団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

出席日数

2021年02月25日 | Weblog

  22日月曜日、浪人していた孫の第一志望の大学の合格発表の日だった。ネットで調べると午前10時に各自にネットで合否が通知されるとあった。もし合格していれば、孫から電話がくるに違いない。そう思いながら漢字パズルを解いていた。しかし全く集中できない。電話器が着信音を発することはなかった。妻は昼休みに職場からメールを入れてくれる。私がちゃんと息をしているか確かめるためらしい。「合格した?」とある。「まだ連絡ない」と返信。その後も妻が帰宅するまで、今か今かと待った。駅に妻を迎えに行った。「何も連絡ないの?」「ない」「大丈夫。受かっているから。彼が浪人するって決めたのは、去年手ごたえがあったからよ」 塾へも浪人もせず国立の医学部に受かった妻の言葉は重い。

 夕食を済ませてしばらくすると、電話が鳴った。妻「ほら来たわよ。早く、早く」私は、滑りこむように電話に突進。我が家の電話は常に留守番モード。着信音が鳴り終わって、留守電に変わろうとした瞬間、受話器を取り上げた。「もしもし」「受かったよ」息子の声。「代わるね」 孫「いろいろ応援ありがとう。受かったよ……」 私は言葉が出てこない。離れた場所から「ほら、言った通り…」と妻の声が聞こえた。

 孫は中学2年の時、難病指定の病気になった。小学校からずっとサッカーをしていた。小6で中高一貫校に合格。順風満帆に見えたが、一転、入退院を繰り返すようになった。それでもサッカー部を退部することなく、学校に行ける時は、練習に参加していた。高校3年の時、出席日数の不足で卒業ができないと知った。高校の同級生で有名私立高校の校長を務めたN君に相談した。親身になっていろいろ進言してくれ、校長裁量ということもあると言ってくれた。校長裁量で卒業できた。去年は3大学受けて2つに合格していた。私は奇跡だと喜んだ。しかし孫は浪人すると決めた。父親と同じ大学に入って、サッカーを続けると言った。私は浪人するなら、大学に籍を置いて、来年また受けたらと言った。孫は頑として聞きいれなかった。

 私は何度も病院へ見舞いに行った。病室は免疫力が低いので無菌室だった。病状が悪化するとステロイドで顔がブドウ色になった。4人部屋の他の3人は小学生で小児がんの患者だった。抗がん剤治療のために3人とも髪の毛が一本もなかった。彼らに「お兄ちゃん」と呼ばれていた。勉強なんてどうでもいい。大学なんて行かなくてもいい。生きていてくれればいい、と私は思った。

 コロナ禍、入った予備校もオンライン授業。孫がコロナに感染すれば、免疫力がないので重症化はまぬがれない。家族も気を張り詰めて、見守った。食事も肉や脂肪分など制限が多い。家族がチームのように助け合った。

 中学1年生の時、孫は私を訪ねて一人で会いに来た。その時、一緒に近所の蕎麦屋へ行った。彼はカツ丼と蕎麦を注文した。ぺろりと平らげた。頼もしかった。私は昨日、彼の合格祝いと思って、蕎麦屋へ行った。蕎麦を食べながら、この6年間を振り返った。いつもより蕎麦つゆが塩辛く感じた。

 


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面倒なこと

2021年02月19日 | Weblog

  高校に入学して初めて科目を選択する経験をした。私は書道が好きだったので迷うことなく選択した。ところが希望者が多いという理由で音楽に決められた。音楽は一番苦手な科目だった。授業は楽しくなかった。

 日本の高校からカナダの高校へ転校した。選択科目が多かった。日本の高校と違って、生徒の希望が100%受け入れられた。まるで総合高校のように多種多様なクラスがあった。車の運転のクラスまであった。希望者がたとえ1人だけでも授業は成立した。

  日本の私が在籍した高校とカナダの高校の違いは、日本では面倒と言われたことを、カナダの学校では、当たり前のように淡々と済まされた。それができるのは、学校運営の合理化が進んでいたからだったと思う。授業でレポートの提出が多かった。そのレポートに対する添削に驚いた。日本のZ会や進研ゼミ(旧福武書店)の通信教育並みの採点と添削がされていた。テストの採点も添削が丁寧だった。日本の高校のテストは、〇と×と点数だけだった。

  日本の学校の教師と生徒の関係は、国内にはびこる官と民の上下関係の延長線上にある。官は面倒なことを嫌う。その分、民は面倒なことを強いられる。1年以上続くコロナ禍で、その弊害が一挙に噴き出した。検疫の強化、保健所の機能強化、PCR検査、病院との連携、ワクチンの入手、ワクチン接種の順番。今まで面倒だと先延ばしされてきた事ばかりである。マイナンバーなど巨額の予算を使って、新しく構築したシステムも危機に対応できていない。

  日本人は、もともと忍耐強く、神経質なくらい良い結果にこだわる。そんな民が官を高級国民にしてしまった。官は、面倒くさいことでも面倒がらずにコツコツやる普通の民のようにならなければ、公務員とは言えない。


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冷蔵庫の中を見れば…

2021年02月17日 | Weblog

 冷凍庫を買った。アイリスオーヤマ社製の60ℓの小さなものだ。2万8千9百3円だった。コロナで気が滅入っていたが、久々の大きな買い物に心躍った。私は買い物が好き、特に大きくて値が張る物がいい。食器洗い器を妻に懇願してきたが、一笑にふされ、却下された。理由は、海外で使った借家備え付けの大型食器洗い器が、どれも食器をキレイに洗えなかったからだ。どんなに日本の製品はきっと違うと言っても、頑として首を縦に振らなかった。

 そもそも冷凍庫が必要になったのは、コロナのせいである。できるだけ買い物で外に出るのを減らさなければと思った。冷蔵庫に付いている冷凍室では小さすぎる。冷凍食品や食材の保存に、念願の便利な引き出し式の冷凍庫を見つけた。海外では大型の業務用ほどの冷凍庫が必要だった。現地で調達できる日本人向きの食材は少ない。どうしても持ち込む食材が多く、冷凍庫は必需品だった。しかし横置きで上を開ける方式だと、下にある食材を取り出すのがひと仕事だった。引き出し式なら楽に出し入れできるに違いないと、食材を探すたびに思ったものだ。しかし日本に戻ると、冷凍庫はほとんど必要がなくなった。毎日生鮮食料品を買いに行けるからだ。でもコロナで外出自粛が請われる現状なので、暇に任せて作る餃子やカレーなどの作り置きがどんどん増えた。肉も魚も冷凍保存している。

 ネットに『冷蔵庫の中を見ればわかる「お金の貯まる家」の特徴』(松崎のり子 消費経済ジャーナリスト)という記事があった。「その人がどんな人か知りたいなら、その人の本箱を見ればよい」とか「あなたが今日食べたものを言えば、あなたがどんな人か当てられる」と聞いたことはある。冷蔵庫の中も本棚も何を食べたかも、あまり他人に知られたくないものだ。裸を見られるように恥ずかしい。お金が貯まるのは、大歓迎なので読んだ。冷蔵庫を貯蔵庫にしない。そのためには「買い物の計画性」「在庫管理」「使い切り」を心掛ける。コロナのない普段の生活でなら、それも有かと思うが、今は、とにかく、どんなことをしても、生き抜かなければならない。現在、我が家の冷蔵庫も冷凍庫も、食料貯蔵庫状態である。

 冷蔵庫、冷凍庫の中を他人に見せられないが、外出自粛は守れている。早く冷蔵庫の中、本棚、食べている物で私が評価される嫌で恥ずかしいと思っていた元の生活に、今は切に戻りたいと思う。

 


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真下を通過する新幹線

2021年02月15日 | Weblog

 妻が休みの日は、一緒に散歩する。先日の休み、天気が良かった。いつものコースを散歩していた。妻が急に「以前、あなたの孫たちを新幹線の列車を見に、あなたが連れて行った場所へ行きたい」と言った。私は、妻に理由は聞かなかった。その場所は急な坂を上がった所にある。私の脚は急な上り坂にめっぽう弱い。自分の脚の重さに腹立たしく感じる。心臓もパクパクする。妻も坂に閉口しているようだった。ようやく高架橋にたどり着けた。

 私は新幹線が好きだ。妻は通勤に新幹線を使っている。私は妻を駅に送る時、よく「いいな、新幹線にいつも乗れて」と言う。妻は新幹線だろうが、車だろうが乗り物に関心がない。「どうして男の人は、車だ、電車だ、オートバイとバカみたいに夢中になるの?」と森元首相のような問題発言をする。その妻が何故か急にこの場所に来たいと言った。新幹線の列車は、短い間隔で運転されているので、たいして待たなくても見ることができる。高架橋の先にはトンネルがある。トンネル内に警報装置があって、列車が近づくと鳴る。するとものの数秒もしないうちに高架橋の下を猛スピードで新幹線の列車が通過する。私は新幹線列車の推進力にぞっこんである。在来線のどの列車もあの力強さはない。世界に誇れる鉄道システムである。

 妻は何本かの新幹線列車の通過を見ていた。いつも通勤で車内に乗っているのと違い、真上から見る新幹線。納得したように「帰ろう」と言った。帰りは楽だ。ずっと下り坂である。通ったこともない路地を抜け、いつもの散歩コースに戻った。太陽の光が、温かかった。

 2月13日午後11時08分、福島沖を震源とする地震が発生した。コロナに地震。いったい日本はどうなってしまうのか。東北新幹線にも被害が出た。全線が復旧するのに10日間前後かかるという。東北大震災の時は、49日かかったという。過去を教訓として、対策が進んでいるのであろう。現場で立ち上がっている人間に、新幹線列車以上の力強さを感じた。コロナにも地震にだって、日本人は、負けないぞ。

 


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スーパーボールと大相撲

2021年02月09日 | Weblog

  高校の同窓生のN君からメールがあった。8日の朝8時からNHKBSでアメリカのスーパーボールの実況放送があると教えてくれた。もう1年以上、毎日テレビではコロナの事ばかり。私もすっかりウツ状態である。大相撲の15日間はコロナの事を忘れさせてくれた。大相撲が終わると、また気がふさぎ込んだ。そんな時、N君は事細かに今回のカンザスシティ・チーフスとタンパベイ・バッカニアーズのチームや選手の情報を書いてくれた。観る気満々になった。持つべきは、良き友である。8時からプリントアウトしたN君の情報を片手に観戦した。

 試合開始前のショーも圧巻だった。N君が紹介していたアマンダ・ゴーマンの詩の朗読も素晴らしかった。詩を聴いて、ウルウルするのは数十年ぶりだった。観ていて思った。これだけのことがアメリカでできるなら、東京オリンピックもできるかも、と幻想を抱いた。

 N君が力を込めて讃えていたタンパベイ・バッカニアーズのクォーターバックの43歳のトム・ブレイディが目の覚めるような絶妙なパスでタッチダウンを決めて得点を重ねた。トム・ブレイディを観ていて、私のカナダの高校時代にタイムスリップしていた。

 カナダの高校の体育の授業で生まれて初めアメリカンフットボールを経験した。クラスにジャック・フィスターがいた。彼はアメリカのモンタナ州出身だった。ハンサムで運動神経抜群。学校でモテル男子は、アメフトのクォーターバックである。体育のアメフトの授業でジャックは日本人の私に丁寧に優しくいろいろ教えてくれた。試合中に何度も私にパスを出してくれた。こんな男ならモテないわけがない。クォーターバックには指導者の素質と運動能力が無ければつとまらない。。防具も無し。そんな試合でパスなど受けたものなら、相手チームの強烈なタックルを受ける。アイスホッケーといい、アメフトといい、集団格闘技である。

 大相撲は個人競技だが、アメフトは相撲取りのような選手がチームで闘う。体格だけではない。頭脳的な組織力、作戦力が不可欠。チームを引っ張るのがクォーターバックである。ラグビーも素晴らしいスポーツだが、アメフトはそれ以上に好きなスポーツである。そいえば、トム・ブレイディは、来日して豪栄道と稽古場で相撲を取ったことがある。アメフトと大相撲にも接点があったのが嬉しい。

 N君のお陰でスーパーボールを楽しむことができた。アメリカには解決しなければならない問題が数多くある。それでも世界を熱狂させるアメフトのような祭典をもやってのけるアメリカ。アメリカにあって、中国にないのは、スポーツ精神と遊び心だと思う。どんなに強くても規則には従い、終われば双方が讃えあう。スーパーボールは、そんな未来の世界の夢を私に見させてくれた。

 

 


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ビルマ

2021年02月05日 | Weblog

  ミャンマーで2月1日に軍事クーデターが起こったとニュースが伝えた。

  私が初めてミャンマーを訪れたのは、妻がネパールで医務官をしていた時だった。ネパールの首都カトマンズに住んでいた。カトマンズは、人口が多く汚染がひどかった。空気は増加する車の排気ガスで汚れ、町にはゴミが溢れていた。年に数回、1週間ほど休みが取れる時は、ネパールを出た。

  以前からミャンマーに行って見たかった。小学生の時に読んだ『ビルマの竪琴』は、私に衝撃与えた。いつか行き、日本人墓地で手を合わせたいと願った。パックツアーが予約できたので8月にミャンマーへ行くことができた。

  日本人戦没者墓地へ行った。ビルマ人(現ミャンマー人)一家が墓地を管理していた。掃除が行き届いていて感心した。妻と静かに頭を垂れ、線香をあげることができた。その後観光する気が起こらなかった。日本人墓地を訪れたことは、大きな喜びになった。

  その後、日本人の親友がミャンマーに転勤した。彼を訪ねて再び数年後にミャンマーの地を訪れた。彼の案内で一度目には、できなかった観光をすることができた。一度目の訪問で疑問に思ったことも、彼が丁寧に答えてくれた。旅先に迎えてくれる友がいる旅行が最高である。

  私の日記にこう書いてある。「農村地帯は平らで、水も豊かで、勤勉なので将来性を感じた。この国は必ず発展すると思う」 あれから25年たった。ここでまた逆戻り。私に政治はわからない。クーデターに何もできるはずもない。しかし信じたい。ミャンマーで案内してくれた親友もすでに鬼籍に入ってしまった。彼ならきっとこう言うだろう。「ビルマの民衆は柔らかそうでも、芯が強い。きっとまた立ち上がる」 私も首を縦に振りたい。


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節分の豆まき

2021年02月03日 | Weblog

「鬼は~外、福は~内」 一戸建ての家と言っても、あまりに父の馬鹿でかい声に家族全員が恥ずかしくて固まっていた。寒いのに家中の戸、窓を開け放った。マスにこぼれる程の炒った大豆を入れ、手でつかんだ豆を叩きつけるように父は撒いた。我が家だけではなかった。あちこちから競うように「鬼は~外、福は~内」とオヤジたちの声が轟いていた。

 今はそんなことはない。昨日2月3日から地球の自転の都合で2月2日になった節分の日、住む集合住宅は静寂に包まれていた。我が家では、南側と北側の窓を少し開け、ささやくような声で私が「鬼は~外、福は~内」とつぶやきながら成城石井で買った豆を撒いた。そして恵方巻を南南東に向かって食べた。いつもなら節分の豆まきは、しない。でも今年は特別だ。今、世界中で新型コロナウイルスという鬼が暴れまわっている。何とか今日までコロナに飲み込まれることなく、やってこられた。ワクチンを接種するまで、生きなくては。そんな想いで祈りを込めて静かに豆を撒いた。父のような豪快な豆まきができなかった。

 父は、渥美清が演じた映画の寅さんのようなところがあった。お人好しで一本気。恥ずかしいという感覚に私とズレがあった。そんな父を恥ずかしいと思ったことが多々ある。今思えば、こちらがそう思ったことを恥ずかしく思う。豆まきをやっても、父は心を込めて、ブレーキを外した大きな声、量と勢いで鬼さえ逃げ出すような豆の投げ方だった。

 私は、父より学歴は上かも知れない。でもそれがかえって邪魔をすることが多い。映画の寅さんを観て、感動するのは、おそらく寅さんに余計なブレーキの持ち合わせがなく、自分の素直な気持ちを言葉にしたり、行動できるからなのかもしれない。ブレーキをかけながらであったが、父の豆まきに負けないくらいの祈りを込めて、妻と一緒に豆をコロナにぶつけた。

 


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ほぼ樺太

2021年02月01日 | Weblog

 ツイッターに「私の北海道」という“ふみQ”さん(@chikenclibmer)の投稿が2020年の12月4日にあった。そこに地図が添えられていた。北海道の北部が「ほぼ樺太」と記されていた。この「ほぼ樺太」の表現が問題になったらしい。私はこの表現を樺太に住んだ者として考えてみた。

 妻がチュニジアの任期が終るころ、次の任地の候補地を家に持ち帰った。私は心臓バイパス手術を受けたばかりだった。できるだけ日本の近くが良いと思った。主治医からも、できるだけ日本の近くにいて、何かあったらすぐ病院へ来られるようにして欲しいと言われていた。任地の候補にサハリン(樺太)があった。私は距離だけ考えて、サハリンが良いのではと言ってしまった。あの距離ならすぐに日本に戻ることができる、と思った。私の頭の中で、ふみQさんと反対の考えが浮かんだ。サハリンは「ほぼ北海道」。後にこの考えがとんでもない間違えだと実際に住んでみてわかった。

 妻の職場の北海道出身者は、「樺太は北海道と地形も気候も良く似ている」と話していた。北海道出身者にとって、気候は大きな問題ではなかったのである。暮らしやすい地中海式気候の温暖なチュニジアからサハリンに来た私たち夫婦にとっては、それこそ魔界の地であった。結局妻は、仕事を辞めて日本に戻ることを決めた。

 ふみQさんが実際に樺太に住んだことがあるのか否かはわからない。ふみQさんが「私の勝手な北海道のイメェジ」と書いている。いろいろな意見があるだろうが、お陰で私はサハリン(樺太)に住んだことがある者としての視点からこの地図を興味深く見ることができた。コロナ禍で自粛生活を続けている。でもサハリン(樺太)の生活を思えば、もう少し我慢できそうである。

 


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