団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

白いトリュフの宿る森

2022年08月31日 | Weblog

  友人から「…教えていただいたイタリア映画『白いトリュフの宿る森』を今夜観ました。ピエモンテの森の映像が美しく、音楽も良く、独特な雰囲気と不思議な魅力のある映画でした。もしまだご覧になっていなければアマゾンプライムで配信中です。卵とトリュフ食べたくなりますよ。おやすみなさい」とメールがきた。友人の夫は、イタリア人で国際結婚している。長くイタリアに暮らしていたが、今は日本に住んでいる。

 さっそく観た。素晴らしかった。画面が絵画のようだった。子供の頃、親に連れられてよく松茸を採りに親戚の山へ入った。松茸だけでなく、シメジ、アミタケ、リコボウなども採った。毎年秋が来るのを待ちわびた。母親の弟が、キノコ採りの名人だった。雑キノコを一緒に採りに連れて行ってもらえたが、松茸だけは連れて行ってもらえなかった。親にも教えられないと言っていた。キノコ採りが好きになった。

 私はカナダ留学中、カルガリー大学で国際基督教大学出身の平塚教授に世話になった。平塚教授は、菌類学者で特にキノコ類の研究をしていた。一緒にアメリカのワシントン州へ松茸の調査に同行したことがあった。日系人を何人も紹介してもらい、訪ね、松茸狩りに同行させて欲しいと頼んだが、誰一人受け入れてくれなかった。自分の子供にさえ教えられないと言っていた。結局満足した調査は、できなかった。

 しかしその後、カナダとアメリカの松茸は、ベトナムと韓国からの移民によって、マフィアのような組織ができ、乱獲されることになった。日本へ輸出すると莫大な利益を得ることができたからだ。乱獲がたたり、カナダの松茸も以前より採れなくなったという。

 私は、その後暮らしたアメリカ、ネパール、ユーゴスラビア、チュニジア、サハリンでも松茸を探した。アメリカ以外では、一本も見つけられなかった。私がキノコ採りで経験したこと、感じたことを映画『白いトリュフの宿る森』の中で重なる場面がいくつもあった。ピエモンテの美しい森を、人間の欲が暗闇に変えていた。乱獲、密猟、買い占めが横行した。トリュフ狩りには、犬が欠かせない。ピエモンテのトリュフハンターは、犬を子供のようにして暮らしている。結婚もせず、長年トリュフ狩りを犬と続けてきた老人が紹介されている。トリュフ争奪で他のハンターの命とも言える愛犬を、毒殺させるために毒入りのエサを山にまく悪もいる。欲と嫉妬が、トリュフの山をダメにしていると嘆いていた。

 84歳になったアウレリオにトリュフの採れる場所を教えてくれと業者らしい男が頼む場面では、アウレリオが、自分には子供も家族も犬以外いないが、たとえ子供がいても、絶対に場所を教えないと言い切った。私の叔父やアメリカシアトルの日系人と同じ事を言った。

 カルロも年老いたトリュフハンターだ。カルロには妻がいる。妻は、カルロにもうトリュフを採りに行くのをやめてくれと懇願する。カルロは妻の言うことをきかない。それでも、妻とカルロが黙々とテーブルに積み上げたトマトの下ごしらえしている場面は、75歳になった私コキゴロウの琴線を強く弾いた。

 要所要所で、トリュフハンターたちの口ずさむ歌が、また何とも言えない味のある歌詞なのだ。画面に合わせて流れる曲もいい。美しい画面、心揺さぶる音楽。イタリアといえば、フェラーリや仕立ての良いスーツやデザイン性に優れた商品や美食に目が行ってしまう。でもトリュフハンターたちは、私たちと同じように地味で質素な生活をして、自分が好きなトリュフを追い求めることに、生きがいを感じて、歳を重ねている。私は、この『白いトリュフの宿る森』を観て、歳をいつの間にか、とっていることも幸せなことだと痛感した。

 今朝も5時に家を出て、散歩していたら、山を背景に大きな虹が出てきて数分で消えた。川の上にはモヤがかかっていた。ピエモンテの景色に負けないくらい綺麗だった。

 こうして良い情報をもたらして、同じ映画をそれぞれの場所で観る友がいるから、今日も一日歳を重ねられる。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うつむき加減

2022年08月29日 | Weblog

  暑さを避けて、このところ朝5時に家を出て、散歩をしている。

  コロナ感染者数は、世界で日本が今、一番多いとか。いったいいつになったらコロナ前の生活に戻れるのか。先日、妻が銀行行くと言うので、車に乗せて行った。銀行の用事を終えて、銀行の近くの魚屋で買い物を済ませた。駐車場から車を出して、裏道から本通りへ出ようとした。一旦停止の線で止まった。右を見た。車が止まって、運転手が私に向かって、出るよう手で合図してくれた。私は、左を見ることなく、車を発進させた。隣の助手席の妻が「アブナイ」と叫んだ。咄嗟に、私は、ブレーキを踏んだ。車の前に女性が目を大きく開いて、車の直前から飛びのいた。女性は、私を睨みつけて立ち去った。全身から力が抜けた。もしもあの時、ブレーキを踏まなかったら…。もしあの時、ブレーキとアクセルを踏み間違えていたら…。私は、書斎でパソコンを使う時、バランスボールを椅子代わりにしている。先日、座った時、ボールから尻が滑って、床に落ちた。全身と支えようとした手に痛みがあった。テレビを観ていても、アナウンサーやドラマや映画の登場人物が話していることを聴きとれない。妻が話しかけても、聞き取れないことが多い。妻は、都合の悪い時は、聴こえないと言い、自分の悪口は、良く聴こえると言う。

  散歩しながら、最近起こったことを反芻してしまう。人生を否定的に捉えている。だからどうしてもうつむき加減になる。散歩途中、他人とすれ違う時、相手がマスクしていても、下を向いてしまう。先日、いつものようにうつむき加減に道を歩いていた。歩道の上に緑色の虫が5,6匹転がって死んでいた。何なのだろう。何故この数の虫が、ここで死んでいるのだろう。それも全て同じ種類の虫が。立ち止まって考え込んだ。虫は、茶色の柱状のモノの周りに散らばっていた。もしやと思って、見上げた。茶色の柱状のモノは、街灯だった。確か多くの昆虫は、夜、光に集まると習った。光に集まった虫が、力尽きて落下したらしい。うつむき加減で散歩していた。上を見ること、遠くを見ることを避けていた。坂本九の『上を向いて歩こう』を思い出す。そうだ元気出そう。私は、久しぶりに空を見上げた。♪幸わせは雲の上に 幸わせは空の上に 上を向いて歩こう♪ 散歩コースの坂を登り切って、下り坂に向きが変わった。東の空が、赤く染まっていた。美しかった。

  土曜日、妻と一緒に5時過ぎから散歩した。先日、緑色の虫が5,6匹落ちていた同じ場所に、私が大好きなタマムシが落ちていた。すでに無数の蟻が集っていた。私は、タマムシをつまみ上げた。そして息を強く吹きかけて、蟻を飛ばした。妻にティッシュをもらって、丁寧にタマムシを包んだ。私のポケットにその包みを、優しく入れた。妻は、私の行動を不可解という顔をして見ていた。

  家で昆虫図鑑を開いて、緑色の虫を調べた。どうやらアオカナブンらしい。アオカナブンも緑色だ。でもタマムシとは違う。タマムシの美しさは、言葉で言い表せない。諸々の嫌なことも、ひとり静かにタマムシを包んだティッシュを開けて見ていると、別の世界に入り込める。うつむき加減で生きるのをやめよう。コロナになんか負けない。上を向いて歩くぞ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岸田首相コロナ感染

2022年08月25日 | Weblog

8月21日、岸田文雄内閣総理大臣がコロナに感染した。岸田首相は、12日に4回目のワクチン接種を受けたばかりである。日本の首相が、4回目のワクチン接種を受けた直後に感染した。岸田首相は、65歳だ。私より10歳若い。ショックだった。コロナ恐怖症に陥った。コロナの怖いところは、あまりにも得体のしれないことだ。もともと科学的、医学的知識に疎い私である。コロナに関しては、すべて又聞きであり、専門家やお偉いさんたちやマスコミ報道の言いなりだ。4回目のワクチン接種を受けた後、過度な恐怖心が薄らいだ気がしていた。これで少しは、自粛生活に変化が出るのではと期待した。

 日本国の内閣総理大臣は、取り巻きがたくさんいて、あれもこれも周りの者がお膳立てしてくれるのではなかったのか。毎日の予定だって分刻みで、秘書たちによって、管理されているはずである。私のように家の中で、誰にも会うことなく、ポツネンと時間を持て余している者とは違う。今回の岸田首相のコロナ感染は、見方によれば、下がるばかりの支持率の回復させられる絶好の機会だった。

 コロナは、未だに分からない事ばかりである。感染人数ばかりが公表されているが、感染原因や経路の詳細は、発表されていない。内閣総理大臣は、1日の行動が分刻みで管理されている。いつどこで誰に会って何をしたか何を食べたかも、分かっている。もし今回、岸田首相が自らコロナ感染したことを発表した時、いかにして首相自身が感染したのかを、推測でも良いから、言葉にしていたなら…。取り巻きや御用医師御用科学者チームが、懸命に感染の科学的分析を出来ていたなら…。岸田首相は、よく「しっかり」とか「検討する」と口にする。こんな時こそ、それをとことん実行するべきである。体験した人にしか分からないことがある。私は、まだ幸いコロナ感染の経験がない。いつ感染するかと日々脅えている。岸田首相のコロナ感染発表は、更にコロナへの恐怖心を助長させてしまった。

 8月24日午後、岸田首相がオンライン会見をするというので、観た。切なくなった。日本の内閣総理大臣たる者が、あの程度の会見しかできないのか。いったい岸田首相の周りには、どんな人たちが仕えているの?いつものように着ているスーツは、普通に見えた。いけなかったのは、画面の背景である。コロナになって、リモートワークが盛んになった。一般人だって、Zoomを駆使して働いた。私も友人たちと数回Zoomで話し合った。私でさえ、その時、画面の背景に気を使った。岸田首相は、黄色人種である。肌の黄色みがかっている人の背景に、黄色や緑系統の色は、使わないほうが良い。何か具合が悪いのかと疑われる。どう見ても、健康そうに見えない。国を率いる総理大臣が、健康でないと国民に不安を与える。取り巻きは、もっと首相の画面での映り具合などを、細かく配慮すべきだ。おそらく東大卒などの、偏差値ばかり良かった人たちしか、周りにいないのだろう。取り巻きには、スタイリスト、化粧係、映像技術者、舞台美術家、照明プランナーなどを入れるべきだ。

 岸田首相は、出席するはずだった、チュニジアで開催されるアフリカ会議への出席を取りやめた。このことが後々後悔することにならなければいいのだが。国のトップの健康は、歴史を変えることもある。

 24日のオンライン会見において、記者の質問にアフリカ会議欠席の質問がなかった。記者も首相の取り巻きも、学校での成績は、優秀だったかもしれないが、今の仕事に向いていないのでは、と見えた。記者がテレビ画面に録音機を差し出していた。この国は、どうなってしまうのか。心配が尽きない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洋服のAOKI

2022年08月23日 | Weblog

  私がまだ塾を経営していた時、私の仕事着は、スーツだった。そのスーツは、すべて“北忠”という既製スーツ専門店で購入していた。まだスーツの専門店チェーンの“青山”、“AOKI”“はるやま”“コナカ”などがなかった。それらスーツ専門チェーンのさきがけのような店だった。スーツは、仕立て屋で採寸して作ってもらうのが普通の事だった。北忠は、店も大きく、当時品ぞろいが他店を圧倒していた。社長は洋服の行商から始めた苦労人だった。店の奥に事務所があった。会計したり試着するのも、その事務所だった。時々社長と話す機会があった。経理を担当していた奥さんが、お茶を出してくれた。

 社長は、自分が、いかにしてここまでになったのかを話すのが好きだった。話の中に「…長野市…AOKI…」が頻繁に出て来た。私は、当時、長野市のことをあまり知らなかった。北忠の社長は、どうやらAOKIを、自分のライバルとみなしているようだった。「絶対AOKIには負けない」と豪語していた。そしてついに長野市に北忠を出店した。その少し前に私が北忠でスーツを選んでいた時、違う所で接客していた社長が、大きな声で「離婚されたんだって」と私に向かって言った。あまりの無礼さに私は、憤慨した。それ以来北忠でスーツを買うのをやめた。その後、北忠が倒産したことをニュースで知った。一方AOKIは、あれよあれよという間に、全国展開を始めていた。長野発症の事業で全国制覇した数少ない会社となった。

 2022年のオリンピック・パラリンピックでAOKIは、公式スポンサーになり、公式ライセンス商品を販売した。これはAOKIの創業者青木拡憲会長の夢だった。20代に1964年の東京オリンピックの開会式を国立競技場で観た。その時入場行進する選手を見て、いつか自分があの制服を手がけると決意したという。それを実現したのだから凄い。しかし裏があったようだ。自分の夢の実現のために、東京五輪2020の組織委員会の理事に賄賂を渡した容疑がかけられている。

 AOKI、AOKIと騒がれる中、私は、一気に、北忠でスーツを買っていた頃に、引き戻される。AOKIの創業者青木拡憲会長は、当時、まだ長野に初めて店を出した頃であろう。北忠の社長がライバルとして戦いを挑んだ。AOKIは、全国制覇した。北忠は、消えた。AOKIでなく、北忠が全国制覇していたかもしれない。どこでどんな違いが生じたのか。世の中、何が起こるか分からない。戦後、サービス業でも、いくつものジャパンドリームが出現した。北海道の小さな家具店がニトリとなって、いまや大企業である。山口県の衣料品店が、世界に名をはせるユニクロになった。どうしても自分と比べて、首をうなだれてしまう。

 私にも夢があった。実現しなかった。人生を振り返ってみて、清廉潔白だったなんて、間違っても言えない。ただテレビ画面に映る、宗教団体、政治屋、凶悪犯罪の犯人たち、他国を武力で侵略する国やしようとしている国、今まで地球を汚し続けた結果起こった異常気象の影響による世界中で起こる災害などを、一人でポツンと観ている。どうしようもない愚かな人間の悪行の数々。私は、あと何年生きられるか分からない。少しでもテレビ画面の向こうの悪行に関わらないでいたいと願う。一人で留守番しているのが救いかもしれない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すわ一大事

2022年08月19日 | Weblog

  昨日の朝、ベッドで目を覚ますと、隣で寝ている妻が唸っている。すわ一大事。また!以前、救急車を呼んだあの悪夢がよみがえった。妻のおでこに手を当てた。熱い。妻の顏も赤い。「腕が痛い」「頭が痛い」「吐き気がする」私はパニック。「あんたは医者でしょう。俺には何も分からないし、できないよ」と思ったが、苦しむ妻を見ると、何も言えない。「病院、休んだら。電話するから」と言うと、「大丈夫、行ける。こうなるといけないので、カロナールを用意してあるから、それを飲む」と答えた。出勤する直前まで、妻は臥せっていた。朝食は、私ひとりで食べた。時間がきて、私は妻を駅まで送った。

 2日前、妻は、東京駅の近くで東京都がやっているワクチン接種センターで4回目のワクチン接種を受けた。妻は、東京都民ではないが、医療従事者枠で予約できていた。勤務する病院がワクチンの確保ができなかったそうだ。接種後、帰宅したが、その日は何もなく普通に過ごした。翌朝、熱が出て、激しい吐き気におそわれた。

  普段、妻は、自分の最大の取り柄は、健康であることだとのたまう。事実、小中高と皆勤だったそうだ。小中高と、欠席がやたらと多く病弱だった、私とは大違いである。そんな私でも4回目のワクチン接種では、腕が痛くなった程度で済んだ。3回はファイザーで4回目は、モデルナだった。妻は、4回全てファイザーだった。ワクチンに対する知識も理解も私にはない。未知のワクチンが、私たちの体内で、どういう働きをするのかもわからない。分からない事ばかりである。

  18日は一日中、妻に何か起こったらどうしようと心配だった。朝食を摂っていないので、通勤途中、電車の中で低血糖になったら…。暑い陽ざしの中、空腹で熱中症になったら…。患者を診察していて、吐き気に襲われはしないだろうか…。

  それでも、早朝から中継されていた大谷翔平選手が、マリナーズ戦で5打席4安打(内1本が27号ホームラン)4打点の大活躍で気を取り直した。午後には、大阪桐蔭と下関国際との試合で、下関が桐蔭を5対4で勝った。絶対王者とか常勝軍団と呼ばれ、高校生レベルを超え、選手一人ひとりがふてぶてしくさえ見える大阪桐蔭を、ねじ伏せた下関の快挙に溜飲がさがった。妻の心配をしたり、野球で一喜一憂したりの一日だった。

  その日帰宅した妻は、すっかり元気になっていた。患者が途切れた時、コンビニで買ったオニギリを食べたとか。カロナ―ルを3回飲んだけれど、効果がなかったが、ロキソニンを飲んだら、効いて楽になったそうだ。たとえ5回目のワクチン接種があっても、妻はもうワクチンを受けたくないと言った。私は、どんな副作用があろうと、やはり受ける。なぜなら、コロナそのものが、得体のしれない魔物だからである。3密を避けて、マスクをして、ウガイ手洗い鼻うがいだけで、戦える相手ではない。こんな悶々とした日々を、3年も続けている。

  今朝も5時に家を出て散歩できた。セミのしぐれの中、とぼとぼ歩き。セミの鳴き声が、甲子園の応援曲のように聞こえた。妻は、元気に送っていった駅から出勤していった。健康は、宝である。妻も宝である。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲子園 応援席のユニフォーム

2022年08月17日 | Weblog

  コロナ第7波の影響で自粛生活が続いている。散歩と買い物以外は、家にこもっている。そんな生活を可能にしてくれているものがある。テレビのスポーツ中継とYouTubeである。大谷翔平選手が出場するアメリカ大リーグの中継は、コロナ禍にあることを忘れさせてくれる。時差の関係で、早い日は、午前3時頃から、普通はだいたい9時か10時に始まる。加えて甲子園の高校野球が始まっているので、テレビの前に釘付け状態である。

 大谷翔平選手の活躍は、本当に素晴らしい。アメリカで暮らしたことがある日本人は、みな多かれ少なかれ人種差別を経験していると思う。私は、カナダにいたが、アメリカ人の多い学校だったので、差別された経験がある。大谷翔平選手もきっとイチロー選手や松井秀喜選手のようにいろいろな差別を受けているに違いない。しかし結果が全てである。前人未到の投手と打者の2刀流で、活躍している。そして彼の評価は、高まる一方である。コロナへの恐怖、ウクライナへのロシアの侵略、中国の台湾への武力による併合の動きなどを、私から一時的に払拭させてくれる。カナダで受けた差別さえ帳消しにしても良いと思わせる。

 大リーグの中継が終わると、高校野球にチャンネルを替える。かつて大谷翔平選手も春夏2度甲子園に出場している。今年、高校球児の中から大谷翔平選手のような逸材がいるか探すのも楽しい。ただスタンドの出場校の応援席の映像を見ると、物悲しくなる。各校ベンチ入りできる選手は、20名だけである。応援席には、ユニフォーム姿の野球部の部員がいる。例えば大阪桐蔭高校の野球部には、61名の部員がいる。ベンチに20人入れば、スタンドには41名いることになる。私が中学校の野球部に入った時、最初90名くらいいた。団塊世代の走りで、人数は多く、競争が激しかった。時間がたつにつれ、部員は、減っていった。私も2年生で家族に黙って野球部を辞めた。

 先日ネットのニュースでこのスタンドの応援席にいるユニフォームの部員に関する記事を読んだ。ライターの広尾晃さんは「学校の部活が試合に出られない選手を大量に生み出している。こんな光景を美談としているのは日本だけだろう。だから野球離れも止まらない」と書いている。私は、カナダの高校へ留学した時、学校のスポーツチームが、シーズンごとに編成されるのを知って驚いた。クラブ活動でなかった。優秀な選手は、バスケット、フットボール、アイスホッケーと学校代表選手として活躍していた。日本では学校の部に所属して、そのスポーツだけに専念しなければならない。日本のスポーツは、“道”なのである。「一度決めたらどこまでも」が尊ばれる。融通が利かない世界になっている。途中で止めれば、そこで多くの場合、道は絶たれる。

 日本の慣習を改めるのは、難しい。私は、高校野球を3部制にしたらどうかと考える。プロ野球にもサッカーにも1部2部がある。甲子園の高校野球を朝日新聞主催なら、他の主催者が2部3部を設けて、甲子園に登録されなかった部員のチームで闘う。登録されなかった選手は、甲子園のスタンドにいる必要はない。日本に野球場はたくさんある。観客も応援団もいなくても、野球はできる。野球をするために努力したのだから、野球をして部活動を終了させる。もしかしたら、2部3部から大谷級の選手が出てくるかもしれない。多くの才能が、見つけられないまま、日本では、消えていく気がしてならない。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そうめん

2022年08月15日 | Weblog

  『夏休み 昼夜そうめん もうええねん(神奈川 小5)』進研ゼミ小学講座“小学生夏休み川柳2022”優秀作品。

 

 小学5年生の正直な気持ちが伝わる。猛暑日が続き、この小学生の家庭では、昼も夜もそうめん。食べ盛りの小学生が、食傷気味になっている様子が伝わる。私もそうめんが嫌だった。昼夜そうめんということはなかった。そうめんと知ると、食欲が失せた。魚や肉を食べたかった。それは夏だろうと冬だろうと変わらなかった。あたかも成長期には、タンパク質や脂質が必要だと、体が要求しているようでもあった。終戦後に生まれ、食糧事情が悪い中で育った。保育園ではアメリカからの脱脂粉乳を飲んだ。小学生になっても、しばらく学校給食で脱脂粉乳が出ていた。それもいつしか市内にある“上小牛乳”とやらの瓶入りの牛乳に変わった。

 

 そうめんといえば、思い出すことがある。妻の仕事の関係で、海外に長く暮らした。アフリカのセネガルでのことだった。警視庁から出向してきたYさん一家と知り合った。セネガル赴任が決まった時、暑い所なので2年分のそうめんを購入した。引っ越し荷物と一緒に船で任地に送った。その大量のそうめん、なんと半年で食べきったそうだ。暑いと食欲がなくなる。でも何故かそうめんは、するすると胃に入る。赤道が通るセネガル、確かに暑かった。2年分のそうめんを半年で食べきったことは、セネガルの暑さがどれほどYさん一家の食欲を奪っていたかわかる。もしかしたらYさんの息子さんたちも「…そうめん もうええねん」の心境だったかもしれない。

 

 住む町で「そうめん」ののぼりを見つけた。これは珍しい。夏になるとあちこちの食堂の店の前に「冷やしラーメン始めました」ののぼりが立てられている。「…始めました」は、おそらく一時歌謡曲で「冷やしラーメン始めました」が流行ったからであろう。「そうめん」ののぼりを出す店は、見たことがない。「そうめん始めました」では、歌にもならないだろう。そうめんは、地味な存在なのかな。

 

 私も後期高齢者のコキゴロウ(古稀+5歳)である。ずいぶん遠回りしたが、やっとそうめんを欲する年齢になったようだ。猛暑日が続くと食欲がなくなる。妻が出勤していない昼めしは、なおさらである。かと言ってそうめんののぼりがある店へ食べに行こうとは思わない。外食は、コロナのせいでまだ控えている。自分で作るしかない。そうめんを茹でて水にあてる。ツユは、冷蔵庫にある市販のモノ。ミョウガを刻む。器にツユ、氷、ミョウガ。そうめんをツユにくぐらせて口に運ぶ。のど越しが何とも言えない。『夏休み 昼夜そうめん もうええねん』の神奈川の小5の生徒も、そうめんのこの良さが、身に染みてわかる日が来るだろう。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スポーツの力

2022年08月09日 | Weblog

  コロナ第7波の感染者数で、日本は遂に世界で一番多くなってしまった。4回目のワクチン接種を終えたとはいえ、4回接種した人でも感染したとの報告もある。年齢に加えて、基礎疾患をかかえる私は、おとなしく家に籠っているのが最善策と決め込んでいる。今、そんな私を救ってくれているのが、スポーツ中継だ。大相撲名古屋場所は、好きな逸ノ城が優勝した。アメリカの大リーグでの大谷翔平の活躍を観るのも、コロナを忘れさせてくれる時間である。数日前から夏の甲子園高校野球も始まった。テレビの前に陣取る日が続いている。

  ネットのニュースで『MLB】ボールボーイ“命知らず”の大失態が騒動に「即刻クビに」「危険に晒されている」』の見出しに目が留まった。大谷の試合にだけ気を取られているが、大リーグには、30チームがあり、連日試合が行われている。さっそく調べてみた。日本時間8月7日、メッツ隊ブレーブス戦のダブルヘッダーの2試合目の5回に事件が起こった。メッツのマックス・シャーザーが投球モーションに入った瞬間、3塁方向からボールボーイが1塁側に走って、打者捕手審判の後ろを横切った。当然シャーザー投手は、タイムを要求した。記事の文字だけ読んでもこの様子は、よく分からない。ここでYou tubeの出番だ。検索した。あった。凄い。記事に書かれていた光景が、映った。ボールボーイは、メッツのネクストバッターズサークルにあった道具を片付けようとしたらしい。投手の集中力を乱すだけでなく、危険である。暴投やファールのボールが、ボールボーイに直撃するかもしれない。打者に投手が投げたボールが、直撃することを日本ではdead ball(死球)と言う。まさに危険なボールだ。英語では、hit by pitch と言うが、日本のデッドボールの方が言い得て妙だ。

  プロゴルフトーナメントなどで、選手がプレイする時、大勢の観客が周りを取り囲んでいる。会場にいる係員は、ボードで「Quiet Please」(静かに)などと注意喚起している。プロのテニスの試合などでも、選手の集中力を削ぐ行為は、禁止されている。選手を守るのも、観客を守るのも、会場の運営側の大切な仕事である。

  日本時間8日のエンゼルス対マリナーズ戦の3回の表、大谷翔平がバッターズサークルにいたところ、相手の投手のゴンザレスに足をゴンザレスのスパイクで踏みつけられた。大谷は悶絶して痛みを訴えた。テレビ中継だけだと、何が起こったのか分からない。大谷がいくら活躍していても、病気や怪我で出場できなくなることもありうる。You tubeのお陰で、試合後に詳細な画像を観ることができた。大谷は、エンゼルスの走者がホームへ向かおうとしていたのを、呼び込もうと1塁側に回ろうとした。そしてカバーに入ろうとしていたゴンザレスと衝突した。その時ゴンザレスのスパイクが大谷の左足の先に乗ってしまった。私は、ゴンザレスが、大谷に意図的にやったのではと疑った。とにかくマリナーズとエンゼルスは、先日大乱闘をしたばかりなのだ。

  高校野球でも、8日珍しいことが起こった。海星と日本文理の試合の6回、海星の打者が3塁側に打ち上げたファールフライを日本文理の3塁手が追いかけた。ところがボールの落下地点にこともあろうか、日本文理の控え選手が飛び出し、ボールを見上げて衝突。ボールを取れなかった。捕球していたら3アウトでチェンジだった。アメリカ大リーグのボールボーイの大失態と似たケースだと私は思った。しかし日本のネットでは、この件は、ほとんど騒がれなかった。味方の失態とは言え、あまりにもお粗末で低次元な行動だった。日本人は、優しい。良くも悪くも、コロナ禍、スポーツは、私を怒らせたり喜ばせたりして、悪い時間を忘れさせてくれている。戦争も政治も宗教も、できないことだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏祭り

2022年08月04日 | Weblog

  住む町で夏祭りが始まった。コロナで開催が2年間自粛されていたので3年ぶりになる。先日、祭りに合わせて花火大会もあり、花火の破裂音が我が家でも聞くことができた。平常が戻って来た気がする。後期高齢者で基礎疾患を持つ私は、家で自粛を継続中。4回目のワクチン接種を受けたが、祭りや花火大会の人ごみに入り込む勇気はない。各地域が、トラックの上に山車を乗せて町内をまわる。私は、家の窓から通り過ぎる山車を見ている。山車の中では、10人くらいのハッピ姿の笛や太鼓のお囃子隊が、陣取って賑やかに演奏している。

 祭り、特に夏祭りは、暑い夏を人々が乗り切れるかを試すような祭りだ。気弱になった人々に気合を入れるようでもある。私も幼い頃、町内の子供神輿を担いだものだ。汗をかき、苦しかったが、終わった後の達成感は、良く覚えている。大人の神輿を担いだことはない。でも私が子供の頃、大人神輿は、他の町の神輿と、よく喧嘩になった。神輿を担ぐ大人は、けいきづけに酒を飲んでいた。暑さ、酒の酔い、取り巻きのけしかけに、多くの担ぐ大人たちは、手がつけられない無礼講状態になっていた。夏祭りの神輿は、それが当たり前の風潮だった。

 10代後半から暮らしたカナダでも、夏に多くの都市で祭りがあった。カナダの祭りは、パレードが主で、日本の祭りとは、異なっていた。山車のような車両に付けられたステージのような場所に、その町の選ばれて着飾った若い女性が立っていたり、映画や物語から発想を得た主人公や動物に扮した人々が立って手を振った。地元の高校のバンドが、先頭でバトンを大きく振る指揮者に先導されて行進した。一般の人々は、沿道で行進を見守る。形式は違うが、祭りに変わりはないと思った。

 海外勤務した妻に同行して5ヵ国で暮らした。それぞれの国に祭りがあった。夏祭りという特定の祭りに出会うことはなかった。祭りは、宗教色が強かった。異教徒に入り込む余地はなかった。

 コロナの感染者数が、国内で過去最高になっている。また感染者数は、世界最多になったそうだ。にもかかわらず、博多のどんたく港まつり、京都の祇園祭、弘前のねぶた祭、秋田の竿燈祭り、山形の花笠まつりなどが3年ぶりに復活している。3年もの長きにわたるコロナ禍。人々の我慢の限界なのかもしれない。

  それにしても、3年経ってもコロナの正体、コロナの決定的な治療法は、見つかっていない。私は、ペストやコレラ流行の歴史に学んだことをじっと実践するのみだ。ペストやコレラを生き抜けた人々の多くは、城壁に囲まれ、他所から人を入れなかった孤立できた都市国家や村落に住んでいたという。他人との接触を避けて孤立していることが感染を防いだ。コロナ感染が始まって、すでに3年が過ぎた。私の晩年の貴重な3年間の喪失感があまりにも大きい。いろいろ体に問題はあるが、寝込んだり長期入院するほどのことはなかった。75歳を過ぎた今、健康寿命の限界が近いと感じている。

  家の前を通り過ぎるトラックの上の山車に乗る元気な子供や若者を見る。羨ましいほど輝いている。私にもあのような時代があった。夏祭りのお囃子は、ちっとも変っていない。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最低賃金

2022年08月03日 | Weblog

  8月1日厚生労働省の中央最低賃金審議会の小委員会が、全国加重平均で31円(3.3)最低賃金(自給)を引き上げて961円とする目安を発表した。

 

 私は、最低賃金という言葉に強い拒否感を持つ。この制度の意義も目標も知らない。拒否感は、おそらく“最低”という言葉が原因だと思う。私の過去の経験が影響している。テレビのニュースの画面に厚生労働省の小委員会の会議の模様が映っていた。まず私は、この委員全員のこの会議への参加報酬を知りたいと思った。とても961円とは思えない。テレビでニュースを読み上げるアナウンサーやワイドショーの司会者やコメンテーターが、「最低賃金」と口にするたびに違和感を持った。あなたたちの時給はいかほど?現在日本で、どれほどの人が最低賃金で働かなければならないのか。新聞もテレビもラジオもネットのニュースも、私が知りたいことを伝えてくれない。

 

 私は、中学生の時、オープンリールの録音機が欲しくて2年間、新聞配達をした。100軒くらいの配達で月千円くらいだった。ある日、配る新聞を自転車に残して、狭い小路の奥の家に新聞を届けた。帰ってくると自転車が倒れていて、新聞が道路わきのドブに落ちていた。新聞販売店に戻って新しい新聞と交換した。2カ月間配達料がなかった。天引きされたのだ。高校生の時、カナダの高校に転校留学した。1ドル360円の時代だった。夏休みに学校に残って仕事(窓のガラス取り替え、花壇の手入れなど)をすると次年度の学費寮費が免除された。学校が始まっても希望者は、学校内で数時間に限り、時給25セント(当時のレイトで約120円)で働くことができた。外国人で働けるビザのない私には、選択の余地はなかった。

 

 セブンイレブンやマクドナルドやケンタッキーの店に行くと、アルバイト募集の貼り紙を見る。「時給1030円」などと書いてある。中央最低賃金審議会の961円より上だが、決して魅力的な時給ではない。日本の給料は、この20年間上がらないと言われている。デフレが長く続いて、日本の経済力は、下がる一方だった。IT企業の創業者のだれだれの、タレントのだれだれの年収が何億円だ。コロナによる政府の援助金の不正受給で億単位を稼いだ。こんなニュースが、飛び交う中、最低賃金が31円引き上げられて961円になったというニュースが流れる。

 

 私の父は、尋常小学校に2年間しか行かせてもらえず、宇都宮の羊羹屋の丁稚に行かされた。賃金などなく、お盆と正月しか休みがなかった。毎日食べさせてもらえるだけで、朝早くから夜遅くまで働かなければならなかった。最低賃金と聞くと、父の丁稚や私が経験した新聞配達を思い出してしまう。時代は変わらない。人が嫌がる仕事、人が見下す仕事ほど賃金が安い。苦しい生活から、神頼みで宗教に入れば、また別の搾取がある。今の社会が、決して公平で平等だとは、思えない。

 

 アメリカやカナダで見た、チップのある社会を羨ましく思う。残念ながら日本には根付いていない。日本やアジアの国々で、チップには邪な意図が見え隠れしている。若者たちが、将来に夢を持って、安い賃金の職に就いても、正当に働いていれば、チップがもらえる仕組みがあるといい。それができない今の日本には、何か欠けている。国家に頼らず、庶民同士の相互扶助は、見ていて美しい。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする