馬場さんの付け人を10年間務めた和田レフェリーによれば「馬場さんから聞いたんだけど、熊本の大会中、馬場さんが、テリーに『どうだ、その肉うまいか?』って。熊本だから馬刺しを食べていたみたいで、でもテリーは知らずに『うまい』って。そしたら、馬場さんが『それは馬だぞ』って教えたら、テリーは『何で俺に…。馬は俺のファミリーだ』って泣いたらしい。彼は牧場をやっていて、それを食べるなんてあり得なかったんでしょう」と馬場さんのいたずらを明かした。「普通ならけんかになりそうだけど、テリーは怒るより、ひたすら泣いていたみたいで。『身内を食べるなんてもんだ』って。『俺は馬を食っちゃった』って。さすがに、馬場さんも『悪いことしちゃったな』って反省していたみたい。あれ以来、テリーは何か口にする時も疑うようになっていたらしい」と笑った。そうではなかった。あまりの美味しさに魅入られたと言うのだ。』

  私もこれとよく似た事件を経験した。45年以上前、上田である団体の全国大会が開催された。アメリカのボストンからの来賓の通訳をした。彼は、弁護士だった。大会終了後、別所温泉の旅館で彼の歓迎会が開かれた。その料理の中に“馬刺し”があった。彼も「美味い」と言った。そして私に尋ねた。「これは何という魚?」 「魚ではありません。馬…」 彼の顔が険しくなった。「何という事を。何故あなたは、最初にそう言わなかったのですか? 馬は私の家族です。」 そして彼は涙ぐんだ。私は、これが良い勉強になった。外国から来た人の通訳をするときは、その国の食文化などを、事前に学ぶようにした。

馬刺しが好きになったMileiに、何故か、親しみを感じる。私も馬刺しが大好きだ。


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