団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

カーリース会社の怪文書

2015年05月28日 | Weblog

  車をリースにした。夫婦でよく話し合って決めた。名義は妻にした。近所のコスモ石油のガソリンスタンドの経営者に相談した。コスモスマートビエクルというリースを紹介された。67歳になって私も老化が進んだが乗っていた自家用車もあちこち修理が必要になった。車は東京の会社から買ったのでいちいち東京へやれ定期点検だ修理だで行くのが億劫でもあった。私は病気持ちで妻より11歳年上である。いつ何が起こって先立つやらも知らぬ。妻の父親が急逝した時、買ったばかりの父親の車の処分に母親が苦労した。私はリースなら私が急逝しても車の処分で妻に面倒かけることはないと判断した。私たち夫婦はすっかりコスモ石油がカーリースをやっていると思い込んでいた。コスモ石油はただ窓口で実際はオリックス自動車株式会社のリースだった。すべての手続きが終わって4月末納車された。すでにリースの車を1か月使用した。1週間前にオリックスからハガキが来て今月末からリース料の引き落としが始まるので幾日にどこどこ銀行の口座から引き落すという内容だった。

 5月26日外出から家に戻ると郵便受けに郵便局の『配達不在者通知』が入っていた。電話で再配達を依頼した。夜8時郵便物が届いた。妻あてなので妻がまず開封して読んだ。「何、これ。わけがわからない」 私は手渡された文書を読む。

 「2015年5月22日 (我が家の住所) ○○ ○○様(妻の名前)  拝啓 時下ますますご清祥の段、お喜び申し上げます。平素は格別のご高配を賜り、厚くお礼申し上げます。この度は○○ ○○様と弊社とのお取引に際しまして、「犯罪による収益の移転防止に関する法律」に基づく本人確認の手続きにご協力頂きまし(原文のまま)誠に有り難うございました。 今後とも何卒ご協力の程よろしくお願いいたします。 敬具 オリックス自動車株式会社 リテール営業課」

 私は理解できなかった。何故、この文書が書留で送られてきたのか。「犯罪による収益の移転防止に関する法律」とこの書留がいかなる関連があるのか。妻はこの件に関して確認の手続きをした覚えはなかった。

 封筒の消印を調べた。「芝三 25.05.15」 芝 三 とは差し出し先の郵便局である。11日経っている。文書の日付は2015年5月22日とある。まるでミステリーである。5月22日に書かれた文書に5月15日の消印が押されている。届いたのが26日。いったい何なんだ。私は妻に明日電話をかけて確かめた方がいいと伝えた。

 27日は妻にとって大変な日となった。オリックス自動車の本社に病院から電話した。回された担当部署の女性事務員は「担当者が席をはずしている」と言ったので用件を彼女に詳細に伝え、回答を家の留守番電話にして説明を吹き込んでおくよう病院へは診療中なのでかけないように伝えた。診療中に電話が来ても妻は出られない。重症な患者の診療で病院内を移動中に担当者から電話がきた。妻は病院まで電話をかけてきたのは何か重大なことなのだと思い電話を受けた。「マネーロンダリング」と相手が言ったぐらいしか聞き取れなかった。急患の治療が終わってから電話することにした。担当者に電話した。担当者は専門用語を使って説明するも妻は理解できなかった。「文書で私がわかるように説明してください」「文書でですか、電話ではだめですか」とやり取りの後、文書を送るとの約束を得た。怪文書の謎は明かされないままである。

 顧客の疑問や要請に満足な対応も説明もできず、接客態度もよろしくない。会社内の連係も伝達も悪い。何より気配り目配り手配りがない。会社内で何がどうなっているのかを管理チェックする機能が抜け落ちてしまった大企業病は、従業員まで劣化させていると思えてならない。カーリースは団塊世代にシステムそのものは役に立ち良いものだ。友人知人にカーリースを勧めようと意気込んでいたが、こんなではとても信頼できたものではない。かつてアメリカ留学した娘に4年間ホンダのシビックを月100ドルでリースしてやっていたが、もっと手軽で信頼できた。何が日本を機能不全に陥らせているか。それは相手の目を見て話すことを避け、コンピューターとマニュアルに頼る何でも面倒くさがる風潮と意味のない驕りの社会構造にあると私は考える。人間は決して愚かではない。知らなかったことわからない事を学ぶ術を持つ。しかし人ひとりではできない。自分ではわかっている知っていると思うことでも、他の人に説明納得させることは難しい。このようなことは学校だけでは学べない。どんなに学校で優秀で難関有名校を卒業してもそれで終わりではない。一生勉強である。世界が日本に期待を寄せる。それに応えるために必要なことは、誰からでも学ぶ謙虚さと誰にでも理解してもらえるまで伝える忍耐と知恵である。決して学歴、出身校、所属する組織、役職だけではない。残念ながらオリックス自動車にはその気概が感じられなかった。

 


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スイカチューハイ

2015年05月26日 | Weblog

 市販の西瓜のジュースをずっと探している。東京へ出る用事があれば銀座果物専門店千疋屋、新宿高島屋のデパ地下、青山の紀伊国屋、麻布十番の日進ワールド、成城の成城石井本店へ行って尋ねた。尋ねる私以上に店の人の方が困惑し不思議そうに私を見る。西瓜ジュースを買う人がいないのだ。私は買い物が好きだ。買い物は狩りと同じだと思っている。なければ見つけるまで探し回る。

 ネットショップで先日西瓜ジュースを見つけた。最後の切り札はネットショッピングである。ところがネットで売られていたのは外国産の西瓜ジュースだった。私は日本の西瓜が好きなのだ。フランス産の西瓜ピューレも売っていたが買う気は起らなかった。どうしても日本の西瓜のジュースを見つけられなかったら買ってみようと思っている。

 出雲大社へ行った時、鳥取砂丘のみやげ屋で『鳥取産スイカチューハイ』を見つけた。もしや西瓜ジュースがあるのではと期待した。西瓜ジュースではないが表示に果汁10%とある。1本200円だった。西瓜ジュースはないのかと店の人に尋ねると東京で廻った店の人と同じ反応だった。とにかく西瓜が入っている。西瓜チューハイ2本と梨チューハイ2本買った。

 帰宅して西瓜と梨のチューハイを試してみた。私には梨は不合格。西瓜はまあまあだった。毎晩妻は晩酌にジントニックを飲む。私にはジントニックは強すぎる。スイカチューハイなら軽く飲める。ほんのり西瓜の薄い赤色がついている。私の妻に付き合う程度の晩酌に向いている。鳥取の販売元の林兼太郎商店に24本入り1ケースを注文した。5月に入って店先に西瓜が並ぶようになった。西瓜を買ってアメリカ製の頑丈なレモン搾り器で西瓜を搾ってチューハイに混ぜて飲む。果汁50%以上にして飲むとなかなかいける。暑い日や風呂上りの汗をかいているときには冷やした西瓜チューハイは格別である。

  できれば美味い日本の西瓜ジュースが市販され出回ればいいと願っている。西瓜ジュースを自分で作るのが面倒ということもあるが、一番は西瓜が季節的な果物なので一年中安定した値段で手に入ればいい。西瓜農家では出荷できない西瓜はただ放棄してしまうという。モッタイナイ話である。西瓜を丸ごと出荷するのには重さもあり割れやすい。運送費もかかる。日本の市場では色、形、見映えも味以上に重要なのだ。現状では手間もかかる。ジュースにそれらは必要ない。山形県にセゾンファクトリーというジュースとジャムの良い会社がある。残念ながら西瓜のジュースは生産していない。私は近い将来、西瓜ジュースが市場に出てくることを期待している。

 


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安倍首相の英語 高校生よりひどい?

2015年05月22日 | Weblog

 4月末に安倍首相は日本の総理大臣として初めてアメリカ議会上下両院において英語で40分間の演説を行った。

 ネットには多くの意見が飛び交った。民主党の小西洋之議員が自身のツイッターで「単語を読み上げているだけ、高校生よりひどい」「日本国の国会議員として、この上なく米国議会に恥ずかしいし、この上なく申し訳ない」とつぶやいた。もともと英語のtwitterは「鳥のさえずり」や「おしゃべり」を意味する。動詞のtwitは「なじる」「からかう」なのだからツイッターで何を呟いても勝手である。

 私自身カナダの学校でスピーチの授業では苦労した。高校のスピーチのクラスで日本から来た英語の下手な私を指導したランディーン先生が授業で宿題のスピーチを私が発表する前にクラス全員に向かって言った。「いいですか、スピーチはスピーチする人だけの技術ではありません。聴いている側にも技術が必要です。カナダにはいろいろな国から移民してきた人々が住んでいます。その人たちが話す英語は、発音、抑揚、語彙において母国語の影響を受けてさまざまです。だから聴く側は、自分が持つ知識を総動員して理解しようとしなければいけません。それがスピーチを聴く技術です」 私のスピーチは小学生どころか3歳児よりひどかったと思う。しかしクラス全員が耳を澄ませて私の3分間のスピーチを聴いてくれた。終わると拍手までしてくれた。アメリカも移民の国である。アメリカ議会の議員たちの多くは、ランディーン先生のいういろいろな人が話す英語を聴く技術を持っているであろう。ランディーン先生は「スピーチで一番大事な事は、自分が聴いてくれる人々に何を訴えたいのかの強い気持ちを持つこと。口から発する言葉に自分がこうして訴えられる機会を与えられたという感謝と自信の強さを音声としてこめることです」 安倍首相は、通訳を使わずに自らスピーチを行った。日本の首相のさきがけとなった。そのことが一番重要である。もし安倍首相が自身で「自分の英語はまだまだだな。これから日本の学校での英語教育にももっと力を注がなければ」とでも思ったなら日本の英語教育にも大きな前進である。

 最近、興味深い記事を読んだ。「アメリカのヒット曲の歌詞の読解レベルは小学校3年生程度である」とアメリカの会社が2005年以来の225曲を調査して発表した。私は英語を習いたいなら好きな歌手の曲を何回も聞いて自分で歌えるようになってからその歌詞を勉強することを勧めてきた。自分の好きな曲なら何回でも繰り返して聴ける。英語を母国語としない外国人が英語を学習するなら、小学3年生程度は理想的である。ラジオやテレビで“過払い金”のCMと同じくらい頻繁に流される“プロゴルファーの石川遼選手も学んだ”と宣伝する英語教材もいいのだろうが、わざわざ高い教材を買わずとも家にあるCDやレコードで十分である。

 知人がAFSの交換留学生として渡米した時代のヒット曲を2枚のCDにして送ってくれた。知人は留学先の高校の同級会に参加した。その記念にと留学していた1961年から62年のヒット曲を集めて幹事委員会が作成したものだという。聴いてみた。懐かしい。そして「アメリカのヒット曲に使われている英語の読解力は小学生3年生程度」に納得する。年代はずれているが大した違いはない。ヒットしたというのだからアメリカの一般大衆の支持を得た証拠である。であるならば話されている英語もそのレベルと言える。英語を学ぶ者には朗報である。

 私もなじったりけなしたりする。しかしそれは密室だけの楽しみとしている。天に唾すれば自分に落ちてくるのを嫌というほどよく知り納得しているからである。


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ライザップとS君の胸板

2015年05月20日 | Weblog

  5月16日土曜日東京新橋で開かれた高校の関東同窓会に出席した。12時からというので昼食は食べていなかった。普段私は昼食を11時半に摂っている。今回は同窓生による講演の後、会食となった。午後1時を過ぎたころから、低血糖の症状が出始めた。この10年低血糖になったことはなかった。私の他に同窓生は17人参加していた。みな熱心に講演を聞いていた。ということはみな糖尿病などとは無縁な健康体に違いない。あいにく飴もチョコレートも持っていなかった。途中ビールが出された。低血糖でアルコールを摂取すると私は具合が更に悪くなった経験を持つ。ビールには口を付けただけだった。一人の講演が終わり次の講演に入った。集中力の低下も甚だしい。2つの講演は私には無理だった。さすがに健常者も腹が空いてきたのか、主催者が店の人に料理を出しはじめるよう指示した。サトイモの煮つけだった。テーブルに皿が置かれるや否や私はサトイモを一つ口に入れた。良く噛んで消化が早くされるよう呑みこんだ。数分後みるみるうちに体が元に戻っていった。

  テーブルの向かい側には同級生だったS君が座っていた。S君とは夫婦ぐるみでお付き合いしている。低血糖状態で目の焦点がぶれていたのだろう。焦点が合わされたS君の姿に驚いた。ライザップRIZAPだ。テーブルの上の上半身しか見えない。以前から胸板が厚かった。去年S君はスキーで脚を骨折した。手術で6本のボルトを入れていた。そのボルトも再手術で最近取り外した。脚が使えない間、上半身だけ鍛えるためにトレーニングジムに週3回通い続けた。そしてついにベンチプレスで100kgを上げた。その結果の胸板である。シャツの上からでさえあの盛り上がりである。

  高校生の時からS君は力持ちだった。腕相撲も強かった。成績も優秀で学年トップクラスだった。性格もよく天は彼に二物も三物も与えた。保険会社を退職して海外旅行、登山、ジム通いと悠々自適に暮らしている。毎年12月に開く我が家でのワイン会にも欠かさず夫婦で出席してくれる。7年前の貸切バスで山梨県勝沼のレストランでのワイン祭りでは酔いつぶれた私の妻を背負ってバスに乗せてくれた。気は優しくて力持ちなのである。去年、スキーで骨折したと連絡を受け、私は内心でやはり彼も年齢には勝てないと変に納得した。大きな間違いだった。彼は強靱な精神力で新たな目標を自らに掲げ、遂に100kgのバーレルを上げてしまった。

  低血糖もすっかり落ち着いた。S君の厚い胸板と次々に運ばれてくる料理へと、交互にチラチラと目を泳がせた。ある歌の歌詞が思い浮かんだ。関敬六の『浅草の唄』「♪つよいばかりが男じゃないと教えてくれた人♪」 私は肉体的にも精神的にも強い男ではない。これからもそうなれる可能性はない。肉体に恵まれ、健康に恵まれ、立派な職歴、学歴を持つ人たちを羨ましいと思う。羨ましいと思うと同時にそういう人達の影での努力を尊敬できる。

  最後にS君に尋ねてみた。「ライザップのCMでは2か月で見違えるように体が変わっているけれど、あるのかな、あんなこと」 S君は言った。「私はもっと時間がかかっている」 批判も訂正もしない。S君らしい。家に帰ってスイッチを入れたテレビに、ライザップのCMが耳障りな音楽にのって姿勢の悪い私のような体形だった男が筋肉ムキムキに変わる様子が映った。S君の胸板を思い出した。シャツの上から見ただけなのに、CMに出てくる“?”だらけの都会の男性たちにはない、アフリカの山中で群れを守る野生のゴリラのあのたくましさと優しさを彷彿させた。

 


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消せるボールペン

2015年05月18日 | Weblog

 市役所にある書類の変更手続きに行った。女性職員が親切に対応してくれた。書類が机の上に用意された。書き込んで捺印すれば終了である。カバンから筆入れを取り出した。気の利く女性職員は、ボールペンを私に差し出した。「自分のボールペンの方が書き慣れているので」と弘法筆を選ばずの逆の反応をした。たいして字がうまいわけでもないが、筆入れから自分のボールペンを出し、しっかり握りしめて書類の氏名の欄に書き込もうとしたその時、女性職員が待ったをかけた。「そのボールペン、消えるボールペンですよね」「はい、そうですが。それが何か」「ハイ、消せるというのが問題なのです。後で書き直せますから。役所の公的文書には使えない事になっています」 なるほど。重要な書類を故意に書き直したら大変である。便利は犯罪に使われる可能性もある。女性が手渡してくれた消えないボールペンで書類に書き込んだ。

 ボールペンには苦い思い出がある。日本の高校2年生でカナダの高校へ転校した。カナダの高校で最初に数学のテストを受けた。日本の高校では数学の成績は悪かった。しかしカナダの高校で数学はまだ日本の中学レベルだった。私は中学3年の11月から肝炎で入退院を繰り返し、高校受験前日まで入院していた。学力の遅れは歴然だった。それでも入試に合格してしまった。肝炎になる前までは数学も何とか授業についていけた。私はスラスラ問題を解いた。内心100点満点と自負した。

 テストが採点されて戻された。100の数字の代わりに“F”と記されていた。カナダの私が学んだ高校の試験評価や成績表はA+、A,A-、B+、B、B-、C+、C、C-と続き不合格がFだった。つまり0点ということだ。各教科の教師には採点や試験問題作成を手伝う大学部の学生の助手がいた。私のテストもその助手が採点したものだった。まだ日本から来たばかりの私は英語で尋ねたいことを聞けることはできなかった。しかし熱弁をふるう助手の説明は、鉛筆とボールペンの両方を見せ、鉛筆不可、ボールペンのみ可と雰囲気で理解した。鉛筆で書き込んだ答案用紙は採点対象にさえされなかった。日本の高校のテストでボールペンは使えなかった。日本の高校で使っていた筆箱を私はそのままカナダに持ち込んでいた。もちろん筆箱にボールペンは入っていなかった。

 所変われば品変わる。日本からカナダへと環境が激変した中、緊張しっぱなしの私はFを見て、日本でもカナダでも結局成績は変わりないとそれからの成績低迷を思い落胆した。筆箱がボールペンだけになり環境に慣れると、数学にも自信を取り戻せた。前期に4人いた数学の履修者も後期が始まった時、私一人になっていた。他の学生は及第できず選択科目を変えていた。教師と助手、教える側は2人で生徒が私一人だった。夢のような授業を受けられた。日本の三角関数で落ちこぼれ、カナダの二次方程式で自信を取り戻せた。日本では数学の追試の常連だった私が数学でA+をもらった。日本の高校の教師も同級生も絶対にこんなこと信じられないと思った。つまりある環境でダメな劣等生と決めつけられても、環境を変えれば異なる評価やチャンスが発生するかもしれない。私は日本の自信を失って肩をうな垂れている学生に言いたい。世界は広い。環境を変えることによって、思わぬ進展がありうる。日本でダメなら世界へ出てゆこう。自信を取り戻せば、人生は変えられる。

 私は日本の高校での成績を消して、カナダの高校で新たな成績に挑戦できた。消せるボールペンは素晴らしい発明である。人生において過去は消せない。しかし生きている限りやり直しは何度でもできる。友人からのメールに『今こうして人生の4分の3以上生き、我が人生を振り返ってみたら、“我が人生に悔いなし、我が青春に悔いあり。”総括して「まあ、いっか!」だね。』と書いてあった。私の人生もそうであってほしい。

 消えないボールペンを女性職員に返して書類を提出して手続きを終えた。


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おとうさん、おとうさん。これ

2015年05月14日 | Weblog

  いつもの魚屋でヒラメの昆布締め用の生きたヒラメを買った。明後日客を夕食に招いている。魚屋を後にして次の買う物のメモを見ながら歩いていた。最近メモなしでは買い物ができない。メモも老眼鏡なしでは読めない。老眼鏡を肩掛けカバンから出そうとしたその時、背後から「おとうさん、おとうさん」の声がした。私はそれが自分への呼びかけであるとは思わなかった。それは今までに「おとうさん」と呼ばれたことがなかったせいだろう。娘は「パパ」、息子は「オヤジ」と私を呼ぶ。妻は絶対に私を「おとうさん」とは呼ばない。どんどんその声は近づき、とうとう私を追い抜いて私の前に向きを変えて立った。ゴムの黒い前掛け姿のさっきヒラメを買った魚屋の若い店員だった。包みを渡しながら「これ」と息を弾ませて言う。ゴム長靴にゴムの前掛けで走るのは若者でも大変だ。私はまた失敗したと瞬間思った。息を整える若者を見て申し訳なく反省した。買い物して買った品物を置いてくる。買い物の代金を支払い、おつりを受け取るのを忘れる。こんなことが頻繁にある。でも私の手にはヒラメの包みがある。「お渡しするの忘れてしまいました。すみませんでした」若者はねじり鉢巻きを外して頭を下げた。私はヒラメの他にも魚を買った。しかしヒラメに気がいっていて他の魚のことは忘れていた。それは店員にも同じだったようだ。ヒラメだけ私に渡して店員は他の包みを渡さなかった。若者でも忘れることがあるのだ。

 私が忘れたのではなかった。そのことが私を大いに喜ばせた。ほっとした。魚の包みを受けとりながら「ありがとう」とおとうさんは頭を下げた。若者は来た方向に向きを変え、また小走りで店の方へ戻って行った。台風5号が通り過ぎた。空は青かった。私の心も晴れ渡った。気持ちが良かった。

 「おとうさん」と呼ばれたのは初めてだったけれど、こんな気持になれるのなら、そう呼ばれても悪くない。魚屋の若者はきっと私を呼び止める時、悩んだに違いない。彼はまだ他の店員のように私の名前を知らない。どこの国の言語であって名前を知らない人に呼び掛けるのは一苦労ある。その時魚屋の若者は私の後ろ姿、また午後早いこの時間に男が魚を買いに来ることを考慮して「おとうさん」の言葉を選んだのだろう。年齢的にも雰囲気的にも「おとうさん」はひとつの選択である。

 家に帰ってヒラメを3枚におろしている最中にも、「おとうさん、おとうさん」と呼ばれる声が思い出された。顔の筋肉はゆるんでいた。ヒラメの皮を剥いで薄く切り塩を振り木枠の下板に昆布を敷きヒラメを並べた。その上に生姜の千切りを拡げ、その上に香菜の葉を拡げ再びヒラメを置く。最後に昆布を乗せ上板で押さえる。上に重石を置いて冷蔵庫で寝かせる。

 こうして“おとうさん”の昆布締めは客に供された。私はいつもより旨いと思った。自画自賛である。機嫌よく料理すれば味も良くなるのだろう。御機嫌よう。


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脈の乱れと模型船ベロナ号

2015年05月12日 | Weblog

  5月6日水曜日に“お呼ばれ”された。私は物心ついてからずっと“お呼ばれ”が大好き。

  招いてくれたのは同じ集合住宅に住む夫がイタリア人で妻が日本人の夫妻である。指定された午後6時ちょうどに玄関の呼び鈴を鳴らした。「6時ピッタリですね」とMさんがドアを開いて家の中に招き入れてくれた。同じ間取りなのに家の中の雰囲気は私の家とまるで違う。前回数か月前に招かれた時と様子が違う所を発見。5年前初めてお宅に招かれた時からずっとMさんの作りかけだった船の模型が作業台ではなくガラスのケースに収まって別の家具の鎮座していた。ついに完成させたのだ。17年かかったという。道具も残った材料もすべて処分して片づけたと言う。見事な終止符の打ち方。

 17年。衝動の波が私を襲う。最近記憶の機能に衰えに拍車がかかっているというのに英文が頭に浮かんだ。Words cannot express my astonishment!(言葉で私のこの驚きを言い表せない) ご馳走もワインも会話も私を現実に引き戻すことはできなかった。家に帰っても心臓の様子がいつもと違った。妻に脈を診てもらった。「ちょっと期外収縮がでているね」「何。そのキガイしゅうしゅくって」「脈の乱れ」「そんなに飲まなかったし酔っていないよ」

  まったく言葉はいらない。後日Mさんがメールで送ってくれた船の写真である。


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ゴールデンウィークと湘南ゴールドジュース・新茶づくり

2015年05月08日 | Weblog

  妻はこの連休5月2日まで出勤だった。2日の夜友人O夫婦、奥さんが外国に住む娘さんを訪ねている連休やもめの友人Nさんと夕食を共にした。その日NさんはOさんのミカン畑でミカン狩りをした。私も誘われたがちょうど検診日で病院へ行かなければならなかった。

 夕方妻が帰宅するとすぐOさん夫妻とNさんがたくさんのミカン(湘南ゴールド、ニューサマー、夏みかん)、蕗、摘んだばかりの新茶の葉、カラーの花持ってやってきた。楽しく歓談してワインを飲み私の手料理を楽しんだ。

 翌日3日、朝から私たちは蕗の下処理をした。私は蕗を食べるのが好きだ。皮を剥くのも好きだ。さっと茹でて冷ましてから皮を剥いた。蕗の皮むきは子どもの頃よく母親と一緒にやった。爪でまず切り口から皮を捲りあげる。そこを親指と人差し指で挟んで一気に引き下ろす。皮は上から下までほぼ同じ幅でスーッと剥ける。これが気持ちいい。皮を剥くと言えば、夏休みにプールや海水浴で日焼けして皮がよく剥けた。いかに破らず大きく皮を剥くか夢中になったものだ。瘡蓋剥ぎと同じで一種の遊びだった。その苦労をしっているので蕗の皮むきは快感である。痛くもなく血も出ない。つかむところを確保すれば、あとはスーッと上から下まできれいに剥げる。その動作を3,4回繰り返せば産毛の生えた皮はすっかり剥けて台湾の故宮博物館にある『白菜とキリギリス』の白菜の白と緑の境目に近いところのヒスイ色になる。かじって味見する。苦みが強かった。当たり前である。市販の改良されたヤワな野菜の蕗ではない。昔、我が家の庭にあった蕗の味である。市販の蕗と違い太さも長さもバラバラ。どうしても太い物から剥いてしまうが、それでも百本ちかい茹でた蕗を一本一本妻と競争するように剥いた。私の爪は蕗を剥くには短く切り過ぎている。だから私は小型のナイフを使ってつかむところを確保する。妻は爪を使う。アクを抜いて煮物にした。旨い。

 次は湘南ゴールドのジュースを作った。段ボール2箱分。私はこれだけあればいったいどのくらいジュースができるか、そして相当長い期間楽しめそうだと打算した。甘い考えであった。アメリカで買ってきたレモン搾り器(写真参照)

で私が搾り、妻が餅つきで水当てと返しをするように絞り終わったカスを取り新しい半分を入れる。手際よい作業。しかし絞り出されるジュースがあまりにも少ない。普段市販のジュースを買って飲んでいる。いったい市販のジュースはどのように作られているのか。大きな疑問がわいた。以前新宿高島屋の地下に果物屋が出店していてそこでフランボアーズのジュースを氷抜きだったので小さなグラス半分を1000円で飲んだことがある。本物の手搾りジュースは価格が高くて当たり前なのだ。

 この蕗と湘南ゴールドの作業に平行して新茶の葉をOさんがコピーしてくれた“手作り☆緑茶 電子レンジでお茶作り”にしたがって茶作りにも挑戦した。2分電子レンジでチンしてまな板の上で2,3分両手で絞るように揉む。1分チンして揉むの作業を5,6回繰り返す。家中が新茶の香りに包まれた。早速できた新茶を妻が淹れてくれた。市販のお茶の色も味もなかったが、自分たちで茶作りを挑戦したことで茶農家の苦労が体験できた。素人が玄人に適う訳がない。それが分かっただけでも大収穫。OさんNさんの人柄が新茶の味に含まれていた。

 3日の夜東京に住む長女一家が来た。「このジュース美味しい!」に疲れが吹き飛んだ。


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