団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

気遣い

2020年06月30日 | Weblog

  新型コロナウイルス感染、一旦収まりかけたと思った。しかしこのところ東京で再び感染者数が増加してきた。高齢者で持病持ちの私は、ただただ感染を恐れて自宅にこもることしかできない。それもワクチンもなく治療薬もこれといって有効なものができていない現況において、ウイルスの餌食になるか否かはまるでロシアン・ルーレットだ。この4カ月以上の期間に我が家を訪れた人は、宅急便の配達員、郵便局員、テレビアンテナ会社の修理担当者だけだ。それも玄関までしか入らない。家族、友人の訪問は、まったくない。友人によっては、気にせずに遊びに来て、と言うがそれはできない。なぜなら妻は未だに東京まで通勤している。緊急事態宣言が出て、県またぎとなる移動が自粛要請されていた時でもガラガラの新幹線で東京に出入りしていた。いつ、どこで新型コロナウイルスが伝染するかわからない。誰にもウイルスをうつしたくない。誰からもうつされたくない。だから家にいる。

 そんな私を気遣ってくれる人たちがいる。父の日には、子供達からのプレゼントが送られてきた。こんな父でも父の日に何かしてもらえるのは、嬉しいことである。何をもらっても、子供たちの“肩たたき券”ほどのプレゼントは、いまだかつてない。あの喜びが、一番苦しい時期を乗り切らせてくれた。そんな子供たちも、今では父となり母となり、このコロナ禍で必死に子供を守っている。子供達だけではない。メールで私の健康を心配してくれる友もいる。コロナ騒動のさなか、私が住む集合住宅から引っ越していった友人夫婦が、訪ねて来てくれた。玄関でだけの再会だった。今度自分たちのドリームハウスを建てる土地を購入したと報告してくれた。その土地に枇杷の木があってたくさん実をつけていたと届けてくれた。

 あまりにたくさんなので、とても生のままにしておけず、シロップ漬けにした。枇杷は不思議な果実である。種が大きく、種と果実との境にしっかりした膜がある。中国が原産地といわれるが、日本以外の国で枇杷のような果実を見たことがない。タイで食べたライチ(竜眼)は、種とその周りの膜が枇杷と似ていた。枇杷の調理をしながら、持ってきてくれた友人夫婦との楽しく過ごした時間を思った。朝、定番のヨーグルトに友の枇杷を添える。

 妻の職場である病院も患者が激減して、結局、給料も減額されることになった。出勤も有給休暇を消化して欲しいとの要請で妻も家にいることが多くなった。二人の日常が日常ではなくなった。妻は読書、私は漢字パズルと黙っている時間が増えた。そんな時、同じ町に住む友人から電話があった。明太子を届けたいと言った。ちょうど買い物で出かけるところだったので、こちらから取りに行くと伝えた。友人は戸建て住宅に住んでいる。庭でたくさん花を育て、野菜も作っている。大きなシャクナゲの木がある。シャクナゲの花の季節、何回かバーベキューをした。こんなに近くに住んでいても行き来できない。ただ立ち話ではつまらない。話したい。一緒に飲みたい。食べたい。でもできない。

 明太子とたくさんの花をもらった。帰宅して妻が花を花瓶に活けた。夜、二人だけの夕食に友の花と明太子が加わった。

 新型コロナウイルスは、私たち夫婦を孤立させ、まるでアクリルの透明なマユで包み込んでしまった。でも負けない。気遣う家族と友がいてくれる。

 


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生きて、

2020年06月26日 | Weblog

 朝、突然、妻が「ねえ、このネムノキ、前に倒れ込んできていない」と言った。

  私は最近ちょっとぐらいの物事の変化を見極められなくなってきている。そのよい例が、車の車庫入れである。周囲の状況の咄嗟の判断が鈍くなってきた。我が家のネムノキは買ってからすでに10年近くになった。動物をペットとして飼うことを日本に帰国してすぐに、あきらめた。13年間の海外生活のほとんどを一緒に暮らしたシェパードとの別れがそうさせた。2度とあの悲しみは御免こうむりたい。どうしてもペットの方が短命なのだ。そこで今の終の棲家として購入した集合住宅では、たくさんの植物に囲まれて暮らしてきた。終活と称して、身の回りの整理を始めた。ベランダで育てていた好きなゼラニウムをプランターは10を超していた。すべて処分した。今はベランダに母からもらった名も知らぬ植物が一鉢だけしかない。家の中にも観葉植物の大きな鉢をいくつか置いた。それがだんだんに人工の造花のようなものに変わっていった。今あるネムノキはすでに3代目となる。

  妻が「…倒れ込む…。」と言っているのだから、ネムノキに何か異変が生じたのだろう。私はネムノキの幹を押してみた。グラグラというか、まるで抵抗がない。幹を握って引っ張り上げれば、木全体を根こそぎ引き抜いてしまいそうだった。頭に浮かんだのは“根腐れ病”である。時々忘れることはあるが、ネムノキの水くれは小まめにしている。植物の水くれは、できるだけジャブジャブくれるのではなく、乾燥の一歩手前に十分やることと習っている。根腐れを起こさぬよう、気をつけていた。

  先週の日曜日、妻と園芸店へ行き、土を買った。鉢の中の土は、この10年くらいの間に劣化したに違いない。土を新しいのに取り替えれば、ネムノキはきっと元気になる。ベランダに大きなビニールシートを拡げた。ネムノキの鉢を二人がかりでベランダに運び出した。年寄りの手抜き術で古いシーツを何重にも折りたたんでその上に鉢を置き、二人で引き出した。滑りよく、簡単にできた。鉢の土の上に置いてある、うろこ状の厚い松の木の皮をまず手で取りだした。幹を両手でつかんだ。力を入れて引き抜こうとした。ズボ、スッっといとも簡単に抜けた。10年もこの鉢の中に閉じ込められていたのだから、根は鉢の中にびっしりとはびこって、それが根腐れを起こしていると、私は思い込んでいた。意外や意外、根は、はびこんでもいず、根腐れもない。いったいどういうことと妻と顔を見合わせた。

  新しい土を入れ、鉢もキレイにして家の中に戻した。水を与えた。妻が調べた文献に、ネムノキは鉢植えに向かないとあった。枝があまりのも張っていたので、ハサミで切った。グタッとしたまま、日にちが過ぎる。心配。何とか生き返って欲しいと祈るばかり。

  ネムノキは、植物だけれど、らしからぬところがある。それは夜になると葉を閉じる。木全体のすべての葉が閉じる。そして朝、陽が昇りしばらく経つと葉が一斉に再び開く。まるで挨拶するようだ。夜は「おやすみなさい」朝は「おはようございます」。愛着がわき、こちらもいつしか話しかけるようになった。

  『ねむの木の子守歌』(上皇后美智子さま作詞 山本正美作曲)をアレクサに頼んでネムノキに聴かせる。♪そっとゆすった その枝に…薄紅の 花が咲く…♪(写真は6月20日に撮った家の近くの川辺に自生するネムノキ) 毎朝、私と妻はネムノキに語る。「ガンバレ、生きて」 昨日妻が枝に新芽を見つけた。


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運動靴

2020年06月24日 | Weblog

  今回も“痛風”という言葉を思い出すのに時間がかかった。物忘れはひどくなるばかり。出てこない言葉を探るのは楽しいなんて自分に言い聞かせる。本来“つ”から発想しなければいけないのに、でてくるのはなぜか“へ”で始まる“偏痛”とか“閉塞”。“へ”と“つ”を行ったり来たり。あきらめようとした瞬間、“つ”が“つう”となり“つうふう”となった。そうだ“痛風”なんだ。何日も考えても、考えても解けなかった漢字パズルの最後のマスを埋められたように気分が良くなった。まるでハッカを鼻先で嗅いだスッキリ度合いだ。

  以前足の先が痛くなってうまく歩けなくなった。靴がいけないと思い、さっそく子供の頃“運動靴”とか“ズック”と呼んだような簡単な靴を買った。全く効果なし。さらに足の先の痛みは増してしまった。ちょうど私の誕生日で子供達の家族と東京のデパートのレストランで集まった。私はよく歩くこともできず、デパートの車椅子を借りて移動する始末。病院へ行くことを決めた。結果は“痛風”だった。尿酸値を下げる薬のおかげで痛みはすっかり消えた。

  今年の3月ごろから、新型コロナウイルス騒ぎが始まった。あれよあれよという間に感染が拡がった。得体のしれないウイルスは、私たちの生活を変えた。私のような高齢者で免疫力がない糖尿病もちは、コロナウイルスにとっては、最も攻めやすい獲物である。大阪大学免疫学フロンティア研究センターの宮坂昌之名誉教授が勧める、歩いて免疫力を高めることを実践することにした。目標を一日最低5千歩と決めた。雨が降ったら家の中でウォーキングマシンを使って5千歩を目指した。3,4,5、6月と毎日目標を達してきている。

  歩く歩数が増えるにしたがって、靴の劣化が気になりだした。糖尿病の合併症で足裏の感覚異常を持つ。常に足の裏に何かおかしなモノを貼り付けている感覚が取れない。底の薄い靴は、履いていると気になって歩けなくなる。ドイツの『BÄR』社製の運動靴は、私の要望を満たす運動靴だった。しかし日本から撤退してしまい、現在はもう手に入らない。靴のためにドイツまでいくことなどできない。

  仕方なくデパートや靴専門店で日本製の運動靴を買った。どれも歩くとなにかしっくりこない。あきらめてよれよれになった『BÄR』社製の運動靴を履き続けていた。やっと緊急事態宣言が解除された。先週、運動靴専門店に行ってみた。ガラガラの店内でフェースシールドとマスクで完全防備した女性店員が応対してくれた。ゆっくり私の話を聞いてくれた。色々な器具で筋肉や姿勢まで検査してくれた。勧められたのがフィンランドの『KARHU』の運動靴だった。高いと思ったが今お金をかけられるのは、健康維持しかない、と買うことを決めた。そういえば、この半年、服も靴も外食にも金を使わなかった。

  妻に「靴ばかり買って」言われるのではと恐れた。帰宅した妻は、「カッコいい靴ね。どう歩いた感じ」と聞いてくれた。「歩きやすいよ」と答えた。

  日本にいてドイツ製やフィンランド製の靴を履ける。暮らしたネパール、セネガル、チュニジアには裸足の子供や大人がたくさんいた。作家の佐藤優さんが「現代人は貴族のような生活にも不満足」と本に書いている。私は自分が置かれている状況に感謝して、しばらく免疫力向上を目指したい。


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沈魚落雁

2020年06月22日 | Weblog

  「丹花の唇、白雪の膚、衆人眼を驚かし魂を飛ばす」 これは伊豆半島の下田にアメリカ領事館が置かれ、そこに来たアメリカ人女性4人を見た下田の人々の驚きの風聞録に記されたものである。白人を毛唐と差別する風潮もあったが、初めてアメリカ人女性を見た人々は素直に女性たちを美しいと思ったに違いない。見たこともないものを見れば、だれでも驚く。人間は想像力が豊かだが、それでも実際に自分の目で見れば、異なった反応をしてしまう。私は高校生の時、カナダの高校へ転校した。そこにアジア人の生徒は私一人だった。物珍しさは人々の関心をかう。私はよく髪の毛を触られた。黒い髪、それも漆黒の髪は余程珍しかったのであろう。だから下田の人々が、アメリカ人女性を初めて見た時の驚きは、私がカナダで経験したことからも理解できる。ただ私は“美”でなく“珍”で注目されただけなのだけれど。

 売れっ子芸人のアンジャッシュの渡部建さんの不倫が今騒がれている。またまた週刊文春の特ダネだ。よくまあ調べるものだと感心する。その週の週刊文春は売り切れたというから凄い。ラジオで森永拓郎さんが「あんな美人の佐々木希さんと結婚しておきながら不倫なんて許せない。佐々木希さんがあまりにも可哀想だ」と言っていた。世の中の多くの人々と同じ考えだと思う。ここに私は矛盾を感じる。スターは世人ではない。偶像になることを望んで、その夢を実現して尚、世人と同じ道徳を強いられるのは酷である。その葛藤が渡部建さんの行動に見て取れる気がする。一部には彼はセックス依存症だという意見もある。私はそんな病気を信じない。男性は、ほとんどが人生の一時、セックスに積極的になる。自然なことだと思う。私は還暦を過ぎた頃、一度テストステロンの検査を受けた。数値が低く、倦怠感や免疫力の低下の原因かもしれない、と診断された。医師の勧めで、テストステロンの注射を受けた。帰宅途中、私は若かりし頃のあの御しがたいほどの男の衝動を感じた。渡部建さんは、その衝動がいまだに強く自己抑制ができず、自分がスターであることと本当の自分をごちゃまぜにしていたのがあの結果になったのではないだろうか。同じ事はあのゴルフのタイガーウッズにも言えると思う。

 “美人”という表現に私は抵抗を感じる。私にとって“美人”というのはあくまでも現実の世界の事ではない。映画の世界でのことと言ってもよい。オードリー・ヘップバーン、吉永小百合、山口百恵は、私の偶像であった。映画やテレビの画面に映る平面的な彼女たちに憧れた。決して彼女たちの私生活を知ろうとは思わなかった。あえて知ることを拒んでいた。なぜなら現実の世界で私が彼女たちと対等に向き合えるとは思えなかったからだと思う。パッと見で美しいと思える女性はいる。私は美女と天才は、どの人種にもいると信じる。実際カナダ、アメリカ、ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアで暮らしたが、どこに国にも美しい女性がいた。

 『沈魚落雁(ちんぎょらくがん)』 【荘子にある逸話で人が見て美しい女性でも魚や鳥は見れば逃げること】 これが今では魚や鳥があまりの美しさに自分を恥じらって隠れてしまう、つまり美人の容貌が並外れてあでやかなこととなった。人はもうずっと前に私たちの弱点を指摘している。見た目が他より良くても、魚や鳥からすれば、同じ恐い人間なので逃げる。スターでも何でもない普通の人間であることを喜ばせてくれる良い表現だ。

 日曜日、妻と雨が降り出す前に散歩してしまおうと外に出た。朝顔が綺麗に咲いていた。ねむの木に花が咲いていた。その蜜を蝶が吸っていた。私たち夫婦の気配を感じて、蝶が逃げた。私たち夫婦もれっきとした“沈魚落雁”人間の仲間である。ほんわかと嬉しく感じた。

 


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結婚相談

2020年06月18日 | Weblog

  妻が読んでいた本を脇に置いて「若い人に結婚の事で相談されたんだけれど、どう答えて良いのかわからないの。何をどう言ったら彼女の役に立てるのかな。彼女はどうしても結婚して子供を持ちたいんだって」と漢字パズルを真剣に解いている私に言った。私たちは、今は使われることがない大きなダイニングテーブルに少し離れて座っていた。時々本を読む妻を見ながら、「このコロナ騒動のさなか、再婚もせずに一人で老いて暮らしていたら…私は?」と考えていた。妻の結婚の相談の話は、私に『自分の結婚物語』を一気に思い出させた。

 塾で教えていた時、私はよく生徒に「将来、結婚したくても相手がいなかったら、先生に相談においで。先生がきっとピッタリの相手を紹介してやるから」と言った。今になればよくあんなことを言えたものだと赤面してしまう。生徒の誰一人として結婚相談に訪ねてこなかった。胸をなでおろす。

 再婚で結婚した妻との結婚式で、妻の母親から「2度目だから何でもよく知っているね」と言われた。イラっとしたが、初婚の娘の母親としては、自然な反応であると唇を噛んだ。バツイチの私は、2回の結婚式を経験している。結婚する前、妻は「あなたは他の人の2生も3生も余計に生きたのだから、これから先のあなたの命を私に下さい」と言われた。私はその言葉を全面的に受け入れた。そして今年で結婚28年になる。少し波乱はあったが、概ね安定した結婚生活だと自負している。

 最初の結婚は、10年もたずに破綻した。離婚もすんなりいかなかった。2人の子供を私が引き取った。何としても2人の子供を大学卒業するまでは死ねないと子育てに全力を注いだ。13年の月日が過ぎた。この期間、私は坐禅をして、自分に真剣に向き合った。反省することばかりだった。長男を全寮制の高校へ長女をアメリカの友人夫妻に預けた。ただ私はひたすら毎月の仕送りと毎日の手紙書きに明け暮れた。私はこの13年間で自己改革できたようだ。子供達は大学を卒業して自立した。その後結婚してそれぞれが自分たちの家庭を持った。今では3人の孫がいる。

  縁あって今の妻と44歳の時、再婚できた。そして自分の事業をたたんで、妻の海外赴任に同行した。海外で13年間暮らした。妻が結婚相談を受け、何を進言するべきかを私に尋ねた。私の経験から何を言えるか考えてみた。決して妻の母親から結婚式の日に言われたように「2度目」であっても何でも知っているわけではない。

  以前妻が職場で「結婚する人は、税金をちゃんと払っている人」と言う女性がいたと話してくれた。それも一理あると思う。それはつまり生活力があるということだ。でもそれだけで結婚できるとは思わない。妻はまた以前一緒に働いていた医師から「結婚は勢いだ」と言われたという。私は最初の結婚をそれで失敗した。

  私は自分の子供二人に結婚について何度も話し聞かせたことがある。「結婚したい人が出てきたら、一緒に海外へ旅行に行くか、同棲してみなさい。1年住めば、相手がどういう人か分かる。ダメなら別れたらいい。離婚するよりマシ。面白い人がいい。話していて一緒にいて楽しいと感じるのよりも重要。ブランド(家柄、学歴)、外見より中身の人間性を重視」 二人とも私の話を聞いてくれていたのかわからない。そんな感じで相手を見つけたようだ。

  今日、ラジオから「♪ひとりで生きていたならば こんな気持ちにならなかった♪」の歌が聞こえてきた。これだ。調べた。曲名が『ひとりで生きていたならば』(作詞作曲:柳沢亮太)でSUPER BEAVERが歌う。歌詞に私の結婚感が詰まっている。アレクサに頼んで曲を何度も聴いた。そうだこの曲を妻に教えよう。妻に相談してきた結婚願望の若い人への進言に役立ちそうだ。歌詞を書きとって印刷した。明日出勤前に妻に渡す。


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コロナ記念柱

2020年06月16日 | Weblog

  新型コロナウイルスの感染が続いている。患者がほとんど来なくなった病院から有給休暇を使って家にいることを要請され、その日も家にいた妻が言った。「昔、ペストが流行った時、人はどうしていたのかしら」

 私はガーンと頭を叩かれたようにもの思いに沈んだ。何気ない疑問。深い。重い。旧ユーゴスラビアのベオグラードに住んでいた時、公用の出張でオーストリアのウィ―ンへ行く機会があった。ウィ―ンは華やかな街だ。そこでペスト記念柱を見た。14世紀にヨーロッパ各地でペストが流行して、約2500万人の命を奪った。ペストはネズミが感染源でネズミの血を吸ったノミが人間の血を吸う時、感染させる。あんなに気取った都市ウィ―ンも例外ではなかった。今の街の様子からは想像もつかない。どれほどウィーンの人々を恐怖に陥れたかは、あのペスト記念柱の彫刻が如実に表している。当時のおどろおどろしい光景が天に駆け上がるように上へと続いていた。国連の経済封鎖を受けていた旧ユーゴスラビアから出てきて、しばしの解放された観光気分を満喫していた私は、落ち込んだ。人間は、成す術もなく疫病にさらされ死ぬ。愚かにも自ら戦争して命を落とす。

 その後NATO軍の空爆が始まるというのでベオグラードを脱出してウィーンへ避難。空爆が激しさを増したので、ウィーンから日本へ戻った。日本には妻が3カ月、私は4カ月いた。飼っていた犬を現地の友人に預けて、家財道具や車などは、すべてベオグラードのアパートに置いたままだった。日本では放浪生活者のようだった。あの生活を経験したせいか、今回の新型コロナウイルス感染症の3密を避ける生活にあまり抵抗を感じなかった。それは自分の家にいられるという安心が大きい。ミサイルや爆撃の心配がない。停電もない。水は水道から24時間たっぷり供給されている。テレビも映る。パソコンや携帯電話も使える。そして何より嬉しいのは、ウシュレットのトイレがあることだ。食料も今のところ不自由していない。ないのは、人との交流だ。一番今欲しいものだが、我慢しなければならない。友人や孫や子にコロナをうつしても、うつされても悲しい。

 中世の世界での感染症の流行で被害をあまり受けなかった場所があった。それは要塞のような集落や家だったという。そのような形態の居住地は、アラブに多かったという。一旦感染が広まるとそこでは門を閉め、他所から人や物が入ってこないようにできた。中には水や食料があり、人々が長期間暮らせる備蓄があり、家畜や野菜の栽培も可能だったという。今のように医学や科学が発達していなくても、人々は過去の経験から学んで防衛していた。当時の生活を思えば、現在の日本での自粛生活は、恵まれている。要塞とまではいかないが、家にこもっていれば、感染の危険度は下がる。友人や孫や子との連絡も今ではメールや携帯電話があるので連絡は取れる。

 医学の進歩も目覚ましい。今回の新型コロナウイルスの研究が進んでいる。その正体が徐々に明かされてきている。一刻も早いワクチンと治療薬の開発を待ち望む。コロナとの戦いに勝利したら、ウィーンのペスト記念柱に匹敵するようなCOVID-19記念塔を横浜のダイヤモンドプリンセス号が停泊した岸壁の近くに建てて欲しい。その犠牲者の像に志村けんさんや岡本行夫さんも入れてあげて欲しい。

 


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花畑

2020年06月10日 | Weblog

【お詫び:12日金曜日投稿分を都合により本日投稿いたします】

 散歩するかしないか。毎回私は逃げようとする。何とか理由を見つけて散歩をしなくて済むことができないかと悪知恵を働かせる。そんな時、あの日の場面を思い出す。昨年の1月、心臓に異変を感じた。すぐに検査になった。心臓の冠動脈が再び狭窄していて、血液の流れが悪くなっていた。その時の検査で右脚の動脈の狭窄も見つかった。心臓の血管の狭窄は、カテーテル手術でステントを入れる治療ができた。しかし脚は、カテーテルで一時的に血管を広げても再発しやすく運動療法で現状維持に努めるのが今考えられる一番良い対策だと医師に言われた。一日最低5千歩を目標にした。

 テレビで石原慎太郎さんがロングブレスという呼吸法できちんと歩けるようになったという番組を観た。私も散歩しながらロングブレスをすることにした。そこへ今回の新型コロナウイルス感染の世界的な流行が始まった。持病を持っている人、高齢者は特に感染すると免疫力がないので自宅から出ないようにという勧告が出た。私はその二つに該当している。でも散歩するためには、家から外へ出なくてはならない。しばらく家でウォーキングマシンを使って5千歩になるようにしていた。しかし家の中だと、何か物足りない。テレビで映画を観ながらウォーキングマシンに乗った。散歩に出たい気持ちは、強くなるばかりだった。3月が過ぎた。桜並木の桜が満開になった。でも我慢した。5月になり、春の陽気が私を誘った。他人の目がどうしても気になる。緊急事態宣言が解除された。堂々と散歩できるようになった。マスクをして3密を避ければ、人の目を気にすることはない。

 散歩の楽しみは、道草をすることだ。家から出る前、何とか歩くのを辞めようという誘惑と闘う。でも一旦歩きはじめると、道草の好奇心が脚の痛みを忘れさせてくれる。桜の後、続々と花々が咲く。路肩の雑草もいい。でも家の周りにいろいろな花を植え咲かせているのも好きだ。先週カメラを持たないで歩いていて、3か所写真に撮りたいと思った場所を見つけた。次の日、カメラ片手に勇んで外に出た。

 バス停の横に5坪くらいの花畑がある。季節ごとに花が咲くように手入れされている。そこに黄金色に実った麦が植えられていた。麦、小学校の頃、冬に親戚の農家で麦踏みを手伝った。冬自分で踏んだ麦が、春に実った。麦刈りを手伝った。麦も刈ったが、指を鎌で何か所も切った。その傷は今でも残っている。高校生の時、カナダの高校へ転校した。その学校は、自給自足の学校で広大な麦畑を持ち、たくさんの家畜も飼っていた。大きな刈り取り用のコンバインを運転して刈り取りをした。見渡す限り一面に麦が海のように広がっていた。麦は麦である。愛着がある。

 次に取りたかったのは、大きなエンジェルズ・トランペットだった。ちょうど満開だった。図鑑で調べるとこの植物には毒があるそうで、学童の通学路に植えないようにと書かれていてビックリした。

 最後は駅近くのたくさんバラを咲かせる店に行った。店の前の狭い空間にバラをはわせて壁のようになっている。私の目的はバラではなく、百合である。黄色の美しい百合だ。名前がわからない。図鑑になかった。でもその美しさは、私のウツクサした気持ちを和らげた。帰り道、脚の痛みを感じることはなかった。

 


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なぜ逃げるの!

2020年06月10日 | Weblog

  9日は、真夏日になるという朝の天気予報だった。駅に妻を送って家に戻り、すぐ支度して日課の散歩に出ることにした。少しひさしが大きめの野球帽、紫外線カットの白いメッシュの上着、アベノマスクよりずっと大きく顏を隠せるダチョウの抗体のマスク、サングラス。このところずっと天気が良く、半袖だとどうしても露出部分が陽に焼ける。腕の皮膚が痛かゆくなり、風呂に入るとしみる。それを防ぐための支度をととのえた。

 歩き始めた。川のほとりを上流に向かった。橋を渡って反対側の歩道に入った。あら珍しや。目の前20メートルぐらいに若い女性が歩いていた。散歩!手に何かコンビニのバッグらしきもの。真っ赤なシャツにベージュのゆったりしたスラックス。旅のお方か。今、ここのホテルや旅館は、営業自粛で閉めているのが多い。何やら不思議な人に見えた。それでもいつものようにロングブレス。1,2,3と数えながら鼻から息を吸う。その吸った息を1,2,3,4,5,6,7と唇を細めて口笛のような音を出しながら肺が空になるのではと思えるところまで吐き切る。青い空。川のせせらぎ。歩道と川の間に生い茂る草木。大輪の朝顔が草木にまとわりついて咲いている。カメラを持ってくればよかったと悔やむ。コキジ(古稀+2歳)になって確かに足が弱くなった。自分で脚を上げて歩いているつもりでも、歩道の舗装の突起や、ずさんな工事の余計な傾斜にけつまずく。ふくらはぎの痛みは、常態化している。思えば歳を取ったものだと先を行く、若い真っ赤なシャツの女性に羨望のまなざしを送る。

 大きなホテルの前に来た。真っ赤なシャツの女性が走り始めた。えっ彼女あの格好でジョギングなの!でも靴もヒールが高いサンダルのようだし。変だよ。女性が振り返って私の方を見る。顔に恐怖が浮かんでいる。間違いなく彼女の視線は、私を見ている。その上恐れている。顔が引きつっている。真っ赤なシャツが恐怖を燃え上がらせる。私は立ち止まった。そして自分の姿格好を点検。誰が見ても怪しさ満点。気が滅入る。この距離で、若い女性をこれほど怖がらせるコキジなのだ。ロングブレスよりもっと強烈なため息。暑さの汗ではない汗。冷や汗がタラーリ。

 その時だった。休業中のホテルの植え込みの中から猿の群れが出て来る、出て来る。道路を渡って歩道に向かってくる。私は恐怖で固まった。目を見るな。後ずさりする。10匹以上が渡った。私はそろりそろーりと道路を猿とは反対側に渡った。最後尾にいたボス猿らしいのが、振り返った。目と目が合った。ダメか。多勢に無勢。ボス猿、川の茂みに張り込んだ子猿に目を移すとノッシノッシと動き出した。私の冷や汗が体全体を寒くした。震えた。

 過去にも私は散歩中に猿に追いかけられた。当時はまだ足腰が今よりしっかりしていた。だから捕まる寸前に攻撃をかわせた。過去の経験が蘇った。そして老化が速度をあげてきていることを認識させられた。

 7日の日曜日のお昼時、妻が叫び声を上げた。妻が叫ぶのは、ゴキブリかムカデ。私は床を見る。何もいない。妻が外を指さし「猿!」と言った。家の前の庭に4匹いた。ゆっくり日向ぼっこ。のどかな風景だった。

 その2日後、まさか散歩中に別の群れに出くわすとは。それにしても真っ赤なシャツの女性の反応が猿へのものでよかった。犯罪者にはなりたくない。服装いで立ち雰囲気要注意!


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Black lives matter

2020年06月08日 | Weblog

  テレビの画面に黄色のペンキで道路にBLACK LIVES MATTERと書かれているのが映し出された。妻が「matterってどういう意味?」と私に尋ねた。いつも唐突に英単語の意味を聞かれ私は迷惑している。なぜなら年齢と共に私の英語の語彙は萎縮し続けている。何か私の英語力を試されているようにも感じる。でもまだmatterの説明はできた。「What is the matter with you?ってわかる?たとえば、あなたがずっと機嫌よくしていたのに、急に黙り込んだりしたら私は『どうしたの?』と聞くでしょう。何故ならそれはあなたのことを気にしているからです。私の好きな言葉に“気配り、手配り、目配り”あるけれど、英語のmatterもそれと同じように相手への気遣いを表す言葉だと思う。名詞では“心配、重要、大事”で動詞では“大事である、重要である”などを意味するの。だからWhat is the matter with you?は、あなたをそんなに困らせていること悩ませている重大なことは何ですか?という意味になるのかな。Black lives matterBlackは黒人。Liveslifeの複数形で命。つまり黒人の命を粗末にするな、白人が白人を重要に思うのと同じように大事にしてほしい、という叫びなのだと思う」

 私は留学のためにカナダへ渡って、初めて自分が黄色人種だと自覚できた。人種差別にあったおかげである。ずっと日本にいたら、そのことに気が付かなったかもしれない。カナダで最初に入学した全寮制の高校でこんなことがあった。その高校はキリスト教の厳しい学校だった。聖書に書いてあることを100%信じるが教理だった。私が大学受験のために履修していた“生物”の授業で州選定の教科書を使った。しかし教師は「この中の進化論は聖書の教えに背く」と断言した。私は不安になった。

 日本の国語に当たる英語の授業でこんなことがあった。教科書にある黒人の大学教授の話が載っていた。それを学んでいた時、教師が「黒人は嫌い。黒人なんていなければいい」というようなことを言った。おそらく黒人が一人もいない高校だったので、その教師は油断していたのであろう。授業が終わって他の生徒が皆出て行ってしまってから、私は教師に質問するために教壇の脇の教師の机まで行った。「聖書では人間の祖先はアダムとイブだと言っています。先生、黒人も日本人も祖先が同じなんですか?」 教師の顏に「しまった、このクラスには日本人がいたのか」の表情が読み取れた。「今日は忙しいのでまたゆっくり話そう」と教師は教室から出て行った。その後、その話を彼としたことがなかった。以後、教室での教師の態度はよそよそしかった。

 妻の海外勤務に同行して、アフリカのセネガルで2年間暮らした。セネガルは黒人の国である。首都ダカールの沖合には、奴隷の集積地として使われたゴレ島がある。私は黒人の国に暮らして思った。どこで暮らしても同じことを感じた。肌の色が違っても、どの色の人間も本質は変わらないと感じた。きちんと気配り、目配り、手配りできる人もいれば、悪い奴もいれば、良い人もいる。優秀な人もいれば、そうでない人もいる。美人もいるし、それほどでもない人もたくさんいる。

 以前スティビー・ワンダーが言った。「私は目が見えない事を神に感謝している。なぜなら私の目の前にいる人が、黒人なのか白人なのか見えない。私に見えるのはその人の心だけだから」 

 健常者で目が見えていても、その見える目にわざわざ偏屈な色眼鏡をかけてしまう。私もその一人だ。困ったものである。

 


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ヘビイチゴ

2020年06月04日 | Weblog

  散歩に出てロングブレスをしながら歩いている途中、ふと草むらの中に赤いものを見て立ち止まった。草をかき分け顔を近づけた。「ヘビイチゴ!」 それにしては少し大きすぎない。それにしても赤が綺麗だ。こんな赤は見たことがない。

  ヘビイチゴの名が浮かんだ瞬間、私は保育園時代に戻っていた。住んでいた家から保育園は遠かった。大人になって車で家があった場所から保育園まで行ったことがあった。車でも10分くらいかかった。距離は3キロだった。保育園当時の私の足ならきっと一時間以上歩いたのだろう。保育園でどんなことをしていたかの記憶はほとんどない。保育園への行き帰りの思い出は多い。私は道くさと、よそ見の達人だと自負している。その素地は間違いなく保育園時代に形成された。保育園の行き帰りは、私の好奇心を、いやが上にも刺激する物、事であふれていた。私は保育園より行き帰りの道中で学ぶことが多かった気がする。

 ヘビイチゴを知ったのは、保育園からの帰り道だった。公園の脇の石垣に小さな赤い実が美味しそうに鈴なりになっていた。第二次世界大戦が終わってまだ5,6年だった。みな貧しかった。我が家も貧しかった。私もいつもお腹をすかしていた。さっそく赤い実を採って食べようとした。すると帰りはいつも一緒だったMちゃんが私からヘビイチゴを取り上げてどぶに捨てた。「これはヘビイチゴって言って人は食べられないの。お母さんが絶対に食べるなって。食べたら蛇になっちゃうよ」 “ヘビ”と聞いただけで震えあがった。私はヘビが嫌い。保育園で男の子どうしで手のひらに何匹毛虫を乗せられるか、保育園のある寺の池で何匹イモリを捕まえられるかの競争はできた。でもヘビはダメ。夢で一番怖かったのは、ヘビに飲み込まれる夢だった。ヘビイチゴを食べてヘビになってしまうのをMちゃんのおかげで止められた。それ以来ヘビイチゴはヘビと同じくらい忌み嫌った。

 散歩を終えて帰宅してすぐ、図鑑で「ヘビイチゴ」を調べてみた。【ヘビイチゴ:蛇苺、学名(Potentilla hebiichigo Yonek.et H.Ohashi)はバラ科キジムシロ属に分類される多年草の1種。和名の語源については①実が食用にならずヘビが食べるイチゴ。②ヘビがいそうな所に生育する。③イチゴを食べに来る小動物をヘビが狙う。などの諸説がある。毒があるという俗説があり、ドクイチゴとも呼ばれるが、無毒。人間が食べても体に害はない。】 保育園に通っていた頃から既に65年以上経っている。Mちゃんの言葉をずっと信じていた。イチゴ好きな私は何か損をした気がした。今はヘビイチゴをわざわざ草むらの中探して食べなくて、店でイチゴが買える。

 有給休暇を消化するために休むことが多い妻と散歩する。先日川沿いの歩道を歩いた。木の実や花が盛りの時節になった。実や花を見つけては、あれは何という名前と話しながら歩いた。天気が良く強い日差しが照り付けていた。目の前にリュックを担いだ私と同年代らしい男性が座り込んでいた。カメラマンジャケットと長めの半ズボン。歩道は川の上にせり出している。男性は脚を歩道の柵から川に投げ出して坐っていた。マスクはしていない。もしや熱中症!具合が悪くて座り込んでいるのかと心配になった。妻の顔を見た。私の言わんとすることが通じたらしい。首を横に振った。よく見ると男性は、彼の前に茂る桑の木を片手で押さえてもう片方の手でミゾ(桑の実)をムシャムシャと食べていた。体に問題はなさそう。一安心。それにしても、あのミゾの食べっぷりは昭和20年代の子供のようだった。

 私の父は私にミゾを食べることを禁じていた。おそらく、子供をちゃんと食べさせられないのかという人目を気にしていたのだろう。しかし私はミゾを隠れて食べた。父「お前ミゾ食べたな」私「食べてないよ」 父「口開けろ。何だその紫色のヘラは」 何度も何度も約束を破った。私はミゾを食べた。でもヘビイチゴは食べなかった。たった6,70年の時間の流れの中でも人は何が食べられるか食べられないかを自分の体験を通して学ぶことを知る。人間は長い時間をかけて、安全な食べ物を試行錯誤を繰り返して選り分けてきた。

 今、新型コロナウイルスに人類は危機に追い込まれている。目に見えないウイルスだが、長い人類の歴史を通して学んだ英知がこのウイルスと闘う術を見出してくれると信じたい。学者だけでなく、民衆の昔からの言い伝えにも以外に役に立つことがあるかもしれない。SNSなどの媒体は、人知の結集に役立つ。マスコミの報道は、恐怖を倍増させるばかりである。もっと違う視点で、世界中から明るい兆しや希望を伝えて欲しい。


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