団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ペットボトル

2010年11月30日 | Weblog

 出がけの電車の中に遠足帰りなのか小学生がたくさん乗っていた。4年生か5年生だろうと推測する。珍しく電車は、ボックス席だった。ほとんどの席が、団体の小学生に占拠されていた。乗客は、相変わらず年配者が多い。その年配者が、うらめしそうに座っている小学生を見ていた。私はドアに向かって立ち、太平洋を眺めていた。私のすぐ近くのボックス席から笑い声が湧き上がっていた。男の子4人が楽しそうに話し、笑っていた。私は適度な音量の笑い声が好きだ。バカ笑いではなかった。笑い声の中に身を置いていると心が落ち着く。4人の中の一人の子は、「ハハハ」と「カカカ」がほどよく混じった笑い声でよい響きだった。

 同じクラスの女子なのだろう。その子が座っていた5,6メートル先から4人の男の席にやってきた。ちょっと小太りで、クラスに必ず一人はいる、しきりたがり屋の雰囲気があった。「ちょっと、あんたたち、静かにしなよ」と仁王立ちになり一喝した。それ以上、何もなかった。4人の男たちは、再び楽しそうに話したり笑ったりしていた。しばらくすると長めの髪の毛をポマードでオールバックにした50~55歳くらいの男性が、4人の席に割り入り、立った。目にもとまらぬ早さで、手にしたミネラルウォーターのペットボトルで「ボコ」「バシッ」「ポコン」「パン」と4人の頭に当てた。4人は、突然のことに呆気にとられていた。自分たちの担任に対する表情ではなかった。私は、最近の学校の先生は、こんなことまだするのかと不審に思った。私が小学生だった頃、体罰なんて当たり前だった。階段から突き落とされて、聴力を失った同級生もいた。しかし私の勘は、どうしてもこの人が、彼らの担任教師だとは認めたがらない。服装?このような行動?雰囲気?表情?何やら4人に説教している。電車の走る騒音で彼が言っていることが聞きとれない。


 前の車両から連結デッキを通り抜けて、30歳代の男性が私のいる車両に入ってきた。その男性は、私の勘に素直に「先生に違いない」と訴えた。男性は、その車両のボックス席のひとつに、乗客の目と耳が一斉に注がれていることに、いち早く気づいた。身長は165センチくらい、こげ茶のタートルネックの上に黒のフリース、黒のズボン、トレッキングシューズを身につけている。説教をしていた教師ではないらしい男性が、先生らしい男性に気がついた。先生らしくない男性が顔を怒りで赤くして怒鳴った。「あんたがこいつらの先生か?」 先生らしい人の声は聞こえなかったが、男性の顔が白くなった。私は、嬉しくなった。こんな状況で不謹慎であったが、私の“らしい”“らしくない”の勘が正しかったことが、私をにやつかせた。先生でない男性は、文句を言い続けた。「学校がこんなだから今の子供がおかしくなったんだよ」「これだけ年寄りが乗っているのに、子供が座っていていいのか」言っていることはそれなりに正論である。なぜか、私は、全面的にこの説教男性を支持できなかった。ひら謝りした後、先生は4人の生徒を連れて、前の車両に移って行った。

 空いた席に座ったのは、女性一人だけだった。男性は、小心者の私にはとてもとれない行動をとった。だが男性が小学生に判るように諭し、年寄りも喜んで席を譲り受けたなら、私は男性の行動を讃えたであろう。それが私の先生に対する理想なのかも知れない。そういえば、先生のことを教諭ともいう。まさしく教え諭す人である。電車が私の降りる駅に到着した。先生でなかった男性も降りた。私を追い抜いた男性から強い酒のニオイがした。


 帰りの電車で、今度は30歳~40歳代の11人の団体が、ベンチシートの両側に分かれて向き合い宴会状態だった。わがもの顔して大声で騒いでいた。だいぶ酔っているようだ。私の嫌いな「ガハハ」「ヒッヒッヒ」「フォフォフォ」の大馬鹿笑いと、ウケ狙いの聞き苦しいギャグが続いた。行きの電車の説教おじさんが、11人を相手に、ペットボトルで見事な大立ち回りしている空想ドラマを、夜をむかえようとしている太平洋を見ながら、私は創作していた。


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柳田稔発言

2010年11月25日 | Weblog

 日本の政治屋さんたちにどうして話し上手がいないのだろう。もともと日本人は、話すことが不得意である。国際会議で最も難しいことは、「インド人を黙らせることと、日本人に話させること」とまで言われている。日本人は自分があまり喋らないので、落語、漫談、講談、浪曲などの話芸に人気があるのだという。紙が普及していたので、書く能力が高く、書いて伝達することが発達したことも、日本人の話す能力を妨げたのだという。演説を聴いていると、「あ~」「う~」「え~と」どころか息をする音「ハー」「スー」「ウー」まで言葉と同じくらい発せられる。話し上手どころの段階ではない。

 

 英国の政治家テンプルは、話し上手の条件を四つあげている。①真実②良識③上機嫌④ウイット

 

今回法務大臣を辞任した柳田稔さんは、「個別の事案については答えを差し控える」と「法と証拠に基づいて適切にやっている」と広島の後援会で話した。テンプルの四つの条件にあてはめると、①は合格である。ありのままの真実を語っている。官僚に指示されたとおりに柳田さんはそれまで国会答弁をしてきた。講演を聞いた後援会の会員も、納得したに違いない。②は不合格。これが問題である。良識がないからこの発言が出た。自分でそう思っても、良識をもって、公にしないことが求められる。③合格。後援会員はともかく本人は上機嫌だった。一方、後援者は、日本国の法務大臣がこれほどでも務まることを、支持する国会議員から見せつけられて、機嫌がよくなるはずがない。④不合格。ただのウケをねらった次元の低いお笑い芸人並みである。そう言ったらお笑い芸人に失礼であろうが。頓知や機知がない。それらを育むのは、人格と品格である。このテンプルの四条件で首相や大臣、閣僚、官僚の話や演説を分析してみると面白い。

 

先の菅さんと小沢さんとの民主党代表選挙でびっくりさせられたのは、いつも「ハー」「スー」「ウー」だった小沢さんが、どこの演説会場で話しても、実によどみなくしっかりと話したことである。政治屋さんの多くも、本当は話し上手だけれど、無理に話し下手を、装っている疑いを持った。話し下手を装うための「ハー」「スー」「ウー」なのかもしれない。

 

最近の菅さんの発言は、①②③④全部で不合格である。特に③が酷い。不機嫌で不健康の露出である。せっかく得た首相という権力をもっと享受して欲しいのだが、どうもそれどころでないようだ。素直に自分の信条信念を露出して、元気に活躍して欲しい。

 

 北朝鮮が韓国を砲撃した。戦争は嫌だ。日本は平和憲法を制定し、戦争を放棄した。武器でなく、言葉による論戦議論の戦いならどんなに熱くなってもかまわない。それが日本のなすべきつとめだと信じる。国民の多くは、しどろもどろしない、ブレナイ、堂々とした指導者を期待する。話し上手なら、なお良い。今こそイラ菅の出番である。戦争を知らない団塊世代の熱い気持ちを胸に、どんな国に対しても、堂々と最低でもテンプルの条件①②の真実と良識を持って、言葉を発して欲しい。

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じっくりコトコトとろ~り

2010年11月19日 | Weblog

 私は駅のホームで電車を待っていた。背の高い細身の若い、そう十代後半、もしかしたら20歳くらいの女性が、とても姿勢よく斜め前方に立っていた。日本人の体型もずいぶん変わってきたと感心させられた。女性でも男性でも姿勢が良いとかっこいい。その女性が、長い脚を折り曲げ、長い手を伸ばし、淡いピンク主体のレスポの旅行バッグから長い指を使って何か取り出した。缶入り飲料のようだ。おそらくジュースかコーヒーだろうと高を括った。少しずつ上品に飲んでいた。量が少なくなってきたのか、彼女は缶を高く掲げた。缶は高く高くぎりぎりの高さまで引き上げられた。女性の喉の線は伸びきっている。後ろに大きくのけぞり、長い髪の毛が一斉にまっすぐに垂れた。背が高いので当然首も鶴のように細く長い。絵になっている。私が通っている太極拳の教室で「顎をグーッと天に向かって突き出して、鶴が自慢の翼を」と講師が指示する時がある。そのポーズの理想の型に思え、いつもちゃんとできずに、ヨタヨタしてぶざまな初心者の私は、羨ましいと見とれた。

 高く突き上げられた缶の字が少し読めた。「じっくりコトコト・・」待てよ、ジュースではないな。コトコトというのは、よくスープにつかう言葉なはず。「スープか?」と私は、今度は商品名を知りたくなった。上げては下げて缶を振る。私が読みやすく配慮してくれたかのように缶の向きが変わった。「・・・つぶ入りとろ~り・・・」ずいぶん長い名だ。日本の商品は、売り上げをあげるためか、やたら名前に凝る。面白い名前だと思った。彼女は最後の缶の底にへばりついたコーンの粒と闘っている。再び彼女は、缶を高く掲げ鶴のポーズをきれいに決めた。そして長い右手の指を二本使って、ピアノの鍵盤を叩くようにトントンと缶に振動を与える。その仕草がきれいにきまっていた。

 私は、中の粒、落ちればいいのにと応援する。よくあるんだ、奥で引っかかっていて出てこないことが。缶入り飲料のブドウのつぶ入りとか、角切りのゼリーが入ったコーヒーとか。最後まできれいに飲みきりたいと思うのは、万人の願いである。なにしろ缶の飲み口は小さい。中は見えない。私まで缶入り飲料を飲んでいる気にすっかりなっている。口で確認できたのだろう。彼女は、ふっと小さなため息をついた。「すっきりするんだ。お嬢さん、私にもわかりますよ」と私は言いたかったが。案内板の電子ボードに「電車がまいります」が点滅し始めた。女性は、ビニール袋に空き缶を入れ、しっかり袋を丁寧に閉じてレスポのバッグに戻した。折られた長い手脚をすくっと伸ばし、姿勢よく立ちなおしたと同時に電車がホームに突入してきた。電車突入の風が彼女の長い髪の毛を舞い上げらせた。まるでひとりで舞台で演じているような光景だった。

 私は降りた駅のキヨスクで「じっくりコトコトつぶ入りとろ~りコーンポタージュ」を買った。魔力にひきつけられたのか、小腹がすいていたのか、定かではない。120円だった。人前で飲食ができない小心者は、家でメタボの腰に手を置き、顎を突き出し、缶を空高くあげ、最後に短く太い指でトントンと缶を叩いた。中々出てきてくれないコーンの粒が口に入った。自分の姿勢は確かめる術がなかったのでわからない。でもどんな体型であれ、ボロをまとっていても、私は姿勢をよくしようという気持ちを、忘れないようにしたい。


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団地サイズ

2010年11月16日 | Weblog

 20数年前、長男が東京の大学に合格して、大学の近くにアパートを借りることになった。長男にアパート探しや契約を任せた。物件が決まってから、私は、借りた小型トラックに布団、机、荷物を積んで現地に向かった。途中、ホームセンターで床が畳と聞いていたので4畳半の部屋用にカーペットを買った。私は、日本に畳のサイズが3種類あることを知らなかった。京間(関西)は95.5×191センチ、中京間(名古屋)が91×182センチ、関東間が88×176センチである。長野県の私の住んでいたところには、関東間しかなかったらしい。私が買ったカーペットは当然この関東間でいう4畳半用だった。ところが長男のアパートは、世で云う団地サイズだった。団地サイズとは85×174センチである。借りた部屋へ続く道は細く、車が入れない。近くの有料駐車場に停めた車から荷物を降ろし、長男と二人で手で運ぶこと十数回、やっとのことで細い露地を往復して、長男の部屋に運び込んだ。まずカーペットをと敷くとブカブカだった。私は自分の目を疑った。4畳半用どころか6畳の部屋にも使えそうだった。長野県とカナダでしか暮らした経験のない私は、その時始めて“団地サイズ”を知った。


 そもそも団地サイズは、一説には戦後のアメリカの占領政策だったという。(朝日新聞昭和47年8月16日版) アメリカの考えでは、日本の軍国主義は、封建的な家族制度のゆえにうまれたもので、それを断ち切るための核家族化を推進させる必要がある。核家族化を促すために団地サイズを普及させようとした、という説である。戦後初めて公団住宅が計画された時、アメリカ占領軍から一軒当たり10坪半(34.65平方メートル)以下に設計するよう指示があったという。なぜ10坪半なのか?私はこの数字にこだわる。この面積を決めたアメリカ人は、自分で10坪半の住宅に住んだことがあるのだろうか。ぜひとも理由を知りたい。日本人がアメリカ占領軍に強制的に10坪半の小さな住空間に押し込められたのなら、日本に駐留している現アメリカ軍関係者にその10坪半の居住空間を体験するために10坪半の住宅に入っていただきたいものである。この占領軍の10坪半政策は戦後日本人核家族化にみごと成功した。それだけでなく、日本人の精神、文化に対しても思いもかけない影響を与えた。しかし其のことに関しては、後日書きたい。


 日本の武家屋敷、貴族豪邸、神社仏閣が広大な敷地を持ち、重厚で瀟洒な建造物である一方、足軽長屋など庶民の住居は、それこそフランスの女性大臣に揶揄されたようにウサギ小屋のような劣悪な住環境であった。庶民のことなど“思いやる”気持もない支配者、搾取するものによって、ごく一般的な国民の住居環境は、はるか昔からお粗末なものであった。そんな日本人の税金で、大方庶民から搾り取った血税で“思い遣り予算”がある。日本に駐留するアメリカ軍関係者および家族は、彼らがアメリカ国内で暮らすのと同じ環境を保証されるという。アメリカ軍の日本国内基地にある軍関係者の住宅は、日本の一般庶民が暮らす環境とはかけ離れている。延べ床面積は優に10坪半の団地区画の5倍~10倍、住宅の周りは広い芝生で囲まれ、隣近所の目や音を気にする必要はない。かくも日本政府は、自国民に対しては親子二世代で住む事もままならない住居環境を強い、外国人に対しては、ダンスパーティーが自宅でできるほどゆったりとした居住空間を提供している。

 戦争に負けたから仕方ないというかもしれない。同じ敗戦国でも、終戦直後の1949年、西ドイツのアデナウワー首相は「健康的で文化的な住いを国民に保証することは、国の使命であり義務である。国民精神の荒廃、社会の緊張対立は、住いの貧しさに起因する」と西ドイツの住宅政策に力を注いだ。あまりの国家政策の相違、格差にがく然とする。アメリカ軍への思いやり予算は、重い槍となって日本人の心に突き刺さる。

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鉄ちゃん青年

2010年11月11日 | Weblog

 買い物を終えて、駅の下りホームの4つドアのしるしを先頭に、私は4人目に並んで電車を待っていた。一番前は、女子高校生、二番目と三番目は70歳代の女性だった。そこへ年齢35歳から40歳くらいのずんぐりむっくりした男性が、オカッパの髪型が特徴の、やはり太めな30歳代と思われる女性の手をつないで、私の列の先頭に割り込んできた。割り込むというよりホームの黄色い線の線路側に陣取った。男性は、ベルトなしの青いジーンズをはいている。上は白のエンジ色の太めの横縞シャツである。リュックを背負っている。リュックの中身は、ほとんど何も入っていないとみる。入っているとしたら、たぶん空の弁当箱だろう。靴はひもの運動靴。女性は、何も持っていない。白いハーフコートに足首が出た黒いスラックスに黒い革のパンプス。男性は、リュックを肩から降ろし、女性に渡す。女性は、それを両手でかかげ持つ。女性は、男性に比べて消極的である。

 

 突然男性は、よく通るテノールのような声で、顔を列車が来る方に向け、ご丁寧に腕を上げ指で指し示しながら「本日もご利用いただきましてありがとうございます。今度の3番線の列車は、4時44分発普通伊東行きです。危ないですから黄色い線までお下がり下さい。この列車は3つドア15両です。ホームの東京よりには停まりません。グリーン車は足元の白い数字4番と5番でお待ち下さい。普通車は足元の数字一番から3番と6番から15番でお待ち下さい」と一気に言ってのける。私の前の女性が呆気に取られたように男性を凝視した。先頭の女子高校生と私は、またかというように知らん振りを決め込んでいた。この路線で有名な“鉄ちゃん青年”なのだ。2番目に並んでいた女性は、笑い出しそうになるのを必死で舌を噛んで我慢しているようだった。すると今度は、本物の構内放送で男性が言ったのとまったく同じことを繰り返した。私の前の女性は、その事実に驚嘆と賞賛の表情を表した。

 

 やがて電車が到着した。降りる客がいるにもかかわらず、男性は、女性の手を引き、強引に乗り込んだ。これで静かになると思ったのが私の大間違いだった。今回、男性は、電車の中央の席に座り、壊れたテープレコーダーのようにオペラ歌手のようによく通るテノールの声で「4号車5号車はグリーン車です。グリーン車御利用には普通乗車券の他にグリーン券が必要です」「次は○○です。お出口は左側です。電車とホームの間が広く開いているところがございます。お降りのお客様は足元にご注意下さい」としゃべり続ける。

 

 私の孫の一人が一時期この男性のように小田急線に乗ると車内放送を真似したものだ。ある時、電車に一緒に乗ると早速始めた。近くにいた年配の女性が「まあ坊や、車掌さんみたいね。よく覚えたわね」と言った。孫はますます張り切って続けて困ったことがある。しかしこの男性は、優に30歳は過ぎている。まさか私が男性に近づいていって、「凄いですね。よく覚えられましたね。声も素晴らしい!」とは言えない。男性は、私が降りる駅のひとつ前の駅で女性と一緒に降りた。急に静かになった車内に安堵の空気が満たされた。そうでなくても車内放送がうるさい、おせっかいすぎると評判はよろしくない。

 

 電車の中は社会の縮図である。今の町に住み着いて、5年が過ぎた。だんだんと地域や住民に、私が馴染んできたということととらえている。車窓から夕陽に映える太平洋がきれいに見渡せた。何を隠そう、私も口を閉じた“鉄ちゃん老人”である。

 


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尖閣沖衝突映像

2010年11月08日 | Weblog

 尖閣諸島付近で起きた中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突した事件は、意外な展開をみせた。なんとユーチューブに海上保安庁の巡視船上から撮影された衝突現場の映像が、何者かによって投稿された。テレビのニュースやワイドショー番組で尖閣事件に関して、政治屋、学者、コメンテーターがどんなに騒々しくわめきたて、支離滅裂な中身の無いことを言い続けるより、今回ユーチューブに投稿された44分間の映像が我々に訴える真実の実況のほうが、はるかに説得力がある。


 我々一般人が国内で交通事故を起こせば、警察が介入してくる。事故の詳細を捜査して原因を究明する。その結果により責任を追及して加害者は、被害者に賠償する。国内の事故事件の立証に関して、証拠は絶対的必須条件である。目撃者の証言も重要な証拠となることがある。近年、監視カメラや防犯カメラに記録された映像が、多くの事故事件の有力な証拠として採用されている。テレビのコメンテーターはわけ知り顔に、国内の事件事故と外交がらみの事件事故は、扱いが違うと言う。私は、根本的に国内であろうが外交がらみであろうが、事件事故の扱いは同じでなければならないと考える。いかなる場合であれ、事実と真実が証明されなければならない。この世は嘘で溢れている。それを司法は、法律をもって裁き、責任の所在を明かすものである。


 あれほど厳しい検閲を行い、情報を管理統制している共産党一党支配の中国においてさえ、その間隙をぬって多くの共産党政府に好まれざる事実や画像がインターネットに出てくる。まして言論の自由がこの地球上で究極の領域にまで達しているといわれる日本で、今回の映像流出は、起こるべくして起こった事件だ。仰々しいプロパガンダもなにもない、実写された映像と音声だけが流された。インターネットに載った情報は、あっという間に全世界に拡散する。自然に誰の手も経ずに拡散するのではない。共感が伴うと増殖は、爆発的となる。毎日何十億という膨大な量の情報がネットに載る。その多くは他人の目にふれることもない。しかしそれを受ける人間の感性が同調すれば、まるで音叉の波動が空間を押し進むように、共感の波動が巨大なエネルギーとなって拡散していく。国境もない。今回の映像流出は、ネット世界の不気味さを露呈した。


 テレビで『龍馬伝』を放送している。坂本龍馬が、あの混乱の幕末で何を考え、どのように生きたかをドラマの中で、現代の日本人に訴え続ける。テレビドラマと映画の『海猿』は海上保安庁の潜水士の物語で、献身的に海難救助を使命感を持って行っている。これら番組や映画の真摯な訴えが、国民の一部に影響している。“命がけ”で生きる者の目から見る現代の日本は、なんとしてでも変えなければならない状態であろう。富や名声に縁もなく、日々の仕事に埋没しながら、それでも坂本龍馬や海猿のように日本の行く末を憂える志士はいる。国家公務員が今回の映像流出をしたとするならば、国家公務員法に定められた守秘義務を犯すことになる。おそらく、そのくらいの覚悟は十分もっての上の実行であると思う。事件の真相究明が、待たれる。


 この映像流出事件は、私にニクソン元アメリカ大統領を失脚させた「ウォーターゲイト事件」の政府内関係者の新聞記者への情報提供を思い出させた。巨大なダムでも、開いた小さな穴から崩壊した実例である。世の中の普通の一生懸命生きる一人一人の小さな覚悟が、国を動かし、国を救うこともある。この映像流出事件で私は、そのような真っ当に生きる人間の覚悟を垣間見る。今の日本の政府に、命がけの覚悟をもって国政をつかさどる意気込みある志士がいるのか疑問だ。権力闘争と出世競争の末に頂点に達したが、あまりの国政と外交の難しさと重責に、こんなはずではなかったと、疲れ果てている政治屋と官僚の面々である気がしてならない。


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日韓中首脳の表情としぐさ

2010年11月02日 | Weblog

 日本の菅直人首相、韓国の李明博大統領、中国の温家宝首相がベトナムのハノイで首脳会談に臨んだ。そのあと李明博韓国大統領を真ん中に、向かって左側に菅直人首相、右側に温家宝首相が並んで握手をした。3人で握手をするのは、簡単ではない。うまく決まれば、“文明堂のカステラ”のテレビコマーシャルに出てくる3時のおやつバレリーナのように交差した腕がひし形に美しく決まる。今回、3人ともそれぞれ、お互いにわだかまりや疑心暗鬼があり、結果、もつれた。そのもつれを李大統領が何とかとりもって形にしようと懸命だった。それを13億の人口と世界第2位の経済大国になったばかりの温首相は、振りほどくように払い、1億2千万の人口と腰砕けの元世界第2位の経済大国の菅首相は、温首相の手にタッチしてさっと引き抜いた。


 私たち夫婦は、今、DVDのアメリカのテレビ連続ドラマ「ライ トゥ ミー=嘘は真実を語る」にはまっている。主人公はカル・ライトマンという心理学者で、ライトマン・グループという表情や無意識な動作を研究する企業組織を率いる。部下たちと犯罪捜査や政府の非公式な調査などを請け負う。ドラマそのものも面白い。ドラマの中に使用される実際の写真は、もっと面白い。アメリカのクリントン元大統領の表情や仕草の写真がやたらに多い。ああ、モニカ・ルインスキーとの一件はこうして騙していたのかと変に納得できた。カル・ライトマンは、実在の心理学者ポール・エクマンをモデルにしている。私は『「しぐさ」の心理学』ジョー・ナヴァロ
/マーヴィン・カーリンス共著河出書房新社本体2000円を読んだばかりだ。とてもこのテレビドラマを観るのに役立っている。アメリカでは、この手の学問が進んでいるらしい。残念ながら日本では、まだそのような学問は、育っていないようだ。


 今回ベトナムのハノイでの三首脳の表情や動作を見ていて、テレビドラマや本のおかげで、素人の私にも少し何か読めた気がする。この三者の中で一番得をしたのは、韓国の李明博大統領である。立ち位置が真ん中にとれた。両側に問題児(?)二人を置き、双方をなだめすかす行動をとった。どの程度この映像が世界に配信されたかは、わからない。しかし、この映像を観た政治に関係するカル・ライトマンのような心理学者には、またとない分析チャンスを与えたに違いない。経済力をつけ龍のごとく世界に台頭してきた中国。失われた20年が30年になりそうで、国際舞台から消えていくのではと危惧される日本。中国と日本に挟まれて、なお賢く振舞い着実に国際競争力をつけてきた韓国。政治も外交も駆け引きである。その駆け引きに人間ドラマが見え隠れする。今回のこの三首脳の会見の件を日本のどの新聞も心理学的に分析していない。テレビのニュースや報道番組でも2,3局が扱っていたが、通り一遍な扱いで残念だった。


 私は、もっともっとこの表情や無意識な動作、仕草から人間の心理と嘘とまことの分析を学びたい。ドラマ『ライ トゥ ミー』の中で、ライトマン博士が「表情と動作に国境はない。どの人種男女差なく適用できる」と言っている。毎日のニュースを今までとは違う角度から観ていきたい。


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