団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

視力

2012年11月30日 | Weblog

  鎌倉で月一回開かれる学習会に29日木曜日に参加した。普段は最終水曜日に開かれるが、今回は木曜日に変更された。会場は鎌倉八幡宮に近い個人の家の敷地内に建つ習い事用の建物である。ここではいろいろな習い事や勉強会が開かれているらしい。午前10時に始まって12時までの2時間が私を含めて7人の勉強会に割り当てられた時間だった。私と同様思い込みで日々を過している方が多いらしい。会の最中、入り口を開けて顔をのぞかせたのが二人、ガラス戸に影が映って、入り口のドアの前を行ったり来たりしてドアの前で立ち止まり、耳をかたむけ、中の様子をうかがっていたのが三人はいた。おそらく彼らの会も曜日変更されたに違いない。

  私も予定や約束をメモ帳やカレンダーに書き込むように努めているが、書き込んでもどこに書き込んだか分らなくなる。そして「今日は、この時間は」予定の、約束なのかと、いつもビクビクしている。携帯電話には予定を管理する機能があるそうだが、使ったことがない。もとい、私にはその機能を使いこなす技量がない。携帯がほとんど不携帯だと妻からも揶揄されている。私の老化もおかげ様で順調にすすんでいる。

  今回の会で、休憩の時間だったか勉強会の間であったかも忘れたが、E氏が言ったことに感心した。「解ったんですよ。やっと突き止めたんです。その原因を」 優れた小説のように冒頭から読者、視聴者の関心を惹きこむのがE氏の話法の上手さだ。私は「何を突き止めたのですか?」と完全にE氏の術にはまっていた。「視力検査をするたびに褒められる。そのお歳でどうしてこんなに視力がいいのかと。自分でも不思議だったんですよ。解りましたよ。原因が」 ここで再びE氏は音楽家のように休止符を打つ。私は「早く教えてくれ」と彼の思う壺。「歳を重ねるごとに、検査をするたびに視力がよくなるんです」「その部分は解りました。教えてくださいな。答を」 私は気が短い。答が知りたい。

  「パソコンですよ」 私は即、理解できず「パソコン」と頭で繰り返す。「私と同じくまったくパソコンを使わない連中も皆、目が良いんです」 納得。つい最近、妻がこんな事を言った。「これから先、眼科医と耳鼻科医は忙しくなる。これほど皆がパソコンやスマートフォン、i-podを長時間使い続けていれば目も耳も悪くなる」 E氏がまさにこの説の証人ではないか。E氏は家の固定電話をダイヤル式からプッシュフォンにしたのは、つい最近だった。モノを大事に使い礼儀作法を重んじる古風なところもあるが、オシャレで服装、カバンなどの持ち物にこだわりを持つ。時々あまりの頑固さや考え方が古い、特に男女の生き方において私と相容れないことを感じる。それでも私は彼を尊敬する。時代の流れに逆らって生きる爽やかさに好感が持てる。E氏のように一つでもよいから信念を貫いて生きたい。

  今日11月30日が応募締め切りの原稿用紙80枚約3万字の小説を書き上げた。推敲と校正を繰り返している。私はパソコンの画面を見続け、目は充血してショボショボしている。眼科医から「あまり効きませんが」と処方してもらった目薬を30分に一回点す。目を痛めつけ、視力を犠牲にする程の意義があるかどうか分らないが書くしかない。


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分捕り

2012年11月28日 | Weblog

 国家の領土も個人の土地所有も、もとは分捕りであったと思われる。人類が定住して、農業で食料を確保できるようになる前、狩猟をしながら広大な自然の中を転々としていた原始古代にも、おそらく人間も動物と同じく生活のため子孫を継承するためのある意味での縄張りを持ったに違いない。人間の歴史は縄張りの分捕り合戦の繰り返しである。

 1997年から2000年までの3年間旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードに住んだ。旧ユーゴスラビアは内戦を経て、すでにスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツゴビナが分離独立していた。私たちがベオグラードに住んでいたのは、ちょうどコソボ紛争が悪化してNATO軍がベオグラードなど今のセルビアの主要都市や軍事施設を空爆をした時と重なる。コソボはもともとセルビアの一部であった。そこへ欧州で最も貧しいアルバニアから難民のように国境を超えアルバニア人が移り住んできた。東ヨーロッパの国々にはロマ人(以前ジプシーと呼ばれていた)が多く住んでいる。社会主義だったこともあって、人種問題に寛容というか人間は平等という理想を掲げていた。一定の理解が成りたっていた。コソボのセルビア人もアルバニアから逃げ込んだ人々をロマ人と同じにしか受け止めていなかった。やがてアルバニア系の人口がセルビア人の人口を上回るようになった。軒先を貸して母屋を奪われたのである。やっと危機を認知したセルビア人がコソボを取り戻そうとした。それが民族浄化とか虐待として世論、特に欧米諸国で問題視された。NATOとアメリカ軍の後ろ盾でコソボは独立国家となった。

 国際法も一国の憲法も国境と領土問題に決着をつけることはできない。分捕るか分捕られるかのどちらかである。世界の警察を標榜するアメリカ合衆国は、もともとはインディアンが住む土地だった。原住民であるインディアンは、国家という形態を持たず、ただ部族という単位だけで縄張りを持って移動して暮らしていた。もちろん文字も確立されておらず、西洋諸国のように条文化された憲法も土地の権利書もなかった。野蛮だから、法律がないからの理由で先住民としての優先的権利はすべて無視され武力で制圧された。南米の先住民も同じ道をたどった。インカ帝国は国家であったにも関わらず、スペインの力による分捕りであった。現在でもインディアンの土地奪回の裁判はことごとく棄却されている。この裁判でインディアン側が勝訴すれば、世界の境界線は、総崩れになるであろう。

 日本が抱える領土問題、北方領土、竹島、尖閣も分捕りの様相をあらわにしている。日本は島国である。地続きの国境では日々緊張が張り詰めるが、海に守られるように他国から分離して浮かぶ島々の住民は、海に守られていると、いたって国境に無用心でスキだらけである。中国は第18回中国共産党大会で胡錦濤国家主席が「海洋権益を断固守る」と強調した。

  日本では教育の成果で金持ち喧嘩せずではないが、学校での成績とどの学校を卒業しどの試験にどういう順位で合格したかで階級を登りつめた超エリートの数ばかりが、国家の中枢の中で増大した。叱られたことがない、肉弾戦の喧嘩をしたことがない、飢えたことがない、お金に困ったことがない、差別されたことがない。ずっと自分が成績上位でいることができた。歯向かう奴がいなかった。いつの間にか「断固として」が外国に対して言えない行動できない国になってしまった。一方で国民の税金と次世代次々世代が納めるであろう税金まで、悪知恵の限りを絞って先取りして、分捕っているのである。嘘を重ね詐欺のような身勝手な分捕りが大手をふるって横行している。修復不能の惨状に思えてしかたがない。人間の中に潜む悪が善を圧倒している。

 衆議院議員選挙という票の分捕り合戦がもうすぐ始まる。正義が不義に分捕られないよう、有権者が目覚め、定め、一票の不義への抵抗を果たしてくれることを切に願う。


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結婚の誓い

2012年11月26日 | Weblog

『新郎__、あなたは
新婦__が
病めるときも、健やかなるときも
愛を持って、生涯
支えあう事を誓いますか?

新婦__、あなたは
新郎__が
病めるときも、健やかなるときも
愛を持って、生涯
支えあう事を誓いますか?』

  一回目の結婚は上の誓いから始まったが10年もたずに破綻した。『生涯』『愛』『誓う』という文言が、それ以来トラウマになり重圧を感じた。再婚して20年を迎えた。思えば歳の差婚で、「病めるときも、健やかな時も」の条項に違反が多い。私ばかり大病して妻に一方的に苦労をかけ、ささえてもらってきた。

  日曜日の朝、妻の様子がいつもと違っていた。妻は自分で血圧計を出して最悪の手際で計った。「60しかない」と言った。普段、私の血圧を計るついでに、妻も血圧を計る。私と同じでだいたい80-110台である。私は11年前の心臓手術の際、手術室で麻酔をかける直前、血圧が40まで下がったことがある。ほとんど意識が途切れる寸前だった。私は医学的な知識を持たない。妻は医者である。医者が病気で素人が脇にいる状態に、私は本当に困った。戸惑い、言葉にも行動にも制約がかかる。顔色が土色というか血の気がないような感じだった。小心者の私はオロオロするばかり。

  「手と足が冷たく寒い」と言い出した。最近私は老化現象か足が冷える。それでもかつては妻の湯タンポとして役にたっていた時期もあった。私はベッドに入り体を投げ出した。妻は手と足を私の体に密着させた。さすが元湯タンポ、まもなく妻は顔にうっすら血の気が戻ってきた。途中湯タンポは、新聞を取りに行き、ベッドの中で湯タンポとして静かに新聞を読んでいる振りをしていた。読めないのである。心中穏やかならず。20年間妻はほとんど病気という病気をしたことがない。「健康だけが私の取得」とよく言う。その妻が寒いと言って、体をケイレンさせるように震える姿を見ても私はどうしていいのかわからない。「救急車を呼ぶ?」「大丈夫」「車を運転するから、病院へ行こう」「大丈夫。脱水症状だから。水を飲んだから、もうしばらく休んでいれば治るから。温めて」

 前の日の土曜日、たくさんの友人を招いた。12時から4時まで妻は、好きな酒に口をつけなかった。酒に飲まれてしまう方なので、酔うと接待どころの話でなくなる。とにかく立派に裏方に徹して、無事客が満足して帰って行った。もともと積極的に人と関わるのが苦手なので相当無理をしたに違いない。私もご苦労さんの気持で一緒に会の成功を祝って、5時頃から飲み始めた。人間、何事も極端に我慢してはいけない。自然体が一番。極度の緊張から解放された妻は、酔いつぶれ最後にベッドに倒れこんで寝てしまった。私はひとりで後片付けを終らせた。それから書斎で今月30日が応募締め切りの書きモノを推敲した。寝たのは午前2時近かった。 

 私は自分で好きなことをして毎日ほとんどひとり家にこもって生活している。妻は毎日、勤務医として、遠距離通勤して多くの患者に向かい合って、患者の健康に関する心配や恐怖の負担を軽くするために奮闘している。生命を預かる重責を感じている。不眠症は医者になってから常に抱えてきた大きな問題だった。それを救ってくれたのが酒である。酒が入ると少し眠ることができる。私は少量の酒を飲むだけですぐ酔い、眠くなってしまう。妻は、適度に飲んでいると問題ないのだが、悪酔いすると日頃の鬱憤をだれかれになくぶつけ始める。そんな時、腹がたち、怒り、愚痴る。『病めるときも、健やかなるときも』は『酔ったときも、素面なときも』でなければいけない、と頭では思う。私にだって欠点はたくさんある。完全な理想的人間なんているわけがない。酒は適度に飲めば百薬の長、度がすぎれば毒になる。家で飲んでいれば、私たち二人きりなので、問題は起こらない。日頃、外で飲むことをできるだけしないようにしている。その分、妻を理解して寛容な客を家に招く。

 だんだん二人とも歳を取ってきた。介護の話題も多くなった。どちらかが病気になれば、もう片方が支えるということは、頭では理解できている積もりだ。心準備もできていたつもりだ。しかし日曜日の朝のようなことが起こると、途端に私は怖気づいてしまう。今まで妻が病気で今回のような状態になったことがなかった。私は、結婚式で2回も誓っても、まだ覚悟もなく実践もできないでいる。情けない。せめて“生涯”湯タンポとしてもう少し役に立てれればと願うばかりである。


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漢字

2012年11月22日 | Weblog

  乞食鶏という料理がある。中国発祥の鶏料理のひとつだ。ただならぬ名前に食欲を失いそうになる。日本の中華料理店でもメニューに載せている店がある。一羽丸ごとの鶏の料理で2万円はする。起源にまつわる話はたくさんあるが、要は下味を付けた鶏の腹に詰め物をして、ハスの葉でくるんで、それをこねた土で全体を覆い、オーブンで3時間くらい焼いた料理だ。テーブルにそのまま出してハンマーなどで割って供するため、結婚式のケーキカットのように、主賓に割ってもらい、祝いの席を盛り上げられる。

 その乞食鶏で週末に我が家にワイン会の集る友人の中で今年退職したとか孫が誕生した友を皆で祝おうと考えた。私は料理に関しても素人である。すでに20年という主夫の経験から、味は演出で隠せることを知ってしまった。

  材料の調達を始めた。最近はパソコンのインターネットで家にいて簡単に買い物ができる。ハスの葉もすぐ買えると思った。しかしどこのネット販売でも「この商品の取り扱いはございません」の表示しか出なかった。これであきらめないのが、私の強みであり弱みだ。最後の頼みは、横浜の中華街にある食料品店だと昨日出かけた。東京のデパートで住む町では調達できない他の食材を買った。すでにリュックと手提げの買い物袋は満杯だった。横浜駅でコインロッカーを見つけ、預けていこうと思ったが、重い荷物を持ったまま、広大な駅構内をさがす気にならず、そのまま戦後のヤミの担ぎ屋のような格好で東急東横線で「元町・中華街」駅まで行った。そこでやっとコインロッカーを見つけ、重い2個の荷物を入れることができた。

  中華街は尖閣問題の影響か人出がなかった。すでに何回も食材を求めて来ているので店を何軒か知っている。「ありません」「もう置いてないよ」「ハスの葉なんて日本人だれも買わないよ」と3軒で言われた。4軒目の中華街のはずれの小さな店でやっと見つけた。探していた品物を見つけた喜びは、クセになるらしい。私にその性癖があるらしく、妻に「こだわり過ぎる」と指摘されることが多い。

  ハスの葉を見つけて高揚している私に店番をしていた中年のおばさんが「お兄さん、この字何という漢字。たくさん買ってあちこち送る言ったので、私親切して、送り主の名前と住所は一番上の一枚だけ大丈夫。私書きます言ったの。でもこの字分からないから書けません。困った困った」と宅急便の送付伝票を突きつけた。明らかに女性は、中国の方である。中国人が私に漢字の事を尋ねるか、と疑問に思ったが「お兄さん」の呼びかけが私の気持を動かした。伝票を手にとって目に近づけた。「うっ、何だこれ」 漢字は崩れていて、顕微鏡で覗いたO―157の大腸菌のように散らばっていた。私はカバンから老眼鏡を出して更に目を皿にして解読しようと試みた。まあ、よくここまで字を崩したものだ。感じとしては、『優』「に近い。ニンベンの横の百に似た部分が大腸菌のように散乱していてまったく読めない。「日本の漢字むつかしい。中国漢字簡単」女性がレジの向こうで言う。私はあせる。これは日中問題だ。読み明かしてここで日本人の実力を見せなければ。しまいには大腸菌が生きているように見えてきた。そこに日本人の若いカップルがレジで清算するために私の後に並んだ。中国人女性は、私の手から伝票を取り戻し、今度は、若い女性に「貴女、これ読めますか?」と渡した。「優かな」とこれまた自信なさそう。店の女性が諦めた。「ありがとね。ハイ、ハスの葉380円です。でも助けてくれたから、20円オマケして360円」

  あの漢字を解読できなかったことが、ハスの葉を発見して入手できた喜びをすっかり消してしまった。思い出すことさえできないあの字が、帰りの電車の中、ずっと私の脳裡で大腸菌O-157のようにのたうちまわっていた。人の名前は大切だ。あの中国人女性がどうこの問題を解決したのだろうか。私なら、電話番号が書いてあったので、客に電話して事情を話して、確認して正しい送り主の名前を書いて商品を送る。尖閣の領土問題は、確かに難しい問題だ。中国から伝来した漢字だが、すでにこれだけ形も意味も変化してしまった。もつれた問題も直接額をつき合わせて、お互い納得するまで喧々諤々話し合うしかない。放っておけば、O-157の大腸菌のように、お互いの誤解と妄想を増大させ、ついには最悪の事態を引き起こしかねない。

  乞食鶏をハスの葉で包みながら、私は、いつか乞食鶏をひとつのハンマーを両国首脳が握ってテーブルの上で割って、両国の友好を祝える日が再び来ることを願わずにはいられなかった。あの中華街の中国人女性も私のこの願いにきっと「私もそう思うよ」と賛成してくれる気がする。


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白熱電球交換

2012年11月20日 | Weblog

 テレビの夕方のニュース番組で、自転車の無灯火の危険についての特集を観た。テレビ局の記者が、無灯火で自転車に乗ってきた男性を停めて、マイクを向けた。「自転車の無灯火走行は、交通法に違反することご存知ですか?」「知らなかった」「どうして無灯火で来たのですか?」「節電してるからだよ」 落語みたいな答だった。機知に富んでいる答と私は思わなかった。ただし節電が、国中に浸透していることは認める。何か節電していないと非国民であるかと言わんとする雰囲気が蔓延している。

 我が家の照明は、いまだに白熱電球である。確かにこの照明は、LED方式に比べたら電力の消費が数字の上では大きい。しかし私は、世知辛いさ中、贅沢と割り切って白熱電球の明かりを享受している。一人で外出して戻ってきて、家から白熱電球の何とも言えぬ温かで「おいで、お帰り、さあ お入り」と言ってくれているような光が漏れている、あの感じが捨てがたい。また我が家は、壁も床も天井もドアも同じ木材でできていて、白熱電球に照らされるとほんのり黄色味を帯びる。ずっとこの8年間この明かりに慣れ親しんできている。電気機器メーカーに勤める知人によれば、LEDの照明器具はいまだに完成したものではなく、メーカーによる技術格差も大きく、節電効果も寿命も疑わしい。数年以内に規格も統一され性能も格段に良くなるはずだから、それまで待ったほうが良いとも言われた。更にLEDでも白熱電球と同じ水準の光を出せるよう目下研究中だとのこと。ゆっくり待つことにする。それまでは白熱電球を使用し続けて、こまめにつけたり消したりで節電に努める。

 一年に数回電球交換をする。家の天井が高い。2.8メートルはある。居間の電燈には電球が4個ついていて、円錐形の傘が電球を覆い隠している。最近筋肉が衰えたので片足立ちで靴下をうまく履くことが出来ない。いつもあちこちへケンケンして揺れ動く。タンスや壁にぶつかることも多い。散歩したり自転車を漕いで筋肉を使っているつもりだが、それだけでは改善がみられないようだ。老化による筋肉の衰えが理由なのか、脚立の上での作業がおぼつかない。掴まるところがないと、不安で揺れていると思ってしまう。以前だったら一人でさっさと電球の交換ぐらいできたのに、近頃は妻の手助けが必要不可欠となった。

 まず手を握って、脚立のてっぺんに立つまで補助してもらう。脚立の一番上にある安全レールを両手で掴む。掴むまでは誰でもできる。それからが問題だ。レールから両手を離して立ち上がろうとする。膝から下がブルブル震え体重を支えている感じが消える。無重力状態に突入。足の裏が接している幅20センチ長さ40センチの薄いアルミ板が、限りなく頼りなく感じる。天井に向けて挙げた両手が、不安で痙攣したようにしびれる。手が天上に届く。やっと安堵。しかし仕事はこれからである。体を安定させて、笠の中の電球を手探りで掴む。何でも忘れる昨今、どの電球が切れているのか分からなくなる。あせる。下で妻があれこれ指図するが、どの指示にも答えられない。やっと電球に手が触る。電球は、ソケットにネジ式で装着されている。中腰で片手が天井を押さえ、片手で電球を回すのは、サーカスの曲芸のようだ。やっと外れる。その電球を何億円もの宝石を持つようにして移動させ、妻に渡した。

 「できた」の感慨にしたる私に、妻は「ハイ、次」といとも事も無げに新しい電球を私の手に押し付ける。腰の筋肉が微妙な電気信号のようなものに刺激され、ふくらはぎが震える。自分の手足がちっとも脳の命令に従わない。手、指、足、腰、目それぞれが勝手に何かしようとする変な感じ。ソケットにたどり着く。宇宙船で月に着陸するような興奮。私はネジの回し方さえ知らない。こっちだろうと思って回し始めても、電球は頑として入っていかない。逆に回してみる。ダメ。やり直し。何のことはない。電球のネジの部分がきちんとした角度でソケットの方のネジに当たっていなかった。最後に電球の回転が止まるまで電球のガラスの部分を細心の注意で回した。おぼつかない動作で両手を安全レールに戻し、妻がスイッチをONにした。点灯。思わず「♪明るいナショナル♪」と唄いたくなった。

 団塊世代は、戦後、右肩あがりの国勢に乗じて、ついに史上最高の日本の繁栄を謳歌した。そして今、脚立のてっぺんに取り残され、両手で天井を押さえているような状況におかれている。このままでいるわけにはいかない。今度の突然の衆議院解散で12月に選挙が実施される。脚立の下で健気に支えてくれる私の妻の立場に立てるような政党の政治家を選びたい。団塊世代は、日本の人口推移グラフの一番のふくらみ近辺にいる最大勢力である。選挙は投票数で当落が決まる。民主主義は、良くも悪くも、多数決である。安全に危険な脚立から降りて、安定した国情を次の世代にバトンを渡すのは、団塊世代の最後のご奉公である。

 


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洗車

2012年11月16日 | Weblog

 先週の日曜日2週間前からやろうと思いつつ、天気や雑用のため先延ばししてきた洗車を実行できた。洗ったといっても、自分で洗ったわけではない。妻とガソリンスタンドへ行って自動洗車しただけだ。いつもガソリンスタンドの若者2人に洗車後の拭き取りも頼んでいたが、天気がよく空の抜けるような青さに押され、妻と二人でやることにした。いくら機械が優秀であっても、人間の手にはかなわない。機械では洗えない個所がある。立ったり腰をかがめたりして隅々までブラシで洗い、拭き、磨いた。二人で約一時間かけて、愛車を久々にピカピカにした。体のふしぶしが痛くなったが、それでも気分は良かった。

 自動洗車装置はいまでこそ多くの日本のガソリンスタンドに当たり前のように併設されている。日本のどこの小中学校にも水泳プールが設置されているように、気候、立地に関係なく全国均一に普及したようである。私が20数年前まで暮らした長野県の地方都市にもずいぶん前に自動洗車場ができた。全長十数メートルのトンネルのような装置に客は、自分の自動車に乗ったまま、ベルトコンベアの台が自動前進して洗車できるという大規模なものだった。私の子どもも私自身も車の中に乗ったまま遊園地の遊具のような冒険を楽しんだ。昔、人間が小さくなって潜水艦のようなマイクロカプセルに乗って人体の中に入っていく冒険映画を見た。洞穴、地下、海底、宇宙冒険は、神秘に満ちている。大きなブラシで両横、屋根、窓ガラス、タイヤ、タイヤホイールをグルングルンと回り洗う。騒音と共に洗剤や水が拭きつける。ブラシが、洗剤が、濯ぎの水が、水きりの圧縮空気が、拭き取りのセーム皮がバシバシ当たる。見通せるガラス一枚でそれらの接近から身を守られている。大人だろうと子どもだろうと男だろうと女だろうとハラハラドキドキする。興味を引くがゆえに悲劇も起こる。長野県の私の家の近くにあった洗車場で子どもが機械に手を挟まれて一部を失った事故があった。“見たい”という誘惑は思わぬ事故につながる。好奇心の固まりと言われ、何でも見てみたい私への大きな教訓になっている。

  洗車は外国に出てみると国によって事情が変わって、興味深い観察対照となる。国際的に洗車事情を研究した学者がいたらぜひその論文を読んで見たいものだ。10代後半から20代前半まで過したカナダのアルバータ州では自動洗車装置を見たことがなかった。水はあったが冬の寒さが長く厳しすぎた。アフリカの砂漠の国で自動車は汚れ放題である。雨はほとんど降らない。水道を凍らせる寒さがなくても肝心の水がない。ネパールのカトマンズの水道は、一日に2時間しか給水されなかった。サハリンではいまだ路肩で川や池の水でわずかな料金で車を洗う仕事しかできない人がいた。私は海外で暮らしながら、洗車で文化を比較考察することができた。

 最近、日本の車をはじめ、人々の服装も、町並みも汚いと感じるのは私だけだろうか。不景気が原因なのかもしれない。手入れがされていない汚いモノに囲まれると心まで荒ぶ。モノを大切にするのは、日本人の特質であり美点である。日本は政治、経済、国際関係の難しい問題を抱えている。私は、素人の凡人で何もできないもどかしさを身の回りのモノの手入れで紛らわせる。貧しくても美しかった国、乏しくてもモノを大事にした国の輝きが戻れと祈りながら。


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ソニーのラジオ

2012年11月14日 | Weblog

  テレビを観ていると私の精神に悪影響を及ぼす。自分で自分が嫌になるほどテレビに向かって悪態をついてしまう。だからラジオを聞くことが多い。ソニーのラジオICZ-R50を使っている。よくできたラジオだと思う。いまどきラジオは売れない家電の主なる製品に違いない。どこの家電店でもラジオ売り場はないか、あっても数台並べているだけだ。唯一昔のようにラジオがたくさん並んでいたのは、東京巣鴨の商店街にあった家電店だった。

  私のラジオが凄いところは録音機能だ。時間を指定すると自動録音しておいてくれる。中学生の時、NHKの松本享の英会話を聞いていた。ラジオの前に教本を持って座って放送が始まるのをじっと待っていた。番組を聴き逃すまいと待ったことは、それはそれで子どもの私には楽しみであった。大相撲ラジオ中継で栃錦と若乃花などの好一番は、制限時間いっぱいになるまで仕切りが繰り返され待たされた。力士と同じように聴いている私も徐々に興奮が高められたものだ。いまかいまかと待つ心境は、何か大切なことを私に教えてくれた気がする。

  録音したお気に入りの番組からメモを起こすのも楽しみだ。今のラジオで喋る人々の発音は、聴き取りにくい。特に年齢が若ければ若いほど、聴き取れない言葉が多くなる。私のソニーのラジオは再生音の速度を早くしたり遅くしたりできる。それだけではない。加えて聞き逃したり、聴き取れなかったら大きめの『戻る』のボタンをポンと押すと3秒戻せる。これが実に便利なのだ。まるでアナウンサーやラジオ出演者の多くの発声・発音が悪いことを見越してつけてくれたのではと思わせる。本当は私のような耳や集中力が衰えつつある老人ためなのだろうが、私は認めない。何回も『戻る』のボタンを押して、メモを取る。好きな時間にこうしてコツコツ書き留めたメモはすでに大学ノート3冊になった。ソニーのラジオを設計し生産してくれた技術者、工員のお陰と感謝している。

 ラジオは世界でもすでに売れる商品ではない。私が暮らしたネパール、セネガル、セルビア、チュニジア、ロシアのサハリンでラジオは決して人々の生活の中で重要な地位にはなかった。人々が欲しがっていたのはテレビや携帯電話などの先端技術商品であった。ラジオは自動車を持っている人だけが車内で聴くもののようだった。住んだ多くの国のテレビ放送の時間は一日数時間から長くて6時間という限られたものだった。

 テレビに情報収集の期待できなかったので、私は海外放送を受信しやすいソニーのラジオICF-SW55を持って歩いた。日本のニュースを日本時間で知りうる一番の方法だった。阪神大地震を知ったのも9.11のテロを知ったのもNHKの国際ラジオ放送であった。私の海外生活になくてはならないパートナーだった。帰国してもラジオを手放せなかった。いつしかソニー製品を選んで買うほどソニーびいきになっていた。応援するつもりで1株3万円くらいの時買ったソニーの株は今、800円台である。それでもソニーの復活を願っている。ソニーで働いている親戚がいるのも一因かもしれない。それ以上に海外の不便な寂しい生活を支え、私と遠い祖国日本を結び続けてくれた優秀なラジオに恩がある。今のラジオにもぞっこん惚れこんでいる。

 家でラジオが聴けるのは、北側の窓の近くだけである。南側でラジオは電波を受信できなくなる。書斎は南側にあり、ラジオは北側の寝室と居間でしか聴くことができない。電話でさえ無線で親子電話になる。パソコンは、マウスと本体はワイアレスになっている。ならばラジオも電波を受信できるところに本体を置いて、子機でトイレ、風呂家のどこでもラジオが聴けるようにできないものか。売れない、利益につながらない商品に今のソニーは関心も熱意も示さない。そんなことの積み重ねがソニーの不振になっているに違いない。顧客は顧客の置かれた環境状況で買う物を決める。本社の首脳経営陣の顔色ばかり覗っていないで、そろそろ製品を買って使う者の方を見てもらいたい。最近のソニーのテレビCMは実にくだらん。私はソニーの復活は、まずテレビCMに現れるとみている。その変化の兆しを今日も待ち望んでいる。


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禿げ頭

2012年11月12日 | Weblog

 風呂場で頭を洗っていた。浴場の洗い場の前に1メートル50センチ×80センチの大きな鏡が貼ってある。この鏡は家を買ったとき、すでに取り付けて会った。私は鏡を見るのが嫌いだ。どんなに見まいとしても鏡がでかすぎ、隠れようがない。この数週間気になることがある。どうか見間違いであって欲しい、鏡の不具合でもかまわない、と祈る気持で鏡の水滴を手でぬぐって頭髪の状況を観察した。ハンドシャワーでシャンプーを洗い流したばかりの髪の毛は、まるで田舎の夏の小川の水流にゆらゆら流される水草のように等間隔の透き間をつくって地肌に張り付いていた。頭の地肌が髪の毛の覆い隠す部分より多い気がする。髪の毛が乾燥してふわっとしている時と違い、水に濡れた髪の毛は地肌にぺったりだった。前回床屋で「最近、すこし毛髪が細くなってきていますね」と気になることを言われた。

 私の父は30歳を過ぎてから急に髪の毛が薄くなったと言っていた。私は65歳になるまで髪の毛が薄くなってきたとは感じていなかった。内心「父親は私の年齢ではてっぺん禿げだった。自分の現状なら私は母方の祖父のようにきれいな白髪になるに決まっている」と自信を持ち始めていた。この10月の末からである。洗髪のたびに自分でもあきれるくらい抜け毛が洗い桶の中に浮いた。その抜け毛、床屋に言われた所為か、細く弱い感じがする。かつてカナダの学校の寮のシャワー室で「針金のように固く太い」と多くの寮生に触られたゴワゴワの黒髪だった。白人の髪の毛は濡れると肌と一体化してしまうほど細かった。

 私は毎朝、歯磨きをしてから、寝ぐせ直しの整髪スプレーをかけ、ブラシで髪型を整える。いままで頭のてっぺんを洗面所の鏡に映したことなどなかった。頭を90度前倒しにして、てっぺんが鏡に映るよう首を曲げた。目の角度を調節しながらてっぺんを注意深く観察する。ふさふさだったはずなのに、無残にも産まれたばかりの赤ちゃんの髪の毛のはえぐあい状態になっていた。

 妻は現代医学でも、まだ風邪薬と頭髪の発毛剤は発見されていないという。よくテレビで『リーブ21』の社長が自ら画面に登場して、もっともらしく人間の頭髪は、わが社なら生えさせて見せますと自信満々と一日に何度も顔を出す。相当な宣伝費がかかっているはずだ。儲かっているから宣伝するのか、宣伝しなければ会社が危ない自転車操業なのか。テレビの宣伝は摩訶不思議な世界である。妻が言うことが本当ならあの社長のやっていることをJARO(日本広告機構)に通報しなければならない。JAROは誇大広告を取り締まる機関だ。『リーブ21』で発毛が真実ならノーベル賞ものの発見である。

 以前から私は決めていた。もし禿げてもカツラもリーブ21のお世話にはならないと。自然のままを受け入れる。カツラは随分高価だと聞いている。

  私の父親は72歳でこの世を去った。死んだ父の頭を手でなでた。てっぺんはツルツルだった。ベレー帽をガンで入院する日までかぶっていた。ベレー帽の脇から細くなった毛が、カーテンのフリルのように降りていた。ベレー帽で禿を隠していたのかなと疑った。しかし父は若い時からハンチング帽やベレー帽をかぶっていたという。ツルツルの頭をまじまじ見て触ったのは初めてだった。以前頭に残った帽子のふちの跡は消えていたのが、やけに悲しかった。遺品となった帽子をかぶるとどれも私の頭に入らなかった。私は幼い頃から頭がでかいと言われていた。父の小顔で形の良い頭だったからこそ帽子が似合ったのだろう。私は日射病対策でしか帽子はかぶらない。

  もしかしたら父と違って白髪になれると勝手に思い込んでいた。その心の片隅でもし禿げたらの恐怖もあった。現実に禿げを確認できた。受け入れる決意もできている。だからカツラやリーブ21のお世話にならない。子供の頃、大人になって腹がポツコリ出たり禿げたら、生きていけないだろうと思っていた。腹が出ても平気で生きられた。禿になっても大丈夫だろう。

  自然が一番。私はこのままでいい。老いの度合試験が次から次へ出題され、気力、体力、脳力の衰退が立証される。反面、ツラの皮だけは歳相応に成長を続け、ますます厚くなってきている。成長することは好いことだ。


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出自

2012年11月08日 | Weblog

  「わたしの生い立ちは、君も知ってのとおり、てて無し子だ。物心ついてそのことを知り,わたしは苦しんだ。出生の秘密を隠そうと嘘をついた。しかし嘘をつけばつくで、その嘘がばれることに怯えた。しかし嘘はいつかはばれるものだ。これは単純なことだ。嘘がばれて絶望的な屈辱に身を震わせたこともある。そして決心したんだよ。もう嘘はつくまい。誠実に生きよう。てて無し子だと卑しめられてもいい。嘘をつくよりはるかに気楽だし強くもなれる。むしろわたしは人間の苦しみをあげつらう奴を軽蔑した」『ベルリンの秋・上』春江一也著 集英社インターナショナル発行 (186ページにあったブラント元西独首相に関する記述から抜粋)

 インターネットのニュース欄で週刊朝日が日本維新の会代表の橋下徹代表の出自に関する記事を掲載したと読んだ。個人的な好き嫌いは、この際、脇においやった。週刊朝日を図書館で読むのが待てず、何年ぶりかで自分で買って読んだ。言論の自由が尊重されている日本である。何を書いても、何を言っても自由である。しかしそこには超えてはならない正義と道徳の境界がある。

  記事は『ハシシタ 奴の本性』佐野眞一+本誌取材班で始まる。「ノンフィクション作家・佐野眞一氏と本誌は、彼の血脈をたどる取材を始めた。驚愕の事実が目の前に現れた」 これを読んで、佐野眞一さんと週刊朝日は、ある種の快感と陶酔を持ち、それを読者におすそ分けしたかったのではないかと思った。常軌を逸している。日本の国中に充満する鬱積をこの記事で解消させてあげましょうかと言わんばかりである。

 私は美人と天才は、親に関係なく、どこからでも出てくると信じている。ノーベル医学生理学賞に輝いたアメリカのマリオ・カッベキ博士は少年時代イタリアのホームレスだった。東西ドイツが統合する前の西ドイツのブラント首相は、自分はてて無し子だと公言した。熾烈な大統領選挙で再選されたオバマ現アメリカ大統領は初の有色人種それも黒人の大統領である。

  私が中学生だった時の国語教師の言葉「相手が自分でどうすることもできないことで批難攻撃するな」を忘れない。誰でも十代さかのぼれば、祖先は二千四十八人を数える。その先は天文学的な数になる。その全員が清廉潔癖完全無欠であったはずがない。故に血脈出自でなく、個人の能力と努力と実績は公正に評価されるべきである。出自をほじくりかえすのは、最後の禁じ手として使う常套手段だ。日本だけでなく、古今東西どこにでもある自分の生き残り、宿敵の追い落としの構図である。人間の苦しみをあげつらうような陰湿で卑怯な感情に自身を任せてはならない、とどこの馬の骨かもしれない一人である私は思う。寅さんシリーズの映画の中で寅さんは言った。「それを言っちゃあお終めぇよ」と。


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モノ書く人々

2012年11月06日 | Weblog

  先月30日に亡くなった藤本義一さんは、2年前に「これまで執筆した原稿は全部でどれくらい?」の質問に「1.6トンかな」と答えた。先月31日をもって東京都知事を辞職した石原慎太郎さんは「ちょっと長すぎた。長い、かなりいい小説を書いた後の解放感と満足感。・・・」と答えた。二人の作家の返答にモノ書く人の気持が込められている。

 藤本義一さんはずっと手書きでワープロやパソコンを使うことがなかった。石原慎太郎さんも確かめてはいないが、何となく手書き派のように思える。いずれにせよ書くという作業は想像以上に根気がいるものだ。本を出版するには新書なら最低200枚の原稿が必要だそうだ。長編小説となると原稿用紙2000枚3000枚それ以上となる作品もある。原稿用紙を自分の前に置いてみると、10枚でも書くことがいかに大変なことかよくわかる。

 私はモノ書く人々を尊敬する。かつて城山三郎が自分の高校生の息子が受験勉強をする机の前に「椅子にいかにじっと居られるかが勝負である」と書き出して貼っていたと書いていた。城山はじっと座って読んだり書いたり勉強し続けることがどれほど難儀なことかを、背中で息子に教えていたのだろう。それにしても息子もたいしたものである。その息子さん、かつてテレビ東京の朝の番組『モーニングサテライト』にある証券会社のニューヨーク支社の経済分析担当で時々出演していた。きっと椅子にじっとしていることができて、無事受験を勝ち抜かれ、出世したのだろう。

  私が自分の過去を振り返ってみると、いかにじっとできない者だったかよくわかる。好奇心の固まりのような性格は、常にあちこち移動して「あっち行ってチュンチュン、こっち来てチュンチュン」しなければ気が済まない。かつてキリスト教のアメリカ人宣教師にキリストを自身の救い主として認めることを告白するよう強く求められた。彼は優柔不断な態度をとる私を「あなたはいつも気持があちこちしている。悪魔のいうことに気を取られるからだ」と糾弾された。英語で“あちこち”を“here and there”と云う。これは私の本性を言い得て妙だと感心したものだ。65歳を過ぎても、まだじっと座っていることができないでいる。

  勉強ができるようになりたければ、じっと座っていられる人になるようにならなければいけない。私が学校の成績が悪かったのは、ひとえにじっと座っていられる生徒でなかったからに違いない。もし私が忍耐強く何時間でも二宮金次郎のように集中力を持って目標に向かう学徒であったなら、学業でそれなりの成果をあげることができたであろう。負け惜しみだが、それでも私は私なりに長い時間かけて自己改革に取り組んできた。

  学生だった頃、三日坊主で書き続けることができなかった日記を、再婚してから20年間、病気以外の毎日、書き続けている。ブログも執拗に書き続けている。小説はある懸賞に6年連続で応募し、ことごとく没になっている。それでもめげずに今年も11月30日の締め切り目指して書いている。本は2冊出版できた。電子書籍普及の波に飲み込まれ、後押しされて、月1冊のペースで電子化して公開してもらっている。私の性癖を見抜いていたであろう担任だったどの教師もが、その事実を知れば、信じられないに違いない。じっと座っていられることを難なくできる人々には小さなことでも、何でも中途半端にしてきた私には大きな事件である。

  宿題、ピアノ、日記、最初の結婚、仕事、フランス語などなど中退中毒かと悩んだくらい多くの中途半端が私の過去に山となって積みあがっている。それでも私は私の人生を歩み続けてきた。厚顔無恥も役に立つ。今日も書こうというまっとうな思いと、いかにして書くことから逃げようかとする悪だくみのはざ間で揺れ、日記に「いまだじっと座っていられない。残念。明日こそ」の定番反省文が増えるのか。


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