団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

清く貧しく潔く

2016年01月29日 | Weblog

 手元に一冊の本がある。『清く、貧しく、潔く』(ツルネン幸子著 光文社 1100円+税) 

 なぜこの本を読んだかというと私はツルネン・マルティさんにとても興味を持ったからである。彼はフィンランド出身のキリスト教宣教師として来日した。宣教師に私は敏感な反応を示す。なぜならば素晴らしい宣教師にも出会ったが、とんでもないキリスト教宣教師に数多く出会ったからである。その上カナダのキリスト教の多くの宣教師を世界中へ送り出している聖書大学の付属高校へ留学したとき、学校の厳格さに反して学校職員や宣教師や牧師の子弟に不良が多く、グループを組んで悪さの限りを尽くしていたのを実際に見た。大きな驚きと矛盾であった。キリスト教の宣教師が日本に帰化して国会議員になった理由をどうしても知りたかった。

  去年の3月24日ツルネン・マルティさんの長男の弦念多比雄さん(34歳)が東京 世田谷の路上で逮捕された。容疑は22歳の男性に殴る蹴るの暴行を加え、軽自動車を奪って逃走したというものだ。事件の前には付近で停車していたタクシーの運転手に「金を貸してくれ」と騒ぎ、タクシーのボンネットに乗ったりもした。取り調べに対し、弦念多比雄さんは容疑を認めている。

  さてその後である。このニュースはこの日だけしか放送されなかった。翌日からどのメディアも取り上げることがなかった。不思議なことである。これは政治が関わった何らかの報道管制があったのではと私は疑う。テレビ局に電話してみたが、明確な回答は得られなかった。どうやらこの事件は、日本のマスコミの得意とするウヤムヤ作戦に飲み込まれてしまったようだ。

  拙著『ニッポン人?!』の中であるアメリカ人キリスト教宣教師の15歳だった少年についてこう書いている。「東京のアメリカンスクールを退学させられた問題児である。夜中に寮から抜け出して、飲酒した上に、ナイフで路上の車を数十台パンクさせ、日本の警察に逮捕された。未成年の外国人だったため、釈放されたが、学校からは追放された。戻った軽井沢でも悪さのかぎりをつくしていた」28ページ8行目~29ページ3行目 この子以外にも多くの問題を抱えた宣教師の子どもたちに会った。その問題児のどの子も家庭での親の厳しさと世間からの宣教師の子という板挟みになっていた。親の職業や宗教によって犠牲になる子供は驚くほど多くいる。

  私はツルネンさん本人にも家族に対しても何の恨みも持たない。しかし彼をたとえ短期間であれ日本の国会の参議院議員にしてしまった政党と彼に投票した人に尋ねたい。ツルネンさんという人が果たして日本の国政に必要な存在であったのかを。民主党が外国出身のツルネンさんを党の国際性を宣伝するための客寄せ的発想で公認したなら哀しい。私は外国人で日本の国のためにツルネンさんよりずっと貢献できるであろう外国籍の人を数多く知っている。『清く、貧しく、潔く』を読んで、彼がただの日本に住む外国人だと確信した。とにかく本を読んでいると何故という疑問ばかりが点灯した。

  日本ではいまだに金髪碧眼の外国人や親の国際結婚で生まれた子供を日本人のうちにある劣等感の裏返し現象から崇める傾向がある。最近の『ゲスの極み』不倫騒動のベッキーさんも普通の日本人だったらこれほど有名になって騒がれることもなかったであろう。スポーツや芸能界での国際結婚子弟の活躍の裏には、そうなれなかった人たちの苦悩が存在する。親の社会的地位や職業や宗教からくる圧迫に、国際結婚子弟であるという縛りまで加わる。二重苦三重苦を強いている。弦念多比雄さんもその犠牲者の一人だったと思われる。だが親が元参議院議員だったからといって、事件がウヤムヤにされれて良い理由にはならない。

 国際結婚子弟は、両親の出身国の間の懸け橋となって貢献できる可能性を持つ。そんな貴重な存在をフルに発揮してもらえるような日本社会の成熟を願う。それこそ“清く貧しく潔い”を、日本人という以前に人間として、具現できるように生きたいものである。


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冬の散歩

2016年01月27日 | Weblog

  ここ数日滅多に氷点下にならないこの町でもマイナス2度になった。

 散歩をしなければならない理由はある。糖尿病に対する3療法の食事療法、運動療法、薬物療法のひとつだからである。しかしあれこれ理由を見つけては家にこもることが多い。ずぼらで意気地なしの私と違って朝早くから散歩やジョッギングをする人々がいる。妻を駅まで車で送るが、その時間はほぼ毎日同じである。同じ人に同じ時間に同じ場所で出会うと何かとても安心するから不思議である。5人いる。

 まず駅に向かう時、車どうしですれ違いができない細い市道をおじいさん二人が横に並んで道を塞いで歩いている。私はクラクションを使わない。いつも妻にこのことで叱られる。なぜ使わないかというと自分が心臓に持病をかかえていて、パニックに弱いからだ。歩いていて後ろから突然クラクションを鳴らされると心臓が止まってしまうかと思うほどビックリする。クラクションを使わずにどうするかというと待つのである。歩行者が気が付くまで徐行する。妻は出勤前けっこう苛立っている。「なんでこの人達は道いっぱいに交通妨害してまで散歩するの。早く鳴らして。遅れちゃう」 それでも私は鳴らさない。細い市道ではあるが、車がすれ違うことができる場所がところどころにある。いくら鈍い人でも車の気配は1分以内には感じるものだ。だいたい7、8割の人は車に気付いて道の隅にどいてくれる。ダメな時は広くて追い越せる所までノロノロ運転する。

 イライラさせた妻を無事駅で見送って家に戻る。川沿いの決まった場所に夫婦で柵に持たれて川を覗き込んでいる夫婦を見かける。1年365日は大げさかもしれないが、毎朝この夫婦を見かける。この時間に散歩しているのだから、すでに退職しているのだろう。それにしても若々しく見える。オシャレとはいわないが、それなりの身支度はしている。身長も高いほうだ。何より二人とも脚が長い。春夏秋冬季節季節に相応しい格好で歩いている。健康そうである。夫婦仲好さそうである。なぜそう思うかと言うと、時々歩くのをやめて、まるで天皇陛下と皇后陛下のように適当な空間を挟んで穏やかに話している。夫婦仲良きことは良いことだ。お幸せに。

 日中、私はひとりで過ごす。ほとんどの時間書斎のパソコンの前に座っている。散歩に出るか出ないかの決断に時間がかかる。いくつかの条件を満たさなければならないからだ。まず晴れていること。朝の体重測定で体重が増えたこと。血液検査の結果がかんばしくない事。前日にちょっと食べ過ぎたかなと思った時などである。家を出るまでが大変だが、いったん家を出るとかつての道草王子は、好奇心を始動させる。冬の散歩は春夏秋と違って、観察する生き物植物が少ない。だからこそ冬の寒さの中でも元気に動き回ったり、健気に緑の葉をつけていたり花を咲かせていると嬉しくなる。

 昨日の散歩では、小さな日陰の畑で元気なキャベツがギュッと玉になっているのに見惚れた。道の脇の花壇の土が霜柱に持ち上げられているのを発見した。川べりの小さな住宅の屋根の煙突から煙が上がっていた。

 世の中、賄賂だテロだ暴落だといろいろ騒がしい。散歩に出て、子どもの頃のように道草感覚で自然に目を向ける。しばし自然に吸収されて、自分が人間であることを忘れる。家に戻ると暖房をしていなくても暖かい。ほっとする。さて今夜は何を作って夕飯で疲れて帰宅する妻を喜ばそうか。


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口利き斡旋虎屋の羊羹

2016年01月25日 | Weblog

  『「甘利大臣に賄賂1200万円を渡した」実名告白』と週刊文春が1月28日号で記事にした。新聞でなくて週刊誌でこのような報道がなされることは、いかに新聞が新聞として機能していないかの表れかもしれない。

 週刊文春の記事によれば、甘利大臣は言い逃れができないほど、告発者に証拠を握られている。現場写真、音声、メモや領収書、さらにご丁寧にも渡した現金のコピーさえある。私は告発者が甘利大臣を失脚させるために入念に仕組んだのではという疑念を抱いた。

 今から30年ほど前、車上狙い遭い、塾の教室の賃貸契約のために準備した数百万円を盗まれたことがある。犯人の高校生が逮捕された。警察が高校生の布団の下から1千万円以上の金を押収した。私は警察署から呼び出された。言われたのは「盗まれた金を選び出してください。もし自分のでない金を取ると罪に問われます」だった。私が自分の金かどうかの判別がつけられる訳もない。後のことは弁護士に頼んで金を戻ってきたが、何事も確固たる誰をも納得させる証拠がなければならないと学んだ。その点今度の告発者は、用意周到に証拠固めができている。現金を必ず銀行でピン札に換えてそのコピーを取る。週刊文春にはそのピン札のコピーの写真が掲載されている。札の番号がきちんと写しだされている。完璧。

 そもそも今回の件は、国会議員の主な仕事のうちの有権者に依頼による口利き斡旋業務である。私も地元選出の議員に何回か口利きや斡旋を依頼したことがある。日本の社会には良きにつけ悪しきにつけ、国会議員、県会議員、市会議員に口利き斡旋を依頼することが多い。お寺へのお布施と同じようにその口利き斡旋への報酬額は決まってはいない。一応法律で禁止されても、世の中には必ず抜け道がある。口利き斡旋といえば反社会的組織の常套手段である。

 私の先の結婚を解消する時、私は二人の子どもの世話のことで頭がいっぱいで相手から離婚届に判を押すように要求されたが、応じなかった。なぜなら相手からのそして相手の新しい同居人からの2件の離婚請求の裁判所での審理は却下されていた。相手の親は地元の名士だ。親が総会屋を私の家に送り込んできた。なだめ、脅され、おだてられ、の繰り返しが数週間続いた。相手が求めたのは、離婚に関しての慰謝料の提示など事務的な手続きでも手段に嫌悪を抱いた。当時続けていた坐禅が効いたのか、私の心の中の整理も進み、遂には離婚届けに判を押した。

 結婚も離婚も責任はすべて当事者である二人にある。私の離婚があの口利き斡旋がなかったらどうなっていたかは想像がつかない。しかし離婚したことで私の人間修行は再出発への決め手になった。二人の子どもを大学まで出す、という大事業を成し遂げることができた。私は再婚して幸せになれた。子どもたちも家庭を持ち、親になった。今年は夫婦で頑張ってきた大きなローンも完済できるめどが立った。仕送りから解放された時と同じ喜びをヒシヒシと感じる。

 私の今は、虎屋の羊羹の折とも、ピン札のコピーとも何らの関わりもない。何事においても証拠を残す必要がない。そして何より毎日の日常に一切、誰かの口利き斡旋を必要としないことが、私の人生の集大成だと自負している。ここまでくる過程に問題はあったが、子どもたち、そして妻のお蔭でささやかではあるが頑丈な幸せを手にしている。


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バス事故

2016年01月21日 | Weblog

  1月15日のニュース:『1月15日午前1時55分頃、群馬県から長野県に向けて碓氷バイパスの入山峠付近の緩やかな下り坂を走行していたバスが、左側のガードレールを突き破って転落。バスは横倒しとなり、木に衝突するなどして大破した。乗客乗員41人中、乗客13人、乗員2人(運転手と補助員)が死亡し、1人が重体、24人が重軽傷を負った。バス事故として10人以上の死者が出たのは30年ぶり、つまりここ30年で最悪のバス事故である。

  このバスは、東京都渋谷区のツアー会社「キースツアー」が企画し東京都昭島市のバス会社「イーエスピー」が運行していた原宿から長野県飯山市の斑尾高原に向かうスキー旅行の貸切バスであった。格安であったと言うこともあって乗客の大半が大学生であり、死亡した乗客は全員が大学生であった。』 このニュースは悲しすぎる。どうしても自分の子供と重ねてしまう。大学卒業を目前に控えた大学生が14人(重体だった学生も19日に亡くなった)も命を奪われた。

  私にとってバスで忘れられないのは、北米に展開するグレイハウンドバスである。高校生の時、カナダへ渡った。カナダで学んでいた間にどれほどグレイハウンドバスで北米大陸を旅したことか。十代で経験したバス旅行が私の人生に役に立ったと長男が大学受験を控えた高校生最後の夏休みに夏期講習に参加させずに、あえて長女が住むシアトルを起点に北米一周のグレイハウンドバスによる旅に送り出した。長男は妹がアメリカで学んでいたことを面白くないと思っていた。自分だけが日本に留まり全寮制の進学校に入れられたことに不満を持っていた。

  私はカナダの学校で学んで日本に帰国した。教員になろうと試験を受けようとした。教員になるためには日本の大学でそれなりの単位を修得していなければなれないと知った。民間会社に就職しようと思ったが、田舎の会社では外国で学んだというだけで断られることが多かった。コネもなく仕方なく教育にどんな形でも関わられるならと英語の私塾を開いた。長男にはそんな就職での苦労をさせたくなかったので、私の経験を話した。長男はただ私が長男よりも長女を可愛がっていると捉えたようだった。

  長男の北米一周バスの旅は長男を大きく変化させ成長させもした。バスの旅は列車や飛行機と違って乗り合わせた客同士が話すことはまずない。ましてや一定の時間距離によって次々に交代する運転手と言葉を交わすこともない。何度か遭遇したバス内での乗客同士のトラブルにも運転手は毅然と対応して他の乗客を守った。私は自分の経験から長男のバス北米一周旅行は危険も伴うが、あのグレイハウンドバスなら任せられると信じた。そのバス旅行のお蔭か長男は翌春の入試で国立はダメだったが志望していた私立大に合格した。

  乗客が命を託すバスの運転手も人間である。誰にでも過ちを犯す危険はある。完全な運転手などいない。惰性的な点呼指差し確認であろうが、ある意味人間が機械的動作を繰り返すことで事故を防げることもある。何もかも合理的に利益追求型の経営では、安全は確保できない。バスにつきものだった車掌やガイドの存在も安全面では大いに役立っていた。魔が差すということもありうる。信頼できるか否かは、バス運行会社の安全運行に対する取り組み方と運転手の適性と技能である。私はまず運転手の服装に注目する。きちんとした制服を身に着けていれば、その運転手の自分の仕事への意気込みと乗客の命を預かる決意を感じる。日本の多くのバス運行会社の運転手が制服制帽を着用する。バス運転手の服装と事故との関係の統計学的研究の発表を待ちたい。結果論でしかないが、自分の命は自分の判断で守らなければならない。自分の命を守るためには厳重な点検項目を設定してチェックするのも有効だ。

 国土交通省は今回のバス事故を受け、バスツアーを運営する会社のバスの抜き打ち一斉調査をすると発表した。抜き打ちとは事前に知らせることなくやることではないのか。事故の犠牲になった大学生の父親が「このような事故が二度と起こらないように・・・」と訴えていた。お役所仕事は、民意に答えることなく後手後手になる。規則や法を作るだけ作って、事故や事件が起こると自分たちは非を認めることなく責任逃れして、その違法性だけを違反者に追求する。CoCo一番のカツの横流し事件は、不正を見抜けなかった役所の怠慢である。事故事件をいかに未然に防ぐかも役所の仕事である。知恵を出しあってもっと働いて結果を出してほしい。今国会で審議中の国会議員の自分たちの給料引き上げと抱き合わせに公務員の給料引き上げに熱心になっている。公務員はこれだけ結果を出している。だから給料を上げてくれと言えるように仕事をやってほしい。今のニッポン、お上も下々もタガが緩んではいないだろうか。タガの緩みで生じる犠牲者はタガさえ締めれば相当数防げるに違いない。


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風邪の時間差攻撃

2016年01月19日 | Weblog

  まず妻が年末から風邪をひいた。私は懇願した。「お願いだからマスクして、私にうつさないでくれ」と。私の願いは聞き入れられなかった。理由は、「インフルエンザの予防接種を受けているから大丈夫」であった。

 妻は1週間くらいで、ハクション大魔王とティッシュの消費王の座を下りた。そして4,5日の時間差を経て、今度は私が後を継いだ。コショウを浴びたかのようにハクションが所かまわず出る。鼻水が、それも粘着性皆無の状態で、間欠的に湧き水のように沁みだす。妻が用意してくれた風邪薬をのむが、改善されない。熱はないが体中の関節が痛む。喉も何かイガラッポイ。普段でも頭がはっきりしないのに余計ボーッとする。使いもしない頭が痛くなるなんて納得できない。集中力はもともとないが、さらに一点集中ができず、気が桜吹雪のように散りじりバラバラになって飛び交う。眠るのは好きだが一日中ベッドに入っているとさすがに寝疲れする。テレビを観ようと思ってもテレビを置いてある部屋は寒い。第一最近は目が痛くてテレビを観ていられない。ラジオを聴くが以前と違って番組改編以降、好きなアナウンサーやタレントが替わってしまい、聴くに堪える番組の数は激減した。コマーシャルも相変わらず『過払い金 0120-10-20-30 ○○司法書士事務所』か『石川遼も使って英会話を学ぶ スピードラーニング』とあとはパチンコ屋のものばかり。風邪に特効薬はない。動物のようにじっと回復するのを待つしかない。

 大相撲初場所もインフルエンザが大きな影響を与えている。昨日の8日目までに7人の力士が休場した。安美錦や千代鳳は回復して再出場したが長野県から47年ぶりに出た関取御嶽海は3勝3敗で7日目に休場届を出して3勝4敗になってしまった。応援していたので残念である。しかしもしかしたら御嶽海も再出場の可能性があるというので期待している。さすがはふだんほとんど裸で猛稽古して本場所に備える力士である。私のような風邪の症状なら彼らは何もなかったように相撲をとっていたであろう。インフルエンザとなれば他の力士への感染が危惧され自粛するしかない。力士はインフルエンザの予防接種を相撲協会が一括して受けさせていると思っていたが、どうなのだろう。いずれにせよあれだけの猛稽古で体作りをしている力士でさえインフルエンザにかかり休場せざるを得ない。体を鍛えるなんてことをしたことがない私ごときが風邪でダウンするのは当然のことである。

 妻は毎日往復4時間あまりの通勤を続けている。風邪をひいていてもいなくても。10年勤続して病欠はない。彼女は日頃「患者にとって私がいつもいて、診察が受けられる」ことが一番大事だという。頭が下がる。18日の朝、東京に6センチの積雪があった。住む町に積雪はなかった。雨は降っていた。普段は7時3分の電車に乗るが私の提案で6時39分の電車で出勤するよう勧めた。彼女は重い長靴を履いて着ぶくれして出勤した。結局東京駅まで行けても、そのあとの乗り換えが大混雑で病院に到着したのは、いつもより1時間早く家を出て35分遅かったそうだ。

 夜のテレビニュースで東京の多くの駅でホームへの入場制限したために長蛇の列ができ、出勤が何時間も遅れた人が続出したと伝えた。庶民はじっと耐えている。私はこんな風邪ぐらいでフニャフニャしていられない。がんばるぞ、と思った瞬間、鼻水がスーッと机に垂れた。


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寒い朝 寒い夜

2016年01月15日 | Weblog

  暖冬で正月はまるで春のような陽気であった。この数日やっと冬将軍のお出ましだ。

 私たち夫婦は毎朝5時起床だ。寝ているとき暖房は何も使っていないので、寒い朝は寝床から出るのがつらい。ほんの1,2度の差でも体感温度はずいぶん違う。そのうえ私は朝トイレから出てくると体重測定する。下着だけになって体重計の上に乗る。15日の体重は68.9キロだった。ついに69キロを切った。血液検査の結果が良くなかったので5か月前から体重を減らす食事制限を始めた。71キロで測定を開始した。2キロ減らすのに5ヶ月かかった。ライザップのように1ヶ月で10キロ単位を減量することなど私には夢物語である。

 体重測定が終わるころ、やっとエアコンから暖かい風が部屋に還流し始める。便利で快適な生活になったものである。トイレでウォシュレットを使う時、下着や上着にヒートテック、ますます軽くなったダウンジャケットを身に着ける時、テレビが2週間前の番組まですべて録画されていて、テレビ番組を見逃しても2週間以内ならいつでも見られる時など私はまるで王様になったような気持ちになれる。

 最初の心臓バイパス手術で失敗して修復手術を別の病院で受けた。非常に難しい手術だったが名医のお蔭で無事修復できた。退院する前の最後の検診で執刀医は「少し前までは今回のような修復手術はできませんでした。せっかくいただいた命です。大切にしてください。3つのことを守ってください。寒い所で暮らさない事、重い物を持ったり過激な運動を控える事、ストレスを持たない事。これらを守れば心臓が原因で死ぬことはありません」と言った。あれから15年が過ぎた。

  寒い所を避けて長野県には戻らなかった。現在住むところでは氷点下になることはほとんどない。にもかかわらず感謝知らずの私は室温18度でも「寒い」と口にしてしまう。マイナス45度を経験したカナダやマイナス40度のロシアのサハリンで暮らしたことのある私がである。慣れとは恐いものだ。

  小学校の石炭ストーブの暖かさが好きだった。貧乏だった我が家の暖房はコタツだけだった。学校というところは、自分の家にはない一歩先行くあこがれがあった。給食、ストーブ、図書室。給食で家では食べたこともない献立に胸躍らせた。ストーブの暖かさと石炭が燃え、その熱が机や床の木、生徒が着ている服、生徒のニオイを教室中に還流していた。今あのような暖かさを探しても見つけられない。

  吉永小百合が『寒い朝』(作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正)を歌った。♪北風吹きぬく寒い朝 心ひとつで暖かくなる・・・北風の中にきこうよ春を・・・北風の中に待とうよ春を・・・野越え山越え 来る来る春は♪

  最近歳のせいか、昔の歌の歌詞に心奪われることが多い。10日の日曜日からNHK大河ドラマ『真田丸』の放映が始まった。連続ドラマなど一切観ないが今回は観てしまった。引き込まれた。あろうことかドラマの終わりに上田高校の校歌の一部が流れた。♪・・・関八州の精鋭を・・・♪ 何百回と歌ったが歌詞を音で言っていただけで意味を考えたこともなかった。やっと校歌の意味に温度とニオイを感じることができた。校歌の最後までスラスラ出て来た。♪我に至剛の誇りあり いざ百難に試みむ♪ 高校生の時にこの言葉が私に理解できていたら。いや遅くはない。最後まで「いざ百難に試みむ」 寒い夜だったが胸の奥が熱くなった。 


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山を崩す

2016年01月13日 | Weblog

  家の前の道路にダンプカーが突然増えたのは去年のある時期からだった。すでに1年以上もダンプカーが行ったり来たりを繰り返している。いったいどんな大工事が行われているのかと思ったがそれ以上調べることはなかった。

 そうこうしているうちに去年の暮れに中国の深圳工業団地で大規模な土砂崩れが起こった。原因は工事現場から出た残土の山が崩れて工業団地に流れ込んだらしい。懸命な救助活動の様子が連日ニュースで放映された。いつものことであるが日本の報道は尻切れトンボになることが多い。年末ということでこの深圳の土砂崩れのニュースも途切れた。年が明けると今度は北朝鮮の核実験、中国上海株式市場の暴落とサーキットブレイカー発動、原油安の進行と世界を不安におとしいれる事件が続く。深圳の土砂崩れで行方不明者の救出がどうなったかはわからない。

 家の窓から外を見るのが日課となっている。冬、我が家は陽が当たらない。向かいの集合住宅にはさんさんと陽が当たる。時々集合住宅の窓ガラスに反射した日光が我が家の北側の窓から入り込む。私はこの時とばかりにその日光を浴びる。曇っていたり雨が降ると当然陽は差さない。そこで川を挟んだ市道と県道の交通を観察する。昨日12日のごく短時間の間にもダンプカーは頻繁に行き来した。我が家に接する市道を散歩する人と犬の往来より激しい。

 最近郵便受けに今度できる会員制のリゾートホテルの案内書が入っていた。まず町長の挨拶が載っていた。一私企業の宣伝書に町長が推薦書を書く。よほどこのリゾートがこの町の活性化を推進する魂胆か。会員権の値段がまた凄い。一年間に使用回数が決められていて、宿泊するたびに使用料を払う。普通版と豪華版が用意されていて何千万円という値段である。そもそも会員権リゾートはハワイなどで普及した廉価で休暇を過ごす共同で別荘を持てる制度である。アメリカの友人がハワイのリゾートの会員権を約100万円で購入した。毎年十日間使用できる。すでに私たち夫婦も3回お世話になった。安普請であるが休暇を過ごすには問題ない。同じ地域に日本の会社が運営する会員リゾートがあったが1千万以上と聞いた。ある週刊誌の目次に『ムダに高いモノもある日本の超高級ガイド』とあったが、欧米の合理的な制度が日本に来るとまったく別の形をとってしまうのはなんとも不思議である。

  町長まで担ぎ出すこのリゾートの工事現場に行ってみた。山が大きく削られていた。もともと峡谷の片隅に建てられていた古い温泉旅館の建物が跡形もなく壊されていた。その旅館の裏山を削っている。広大な平らの敷地があった。ダンプカーの数に納得できる大工事である。

  自然の景観を巨額の投資をして破壊してまで現在の日本人にリゾートが必要なのだろうかと私は思う。リゾート会社の経営陣は言うであろう。「心配無用。これからのお客様は世界の富豪です」

  今日もダンプカーが岩石土砂を積んで疾走する。私は案ずる。あの岩石土砂はいったいどこへ運ばれるのか。深圳の土砂崩れの土砂崩れの二の舞にならなければよいのだが。これだけ重量のダンプカーの往来で道路のアスファルト舗装が持ちこたえられるのだろうか。削られた山は、下流地域の住民の生活に安全に変化を及ぼさないのだろうかと。


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ジャイアントコーン

2016年01月07日 | Weblog

  夫婦でジャイアントコーンを楽しんでいる。きっかけは去年の暮れに友人夫婦を夕食に招いた時にビン入りのジャイアントコーンを頂いてからである。

 友人は買ったときあまりに辛かったので工夫して辛さを減らしたという。その辛さの落とし具合が絶妙であった。妻は辛さ、酸っぱさにからきしダメな体質である。私はある程度の辛さはむしろ好きな方である。良いことに私の体には“辛さ警報装置”が付いている。辛さが一定のレベルを超えるとその警報装置が作動を開始する。実に便利である。

 ジャイアントコーン。コーンと言うからには、モロコシの一種なのだろうが、それにしても粒がでかい。(写真参照:ジャイアントコーンの粒と普通のモロコシの粒)この一粒のでかさから推測するとこのモロコシ本体は相当な大きさになる。以前なら図鑑や百科事典などで調べなければならなかったが、今ではパソコンやスマートフォンを使ってネットで調べることができる。「ジャイアントコーン 写真」で検索すると早速出て来た。

 ジャイアントコーン:トウモロコシの一種で種子が白く大きい。直径2センチくらいあるが、トウモロコシの房自体の大きさは普通のトウモロコシと変わらない。軸が細い。甘味はあまりなく、ややぼそぼそした食感。ペルー中南部ウルバン地方標高3000メートルの高地のごく限られた地域でのみ栽培される。日本で栽培しようとしても、実は大きくならない。

 写真で見ても普通のモロコシに見える。粒は大きそうに見えるがやはりモロコシにしか見えない。日本で育てても実は大きくならない、というのも、ますますジャイアントコーンへの摩訶不思議さを倍増させる。以前アメリカの日系人に日本の白桃をアメリカで栽培すると黄桃になってしまうと聞いたことがある。アメリカには確かに白桃はなかった。黄桃の花粉が昆虫によって日本から持って行った白桃に付いてしまうのかもしれない。それにしてもその地でしか育たないことは不思議である。ペルーの一地方でしか栽培できないならば、日本へこうして渡って来ているジャイアントコーンはすべてその地方からの物なのか。その生産量は相当なものになる。ということは、栽培は難しいものではないらしい。生産地域が特定されていれば、他の産地との競合がなくビジネスとしても安定する。

 日本ではいろいろな味付けをして販売されている。カレー、コショウ、塩、唐辛子。おつまみ用に他のナッツ類と混ぜられて“ミックスナッツ”として売られている。この缶を買ってみた。妻も私もジャイアントコーンばかり拾って食べてしまう。仕方がないのでジャイアントコーンだけの袋詰めを買って補充することにした。

 友人が贈ってくれたジャイアントコーンをつまみに夕食前の晩酌が一段と旨くなった。ジャイアントコーン争奪戦もなくなった。こうして今まで知らなかったことを友人たちから紹介してもらえる。子どもの頃は何でも知らない事や不思議な事を知ろうとガムシャラだった。この歳になるとむしろ不思議な事を不思議なままに畏敬できるようになった。物忘れも激しくなるばかりであるが、時々忘れることさえ良いことだと思える。

 宗教戦争、領土領有権争い、政教一致政党の勢力拡大、北朝鮮の核実験、凶悪事件、不安なこと心配なニュースが溢れるが、友のジャイアントコーンをカリッと噛むとほぁ~んとしてしまい、しばし無の境地にいたる。

 申し遅れたが、私の辛さ警報装置とは、「シャックリ」のことである。


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年賀状

2016年01月05日 | Weblog

  謹賀新年

 

年賀状は出すのが面倒でも、もらうと嬉しいものである。海外で12年間暮らしていた間に自分から年賀状を書いて出すことはしなくなった。2004年に帰国してから段々にお付き合いが始まった。帰国した当初は数通だった年賀状も今では束になって届くほどに増えた。ずぼらな私は未だに届いた年賀状に対応するという礼を欠くことを続けている。

  元旦に届いた年賀状の束の中に去年まで毎年当たり前のように届いていた2通が含まれていなかった。いくら事前に喪中はがきで知らされていたとはいえ、年賀状の束の中にないと彼と彼女に対する喪失感で息苦しくなる。1通は享年44歳女性。もう1通は享年68歳男性、私と同年である。

  年賀状はもう出しませんときちんと宣言して知らせてくれた友人知人も多くいる。私ぐらいの年齢になるとその数は増える一方である。寂しいことであるが、群れを離れて一頭で終わりを迎える象のように孤高さを感じる。

  去年の年賀状の束の中から2通を取り出した。44歳の彼女の年賀状に「お元気ですか。こちらも変わりなく、Londonから帰国して5度目のお正月となりました。長男は中学2年、身長175cm。長女は4月から小学生です」とある。4枚の写真、母と娘、父と息子、息子と娘、バイオリンを弾く娘。「こちらも変わりなく」から4箇月後に子供二人と夫を残して急逝した。私は4歳で母親を亡くした。残された二人の子供に自分の経験を重ねる。旦那さんに母を失って途方にくれていた私の父親を重ねる。

  もう一枚の68歳男性友人の年賀状には「昨年春にロシアを卒業し、ベトナムへと転職し暮れに帰国しました。いつまで現役を続けられるかわかりませんが、今年は懐かしのミャンマーへ復帰する予定でいます」 それから8箇月後彼から電話が来た。「俺、大腸がんなんだって。今日から入院する。きっと治って戻って来るからお見舞いには来なくてもいいから」が最後に聞いた声になった。これまでに世界の各地からのメールを印刷した。なんと200枚近くになった。私は気難しいのとひねくれているせいで友達は少ない。そんな私でも大きな心で許容し兄のように守ってくれていた。

  ラジオから小林旭の『あれから』(作詞:阿久悠 作曲:鈴木キサブロ)が流れた。「♪昨日今日と 二日も同じ夢を見た 笑い泣いた あのころに乾杯 きみもおれも あれからどこで何した めぐり逢いの しあわせに乾杯♪」

  「めぐり逢いの しあわせに乾杯」に胸詰まる。そうだ逢えたことに感謝しよう。だからこそ年賀状のやり取りもできた。これから私もいつか誰かがこの2通の年賀状のように私がいなくなった後でも取り出して見て私を想ってくれるような年賀状を出そう。年賀状に懐疑的になっていたことを反省する。最後の最後まで妻と、私を受け入れてくれる友を大切にしよう。年賀状を毎年の私のその誓いの証明書として送ろう。


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