一体いつから日本人は、こんなに風になってしまったのかと考える。越川禮子著『江戸の繁盛しぐさ』日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社刊の中に、“こぶし腰浮かせ”にこう書いてある。「川の渡し場で、乗合舟の客たちが舟が出るのを待っている時、あとから乗ってきた新しい客のために、先客の二、三人は腰の両側にこぶしをついて腰を浮かせ、こぶし一つ分の幅をつめながら、一人分の空間を作る――動作を分解すればこのようになるが、実際はそんなかたちをとらなくても譲り合う気持や気配がちょっとした中腰の姿勢でお互いに察し合えた。新客は先客に礼を言って席をしめる。電車やバスでも新客が持ってきたらこうしたい、しぐさである。一人ふんぞりかえっているのはマナー違反。」バスで私に席を、こぶし一つ分腰を浮かせて、移動してくれた婦人は、この江戸しぐさで答えてくれたのである。まだこのような日本人がいる。嬉しく席に腰をおろし、降りるとき、「ありがとうございました」と挨拶した。婦人はにこやかに頭を下げて答えてくれた。
いつから日本人は、自らが築き上げてきた素晴らしい精神文化を捨て、自分勝手な醜い行動、言動、感情をむき出しにし始めたのだろう。私が思うに、日本が能率、効率、利益、合理化、簡素化の浸透が起こってからだと推測する。バスの車掌を省くことによって、運転手の雇用条件を保ち、改善した。自治体運営のバスの運転手の年収が1200万円を超えるところもあるやに聞いている。この傾向が日本社会全体に拡がった。現在すでに年金を受給している年齢層は、減額されたり受給年齢を繰り延べされたりしたけれども、それでもまだ恵まれた額の支給を受けている。一方弱年齢層が年金受給を受ける年齢になる頃には、年金の機構そのものが崩壊していると警告を発している学者もいる。現在の社会は、すべてこのように分配の方式が壊れてしまっている。ワーキングシェアなる言葉が、去年の経済危機をきっかけに騒がれ始めた。しかし既得権を握った勝ち組が、これをシェア(分配)する気配さえみられない。
バスの中の様子がその象徴的現象である。バスの車掌がいなくなり、乗客に職権で物申す頭上の人物がいなくなった。運転手は、分業意識と自分の既得権の保守を履行し、乗客がどうしていようが関係ない。バスを動かし、止め、乗客の乗降だけに特化して働く。客は自由を得た。本来自由には、その見返りとして規範と自己規制が求められる。ところが自由を得た一般日本人は、その責任を果たしていない。自由を得た者としての未熟さだけが目立っている。多くの自由が制限されていた封建時代の江戸で、民衆の中に“こぶし腰浮かせ”という粋で洗練された精神文化が育っていた。一方、人類が長年願い焦がれた自由と豊かさを手に入れた現代日本人が、その自由の扱いに不自由しているのは、あまりに滑稽な姿ではないだろうか。