団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

寺の鐘

2008年12月29日 | Weblog
 今住む町では朝6時と夕方6時に寺の鐘が鳴る。ゴゥオ~ン グゥオ~~ンと谷間の川に沿って山寺から重く這うように鐘の音が町全体を包む。私はこの鐘の音が気に入っている。

 家の窓全てを結露対策と防犯対策のために特殊2重ガラスにした。そのために外部の音がずいぶん遮断されるようになってしまった。その2重ガラスを通り抜けて朝、晩、寺の鐘を聞くことができる。窓を開け広げ、そのままの鐘の音を聞けたらいいのだが、私の手術を受けた心臓に寒さと暑さは大敵である。2重ガラスを通過したすこしくぐもった音で我慢している。

 ヨーロッパの教会の鐘の音もいいものである。オランダの古い町の小さなホテルに5階ぐらいの部屋のベランダで、すぐ近くの教会から鐘の音が聞けた。スロベニアのモグリッツという昔の城がゴルフ場を持つホテルになっている。この田園風景が素晴らしい。ゴルフをしていると村の教会の鐘が鳴り響く。何度聞いてものどかな農村らしい、昔から変わらぬ時間を感じた。

 イスラム教の国では、一定の時間にモスクからコーランの朗読が流れる。独特の節回しで朗読される。慣れるとこの放送も生活の一部となって体が受け入れる。最初は中々なじめず、気になったが2,3ヶ月ですっかり慣れて、日本に一時帰国した時、早く戻ってあの放送が聞きたいと思ったほどだった。その国々に独特の音があり、それは生活の一部になっている。

 日本も昔は寺の鐘で多くの人々が、時間を知ったに違いない。今ではすっかり忘れられた音になってしまった。この町に住んで寺の鐘を聞けるとは思ってもみなかった。とても気に入っている。寺の鐘を毎日ついている方には、大変なことだろうが、鐘の音が私の気持ちを良くしてくれる。鐘の音を聞いて、いろいろな思い出に逢っている。今年も大晦日の除夜の鐘がそこまで迫っている。108の煩悩、まだまだ私の中でうずき続け、暴れている。除夜の鐘の音の助けがなければ、年は越せそうもない。

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あの人と一緒は嫌

2008年12月24日 | Weblog
 2001年に狭心症で心臓バイパス手術を受けた。『辞世帳』なる大学ノート一冊に私は遺言と思って自分の思いの丈を書き残した。手術の麻酔から醒め、手術が成功したと妻や子供たち、そして執刀医師と喜びを共にして一週間後、実は手術が失敗だったと知らされた。いよいよ『辞世帳』が必要な時が来たと思った。妻が必死に専門医を探し回ったおかげで、葉山ハートセンターの須磨医師と細川医師が私の再手術を受けてくれた。私の心臓は救われた。

 その時私は自分に誓った。残りの命はオマケの命だ。少しでも人の役に立てる人間として生きようと。できるだけ人とトラブルは避け、仲良く気持ちよく生きようと。ところが誰からも良く思われようとする性格は、変わっていなかった。

 洞爺湖サミットに集まったファーストレディが、ある会場への移動を車ですることになった。ところがひとりのファーストレディが「あの人と一緒に車に乗るのは嫌」と言い、結局数回に分乗するようになったそうだ。日本のマスコミ報道では、そのファーストレディが誰なのかは、発表されなかった。3人以上人間が集まると必ず人間は派閥を作ると言われている。

 先日立川のカルチャースクールの同級会を開くと仲間から連絡が来た。早速主催者のBさんに問い合わせると、「自分は今回、同級会の企画に携わっていないので、Aさんに問い合わせてください」とメールをもらった。ちょうど沖縄の友人を訪ねる予定もあり、Aさんに日程をおしえてくれと連絡を入れた。しかし連絡が来たのは、同級会の3日前だった。立川で私の出席をめぐって不穏な動きが渦巻いていたことなど全く感じていなかった。何とか沖縄行きを1日ずらして、同級会当日立川の会場へ行った。 いくらKY(空気の読めない)の私でも、まもなく人々の態度に異変を感じた。

“無視”学校のイジメで主流の“シカト”だった。私が参加を決めたことでリーダーBさんが欠席したことが原因らしかった。以前弘田三枝子が歌う『人形の家』の歌詞に「顔もみたくないほど あなたに嫌われるなんて とても信じられない」の世界だった。私はわざわざ沖縄行きの予定まで変えて出席したことを後悔した。また自分の空気を読めない、不甲斐なさに失望した。

 Bさんにこれほどまでに嫌われたのは、去年のワインまつりでの私の失敗だった。藤沢を江ノ電観光の貸し切りバスで朝7:00に出発する予定だった。ところが前日バス会社の担当者と最終打ち合わせをしてあったにも関わらず、バスが駅前の約束した場所に来ていなかった。私がバス会社に連絡してもバス会社は営業が9時からで留守番電話に誰も出ない。駅前に来る路線バスの江ノ電バスの運転手に事情を話した。親切なその運転手のおかげで何とか観光バス会社と連絡が取れた。担当者と貸し切りバスの運転手の連絡がうまくとれていなく運転手は8:30の出発だと思っていたという。とにかく貸し切りバスは、藤沢を一時間半遅れて出発した。立川でカルチャースクールの仲間と私の友人知人が東京から立川に集合して合流する手筈だった。立川で待っていた人々は長い時間待つことになった。失敗はこれだけで終わらなかった。ワイン祭りの会場に到着すると、祭りのメインのヒツジの丸焼きやローストビーフは全て食べつくされていた。

 Bさんは、私の対応が私の友人、知人、藤沢の人々にだけ向いていて、立川の参加者を疎かに扱った、と怒ったそうだ。KYの私は何も知ることもなく、いままで通りにメールで連絡を取り合っていた。ワイン祭りの件も私なりに謝ったつもりでいた。ところがそうではなかった。結局私はBさんに切り捨てられた。顔も見たくない会いたくないもない奴になった。それを察知することもなく、ノコノコとBさんが取り仕切る予定だった同級会に顔を出すということで、Bさんをさらに怒らせたらしい。

 ~らしい、と書くのは、多くの人々がそうするように、嫌な奴とは顔も見ない、口もきかない、不思議な対応だったのでBさんから直接何も聞いてないからである。私は直接私の落ち度や失礼をBさんに指摘されなかったことに、自分の人間性を否定されたように悲しく思う。確かに私の間違いや落ち度がBさんを不愉快にしたことは、どんなに謝っても済むことではない。約二年間毎月2回同じ教室で席もずっと隣同士だったBさんなら、きっときちんと私の過ちを教え諭してくれると勝手に思っていた。私の甘えであった。“無視”と“シカト”の威力を改めて恐れ入った。イジメられっこの気持ちがよくわかる。

 再手術から生還した私は誓ったはずである。みんなと仲良くしていこうと。会ってももらえない。悪いところを教えて諭されることもしてもらえない。顔を見たくないほど嫌われた。正直、こたえている。

 これから私は、ますます自分の世界を狭めていこうといったん決心した。これに懲りて、もうおせっかいは卒業したいと思った。私は日本の社会にも適応できていない。KY(空気の読めない奴)は孤独に暮らすしかないか、と思いつつ、今年もワインまつりをやってしまった。去年の不手際にもかかわらず、40名が参加してくれた。もちろん立川からはゼロだった。懲りない私は救いようがないのである。お人よし馬鹿は死ななきゃ治らない。馬鹿でもいい、それでも私はみんなに良く思われたい!今年一番のシコリは心にこびり付いたままである。今年もあとわずかである。Bさんから何もなかったように連絡が入ることを夢見る懲りない私である。

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クリスマス商戦

2008年12月18日 | Weblog

 昔、留学したカナダのクリスマス商戦で面白いと感心したのがあった。なんと牛の半身を買うと豚が半身サービスでオマケしてくれる。1960年代のカナダにも冷凍庫は各家庭の必需品だった。買った半身の牛はもちろん店で部位ごとに分けてくれる。それをまた各家庭で自分たちに合うように小分けにしてパッキングして、冷凍庫に入れていく。私はカナダやアメリカで普通の横置きされた上がドアになっている冷凍庫が苦手である。ネパールやユーゴスラビアでも使ったが使い勝手が悪かった。ネパールでは停電で冷凍庫の食品をすべて腐らせてしまったこともある。大変な損失だった。この横置きの冷凍庫は、うまく整理しながら使わないと、底にある冷凍品をずっとそのままにしてしまう。いくら冷凍といえども長く保存すると劣化してしまう。カナダの人々は、その点うまく使いこなしていた。牛肉なら牛肉を仕切りを入れてステーキ用ならステーキ用の肉を一箇所に保管して、上から順に使っていく。半年くらいで食べきるらしい。

 日本でもクリスマスや正月のためのこんなスケールの大きな売出しがあればよい。トヨタの住宅を建てると、トヨタの車がついてくるとか、トヨタの大型乗用車を買うと超小型車のIQ(今度トヨタが売り出した乗用車の名前、アイ・キュー)がオマケについてくるとか、スズキの軽自動車を買うと電動アシスト自転車がオマケとか。東京のマンションを買うと熱海の温泉つきマンションがオマケとか。

 クリスマスが特別な買い物の季節なのは、おそらくボーナスに関係がある。ボーナスを賢く使って上手な買い物をしている。 日本でも公務員は12月10日にボーナスが支給された。今年は世界同時不況であらゆる経済指標は悪化するばかりである。「元気出せ、日本!」と言いたいのだが、名案や提案が出てこない。

 ただ暮らしたネパール、セネガル、セルビア、サハリンなどの貧しい国々での人々の生活を思うと、まだまだ日本は不況とはいえ、恵まれている。それらの国々、特にサハリンでは年金が破綻していて、老後の生活は自給自足しか残されていなかった。ネパール、セネガルには年金そのものが存在していなかった。上を見れば限がなく、下を見ても限がない。派遣などの非正規雇用者の人々には、厳しいクリスマス、正月になりそうである。早く日本が元気を取り戻せますように! gooブログ『山の恵み里の恵み』12月17日付けの『平成の大飢饉』を読んでみると不況の見方が変わるかも。


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我が家の日曜日

2008年12月15日 | Weblog
 我が家の日曜日は外出の用がなければ、ほとんど同じ時間割で過ごす。週日は観るべきテレビ番組はニュース以外ほとんどない。日曜日は観たいテレビ番組と聴きたいラジオ番組が数多くある。
①6:15NHKテレビ“たべもの一直線” 
②7:30TBSテレビ“がっちりマンデー” 
③8:00TBSテレビ“サンデーモーニング”この番組には政治屋さんが一人も出ない。だから観ていられる。 
④9:00NHK教育テレビ“新日曜観術館” 
⑤9:00テレビ朝日“題名のない音楽会”(これは録画しておいて時間がある時に観る)
⑥9:00~1:00の聴ける時間ラジオニッポン放送“三宅祐司のサンデーハッピーパラダイス” 
⑦12:54テレビ東京“なんでも鑑定団” 
⑧5:30日本テレビ“笑点” 日曜日はいそがしい。
 
 ⑥のラジオは日曜日、妻は1週間分のアイロンがけをする。私はその間、書きものをするか、ソファに寝転がって本を読む。聞き流す感じである。この番組で面白いのは“ウチのマコさま”というラジオを聴いている人と三宅祐司のやりとりである。私はゲラゲラ笑う。私のゲラゲラ笑いを聞いて妻がケタケタ笑う。笑いはいい。

 アイロンがけが終わると妻はゴザをひいてその上で着物の着付けのおさらいを始める。たいした努力である。その努力の甲斐あって、どんどん着物の着こなしがよくなってきた。来年の夏こそ、私に浴衣を着せてくれるという。 

 毎週ほとんど外出することもなく、外食もしない。日曜日の夜は5時半からの『笑点』を二人で観る。メキシコのタコスというもろこしの粉で作ったチップに、アボガドとレモン汁、ハチミツ、胡椒を混ぜて練ったディップをつけて、それをツマミにジントニックを飲む。『笑点』の内容は取り立ててどうというものではない。登場人物などは、いまだに名前さえきちんと言えない。特に誰のファンと言うこともない。毎週日曜日の午後5時30分に放送するから観る。おそらく大喜利のレギュラー出演者が皆着物で床に座るから観ているのかも知れない。画面が固定しているのがよい。他愛もないダジャレを自然のものとして受け入れる。テンポも私達にちょうど良い。最近のテレビのカメラの動きは目が回るほど急で不安定である。

 夫婦で観て、ひとりが笑えば、つられてもうひとりが笑う。その光景が可笑しくてまた笑う。『笑点』が終わるとテレビを消す。長い日曜日のテレビ、ラジオとの対面が終止符を打ち、一気に新しい週への準備に入る。日曜日の夜はできるだけ早い時間に就寝するように心がけている。

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東海大学吹奏楽研究会

2008年12月10日 | Weblog

 12月7日川崎のMUZAで開かれた東海大学吹奏楽研究会の定期演奏会を聴きに行ってきた。高校の同級生だったN君の次女がこの吹奏楽団でオーボエを吹いている。N君家族と川崎駅構内の時計台の下で午前11時に待ち合わせた。チケットを蒲田に住む東海大学出身の友人夫妻にも送った。彼らも参加することとなった。総勢7名で昼食を越後のヘギ蕎麦を叶屋で食べてまず腹ごしらえをした。

 MUZAは立派な会場である。どこにもこの手の“ハコモノ”と呼ばれる建築物が建てられている。ローマ時代の“パンとサーカス”政策のように人民に食べ物と見世物興行を与えておけば、国を楽に治めることができるというわけだ。中に入ると音響効果を考慮した素晴らしい施設だった。正直、このコンサートを大学のクラブ活動の一環としかみていなかったので、たいした期待はしていなかった。

 第一部は、アイルランドの音楽家ビル・ウィーラン舞台作品『リバーダンス』だった。マーチングバンド的な展開で、若さ溢れる演奏と、旗を若い女性が巧みにバンドの演奏にあわせて操るもので、まず度肝を抜かれた。演奏も旗を操る女性陣も広い舞台をうまく使い素晴らしい演出だった。私は若さ溢れるダンス、演奏を羨望と回顧の気持ちで見つめ、聴き入った。

 第二部は,ゲストステージと題して、
管楽器ユーフォニアの演ソリスト、外囿祥一郎の演奏で初めてユーフォニアをソロで演奏するのを聴いた。難しい楽器をよくあそこまで弾きこなすとただただ感心させられた。ユーフォニアの音色の美しさにも魅了された。以前からこのような大規模な吹奏楽団にしろ、オーケストラにしろ、あれだけの人数が一致団結してひとつの楽曲を演奏すること事体、私には不思議な光景だった。全ての楽器が四六時中演奏しているわけではない。打楽器などの出番は極端に少ない。それでもそれぞれがパートを持ち、それぞれがその演奏をし、最終的に聴衆にひとつの音楽として到達する。おそらくオーボエならオーボエの小グループ、クラリネット、トランペット、トロンボーン、チューバなどなどがグループで練習を積み上げ、全体の総練習をし、コンサートに備えたに違いない。2部終了時にインタビューで外囿は、「毎日一時間あきもせず同じ練習をずっとやり続ける。それを継続したから今ここで私は演奏できるのです」と語った。

 継続は力なり。とかく現代の日本の若者は批判されることが多い。この演奏を聴いていて、観ていて、私は日本にもこんな素晴らしい若者たちがいるのだと誇らしく思った。きっと辛い練習の連続であったのだろう。あまりのソリストの演奏の素晴らしさに感きわまったのか、後ろの演奏者の学生たちが涙を流し、しゃくりあげる者まででてきた。それにつられて観客の中にも、ハンカチを目に当てる人がでてきた。まさに会場が一体化していた。

 第三部のクラシックアレンジステージのプログラムが進むうちに、最終学年の4年生であろう演奏者たちが泣きながら演奏していた。卒業したらこの吹奏楽研究会を退会しなければならない思いがそうさせたに違いない。素晴らしい演奏会だった。そして素直に日本が豊かな国であると実感できた。その豊かさの恩恵の中で、若さという人生の華を思い切り咲かせている青春はなんと美しいのだろう。大満足で妻と家路についた。


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やかましい

2008年12月05日 | Weblog
 以前、福田政権下の太田誠一元農水大臣が「日本国内では心配しなくていいと思っているが、消費者がやかましいから、さらに徹底していく」と言った。太田元大臣は日本人をよく理解している、と私は思った。彼のいうように確かに日本の消費者はやかましい。それがわかっているなら、そのやかましい国民を喜ばせるような政治屋になればよい。それができないところに彼の政治家になれない理由がある。

 日本人はずっと政治家や権力者に盲従してきた。政治家や権力やお上にやかましくなかった。だから太田元大臣は変わってきた民衆である消費者がやかましいと感じているのだと思う。今までに会った官僚と呼ばれる人びとの多くは、官僚以外の人を“民間”と呼ぶ。私は言葉というものは、自然が自然であるのと同じほど、正直な心の吐露だと思っている。酔っていると本当のことを言う、は真実である。酔えば、心の壁が取り除かれて、本来の意見、感想、感情が出てくるものである。だから私は、酔っている人の言うことに熱心に耳を傾ける。

 外国人に幾度となく「日本人はうるさい」言われた。私自身も日本人には“完璧症”というウイルスがついているのでは思うことがある。完全主義者に近い性癖がある。要するに日本人の気は、繊細かつ審美的である。日本人は気が済む、と気が済まない、の境界がはっきりしている。

 その国民性が今の日本の繁栄と進歩を築いたことは、間違いがない。世界にはいろいろな人がいて良いと思う。けれど他国の人に自分の国の価値観や基準を押し付けてはいけない。明治時代日本政府も民間でも“お雇い外国人”を多数世界から招いて、建国の礎とした。自前の金でわざわざ外国から専門家を呼び寄せた。ずいぶんいい加減な不良な外国人もいたようだが、おおむねそれなりに指導してくれたことが、後の日本の飛躍に役立った。

 人間には得意不得意がある。それは人種的にも遺伝子などの影響からか、多々あるのではないだろうか。オリンピックでの人種的、民族的、国民的活躍度を見ていてもそう思う。中国のように13億人という人口があり、その中からの選抜、特殊訓練、特権的報償があれば、あのメダル獲得数も納得がいく。それよりも100メートル走の男子女子共にジャマイカの圧倒的強さを見ていると、気持ちが良い。ジャマイカの選手が全種目に超人的に活躍してもおもしろくない。ケニヤの長距離における活躍も好感が持てる。

 スポーツはもともと貴族的なニオイのするものである。生活にゆとりのない、教育も満足に受けられない貧しい国々に、どんなに能力的に優れた素質ある若者がいても、スポーツに縁なく消えてゆくのだろう。

 やかましく、うるさいことは、日本人の誇るべき特質である。日本人は自信を持ってこの特質をうまく使うべきである。日本人がこのような性格だから、世界にでもトップクラスの精密加工技術を始めとするレベルの高い工業国になったのである。日本人はこれからも日本人が気の済むように努力研鑽していけばよい。私は日本人として、そのような特性を誇りに思う。言葉は使いようである。総理大臣、大臣たるもの国民を励ましさらなる発展を遂げる原動力となるべきではないだろうか。麻生新総理に国民を心底元気つけて欲しいと願った。どうもその方向に向かっていない気がしてならない。

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元産婦人科医の夫

2008年12月02日 | Weblog
 「私、今日包丁を持った男に追い回されて殺されそうになったの」 私たちの結婚式を間近にひかえた頃、1週間に4日から5日病院に泊まり、産婦人科医として働いていた婚約者が電話でぽつりと言った。午前3時だった。内容は守秘義務のため明かすことはできないが、ただ事ではなかった。とにかく彼女に危害が加えられなくて何よりだった。「今、ひとつお産が終わったの。私、もうダメになりそう」「そっちに行こうか?」「ううん。もうじき救急車で患者さんが来るの。ごめんね、明日仕事あるのに。明日じゃないね。もう今日だね」電話の向こうからサイレンが聞こえた。彼女は電話を切った。

 私はその頃、日本とアメリカの大学で学ぶ二人の大学生の子供に仕送りするために4つの仕事を持っていた。専門学校での講師、予備校講師、自分の塾の経営、家庭教師。毎月の仕送りは合わせて30万円を超えていた。ゆっくり婚約者と話しができるのは彼女の仕事が一段落する真夜中しかなかった。彼女の話しを聞きながら眠ってしまったこともある。受話器を首にはさんで、彼女の悲痛な訴えであっても、天使のささやきのように彼女の声は、私の心を癒し支えていた。離婚後の私はたった一つの目標を持った。二人の子供を大学卒業まで支える。離婚後の私は良い父親になれた。時、すでに遅しではあったが。卒業させたら病気になって死んでもいいと、いや死にたいと思っていた。願いのとおりに糖尿病が進行して「インシュリン注射を始めましょう」と医者に言われていた。私も彼女も自滅寸前に出会った。どちらのつっかえ棒がなくても、二人は最終的に倒れていたに違いない。

 私は彼女を救う唯一の方法は転地療養以外ないと思った。つまり産婦人科医をやめさせる、ということだ。息子の就職が決まった。あとは娘ひとりで私の役目が終わる。話し合った。外務省が医務官を募集していた。当時婚約者が勤めていた病院は、年間800以上のお産をこなし、彼女も重要な役目を負っていた。彼女が抜けることはその産婦人科に多大な迷惑をかけることは明白だった。私は今彼女をあの過酷な職場から救い出さなければ、彼女は早晩自滅してしまうか、健康を害すると先がみえた。

 二人は決意した。私が仕事を辞め、家事をする。妻は外務省に入省して公務員になる。14年間海外に出たことによって、妻は普通の生活を送ることができた。今でも日本の産婦人科医は、限界に近い重労働と訴訟などによる心労に喘いでいる。 ここにある産婦人科医の記述がある。その産婦人科医は“「私は地獄に落ちる人間だから」と断言する。産婦人科で一般に行われている人口妊娠中絶は、合法ではあるが命を奪う行為にほかならず「倫理的には間違っている、だから、地獄に落ちる」「でも、矛盾はあっても中絶しないと、いま現に生きて目の前の患者さんが苦しむことになるから、あえてやっている」”(白石拓著『医師の正義』) そしてこうも言っている、“「単なる田舎の医者ですよ。毎日毎日、患者さんと向き合い肉体労働をしています」”覚悟を持つ人間は強い。

 私の妻は、黙ってこの部分を読むよう私に指で差ししめし、目頭をじっと押さえた。まさに彼女の産婦人科医としての過去の毎日であった。妻は酒と睡眠薬でこの苦しみと不眠症を払拭し、逃れようとようとしていた。妻は私が彼女を救ったと言う。妻は「私は産婦人科医としての覚悟が欠けていた。でも今は婦人科医として覚悟を持って毎日患者さんに向き合っている」 妻は泥酔することも年に一回あるかないかである。あれほどいつ寝るのかわからなかった妻は、毎日寝息をたてて熟睡している。それでも私は産婦人科医が不足している、と聞くたびにドキリとするのである。

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