団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

桜見る人、それ見る私

2015年03月31日 | Weblog

  我が家の前の市道は普段ウォーキングかジョギングか犬を散歩させる人以外ほとんど人通りのない道である。ところが30日の朝から、坂の上からも下からもたくさんの人が桜を見ようと歩いている。みな、それぞれの楽しみ方で桜に夢中になっている。陽ざしに負けないくらい明るい表情だ。私はその光景を道路から約7,8メートル上の我が家の窓から眺めている。とても良い光景である。家族連れ、恋人同士、学生のグループ、デイケアからか車椅子に乗った人それを押す人、オートバイに乗った人、自転車に乗った人、車を「路肩駐車禁止」の看板の前に止めて写真を撮る人。人ばかりではない。小鳥たちも嬉しそうに桜の花の蜜を求めて活発に飛び交う。今年はまだ見ていないが去年は猿の群れが桜の花を食べていた。

 今年は天気予報がよく外れている。それほど異常気象なのであろう。予報が外れて天気が良いのは大歓迎である。反対に晴れると言われて雨だとがっかりする。晴れて青空があり陽ざしが温かいと気分も良い。まさに30日は花見に絶好な一日だった。私は子どもの頃から人間観察が好きだった。人混みに憧れた。お祭り、花見、花火大会、野球観戦、市民会館での公演、大勢の人が集まる所では気分が高揚する。今の家に住むようになって、毎年家の窓から桜の花見ができ、その桜をみに来る人々を窓から見られる。

 午後も自転車で郵便局へ行った。途中小さな公園の前を通った。明るい太陽の光のもと、20台くらいの車椅子が公園の東側に満開の桜に向かって並んでいた。壮観だった。どこかのデイサービスの施設から花見に来たらしい。陽に照らされて老女たちの髪の毛が目を引いた。金髪、銀髪、白髪、黒髪。女性が圧倒的で男性は数人しかいなかった。介護師さんが4人いた。若くてキビキビと老人たちを世話していた。桜の木全体が写真に納まるよう、車椅子を移動させ並べ始めた。あっという間に10台くらいの車椅子のお年寄りが桜の前に整列した。男性職員がカメラを構えた。車椅子の間に介護師の女性たちも立った。「ハイ チーズ」と合唱のように声を合わせていた。他の10台と交代した。まるで体育大学のマスゲームのように整然とスピーディだった。

 桜も綺麗だったがこの光景にも心奪われた。快晴、公園、桜、それぞれがそれぞれの人生を生きその喜怒哀楽を封じ込めた車椅子に座る老人たち。自分の力では歩くこともできないほど老衰しているけれど、若い時から毎年桜をそれぞれの見方で楽しみ生きてきたに違いない。それぞれが桜の花はぱっと咲いてぱっと散る潔さを尊んでいる。しかし自分の方から生死をコントロールできる人はいない。人は運命、寿命に従わなければならない。その時が来るまで生きなければならない。ある意味過酷なことだと思った。桜の木の近くのベンチにひとり座って、車椅子で花見をする老人たちをじっと見ていた男性がいた。彼も私と同じように桜だけでなく人間ウォッチングをしているようだった。いつか老化が進んで介護を受けなければならない日の自分を私と同じ考えでみているようだった。

 桜は日本中、沖縄から北海道までどこでも誰でもが楽しめるよう植えられている。春が近づくとテレビの天気予報は桜の開花予想を出す。自分が住むところではいつ桜が満開になって見頃はいつか、天気はどうかと気をもむ。“桜前線”は南から北へと日本全土を順次移動する。それは結氷した川が氷を下流へ流し出すように勢いを増すのに似ている。氷という冬が水に戻り春となる。時期が異なることで桜の花が次々に日本各地を被いつくし春に変えてゆく。

 私が海外で「できればもう一度日本で見たい」と偲んだ風景、それは古城の堀の周りの満開の桜、見渡す限り水田に田植えが終わり水を張られ、夜に月の光に照らされカエルの合唱が聴ける光景だった。今は毎年、心行くまでその光景が見られる。幸せである。


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あったかいんだから、お湯は

2015年03月27日 | Weblog

  蛇口から勢いよく湯が出た。3週間ぶりである。シモヤケになるのではないかと妻とお互いの手を心配してずっと朝晩洗い物,調理をしてきた。ゴム手袋を使ったが冷たさに変わりはなかった。そのたびにハンドクリームをつけた。以前、湯を使うことが当たり前と思って毎日過ごしていた。私はいつからこんな感謝知らずの人間になってしまったのだろうと冷たい水に触れるたびに考えさせられた。

 26日午前9時から温水器取り換えの工事が始まった。簡単な工事だと高をくくっていた。とんでもない間違いだった。まず新旧温水器ともでかい。古い機器を出して新しいのを入れる。高さ188センチX幅63センチX奥行73センチ重量74キロ(満水時444キロ)。作業を観察していて、機器、制御システム、手順段取り、道具などの進歩は目覚ましいと感動した。一方未だに作業する人のことを二の次にしているとも思った。まだまだ改善進歩の余地を感じた。設置場所は端から取り換え工事のことを考慮されてもいない。機械が空間のほとんどを占領していて人が入りこめない。作業員は太っていた。「俺じゃ入れね~な」と座り込んだり寝そべったりして窮屈そうに作業した。その上、水道管、配湯管、排水管の接続もやっつけ仕事だったので今回の工事に支障をきたす。彼は「取り換えることはまったく考えていない仕事だ」と言いつつも手は止まらなかった。

 私はただの傍観者でしかなかった。古い温水器を取り出せるようまずタンクの水を抜いた。結構時間がかかった。その間に作業員の二人は玄関から玄関ホールの床、エレベーターの中の床と壁、エレベーターから我が家の玄関までの床と壁、玄関内の床と壁を汚れや傷つけ防止の防護シートを張り巡らした。水道管などを外して古い温水器が運び出された。新しい温水器を設置するためボルトを埋め込む穴をコンクリートに電動ドリルで開ける。設置する前の作業もいろいろあるものだ。新しい温水器が収まるべきところに収まったのが12時近かった。一人が古い温水器をトラックに積み込んで会社へ戻った。あとの作業を残った一人がする。

 私もお昼の用意をしようと鍋に水を入れようと蛇口をひねった。あれ、水が出ない。当たり前である。工事する前に水道の元栓を閉めてある。そうするとトイレも使えない。それを意識すると尿意が湧く。人体と脳神経の連係の不思議である。我慢、我慢。昼食を冷蔵庫の残り物をレンジでチンして食べた。作業員は昼食のためにコンビニへ行って弁当を買って食べ、1時から工事を再開すると出て行った。私も外に出て近くの公衆便所へ行こうとしたが、玄関のドアはシートが貼ってあってドアを閉められない。ドアを開けたままで外にも行けない。

 最後に素人には複雑でわからない電気関係の接続をスイスイと作業員が進めた。こうしてすべての工事が終了したのが午後4時だった。7時間も一緒だった50歳くらいの作業員とすっかり打ち解けていた。「水道の元栓開けましたよ」と声をかけてくれた。私は一目散にトイレに駆け込んだ。生き返ったような気分だった。ウォシュレットのトイレも素晴らしいがこんな凄い便器だって水と電気がなければ使えない。何と恵まれた時代に生きていることか。先進的な便利さに囲まれて甘やかされた生活を送っていると実感した。台所、風呂にあるリモコン操作盤も新しいものに代わった。試運転。まず風呂のお湯はりの量、温度の設定をして数十分でお湯が出るようになった。

 夜仕事から戻った妻も威勢よく蛇口から飛び出すお湯に手を当てて「これでやっとお湯が使える」と喜んだ。妻が喜ぶのは見ると私も幸せになる。あったかいっていいことだな~。


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桜と愛車

2015年03月25日 | Weblog

  自転車を多用するようになった。整形外科に月一回通院している。脚の筋肉の衰えを指摘され、教えられた筋肉増強の体操をこの数か月続けている。前回の医師の測定で2センチ太ももが太くなった。歩くのと同じくらい自転車も脚の筋肉を鍛えると言われ、自転車に乗るようになった。散歩中心だった運動に自転車が加わった。

 住むところは坂が多い。行きはヨイヨイ帰りはコワイ。いくらアシスト自転車でも帰りの上り坂は息がはずむほどペダルをこがなければならない。寒い日でも汗をかくことがある。自転車で行動していると歩いているときとは、違った景色や世相が見えてくる。

 先日赤信号になり道路脇で自転車を止めていた。するとイタリア製のフェラーリが横にいた。運転していたのは70代と思われる私より年配の男性だった。身支度も良かった。私の自転車は特売で6万7千円だった。私が身に着けていたのは妻の甥にもらったお古の黒いダウン、黒い皮手袋、マスクに毛糸の耳当て。フェラーリの老人の視線が冷たかった。おそらくフェラーリは2千万円以上であろう。

  人一人の生涯収入は平均的な一般人ならさほど格差はなく、個人の性格嗜好価値観により金の使い方に違いがでてくる、が私の持論である。私だって家も持たず欲しい物の多くを諦め無理に無理すれば、フェラーリを買えたかもしれない。しかし、確実なのは絶対に維持できない。税金、保険、燃料代、車検代などなど。個人の豊かさというのは、物品を購入することではなく、その維持の仕方にある。そんなことを考えながら次の信号に差し掛かった。今度は私の6万7千円の愛車の隣に金色のベントレーが止まった。5千万円はする車である。運転していたのは、私と同年輩の普通のおじさんだった。私はフェラーリに乗っていることもベントレーに乗っていることも羨ましくない。あれだけの車をごく当たり前のように維持できる経済力と価値観に驚嘆するのである。

 私は身の回りの整理を始めている。90歳ちかくになった母親に倣う。母親は60歳で自動車免許を返納した。70歳までに身の回りのモノを整理して風呂敷包み2つにまとめ、「私が死んだらこの風呂敷包みを処分して」と言った。私はまだ運転免許証も返納してない。モノの整理も始めたとはいえ、遅々として進まない。

  昨日、私は決心した。3ナンバーの今乗る普通乗用車を処分して、リースの小さな車にすることを。そして知り合いの業者に頼んで手続きを開始した。3月末までに廃車の手続きをすれば、来年度の自動車税を払わずに済む。大きな節約となる。車をリースにしておけば、私が運転できなくなってもリース会社が始末してくれる。今度乗る車のパンフレットに車椅子がそのまま積み込めるとあった。私は「いいな」とガッテンした。後でよく考えると、私が車椅子に乗ったら誰が運転するのだ、と笑った。

 私は金持ちではない。でも時間持ちで本持ちで調理道具調味料持ちにはなれた。我が家はエンゲル係数が異常に高い。これも私たち夫婦の価値観の故である。これからも気の合う仲間に家に来てもらって、私の足を使って、あちこちで買い求めた私の目で選んだ材料で料理してモテナそう。

 今朝も天気が良く青い空が美しい。家の前の桜並木が一斉に咲きだした。桜のトンネルを自転車でさっそうと駆け抜けるぞ。


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チュニジア 国立バルドー博物館  テロ事件

2015年03月23日 | Weblog

  拙著『ニッポン人?!』 青林堂 の182~184ページの「モザイク」からの抜粋:

【チュニスのバルドー国立博物館へ日本からの客を案内した。ここにはローマ帝国がチュニジアに残したローマ時代のモザイク作品が数多く展示されている。チュニスの観光名所として知られている。圧倒されるようなそのモザイク作品が、オスマントルコの地方長官だったベイの宮殿をそのまま博物館にした広大な建物の中に展示されている。私はモザイク作品の中に描かれているローマ時代の生活に興味を持ち、幾度となく訪れた。特にこの辺で獲れた魚、果物などが描かれたモザイクを見るのが好きだった。

  その日もいろいろな国から多くの観光客がバスを連ねて訪れていた。入場券売り場の前には、長い列ができていた。地中海式気候の強い陽ざしの中、日陰にさえいれば、気持ちのよいからっとした昼下がりだった。日本からの客と列に並んでいた。そこにチュニジア人の二人連れの若い男が通りかかった。すれ違いざまにひとりの男が「シノワ」と吐き捨てるように言った。私は列を離れ、その男の後を追った。追いつくとまず「あなたは英語を話しますか?」と尋ねた。薄ら笑いを浮かべて男は「シノワ」と再び毒づいた。

 すぐ近くに警察官がいた。きちんとアイロンがけしてある青い制服を着た、がっしりした褐色の顔の精悍な警官だった。チュニジアは、観光客の治安対策として複数言語に堪能な警官を観光地に数多く配置している。

  私はその警官のところにいって英語で事情を手短に話した。警官はすぐに、追いかけてその若者を呼び止めた。警官は私を手招きして「私が通訳するから言いたいことを言いなさい」と言う。嬉しかった。私は若者に心の丈を訴えた。日頃から多くのチュニジア人から「シノワ」と呼ばれ嘲笑されていた。

  私は「多くの外国人がこの素晴らしいバルドー国立博物館へモザイク作品を見にやってきます。観光はチュニジアの需要な産業です。その観光客にあなたの言うような言葉を投げかければ、その人からその国の多くの人々に、チュニジア人は、日本人やアジア人に失礼だ、それに治安もよくない。悪いうわさが広まります。それとも、チュニスのバルドーでみたモザイクが素晴らしかった。それにチュニジア人は親切でとても良い人たちだから、あなたもぜひ行ってみたら、と言われるのとでは、あなたはどちらを望みますか?」とまず言った。

  警察官は、私の横でいちいち頷いて聴いていた。そしてチュニジア語で若者に話し始めた。初めは私を見下ろすようにふて腐れて見ていた若者の顔が、段々真剣な顔に変わっていった。

  更に私は調子づいて続けた。

 「もしあなたが日本へやっと苦労して貯めたお金で観光に来て、行く先々の日本の観光地で日本人にアラブ人と蔑まされ、あなたが私にしたようにされたら嬉しいですか?またそんな日本に観光に来たいと思いますか?友達に日本に行ったらと薦めますか?地球はこの博物館にあるモザイクと同じです。色々違う色、違うサイズのモザイクで素晴らしい作品が出来上がっています。色々な人種や文化が混ざり合ってこそ、平和に安心して住める地球になると思いませんか?」

 警官は「そうだ、そうだ」というように首を振る。

 警官は力強く威厳をもって若い二人に話す。一緒にいた最初迷惑がっていた男の方も、熱心に聴いている。警官は話し終え、「シノワ」と言った若者の肩をポンと叩いた。若者二人は、バツが悪いそうにその場から去って行った。アラブ社会では男は謝らない。警官が私に握手を求め、手を差し出した。冷たい大きな手だった。

 「あなたの言うことは正しい。あの青年たちに良い勉強になったでしょう。私からも感謝します。どうぞ良い旅行を続けて、日本に帰ったらチュニジアはよい所だと宣伝してください。それではこれで失礼します」と警官はきびきびした動作で立ち去った。

 心配そうに列から離れて待っていた客のところに戻った。「シノワ」の意味も分からず、すっかりチュニジア観光を堪能している客に私は「知り合いに会ったので挨拶していた」と告げ、真実は隠した。旅行は偏見を生むと言う。良い思いをすれば、その場所はずっと良い思い出になり、悪い思いをすれば、そこはずっと悪い思い出になる。

 外でどんないやな目にあっても、バルドー国立博物館の中は、やはりその日も素晴らしかった。一番好きな古代ローマ時代のこの辺で獲れ獲物、魚介類や野菜、果物の巨大なモザイクの壁画に見とれた。客も大いに満足した。今でもまたバルドーに行きたいと言ってくれる。メデタシ、メデダシ。】

 

 あの日から13年以上の時間が過ぎた。現地時間18日午前11時にチュニジアの首都チュニスの国立バルドー博物館へテロリストたちが自動小銃を持って侵入した。日本人3人を含み死者22人が犠牲になった。この事件を知ってまず拙著の「モザイク」の警官と二人の若者を思った。当時若者の失業率は50%とも60%とも言われていた。職のない希望のない若者たちが多くいた。その腹いせのように能天気な観光客、特にアジア人観光客に対して「シノワ」(フランス語で中国人の意)と蔑んだ。アラブの春で民主化を進め、若者の失業者が減少して経済も好転するかもと私は期待した。差別の根源に貧困がある。希望のない若者がISなるテロリスト集団に参加する。チュニジアからは一説によると3千人近くがISの支配地に渡ったという。

 私がチュニジアに住んでいた時は、プライドを傷つけられたと過剰に反応した。今となれば、私はチュニジアの若者たちに「シノワ」と言葉を吐き捨てるように言われても構わないと思う。自動小銃や機関銃で無差別に撃たれるよりはるかにマシだ。それで彼らのやるせない思いや鬱憤がはらされるなら、あえて「シノワ」と呼ばれてもいい。しかしもう若者たちは、その段階から抜け出してしまった。彼らの一部は彼らの神を信じて聖戦と思い込み銃弾を無差別に異教徒に向ける。私は「シノワ」に立ち向かえても、彼らテロリストの暴力的手段に立ち向かえる術も信仰も持たない。


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あっ、N君だ

2015年03月19日 | Weblog

  小田急線は混んでいた。幸い席が一つ空いていた。その空間はとても私の尻が収まりそうもなかった。二人の男性が膝を広げて座っている間の小さな空間であった。二人とも膝を狭めて元に戻す気はないらしい。歯医者で最後の歯周病の切開治療を終えた。出血もひどかった。口の中は血の鉄分の味がしていた。麻酔がまだ聴いていた。とても男性たちに声をかけて座らせてもらえるとは思わなかった。しゃべったと同時にヨダレがしびれる唇の脇から流れ出す危険があった。立っていることにしてドアの近くに移動した。揺れた。ひどく揺れた。吊りかわに掴まって電車の揺れに飛ばされないように両脚を踏ん張った。アゴが上を向いた。目が壁に貼ってある一枚のポスターの人物写真をとらえた。一瞬の出来事だった。電車の揺れが収まった。両脚のこわばりを解いて写真にじっくり目をやった。「あっN」と思わず声を出しそうになった。オープンキャンパスとかで講師をつとめるらしい。詳細は読まず、しばしNの写真を見つめた。

  知り合いがこうしてポスターに写真が載ったり本を出版したりするのは何となく自慢となる。私の小中高の日本の同級生で犯罪をおかして顔写真や名前が新聞テレビなどのマスコミに取り上げられた人はいない。芸能人、作家、政治家になった人もいない。全国的な有名人はいない。高校の同級生の多くは会社や教員になった。ほとんどが退職した。既に鬼籍に入った人も51人中8人になる。

  大学教授だったN君も去年定年退職した。年に数回会う機会はある。「退職したら月に一回くらいは会おう」と退職前に話していたが、N君、講演会などで結構忙しくしている。会うのは退職前と変わらず年数回である。とにかく彼の話は興味深い。話し方がうまく引き込まれる。性格が穏やかで一緒にいて嫌なことは一度たりともなかった。会えばまた会いたくなる希少な友である。

  そのN君の写真を歯医者の麻酔が解けない状態で公共交通機関の電車の中で見つけたのである。口の中の痛みはしばし消えた。良く撮れた写真である。彼の性格が見て取れる。

  アフリカのセネガルで暮らしていた時、NHKの国際放送のニュースでM君が書店でインタビューを受けているのを観た。普段ホームシックになることはなかったが、さすがにM君を観た時は日本に帰りたくなったものである。

  知り合いに有名人はいないが私にとっては大切な人々が現在の私の周りにはいてくれる。N君と今度の土曜日に会える。奥さんと一緒に泊まりで来てくれる。写真もいいがやはり実物がいい。M君とも5月に会える。


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眼科受診

2015年03月17日 | Weblog

  街の灯が、車のヘッドライトの光がいつもと違って眩しかった。それはまるでダイヤモンドダストのように輝いていた。薬で瞳孔を拡げたままにできる医学の力に感嘆する。

  夕方、妻を駅に迎えに行く4時間前に眼科医院で眼底検査を受けた。検査のために瞳孔を開いたままにする薬を点眼された。糖尿病の合併症に眼底出血による失明がある。そのために1年に1回、眼底検査を受けている。

  眼底検査を受けようと思ったのは、左目の眼球の周りに、瞼の開け閉めのたびに違和感というかこわばりを感じたからだ。妻にそのことを告げると「眼底検査もそろそろ受ける時期でしょう。眼科に行って来たら」と言われた。歯医者でやっと4箇月にわたる歯周病の治療が終わったばかりである。しばらく病院には行きたくない気分だった。何とか目の違和感を取ろうと眼科で処方された目薬を1日に何度も点眼していた。変化はなかった。

  天気が悪く時々夕立のように強く雨が降った。こんな日は家にいても気分が滅入る。思い切って眼科に行くことにした。休診だといけないので診察カードを探して電話番号を調べた。午後2時半から診察があることを確認できた。歩いて行けばびしょ濡れになる。風邪は今年もうひきたくない。どうせ眼底検査を受ければ車の運転も自転車にも乗れない。歩いても危険である。タクシーを呼んだ。

  受付番号は4番だった。雨のためかいつもより患者が少なかった。検査技師なのか若い男性が問診表を持って私の前に跪いた。目の違和感を訴えたが私の表現力が貧しく相手に理解してもらえない。結局、私は的確に私の目の症状を伝えることはできなかった。視力検査、眼圧検査などの診察前の検査を受けた。若い男性検査技師は、不注意なのかぞんざいなのか視力検査のレンズを入れ替える時、レンズを目に当てた。1回はレンズの縁が眼球に触れ、痛かった。涙が出たほどだった。

  眼底検査を受けるかどうかまず左目の違和感を医師に診察してもらい、眼底検査が可能か決めると言われた。この眼科医院は一人の医師と看護師、検査技師、事務員など15,6人が働いている。医師はその頂点に君臨する。

  医師はことのほかご機嫌がよくなかった。疲れているのか何かあったのか、いつもの人当たりの良さはなかった。たいした診察もなく「感染症だね。薬出すからしばらく使ってみて、それでも良くならなかったらまた来て診せてください」とぞんざいに言われた。看護師に眼底検査をするために瞳孔をひらく薬を点眼してもらった。20分後再び診察室へ。診断は「左の出血が拡がっている。右は問題ない」だった。妻から「眼薬まだ使ってないのがたくさんあるからもらってこないで」と言われていたので「先生、まだ目薬たくさん残っているので・・・」と言い出すと、医師の不機嫌さが増し顔の筋肉がこわばった。診察室を出る時「ご機嫌よう」と言いたかった。でも言葉にならなかった。患者の分際で医師にたてつこうとは思わない。ただ私は、どなたとであれ、機嫌よいお付き合いができればよいと願う。

  支払いを終えて、出された処方箋をみると目薬、前回3本づつであったが4本づつ8本と感染症の1本の計9本だった。


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卒業ネクタイ

2015年03月13日 | Weblog

  日曜日の午後、妻と二人で納戸や収納を整理している時、妻が私に言った。「服をかけてあるパイプが服の重さでたわんでいるんだけれど、この際だから片づけてしまわない?」 その日夕方5時にはリサイクルショップの買取り係が来ることになっていた。この家に住んで11年目に入る。私も着もしない服の多さが気になっていた。既に背広はまったく袖に腕を通さない。ワイシャツもほとんど着ない。ネクタイなど結び方も忘れた。それなのにパイプにたくさん掛かっている。どれ一つとっても思い出深いものである。片づけようという気持ちはずっと持っていた。

  3・11の大震災の前年、友人の故郷東北へ同行させてもらったことがある。当時99歳だった彼の母親を訪ねた。目も耳も足腰も悪くなく会話も楽しかった。「毎日どうお過ごしですか?」との質問に「毎日同じことの繰り返しです。ずっと死ぬ前に押し入れを整理しようと思ってはいたのです。朝押し入れから片づけようと行李を出します。開けて品々を取り出します。手に取るたびに思い出の映画が始まります。そうすればお昼になります。お昼を食べて昼寝を2、30分します。午後も押し入れの整理を続けます。そうすると夕方になり、出したモノをしまい行李を押し入れに戻します。その繰り返しです」 私は友人の母親のあの時の気持をなぞりながら、整理を進めた。隣で妻もせっせと始末するもの、しないものの仕分けをしていた。気のせいか、彼女のとっておくほうの山がずいぶん大きく見えた。

 ネクタイの中から緑色の細いネクタイが出て来た。(写真参照:男子生徒全員が同じネクタイをしている)カナダの学校のクラスタイだった。卒業を迎える最終学年の記念写真を撮る前にクラスの委員会が決めたものだ。50年以上も前のことだった。ネクタイは生き証人のように思い出を次々に提示してきた。67歳のいまは、カナダでの生活の夢をみることさえない。手が止まってしまった。イケナイ。感情や情緒に押し流されていてはいつまでたっても片付かない。カナダの学校の卒業タイを処分する山に加えた。妻もなにやら思い出にひたっているようだった。大きなビニール袋二つに「古布」と書いた紙をいれ集合住宅の資源ゴミ置き場に運びいれた。

 午後5時少し前、リサイクルショップの買い付け係がやってきた。一人だった。雨も降っていた。売って金が欲しいとは思っていなかった。ただゴミにして出すことは、許せなかった。買い付け係は携帯電話で店に応援を頼んだ。しばらくして別のトラックで2人が来た。トラックいっぱいの不用品。1万円だった。何に対しても「昔はこの手の物は人気があって良い値段で取引されていたんですが、いまではさっぱりです。何ならうちのほうで処分しておきますが」と常套句が返ってきた。私は以前知人の引っ越しを手伝った。東京から来た古物商はトヨタクラウンのバンの車体が下がるほど積み込んで「私の方で片づけておきますので」と3万円を知人に渡して立ち去った。

 片付いて納戸も収納もスッキリした。処分したモノがなくても、明日も不便なく暮らせるに違いない。しかし得体のしれない寂しさに似た気持が胸の奥に残った。衝動買いや無駄遣いの懺悔もあるが、それだけでもなかった。最後まで私から離れることがないのは、私のこの感情だけだろう。できるだけ機嫌良くさせておかねばいけない。卒業シーズンである。私は自分の人生の卒業をこのネクタイを締めて送りだしてもらおうと決めた。最後の最後、資源ゴミに出すビニール袋から取り戻してあったネクタイをきれいに折りたたんで引き出しの奥にに押し込んだ。


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3・11

2015年03月11日 | Weblog

4年前のあの日、

金持ちも貧乏人も経営者も雇用人も健常者も病人も

痩せた人も太った人も老人も母の胎内の子も

巨人ファンも楽天ファンも阪神ファンも日ハムファンも

自民党支持者も民主党支持者も共産党支持者も

キリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒も神道信者も

創価学会員も天理教信者も世界救世教信者も

エホバの証人の信者も統一教会の信者も無神論者も

スズメもカラスも犬も猫も金魚も鯉も牛もブタも

建物も防波堤も自動車も船も店も工場も田圃も畑も

預金通帳もハンコも株券も保険証書も現金も

墓も骨壺も骨も遺灰も卒塔婆も線香立ても花活けも

何の分け隔てなく地震津波放射能に襲われた

死者15882名行方不明者2668名個個断末魔

無念さ残念さが今日も怠惰な私に突き刺さる

只、目を閉じて首を垂らすのみ


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嘘つきは泥棒の始まり

2015年03月09日 | Weblog

  嘘つきがまかり通る。川崎の中学生殺人事件の容疑者の3人(A18歳B17歳C17歳)の少年たちの供述、中川郁子農水政務官(56歳)と門博文衆議院議員(49歳)の週刊誌報道に対する釈明、国会議員の不正献金事件の各被疑議員の釈明、青酸化合物による連続殺人事件で、京都と大阪の男性2人を殺害したとして起訴された筧(かけひ)千佐子被告(68)の逮捕前のテレビでのインタビュー。みな嘘を平気でついた。詩人谷川俊太郎は「嘘は本当とよく混ざる。本当は嘘とよく混ざる」と言った。「オレオレ詐欺」もいっこうに収まる気配がない。一流の詐欺師は本当のことを9、嘘を1の割合で混ぜ、3流の詐欺師は嘘を9、本当のことを1の割合で混ぜるというが、まさにここまでくると嘘芸の極意である。

  私は以前中川郁子さんのことのことをブログに書いた。2009年故中川昭一財務大臣がローマのG7後の会見で酩酊した姿をさらした。帰国後、記者たちが自宅の周りを取り囲んでインタビューしようと中川大臣を待ち構えていた。一人自宅を出てマスコミに取り囲まれた中川大臣に「いよ、日本一!」と自宅の窓から郁子さんが声をかけた。その年の9月に行われた選挙で中川昭一さんは落選した。それでも郁子さんは夫を支えていた。私はこの夫婦のつながりを羨ましいとブログに書いた。中川郁子さんは現在独身である。誰を愛し、誰とキスをどこでしても悪くない。なのに週刊誌の取材に対して「覚えていません。私じゃないと思いますよ」と答えた。その後発言を撤回した。嘘であった。記者に追いまくられていた夫を擁護した女性である。なぜ自分の私生活を堂々と主張しないのかと私はいぶかった。週刊誌が発売されて事が公になると国会議員の奥の手である病気入院となった。これで私の彼女に対する評価は変わった。ただの政治屋の一人だった。

  筧(かけひ)千佐子被告は私と同じ年令である。現在起訴されている2人の他に6人の高齢男性に青酸化合物を飲ませて殺害したと供述しているという。遺産目当ての犯行で約10億円の遺産を受け取ったとも言われている。逮捕前にテレビで身の潔白を訴える姿に私は人間の底知れぬ暗部に恐れをなした。あれだけの嘘を平気で言える彼女が昭和22年に生を受けてどう暮らしてきたのか。私自身の67年と照らし合わせてみるも、どうにも想像がつかなかった。

  報道される事件の真実を覆い隠そうとするかのように嘘が渦を巻いて攪乱する。マスコミは事の真相を伝えようとするがフライイングも多い。私たちの日常にこれだけ多くの嘘が我が物顔で闊歩するのは、情報洪水が原因である。私が思うに初めに列記した容疑者、犯人、当事者たちは、選択肢が多すぎる生活の中で溺れてしまったようにみえる。他人と多く関われば関わるほどありのままの自分は見えなくなる。

  私はこの歳になってもまだ自分がよくわからない。妻と二人だけの生活で手一杯である。その妻に対しても嘘をつく。嘘をつく自分を制御さえできていない。私は臆病で小心者である。だから家に留まって他人さまに迷惑をかけぬよう息をひそめて生きている。選択肢をできるだけ少なくして単純な暮らしを目指す。子ども頃、親に「嘘つきは泥棒の始まり」といやになるほど言われて育った。それがブレーキになっている。今は「嘘をつかなきゃ損損」の音頭が巷にあふれる。私は「嘘つきは泥棒の始まり」を信じる。


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吉永小百合さんのアクオスCM

2015年03月05日 | Weblog

  最近、とんとシャープのテレビコマーシャルを目にしない。シャープのテレビ、『アクオス』のテレビコマーシャルには長年,吉永小百合さんが出演している。亡くなった高倉健さんがまだ登場するニンニクのコマーシャルのように、この人が引き受けている会社の製品だからという安心感を持てる。嫌らしいテレビコマーシャルが多い中、静かに目を離さないで観られる数少ない日本のコマーシャルだった。

  私たち夫婦はあまりテレビを観ないので,吉永小百合さんのシャープの
コマーシャル放映の時間帯が合わないのだと深く探ることもなかった。先日ネットの経済ニュースにシャープが金融機関に1500億円の融資を要請したとかしないとかとあった。一時シャープは液晶テレビで一世を風靡した。まさに吉永小百合さんと並んでシャープの製品が画面に映ってもその存在感に遜色はなかった。我が家も「ニッポン亀山製」とシールが張られたアクオスのテレビを買った。

  最近のソニーのテレビコマーシャルも何だか変だ。業績が低迷しているのだから仕方がないと言えばそれまでだが、世界にその名を知らしめたソニーの凄さを海外生活で実際に見て知っているので私たちは寂しい。近ごろ景気が回復していると言われているが、日本企業の中でも明暗が分かれている。企業の明暗、どちらに属しているのか、定かではないがコマーシャルを観れば感じ取れる気がする。とにかくソニーのコマーシャルは同じものを長く使う。新作が少ない。傑作がない。決算が赤字のため、宣伝費に金をかけられないのだろう。私はパソコンはVAIOと決めてずっと使ってきた。そのVAIOもソニーから離脱して別会社になった。今使っているVAIOがダメになったら何を買えばよいのか途方に暮れる。


  ソニーの携帯電話のテレビコマーシャルで夜のスキー場をネオンサインのような発光体を身に着けて列になって4,5人のスキーヤーが暗闇を滑っているコマーシャルは観ていて不愉快になる。画面に合わせて流される音楽にも抵抗感がある。そして『このカメラに世界が驚く』のナレーションには呆れ果てる。隣の妻が「驚かない」と鋭く言い放つ。芸能界のことも産業界のことにも関心が薄い彼女が珍しくソニーのコマーシャルに反応する。呆れると言うか物悲しくなる。

  私は妻の海外勤務に同行して13年間6か国に暮らした。アジア、アフリカ、東ヨーロッパ、北アフリカ、極東ロシア。転勤するたびに、多くの日本企業の製品が後発の国々の製品に追い落とされる無様な凋落を見せつけられた。暮らしたのは国民所得がまだ低い国ばかりだった。品質より値段の安さが求められていた。消費者の要望に日本企業は耳を貸さなかった。どこの国で会った日本企業の駐在員もプライドばかり高く消費者目線ではなかった。そのさまは生まれた信州の田舎で、うちは由緒ある名家とか商家と自慢していた一族が経営する店や工場が、大手企業の地方進出によって次々と没落倒産していったのとよく似た光景だった。

  2000年を過ぎて北アフリカのチュニジアに住んだ頃は、電化製品売り場で日本製の商品を見つけるのが難しかった。韓国のサムソン、LG,中国のハイエールばかりが並んでいてよく売れていた。現地のテレビ放送のコマーシャルは韓国の放送局かと見まがうほど放映回数が多かった。韓流ドラマも世界に浸透し始めていた。韓国の自動車の進出もすさまじかった。それでも日本の自動車産業はいまのところ何とか踏ん張っている。自動車のテレビコマーシャルも軽自動車のものが多いのには不安もあるが、概ね好感を持てる。

  テレビコマーシャルは世相の鏡である。「過払い金」「パチンコ店」「宗教」などのイライラさせられるコマーシャルばかり目につく。そんな中、日立や東芝など業績が良くコマーシャルも好感が持てる。まだまだ日本の企業にもチャンスはある。技術力もある。ソニーにもシャープにも復活して欲しい。それは視聴者が心静かに納得して観ていられるコマーシャルを作れる時が来れば叶う。そう強く信じて待っている。


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