22日月曜日、浪人していた孫の第一志望の大学の合格発表の日だった。ネットで調べると午前10時に各自にネットで合否が通知されるとあった。もし合格していれば、孫から電話がくるに違いない。そう思いながら漢字パズルを解いていた。しかし全く集中できない。電話器が着信音を発することはなかった。妻は昼休みに職場からメールを入れてくれる。私がちゃんと息をしているか確かめるためらしい。「合格した?」とある。「まだ連絡ない」と返信。その後も妻が帰宅するまで、今か今かと待った。駅に妻を迎えに行った。「何も連絡ないの?」「ない」「大丈夫。受かっているから。彼が浪人するって決めたのは、去年手ごたえがあったからよ」 塾へも浪人もせず国立の医学部に受かった妻の言葉は重い。
夕食を済ませてしばらくすると、電話が鳴った。妻「ほら来たわよ。早く、早く」私は、滑りこむように電話に突進。我が家の電話は常に留守番モード。着信音が鳴り終わって、留守電に変わろうとした瞬間、受話器を取り上げた。「もしもし」「受かったよ」息子の声。「代わるね」 孫「いろいろ応援ありがとう。受かったよ……」 私は言葉が出てこない。離れた場所から「ほら、言った通り…」と妻の声が聞こえた。
孫は中学2年の時、難病指定の病気になった。小学校からずっとサッカーをしていた。小6で中高一貫校に合格。順風満帆に見えたが、一転、入退院を繰り返すようになった。それでもサッカー部を退部することなく、学校に行ける時は、練習に参加していた。高校3年の時、出席日数の不足で卒業ができないと知った。高校の同級生で有名私立高校の校長を務めたN君に相談した。親身になっていろいろ進言してくれ、校長裁量ということもあると言ってくれた。校長裁量で卒業できた。去年は3大学受けて2つに合格していた。私は奇跡だと喜んだ。しかし孫は浪人すると決めた。父親と同じ大学に入って、サッカーを続けると言った。私は浪人するなら、大学に籍を置いて、来年また受けたらと言った。孫は頑として聞きいれなかった。
私は何度も病院へ見舞いに行った。病室は免疫力が低いので無菌室だった。病状が悪化するとステロイドで顔がブドウ色になった。4人部屋の他の3人は小学生で小児がんの患者だった。抗がん剤治療のために3人とも髪の毛が一本もなかった。彼らに「お兄ちゃん」と呼ばれていた。勉強なんてどうでもいい。大学なんて行かなくてもいい。生きていてくれればいい、と私は思った。
コロナ禍、入った予備校もオンライン授業。孫がコロナに感染すれば、免疫力がないので重症化はまぬがれない。家族も気を張り詰めて、見守った。食事も肉や脂肪分など制限が多い。家族がチームのように助け合った。
中学1年生の時、孫は私を訪ねて一人で会いに来た。その時、一緒に近所の蕎麦屋へ行った。彼はカツ丼と蕎麦を注文した。ぺろりと平らげた。頼もしかった。私は昨日、彼の合格祝いと思って、蕎麦屋へ行った。蕎麦を食べながら、この6年間を振り返った。いつもより蕎麦つゆが塩辛く感じた。