団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

RPBコントロール

2010年10月28日 | Weblog

 毎週水曜日午前11時20分から12時20分まで半年間ルーシーダットン(タイ式ヨガ)を続けてきた。ゆっくりしている運動で体力的にも私に合っていると思っていた。毎月診察を受けている主治医に相談した時、推薦されたのは、このルーシーダットンと太極拳とヨガだった。


 9月最終週の水曜日、いつものようにルーシーダットンのレッスンを受けにジムに行った。レッスンが始まる前に講師が「今日で最期になりました。ぜひ土曜日のレッスンにお越し下さい」と言った。
(私はそんなこと聞いていません。困ります)と思っても言葉に出すことはできない。私は平日会員なので、土日と祭日のレッスンは受けられない。ジムに通うのは、月曜日と水曜日の午前中と決めている。月曜日は太極拳、水曜日のルーシーダットンの代わりの10月からのプログラムは、“RPBコントロール”になっていた。


 初めて“RPBコントロール”に参加した。80名以上が普段20名くらいで行われている会場に溢れていた。それも女性ばかりである。男性は私を含めて3名だけだった。
私は、このような状況にめげない。生まれ育った家庭は、男2人女4人だった。両親を除くと男ひとりに女3人である。それがどれほど男の子にとって過酷な環境であるか、経験のない人には想像もできないだろう。もまれにもまれて子ども時代を過した。私の当時のあだ名は“準内地米”=ジュン泣いちまえ、である。どれほどの涙を流したことか。環境と経験が人を強くする。妻の大使館勤めに配偶者として同行した勤務地で、大使館の婦人会に所属した。そこでも、もまれにもまれ14年あまりを生き抜いた。


 “RPBコントロール”なるものは、骨盤体操の一種である。Rはリラックス。Pは姿勢。Bはバランス。それぞれの英語の頭文字をとってRPBという。一時間のレッスン中、絶え間なく腰を揺すっている。頭を少し後ろに倒して、背骨をピンとさせ、常に腹筋を呼吸することで伸ばしたり縮めたりする。その姿勢を保ちながら骨盤を動かす。多くの女性のようにうまくできない。鏡はみないようにしている。会場に流されている音楽は、なにやらインド風である。過激な運動ではない。しかし、なぜかやたらと汗がよくでる。3回しか参加していないが、最近の血液検査で糖尿病関係の数値が大きく改善されていた。太極拳でもルーシーダットンでも汗をかくことはなかった。もともと汗をあまりかかない体質である。女性講師の見事な筋肉と呼吸の仕方を指導するときの艶のある掛け声に戸惑うが、効果がありそうな実感があり、ひるむことなく続けている。


 人数制限するために毎回最初に並んだ60名限定のクラスになった。それでも押し寄せる熱心な女性たちを見ていると、日本人女性の平均寿命が男性より7、8年も長いことに納得できる。私は、彼女たちより長生きしたいのではない。ただ私は、糖尿病をこれ以上悪化させないためなら、たとえ男ひとりだけになっても、彼女たちの中に留まる覚悟はある。

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母娘

2010年10月25日 | Weblog

 日頃、電車、駅で世相の観察をしている。バスも観察場所のひとつである。私は、バスの一人掛けの席に座るよう心掛けている。二人掛けの窓側に座ると、降りるバス停が終点への半分の距離なので、通路側の乗客に迷惑をかけてしまう。一人掛けに座っていると誰にも迷惑かけずに降りることができる。


 私の家の方面行きのバスは、駅から10分に一本の間隔で出発する。ありがたい。その日JRの改札を出たと同時に、前のバスは発車していった。私は、すぐに配車され、ドアが開いた次に発車するバスの一番前の一人掛けに座ることができた。この10分は、人間観察に良い時間である。一人掛けのこの席は、まるで昔の車掌さんのように乗客の乗り降りを観察できるうってつけの場所である。


 いつものように観察を始めた。発車間際、母親と娘の二人連れが乗り込んできた。二人とも顔が良く似た身なりの良い親子だった。娘は20代半ばぐらい、母親は50代前半とみた。娘がバスのステップを上がろうとしている。小児麻痺か何かの障害を持っているのだろうか。娘の右半身の動作が緩慢だ。装備されている手すりにしっかり左手をかけ体を支えている。左手、左脚に全体重をかけ、不自由な右手、右脚を何とか動かそうとする。たった3段のステップを上がるのもひと仕事である。母は後ろで黙って見ている。娘の脳は確実に手足の動かし方の指令を出している。しかし娘の手足の筋肉が命令に対して、正しく動かないようだ。私の背後の乗客から「何モタモタしているんだ。さっさと乗れよ」の不満の空気を察知した。待てない人が多くなった。せっかちなのだ。“せまい日本、そんなに急いでどこへ行く”と後ろを向いて言いたかった。


 目を母娘に目を戻す。それでも母は、手を貸さない。じっと待っていた。母は、娘に母がいなくなっても、娘がひとりで生活できるようそれだけを願って、今を生きているのかもしれない。いや、きっとそうであるに違いない。娘は上がりきる。


 私の顔全体の筋肉が一気にゆるんだ。母は顔色ひとつ変えずにステップを上がった。そして誰にでもなく頭を小さく下げた。


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「日本人らしくね」

2010年10月20日 | Weblog

 

 電車に乗って隣の駅中にある食料品スーパーへ買い物に出かけた。いつものように家から駅まで歩く。万歩計に約2200歩これで加算される。住んでいるのが坂の町なので家から駅まで歩くのにゆるやかに下るので楽である。気温20度前後とやっと過しやすくなった。日向を歩くと汗ばむ。

 20分で駅に着いた。いつものように7号車の後ろのドアから乗るように4つドアの停車位置に立っていた。グループで出歩くお年寄りがホームに多く電車を待っていた。オシャベリに夢中になっている。駅の構内放送で、これでもかとグリーン車の停車位置、ドアの数を教えている。電車を待つにも要点をとらえずにただ待つ年寄りが多い。この駅に来る電車には、普通車とグリーン車が連結されている。それに電車によって3つドアと4つドアがある。どこで並んで待つかを事前に把握して並べば、問題はない。そのひと手間をかけて、考え行動できないのである。

 職人だった私の父は「職人の命は段取り」とよく言っていた。私も人が生きていくのに“段取り”が必要だとやっとこの歳になって実感している。人間は考える葦である。考えてこそ人間である。駅で仲よさそうに大声で、喋り捲るだけでなく、そのグループの一人でもグリーン車の停車位置だとか、今度来る電車は3つドアなのか4つドアなのか、確かめないのか。電車が入ってきた。今日もグリーン車の停車位置に待っていて、電車が停まって初めて気がつき、慌てて大騒ぎして移動するグループがいた。4つドアの停車位置の記しの埋め込みタイルにいた私を無視して、ドアが開くと横入りの二人連れの年配女性が車内に駆け込んだ。
(嫌だ、嫌だ。見たくないなこんな光景) 内心そう思いながらガラガラの車内、できるだけ二人の女性から遠いところに座った。


 隣町の駅に着いた。ここのエスカレーターは混雑する。乗降人数を考えれば致し方ない。並んで順番にエスカレーターに進んだ。エスカレーターに乗ると後ろから何か押される。後ろを振り向くと、年配女性がなぜか私を押すのだ。どうも急いでいるらしい。押しこくりだった。他人の体に触ることを何とも思わない失礼な人がいる。こうして家から外に出てくると、見たくない知りたくない聞きたくない光景がある。特に最近は年配者が私を不機嫌にする場合が断然多い。

 やっと駅の混雑から逃れて駅前ビルの路地に入った。
路地の中ほどの曲がり角で老婆が二人、立ち話をしていた。(何も通りの真ん中で立ち話することないのに)と思いながら二人を避けた。「日本人なんだから、日本人らしくしないとね」 「日本人」という言葉に耳が立った。思わず、二人を観察してしまう。簡素なうすい青色のワンピースを着た70歳代後半とおぼしきおばあさんが、長袖の白いブラウスとグレイのスラックスの背の低い左肩がずいぶん下がっている80歳は超えているおばあさんに語りかけていた。「私もそれだけ考えて、最期まで生きるつもり」 私の歩く速度にブレーキがかかった。耳をそばだてた。「そうそう その意気その意気。負けちゃだめだよ。今の年寄りはみんなおかしいんだよ。あんなふうになったらお終いよ。日本人らしく生きましょう」

 電車の中、駅で年寄りに毒された私は、この会話を清々しく耳に入れた。他人の話を聴くことは、不本位だったが、二人の会話に興味を覚えた。こんな話ならきちんと聞かせてもらいたかった。「日本人」という、失礼だが、二人には大きすぎると思われる予期せぬ言葉が、私の関心を鷲づかみにした。二人の脇を通り過ぎた。彼女たちが思う「日本人らしく」という日本人に会えたような、そんな穏やかな気持になっていた。心にわだかまったいた年寄りへの反感も、この二人の会話を耳にした後、二人から遠ざかるほどに薄らいでいった。


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チリの鉱山落盤事故

2010年10月15日 | Weblog

「小島建設坂口、逢坂、岡、佐々木の四人。坂口記。爆発と共に四人出口向かったが現在引・・・(かすれて判読不明)・・・岡君、佐々木は一号風洞昇から落ちた様でわからない。坂口と逢坂は此地で元気でいるが、最期の一分・・・・秀世よ、かおるをたのむぞ。母さんを大切にしてくれ。もうだめかも。死ねぬ。絶対に死にたくない、どんなことがあっても」 これは1968年1月20日午後6時15分ごろ、北海道美唄市 美唄炭鉱でガス爆発が起きて生き埋めになった坂口新八郎さん(当時44歳)が書いた遺書である。幸い坂口さんは、22日の午後7時5分、奇跡的に救出された。遺書は爆風で飛び散った天盤の2枚の木片に白墨で書かれていた。坂口さんは、その後もずっと低酸素症という後遺症に悩まされ、事故から25年後に亡くなった。この事故で13人が犠牲になった。私はこの遺書を『日本人の遺書 1858~1997』合田一道著 藤原書店 の中で見つけた。

 私は閉所恐怖症ではないが、酸素の薄いところが苦手である。性格も我慢強くないので、狭くて暗いところに大勢でいなければならない状況に耐えられるとは、到底思えない。チリの鉱山落盤事故で世界が注目する中、奇跡的に33人全員が無事救出された。地下700メートル、湿度90%温度30度以上という悪環境に2ヶ月以上閉じ込められた。災害が起こり、生存が絶望視された。何もできぬままただ祈ることだけが残される。あきらめかけた17日後、救出用に穴を開けていたドリルが地上に引きあげられると、ドリルの先に33名の鉱夫が生存しているという手紙が入れられていた。しかし33人が避難していたのは、地下700メートルである。事故現場の調査が進む。坑道を通っての救助は不可能と判る。悪いことばかりではない。落盤場所は、坑道最先端でなかった。そして落盤箇所からの地下水の噴出もない。チリ政府は敏速に動いた。先のチリの大地震でチリは世界の援助を受け入れ、援助国との外交ルートが力強く機能していた。

 まずアメリカが動いた。宇宙船の打ち上げで、閉鎖された狭い空間での人間の心理的対応、食料、機材、対策本部の運営などのノウハウが伝えられた。鉱山資源開発の先進国であるアメリカは、優れた掘削技術者を中東から呼び戻し、直ちにチリの落盤現場に覇権した。オーストラリアは、フェニックスと命名された救出用カプセルを数器現場に届けた。日本からもNASA御用達の宇宙用抗菌速乾下着、連絡用機器、宇宙食などを届けた。まさに世界最高技術と機器用品が結集された。救出活動が日夜懸命に続けられ、9日に脱出用カプセルの600メートルに及ぶ新しい軌道が貫通した。13日から救出用カプセルを使って、ひとりずつ約22時間の超特急で救出を成し遂げた。暗いニュースが多い中、心が素直に洗われたように清浄になった。

 ただテレビの報道で気になったことがいくつかあった。現地からのレポーターと日本のキャスターが音声に時差を生じていることを頭に入れてないので、会話がチグハグになり、聞きにくかった。各社とも取材内容が似かよっていた。33人の閉じ込められた人々の動向を伝えただけで、掘削に尽力したアメリカ人技師、700メートルの地下の現場に降り、救出に貢献した6人の救助隊員のこと、特にこの6人が33人救助された後、任務を見事完遂して地上に戻った様子、33人の地下でのトイレに関して取材がなかったのが残念だった。やはり日本の報道も金太郎飴のように各社画一的なのだろう。

 1968年の北海道美唄市の炭鉱落盤事故当時とは、隔世の感がある。あらゆる装備、情報、体制、安全への配慮において現代は優っている。しかし今回奇跡的に救出されたチリの33人も、美唄炭鉱で遺書を書いた坂口さんも体験した“地下坑内での恐怖”に相違はない。死に直面してでも、そこで働かなければならない労働者がいる。資源の争奪戦は、これからますます激しさを増し、資源の価格は高くなるばかりである。安全性を高めるための競争もあって欲しい。事故が起こったら救出のために、日本の技術や商品が世界のそれらと結集して、世界の各地で役に立つことを願う。日本の世界貢献への道がはっきり見えてきた気がする。


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黒塗り運転手つき公用車

2010年10月12日 | Weblog

 民主党代表選は菅直人さんの勝利で終わった。早速内閣が改造された。各大臣の首相官邸への呼び込みの中継をテレビで観た。それぞれの新大臣が各省大臣専用車に乗って来る。大臣専用車はすべて国産車である。民主党に政権が変わった後から、大臣専用車にワンボックスカーが増えた。大臣の身辺警護のためと云われているが、できるだけ一般国民を刺激しない配慮が働いていると思われる。それ自体は結構な改善である。日本国の在外公館で大使が好む車は、日本車でなくてドイツ製のベンツである。中には、車などにまったく関心がない大使もいるが、何故か圧倒的にベンツである。外交官の世界は、持ち物、使う車にさえ、外交儀典儀礼規定に従おうとする。役人の定義によく“しゃくし定規”がでてくる。役人独特の序列感覚が現れている一例であろう。

 衆参両院の議員用に配備されている公用車は、現在230台ある。この公用車の稼働率は驚くほど高い。議員の中には、国会議事堂と議員宿舎の2,3分の移動にまで公用車を使うという。車を動かすには、運転手がいる。車を保管する駐車場が必要だ。国会にも宿舎にもあちこちに駐車場が必要とする。この公用車を運転するのは、国会職員つまり国家公務員である。この運転手の給料は、信じられないほどの高給である。

 一般庶民が個人で車を持つと、税金、各種保険代、燃料代、車検代、修理代とその維持費の負担は大きい。公用車である以上、この維持費はすべて税金で賄えられる。そしてこの公用車を使う議員と自前の運転手つき自家用車を持つ議員との間には、歴然とした格の違いがあるという。議員用の公用車の他に両院議長、各委員会委員長、などの役職長にも専用車があてがわれる。かつての自民党総裁には、4台の運転手付きの車があてがわれ、業務ごとに乗り分けた。議員全員に毎月文書交通費100万円が月給とは別に給付される。ここまでくると怒りよりお笑いである。ここまでお手盛りで特権を乱造している。この文書交通費は、2重給付にあたると思われる。選挙区を行き来するJRや航空運賃は、無料である。公用車はタダで許可さえとれば、使い放題である。一体交通費をどう使うというのかわからない。多くの事業が民間に委託された。公用車をハイヤーやタクシーに替えるだけで、どれだけの節約ができることか。

 かつて官庁職員が残業した際、タクシー券を乱用した。国会議員の公用車の使いっぷりをちゃんと見ている官庁職員の心に「いつか俺も」が芽生えるのは、当然なことだろう。天下りするキャリア官僚が欲しがるものの一つは、黒塗り運転手つき乗用車だという。キャリア官僚は、各省の次官をもって上がりとなる。ところが同時入省組はひとりではない。熾烈な競争が続く。やがて行く末が見えてくる。次官への道が閉ざされた官僚は、別の頂点を求め始める。役職には象徴が付随する。

 私も海外に暮らした時、交通事情の悪い地で運転手を雇ったことがある。確かに運転手の運転する車に乗る気分は悪くはない。チュニジアで雇った運転手が運転する車がトラックと激突して、私は大怪我をした。以後あの交通事情の悪い国に住みながらも、無謀にも自分で運転した。私には他人の運転に命を任せるだけの度量も度胸もなかった。私には運転手つきの車は似合わないと悟った。

 かつてあるキャリア官僚に海外旅行するのに自分の金で行ってるようじゃダメだ、と言われたことがある。その感覚にあきれ果てた。飛行機に乗るには、エコノミーよりビジネス、ビジネスよりファーストクラス。官僚は、序列の世界である。役職身分は、実に詳細に区別されている。その階段をいかに早く効果的に駆け上がるかが、官僚の大きな関心事である。自信過剰で肝心な仕事より、それに付随する特権や役職地位や身分に敏感な者がなんと多いことか。

 丸山眞男が「およそ身分的特権のない、「立身出世の平等」が早くから実現された日本で、まさにそれゆえに、地位・肩書きへの羨望と嫉妬が大きいという事情が考えられる」(『自己内対話』)と書いている。政治屋議員は、選挙前に「友愛・平等・清廉潔癖」をお題目のように訴え、当選すると「俺は一般庶民とは違うという己の身分的特権」を享受することを喜ぶ。官僚と天下りが政治屋の後を追う。これはまさに地位・肩書きへの羨望である。私に一点の嫉妬もないと言えば嘘である。しかし、自分の金で車を買い、すべての税金、経費も自前で負担して、なお自分と家族のために車を運転していることに、嫉妬以上に安堵している。


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スズメバチ

2010年10月06日 | Weblog
 私は蜂に刺された記憶がない。妻は私の知る限り、2回刺された。2回目に蜂に刺されると危険である。1回目に刺された時、人間の体の中で感作(生体を抗原に対して感じやすい状態にすること)が起こる。つまり1回目の蜂の一刺しは、2回目の一刺しが有効になるための準備である。妻が2回目、庭に干した洗濯物を取り入れる際に刺された時、右手が野球のキャッチャーミットのように腫れた。痛いと1週間以上苦しんで、仕事にも差し支えた。その時、私は蜂の怖さを十分に学んでいる。

 10月1日、買い物を終え、バス停から家まで川沿いの道を歩いていた。アスファルトの路上に大きなスズメバチを見つけた。(写真参照)弱っているようだったが、まだ生きていた。

 9月中旬、私は家の前の道路のアスファルト上に無数のスズメバチの死体があるのを発見した。あまりの数に驚いた。9月のスズメバチ大量死の再来かとあたりを見回した。他にスズメバチの姿はなかった。今年の猛暑は、人間だけでなく動物、昆虫、植物などにも大きな負担、害を与えたようだ。

 腰を屈めて観察した。驚いた。スズメバチの周りに微小な蟻がたくさんいた。スズメバチが死ぬのを待っている。いや、すでにスズメバチの体に取り付いている蟻もいる。スズメバチがあまりに大きくて、その光景は、ガリバーが横たわっているようだ。そのガリバーの周りで、小人たちが働くように蟻が忙しく動き回る。スズメバチを助けてやろうかと思った程、私はもがき暴れるスズメバチに感情移入していた。思い直した。助からないに違いない。これも自然の食物連鎖の一環である。スズメバチが時々羽を振動させる。

 スズメバチは蜂の中では、最強の蜂である。何かの原因で、力尽きて路上に落ちた。それを蟻に見つかった。偵察中の蟻は、仲間に伝達し、働き蟻が召集された。働き蟻の数は、増える一方である。スズメバチの羽の振動もだんだん弱くなっていく。スズメバチ独特な虎のような黄色と黒の縞模様が目立つ。黒と黄色は、メリハリのある組み合わせだ。自然界で目立つということは、よほど強いと自信があってのことだろう。スズメバチは、見れば見るほど強そうである。その強いスズメバチが死に直面している。それを知って、こんなにも小さな蟻が寄ってたかって巣に運ぼうとしている。益々小蟻の数が増えている。スズメバチ一匹で小蟻百匹分だろうか。

 スズメバチが元気にあたりを威嚇して飛びまわっていた頃、スズメバチと蟻は、お互い、いかなる方法でも相対することは有り得なかっただろう。断崖の地層のような層ごとに異なる超すに超えられぬ生活圏がある。双方、別世界にいた。その境界が取り払われ、スズメバチが蟻の食料として路上に横たわった。無数の蟻によってスズメバチは、解体されて蟻の巣に運ばれ、跡形もなく食べつくされることだろう。私はただ、蟻の食料としてのたんぱく質の固まりである命の自然な結末を、黙って見送ることにした。数分後スズメバチは、私の目の前で、遂に動かなくなった。待っていたように蟻たちの動きが早くなった。私は一つの命を看て取った。いつか来るであろう、私自身の行く末を考えた。

「長野県の飯綱高原でスズメバチに刺され、33人が救急車で病院へ」10月4日の新聞記事を見て、『山の恵み里の恵み』さんを気遣った。飯綱高原といえば、『山の恵み里の恵み』さんの裏庭である。ブログではこのところ頻繁に裏庭にキノコ採りで足を踏み入れている。いくら裏庭といえども、スズメバチは恐ろしい。しかし記事に『山の恵み里の恵み』さんの名前はなかった。『山の恵み里の恵み』さんは10月1日2日と立て続けに飯縄高原へ出かけていた。3日は行っていないことを祈る。サハリンのリンさんは、蜂も蚊をもまったく恐れていなかった。私が蚊に刺されて、あちこち赤く腫らせて掻きむしっていると「あなたは弱いですね。私は蜂でも蚊でも刺されても平気です。気持良いくらいです」と笑っていた。『山の恵み里の恵み』さんもリンさんも、山の中に入るとき、皮膚を極力出さないようにしている。リンさんは、偉そうなことを言ったが、実はきちんと防御していたのである。

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占い

2010年10月01日 | Weblog

 ラジオ番組で、あるプロ野球選手が5億円の家を建て、一回も住むことなく、売りに出したことを面白おかしく取り上げていた。その選手は、ある占い師の言う通りにしているそうだ。家を建てる場所も時期も言われた通りに従った。去年家が出来上がった。しかし占い師に「今年の入居はよくない」と言われ入居しなかった。今年になって、その選手は膝だか肘の故障が続いた。占い師が「あの家が原因なので、売りなさい」と言い、未入居のまま、家は売りに出されたというのだ。

 私たちが今住む集合住宅を購入できたのは、やはり占い師のおかげだった。私たちは、この物件の新聞に掲載された一面広告をロシアのサハリンで見た。私の最初の心臓手術が失敗に終わり、修復手術を神奈川県の葉山の病院で受けた。失意のどん底にいた。そんな私を慰め励ましてくれたのは、医師をはじめ病院スタッフはもちろん、病院の建物、内装、設備、環境だった。最初に手術を受けた病院は、まるでアニマルファームの様相だった。病室は、汚く狭く私は気が滅入るばかりだった。その上、手術は失敗という絶望が私を襲った。葉山の病院では、差額ベッドでない保険適用で、長野の病院と同じ広さの病室にたった4人の患者しかいなかった。4人だけで清潔で快適なトイレ、シャワーを使えた。長野ではワンフロア80人の患者がひとつの風呂、4つの共同便所を使っていた。私がいた大部屋は、本来6人用だったが、来る患者は拒ばない博愛主義で、ベッドを2つ入れ、8人いた。そのうち3人が部屋でトイレをした。このトレイ問題が、一番私の気を滅入らせた。回診の医師が、ベッドの隙間をカニ歩きしていた。

 葉山の病院には、もうひとつおまけがあった。病室から見える景色である。大きく海側に開けられたガラス一面の窓から、相模湾、富士山が見えた。どんな言葉よりこの景色が私を力づけてくれた。この病院を設計建設したのが、サハリンで見つけた新聞一面広告で売り出された集合住宅を設計した故井出共治さんだった。井出さんが設計して建てた家に住みたい。そう強く思った。休暇で日本に帰国した私は、空港から井出さんの事務所に電話してみた。すでに全戸完売されていた。残念だった。あきらめる努力をした。忘れかけたある日、突然、井出さんから電話がかかってきた。「まだあの集合住宅の購入の気持がおありですか?」これぞ天の声と私は「はい」と答えた。何をどうしたのか、どうなったのか覚えていないほどの急転直下のできごとだった。手付金をかき集めて契約に臨んだ。

 そのとき、占い師のおかげで,私たちが
この家を買うことができるようになったことを知った。私たちが占い師に相談したのではない。私たちが買うことになった区画は、売り出した日にローンでなく現金で買うという客に売れた。ところが、その人が購入を断念した。理由は占い師に「あの家を買ってはならない」言われたからだった。家の代金は返された。そして私達に声がかかった。ところが私たちが契約金を払った日、再び前の購入者が井出さんの事務所に現れ、「占い師に反対されたけれど、やはりこの物件はどうしても欲しいので買います」と言ったそうだ。時すでに遅しであった。

 そんなわけで私たちがこの家を買えたのは、占い師のおかげなのである。野球選手の5億円の十何分の一の価格の家のローンを月々支払いながら、この家に満足して住んでいる。私たちには、占い師様々である。占いは信じないが、きっかけを与えられたことを感謝している。妻が海外での仕事を辞めるきっかけにもなった。日本に戻って6年が経つ。この家に満足して終の棲家と念じて住んでいる。何が巡り巡ってどうなるか、わからないものだ。


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