団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

スルガ銀行

2018年08月30日 | Weblog

  銀行と私は、相性が悪い。関わった銀行に良い印象がない。

 終の棲家として購入した現在住む集合住宅の一区画を買う時のことだった。私たちは当時ロシアのサハリンに住んでいた。ある日妻が職場から日本経済新聞を手に帰宅した。「ねえ、この物件どう思う?」 新聞一面を使った集合住宅の販売広告だった。斬新だった。サハリンを含めて既に12年間5ヵ国を転々とした。ずっと官舎や貸室だった。でもどこも面積が広かった。日本経済新聞に載っていた広告の集合住宅は2LDKだが面積が日本のものとは思えぬほど広かった。東京から離れていて環境も良い。ちょうど休暇で日本へ帰る時だったので二人で見に行った。実際に自分たちの目で物件を見て、二人とも気に入った。いつかこんなところに住めたらいいと話した。サハリンの住居は、集合住宅で入り口に機関銃や銃で武装した警備会社の屈強そうな男が常に5人いた。気候も環境も私たちに厳しかった。そんな中、日本で見た物件が夢のように思えた。購入を申し込んだ。現金で購入できないので住宅ローンを借りることにした。販売会社がスルガ銀行を紹介してきた。実際に数回スルガ銀行東京支店のローンの担当者二人と会った。第一印象が悪かった。利息が当時の平均よりかなり高かった。二人の行員の偉そうな態度が気に障った。

 結局みずほ銀行から借りて物件を購入した。ところがみずほ銀行の担当者が定年退職した後、彼がいた支店が閉店され、別の支店に統合された。そこの女性担当者がとんでもない行員だった。妻を何回か呼び出しては訳の分からないことを言い出した。「私は家を買うのに金を借りて買ったことがない」などなど。 その女性行員が書類で間違いをして、それを訂正捺印させるために妻を呼び出す。妻はわざわざ休みをとって、印鑑を押すために銀行へ行った。典型的な高飛車な金貸し体質の銀行員。妻は我慢できなくなり、やむなく他の銀行で住宅ローンを借り換えた。

 私はまだ塾を経営していたころ、愚かにも知人の銀行借り入れの保証人になり、その知人が事業に失敗して夜逃げしてしまった。ちょうど前の結婚が破綻して離婚した時と重なった。あの時の銀行が私に取った態度は、忘れない。行員が言った。「あなたに残された道は、返すか死ぬか」だと。弁護士にも相談した。「逃げてやり直しなさい」と言われた。私は逃げなかった。全額返済した。家一軒買える額だった。それ以来、銀行と縁を切った。卑怯にも銀行のことは、すべて妻任せである。

 スルガ銀行は女性専用シェアハウス「かぼちゃの馬車」の権利分譲所有者への融資2千億円の回収不能事態に陥った。スルガ銀行に関する報道記事を読んでいて、私たち夫婦が家の購入代金を借りようとした時のスルガ銀行の応対の様を思い出した。

 よく銀行は「必要な人には貸さないが、必要でない人に貸す」と言われる。金は魔物である。金を手にすると自分が偉い者になったと錯覚する。銀行にある金は、銀行員の金では決してない。このような後ろ向きの経営で、一般群衆が付いてくるわけがない。現在日本の銀行はすべて経営不振である。これからますます統廃合が進む。栄枯盛衰。反して『クラウドファンディング』(一般群衆から出資を募る活動)が脚光を浴びている。シアトルの友人は、マイクロソフトのビル・ゲイツが起業する際、シアトル郊外の一軒一軒訪ねて100ドルの出資金を集めていたが、玄関でビル・ゲイツを追い返したことを悔やんでいた。その100ドルは後に数億円になったそうだ。あのビル・ゲイツも銀行でなく、自分の脚でシアトル市民から資金を集めて今日を築いた。

  銀行は、焦げ付き融資の取り立て屋ではない。有能な人材、有望な企業を発掘して資金援助するのが本来の役目である。それを見極める能力が銀行員には求められる。資金が必要で、その資金を何倍にもすることができる人や企業が出て来てこそ銀行は栄える。人や企業を通して先を見通す。それができなければ、銀行は消える。私の心の中に、ざまあみろの気持ちもあるが、日本の将来を銀行に支えてもらいたい期待もまだ少し残っている。


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ストロー

2018年08月28日 | Weblog

 私が子供の頃、皆が使ったストローは本物のstraw(藁“わら”)だった。今は違う。何もかもがプラスチックで作られるご時世である。プラスチックのストローを使わないという動きが出てきた。海洋汚染の原因となっているという。もともとストローは、女性の口紅がグラスを汚さないように使ったそうだ。私はグラスから直接飲むのが好きだ。私はストローがなくても良いと思うが、世界で使われてプラスチック製のストローの数は天文学的数字だ。

 アフリカのセネガルで1995年から2年間暮らした。一年中雨がほとんど降らず乾燥していた。国土の砂漠化が進んでいた。首都ダカールを少し離れると電気もない水道もないところに人が住んでいた。羊は重要な家畜である。砂漠化は自然の現象が原因だと思っていた。専門家が言うに人為的な原因もあるそうだ。セネガルの家庭での燃料は木炭が主だった。次から次と木が切られ、木炭にされた。加えて家畜は木々の葉を食べる。これで砂漠化が進む。海外からの援助団体が植樹をしても、人が育った木を切り、炭にしてしまう。雨が降らないので草も育たない。やっと根付いて葉を出せば、家畜が食べてしまう。堂々巡り。家畜はとうとうプラスチックやビニールを食べるようになった。多くの家畜は、それが原因で死ぬ。ダカールにゴミ処理場はなかった。砂漠の一角にトラックでゴミが運ばれ捨てられる。日本に帰国して鉄道沿線の土手が緑豊かなのを見て、「ああ、ここでセネガルの羊や牛を離したら、きっと狂ったようにこの草をむさぼり食べるだろうな」と思い胸が詰まった。

 2018年6月にカナダで開かれたG7サミットで『海洋プラスチック憲章』に日本とアメリカは署名しなかった。今や海はプラスチックごみに汚染されている。プラスチックは海水で分解消滅することはない。恐ろしいことにマイクロプラスチックとなって海を漂う。当然魚や海洋生物がそれを体内に取り込む。学者が近い将来、海は、マイクロプラスチックやプラスチックごみのほうが魚類より多くなると警鐘を鳴らし始めている。アメリカがこの憲章に署名しなかったのは、業界団体への配慮と言われている。日本が署名しなかったのは、理由が明らかにされていない。私が推測するに、日本はプラスチックの再利用やごみ処理に自信があり、海を汚染しているのは日本でなくアジアなどの国々が汚染しているとの見解かもしれない。ただアメリカのご機嫌取りをしているのかもしれない。

 地球の陸は砂漠化し海がプラスチックやし尿や有害物質に汚染される。歯止めをかけなければ、人間は自分の首を自分で絞めることになる。今年の猛暑やゲリラ豪雨も温暖化による気候変動が原因だと言われている。世の中が便利で豊かになればなるほど、地球は悲鳴を上げる。大量生産大量消費が現代社会を支えると同時に地球を傷めつけている。

 すでに問題は、個人がどうこうできる状態ではない。国家が権力を行使して歯止めをかけなければならない。アメリカは業界団体のために『海洋プラスチック憲章』に署名できない。つまりそれは業界が海洋プラスチック汚染の原因であることを自ら証明していることだ。業界とは、プラスチックの原料関係産業とプラスチック成型機などの製造業などであろう。日本もプラスチック成型機の輸出が多い。原因になっている業界の利益を守るために地球環境を悪化させることは許されない。電気もない水道もなかったアフリカのセネガルの荒涼とした地。バオバブの林の脇に点在する蟻塚にいくつものビニール袋が張り付いていた光景と東南アジアの子供が水遊びしている河川に無数のプラスチックボトルが浮いていた光景が目に焼き付いている。売る側作る側に責任はないのか。

 地球を守るために人間は、元に戻れることは元に戻す時期が来ている。子供の頃使った麦わらで作られたストローは、放っておいても土に戻った。藁のストローがまだ買えるのかとアマゾンで調べた。あった。ちょっと嬉しかった。遅くない、今ならUターンできる、そんな気になれた。国が動く時だ。自由民主党の総裁選でプラスチック問題は、触れられていない。


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アジア大会バスケ選手4人の買春

2018年08月24日 | Weblog

  リオ・オリンピックの選手村では45万個の避妊具が用意され全部なくなったという。もちろん記念にと持ち帰った選手もいるに違いない。

  避妊具といえば、アフリカのセネガルのダカールに住んでいた時、困ったことがある。私は2匹のシェパードを飼っていた。毎朝2頭を住んでいた官舎のすぐそばの大西洋の海辺へ散歩に連れて行った。犬は鼻がいい。やたらにあちこち嗅ぎまわって使い捨ての避妊具を見つけた。ダカールには日本のようなモーテルなどはない。デートする男女は、海岸や公園を好む。出てくる、出てくる池の鯉ではないが、次々に犬が避妊具を見つけるので閉口した。毎日、その数は増える。私はできれば犬の散歩をやめたかった。でも犬にとっては海岸の散歩は三度の飯より好きという感じだった。セネガルにはこれという産業もなく、失業者があふれる貧しい国だった。ダカール大学の女学生が学費や生活費を稼ぐために路上に立つと噂されていた。

  散歩途中に若者が多く集まり、日本のジムのように体を鍛える若者が数百人集まる砂浜があった。ジムのようなちゃんとした専門の道具も器具もないが、砂浜で腕立て伏せや腹筋をしている若者がいた。そのエネルギーには圧倒された。人口増加を抑え込むのは無理なのではと、強く感じた。

  北欧など西洋諸国から毎年、アフリカ諸国には人口増加を防ぐ目的で多くの避妊具が援助の一環として贈られている。リオ・オリンピックで避妊具が45万人分用意されそれがすべてなくなったというニュースを知った時、私はダカールで私の2頭の犬が競って捨てられていた避妊具を見つけては、私の顔を得意げに見上げた場面を思い出した。

  日本は人口減少が進み、先日NHKで『精子力クライシス』という番組さえ放映された。男性の精子の数が減少し質も低下していることを危機として訴えた。私は海外の国々で暮らした時、暮らしたイスラム教国以外のどこの国でも、生活の雰囲気の中に日常化している性を感じた。ところが日本に帰国するとその気配は消えた。これだけ性犯罪がはびこる国なのに一般の人々は、性をひた隠しにする。一方テレビは公然と生理用品、痔、介護おむつ、股間のかゆみ、尿漏れ、便秘に関する製品のCMを食事の時間を狙って流す。これって日本人を性から遠ざけているとしかみえない。日本人みんなが品行方正で石部金吉なの?いいえ、性は日本では表に出ない、闇に包まれた世界なのだ。ポルノ、幼児ポルノ、援助交際、痴漢、のぞきが横行。日本とアメリカ・ヨーロッパの映画やテレビドラマを観れば、性に対する受け止め方がよくわかる。日本の売れっ子女優は、いつまでも理想の清純派であることを観客に求められる。決して欧米女優のように役のためなら大胆な濡れ場でも汚れ役だろうがを演じない。日本の映画やドラマで性描写は、作品の物語の一部とはならない。アメリカやヨーロッパのものは、日常の中の当たり前として性描写が含まれる。開けっ広げな性と隠される秘め事である日本の性。私は十代で日本の高校からカナダの高校へ移った。キリスト教の厳しい学校だったが、日本の高校にはなかった性教育の授業はあった。同級生になぜこんなに厳しい学校へわざわざ入学したのか聞くと多くの生徒が公立高校の性の乱れを両親が嫌って自分をこの学校へ来させたと言った。当時でも現地の高校での女子学生の妊娠出産は多かった。高校によっては子連れの登校を許していた高校もあった。中絶は法で禁止されていた。日本の私の出身高校で女子生徒の妊娠が発覚した時、彼女の同級生が中絶費用をカンパしたと聞いた。欧米では考えられない行動である。中絶して問題は、解決にならない。若者の性の目覚め、衝動は御しがたい。性教育の重要さを喚起したい。私は自分の二人の子供にとって良い親ではなかった。でも性については自分の経験考えに基づいて真剣に話し伝えたつもりだ。隠せば隠すほど性は、陰湿の世界に潜り込み、ついには犯罪につながると思う。

  今回インドネシアジャカルタのアジア大会に日本代表として参加していたバスケットボールの4人の選手が歓楽街で買春したとして強制帰国させられた。マスコミは一斉に4人の買春を報道した。リオ・オリンピックや平昌オリンピックの選手村で避妊具が用意されているご時世である。そいう背景を伝えず買春だけを取り上げる。インドネシアはイスラム教国なので今回避妊具が配布されているかの報道もない。買春を悪と決めつけ、選手村で避妊具を使って性行為するのは不適切な行為ではないのか。そういうことを論点とするする深い記事が読みたかった。若い彼らが、性の衝動を御しがたい事態に身を置いているのは紛れもない事実であろう。代表団としての規則があるなら守らなければならない。今回の代表団にも多くの役員が同行している。選手の管理監督するのが役員の仕事であろう。事前に役員たちは、若さみなぎる選手たちに性に関する指導なり、考えを理解をもって伝えていたのだろうか。いつもそうだがマスコミの魔女狩りのような報道に失望した。性を自然とするか、猥褻とするか。生き物としての生殖活動に人間は、えも言えぬ恍惚を見出してしまった。性の本質を科学や哲学で定義することは不可能であり、一方的な独りよがりの本能や欲望にまかせれば、犯罪になりかねない。性の喜びは、相対する二人の人間が、双方の求め受け入れる愛情があって最高のものとなる。マスコミが日本の性のあるべき姿を論じる真剣な取り組みを願う。いつまでも“臭いものに蓋”の報道姿勢では済まされない。


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テレビ出演者の資質

2018年08月22日 | Weblog

「……少なくともニュースを伝えたり、解説したり、コメントしたりする役割を芸能人が務めることには違和感を禁じ得ません。人気タレントが画面に出ていれば視聴率が稼げるだろうという、さもしい発想が透けて見えます。…芸能人がニュースを伝えるのは国際的に見て日本ならではの奇観です。たとえばイギリスのBBCやアメリカのCNNのニュースを見ると、画面に登場するのは男女ともに経験豊富なベテランジャーナリストです。……そもそもアナウンサーという職種自体がありません。番組のナレーションをする仕事はナレーターといいます。……ニュースを伝えるのは、現場での取材を積み重ねてきたジャーナリスト。ジャーナリストならではの視点でニュースを伝えます。これまでニュースに関心のなかった芸能人にカンペを読み上げさせるのは不思議な光景です。……日本のテレビ界では、プロの仕事はプロに任せるというルールが確立していません。ニュースはニュースのプロが伝えるべきだと思っています。きっと私は古いタイプの人間なのでしょうね。」池上 彰 6月6日 文春オンライン掲載

 高校野球が終わった。最終的に大阪桐蔭が秋田の金足農を13対2で破って優勝した。金足農が準決勝で日大三高に勝ってからマスコミが一斉に金足農を取り上げ始めた。この騒ぎを見て私は決勝で金足農は10点以上の大差で負けると妻に予想を言った。妻は「そんなこと言わないで最後まであきらめないで応援してあげて。今までずっと応援していたじゃない」と言った。そうしたかったが勝負の世界は甘くない。でも金足農はよくやった。

 高校野球のテレビ中継はNHKでしか放送されない。入れ替わり立ち代わり試合ごとに実況アナウンサーと解説者が変わる。私はアナウンサーの下手さかげん、解説者の話のつまらなさに思い余って、リモコンで“消音”ボタンを押す。映像だけで十分。アナウンサーや解説者への不満を持たない分、穏やかに観戦できた。いつか名アナウンサー1人による実況放送を観てみたいものだ。

  池上彰さんは活躍していると思う。なぜか時々鼻につく存在でもある。しかし6月6日の『文春オンライン』の記事で語った内容には部分的に賛同できた。高校野球中継にしろ、私は観ないがプロ野球の中継にしろアナウンサーと解説者が中継をこわしている。アメリカの大リーグのテレビ中継などでは、名物アナウンサーが一人で実に見事な実況をしていた。

 日本のテレビは、現在一年中正月特別番組化されてしまっている。以前年末年始に放送された『かくし芸大会』『紅白歌合戦』『初笑い…』などなど。タレントをこれでもかと結婚式の披露宴の料理数を競うかのように並べる。古い体質が消せない。今のテレビ界はジャニーズ事務所、よしもと興行、特定の宗教団体信者、親の七光りタレント、風変りなタレントなどに席捲されている。テレビのドラマは、有名タレントがあっちのドラマこっちのドラマに出てきて、何が何だか分からなくなる。アニメ作品には、そういうタレントが声だけで顔が出ないだけ安心して観ることができる。

 今朝もニュース番組は、どこの局でも横一列に人を並べていた。一人でできないのでみんなでやれば怖くない方式。一人に任せられない。一人に自信がない。それともテレビ局の視聴率競争だけに目がいっているさもしさ。多くの出演者は、喋りが下手で、話す内容に裏付けがない。残念なことである。私は電波に乗るニュース番組出演者に、何より話し方と声の質を求める。出身大学も、見た目もその次の事。出でよ、プロ。出でよ、名配役、出演者決定担当。


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非生産性

2018年08月20日 | Weblog

「ほとんどの人の性生活は世の中に驚きと恐怖を感じさせるだろう」サマセット・モーム

  私が性に関して自分以外と人と接したのは、中学生の時だった。妹の担任の男性教師が宿直の時、中学校の宿直室に私を含め3人の中学生を呼び寄せた。この音楽教師は、中間もしくは期末テストに出す問題を生徒に教えることで生徒を誘っていた。深夜、私は自分の体の上に重さを感じ、私の顏の前にその教師の顏があった。彼は「気持ち良いことしよう」とささやいた。私は家に裸足で逃げ帰った。宿直室で起こったことを誰にも言わなかった。

  中学生だった私は女性に対して興味を持ち、いわゆる思春期の真っただ中にいた。女性に対してビリビリするくらい神経が尖っていた。男性が私と「気持ち良いことをしよう」と迫る、それも40歳過ぎた大人がそういう関係を迫ることもあるが衝撃だった。しばらく勉強もクラブ活動も手が付かなかった。時間が解決した。一つ下の学年の女生徒への関心が音楽教師のあの晩の行為を払拭してしまった。今思うにあの時、私が親に話していれば、私の父親ならきっとあの音楽教師をただでは置かなかったと思う。そうしていれば、あの教師の毒牙にかかったであろう私以降の生徒を父が断ち切ってくれたかもしれない。その反省が残る。

  高校でカナダの高校へ行った。学校はキリスト教の規則が厳しい全寮制だった。男女交際が禁止されていた。しかし休みでカナダ国内やアメリカを旅行すると公衆トイレで用をたしているとのぞき込まれたり、言い寄られたり、追いかけられたりすることもあった。

  杉田水脈国会議員が『新潮45』に寄稿した文を読んだ。「LGBTの人たちは生産性がない」ばかりが独り歩きしていたので、まず全文読んでみた。意見として悪くないとまず私は思った。調査勉強もしている。日本は言論自由の国である。まず自分の意見を公表して、反論を受けるが常道であろう。意見の中の一部を切り取り、感情的になるのは、私たちがおかしやすいことである。マスコミは、ある特定の部分だけを抜き出し、自分たちの主義主張に合わせた形に切り貼り加工できる得意技を持つ。もっと多くのしっかり書かれた反論も賛成論も読みたいものだ。

  私は「非生産性」の表現に引っかかった。人間に対して「生産性」も「非生産性」だとかはないだろう。杉田議員の意見は、以前柳澤伯夫国会議員の「女性は産む機械」発言とよく似ている。性と生殖から性を除き、生殖だけを問題にしている。しかしそれには無理がある。人間の性は、すでに生殖を超越した領域である。

  非生産性の問題に移ろう。子供を産んだ「生産性」のある女性が、現在どれほど子育てに苦労しているか。私は共働きしている私の長女の苦しみを目の当たりにしてきている。杉田議員も子供を産み育てている。以前他の女性国会議員が公用車で子供を幼稚園だか保育園に送り迎えしたとして問題になった。きっと国会議員には各種の特別な子育て特権があるのだろう。私は言いたい。たとえ生産性のあると杉田議員に言われる子供を産んだ女性でも、子供を産んだら「非生産性」極まりない子育て環境に放り出されるのが、日本の現状なのだ。杉田議員はその点に言及していない。

  私は今までに多くの同性愛者、性同一性障害者と会った。そのほとんどの人々は、日常生活において普通に接することができる。同性愛者に無理やり襲われそうになったことはある。頭で理解ししようと思うが、心では違和感が残る。私は71年間生きてきたが、いまだにわからないことだらけである。しかしサマセット・モームが言う「ほとんどの人の性生活は世の中に驚きと恐怖を感じさせるだろう」を理解できる年齢になれた。性欲という御しがたい存在を管制できるのは、相手への愛と同意から湧き出る気配り、手配り、目配りと老衰しかない。それがない如何なる性行為も犯罪だと私は思う。


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満塁逆転ホームランと高校野球の楽しみ

2018年08月16日 | Weblog

  高校野球が面白い。まず知らない選手がほとんどである。100回大会を記念して出場校は、56校。私が応援するのは私立対公立なら迷いなく公立。普通高校対商業高校、工業高校、農業高校なら商業高校、工業高校、農業高校。大都市の高校と地方校なら地方校。大学付属高校対付属でない高校なら付属でない高校。プロのスカウトが注目している有名選手がいる高校対無名集団高校なら無名集団高校を応援する。初出場高校対常連出場高校なら初出場高校。私は長野県出身だが今回の出場校の佐久長聖高校を応援する気にはなれなかった。なぜならベンチ入りした18名のうち県外生が12名県内出身者は6名だけ。これでは県代表というよりは、この学校の知名度を全国に知らしめるためだけの出場である。それでも私は日本各地出身の選手が甲子園出場をかけて、日本中の高校から可能性を求めて日本各地に散らばることは、東京や大都市への集中を防ぐ一対策になっていると評価する。

 毎年のことだが、選手の苗字で珍しいのを書き留めている。鳴門高校の塩唐松選手。横浜高校の長南選手。常葉菊川高校の漢人選手。花巻東高校の上戸鎖選手。日南学園の年見口選手。鳥取城北高校の忍海部選手。広陵高校の鉤流選手。白山高校の小古選手。創成館高校の七俵選手。耳が悪いのでアナウンサーが選手名を言ってもまず聞き取れない。漢字だけノートに書いて調べる。苗字の読み方を知って驚き、へーこんな読み方するんだと感動しきり。

  塩唐松(シオカラマツ)長南(チョウナン)漢人(カンド)上戸鎖(カミトクサリ)年見口(トシミグチ)忍海部((オシカイベ)鉤流(ツリュウ)小古(コフル)七俵(シチヒョウ)

  特に長南選手はアナウンサーがチョウナンと発するたびにどうしても“長男”と聞き取り混乱した。耳が悪くなってきたので音から勝手に想像しては、失敗する。それも高校野球のテレビ観戦の楽しみである。苗字もだが名前も珍しいものが多いがメモする気にはなれない。

 もう一つの楽しみは、高校野球は最後の最後まで勝敗がわからない面白さである。同点での9回裏のサヨナラ試合。大差で負けていた高校が9回裏ツーアウトからの大逆転劇。先日の星稜高校対済美高校の試合は、全国高校野球甲子園大会で球史に残る劇的な幕切れとなった。観ていてこれほど面白かった試合はない。8回7対6を9番正吉選手のスリーランホームランで逆転。また星稜に同点にされ延長戦に突入。13回裏11対9で満塁。1番矢野選手がサヨナラ満塁ホームラン。これほど応援していて興奮した試合はない。もうだめだ。何と無様なと散々言いたい放題の罵詈雑言を浴びせ、最後の最後に相手チームがグーの音も出ないほどの大曇天返し。高校野球には“事実は小説より奇なり”そのままの世界がある。

 選手にも国際結婚による子弟がだんだん増えてきていて、それも夢あることだ。特にアメリカだけでなくアフリカやアジアの血をひく選手の活躍が私を喜ばせる。野球がまだ普及していない国から来た親の子が日本で生まれ、野球を選び活躍する。古い日本の考え方を変える良い傾向がうまれていることを歓迎したい。

 大会運営にはいろいろ注文をつけたいが高校野球と言う一分野においては成功した事例である。願いは、女子レスリングやボクシングやアメフトなどのパワハラ問題や不祥事が起きないことを願う。猛暑の中、汗を流して野球をする選手、応援する応援団、ためらうことなくエアコンを効かして観戦する老人を奮い立たせてくれる。これぞ日本の夏の風物詩である。


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俺は男だ

2018年08月14日 | Weblog

  今年の夏は、住む集合住宅に猿の群れがよく通りかかる。猛暑が影響しているのだろうか。あの日、室内の温度計は29度。ためらいなく書斎はエアコンを使っているが、温度計は台所にある。外は33度を超していたかもしれない。何気なく窓の外を見ると家の前の植え込みの縁(人工地盤)を猿の親子が歩いていた。私たちの住む階の窓の外に人工地盤が張り出されている。通る通る。次から次へと猿が通る。おそらく20匹くらいの群れである。小さな子猿が5匹、それぞれの母親の背中や腹にしがみついている。一匹の子猿を背中に乗せた母猿が3,4メートル離れたセコイアの木に飛び移った。猿の軽快で敏捷な動きに目を見張る。どこへ行くの?住宅の前の川沿いの道は運動で歩く人が多い。子持ちの動物は、危険である。親子猿を目で追いかけた。群れのボス猿と思われる奴がいた。何と置き石にちょこんと腰を下ろしている。様になっていた。「俺は男だ」の雰囲気だけでなく、群れのボスとしての重責を肩に、背中の丸みに、膝に置いた手に、見つめる視線に感じた。この猿がボスではないかと推測したのは、まずでかいこと、顔に大きな傷があること、やけにピンク色の陰嚢が大きいことからだ。堂々たる風格である。人工地盤から4,5メートル下の地面に降りた親子猿は、ボス猿の前に進み出た。挨拶でもするように前に座った。ボスはチラッと親子を見るだけ。目を合わせたことで目的を達したのか、親子猿は他の猿たちが向かった方角に走り去った。ボス猿は群れのすべてが通過したことを確かめたのか、おもむろに置き石から立ち上がり群れを追った。

 私たち夫婦がこの集合住宅に越して来た頃、この地域を縄張りとする猿の群れはまだ小さく10匹未満だった。我が家のベランダでその群れが一夜を過ごしていったこともあった。町役場に相談するとその群れの詳しい情報と猿の被害から免れるいくつかの策を教えてもらった。その群れのボスは、メスで子猿を車に轢かれて失っているので、車を見ると攻撃してくる。車を攻撃した際、片手の先を失っている。ボスは狂暴なので特に気をつける。ボスの見分けは手の先であること。あれからすでに15年が経った。当然猿の群れにも変化が起きた。他の群れと一緒になって大きくなったのか。それとも順調に群れの個体数が出産によって増えたのか。詳細は不明である。

 私はボス猿のふるまいを見て自分にはない風格男気を感じた。私は子供のころからボスになれるような男の子ではなかった。殴り合い取っ組み合いの喧嘩をしたことはない。いじめられて泣いたことはいくらでもある。よく泣くので名前から“準内地米=じゅん、泣いちまい”のあだ名を頂戴した。体のオスとしての機能も標準もしくは標準以下であると意識している。

 サハリンの山奥で鮭の遡上を見た。一匹のメスを数匹のオスが追いかける。すでに鮭の体は、メスもオスもボロボロになっている。海から川に入り、山奥の小川にまで上がり詰める。壮絶だった。子孫を残せるオスは、一匹だけである。私は見ていて自分が鮭だったらここまで上がってくることさえできなかったと思った。

 最近、ボクシング界、フットボール界、政界、医学部でも「俺は男だ」的な言動行動策略が多い。「俺は男だ」の世界は、上っ面だけの甘い世界ではない。いかなる群れであれ、男にはオスとしての責任がある。「俺は男だ」と啖呵をきって股を拡げてテレビカメラの前に座る男の多くは、権力をたまたま手にしてしまった本当は私のように弱い男なのかもしれない。


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暑さ寒さも玄関まで

2018年08月10日 | Weblog

 NHKテレビのニュースで『命にかかわる暑さです。ためらわずにエアコンを使いましょう』と視聴者に呼びかける。節約を美徳としてきた、何事も我慢することを良しとしてきた日本が変わろうとしている。それでも熱中症で亡くなる老人は後を絶たない。コキイチ(古稀+1=71歳)の私は、ためらいもなくエアコンのリモコンで『冷房』『ドライ』を押す。

 3年前エアコンをダイキンの最新型に買い替えた。終の棲家として購入した集合住宅には寝室と客間にエアコンが取り付けられていた。当時冷房は、ほとんど使うことがなかった。設計者は、当時の気象を考慮して、また少しでも建築コストを下げるために室外機1台に子機を2台とした。それも冷房能力の低い機種だった。ある夏猛暑だった。ちょうどお盆で長野県に里帰りした。たった3日間家を空けただけだった。帰宅してパソコンを開くとメモリーが全て消えていた。今まで書き溜めた“私の一部”が消えた。ショックで立ち直れなかった。すぐエアコンを変えようと業者に相談した。業者の見積もりは、100万円を超えていた。エアコン本体より配管工事に費用がかかるという。ベランダの室外機から配管が壁の中にあるので壁をはがしての工事になる。私の疑問。今ある配管をどうして使わないの?あきらめて我慢することにした。ある時同じ集合住宅に住む友人を食事に招いた。エアコンのことが話題になった。友人は、最近エアコンを買い替えた。私は尋ねた。「壁をはぐ工事は高かったでしょう?」友人「壁なんてはぎませんでしたよ」 私はさっそくその業者を紹介してもらった。見積もりは前の業者の半額。配管も前のものを取り除いて、新しい配管を入れる。エアコンの室外機を2台にして室内機の能力は3倍になり、消費電力は半分。実際今年のこの異常な猛暑でエアコンを使っても電気代は5千円くらいしか増えていない。

 以前鉄道沿線に「暑さ寒さも玄関まで」と大きな字で書かれた立て看板を見た。それは玄関サッシの施工会社の看板だった。「暑さ寒さも彼岸まで」をもじってキャッチコピーにしたのだろう。すでにその看板は別の会社のものに変わっている。猛暑の中、買い物から帰って家の玄関を開けると涼しい空気が私を迎える。我が家では、冷房とドライを交互に使っている。冷房とドライは、暖房より電気代がかからない。そして最近のエアコンのタイマーは役に立つ。寝室では寝る前にエアコンを2時間たったら切るようにセットする。

 エアコンだけでない。扇風機も凄いのが出ている。以前1万円前後の扇風機を使っていた。3,4時間連続して使うとモーターが熱くなって変な音が出た。バルミューダの扇風機は、長時間使ってもモーターが熱くならない。音も静か。この扇風機とエアコンでドアをあけ放っている家の中全域(時々トイレも)に冷房ドライを行きわたらせる。快適である。

 昨夜友人から久しぶりに電話があった。彼は、スポーツマンだが大きな手術を受けている。だが常々そのエネルギッシュな生き方に圧倒されている。その彼でも今年の猛暑に冷房の効いた家の中に閉じ込められていると言う。でも彼は来週から2週間の地中海クルーズに奥さんと出かける。

 私も夢だったねぶた、竿燈祭りに行けた。青森は18度、秋田は20度だった。祭りと気候のプレゼントで前を向けた。心配した台風12号の被害も受けなかった。あともう少し。暑さ寒さも彼岸まで。


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ねぶた・竿燈・七夕

2018年08月08日 | Weblog

「ラッセーラッセーラッセーラ」「どっこいしょーどっこいしょ」「(音がない」 これらは、今回参加した『青森ねぶた・秋田竿燈・仙台七夕 東北三大祭り 3日間』で見たねぶた、竿燈、七夕の掛け声である。

  やっと東北四大祭りのうち、三つを自分の目で見ることができた。百聞は一見に如かず。全身を地鳴りを伴い振動させるような大太鼓の響き、「ラッセーラッセーラッセーラ」と声をあげながら踊る跳人たち、それらに続く圧巻青森のねぶた。遠い過去に引き戻された。この感覚どこかで経験した。そうだアフリカのセネガルの太鼓に合わせて踊る民族ダンスだ。翌日の夜、秋田の竿燈を見た。ねぶたは、ストーリーを形にした巨大な灯篭、竿燈は、「どっこいしょーどっこいしょ」の周りの46の提灯を一本の竹に帆掛け船の帆のように重ね一人でバランスを取り掲げる。提灯はローソクで灯されている。ねぶたのLED電球の派手な明るさはなく、ローソクの揺らぐ幻想のような小さな灯が集まり会場の通りを埋め尽くす灯の川だった。仙台の七夕も豪華であった。

 いつの頃か、東北4大祭りを自分の目で見たいと願っていた。とうとう71歳を過ぎるまでその機会はなかった。実際に祭りを見た多くの人から祭りの素晴らしき感動話を聞いていた。欲張りな私は出来れば一度で4つの祭りを見たかった。それを拒んでいたのは妻の勤めのスケジュール、パックツアーの値段の高さであった。

 参加して良かった。ねぶたと竿燈は、私を魅了した。出発した5日、東京駅のホームで私は汗びっしょりになっていた。青森に到着すると気温は18度。心地よかった。これくらいが人間には適正な気温だと叫びたかった。さすが旅行会社である。見物しやすい場所の桟敷を用意してあった。自分でこのようなおぜん立てはまずできない。秋田も同じく良い場所に桟敷があった。来てよかった。感動。ねぶたも竿燈も私の心を鷲づかみ。久しぶりに非日常の権化に両肩をつかまれ「どうだ?」と揺さぶられた。ともすれば世捨て人のように日常家にこもってため息をつくのを日課にしていた。ハレとケとはよく言ったものである。私は祭りに飲み込まれハレの日を心ゆくまで楽しんだ。

 カナダ留学中、どんな小さな町にでも建国記念日などに総出でパレードが行われた。地元の高校のマーチングバンドを先頭に山車が続き、その年に選ばれた町のクイーンが山車のステージから手を振った。バンドが演奏するのは全曲初めから終わりまでである。だがねぶたも竿燈も太鼓、笛、鉦で短いフレーズを延々と繰り返す。目にする光景と耳に入る音で私は現実から引きはがされていた。

 このツアー祭り以外、ホテルも食事も強行軍のスケジュールも最低だったが、祭りは最高だった。ただ残念だったのは、バスガイドがせっかく興味深い話をしてくれても私の席のまわりの人たちがおしゃべり携帯映画で騒音を出していて聞き取れなかった。以前はおばちゃん集団がうるさいのだが今回はオジンたちがうるさくて閉口した。世の中変わった。異常気象、山根終身会長問題、東京医大入試不正操作事件、嫌な日常から祭りの最中だけハレの世界に身を置けた。


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老害と村田諒太選手

2018年08月04日 | Weblog

(お詫び:8月6日投稿文を都合により本日8月4日に変更します。)

 「そろそろ潔く辞めましょう、悪しき古き人間たち、もうそういう時代じゃありません」よくぞ村田諒太選手言ってくれた。名言である。

 明治時代の廃藩置県によって1人の将軍と306人の殿様の時代は終わったはずである。しかし人間たちは、制度を変えても精神を変えることができない。日本が近代化され、経済も産業も発展し先進国と言われるようになっても、人間たちの進化は亀の歩みのようにのろい。

 テレビは日大のアメフト部の悪質タックル問題時は、朝から晩まで「日大、日大」を連呼。日本ボクシング連盟の不正を連盟の有志が告発すると、今度は一変「山根、山根」と大騒ぎ。みんなで渡れば怖くない、方式でどのチャンネルを観ても内容は似たか寄ったかである。束になってしか、殿気取りの輩に対抗できない。単独で秘密裏に取材して証言や証拠を積み上げ記事にする“文春砲”のようなジャーナリスト集団は,テレビ界には存在しない。たまにはどこかの局が世間で騒がれる前の特ダネをスクープして私たち視聴者を驚かせてくれ。そうできないのもテレビ界には横並び体質と独自の経営にかかわる聖域の存在が足かせになっている。これも人間たちの廃藩置県以前の精神構造が旧態依然に残っている証拠である。

 私は45歳で自分の仕事を整理して、外務省の医務官になった妻の配偶者として海外勤務に同行した。私が経営していた塾も少子化による生徒数の減少と塾の乱立による生徒の奪い合いで、ちょうど過渡期を迎えていた。多くの生徒に迷惑をかけたが、辞め時だった。妻に同行してネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア・サハリンと移り住んだ。役人社会の旧弊を垣間見た。私たち夫婦で決めて妻が働き私が家事をした。やれ「髪結いの亭主」だ「オカマ」だとも言われた。村八分にされたこともある。渡る世間は鬼ばかりと失望したこともある。

 人間は猿に近い。猿山には必ずボスがいる。人間もありとあらゆる環境で猿山のような組織を形成する。山がひとつできると必ずボスが出てくる。多くの男はこのてっぺんを目指す。猿は単純に機会があれば常にトップの地位を賭けて戦う。人間は現在、法的にまた表面上暴力を否定するようになった。その代わりにあくどい策略をめぐらす。「おぬしも悪よのう」の関係が闊歩する。一度トップの座を占めれば、それを自分の直系である子息に譲ろうと画策する。北朝鮮のキム一族の世襲はその典型である。日本でも宗教界、芸能界、政治屋の世界でこの風潮が顕著である。

 今回の村田諒太選手が言ってくれた「潔く」「悪しき古き」「そういう時代じゃありません」に感動。猛暑、台風、嫌な事件の連続でドロドロな気持ちとふらつくほど体力が低下している中、スカッとした。


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