団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

増税より1年を11ヶ月に

2011年09月30日 | Weblog

 日本経済は、瀕死の状態である。国の借金は増えるばかりだ。増税や年金の掛け金をあげるような話しばかりが活発化している。

私はこんなことを考えた。1年を11ヶ月とする特別カレンダーを採用する。日本経済が回復するまでカレンダーが2つ必要となる。給料、年金、生活保護費など全ての国内の国費の支払いを1ヶ月を約33日として計算しなおす。詳細な計算は、専門家に任せるが、つまり支払いの延長である。戦争中「欲しがりません、勝つまでは」と日本人は耐久困窮生活を強いられた。これからは「我慢します、国力が回復するまでは。やりくりします、借金完済までは」と全国民が少しの我慢をする。一年を11ヶ月で生活することによって、年間予算の約12分1の節約が可能となる。12年で1年分の国家予算80兆円相当の額を生み出すことが出来るかも知れない。

 かつて社会主義の国々では、経済計画の頓挫で年金の不払いが起こり、いつ払われるかもわからない年金受給者は自らの力で生活を維持しなければならなかった。日本の経済は、そこまでは困窮していないかも知れないが、早晩そうなることも十分考えられる。最近私がとみに感じるのは「日本という国が音をたてて崩れ始めた」である。経済だけでない。あらゆる分野である。国の借金は1000兆円に迫る。破綻しているはずなのに、更なる国債の発行によって自転車操業で何とか辻褄を合わせている。大きな国民の期待と共に民主党に政権が替わった。しかし国民の期待は、いまのところ裏切られている。

 この期に及んで、政府が打ち出すのは、増税と国債の更なる発行の一辺倒である。野田新首相は、就任早々増税路線を宣言した。これではいつまでたっても借金体質は変わらない。現在の日本は、上も下も分配主義に奔走していて、国家予算を大盤振る舞いで食い尽くす。国内の製造産業は、後発の韓国、台湾、中国の激しい追撃で次々とシェアを奪われている。一見日本が完璧に負けているように思えるが、よく調べてみるとそうではない。追い上げる新興国企業はまさに日本がなし得なかった国際企業としての体を整えている。日本企業の多くが官僚型の不毛の会議、会議に明け暮れるうちに、新興国の国際企業は、トップダウンの長期展望戦力を推し進める。日本人技術者の中には、日本企業の村社会的体質を嫌い、自ら新興国の新しい国際企業を標榜する環境に飛び込んでいき、新興国企業で貢献している者もいる。

ここに大きな日本のチャンスがある。大震災からの復興財源として日本が保有するアメリカの国債をそれら新興国に売却するのである。すでに6ヶ月が3・11から過ぎた。この間日本式の政治、経済は足かせになるばかりで、復興は遅遅として進まない。野田新首相は9月20日からニューヨークの国連総会出席のためアメリカを訪れた。アメリカのオバマ大統領との会談もあった。野田首相に増税の勇気があるならば、何ゆえオバマ アメリカ大統領にアメリカ国債の売却によって日本の復興に協力を要請しなかったのか。たとえ1ドル140円で買ったアメリカ国債が、円高で価値が約半分になっていてもかまわない。国債は本来売買自由な金融商品である。まるでやくざや北朝鮮の上納金のように国債という名前とは裏腹に担保のように拘束されているのはおかしい。アメリカにとっても悪い話ではない。日本へ国債を売った額の半分で返却処分でき、そのアメリカが買い戻す国債を韓国、台湾、中国という新たな世界の勝ち組お大尽に、双方にとって条件が良い値で買い取ってもらえる。

 日本国が財政破綻の崖っぷちから再生復活できるか否かは、巨額な借金を減らすことだ。そのために国民は、ある程度の負担はやむを得ない。増税だけが解決になるのではない。今度目指すは、すべての格付け会社の最高格付けAAA+である。日本国がだれからも後ろ指さされることのない安定した国家となることである。50年かかるかもしれない。いや100年かかるかもしれない。それでも今のままより、目標があれば、はるかに希望が持てる。

まず国が復興財源を無駄削減、国会議員定数と歳費削減、国家公務員の給料と数削減、アメリカを始めとする外国国債の一部売却、埋蔵金、元国有で民間に移行した企業の株式の売却をして、それから全国民に1年11ヶ月案を受け入れてもらえれば、増税なく復興財源を確保できると私は机上の打算をするのだが。


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荒挽きコショウの粒からスイカの種に

2011年09月28日 | Weblog

 私がビーフステーキなるものを初めて食べたのは、生後17年を間違いなく過ぎていた。糖尿病を抱え込んだ今でも、時々食べたいな、もう一度経験したいな、と思う食体験がある。ちょっと気取ったレストランの「ペッパーステーキ」だ。牛肉が特に好きなのではない。口の中に戻ってくる「今日、ペッパーステーキを食べたんだ」という実感がよみがえる満足感がたまらない。

 人間の歯茎は年齢によって後退する。歯と歯のすき間も広がる。若く歯茎もしっかりしていれば、歯に食べ物が挟まることは、そう滅多に起こらない。ペッパーステーキを食べ、2,3時間したあとに、突然口の中に小さな黒胡椒の粒が転がり出す。上の歯と下の歯でその小さな固まりが押しつぶされる。その瞬間、胡椒の何ともいえない味覚を舌の味蕾がしっかり捕らえる。かつて胡椒と金がグラムあたりの値段が同じだったことを体ごと実感できる。かつて西洋の商人たちが、胡椒をはじめとする香辛料を求めて、荒海を命がけで行き来して、巨万の富を手にしたことも理解できる。ペッパーステーキをレストランで食べていた時より、この歯茎か歯の間に小さな粒が挟まっていて、数時間前の食事を思い出させる瞬間が好きだ。

 以前からこの時間差のある挟まりモノに特別な想いを持っていた。同じ挟まりモノでも、セロリの筋、野沢菜漬けの繊維質、ニラ、メンマの繊維質ではない。何といっても胡椒の粒が一番である。イチゴの種もいい。イチゴ独特の香りと甘酸っぱさがたまらない。小さな種が歯と歯の間で「プチッ」と弾け割れる感触も好きだ。キウイの種とイチジクの種もよく歯に挟まる。この種も弾力性があり、イチゴに似ている。ところが最近では、ゴマ、胡椒どころかもっとヤッカイなものが、後退した歯茎や広がった歯と歯の間にすっぽりと入り込む。

先日スイカを食べた。暑い日冷やしたスイカは旨い。みずみずしい甘いスイカに大満足。そしてお昼寝をする。起きて妻に向き合うと、妻が口の中の上の歯茎のあたりを無言で指差す。洗面所の鏡の前に走る。大きく口を開ける。別に何もない。それでもと思って、上下の歯をしっかり合わせてみる。私の上の左側の奥歯の歯肉の後退は顕著である。そのうち歯が根こそぎぐらつき、終いには抜け落ちるのではと心配だ。その大きく後退した歯茎の空間に黒光りするスイカの種がそれはぴたりと治まっていた。「オハグロだ」と急いで歯間ブラシを使って取り出した。

 老齢化は進む。なんとしても80-20を目指したいと願っている。80歳になっても自分の歯が20本残っていることである。挟まるモノは、小さなゴマ粒や胡椒粒がスイカの種までになった。後退する歯肉、むき出しになる歯根。言えることは、老化は、けしてある日突然に起こるのでなく、日々少しずつ進む。あせることはない。ただ無駄な抵抗であっても、大切な歯を守るために出来ることは、何でも続けていこうと思っている。


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炎天下の草刈り

2011年09月26日 | Weblog

 9月中旬に暑さがぶり返した日だった。駅で電車を待っていた。駅の北側の広大な土手で7,8人の作業員が草刈りをしていた。彼等はみなうす水色の作業服を着ている。ヘルメットをかむり首の周りにはタオルを巻いている。9月なのに真夏のような直射日光は容赦なく彼らを射抜くように襲いかかる。みな顔を紅潮させている。3人が急な土手に適当な距離をおいて散らばった。それぞれがエンジンつき草刈り機で草や木の枝をバッサバッサ切っている。エンジンが唸りをあげる。「ウィーンィンウィーン」唸りが上がるとエンジンから排気煙も出る。「カキーンッカッカッ キーンーン」時々刃が石に当たる。手袋をして、さらに腕を守るためにカバーをしている。みな汗だくである。見ているだけの私でも、彼らが熱中症になるのではと心配したほどだ。それほど若くない人たちだ。土手の下で働く人たちも草刈り機で刈った草や枝をかき集めて袋に詰めている。私はこのように悪条件の中、体を使って働く人々に頭が下がる。

 草刈りは重労働だ。刈っても生命力の強い草は、またすぐ伸びてくる。どんなに雪かきしても、次から次と降り積もる豪雪地帯の雪のように重労働であるが、何か報われない仕事の気がしてならない。それが仕事なら、やらなければならない。ズボラな私は考える。どうしてこんなおいしそうな草を家畜を放し飼いにして食べさせないのかと。生え繁る草は、柔らかそうな葉をたくさん蔓につけたアケビ、薬になりそうなイタドリ、根が蔓延っていて抜きにくそうなオヒシバ、鳥が好きそうなカラスムギ、他にもススキ、シロザ、ヒメジョオン、エノコログサなどなど。名も知らぬ植物もたくさんあるだろう。どれを見ても家畜のエサになりそうだ。

 この生い茂る、人にありがたられることもない草を見るとモッタイナイとつくづく思う。セネガルやチュニジアの砂漠地帯で草や木の葉を捜す家畜の群が砂ぼこりを舞い上げ報われることなく、ただ移動を繰り返すのを見た。草より家畜の数のほうが多かった。この家畜の放牧が砂漠化を更に進行させると聞いた。出来るはずもないが、あの砂漠で、やせこけて草を求める家畜にこんなうまそうな草を食べさせてあげたいとつい思ってしまう。日本は何でも規制でがんじがらめにされている。緑したたる場所があっても、それがJRという会社の所有地であれば、その土地をどう使おうと所有会社の自由である。しかし日本はこのまま飽食の時代を維持できるのだろうか。戦争中、学校の校庭さえ畑にされて野菜を育てたという。そんな時代が来ないことを願うが、JR沿線の法面だけで相当数の家畜のエサを得られると私は皮算用している。

台風15号の通過後、駅で電車を待っていた。気温は嘘のように下がり、もう長袖を着ている人もいた。草刈りした跡がまるで毛を刈り取られたひつじの体のように痛々しい状態になっていた。そこに彼岸花が待っていたように一斉に咲きだした。何だか計算づくで目立ちがり屋のようで微笑ましい。植物にもそれぞれの気質と時間があるようだ。何が起こっても、その生き残りへの力強さは、愚痴っぽく、へこんだ人間をまた立ち上がらせる。(写真:駅の土手の草刈り風景)


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台風15号

2011年09月22日 | Weblog

 毎週水曜日はスポーツジムに通う。月1回の藤沢での勉強会は、第2火曜日となっている。今週月曜日が祭日だったので、会場の市の施設が振替え休館なので、勉強会が水曜日に変更された。月1回と毎週1回の頻度なら、当然月1回を優先する。だからずっと前からこの水曜日は、藤沢へ行くことにして、予定カレンダーにも、そう書いていた。ところがメールで勉強会が中止になった。「台風が直撃する恐れが・・・」と今年になって3回目の中止を主催者が恐縮して伝えてきた。すると私の頭の中で、第2案のスポーツジム行きがごく自然に浮上していた。

 水曜日の朝、いつものように妻を駅に車で送った。いつもと変わらぬ日課のひとつだった。家に戻り、NHKテレビで台風情報を観た。すでに台風の通過が予測される名古屋で、100万人以上に避難勧告や指示が発令されていた。天気予報の台風の予測進路図には住む町は、逃れようもなく中心に位置していた。通過時間は、午後になると予測されていた。「午後ならスポーツジムに行っても大丈夫だろう」と勝手に決め込んだ。軽薄な決定だった。

 この決断が「行きはよいよい、帰りは怖い」の原因になった。ジムで1時間たっぷり汗を流して、駅ビルで夕飯の買い物をして改札口に来た。何やら改札口の前にいつもと雰囲気が違う人だかりがあった。午後12時50分なのに、表示板には12時23分発の電車の告示があり、真っ赤な電子文字で“20分遅れ”と付け加えられていた。そのグルグルまわる告示は、私の心の片隅に、ほんの少し潜在していた予感を膨張させた。ホームに降りると、電車が止まっていた。ほぼ満員状態で、車内は高湿度で私のメガネが一瞬で曇った。車内放送が「ただいまこの電車は、この先の路線で台風の猛烈な風と雨のため運転を見合わせています。いまのところ発車のメドはたっていません」と告げる。15分後「この電車○○駅まで行き、そこで待機します」の放送。○○駅は私が降りる駅のひとつ手前の駅である。危機管理の甘さを反省したばかりなのに「やはり私は運のいいヤツよの」と○○駅まで行けば、次の駅などわけなく行けると都合よく解釈した。強風と横殴りに吹きつける大粒の雨が電車を揺らし、不気味な軋みや雨音をたてた。満員の車両の中、沈黙が不安をかきたてる。

 ○○駅に着いた。予告通りに電車はそこから先へ進むのをやめた。そこから家まではタクシーで行っても2千円くらいだろう、私と同じことを考える乗客はいるだろう。先手必勝である。急げ、と改札にむかった。駅前のタクシー乗り場は10人くらいの列ができていた。タクシーは全車出払っていた。雨と風でどこにいても防ぎようがなかった。もう傘も役に立たない。バスの発着所へ走った。あと10分で私の住む町の駅行きのバスが出るとわかった。時間通りにバスは出た。私は2時30分に家に到着した。ズブヌレの服、下着をすべて着替えた。遅い昼食を簡単に残り物で済ませた。

 やっとのことで戻った家で、私は「家に勝るところなし」とまるで要塞か堅固な城に立て篭もったように安堵した。それも束の間、海の方からの強風が吹き始めた。集合住宅の前に植えられた15メートルを越す高さのセコイアが、折れるのではと思えるほどしなる。風の向きが集合住宅に平行しているから、木が建物に当たらない。風向きが変わって、もし直角に風が建物に向かってくれば、窓ガラスが割れて家に風が吹き込む。そうすれば当然家の中は水浸しになる。ただ台風に通過してもらう以外私にできることはない。小学6年生の時、伊勢湾台風(昭和34年:この台風も15号だった)が住んでいた市を直撃した。父とはがした畳で玄関の戸が風で打ち破られないように抑えていたことを急に思い出した。強風は、父と私を畳もろとも吹き飛ばそうとしたが、我が家と家族を守ろうと二人は必死で押し戻した。ガラスがこんなにしなるものかと驚いた。

 今私が住む家の窓はすべてサッシで頑丈にできている。私が子どものころの建具職人がつくる木製の窓や窓枠、戸や戸袋、戸枠と違う。私は一人で窓側に仁王立ちして家を守ろうとする。頑丈なサッシや窓でも風が吹き付けると軋みゆがむ。30分か1時間か過ぎると、ようやく風が治まってきた。家の前の川が怒涛となって流れ下る。少し空が明るくなった。すると家の前に消防自動車がサイレンを鳴らして、赤色灯を回転させて到着した。パトカーも来る。消防団員も4,5名駆けつけた。道路に黄色いテープが張られ、通行止めになった。川の増水により、すぐ際の道路が崩れたのか。寺の石垣が崩れて道路をふさいだのか。野次馬根性と好奇心が騒ぐが、君子危うきに近寄らず、と家から出なかった。

 東京に勤める妻は、帰宅する手段がなく、結局職場に泊った。3月11日を思い出した。何回もメールでやり取りした。お互いの無事を喜ぶ。災害の多い国に住む。それでもこの国は、私は世界中で一番好きだ。テレビのニュースで十津川村の80歳の老人男性が「家に戻りたい。それで土石流に飲み込まれて死んでも天命だ」と言った。その気持が理解できる歳に私もやっと到達したようだ。

 (写真:台風に倒されて、昨日道路を塞いだ桜の木)


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リビアのネズミ

2011年09月20日 | Weblog

 リビアのカダフィー大佐は、いまだに発見されていない。彼は、リビア国民に反体制派に対して徹底抗戦を訴える演説の中で、反体制派を“ねずみ”と呼んだ。それを聞いて私は、アメリカで日本軍が真珠湾を攻撃したあと「Japs keep out You rats(日本人は出て行け、ねずみども)の落書きが日系人が住む地域に数多く掲げられたという話を思い出した。アメリカでアメリカの市民権を持つ日系人も“ねずみ”と呼ばれた。ねずみは、アラブ社会でもアメリカでも嫌われ者の代名詞らしい。どの世界にも動物や虫を軽蔑や差別のたとえに使う。他にも蛇、猿、豚、犬、毛虫、ゲジゲジ、ゴキブリなどなど、枚挙にいとまがない。私は、人間が勝手に嘲笑や蔑みの代役を動物や虫にさせるのは失礼だと思う。

 アラブ世界でもたとえとして動物が使われることが多い。アラブ文化の中で通常ロバはジョークや嘲笑の象徴であり、人を「ロバ」と言うことは、中東では決して許されない侮辱である。日本でタレントとして活動するエジプト人女性フィフィさんは、かつて島田紳助が司会する『行列の出来る法律相談所』に出演した際、紳助に「ロバ」「ウマ」と揶揄された。フィフィさんの風貌が似ているとからかったのだろう。お笑いタレントの番組の多くは、悪ガキそのものの世界である。日本国内、もしくは一部の芸能界でのみ通用する、ふざけ、おちょくり、イジメ、なじり、下種、無礼、偏見がまかり通る。“ロバ”と口に出されたことは、アラブ出身のフィフィさんにとって、屈辱であった。それをも知らない島田紳助さんが、テレビ界に君臨していたのだから、日本のテレビ界の程度が知れる。もちろんフィフィさんは、抗議したがそれを真摯に聞く謙虚さや国際性は島田紳助さんに備わっていなかった。

私は、チュニジアに住んでいた、ある日本人が“ロバ”とチュニジア人に陰で呼ばれていたのを知っている。その日本人はそう呼ばれても仕方がない程、外国で暮らすには不適格な性悪な人だった。そうでない普通の日本人でもチュニジアでは、他の中国人、韓国人と見分けられることもなく、モンゴル系アジア人はみな“シノワ”(フランス語で中国人)と蔑まれて呼ばれる。それは、チュニジアがフランスの植民地だった時、中国から連れてこられた労働者(苦力:クーリー)が用水路の建設に携わったことから始まった。植民地としての屈辱を与えられたチュニジアの人々は、奴隷のように働かされた中国人を自分たちより格下の対象として、劣等感を和らげた。腹をすかした中国人の中に、住民の家からニワトリや食べ物を盗んだ者がいた。そんな噂に尾ひれがついてチュニジア全土に広がった。チュニジアではこの歴史的人種偏見が未だに残っている。私自身もどれほど“シノワ”と馬鹿にされたか知れない。一旦培われてしまった無知と偏見は、なかなか是正されることはない見本である。

 野田新首相は、就任早々自分をドジョウにたとえた。英語でドジョウは、馬鹿、のろまである。これをもし英語国の記者が自国に日本の首相は自分をドジョウと言った、と記事を送ったらどうだろう。その記事を読んだ読者は、間違いなく日本の首相が自らを“馬鹿、のろま”と宣言した、と読むに違いない。日本の首相になる人さえ島田紳助なみの国際感覚しか持ち合わせないのか。そうだとしたら悲劇である。鳩山由紀夫元首相は、自分で何も言わなくても、loopy(ルーピー:狂気の、馬鹿な)とアメリカの新聞ワシントン・ポストにかつて書かれた。自分から言っても、他人に言われても、わが国の首相を馬鹿にされるのは、日本国民にとって屈辱である。まわりくどいたとえなどつかわず、ねずみ、ロバ、ドジョウの助けをかりずに、人間のまま、人間として、お互いの存在を認め合いたいものである。


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お触書

2011年09月16日 | Weblog

 Tシャツに半ズボン、もしかしたら今流行りのシャレテコ(オシャレなステテコ)姿の中年男性が、川にせり出して敷設された歩道の柵に全身をもたせて川に向かって放尿している。まるで子どものように川原の何かを標的にして、そこを目がけているようだ。午前7時、駅まで妻を送って家に帰る途中に見る光景である。見苦しい。なぜ同じ時間に同じ行為をするのか解らない。彼にとって朝一番のお勤めなのかもしれないが、こんな姿を見せつけられるのは遠慮したい。新幹線の列車が、ひっきりなしにすぐ近くの鉄橋を通過する。どんなに高速で通過しようと、もしかしたら車窓からこの醜態を見てしまう乗客もいるだろうに。それとも彼はそれをも計算しているのだろうか。

家にトイレが無いわけではなかろう。トイレのないところでは、だれでも「自然が私を呼んでいる」と言って、人に見られないように陰をみつけて用を足す。人類がずっと続けてきた方法である。私が子どもだった頃と比べれば、このごろ立ち小便を見かけることはほとんどなくなった。私はその変化を喜んでいた。若い頃暮らしたカナダで立ち小便を見たことは一度もなかった。広大な国土、少ない人口も理由だろうが、人々に羞恥に関して超えてはならない境界が意識されていた気がする。それが原因なのか、公衆電話のボックスの中が小便臭いことはよくあった。トイレ、それも水洗トイレ、下水処理場が整備されていない開発途上国でならまだしも、日本はすでにこの分野で相当改良が進んでいる。地中海沿岸のローマ遺跡を訪れて感銘したのは、水洗式の共同トイレだった。すでにあの時代にあそこまで整備した文明に脱帽したものである。

 ところが今読んでいる『ラテン語碑文で楽しむ 古代ローマ』木村凌二編著 研究社 に「用を足す者よ、災いに気をつけろ。侮るならば、ユビテルの怒りあれ」の石碑がポンペイにあったと記されている。さらにエルコラーナの給水塔には「運営委員マルクス・アルフィキィウス・パウルスが認めた布告:もしなんびとかこの場所にて排便せんと欲するなら、それが許されぬことを憶えておくべし。もしこの布告に背くなら自由人は罰金1デナリウスを支払い、奴隷は尻をむち打たれることにより記憶させらるべし」と碑文として彫られていると記されていた。思わず「ローマよ、お前もか」と叫びたくなった。人間だから排泄は当たり前の現象である。それをいかに他人に見せることなく済ませるかは、文化であろう。それにしてもローマ時代にも厄介だった問題行為は、いまだに続いている。日本では「出物腫れ物ところ嫌わず」という。しかし余程のことがないかぎり、自分で管理調整可能なことである。あえて触れずに隠しておくことも、人間のおくゆかしい生きる知恵ではないだろうか。

 そんな日の午前10時すぎ、図書館に向かって歩いていると、写真のお触書を発見した。その訴えを前にして「その通りだ」と立ち止まり、拍手したいぐらい賛同した。


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パソコン教室入学

2011年09月14日 | Weblog

 ハワイから帰ってキースの影響か、パソコン教室に入学した。以前奮起してパソコンをもっと使いこなそうとパソコンの家庭教師について学び始めた。30歳代の男性でとても教え方が上手く、気も合った。ところが5回ほどで突然横浜の会社に移ることになってしまった。その後いくつかのパソコン教室へ見学に行った。何かあやしかったり、胡散くさかったりで入学しなかった。それから2年が過ぎてしまった。今年の夏、長女がお産の後里帰りで1ヶ月同居することになった。捕らぬ狸の皮算用。いつも私は自分の都合で他の人のお世話を期待してしまう。今回は長女が赤子を連れてくる前から皮算用をもくろんだ。「いい機会だ。娘にパソコンのせめてエクセルの使い方だけでも教えてもらおう」 かくして長女の里帰りは始まった。この皮算用は、あっという間に消滅した。それどころの話ではない。私はパソコンのパの字も口にできなかった。長女は初産で新米ママである。赤子は火がついたように泣く。私はオロオロするばかり。赤子の入浴の付き添い、長女の3回のお食事の準備と後片付け。1ヶ月間よく働いた。

 静かな生活が戻り、褒美のようにハワイ旅行が当たった。ハワイから帰って、パソコン教室のチラシを妻が私に見せた。とにかく一度無料体験教室に参加するよう勧められた。教室は40歳ぐらいの女性が経営している小さなものだった。3台のパソコンが仕切りされて配置されていた。[期待できない]と私の直感は、告げた。ところがパソコンの何か気の抜けた女性の音声ガイドに従って、体験レッスンを始めるとすっかり夢中になっていた。自己流でずっと見よう見まねで失敗を重ねながらパソコンを操作してきた。人間の脳はだれもが脳が持つ本来の機能の数パーセントしか使われていないそうだ。私は携帯電話さえ使えこなせていない。使用説明書を読むのが嫌いである。道がわからなくても他人に教えを請うのが嫌いである。そんな性格の持ち主の私が、この複雑で、ものすごく多種多様なパソコンの機能のほとんどを使えないでいる。その状態からの脱出に再び挑戦すると決意して、エクセルのクラスに入学手続きをした。

 昨日2回目のレッスンに行ってきた。1コマが50分に設定されている。2コマずつとることにした。わからなくなったら講師を呼ぶ。音声ガイドに従って、パソコン画面上での操作を自分で作成している画面で実際に操作してみる。できなければ“繰り返す”をクリックすれば、できるまで繰り返すことができる。私のような性格の習い手には、よくできた教材である。目からウロコの連続である。「ウッヒッヒ」と笑いがこぼれそうになる。「何だこうすればよかったのか」「こんな便利なことができるんだ」一種の快感である。これはこの形態の個人学習だからできることだ。こうして50分が過ぎ去る。『あと3分で時間切れになります』と真っ赤なお知らせが出る。メモリースティックに自分の実習した履歴を記憶させてレッスンが終了する。

 家に帰ると早速、いままで使えなかった技を自分のパソコンで使って悦にいっている。それにしてもコンピューターを発明した人間の脳と私の脳との格差を思うと宇宙で迷子になった気分になる。たとえその1%でも自由自在に使ってみたい。私の64歳の手習いは続く。


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ハワイ旅行③出会い

2011年09月12日 | Weblog

 「ニッポン人?」と白人男性が声をかけてきた。自信はなかったけれど、この男性を私はホームレスかもしれないと直感した。ホームレスかどうか見極める時、私はその人の靴を見ることにしている。多くのホームレスは、生き延びるために歩き回らなければならない。私に声をかけてきた男性の靴、スニーカーは、あちこち擦り切れていた。服装は、それほどひどくなかった。ハワイでTシャツ短パンに裸足でいても、だれも不審がらない。靴を見なければ、その辺の住人が散歩でもしているかともとれる。「あなたと話してもいいですか?」ワイキキの中心街から離れた海岸の公園に近いハイキングテーブルのある日陰だった。ハワイ中央図書館へ行くためにバスに乗った。空港行きだったので混んでいた。ホテルの執事カウンターで教えてもらった停留所でバスを降り、図書館目指して歩き始めた。ワイキキ中心街と違って観光客もおらず、歩いているのは私だけだった。「ニッポン人?」の質問に「そうです。ワイキキ中央図書館へはこの道でいいのですか?」と答え、質問をつけ加えた。男性は木陰のハイキングテーブルのイスに座っていた。太陽は容赦なく照りつけていた。6メートルぐらい離れた柱の陰にスーパーのショッピングカートに黒いビニール袋や全財産が積まれていた。カートの反対側に寝袋が日干しされていた。よく見ると公園のあちこちの木立の下にホームレスがいた。暑さを避けるためと、この男性と話してみたいという私の押さえ切れない好奇心で立ち止まった。男性はテーブルに私を招いて座るよう促して、自己紹介した。


 男性はキースと名乗った。よく見ると50歳から60歳の間に見える。もっと若いかもしれないが、生活環境が老けさせているのだろうか。いろいろ話を聞いた。ハワイでホームレスがどのような生活をしているか、食べ物、トイレ、洗面、シャワー、ホームレス同士の争い、地元住民とのいさかいなど詳しく話してくれた。男性は「日本の3月の大地震はどうなの?すこしは復興されてきているのですか?」と尋ねる。正直面食らった。この男性は、ホームレスだ。毎日の生活が精一杯で、外国の災害にまで考えが及ぶだろうか。


 その彼が続ける。「私はカルフォルニア州からここへ来た。大学院まで行って、修士を取った。結婚もしてそのままずっと順調にアメリカンドリームの一部となって生きていた。私の人生は、突然“ツナミ”に襲われた。解雇された。再就職しようと駆けずり回っていたら、リーマンショックが襲った。収入がなくなった。家も車も家具もヨットも全てローンで買ってあった。何もかも一瞬で失った。家族も」 私は真っ青な海を見たり、山側の最近アメリカ大リーグ野球選手イチローが何億円だかで分譲物件を買ったという高層マンションに漫然と視線を向けていた。


 キースは続けた。「アメリカの会社は、アジアの日本、韓国、台湾、中国に生産させ、製品をアメリカに持ち込み、上前だけをはねて利益を上げる。最初は日本、その後、アジアからの一斉輸出攻勢にさらされた。アメリカの失業率は9%を超えている。日本を呪ったこともある。あんな国、地震や台風の災害でひどい目に会えばいいと。でもその日本が今度は、経済不振に陥っている。今は思う。どこの国に暮らしても、ずっと成功しつづけることなどできないんだと。私はやっと自分を許せる気がした。人間の力ではどうすることも出来ないことがこの世にはある。だから今の私は、寒さを恐れることなく常夏のハワイでストレスのない生活を送っているうちに、以前よりずっと自分を知ることが出来る。カルフォルニアからハワイに逃げ込む前は、日本を始めとしたアメリカの労働者から仕事を取り上げたアジアの国々を妬んだ。自分を解雇し再就職の機会を与えないでその上リーマンショックを起こしたアメリカ社会を怨んだ。私を捨てて子どもを奪った妻を憎んだ。すべてから逃げようと移り住んだワイキキは、予期せぬことに憎くい日本人やアジア人の観光客だらけだった。もともとハワイ州の人口の中で日系人が一番多い。私はそんなことも知らないで移ってきた。こうして公園の芝生で寝て、夜、満天の星を眺めていると、何もかも他人の所為にしているこの自分の卑しさ小ささにいてもたってもいられなくなってきた。そこへ3月日本の大地震と原子力発電所事故だ。自分がどん底の時、あれほど悪態ついて呪ったことが実際に起こってしまった。罪悪感でしばらく打ちひしがれていた。突然私にこんな話をされて、あなたは迷惑に違いない。どうしてもニッポン人と話したかった。そして直接ニッポン人にならだれにでもいいから“ごめんなさい”と言いたかった。今日あなたに会えてやっと気が晴れた。何か方法を考えて、生まれ故郷に帰って再出発しようと考えている。日本の被災者の不屈の生命力を聞いて、自分にもできると思えるようになった。アリガト」 私はキースの真剣さに返す言葉もなく圧倒され、頷くだけだった。


 私は別れ際、キースに「取材協力費」と言って50ドル渡そうとした。彼は「アリガト」と言って受け取った。そして迷いもなく、再びその全額を私に向け、「この金を日本の被災者に届けてくれないか?」と札を私の手に置いた。世界中から善意の応援が東北の被災者に集る。その貴い志のひとつに直接ワイキキで出会うことができた。最初ちゅうちょしたがやはりこの旅行に参加してよかった。苦労して私をカナダへ留学させて英語を学ばせてくれたことを両親に感謝した。帰国して5000円を早速ある東北の救助活動の団体に振り込んだ。振込み人の欄にキースの本名を書いて。

(写真:キースの全財産をのせたカート)


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ハワイ旅行②ぽち袋

2011年09月09日 | Weblog

 ハワイ大学のハミルトン図書館からホテルに午後2時すぎに戻った。すでに部屋の掃除も終っていると思っていた。部屋のドアの前に清掃係の用具や補充備品を乗せた台車がとまっていた。ドアは大きく開いていた。中に入ると四十代くらいのポリネシア系女性が私のベッドのシーツを取り替えていた。「アロハ、すぐ終わります」 背は低いが肉づきが見事な、人なつこそうな笑顔の素敵な女性だった。もう長くこの仕事をしているのだろう。躍動感があり、見ていて気持がいい。「いいですよ。ゆっくりやってください」と言って、私は海側のソファの足乗せ台に腰掛け、彼女の仕事ぶりを眺めた。彼女の笑顔につられて、ホテル従業員しか知らないであろう話を聞いてみようと私の好奇心がうごめき出した。

 「7,8月の日本の夏休みで日本人観光客が押し寄せて忙しかったですか?」「ここは一年中いつでも忙しいです。でも日本人が減ってきた感じ」「中国人や韓国人が多いのですか?」テキパキと働く手を休めることなく、きれいな英語で答えてくれる。シーツのシワを両方の手のひらで「シュッシュッ」と消し、シーツをビッシと砂漠の平らな砂のように伸ばしていく。「中国人がものすごい勢いで増えているわね。韓国人はこのホテルにあまり来ないです。聞いた話では、いくつもの韓国系のホテルがあって、韓国人はそっちへ行くみたいです。そのうち中国人もハワイのホテルを買い占めて、中国人御用達ホテルが出てくるでしょう。昔の日本みたいにね」さすがである。きちんと観察して情勢を分析している。

「いろいろな国の客が来るけれど、部屋の使い方に違いありますか?」「あるある。私は日本人の部屋を掃除するのが一番好き。だって何から何まで掃除しなくてもいいくらい元どうりにしてくれてあるんだから」私の目は、無造作に机の上に投げ出された私のカバンに向いた。「でもそうでない日本人も増えている。50歳以上の日本人夫婦の部屋が何と言っても整理整頓されている。そしてチップだってこんな小さくきれいな袋に入れてあって、短い感謝のメッセージが入っている。この仕事していてよかったって思うことがあります」彼女はポケットからチップ用に千代紙で手作りされたぽち袋を出して見せてくれた。そして「チップをありがとう」と付け加えた。

彼女は約40の部屋を担当しているという。満室ならチップは、一部屋で1ドルなら一日合計40ドル(約3200円)、2ドルなら80ドル(約6400円)となる。どうせ大ホテルチェーンのことだ。給料は安く押さえているから、従業員はチップが大きな収入になるだろう。今回の私のように直接顔を合わせて、仕事ぶりや結果でチップの額が決まるわけではない。それでも仕事をする上での張り合いになっていることは確かである。私は日本にもチップ制度が普及してほしいと願っている。チップの必要もない政治屋、官僚、企業担当者だけが巨額なお手盛りチップの争奪戦を繰り広げる。若者たちの存在は、ほとんど無視されている。彼らの仕事振り、その出来具合に対して小額であれ、彼らの労働による恩恵を受けた者が応援できる体勢作りが急がれる。素直な感謝は、人の気持を鼓舞させる。

 ぽち袋を持ってこなかった私は、翌日、久しぶりにホテル備え付けの便箋に英語で手書きしてチップを包み、枕の上に置いた。

(写真:ホテル浴室のドアの信じられないチョウツガイ)


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ハワイ旅行 ①空の旅編

2011年09月07日 | Weblog

 昨日無事ハワイ旅行から戻った。時差は、心配していた通り私をおおいに苦しませた。日本を出発したのが夜7時だった。飛行すること7時間あまりでハワイに到着した。現地時間が朝8時すぎだった。ボーイング777の大きな飛行機だったが、日本航空が会社更生法を適用されてからの合理化で、座席数が増え窮屈である。せまく詰め物が薄く背もたれがほぼ直角の椅子で、結局私は一睡もできなかった。足を置いた床も、たいして長くもない脚の空間も、狭かった。よせばいいのに足置きステップを下げたら、どうやっても戻らなくなった。前の席の人に迷惑かけないよう、気を使いながら何度も戻すことを試みた。結局外国人女性搭乗員を呼び止め、足置きを戻してくれと頼んだ。彼女は、前の客が飛び上がるほど激しく強く手で足置き台を戻した。

2回出た食事は、信じられないほどお粗末だった。夕食はパン2個、サラダ、ご飯にマカロニカレーをかけたもの、朝食は夕食時にビニール袋に入れられた箱入りジュースと蒸しパン1個だけというものだった。朝食は、てっきり何か盆にのったものが配膳されると思い込んで待っていた。ビニール袋のジュースと蒸しパンが朝食と知ったのは、ホノルル到着寸前だった。炭水化物ばかりの食事に驚き落胆した。かつてスイス航空が倒産した後、以前豪華な食事が売りだったのにプラスチック容器に入ったサンドイッチに替わったことを体験した。その経験を思い出し、栄枯盛衰の感傷に浸った。

 目を真っ赤にしてハワイの空港に降り立った。相変わらずアメリカ合衆国の入国検査は、厳しい。左右すべての指を一本ずつ、左右の親指、左右の親指以外の4本の指を一緒にという順に指紋読み取り器の上に置いた。寝不足の意識モウロウ状態だとなかなか複雑な動作である。最後に漫画の宇宙人の目玉だけ管の先端についたような異様なカメラで顔写真を撮られた。あんな自分の写真は、絶対に見たくない。外に出るとハワイの陽ざしは強く、太陽は「絶対にお前を眠らせないぞ」と言っているようだった。全員の入国検査が終り、バスでお決まりの免税店へ連れて行かれた。同行者のおみやげの買いっぷりに渋いマブタが、開いたまま閉じなくなってしまった。

 帰りの時差事情は来る時よりずっと楽だった。ハワイを現地時間午前10時に出発して成田に日本時間午後1時に到着した。ところが同行者のひとりが機内で体調を崩した。「乗客が急病です。皆様の中に医師もしくは看護師などの医療関係の方がいらしたら、ご協力願います」と機内放送された。なんと医師2名と看護師2名が同乗していた。それだけではない。飛行機はすでにハワイに引き返すより日本に直行したほうが近い位置だった。何が起こったかは、知る由もない。ただ医師と看護師の懸命の対応で急病人は、危険な状態を脱することができた。「急病の乗客は、回復されてきています。当機はこのまま成田に向かいます。機長はできるだけ早い到着を目指しております。尚到着の際、この飛行機の後部から患者さんを救急車で病院へ搬送するために皆様が降りるのが遅れます。どうかご協力ください」と日本語そのあと、英語で放送された。機内の全乗客に安堵の空気が拡がった。私も心配だったが、ただ無事に成田に到着して病人が無事病院に行けるよう願った。

 飛行機のような空中を飛行する密室で病気になるといかに困難なあらゆることが制約される状況であるか知らされた。添乗員も会社関係者も沈痛な面持ちで成すすべもなく見守っていた。成田に到着すると救急隊が待機していて、敏速に後部ドアから乗り込み、患者を搬送した。入国審査や税関検査はどうするのだろうという私の疑問も人の命の重大性を前にして静かに消えた。命を救うための医療の貴さを思った。そして幸運にも4名もの医療関係者が同じ飛行機便に同乗していた患者の運の強さに驚いた。この騒ぎで解団式もないまま到着して自然解散になった。この旅行で、またたくさんのことを学び、健康の大切さも痛感した。

 家の鍵を開け、中に入って、我が家のニオイを深呼吸して確かめた。妻が帰宅して土産話をどれから始めようかと迷った。「まずはお風呂に入ったら」と勧められ、風呂に給湯しようと台所の給湯遠隔操作盤の前に立った。故障していた。TOTOの24時間対応の相談室へ電話した。修理は翌日にしてもらえることになった。風呂なんてどうでもいい。無事に戻れたことを快適なウオシュレットを使ったあと、その喜びが倍増した。やはりうちが一番だ。


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