団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ミカン狩り

2014年12月31日 | Weblog

  29日月曜日東海道本線根府川駅に妻と降り立った。友人のN君夫婦に誘われ同行した。N君の高校の同級生のO君が駅まで車で迎えに来てくれた。

 私はこの2週間風邪で体調が優れず寝込んでいた。N君も風邪をひいていた。根府川駅自体が急こう配の斜面にある。関東大震災では駅に停車していた列車が地滑りで海に落ちたそうだ。根府川駅に降りたのは初めてだった。

 ミカン畑はずいぶん高い所にあった。昨日の悪天候が嘘のように晴れ渡っていた。車をO君の義兄の家にとめて、歩いた。O君は2年前に退職して義兄からミカン畑の一部を借り受けた。義兄はずっとミカン農家を続けてきたがミカンの値段が下がるばかりで経営が成り立たなくなりミカンの生産から撤退した。退職したO君は東京から車で通ってミカン畑を維持している。彼の夢はミカン畑に山小屋を建てて農繁期に泊まり込んでミカンを栽培することだ。まだ実現しないのは、イノシシが出るので危険だと義兄が反対したからである。

 ミカン畑にはO君の奥さんが待っていた。O君はとにかく飄々としている。笑顔がいい。身から自然に湧き出る相手への気遣いができる男である。私が理想とする気配り、手配り、目配りを生まれた時から身に着けていたのではと感心させられる。ミカンの木には棘があって手や頭を怪我してはいけないとゴム引きの手袋、農作業用の帽子、地面が濡れているからと長靴まで用意した周到さである。時期的にもう遅いと言いながら明らかにこの日のために収穫を遅らせていたミカンの木々が十本近くあった。

 たくさんのミカンが採れた。O君は自分で時間をかけて作ったであろうバーベキュー炉で火を起こそうとしていた。昨日の雨で薪は濡れていた。ものすごく苦労して小一時間かけてやっと炉に炭火ができた。私は手を出さなかった。出せなかった。なぜならO君のやり方を全面支持したかったからである。不器用でもいい。やぼったくてもいい。O君の歓迎の気持、O君の夢の退職生活を祝福したかった。

 まずO君はスルメを焼いた。待っ黒焦げだった。次にフランスパンを焼いて奥さんがバターを大きく切って乗せた。旨かった。サツマイモもアルミフォイルに巻いて焼いてくれた。最初に手渡されたイモはアルミの中で炭化していた。火力が凄い。畑から大根を抜いた。その大根を貴重な水で洗い、荒くざく切りしてくれた。ハイキング用のテーブル、ハイキング用の食器、プラスティックの黄色いミカン出荷用の箱をひっくり返した椅子。どれだけの時間と想いが注がれたことか。目の前に相模湾が広がり太平洋まで見渡せる。雲がない青い空、柑橘系の香水のような風。

 根府川駅から帰路についた。電車は帰省客ですし詰めだった。妻が担いだリュックは周りの乗客の迷惑顔に取り囲まれた。車窓から光る海が見えた。綺麗を超えた景色であった。こんな風に幸せな思いで2014年が終わってゆく。10キロ以上あるリュックに入れたミカンの重みは、まさにこの1年にいただいた自然からの恩恵、多くの人々から受けた気遣いを思い起こさせた。


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過ぎゆく2014年

2014年12月29日 | Weblog

  12月26日金曜日職場の妻からメールが入った。「今年の外来終わりました。一年無事乗り切りました」の内容だった。遠距離通勤がかなり妻の負担になっているに違いない。今まであまり弱音をはかない人である。よほど1年無事終えたことが嬉しかったのだろう。27日の夜友人宅にお呼ばれした時は、最後の記憶がないほど深酒した。ベッドの中では豪快なイビキを上げた。私は普段睡眠に関して何も問題がない。寝入ったら朝まで熟睡である。その私が珍しく夜中に妻のイビキで目が覚めた。午前1時過ぎだった。しばらく妻のイビキを聞いていた。そしてふと思った。私が死んでしまったら妻は友人宅で今晩のように酒を楽しく飲んで酔って、イビキをかいて寝られるだろうか。そうできるならそうしていてほしいと思った。

 私には毎日が日曜日である。正月が来てお盆が来てクリスマスが来ても関係なくタガはゆるんだままである。よく歳をとると時間が過ぎるのが早いと聞く。年末の年寄りの挨拶に「1年があっという間に過ぎた」がある。残念ながら私はそう思えない。1年より1日を単位としているからだろう。自分が残量わずかな歯磨きチューブにみてとれる。いつかはチューブに残った命を使い切るであろう。チューブを切り開いて綿棒で残った命をこそげ採るようにしてでも大事にしたい。

 今年も一年間毎日日記を書き続けた。その5年日記もあと3日で書き終り元旦からは新しい3年日記になる。ブログも土日祝祭日を抜かした月水金火木の順にすべて投稿できた。平日妻の出勤日には5時に起きて7時の電車に遅れることなく駅まで車で送った。夕方6時過ぎには忘れることなく駅へ迎えに出た。台風や豪雨列車の運転見合わせなどで新幹線の停車駅まで送迎も何回かした。居間のグランド時計のネジ巻を毎日やって一度も時計を止めなかった。15分ごとにヨーロッパの教会のように鐘を叩く。郵便やメールには3日ルールを守って大切な人々への返事を送った。カロリー計算して糖尿病の食事療法も一日1万歩の散歩2日に一回の入浴、毎日下着を取り換えた。一日に多くの事はできなくなったが、やらなければならにことを一所懸命やった。それ以外の残りの時間すべてを好きな読書と物書きに費やした。時々映画館へ映画も見に行った。ほぼ毎月の病院歯科医院への診察治療にも出かけた。

 海外に暮らした時間が長かった。日本の生活を夢見ていた。今は毎日日本にいる。それが嬉しい。時差もなく日本の土の上にいる。日本の空気を呼吸する。日本の雨に濡れ、日本の風に吹かれ、日本の青い空を白い雲を緑の山を紅葉の山を見る。日本のセミを鳥のさえずりを聴く。私にとって日本は自然そのものである。テレビに映る日本も新聞に載る日本も私の日本ではない。

 大晦日、今年も私は妻と二人だけで年越し蕎麦を食べ、9時にはベッドに入る予定である。住む町の谷には寺がいくつかある。もし除夜の鐘の音が寝ぼけていても聞けたら最高である。


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手術してワイヤー・・・

2014年12月25日 | Weblog

  長男一家に小包を12月12日金曜日に宅急便で送った。手元を離れればもう記憶も消える。15日月曜日宅急便の東京の営業所から電話がかかってきた。「お届け先に13日14日と二日間伺いましたがご不在でまだお届けできません。お荷物冷蔵便なのでいかがいたしましょうか?」「腐る心配のあるものは入っておりません。こちらから連絡してみますので明日も配達してみてください」 そうは言ったものの心配になり始めた。妄想が暴れ出した。テレビのニュースで長男一家が住む同じ区内で家族4人が殺害されてすでに14年が今年の年末で過ぎる。犯人は捕まっていない。海外に旅行に出かけると言う話は聞いていない。妻は「電話したら」と言うが小心者の私はいろいろ考えすぎてできない。悪いことばかり考えた。

 結局メールすることにした。すると数時間して長男から電話がかかってきた。事の真相はこうだった。小学4年の孫がサッカーの試合中、相手選手と接触して右肘を骨折して救急車で東邦大学大橋病院へ運ばれ手術を受けた。3日入院して16日に退院して自宅に戻った。自宅から電話をくれた。「手の肘の骨が折れて手術してワイヤーでくっつけたんだよ」 声を聴いて安心した。妻に報告すると「大丈夫、大丈夫。子どもの骨折は年寄りと違って回復が早いの。すぐ元通りになるから心配しなくてもいいよ」と言ってくれた。

 次の日私は整形外科の受診で東京の病院へ行った。右肩の痛みが気になっていた。レントゲンを撮ることになった。診察室で医師がレントゲン写真をパソコンの画面に映し出して診断してくれた。私は医師が指し示す箇所より首の下から胃の方に続く輪っか状のモノに気を取られた。医師に尋ねた。「これは以前心臓バイパス手術で胸骨を切断して開いた後ワイヤーで閉じたものです」 すでに手術を受けてから13年が経った。こうして元気でいられるのもこのワイヤーを使った手術のお蔭なのだと思うと胸が熱くなった。事情を話してレントゲンのワイヤーの写真を撮らせてもらった。

 今回複雑骨折した孫の肘もしっかり手術してワイヤーで結わえられた。医学は日々進歩している。有り難いことである。今度孫が正月に遊びに来たら私の胸の中のワイヤーのレントゲン写真を見せようと思う。今回の緊急入院の件ではずいぶん心配した。そのお蔭で私の胸の中にあるワイヤー、孫の骨折を治療したワイヤーとの共通の話題ができた。怪我も病気もしない方がよい。いつなんどき何が起こるか分からない。精々注意して安全で健康な生活を心がけたい。


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行きはよいよい帰りはこわい

2014年12月19日 | Weblog

  麻酔をされるとすぐ眠くなる。歯科医で歯槽膿漏の治療を受けている。上下全ての歯を5回に分けてやる予定だ。すでに18日で3回目となる。

 老化による歯茎の後退を少しでも遅くしようとする治療である。無駄な抵抗ともとれる治療である。それでも一縷の望みを託すことにした。治療自体は部分麻酔をかけて実施されるので治療中に痛みは感じない。ただ困るのは麻酔を打った直後から眠くなることである。治療中、半分眠っている。担当医にも歯科技工士にも麻酔を打つ前に眠てしまかもしれないことを伝える。「口さえ開いていてくれれば、眠っていても大丈夫ですよ。それのほうが治療しやすいです」と言われ「普段から口を開き気味なのでそれはできると思います」と答えた。

 行きつけの歯科医院へは往復3時間かかる。行きはよいよい帰りはこわい。治療が終わって帰りの電車に乗った。マスクで口を被っていても落ち着かない。普段顔に意識が向くことはない。唇はたらこ唇のように腫れている感じがする。切開された歯肉を舌がなぞろうとする。気になりだすともうどうにも止まらない。だんだん麻酔が切れてくる。麻酔が切れて来た部分は、しびれが薄らいでいく一方痛みが眠りをさますようにジワジワと押し寄せてくる。痛みを抑え込もうと麻酔が働き、痛みを感知したぞと神経が騒ぐ。そのせめぎ合いが治療を受けた部分で展開される。1時間もすると麻酔は覚醒した神経に完全降伏してしまう。切口から血が出ていることさえ察知する。口の中に鉄サビの味が拡がる。ズキンズキンと血管の動きが伝わる。

 数日治療を受けた場所の歯は仕事をしない。代わりに他の歯を使う。時々もつれて舌を噛む。できるだけ固い物を食べないようにする。後2回である。年内はこれでおしまい。来年は6日から治療再開である。4年前にも同じ治療を受けた。歯磨きの指導を受けたお蔭か4年前よりずっと楽になった。歯科医師からは「この治療と歯磨きを両立させる努力をしてください。片方だけでは進行を遅くすることはできません」と言われている。ただ習慣として歯を磨いていた。歯磨きも治療の一環であることを自覚したい。

 私は人生の折り返し点をとうに過ぎた。若い時は体のあらゆる場所で復元力がみなぎっていた。無茶ばかりしてきた。因果応報。自分が生きて来た通りに、今になって体にその影響が出ている。

 帰りの電車の中、通学帰りの多くの学生が乗っていた。帰りが早いのは試験中なのか。若さが眩しいくらいだった。笑うと見える歯茎もピンク色で健康そうだ。♪命短し、恋せよ乙女♪もいいが、♪行きはよいよい帰りはこわい。こわいながらもとうりゃんせとうりゃんせ♪を唄って聴かせたくなった。


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タカタのエアバッグ・リコール

2014年12月17日 | Weblog

  エアバッグを製造しているタカタがリコール問題で槍玉にされている。またアメリカの日本企業叩きかと私は懸念している。訴訟社会であるアメリカはまるで神の権化となって人間に完全無欠であることを要求しているかに思える。危険な工程や製品は外国企業にやらせて自分たちはそれを裁いて巨額な賠償保障させる。

 ベトナム人で政府留学生として早稲田大学の理工学部で学び、理工学部の大学院も卒業した友人がいる。以前私はブログに彼のことを書いた。彼は日本の企業に就職したが、結局南ベトナムへ帰国して南ベトナム政府に勤めた。北ベトナムの進攻により捕えられ収容所に入れられた。命からがら逃げだしてボート難民となってマレーシアのビドン島の国連難民キャンプにたどり着いた。そこから日本への亡命を志願したが、当時日本は難民を受け入れることをしなかった。彼は私の友人の援助でカナダに渡った。

 彼をカナダに訪ねた時、彼が勤める工場を案内しながら日本語で、こんな話をしてくれた。自動車部品の工場で不良品が送り返されてくると従業員は「不良品修理のほうが普段の製造する仕事より楽だ」と喜んだ。どんなに彼一人が品質の向上に努めても常に不良品比率は20%を割らなかった。日本の企業に勤めて彼は品質管理の厳しさを学んでいた。何とかその経験を活かそうとカナダの工場で努力したが、従業員は彼のことを煙たがった。結局彼はその会社を辞めた。

 今回アメリカで問題になっているエアバッグはタカタのメキシコの工場で生産されている。それを知った時カナダでベトナム人の友人が案内してくれた工場のことを思い出した。日本人の職人のプロ意識を違う文化を持つ外国人の労働者に期待するのが如何に難しいことか。ましてや火薬を内包する装置である。武器を造るのではなく人の命を守るための火薬である。タカタに監督責任があるにせよ日本のガラパゴス企業倫理は海外で通用しないのは当然である。自動車メーカーの熾烈な生産台数と販売台数の競争。多くの部品メーカーから調達した部品をベルトコンベアで組み立てて車を作るのがはたして自動車メーカーと言えるだろうか。アメリカ訴訟社会の責任回避の旨味を大企業が真似ているかのようである。

 エアバッグは命を守る装置である。しかし火薬が衝突時の衝撃で点火爆発するという非常にデリケートで扱いにくい。高い技術と細心の安全対策が不可欠である。私自身も幸いにして未だにエアバッグが作動したのを経験したことがない。2度大きな事故に遭遇した。50年前カナダで学校の先輩が運転するフォードのファルコンの後部座席での事故、14年前チュニジアで雇った運転手が運転するフォードのKaの助手席での事故。ファルコンにもKaにもエアバッグは付いていなかった。カナダでは死者も出た。チュニジアで私はろっ骨を折った。車はファルコンもKaも2台とも大破した。信頼に足る装置であるなら、両方の事故でエアバッグがあったらと悔やまれる。

 エアバッグは余程の衝撃を受けなくては作動しない。作動すると言うことは事故がただ事でない証拠である。事故で死ぬかもしれぬ危険を秒単位で火薬を使って回避する装置である。病院で手術を受ける時、患者は手術によって病気が治る希望と命を失うかもしれない危険の選択を迫られ病院側の責任を追及しないと言う誓約書にサインを要求される。自動車メーカーはこぞってエアバッグを標準装備するが、購入時オプションにするか病院がするように誓約書を交わすのも手である。それともエアバッグは国家が装着を法で義務付けているだろうか。もしそうならば国家に責任はないのだろうか。いずれにせよ危険要素をはらむのだから、細心の注意をもって製造されなければならない。日本にはJIS(日本工業規格)をはじめとして多くの規制や検査機構が存在する。政府官僚の天下り先である。安全基準などを管理監督する側の見解が聞こえてこない。美味しい汁だけを吸って一切責任を取らない。国際競争にさらされる日本企業を保護育成するのも国家の役目である。日本は企業ブランドから国家ブランドへの転換を迫られている気がしてならない。工場をむやみやたらと世界中に散らばらせるのではなくて、国内生産に戻す。生産数や量が減っても日本で造られたものだから、日本の職人が作ったものだからという信頼信用こそ日本がゆるぎない技術大国であるための必須条件となる。輸出立国を目指すなら、アメリカが法を盾にとる戦法の向こうを張って、技術と職人精神で完全無欠な製品を作るくらいの気概を持つべきだ。大量生産大量消費の時代の終わりは見えている。今回もこれまで築いてきたきたメイド・イン・ジャパンの信頼は大きく損なわれた。それでもへこたれずに日本の物づくりの伝統がこれからもっともっと活かされることを願う。


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脱衣所に英国風紳士

2014年12月15日 | Weblog

  集合住宅の共同浴場で熱い風呂に入った。私を含めて7,8名が風呂場にいた。外は風が強く寒い日だった。妻の土曜日出勤もなく午後の明るいうちに入浴できた。冷えた体を温めた。

 脱衣場に戻って着替えようとした。私が服を入れてあったカゴが置いた棚になかった。壁に3段の脱衣カゴを入れる棚が30ある。ほとんどまばらに使用中となっている。最近物忘れが激しいとはいえ、壁の時計の真下という場所をわざわざ選び、忘れないようにした。ない。私のカゴがない。そこには見たこともない服が脱いで入れられていた。私のカゴは、そこから右側に4,5個離れた棚にあった。普通カゴは長方形の短い辺を横にして棚に入っている。多くの人がそのまま入れている。私は辺の短い方を前に縦にして入れる。後で見つけやすくするためである。ところが他のカゴと同じように入れられていた。

 貴重品狙いの窃盗か。私は共同浴場へは貴重品も財布も持ち込まない。下着泥棒。あいにく本日の下着はすでに5,6年は着古したものだ。パンツは盗られていなかった。

 「ナゼ」 私の脱衣カゴは移動されたのか。ミステリーである。このくらいの謎を解けなければミステリーなど書けるはずもない。想像する。

一、普段から私の存在を快く思っていない者の嫌がらせ。

二、カゴを移動させた者は私がカゴを置いたところを自分専用の場所と決めている英国風紳士。

三、カゴが縦になっていたので気分を害して移動させ横に置き直した。

四、奇跡が起こってカゴが勝手に好きな場所に移動した。

五、不審者か猿が侵入、物色後、盗るものがなく腹いせにカゴを移動させた。

 私としては2番だと思っている。世の中には尋常でなく場所にこだわる者がいる。英国の紳士は、通勤する列車に毎日同じ時間に改札を抜け、ホームの同じ場所に立ち、列車の同じ号車の同じ席に座る。その日の新聞を毎日同じページの同じところから読み始める。仕事が終わると同じパブの同じ席で同じ酒を飲み、再び来た時と同じように列車に乗って帰宅するそうだ。紳士が相手の承諾もなく他人の物に手を触れるのか。わからない。

 私はしばらく脱衣場に留まって、真犯人を突き止めようか思った。やめた。脱がれてカゴに入っていた服が何か怪しい色彩だった。コワイ人だったら私のような者はひとたまりもなくやっつけられてしまう。紳士と暴力は似合わないが、場所を維持するために意外な行動に出るや知らず。君子危うきに近寄らず。私のノラリクラリな性格は、物事を突き詰めて解決しようとしない。今回も解決しないままモヤモヤを引きずって自分の部屋に戻った。

 次の日曜日、選挙の投票に出かけた。毎回選挙権を行使するだけの投票である。日本の国自体が私のように優柔不断で毅然とした態度で外交問題にも取り組めないでいる。“いい人”だと思われたくて言いたいことも言わない。教育や躾の影響だろうが、見事な洗脳結果である。今回の選挙で当選した多くの人が私の脱衣カゴを動かした犯人と同じように思える。自分のすでに獲得した議員としての特権や居場所を絶対に誰にも渡したくないと死守する。自分の子にしか場所は譲らない。他の誰にも場所を取らせない、触れさせない。政治屋は家業に成り果てたか。

 私の妄想病は相当重症のようだ。


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選挙カーが来ない

2014年12月11日 | Weblog

  いよいよ今度の日曜日は衆議院議員選挙の投票日である。

 選挙の形態は私が生まれてこのかた変わっていない。世の中には進歩進化した様式や文化で溢れている。選挙は別だ。旧態依然。出馬する人種も似たり寄ったり。お坊ちゃま、お嬢ちゃま達のオンパレード。そうでなければ宗教や団体組織が送り込む議席数獲得のためのグループ内の年功序列と権力闘争で選ばれた要員である。

 しばらく前、駅の構内で子供や母親たちが何かの募金活動のために「・・のための募金よろしくお願いいたします」と声を張り上げていた。街ではハッピを着せられた若い女性が呼び込みで声を上げていた。デパートや商業ビルでは大売出しに店員たちが声を張り上げる。私はこのような声を張り上げる行為が大嫌いである。このような呼びかけで募金や買うことを決めたことはない。苦行以外のなにものでもない。どのくらい募金額や売り上げに影響があるのか科学的な分析をして欲しい。

 団塊世代だったために中学に入学して野球好きだった父を喜ばそうと野球部に入った。90人の一年生が入部した。グランドの外野をぐるっと囲んで来る日も来る日も「オー」「ウォー」などとただ大声を張り上げさせられた。正選手になれない上級生が見回ってきて「声が小さい、グランド3周、腕立て伏せ100回」などと新入生いじめに精を出した。

 日本にはこのような底辺の人々に無理難題を押し付けるイジメのような風習が根強く残っている。愚民化ともとれる。選挙という制度に於いてはこの愚民化は成功しているようだ。有権者の多くは未だに古き因習から脱却できずにいる。国会議員という特権階級になるために選挙運動期間中だけ立候補者は上から下へ降りてくる。最近選挙カーの多くが軽自動車になった。歩いてみたり自転車に乗ってみたりもする。普段はアルバイトや新入社員や部員しかやらされない大声を張り上げることもする。駅前で出勤途中の労働者や一般庶民に「おはようございます。ご苦労様です」と声をかける。「ご苦労」という言葉が上から目線の言葉であることを知ってか知らずか使う。演説なのかアジなのか知らないが口を開けば所属する政党や団体や宗教の党利党略に迎合した原稿をお題目のように繰り返す。自分の言葉で政治を語る候補者がいない。一人でもいい、普段自分が乗っているベンツやBMWで遊説してしてみなさい。私はその人に投票する。なぜなら虚勢を張らず正直だから信用できそうだからである。

 テレビやラジオの政見放送でも熱く訴えることがない、喋りが下手、みてくりが悪い、声が悪い、服装にセンスがない。昨今のテレビ出演者の世界と政治の議員になる類の人々の世界はおそろしく似ている。ラジオで作家の佐藤優さんが「若い議員の多くが金を使わない」と言っていた。アナウンサーが「政治家は金がかかると言いますが?」と問うと「せっせと貯金しているんです」と答えた。聞き捨てならない。以前から日本の地方にしろ国にしろ議員は一つの就職先でしかないのでは、が私の感想である。「若い当選回数の少ない議員がどんな仕事をしているのか見えてこない。金を自分の更なる成長のための勉強に使わない」とも佐藤優さんは言った。

 私の提案である。国会議員に初当選した議員は議会活動のかたわら1年間議員学校で徹底的に学ぶ。履修科目は外国語、介護施設での実習、東北の地震被災地の仮設住宅での暮らし体験、国際マナー、服装センスアップ、演説、作文など。成績は国民に公表する。

 私は誰に投票するかを外国語が話せるか、自分で本を書いて出版しているか、自分の言葉で演説できるか、見映えは良いかなどを基にチェックして決める。今回も飛び地のような私が住む地域に選挙カーは1台も来ない。うるさくなくていいのだが、見放されているようにも感じてひがんでいる。


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日本で買えないメイド・イン・ジャパン

2014年12月09日 | Weblog

  イタリアのヴェネッィア(ベニス)に『トスカーナ』というレストランがある。私はそこで生まれて初めて生ハムなるものを食べた。旨かった。私は一口食べて生ハムの魅力のとりこになった。ハムとソーセージは違うが私の少年時代、丸善のホモソーセージはご馳走だった。ひもじさから食通しか口にできない食べ物でも時々食べることができるまで階段をのぼるように時代を生きてきた。

  日本では“生ハム”と呼ぶ。日本人は“生”という言葉に新鮮さを感じる。刺身を英語でraw fish(調理されてない魚)と野蛮なイメージであると知り幻滅した。十代後半にカナダの学校へ行き、「日本人は魚を生で食べるのか?」とよく質問された。カナダ人は日本人が生きた魚にがぶりと噛みついて食べるとでも思っていたようだ。そんな誤解をされていた刺身も寿司の普及で世界の多くの国々で食されるようになった。

  生ハムはイタリア語ではProscitto(プロシュット)。英語でuncured ham(保存処理されていないハム)。刺身と同じく何となく危ない感がある。実際アメリカ人を家に招いて生ハムを献立に加えたが友人は口にしなかった。アメリカ人でも生ハムを食べ慣れている人はいる。その友人には馴染みがなかっただけだ。彼は「私は豚肉を生で食べません」と言った。それ以上私が言うことはなかった。

  『トスカーナ』で食べた生ハム自体にも感動したが、特製の台車の将棋盤のようなまな板に置かれたモモ一本丸ごとを包丁で一枚一枚薄紙のように切る技術には目を丸くした。私は食べ物は重厚長大を好しとする。生ハムだって厚いほうがいい。貧乏性の症状の一つである。しかし生ハムは薄ければ薄いほど好いのだ。イタリア料理が私の一位である理由は、ここまで食材を活かそうとするこだわりである。リゾット、パスタのアルデンテに仕上げる感性。盛り付けに見られる芸術性。私はイタリア人の食文化にぞっこんである。

  いつの日か私も生ハムを原木(生ハムの腿一本丸ごとを指す呼び名)で買って包丁で一枚一枚紙のように薄く切ってみたいと思っていた。高島屋デパートのローズサークルの積立金が満期になったので早速出かけた。デパ地下の生ハム専門店の主と話した。ショック。何と私の一番のお気に入りであるサンダニエールの原木が27万円。買えない。帰宅してネットショッピングで調べた。原木で3万円とか4万円で売っていた。ここまで値がひらくと眉に唾したくなる。

  生ハム用のカット台とナイフもネットで調べた。新潟県燕市の吉田金属工業がGLOBALの商標で製造販売している生ハムサーモン専用ナイフを見つけた。問い合わせると日本国内では販売していないと言われた。「だったらカタログに載せるなよ」と腹を立てた。その話を日本に住むイタリア人の友人に話した。彼はネットでイタリアから取り寄せてくれた。2週間で届いた。持つべきものは良き友である。

  高島屋の生ハム専門店でサンダニエールの小さいブロックをひとつ買った。GLOBALの包丁で生ハムを切った。よくしなりおそろしくよく切れた。素人の私でも薄く切れた。指4本に切り傷をつけたのにも気が付かないほど繊細に切れる。血が流れた。私は反省した。日本で販売しないのは、日本人の生ハム文化がイタリアの水準に達していないのだと。理由があってのことなのだ。プロ仕様なのだ。それでもイタリアで日本の生ハム専用包丁が使われていることは嬉しく誇らしい。


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ナイスキャッチ

2014年12月05日 | Weblog

  地下鉄大江戸線に乗ろうと新宿駅の中の長い長いエスカレーターでまるで地底探検に出かけるかのように下がっていた。ここが東京かと思われるほど閑散としていた。2回乗り継ぎ3回目のエスカレーターに入った。「まだ下がる。どこまで潜るの」とごちる。エスカレーターは上下2本が並行している。幅が狭く人一人分で横を急ぐ人の通過はできない。はるか下からマスクをした白いふわふわ毛皮コートの女性がまるで芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』のカンダータのように地の底からゆっくり上がって来る。私もマスクをしている。女性は左手をベルトに置いている。私も左手でベルトをつかんでいた。すれ違う。目が合う。手と手の間隔は25センチ。彼女の目に私はどう映っているのだろうか、知りたいと思った。大都会東京での他人同士のすれ違いはおそらく一生に一回だけの出逢いであろう。人間という文字の並びに“人の間”を感じる。こうして私の知らない人、人生で全く関わる事のない人々とのすれ違いに摂理と無常を感じる。彼女は地上へ。私は地底へ。

 「アッ」と声があがった。私は振り向いた。エスカレーターとエスカレーターの間、つまりベルトとベルトの間には25センチくらいの幅がある。雨樋のように深さは5センチほどでステンレス製である。ガラスのように綺麗に輝いている。そこを彼女の携帯電話が滑っている。イヤフォンの線だろうか1メートルぐらいの線がピーンと張りつめて携帯電話を止めた。「良かった」と私は思った。「ビューン」と小さい音を立てて携帯電話が再び助走体制に入った。傾斜は30度以上あるに違いない。ぐんぐんスピードが上がる。このまま下までの4,50メートルを落下すれば携帯電話は木端微塵に砕け散る。なにしろ物の落下には引力が関わる。宇宙の力と闘うのである。

 私は運動神経に問題がある。反射神経は鈍い。65歳を過ぎてから体と脳が不和関係にある。「アッ~ァ」と女性の声が上から雹のように落ちて来た。私の脳に遅い反応が起きた。冬眠中というか職場放棄しているホルモンの仕業に違いない。ホルモンが動くと反応に速度がつくらしい。緊急事態で神経回路の接続が「カチッ」とつながった。私の右手がボブスレイのように滑り落ちて来た携帯電話をしっかりとつかみ取った。「ナイスキャッチ」とどこかから声がかかると思ったが誰もいない。ホルモンが「見上げろ」と命じた。はるか上のもうすぐてっぺんに到着しそうな彼女がにっこりとマスクの上の目だけで微笑んだ。

 携帯電話は私と同じアップルのi-phone5だった。ピンクの皮ケースに収まっていた。彼女が下りのエスカレーターを長い脚で2段飛ばしに下りて来た。私に追いついた。「ドゥモ アリガト」と私と同じモンゴライド系の女性が言った。エスカレーターはまだ下に到達していなかった。私は「お互い様です」と言った。彼女が解ったかどうかは知らない。私は海外生活でどれほど現地の人々にお世話になったかしれない。彼女には私のそこまでの気持は伝わらなかったと思う。私は恩返しできたような気持になった。彼女は嬉しそうだった。まだ下に到達していなかった。間がもてない。どれだけ長いエスカレーターなのだ。やっとそっこに到着。彼女は再び地上へUターン。携帯電話は胸にいだかれていた。

 私の生涯で一番のファインプレーと呼べるナイスキャッチだった。


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落ち葉 落ち実

2014年12月03日 | Weblog

  住んでいる集合住宅の前に並ぶ12本のセコイヤが一斉に葉を落とし始めた。下の道路はセコイヤの落ち葉で埋め尽くされた。12月1日から天気は荒れ模様である。雨が降ったり、風が強く吹いた。2日は1日よりもっと風が強くなった。台風並みに吹き荒れた。セコイヤの葉は9割が落ち、残るはあとわずかである。地面はセコイヤの葉でいっぱいかと思いきや、ほとんどが風に運ばれてしまっていた。

 2日の午後、散歩に出た。寒かった。風が厚手のジャージ生地を抜けて肌に感じる。体重70キロの私でも川にかかる欄干のない橋の上で突風に飛ばされそうになった。空は快晴。青い空が美しい。向かい風が吹くたびに空気が壁になって抵抗となり歩きにくい。いつもより消費エネルギーが多い気がした。良い運動になるとやせ我慢。

 途中、私が好きな真っ赤な実をたわわにつける樹木のある家の前に来た。万両という木だと思うが正しい名前は知らない。相変わらずずっしりと枝がしなるくらい重そうに実が付いている。足元を見ると地面に赤い実が散乱していた。

  私の家の前は陽の光を浴びた黄金色のセコイヤの葉、そして今度は真っ赤な万両の実。ゲーテは「一本の美しい木ほど神聖で模範的なものはない」と言った。私は木を見ると不思議でたまらない。この地球に生命が誕生して何十億年という時間が経つ。木だって細胞を持つ生き物のはずである。最初の一個の細胞から生命体すべてが進化したなら、木も人間も生物としてつながるはずだ。木に脳があるのかないのか、感覚があるのかないのかも知らない。木は喋りもしない。屋久杉のように樹齢が1千年を超すものもある。

 我が家の居間にねむの木の鉢植えがある。昼間葉を開いているのに、夜になると葉をピチッと閉じる。朝日が昇ってしばらくすると、まるで寝起きの悪い小学生のように「おはようございます」と挨拶するように徐々に葉を開く。そのさまが何とも愛らしい。その毎日の健気な繰り返しに心惹かれる。私もねむの木に毎朝声をかける。日課である。

 高倉健が菅原文太が落ちた。残念、無念。私にどうすることもできない。順番なのだ。

 最近、私は無性に陽当たりが恋しい。陽にあたっていると嬉しく心地よい。伊藤整が「夕映えが美しいように老人の場所から見た世界は美しい」と書いた。私も自然に目を向けると世界は美しいと思える。健さんも文太さんもきっと晩年はそう感じていたに違いないと信じたい。


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