団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

アオスジアゲハ

2011年07月29日 | Weblog

 台風6号が近づいていた。私の住む町にも大雨洪水警報がでた。朝11時20分から会員になっている隣の市にあるスポーツジムで水曜日は、定員60名の講座に参加することにしている。その講座は、人気があってジムが10時に開く前に整理券を並んで取らなければならない。台風の影響で帰宅できなくなる危険を考え、家にいることにした。

 台風に備えてベランダの強風に飛ばされそうな物を片付けておこうと網戸をあけようとした。網戸のちょうど私の目の高さの外側にアオスジアゲハがとまっていた。じっと網戸にしがみついている。元気がない。アオスジアゲハを裏から見たことが今までになかった。観察した。黒い羽の中、縦にステンドグラスのように半透明の青い部分から光が通過する。美しい。見とれた。子供のころから蝶が好きだった。今では絶滅したといわれるヒメギフチョウを父と追いかけた日のことを思い出した。当時すでに滅多に見られない蝶だった。父は子供の頃、このヒメギフチョウの群を見たと話してくれた。その話だけで私は、花が咲き乱れる野原にヒメギフチョウが群をなして飛び交う夢を見た。そんな世界を実際に知っている父を羨ましいと妬んだ。

 今住む町には、蝶がたくさん舞う。それはとても嬉しいことだ。たぶん柑橘類の木が多いせいだろう。散歩で通る川辺の砂地にアオスジアゲハが集るところがある。10匹から20匹のアオスジアゲハが群なし飛び交う。アオスジアゲハの飛び方は、何か嬉々としたものがある。おそらく砂地から水を吸い上げているのだろう。地に舞い降り、舞い上がる。あれだけ多くの美しい蝶が乱舞するは壮観である。毎年アオスジアゲハの群舞の観察を楽しみにしている。台風で川の水が増すと、砂地が消えたり移動する。事前にアオスジアゲハが集りそうなところを下調べしておくのも散歩の楽しみだ。今年もそろそろ下調べを始めようと考えていた。

 1匹だが初めてアオスジアゲハが我が家をわざわざ訪ねてきてくれた。それも網戸にとまってくれたおかげで、至近距離で裏から観察させてもらえた。花、蝶、昆虫、私は、無心になって見とれていられる。そんな時間が好きだ。台風6号は、結局ここを通らず太平洋の沖へ反れて行った。

 あれから4日間アオスジアゲハは網戸に留まっていた。その日網戸を見るといつもの場所にいなかった。どこを探してもいない。妻は鳥に食べられたと言う。私はそう思わない。裏山に戻ったと信じたい。それにしても普段、我が家のベランダに並べた鉢植えのゼラニウムの花には、クロアゲハ、オナガアゲハ、カラスアゲハ、モンキアゲハが多く来る。アオスジアゲハという珍客が訪ねて来て、長く滞在して、たっぷり観察させてもらえた。昆虫画家の熊田千佳慕がいう「私は虫 虫は私」の気分をちょっと味わえた気分である。また来て欲しい。(写真:網戸にとまったアオスジアゲハ)


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トイレ改革

2011年07月27日 | Weblog

 アメリカのマイクロソフトのビル・ゲイツ夫妻の財団が、トイレ工学の改革を推進してもらおうと4150万ドル(日本円で約32億3千万円)の研究補助金を世界中から選ばれた大学に寄贈すると発表した。同じ大金持ちでもビル・ゲイツのような金持ちならいくらいてもいい。

 私もトイレの問題について興味を以前より抱いてきた。本でトイレに関する記載が在るとメモをした。水の都ヴェネツィアのトイレの仕組みを塩野七生の本で見つけた時、嬉しくて飛び上がった。ヴェネツィアのトイレは潮の満ち引きによる自然まかせなのだ。あこがれのヴェネツィアの意外な事実を知ってしまった。とても大事な問題と思うが、多くの人は、トイレの話題を遠ざける。私が10代のとき、日本在住のアメリカ人宣教師の息子に、彼の家のトイレを使って「日本人のウンコは臭い」(拙著「ニッポン人?!」青林堂 1200円税込みP28参照)と言われた。それ以来私はそのことがずっと頭から離れなかった。私のウンコは他の人に比べて特に臭いのか、日本人だからなのか?

仕事の関係で在外に暮らした。ネパールで私が住んでいた借家は、一見水洗トイレだった。しかし、内実はトイレの汚水は庭の下に掘られ汚水タンクに貯められ、時間をかけて、汚水を地下に浸透させる方式だった。年に何度か大雨で水洗トイレの地下浸透タンクが満杯になり、広い庭が汚物のプールと化すありさまに絶句した。朝早く空港へ車を走らせると、道中、ネパールの人々が朝霧の中、洗浄用の水が入った壷を片手に点々とあちこちで野原にしゃがみこんでいる光景があった。旧ユーゴスラビアのベオグラードには、ドナウ河が悠然と流れていた。そのドナウ河、実は流域のすべてのヨーロッパの国々の下水を受ける自然の下水道であると知らされた。先進国だろうが発展途上国であろうが、トイレの問題は深刻である。

ビル・ゲイツ夫妻が指摘しているように、水洗トイレの普及、下水処理場の敷設は、保健衛生を向上させる。夫妻は同時に、下水処理による資源再生を訴えている。日本の会社がウォシュレットなる便器を開発したが、排水された後の処理法に決定的な進歩改革はない。トイレ革命と謳ってビル・ゲイツ夫妻が援助する研究機関に日本の大学が含まれていない。民間企業のトイレ機器の先進技術を持っていても、やはり日本人の多くは、トイレと排泄の問題を蔑視している。日本だって、世界の改善に貢献できる知恵と技術の蓄積とその過程においての貴重な失敗を世界に役立てられる経験を持っているはずである。日本人の排泄物は臭い!人間すべての排泄物は臭い!排泄物に関する問題に目をつぶって他国の進歩に指をくわえて見守る必要は無い。日本人もドンドンこの分野に目を向け研究したらいい。脱原発で太陽光発電のための大規模投資をするよりも、ずっと現実的な利益を得ることが出来るような気がしてならない。日本人のウンコは臭いなら、その世界で一番臭いウンコを資源に変えてくれ!

 


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まま祖母

2011年07月25日 | Weblog

 継母(ままはは)というが、はたして継祖母(ままそぼ)という言い方があるのかわからない。電子辞書に継祖母はなかった。私は、実母を4歳で亡くした。6歳から継母に育てられた。継母は実母の妹である。まったくの他人ではなかった。私は離婚後二人の子どもを育てた。そして44歳で再婚した結局、自分の二人の子どもに実母と生き別れにさせ、血の繋がらない女性を継母(ままはは)とさせた。今年で再婚して20年になる。すでに子ども二人が成人、結婚自立してそれぞれに孫ができた。孫にとって私は祖父である。妻は私と結婚した後、あえて私の子どもたちと養子縁組をしていない。妻は「シンプル イズ ベスト」を信奉、実践する。妻なりの熟慮の末の結論だった。だからと言って、全く問題がないわけではない。妻にも葛藤、迷い、割り切れなさはあるに違いない。時々、こんなに鈍い私にも、妻の言動、行動から妻の苦悩が漏れ伝わることがある。

 長女が男児を東京の病院で出産して、里帰りで今、我が家に滞在している。3連休の中日、産後の肥立ちがよくない長女が妻の勧めで病院へ行くことになった。妻は機転がきく。電話でまず消防署に近隣の産婦人科の当番医を尋ねた。ところが産婦人科が管内に一軒もないという。あちこち電話してやっと見つけた受診可能な一番近い病院は、車で40分かかる。妻が赤子を見ていることにして、私が車を運転して長女を病院へ連れて行くことにした。

 妻は「自分の遺伝子を遺さない」ときっぱり言って子どもを産まなかった。育った家庭での体験、医師という職業経験と学識、現在の育児環境、将来の人間の行く末、結婚した相手が二人の子持ちのバツイチ、それらを考慮した妻なりの結論であった。その中でも私の子どもたちに気を使って「そうでなくても複雑でこじれた関係なのだから、これ以上彼らを混乱させることはない。シンプル イズ ベスト」を健気に前面に押し出していた。妻独自の倫理である。揺るぎない信念のはずだが、私には妻の苦悩が伝わる。産んだ女と産まなかった女、夫の妻の関係に割り入る娘という女の嫉妬の構図、夫の前妻と子どもとの血縁の壁。割り切れない気持を妻は内包していて当たり前である。普段は私と妻だけの暮らしである。今回のように長女の1ヶ月にもわたる滞在となると、いろいろな問題が起こる。私は夫、父という立場の間を、さえない振り子のように行ったり来たり。妻の葛藤、苦悩と長女の産後の欝と母としての双方の夫への、父親へのしごく当然な主張を前に、何を言われても沈黙するだけである。夫としても父親としても、不甲斐ないかぎりだ。

 妻は、私が長女を病院へ連れて行っている間、長女の赤子を見ることになった。私は心配でたまらない。妻は仕事で以前長く出産にかかわったが、産婦人科医師は出産までが担当で、出産後、出生児は小児科医師の担当となる。まして現在妻は、出産とは関係ない婦人科の医師である。妻は赤子とだけ1対1になったことがない。自分で遺伝子を遺さないと決意するまでの人である。できるだけ個人生活の中に赤子、子どもとの関係を持たないようにしてきた。自分を厳しく律して生きる人は、それなりに頑固である。そうでなければ、自分の意志を守りぬけない。育児の経験も知識もない。その妻が、数時間だけであっても赤子と二人だけとなる。ましてや心の中に確執もある。これは大事件だと私は気になった。しかし妻が言う通り、この事態で選択肢は、これしかなかった。

 私は車に長女を乗せて病院に向かった。日頃私は車についているナビを使わない。最初面白がって使ったが、何度も騙されたからである。今回は最初から病院名を入れた。ただ内心また騙されるだろうという危惧はあった。途中、3連休の中日であるため道路は渋滞していた。普段なら20分のところ、50分かかった。最初のナビの設定で有料道路優先か否か問われ、有料道路優先を選んだ。長女の苦しみを少しでも失くすため、また早く到着できることを願ってであった。すべて裏目に出て、またナビに騙された。普通道で15分で行かれるところを遠回りさせられて40分かかった。それは病院からの帰り道で証明された。病院は緊急外来だけが開いていて、患者と付き添ってきた家族でごった返していた。「喫茶店かどこか涼しいところで待っていて。終ったら電話する」と長女に言われた。近所を探したが喫茶店らしきものはなかった。ベンチで汗をかきながらカバンに入れておいたクライブ・カッスラーの新刊『運命の地軸反転を阻止せよ(上)』の続きを読んだ。私はできれば、運命の地軸という言葉が重く感じた。時間が長く感じられた。いつものようにクラブカッスラーの本に吸い込まれるようにして夢中になって読めない。家で妻が赤子とどういう状態かの妄想を1時間半、身の入らない読書と混ぜ込んで過した。本は3ページしか進まなかった。長女から電話があり、玄関に車を向けた。病院に来る前より気持明るい顔で長女が車に乗り込んできた。家に急いだ。道中、会話はなかった。ただお互い、妻と赤子の状況をそれぞれの立場で邪推していた。帰り道、今度は事故で渋滞になっていた。レンタカーの若者が直線道路のガードレールの端に車をくぎざしにさせていた。消防車2台パトカー1台救急車1台で現場は、大混乱であった。20分で行けるところを40分かかった。結局4時間妻は、赤子と過した。

 私は家のドアを開けるのが怖かった。しかし全ては杞憂だった。妻は、ニコニコして赤子を抱いて迎えに出てくれた。赤子もご機嫌だった。妻は、この4時間という長い時間、何を考え、何を思い、何を感じていたのだろう。妻しか知らないことだ。血のつながりは、万能の思想宗教哲学である。あえて自ら自分以後の血のつながりを断った妻である。私が歩んだ無鉄砲、無思想、無計画な行き当たりばったりの人生とは根幹から異なる。ある程度の覚悟を持って、あとは勢いで私と結婚して、私の人生の後始末に手を差し伸べてくれた。それが子に孫へと拡がる。生後2週間の複雑な人間関係に振り回されることのない純真無垢なそれこそシンプル イズ ベストを生きる赤子が、意志強固で少し気難しい“まま祖母”との時間を無事に過せたようだ。「夫婦は他人」という。その血の繋がらない他人が持つ関係の凄さに圧倒された。私は後光がさすような妻の姿に思わず手を合わせたい気持で「ただいま」と言って家の中に入った。


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女性外国人語学教師

2011年07月21日 | Weblog

 私が経営していた英会話教室には、常時アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドから若い男性女性教師最低2名が在籍していた。女性教師には、気を使った。男性教師にも気を使った。性に関して英語教師は、みな進歩派だった。私は責任ある者として、彼らが犯罪に巻き込まれないように目を光らせるより他なかった。犯罪となれば、これは日本だけの問題でなく、国際的な事件になってしまう。

 平成19年、英国人英会話講師のリンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)は、市橋達也被告(32歳)に殺された。このニュースに接した時、私はこのような事件に関わった可能性がどれほど高かったか、あらためて痛感した。外国人女性教師の金髪を欲しいとわざわざ教師を追いまわす英会話教室とはまったく関係ない男たちがいたり、今ならストーカーとして犯罪となるような待ち伏せや覗きをしたりする男たちがいた。外国人講師のための宿舎の風呂場やトイレを覗く者もいた。これは国や人種の問題ではない。私を含めた男という生き物の問題である。男性外国人教師に対して犯罪まがいの行為に出る日本人女性はいなかった。恋愛感情や感心をいだくことはあった。それを巧みに利用して、遊ぼうとする男性外国人教師に私は目を光らせた。彼らにとっては、嫌な雇い主であったに違いない。私が知る限りで、2人の日本女性が男性外国人教師と結婚した。

 7月7日千葉地裁で市橋達也被告が、弁護側の被告人質問への答えた詳細が新聞に載っていた。「午前10時ごろ自宅に入った後、“ハグしたかった”と背後から抱きついた。しかし強く拒絶されたため、その場でリンゼイさんを押し倒した。“私は誘惑に負けた”そのときの気落ちについて、声を震わせながら振り返った。乱暴後にリンゼイさんの両手足首を結束バンドで縛り、自宅和室に置いた浴槽に入れた。“何とか許してもらいたかった。話しかけて人間関係を築けば許してもらえると思った”。2人でキング牧師やキリスト教などの話をした。ただ、“たばこが吸いたい”などと要求するようになったリンゼイさんに対し“カッとなった”と顔を2回殴りつけた。それでも、“今はだめでも何とか許してもらいたい。それだけを思っていた”という」

 記事を読んでいて腹がたった。私だって清廉潔癖な男ではない。かつて私に潜む男性ホルモンの暴走に振り回された時期があった。男なら自分の中の欲望をどう犯罪につながらないようにするかは、誰にとっても闘いであろう。何とか犯罪に至らないのは、個人の抑制力だ。自分が子どもをもっていて罪を犯して服役したら誰が子どもを育てるのだ、仕事を失えばどう生活したらいいのか、犯罪者となれば自分の両親を悲しませる、犯罪は家庭を崩壊させる、などと考え抑制が働く。性欲を満たすことには、甘美な陶酔や達成感がある。だからと言って、相手を押し倒し、ねじ伏せて、無理やり犯すのは、人間社会では犯罪である。人間も動物である。人間と動物の違いは、法律をもって行動行為を律することができるか否かだけだ。動物だって平時には、メスがオスを選ぶことが多い。自分の子孫に少しでも生き易い有利な遺伝子を本能的に残そうとする親心のためだ。

市橋被告の証言記事を読んで思うことは、この市橋被告は、身に潜むホルモンに翻弄され、時々顔を出す人間性に未熟さと自己中心のわがままさが混在し、暴力を卑怯に行使している心の不釣り合いを強く感じた。相手を性のおもちゃと見なしながら、その相手との一方的な犯罪性行為のあと、何が人間関係を築きたくてキング牧師やキリスト教の話をするだ。滅茶苦茶である。辻褄があわないから犯罪なのだろうが、あまりにもリンゼイさんの死が無駄死で切ない。自分の欲しいものは、どうやっても手に入れられると思い込んでいる甘ったれのお坊ちゃまの成れの果ての犯罪だ。

自分の中の欲望をどう管理抑制するかは、無言の家庭内、性教育を必要とする気がする。市橋達也被告のあまりにも身勝手な答弁に怒りを覚える。市橋達也被告の両親は、この男に性教育をしたのだろうか。私も女の子どもを持つ親だ。リンゼイさんの親姉妹がこの証言を聞くに堪えない内容である。その心境は察するに余りある。多くの親にとって「自分の子にかぎって」と我が子を擁護してしまう。せめて男と女の関係は、複雑怪奇魑魅魍魎であるが故に、これを構築維持することは、子育てと同じく人生の最大事業であることを叩き込んでおかなければならない。ただ単に生殖のためだけの行為でなくなった人間の性行為は、両者の合意と願望においてだけ成立する。その合意は、愛情、金銭、打算など多種多様な人間模様で決められる。そして性行為によって、両者男も女も、喜びを感じる行為でなければならないと私は思う。人間だけに与えられている愛情の力がここにある。人間を犯罪から守れるのは、愛だけかもしれない。今回の事件のように交通事故なみの出会いがしらのようで、そこまでに至るお互いの気持の高まり熱い恋心を育む過程のない、あまりに幼稚な衝動的行動に私は怒りを覚える。


 
子育ての苦労心労は、その瞬間的な喜びの代償なのかもしれない。なんと多くの親が「こんな筈ではなかった」と思っていることか。その点において、私は間違いなくそのひとりだった。離婚後の私の二人の子育ては、まるでざんげの荒修行で、償いの服役のようだった。市橋被告は、ホルモンの欲望に身を任せた故に、これから同年輩の人々が過すであろう、刑務所の外での、持て余すような、ごく普通の退屈で有り余る自由な、人生を送ることは、まず金輪際できない。また決して両者合意で成立する自然な恋愛もセックスにも縁が無くなる。それでもリンゼイさんは、浮かばれない。一方的な欲望処理ためだけの犯罪は、いつも身勝手である。

 リンゼイさんの家族が市橋被告に裁判でどんな判決が出されても、日本から英国に帰国して、自宅でリンゼイさんが育ち過した部屋で、リンゼイさんが確実に彼らと生活を共にしていた空間に身を置けば、身を切られるほどの喪失感に襲われるであろう。つらいだろう。それでも人間は、生きていかねばならない。関係者が死に絶えるまで続く。これを残酷といわず、何を残酷というのか。

 

 


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暑さのしのぎ方

2011年07月19日 | Weblog

 暑さが続く。今年は6月から暑い。7月生まれで、ずっと暑さに強いと自負していたが、この数年の暑さに参っている。アフリカのセネガルとチュニジアで6年近く暮らした。暑い所だった。気温が40度を超える日もあった。でも日本の暑さは、別である。湿気が高いからだろう。日本ではこの湿気対策として、家の中の風通しを重視する。湿気が低いセネガルもチュニジアも日陰に入ると、暑さをしのぐことは出来た。扇風機をあまり使わないのは、湿気のない空気は攪拌しないほうが涼しく感じるからだろう。熱中症対策として日本では①水分のこまめな補給②直射日光に当たらない③エアコンなどで体温を下げる、と言われるが、②以外、暑さしのぎの環境が入手困難な国は幾らでもある。そこでは人々は、ただじっと日陰で気温が下がる夜が来るのを待つのである。昼寝も対策のひとつである。日本でアフリカの暑さを話したら、「プールで泳いでいればいいのに」と言う人がいた。残念ながら私の住んだセネガルもチュニジアも水が不足している国である。海外から来る観光客のためのリゾートホテルならプールがあったが、地元の人のためのプールは、なかった。また打ち水のような、水を撒いて、涼感を演出する方法も見たことがない。水をふんだん使えるのは、よほどの金持ちである。そう考えると、風鈴、打ち水、浴衣、冷やしスイカ、そうめん、麦茶、かき氷など日本の暑い夏のしのぎかたは、豊か、かつ風流である。

 住めば都という。どこの国でも長い人々の暮らしの知恵がある。セネガル、チュニジアにも工夫がある。まず家の南側にできるだけ窓や開口部を極力開けない。南向きであることが良い住宅の条件である日本とは違う。とにかく強烈な太陽の光を生活に入り込まないように工夫している。金持ちは、家の床に大理石を使う。大理石が好まれるのは、肌への感触だろう。外がどんなに暑くても、南に開口部がなければ、家の中に直接陽の光が入ってこない。湿度が低いので、家の中は過しやすい。それに床が大理石ならば、素足で歩き回ればひんやりとして気持ちがよい。私は、借家の大理石に日本から持参したゴザを敷いて、その上で昼寝するのを日課とした。気持よく休息できた。しかし顔にゴザの跡やよだれの痕がしっかり残り、妻に三食昼寝つきのぶざまさを見破られた。



 日本の暑い夏をしのぐのは、水の効果的利用だ。水不足の国々の人々には、申し訳ない話だ。その水の豊かさに感謝して、水風呂、シャワー、打ち水、水草やハスを植えた水鉢を大いに活用しよう。私は、汗をかくとまずぬるい湯を浴び、そして石鹸で体を洗った後、思い切り冷たい水をシャワーで浴びる。すかっとする。この繰り返しである。寝る前、熱帯夜を汗だくですごし起きた後の朝、出かけた後、水シャワーで爽快である。女子ワールドサッカーで大活躍した澤穂希選手が優勝インタビューの中で「早く日本に帰って、おいしい鮨を食べて、温泉に入りたい」と言った。その気持がよくわかる。温泉に入った後の水シャワーもいいものだ。

 この数年日本の気候帯が、温帯から亜熱帯に変わってきたという。確かに太陽の紫外線は確実に熱帯並みに強くなっている。熱中症で多くの日本人が命をおとすようになってきた。東日本大震災と東京電力福島原子力発電所事故の影響で、電力不足が起き、エアコンなどの節電対策で熱中症がさらに増えると予想されている。私たち日本人は、熱帯に住む人々から暑さのしのぎ方を学ぶことができる。「それは、暑い日は動き回らないで、直射日光を避けて、涼しい場所で家族や友人たちと甘いミント茶でも飲んで楽しく過すことだ」と熱帯の人々は言うに違いない。日本人は果たして日本が亜熱帯に気候帯が変わっても、今までどおりに働き中毒でいられるだろうか。無駄な残業、会議を減らすだけでも時間は浮いてくる。気候変化も計算にいれて、生活全般の改革を長期的に練り直す時期にきている。日本の社会構造も文化も転換期に差し掛かった。私はすでに熱帯の人々の生活方法を取り入れ、じっと暑さが過ぎるのを家の中で待っている。

 

 


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日本女子サッカー

2011年07月17日 | Weblog

 “本日定期投稿日(土、日、祭日休稿の一日おきの投稿)ではありませんが、臨時に『日本女子サッカー』を日本チーム応援の気持を込めて掲載”


 7月10日、日曜朝5時、妻がすでに起きて、ベッド脇の机でネットを見て、「ドイツでやっている女子ワールドサッカー、日本がドイツと0:0よ。がんばっているわね」と声を上げた。私は寝苦しい熱帯夜のため、まだ寝足りなくベッドでグズグズしていた。それを聞いて、私はガバッと起き上がった。テレビを観て応援しなければ、と思ったからだ。

ドイツのサッカー女子ワールドカップに向けて出発する日本女子サッカーチームをテレビニュースが取材していた。主将の澤選手が「男子と違ってほとんど中継もされませんが、選手はみなそれぞれに一生懸命にやっています。応援、よろしくお願いします」と言った。確かに日本の報道は、偏りが激しい。人気がある選手やスポーツの報道は、異常といえる。勝ってこそナンボの世界のはずなのに、試合の前からマスコミだけが大騒ぎ、「優勝を意識」「楽しんでプレイしてきます」が予選落ちして「まだまだです」。「その通り」と私はテレビに向かって声を荒げる。マスコミに無視されているような他の日本選手の活躍があっても、マスコミの扱いは小さいものだ。マスコミ受けしている選手が勝てば大騒ぎだが、負けてもすぐ、懲りずに次の試合への過大な期待で盛り上げる。チヤホヤするにも限度がある。

さてテレビの前に陣取って、リモコンであちこちのチャンネルを出して、女子サッカーの中継を探す。肝心のサッカー中継はなく、どうでもいい番組ばかりだ。女子サッカーの中継は、我が家の受信可能なテレビ局では放送していなかった。あとで調べるとNHKの有料BSで中継していたらしい。我が家はNHKのBSを契約してないので観ることはできない。ラジオで中継しているかもしれないと思い、ラジオをつけて周波数を変えて探した。ラジオでも中継していなかった。そうこうしているうちに、インターネットで延長戦の後半、日本が1点を先取したと速報が出た。結局日本女子サッカーチームはこの1点を守り、優勝候補のドイツに勝った。さあこれからが日本のメディアの変わり身の早さである。

次の準決勝、スウェーデン戦は、急遽フジテレビがNHKのBS以外にも実況放送した。私は観た。そして日本は、3:1でスウェーデンをも破った。実況するアナウンサーは、ただひたすら日本人女子選手と対峙するスウェーデン選手の身長をまくし立てた。156センチ:179センチ、163センチ:181センチ。「やめてくれ」とどなりたくなる。アナウンサーは延々と身長データを読み続けた。いつまでこんな事を騒ぎ立てるのか。劣等感の裏返し現象なのだろう。それとも負けたときの言い訳を事前から準備しているのか。小さいから負けるといけないことなのだろうか。私はそう思わない。マラドーナだって、メッシだって、ストイコビッチだって、長友だって身長は高くない。なぜ、ただサッカーの試合として実況できないのか。パス、シュート、防御、走り、スピード、スポーツマンシップ、チームとしてのまとまりや連携プレイ力。誉めるべきは誉め、批評するべきは、批評するべきだ。日本女子チームは、素晴らしいパスと機敏な動きで戦った。1点先取されたが、粘りと途切れることのない波状攻撃で、3点を奪った。私の気持ちは、高揚した。静かな応援だったが、感動した。嬉しかった。彼女たち自身の努力の結果がでた。経済的にも恵まれることはなく、働きながら、アルバイトしながらサッカーを続けてきた。もちろん家族や同僚の協力もあったに違いない。苦しい中、挫折することなく続けてきたからこその勝利だった。

 日本人の身長が低いのは、世界中に知れ渡っている。今更、騒いだり、劣等感を持つことはない。人間、身長が低いから不自由だったり、不便なことは何もない。日本人は、この体格でずっと連綿と生きてきている。地球上に理想をすべて満たしている人種がいるだろうか。どの人種だって優性と劣性を抱え持っている。そのことで差別されるなら、させておけばいい。今更、人種間の遺伝学的体型をどうこういっても、何も始まらない。それよりも長い将来的視野を持って、スポーツの振興を地道に計るべきである。人間が考え出したスポーツすべてが、体格と才能だけで結果が出るものではない。人間には、それ以外にその日の体調、気分、気合、運、雰囲気、連帯感、愛国心などによって、思いもかけないチカラを生み出し利用する能力がある。だから試合結果で何が起こるかわからない。私は、自分本人がどうにでもできないことを悩むことをよしとしない。それより個人が変えられることに努力を向ける。日本のメディアは、取材対象をアキバ48なんやらのような、テレビ写真映りのいい自分達がつくりあげ、育て上げた有名人を重用する。スポーツの世界でも同じ手法である。この世の中、何もかも望んだものが手に入るわけではない。生まれてしまえば、あとは遺伝子と自分の努力である。


 18日未明に始まるアメリカとの決勝戦で日本女子チームの健闘を祈る。


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教師目線

2011年07月15日 | Weblog

 ジムで運動を終えて、暑い陽ざしの中を駅に向かっていた。駅前交番の横断歩道の信号は赤だった。紫外線よけの白ジャケットと白帽子、短パン、首からさげた電車の定期と家の鍵といういでたちは、すこし怪しい雰囲気があったのかもしれない。赤信号なのに一人の若い女性を二人の二十歳前後の若者が挟むようにして、迫り来るクロネコヤマトのトラックをも、まったく気にすることなく肩で風を切るように横切ってきた。左側の若者は、左目の上に金属の鋲のようなものを2個刺していた。まぶしい太陽の光に反射していた。左耳たぶにも大きなわっかがぶらさがっていた。その若者が私を睨みつけて「何見てるんだ」とすごんだ。私は確かに彼を見据えていた。昔から目つきがきついと言われている。カナダへ10代後半で渡り、話すときは人の目を見て話せ、と目を見ないで話す日本式の恥ずかしがりの仕草をうるさく矯正させられた。世界中から移民で異人種が集ってきた出来たカナダでは、自分が危険人物でないこと自ら示すために、すれ違う時、ニカっと微笑んだり、「ハ~イ」と挨拶を交わす。日本に帰国した当時、やっと直した目を見て話すことや挨拶代わりのニカっが原因となり、町でチンピラにからまれるようになった。まさに所変われば、人変わる、を実感した。学校の教師を目指したが、日本の大学を卒業していない人への機会は閉ざされていた。英語塾をひらいて英語を教えるようになった。多くの生徒から「睨みつけられる鬼のような怖い先生」と言われた。このころから私は教師目線になったと思われる。生徒の目を見て、理解しているかいないか、集中して授業を聞いているかいないか、目つき鋭く授業を続けた。そんなふうに20年ちかく教えた。

 再婚して塾をやめ、妻の配偶者となって海外勤務について行った。海外では再び人と話すとき、目をみつめるようになった。それで14年間そこそこ、どこでもその地に馴染んでうまく生活できた。2004年に帰国して、今住む町に終の棲家を購入した。静かに暮らしている。他人と問題を起こす機会はない。

 「何を見てるんだ」とすごんだ若者は、動物のようにカンの鋭い。私は、あきらかに彼を蔑みと哀れみの目で見据えていた。「何を見ているんだ」と問われ、あやうく「あなたが犯した交通規則違反と目の上の鋲と耳のわっかです」と言いそうになった。生徒に質問されると、いかにわかりやすく理解してもらえるようにその質問に答えるかは、教師の職業サガである。すっかり私に染み付いている。この若者は、親、学校教師、学生、若者とも、すれ違いざまにこのような一触即発の状況を生き抜いてきたのだろう。百戦錬磨のつわものなのだ。彼の研ぎ澄まされた動物的センサーは間違いなく私に反応した。他人がどのような気持で彼を見ているかをすばやく見抜くのだ。そして極めつけは、彼が察知した相手の態度に、即、言葉が口から出たことだ。私のような鈍感な者は、言いたいことをただちに、口に出せない。考えることが、気をまわすことが多すぎて、結局いつも機を逸してしまう。


 機敏に反応した若者だったが、近くで私をよく見ると、異常なのは目と風貌で、あとは普通の弱そうなオッサンで闘う相手にふさわしくないということで、それ以上の事が起こらなかったのだろう。私は、すっかりビビっていた。悪い心臓に負担がかかった。こんなことがあって、気分がよいわけがない。まわりの暑さもすっかり忘れ、首のあたりが冷え冷えとした。このような脅威は、熱中症対策になるかもしれない。電車に乗って家に向かった。降りる駅で電車が止まった。リュックに肩下げカバンに両手に買い物袋でドアの前で開くのを待った。私の後ろに降りる客が5,6人いた。開いたとたん、スキンヘッドで黒ずくめの太った若者が女性の手を引いて、乗り込んできて、私に胸からぶつかった。にらまれた。私はさっきの駅前での教訓をさっそく活かして、視線を床に向けた。一難去ってまた一難、大変な暑い日の外出だった。

 冷えた麦茶を片手に座って、テレビをつけると国会中継を放送していた。菅直人さんの目を思い切り見据えた。日本が心配だ。


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真夏の動物園

2011年07月13日 | Weblog

 

 

 妻がメールを送ってきた。「こんどの休日に静岡の動物園へトキを見に連れて行ってくれる?」以前から静岡の日本平動物園のフライング・メガドームが完成したら行ってみたいと話していた。妻のたまたま取れた金曜日の休みの日、朝8時過ぎに家を車で出発した。その日はまだ梅雨で、天気は不安定だった。国道1号線の箱根は、濃霧に被われ、視界は前方10メートルぐらいしかなかった。注意して低速で箱根の坂を降り、三島に入ると霧も晴れ、東名高速を一路清水インターに向かった。なんとかたどり着いた日本平動物園の駐車場がわかりずらく駐車にてこずったが、動物園の入り口にたどり着いた。入り口はとても古臭く垢抜けない感じで営業しているのか閉館してしまったのかわからないくらい惨めな様子で人の気配がなかった。期待感はすっかり失われ、入園を思い留まろと思うほどだった。気持を叱咤し入園したものの、ゲートを入ってすぐに工事中で、トタンの塀でほとんどの場所は囲まれ、周囲のベンチはペンキがはがれ、益々気持は萎えた。内心、妻が行きたいところはアタリが少ないな、としらける。しかし工事中のトタンの壁の脇の狭い通路を過ぎると、両脇に鳥類の檻があり、色鮮やかなインコや珍しい鳥を見た。通路に沿ってしばし歩くと猛獣館とある立派な新しい建物の前にでた。案内に添って入場し、入館すると涼しい目の前に円筒状のガラスの中に上昇して水面に浮かび上がるアザラシが目に入る。しばし見とれて通路の案内に添って歩くと白熊がいた。大きい!狭い檻の中であっても水中を泳いだり、でんぐり返しと私の目は点になる。何度も何度も狭い水槽の中、でんぐり返しを繰り返す。人間の私が飽きるくらい繰り返している。白熊君は飽きない。何度も水槽の壁から背面キックで水中に身を躍らせまた戻る。大きなガタイ、大きな手、大きな足。別に水かきがついているわけでもないのに、起用に水の中で泳ぎまくる。魅入られてしまう。どのくらい時間が経ったかわからないが、妻に促され通路を進み二階へ。虎、ライオン、ピューマ、猫科の大形動物が毛並みよい体を横たえ、この熱い日をのんびり過している。3階,4階、立派な大型猫科の猛獣が檻の中で横たわっていた。

 猛獣館を出ると、ゾウ、キリン、バッファローなど立派な動物がいっぱいだ。圧巻は5月末にオープンしたフライングメガドームである。アリクイの檻を過ぎると、目の前に全体が見渡せないくらいの大きなケージがひろがる。その大きなケージの中に妻が観たがっていたショウジョウトキがたくさん木に群がって止まっていた。ショウジョウトキの色の鮮やかさにしばし暑さを忘れた。緑濃い木の枝の先々に朱色のトキが留まっている。ドームの大きさもハンパでない。ドームの中にはトキだけでなく、ペリカン、フラミンゴなどの珍しい鳥、きれいな鳥がたくさんいた。観客がドームの中に入って、池の中央にある観覧場所から網や鉄柵を通さず直接、鳥を見ることができる。もちろん鳥の落し物が観客にあたる危険性もある。しかし遮蔽物なしで見る鳥には、感動する。ドーム内の池の奥の坂は、多くの自然の樹木が繁って緑の山のようだ。その木々の上にショウジョウトキが群でとまっている。木から木へ頻繁に場所を替える。羽を大きく拡げる。緑の葉とショウジョウトキの色の対比がいい。妻について来たはずの私が夢中になってしまった。あまり出歩くことが好きでない妻でさえ、心なしかはしゃいでいた。

 感動のメガドームの脇を歩き、鹿やダチョウ、サイを見ながら、展望台へ続く遊園地にでる。平日で子どもも居ないため閉園状態であるも小さい屋台はあり、併設するレッサーパンダの檻もあり、飼育員が檻で働いていた。展望台へは電動のベンチがあった。夫婦で入場券を買って乗り込む。周囲に人はほとんどいない。急な坂を強い陽ざしの中、のんびりと上昇していく。汗が首筋、背中、胸を筋になって流れる。ほんの100メートルほどを5分以上かけて上がった高台の展望は素晴らしかった。風も心なしか涼しく誰も居ない高台にたたずむ。5分も居れば暑さが戻りじっとしていられない。ベンチの下りの券を買い、遊園地に戻り、お目当ての新設爬虫類館を目指す。

 先ほど乗った下り電動ベンチからフライング・メガドームを見下ろすことができた。動物園の全容を見下ろすことが出来る.正面真ん中にフライングメガドームが見え、ショウジョウトキの赤が転々と見える。ドームの後方に池がある。その池の周りの樹木が自然のアオサギとシラサギの群に占領されていた。その群の中から数羽がわざわざドームの上を悠悠と旋回する。その様子がいかにも「お~いドームの中の鳥たちよ。お前達は可哀想だな。俺はこうして自由に空を飛びまわれるぞ」と見せ付けているような意味ありげな飛び方なのだ。動物園の設備や収容動物類に感動していた私は、アオサギとシラサギに自然とか自由のありがたさを教えてもらった気がした。色鮮やかな外見と、豪華な檻や栄養管理されたエサにも代えがたいものを天然の白サギと青サギたちは、持っている。なおかつ、動物園のエサのおこぼれも、盗れるところからちゃっかりいただいたり、客からもらったりしている。この光景は何かとても滑稽で不思議な気分だった。この自然のサギと囲われ見世物になっている鳥との組み合わせの展示がこの動物園の最大の売り物なのかも知れない。(お詫び:メガドームの写真を撮ろうとした時、カメラの電池が終ってしまった。掲載した写真は最後の一枚でドームの裏山に群なすサギなのだが、ピントがボケてしまった。お詫びする。ドームに興味のある方は、インターネットで“日本平動物園 フライングメガドーム”で検索していただきたい。)

 


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網戸のストッパー

2011年07月11日 | Weblog

 暑い日が続いている。節電対策として我が家も、できるだけエアコンを使わないようにして窓を開け放し、網戸を通して、できるだけ風を家に入れるよう心掛けている。去年、サルが網戸を開け、家の中に侵入した。サルは網戸くらい簡単に開けてしまうことがわかった。東京から訪ねてきた友人に網戸だとサルの侵入が心配だと話した。器用で日曜大工が得意な彼が、「ホームセンターで網戸のストッパーを買ってきて着けたらいい」と教えてくれた。

 翌日、さっそく妻とホームセンターへストッパーを買うために行った。大きなホームセンターでどこにそのストッパーがあるかわからなかった。日曜大工の相談員がいた。60歳を過ぎた私と同年輩の男性だった。ホームセンターの制服を着ていた。私は、「網戸につけて外から開けられない、防犯にもなるストッパーなるモノがあると聞いて探しにきたのですが」と相変わらず要領を得ないものの尋ね方をした。男性はじろっと私を見て「サルかえ?」と言い放った。(どうしてわかるの!)と目を見開き固まる私を尻目に男性は「こっち」と歩き始めた。

 「これだと、こうしてサッシにはめ込んでおけば、外からサルでも開けられない」と見本用のストッパーを操作して見せた。簡単そうだった。「これはシールをはいで網戸のサッシに貼り付ければ、ここが開いて開かなくなるけど、サルはこのごろこの手のやつは開けられるようになったらしい」と憎憎しげに言う。この町の多くの住民があきらかにサルの被害に遭っている。おそらくこの男性も被害者のひとりなのかもしれない。私は、とりあえず試しに両方買っていって実験してみようと二つ買うことをした。

 同じホームセンターの別の売り場で家庭用品を探していた妻と合流した。帰りの車の中で妻におじさんの話をした。「あなたを見てサルに困っていると即、わかったんだ」と感心しきりだった。私の体からどういうオーラが出ていたのか知らない。とにかく大して情報も与えないのに、こちらの胸のうちを言い当てられるのは、気持のいいことではない。職業柄、カンが良くなったのかもしれない。あまり深く考えないほうがいいと思うことにした。

 家に戻る途中、家の近くの木の上に、妻がサルたちを見つけたと車の中で騒いだ。私は運転していて見ることができなかった。これは早急に取り付けなければと思った。さっそく家に帰ってストッパーを網戸につけてみた。最初私ひとりで両方のストッパーを試したがうまく取り付けできなかった。老眼鏡をかけて、取り付け説明書を何度も注意深く読んだ。妻が他の家事を片付けて、私に「ついた?」と見にきた。私は「ダメみたいだ」と言うと、妻も老眼鏡をかけて説明書を読み出す。妻は一度買ったものを使わずに無駄にすることを嫌う。執拗にあきらめずに解決しようと食い下がっていく。妻と私の大きな違いである。結局、妻にもわからず「ホームセンターに返しに行って来たら」と言った。でも私は気が進まない。またあの男性に相談する気が、なんとなくしない。妻は数時間後再び取り付けを試し始めた。そして遂に装着してしまった。それはまだサルが開け方をマスターしてない方だった。押してもダメなら引いてみな方式でやり遂げた。網戸は、中からしか開かなくなった。

 嫁いだ長女が7月5日に出産した。10日から里帰りでしばらく我が家に滞在する。妻が「あのサルたちなら、簡単に人間の赤ん坊なんて誘拐できるわよ」と脅す。これでひと安心できそうだ。エアコンを使えば済むことだろう。それでも無い知恵を絞って、節電とサル対策に励んでいる。


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砂と苔

2011年07月07日 | Weblog

 梅雨本番である。多くの日本の人々がその日の天気を挨拶に取り込む。「よく降りますね」「雨はもうたくさんですね」いいお湿りですね」「やっと降りましたね」降れば降ったで、降らなければ降らないで、挨拶に添えられる。

子どものころから、苔に魅かれた。昆虫や汽車や電車と同じほど好きだった。特に梅雨どきの苔に強く興味を持った。このところ雨が降り続いて、散歩もままならぬ。ラジオの天気予報とインターネットの天気予報と自分の経験測で晴れ間雲間に散歩に出かける。

 家の前の川の釣り人は解禁日にあれほど集ったにもかかわらず、今ではほとんどいない。きっと解禁日前に放流された魚は、解禁日に大方が釣られてしまったのだろう。すでに桑の実も地面に無惨に落ち消えた。ビワの実も路面にたくさん落ちた。目立つ橙色だ。実が落ちているからそれがビワの木だとわかる。普段、気にもかけていない。申し訳なく思う。かといってその実を集めて食べるわけでもない。私はビワが苦手である。食べろと言われれば食べてもいい。しかしあの大きな実が嫌なのだ。それに実の周りの皮の感触が気持ちいいものではない。食べる部分が薄く、その果実の部分が、皮と変にしっかりくっついている。

 ビワの木から遠慮気味に離れて石垣のある道に出る。石垣に地面に苔が鮮やかな緑の範囲を増やしている。梅雨で生育の条件がすべて満たされているのだろう。元気である。苔を目の前にすると私は嬉しくなる。砂漠の国に暮らした時、日本の苔のはえるみずみずしさを思い懐かしんだ。砂漠と苔は、両極端に位置する存在である。同時に存在できるはずがない。梅雨があるから水が豊かにある。水が豊富にあるから苔がはえる。日本は苔の国である。

 私の散歩経路では、いろいろな苔を見ることができる。一年中苔はある。それほど空中に湿気が含まれているということだ。梅雨どきが一番きれいで元気がいい。散歩の出発地点でありまた終点でもある私が住む集合住宅の駐車場の石垣は、富士山の火山礫を加工してブロックにしてある。集合住宅の設計者が「10年経てばこの石垣は苔に被われる」と購入する前に話していた。7年が過ぎて、その通りにやっと石垣全体に苔がついてきた。その設計者は、すでに2年前に他界してしまった。10年先を見越してこの集合住宅を設計した発想に敬意を表したい。彼もまた日本の苔を愛していたに違いない。

 乾ききった砂漠地帯で恋焦がれた苔にこれだけ囲まれて暮らすことを幸せである。チュニジアの砂漠で、旅行社の車が猛烈な砂嵐に襲われた時、なぜか私はひたすら行ったこともない京都の苔寺が脳裡に浮かんでは消えた。車の中にいても、細かい砂がどこからか入り、口、目、鼻、耳、体中が細かな砂にまみれた。約一時間後、四輪駆動の車は、30センチぐらい砂に埋まっていた。道路はすべて砂におおわれていた。砂漠の真ん中に車が一台、ポツンとあった。そんな状況でも日本製の四輪駆動を見事に操作して、チュニジア人のガイド兼運転手は、冷静に対処して脱出した。その夜ホテルで浴びたシャワーの水のニオイは、極楽の甘茶のようだった。

 あの砂嵐のさなかに想い描いた京都の苔寺とまではいかないが、今住む地が苔の多いことは、夢の世界にいるようだ。口の中の砂、目に入った砂、体中についた砂を体験したからこそ、苔のはえ梅雨のある日本に住む喜びに浸ることができる。(写真:駐車場の苔)


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