団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

江戸しぐさ

2009年05月28日 | Weblog
 東京の病院へ検診に行った帰り、駅からバスに乗った。スイカを読み取り機にあて、通路に立った。席は見事に全て埋まっている。2人掛けの席の通路側に人間が座り、荷物が窓側に置かれている。疲れているけれど立っているしかない、と諦めた。私の目の前の運転手から3番目の席の婦人が、握りこぶし一つ分腰を窓側に移動させた。それを私は、「どうぞ」のしるしと受け止めた。あれだけの乗客の中で、それがただひとつの反応であった。私は「すみません。ありがとう」と礼を述べて座った。

 一体いつから日本人は、こんなに風になってしまったのかと考える。越川禮子著『江戸の繁盛しぐさ』日経ビジネス人文庫 日本経済新聞社刊の中に、“こぶし腰浮かせ”にこう書いてある。「川の渡し場で、乗合舟の客たちが舟が出るのを待っている時、あとから乗ってきた新しい客のために、先客の二、三人は腰の両側にこぶしをついて腰を浮かせ、こぶし一つ分の幅をつめながら、一人分の空間を作る――動作を分解すればこのようになるが、実際はそんなかたちをとらなくても譲り合う気持や気配がちょっとした中腰の姿勢でお互いに察し合えた。新客は先客に礼を言って席をしめる。電車やバスでも新客が持ってきたらこうしたい、しぐさである。一人ふんぞりかえっているのはマナー違反。」バスで私に席を、こぶし一つ分腰を浮かせて、移動してくれた婦人は、この江戸しぐさで答えてくれたのである。まだこのような日本人がいる。嬉しく席に腰をおろし、降りるとき、「ありがとうございました」と挨拶した。婦人はにこやかに頭を下げて答えてくれた。

 いつから日本人は、自らが築き上げてきた素晴らしい精神文化を捨て、自分勝手な醜い行動、言動、感情をむき出しにし始めたのだろう。私が思うに、日本が能率、効率、利益、合理化、簡素化の浸透が起こってからだと推測する。バスの車掌を省くことによって、運転手の雇用条件を保ち、改善した。自治体運営のバスの運転手の年収が1200万円を超えるところもあるやに聞いている。この傾向が日本社会全体に拡がった。現在すでに年金を受給している年齢層は、減額されたり受給年齢を繰り延べされたりしたけれども、それでもまだ恵まれた額の支給を受けている。一方弱年齢層が年金受給を受ける年齢になる頃には、年金の機構そのものが崩壊していると警告を発している学者もいる。現在の社会は、すべてこのように分配の方式が壊れてしまっている。ワーキングシェアなる言葉が、去年の経済危機をきっかけに騒がれ始めた。しかし既得権を握った勝ち組が、これをシェア(分配)する気配さえみられない。

 バスの中の様子がその象徴的現象である。バスの車掌がいなくなり、乗客に職権で物申す頭上の人物がいなくなった。運転手は、分業意識と自分の既得権の保守を履行し、乗客がどうしていようが関係ない。バスを動かし、止め、乗客の乗降だけに特化して働く。客は自由を得た。本来自由には、その見返りとして規範と自己規制が求められる。ところが自由を得た一般日本人は、その責任を果たしていない。自由を得た者としての未熟さだけが目立っている。多くの自由が制限されていた封建時代の江戸で、民衆の中に“こぶし腰浮かせ”という粋で洗練された精神文化が育っていた。一方、人類が長年願い焦がれた自由と豊かさを手に入れた現代日本人が、その自由の扱いに不自由しているのは、あまりに滑稽な姿ではないだろうか。

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カニ

2009年05月25日 | Weblog
 住んでいる集合住宅の玄関ホールで蟹を見つけた。ちょうど金田一秀穂著『人間には使えない 蟹語辞典』ポプラ社刊を読み終わった後だったので、何となく親しい友にあったような嬉しい気分になり、しばらくじっと観察した。

 蟹語辞典の中では、“前向きに考える”という人間語を蟹語で“横向きに考える”と置き換えている。その解説に“意味:一般にカニ界において進むべき方向は横向きということから、物事に対する姿勢が積極的、建設的であるということ。人間の前向き、後ろ向きという観念自体がカニ界においてはナンセンスであり、無為である。カニがそこまで考えているかどうかはさておき、ある意味ポジティブ。どこまでもポジティブ!”とある。

 玄関ホールへは、おそらく床の水抜きの穴から入り込んだのだと思う。このところの雨で裏山の沢から下りて来て、迷い込んだのだろう。五月も中旬になるとこうして多くの蟹が湧くように出てくる。家の前の市道には、車に轢かれたペチャンコの無惨な蟹の死骸が目立ち始めた。こんなところに人間が山を崩してまで集合住宅を建てなければ、人知れずに一生を全うできたはずだろう。自然破壊に罪悪感を持ってしまう。蟹が横向きに歩こうが、前向きに歩こうが構わない。蟹が人間のように精神を持ち、考えることができたり、喜怒哀楽を感じるとは思わない。金田一秀穂氏が人間の言葉を、蟹をはじめ多くの動物に身を置き換えて、書き直しているのが、この辞典の面白みである。

 日本に帰国して5年が経つ。安い料金で海外に住んでいた時ほどゴルフはできない。しかしどんな本でもすぐ手に入れられるこの幸せは、何ごとにもかえがたい。日本では毎年実に多くの本が出版されている。表装のデザインやキャッチコピーに騙され、お金を捨てるような本も多いが、先を読み進むのがモッタイナイと感じられるほどの面白い本もある。日本から離れて住み、そこで日本のことを書いてある本を読むと、想像と過去の体験の思い出だけの世界になってしまった。蟹の本を読んでも、今回のように読んだ直後に、蟹との対面など有り得なかった。こんな小さなできごとでも、私には嬉しくてたまらない。海外での生活は、我慢と耐久の連続であった。その体験が、今の日本での生活を感謝と喜びにしてくれる。やはり喜びは、苦労のあとの報酬なのだろう。

 蟹を見ながら私は、とても満足感を持った。そんなことを知ってか知らずに、蟹は入ってきた水抜きの穴の中へ、横向きに何かを考えながら(?)もぐりこんでいった。 (写真:迷い込んだ蟹)

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夫婦(めおと)鰹

2009年05月19日 | Weblog

 (お詫び:20日分の投稿を入院検査のため19日に差し替えます)

 なにげなく合わせたテレビのチャンネルから田中邦衛の姿が映し出された。彼は76歳になったはずだ。背景は港だった。NHKの『日本紀行』という番組だった。

 田中邦衛は案内人として出演している。その76歳の田中邦衛が紹介したのは、現在93歳の現役カツオ漁師の山中天吉さんだった。あの田中邦衛独特の語り口で、山下さんの年齢を言われると、山下さんがまるで天人のようにきこえるから不思議である。 朴訥に田中邦衛は、山下天吉さんを紹介する。ところは四国高知の土佐清水漁港。朝の4時半山下さんの船が港を出る。船に乗っているのは、山下さんだけではない。妻の山下操さん(89歳)も乗っている。操さんは狭い船室の中から夫天吉さんの一挙手一投足を見つめている。漁場までは小さな天吉さんの船だと3時間もかかる。本来女性を乗せない漁船になぜ女性が乗っているのか。

 山下天吉さんは、8歳の時からカツオ漁を生業としてきた。土佐清水漁港で一番の水揚げを誇ったカツオ漁船の船主だった。70歳で漁船を手放し、住んでいた自宅も息子に譲った。一人乗りの小さな漁船を購入し、年金と一人で行う漁からの売り上げで、操さんと映った2DKの市営住宅で暮らしている。私は、天吉さんのこの二つの決断に、敬意を表する。なかなかできることではない。覚悟のある人間にしかできないことである。多くの権力を持った頂点を極めた人は、いつまでもその権力にしがみつく。特に官僚、政治屋にその傾向がある。天吉さんの身の引き方は見事である。

 夫も立派だが妻の操さんは、もっと凄い。結婚して以後、天吉さんは漁に全身全霊を捧げるかのように働きずくめ。家のことは全くかえりみてくれない。漁で稼ぐお金を次々の新型船につぎ込む。男の車、機械、船などへのロマンという言葉に隠された身勝手である。操さんは、女手ひとつで二人の子どもを育てた。子どもたちは自立した。天吉さんが住んでいた家を子どもに譲り、市営住宅に引越す時も、操さんは抗うことなく天吉さんに決断を任せた。大きな最新型の漁船も売却し、小さなひとりで漁にでるための船にした。操さんは、「何を言っても聞いてくれないから」と言い、ずっと天吉さんの後ろを歩んできた。

 狭い船室から漁をする天吉さんの一部始終を見つめる操さん。カメラは見事にその様子を美しく映し出していた。カメラは、ふたりの想いまで映し出しているようだった。操さんはなぜ船に乗るようになったのか、私は理解に苦しんだ。田中邦衛のナレーションがそれを静かに伝えた。「もし夫に何かあったらと心配になった。そうなってもこの年寄りの女ひとりが助けることなどできるわけがない。そうしたら後を追って海に飛び込むしかない」と操さんの言葉である。天吉さんに好きなことをさせていあげたい。せめて一緒に漁に出て、天吉さんの仕事を見ていたい、と操さんが言う。一緒に旅行をしたこともない。土佐清水から出たこともない。凄い。昔観た『名も無く貧しく美しく』の佐田啓二と高峰秀子の燈台守の夫婦の映画を思い出した。

 天吉さんと操さん、市営住宅に住む。小さな質素な住みかである。懐かしいちゃぶ台で初カツオをふたりで囲む。操さんのカツオを切る包丁もまな板も使い古した年季のはいったものである。海では操さんはじっと天吉さんが働く後姿を眺めていた。陸では買い物に行く操さんを気遣って、天吉さんが自転車で、やはり三輪自転車に乗って後に追う操さんを先導する。スーパーでも操さんの買い物をエスコートに徹して横に添う。健康であることが長生きを支えている。しかし老いは確実に二人に忍び寄る。二人は、毎日をただひたすらに受け入れ生きる。このドキュメンタリーのタイトル『黒潮の海に今二人 老いて深まる夫婦のキズナ』が見事に二人の生き様を言い当てる。素晴らしい。テレビだからこその番組を観させてもらった。私たち夫婦も少しでも天吉さん操さん夫婦を目指したい。


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休日のベランダ

2009年05月15日 | Weblog
 やっとベランダで昼食をとれる陽気になってきた。
 連休初日の5月2日、お昼にスパゲティをつくり、ベランダのテーブルにランチオンマットを敷いて妻と竹林、裏山を眺めながら食べた。 先日ベランダのスノコを掃除し雑巾がけをした。スノコに細かな黄色っぽい砂が溜まっていた。杉の花粉なのか中国から飛んできた黄砂なのかは判らない。今までに見たことのない現象だ。去年の秋、思い切ってベランダの桟とスノコに防腐剤を塗りなおした。

 アメリカやカナダでは、夏休みに家族総出で家のペンキ塗りをする光景を目にした。家の売買を躊躇なくする人々なので、普段の手入れを良くしておけば、高く売れる。今度のサブプライム問題が、家のメンテナンスにどのような影響を与えるのだろうか。アメリカの不動産価格は、下がる一方であるが、多くの普通の人々はこれからもこまめに家を修理し手入れは怠らないに違いない。

 私もできるだけ家の手入れを続け、この家を快適に住める環境にしようと思う。売ることはまずないと願うが、この家が終の棲家になることを願っている。(写真:ベランダ)

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宮武東洋

2009年05月12日 | Weblog
 写真家宮武東洋の写真展が川崎市民ミュージアムで開催されていると知り、行って来た。会場の川崎市民ミュージアムは、素晴らしいハコモノだった。しかしこの写真展の会場に観客は、私以外ひとりもいなかった。係員さえいなかった。いくら入場料がタダでも、これだけの貴重な写真資料が人の目に触れないのはさみしい。

 日本国の第二次世界大戦開戦と敗戦が、国内だけでなく海外に住む日本人、日系人にも大きな悲しみをもたらした。日本国内とはまた違った苦難であった。カナダとアメリカの西部に住む日本人日系人は、収容所に強制的に入れられた。宮武東洋もその一人であった。その悲しい事実を宮武東洋は、手製のカメラで克明に記録したのである。収容所へ持込を許されたのは、一人にスーツケース2個だけだった。もちろん収容所内で日系人や日本人が写真を撮ることなど許されるはずは、無かった。ではなぜ宮武は、この写真を撮ることができたのか。偶然が偶然を呼んだとしか言えない。

 アメリカ人全てが日本人と日系人を強制的に収容所に隔離することを歓迎したわけではない。宮武が収容されたカルフォルニア州マンザナ収容所の所長はそういう一人であった。所長は宮武が写真を撮ることを許可はしなかったが、禁止しなかった。宮武は、レンズと少しの乾板を持ち込んだ。収容されていた大工が宮武のために切れ端の板を集めてレンズに合わせてカメラ本体を作ってくれた。乾板を使い切ると、収容所に出入りしていたアメリカ人で宮武に協力する者があらわれ、乾板を密かに持ち込んでくれた。こうして5年近く宮武は収容所の記録を写真に収めることができた。

 東京恵比寿にある東京都写真美術館ホールで宮武のドキュメンタリー映画『東洋宮武が覗いた時代』が上映されている。(前売り1200円当日1800円)アメリカの日本人や日系人が収容所でどのような生活を送ったのかを知るよい手がかりになる。映画の中でアメリカハワイ州選出の上院議員、ダニエル・イノウエの談話が私に強烈な印象を与えた。アメリカに住んでいたアメリカの市民権を持つ日系人の若者が志願して軍隊に入隊した。有名な442連隊は、敵性外国人とされたハワイの日系人を中心に編成された。もっとも戦死者を多く出し、目覚しい戦績をあげた。日系人の若者たちは“アメリカに忠誠を示そう”と参戦した。ダニエル・イノウエもその一人である。そのイノウエが「戦争は人間を変えてしまう。命令もされないのに、敵を倒すことに喜びさえ感じる自分になっていた」正直で率直な告白だと思う。以前日本軍のパイロットだったキリスト教の牧師の話を聞いた。彼は中国で刀で人の首を切り落としたと言う。あの当時、何の罪悪感も持たず、殺すことに快感を覚えたほどの自分の罪深さが、自分の心から消えることがない、と苦しそうに言った。私の父も徴兵され満州へ行った。父は何も私に話す事はなかった。言いたくないというより息子にさえ言えないことをしていたのだろう。

 戦争に良いことなどない。過去に学び、過ちを繰り返さないことを願う。なぜアメリカで私たちと同じ人種が、差別され不当な処遇を受けなければならなかったのか。日本と同盟を結び連合軍に敵対したドイツ人、イタリア人が、アメリカで何の拘束も受けなかったのか。映画も写真展も実に多くのメッセージを発信している。

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新型インフルエンザと病院船

2009年05月07日 | Weblog
 メキシコから始まった新型インフルエンザが世界に広まっている。現時点でまだ確認されてはいないが横浜の修学旅行でカナダに行った高校生が、病院に隔離されている。マスコミは第一号患者をスクープしようと躍起になっている。

 以前、私は、日本が病院船を持つことを提案した。造船は日本のお家芸といわれるほど高い造船技術と優れた実績を持っている。加えて半導体製造や精密機械製造で蓄積した製造現場での空気圧制御や微小な粉塵やウイルス、病原菌の侵入を防ぐ滅菌殺菌の技術もある。医者、看護師、薬剤師、医療技術者の水準も高い。自衛隊は本来専守防衛の目的で設立維持されてきた。最近憲法改正の動きもある。日本は平和憲法を持つ国である。わき目をふらず、世界平和に貢献することこそ、地球上で唯一の被爆国の日本の反省であり補償たりうる。

 30数年前、現首相麻生太郎氏を団長とする日本青年会議所のアジア青年の船コーラルプリンセス号が、香港、マニラを経由して横浜に帰国した。私は団長秘書として乗り込んでいた。ところが、検疫でコレラの疑いのある参加者が見つかった。港での客船の検疫は、入港する以前に船に検疫官が乗り込んできて行う。まさに水際作戦である。船の中は騒然とした。船は港に入ることができず、沖に留め置きとなった。取材のためのヘリコプターが何機も上空を飛び交った。

 今回の新型インフルエンザ問題で日本政府は、『新型インフルエンザ対策本部』を首相官邸に設置した。本部長は麻生太郎首相である。陣頭指揮する麻生首相を見ていて、横浜港でのコレラ騒ぎを思い出した。当時も麻生団長は手際よく指揮していた。船内電話で麻生団長の人脈を駆使して情報収集した。その情報を不安がる800名を超すアジア14か国から集まっていた青年の船の参加者に伝達し統率した。まだ麻生太郎氏は国会議員になる前のことだった。結局精密検査でコレラの疑いが晴れ、4時間留め置き検疫後に全員無事下船することができた。当初全員が船に乗ったまま、コレラ感染の水際対策として隔離されるはずだった。麻生首相があのコレラ事件と同じように、見事に采配を揮い、早い時期に終結宣言が出されることを望む。

 検疫とは英語でquarantineと言う。このquarantはイタリア語で40の意味である。昔、船内で伝染病患者がでると、その船は港外で40日留め置きされていた。この処置から検疫にあたる言葉ができた。人類は、過去に幾度のなく伝染病によって多くの犠牲を出し、そのたびに学び、どういう対応を取ればよいのかという知識を蓄積してきた。もちろん飛行機という交通手段のなかった時代だからこそ取れた処置だった。

 伝染病の最大の防疫は、発病した人との接触を避けることだという。人との接触なくして現代の社会生活は、維持できない。この連休で多くの日本人が海外へ出かけた。連休後半の帰国ラッシュでの各国際空港の検疫は、パニックである。感染症に対応できる特別仕様の最先端医療設備を持つ病院船を持っていれば、一旦そこに感染の疑いのある人を収容し、経過を看ることができる。救急車や患者輸送のヘリコプターも病院船に備えておけばよい。今回、横浜のカナダへ研修旅行に参加した高校生が、新型インフルエンザに罹患した疑いで病院に収容された。陸上の病院には、他の患者も治療診療を受けるために来院する。病院側も患者もパニック気味な反応を示していた。特別な病院船を日本が所有していれば、患者もしくは疑いのある人を船に隔離して検査治療に専念できる。またこれから発生が懸念されている未知の伝染病対策としても役に立つに違いない。

 海賊船対策で武器使用の是非を問うことも重要だと思う。ここで日本国として、病院船による世界への平和貢献を一歩踏み出して、探ってみるべき時期がきていると私は思う。今回の定額給付金の2兆円は、無かったとしてもほとんどの人々の生活にさしたる変化はなかったと思う。これだけの国策を実行した麻生首相に病院船を実現してもらいたいものである。最初の2隻の病院船の名前は、“ひろしま”と“ながさき”を提案したい。

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