団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

妻の私以後

2014年02月28日 | Weblog

  今回のハワイ行きは私にとって体力的にも精神的にもつらかった。原因は時差ボケである。時差ボケがなくても、普段からボケが進行しているのを自覚している。ハワイに出発する直前まで風邪で家に閉じこもっていた。起きたり寝たり。運動不足、思考力不足、喜怒哀楽感受不足、やる気不足以外、眠気と鼻水と退屈に押しつぶされそうになっていた。ハワイに到着しても異例な寒さと降ったり止んだりの雨に気分が塞がれた。そこへ時差ボケである。

 妻は健康で丈夫である。もともと眠るのが嫌いと言うほど睡眠時間に囚われていないので、妻は時差ボケとは無縁である。私はと言えば、人間一日最低8時間睡眠をとらなければ、の呪縛がある。睡眠時間の計算だけは暗算ですばやくできる。

 今回会いに行ったミセスTはシアトルに住む。3年に一度シアトルから日本から中間点のハワイで七夕の乙姫と彦星のように会う。Tさんの夫がボーイング社を退職した時、ハワイの会員制リゾートの会員権を買った。今から20年前のことだった。彼らは毎年2週間のリゾートホテルの使用権を行使する。ホテルには寝室が2つある。その一部屋を私たちに提供してくれる。2組の夫婦でゴルフを楽しみ、料理して会話を楽しむ。ミスターTは10年前72歳で亡くなった。その後ミセスTも癌に冒され死線をさまよいながら2年間入退院を繰り返し、化学療法などで闘病した。今も最終レベルの4の状態に変化はないが、奇跡的に日常生活に支障はない状況で、冬は再びハワイ通いを始めた。

  T夫妻は5人の子供に加えて私の長女を実の子供のようにして10年間預かって育ててくれた。私は彼らにどんなことをしても恩を返すことはできない。「ハワイへ来ないか」と誘われれば何をさて置いても会いに行くようにしている。今回も誘われてすぐにハワイへの飛行機のチケットを手配した。

  80歳くらいになった(年齢を聞いたことがないが、ミスターTと州立ワシントン大学で一緒だったことから私の推測)ミセスTは癌でステージ4だったとは信じられない。ハワイへ行くと主治医に言うと「好きなことをして楽しんでください」とだけ言われたそうだ。ミセスTと3回ゴルフをした。雨が降ったり止んだりの中、ゴルフをしている時だけ雨が降ることはなかった。ミセスTは淡々とフェアウエーをキープして小刻みにボールをホールに近づけて行く。(写真参照)私はゴルフどころの話ではなかった。何を言っても元々ゴルフは上手くなく言い訳になってしまう。時差ボケとハワイの常夏の気候を期待していたのに寒くて体がこわばっていた。妻と一つのゴルフバックに二人分のクラブを半分に制限して持って来ていた。こういう時はあてが外れて、普段使わないようなクラブが必要となる。そうでなくても記憶力が機能せずゴルフのスコアを数えて覚えていることができない。散々なゴルフだった。

  ミセスTは肩の力を抜いて心からゴルフを楽しみ、私たちとの再会の時間を喜んでいた。ミセスTの姿を見ながら、私は妻の私が死んだあとの生き方を思わずにいられなかった。ミセスTはクリスチャンでミスターTが先に天国へ行ってミセスTをそこで待っていると固く信じている。末期の癌から小康状態を保っていられるのも信仰の力だと思われる。私と同じく妻も宗教には懐疑的である。ミセスTは一人で何でもする。生活を楽しめる。妻は旅行の趣味もない。人付き合いも苦手なようだ。家で静かに読書して家事をする。仕事仕事の日常である。私が死ねば、妻はミセスTのような生き方はとうていできないだろう。同時に死ぬことはできぬ。心配は尽きない。

  ミセスTと妻とは違う。私の終活の一環として妻の私以後を考える。参考は『僕の死に方-エンディングダイアリ-500日』である。(小学館 流通ジャーナリスト金子哲雄著) 金子さんは肺カルチノイドで41歳の若さで妻雅子さんをひとり残して亡くなった。哲雄さんは自分の死後、雅子さんが困らぬよう、細かいことまで命令に近い指示を書き残したそうだ。哲雄さんの「私が死んだら、ただちに引っ越せ」などの指示に彼の優しさを感じる。私も私なりに妻の私以後の準備を進めたい。同時に妻に感謝しつつ今を精一杯妻と生きたい。忙しくなりそうだ。


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機長「操縦室にネズミが・・・」

2014年02月26日 | Weblog

 香港の空港から離陸しようとしたネパール航空のカトマンズ行きのボーイング757の操縦席のコクピットでネズミが発見された。これが原因で出発が見送られた。詳しいことは分からないが、航空法で操縦室にネズミなどの動物が紛れ込んだ場合、飛行機の飛行は禁止されているらしい。このニュースを読んでネパールで暮らしていた時のことを思い出した。

 私が住んだネパールの家にはたくさんのネズミがいた。日本から連れて行ったシェパード犬はネズミを捕まえるのがうまく、よく捕まえていた。わざわざ見せなくてもいいのに、誇らしげに獲物を私の前に差し出したものだ。

  休暇で日本に一時帰国して1ヶ月ほどすごした。ネパールに戻って車を雇っていた運転手がエンジンをかけようとした。自家用車は休暇中ずっと納屋兼駐車場に入れてあった。何回も試したがウンともスンともいわなかった。バッテリーを調べたが問題はなかった。車をジャッキで上げて車体の下を見た。あちこちに垂れ下ったケーブルがあった。あきらかに噛み切られた跡がついていた。修理するのが大変だった。ネズミの生命力に驚かされた。

  日本から持ち込んだ2つのネズミ捕りを使うことにした。私が子供の頃、どこの家でも使っていたワイヤーでできたカゴ状のワナである。私が子供の時住んでいた家にもネズミがたくさんいた。夜など天井裏を駆け回るネズミの足音で眠れないほどだった。父親はネズミだんご、ネズミ捕り(板に強力なバネがついていて、バネの前にエサを置きエサを取ろうとするとバネが跳ね落ちネズミを抑え込むモノ、ワイヤーがカゴ状になっていてエサを中に吊るし小さな入り口からネズミが中に入ると入り口のフタがバチンと閉まるモノ、鳥モチのような強力なネバネバした接着剤が塗られた30センチ四方シート状のモノ)を駆使してネズミ退治をやっていた。ワナにネズミがかかると嬉しそうにバケツに水を入れ、ワナごとネズミを沈めて殺した。死んだネズミは庭に穴を掘って埋めていた。せっせと退治していても天井裏を駆け回るネズミは一向に減ることはなかった。

  ネパールでは私の父がやっていたネズミ退治を私がやるようになった。シェパード犬と私は競うようにネズミ退治に精を出した。日本のカゴ状のワナには多い時には一度に3匹のネズミが入っていたこともあった。妻は怖がって捕まえたネズミを見てもくれなかった。犬が私に獲物のネズミを見せたがる気持ちと同じ気持ちで妻に見てもらいたい気持ちだった。ネパールの家の外にはネズミはいたが、中では見たことがなかった。たぶん床が大理石で天井裏もなかったからであろう。

  先週ハワイから帰ってくる時、ブレーキの警告灯がついたというので飛行機を換えることになり2時間出発が遅れた。ネパール航空の飛行機が香港の空港でネズミ一匹のためにフライトがキャンセルされたのにも納得がいく。私の車のケーブルがズタズタに噛み切られたのを見ている。飛行機の複雑な配線をネズミが噛み切ったら安全な飛行はのぞめない。小さなネズミが大きな飛行機を飛ばさせない。あらゆる危険を取り除きできるだけ安全な飛行に航空会社は努力している。

  私がネパールに住んでいた時、ネパール航空はロイヤル・ネパール航空と呼ばれていた。王政が廃止されネパールの国家形態は大きく変わった。小さなネズミはネパールの国情がどう変わろうと強力な噛み切る本能を駆使して、今日も生き抜こうとしている。次から次とネズミ算式に増えて人間を困らせている。ネズミと人間の熾烈な生き残り競争である。

 ネパール航空の旅客機の操縦席にネズミが入り込んだというニュースを聴いて、ネパールで過ごした3年8箇月の生活とその間のネズミとの闘いを生々しく想いだした。今住む家にネズミの気配は、まったく感じられない。広い庭を走り回って、ネズミの捕獲を楽しんだ愛犬も、すでにこの世にいない。さみしいけれど懐かしい。


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真央ちゃんとキム・ヨナ

2014年02月24日 | Weblog

  21日午前10時頃バスに乗った。昨日までのどんよりした寒い日が青く晴れ渡ったバスの中にも陽が容赦なく差し込むような日になった。乗客は10数人、陽気のせいかバスの中の会話の声も弾んでいた。すぐ後ろの席の二人の60か70代女性の会話に好奇心のチャンネルを合わせた。

 「あんた、真央ちゃんのフリーの演技観た?あたしはもう泣けて泣けて、声出して泣いちゃった」「また転んだの?」「違う違う。完璧だったのよ。良かったよ」「あたし観ようかと思ったけれど、具合悪くなるんじゃないかと心配で観なかった。朝もわざとテレビもラジオのニュースも避けていた。結果を知るのが恐ろしくってさ」 私(フンフン、そういえば私もこの観ざる聴かざるのおばさんと同じだった) 「ショートプログラムであれだったでしょう。スッテンコロリ大転倒。フリーは私、どんなことがあっても応援しようと思って目覚ましかけて起きて観たの。奇跡よ。もうボロボロ泣いたわよ」「そうだったの。私も観ればよかった」「そうだよ観たほうがいいよ」「今日また放送するかね?」「するわよ、今日は一日中、真央ちゃんのことばっかりだよ。観たほうがいいよ。こんなこと一生に一度しか観られないよ」

 「キム・ヨナはどうだった?金?」「銀だった。でもたいしたもんだよ、キム・ヨナは。素晴らしかったよ。安心して観られたもの」「私はキム・ヨナが大好きなの。もちろん真央ちゃんも好きだけど。女でもあの独特な雰囲気に飲み込まれそう」 私、(この人たち本気なの、最近の日韓関係から言って事あるごとに対立しているし、スポーツだってまるで代理戦争みたいになっている。選手たちだって国旗を背負わされて重圧を感じているに違いない。私の気持ちの中にも、そんな敵対心が残念だがある)「キム・ヨナは度胸が据ってるよね。本当にいつも感心するわ」「キム・ヨナも真央ちゃんがあんな失敗してライバルとして切なかったと思うよ。堂々と闘いたかったと思うよ。ずっとライバルだったんだから」「でもキム・ヨナだって真央ちゃんのフリーにはびっくり仰天しただろうね」

 この二人の女性の会話を聞いていて先週ハワイで一緒に過ごしたアメリカ人のTさんを思い出した。いろいろなシガラミから離れて純粋にオリンピックをスポーツとしてだけ達観して楽しんでいた。バスの二人の女性は偏見も憎悪もなくただただフィギャアスケートを美しいスポーツとして捉えている。私は日本の庶民がここまでオリンピックを公正かつ寛大な気持ちで観られることに感動を覚えた。

 用事を済ませて帰宅した。この二人の女性の会話のおかげか、一日中テレビで真央ちゃんの素晴らしい“最後?”の演技を何度も何度もチャンネルを変えて追っかけるように観た。地獄から天国。あの失敗があったからこそフリーでの挽回が生まれた気がする。今日はオリンピックの選手たちにも日本の地方の女性にも大きな教訓を与えられた。国家や政治がどれほど善良でごく普通の庶民の心情をかき乱していることか。それに比べれば、特に平和を願う一般女性の世界観というか生活感には学ぶことが多い。


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オリンピック狂想曲

2014年02月20日 | Weblog

  今回ハワイで期せずしてアメリカ人恩人Tさんと一緒に冬季オリンピックを観戦することになった。そこでアメリカと日本の国民性と文化の違いを感じた。Tさんは70歳代後半の日系3世である。第2次世界大戦中、全財産を放棄させられ家族全員が強制収容所に入った。その彼女の観戦態度にこれこそスポーツの楽しみ方だと感心した。

  実況は味気ないほど単調でもメダル獲得となると獲得者に関するバックグランドを詳しく放送して讃える。アメリカはやはりスポーツにおいても“アメリカンドリームを実現すれば複合民族国家での英雄”になれる国で、日本は日の丸を背負う“何事もお国のためにの意識が強制される単一民族国家”だと思い知らされた。

 アメリカのオリンピック代表選手はそれこそ地球上のあらゆる人種から出ている。建国以来、何の分野においても頂点に立って“勝てば英雄”つまりアメリカンドリームの具現者となれる。どの国、どの人種、どんな宗教の選手であれ、それは適用される。

 アメリカのテレビでの実況放送を観た。どの競技も淡々と放送されていた。お祭り騒ぎでもなく、選手はアメリカのためにというよりは個人のために闘っているようだった。70以上あったケーブルテレビのチャンネルでオリンピックの実況放送はNBC系列の2つだけだった。何しろ時差がある広大な国である。主要テレビ局のニュースでオリンピックの結果が伝えられることはなかった。テレビ局にもそれぞれの個性があった。

 日本を出国する時、正直ほっとした。テレビは明けても暮れてもオリンピックでだれだれがどうだのこうだのの芸能ニュースのノリだった。予選さえ終わっていない段階で金メダル有望などと煽りまくっていた。プロ野球も、やっとシーズンが終わったと思ったら、キャンプ情報の洪水のような報道合戦が始まった。やれ誰々投手が投球練習で36球投げボールが走っていた、などと訳の分からない、どうでも良いことを伝えているのと同じで私はそういう放送傾向が嫌いだ。

 スポーツで優勝者や勝者を讃え、英雄視することは当然である。今朝このブログを書いていると、女子フィギャアの浅田真央選手がショートプログラムで16位のニュースを知った。女子ジャンプの高梨沙羅選手も4位で終わった。これはある意味でメディアにつぶされた気がしてならない。期待するのは自然で何ら悪いことではない。応援するのもちっとも悪いことではない。しかし過度に騒ぎすぎることは、決して選手に良い影響を与えているとは思えない。一方オリンピックが始まる前、名前さえメディアが取り上げなかった選手の活躍がある。昨日スノーボードの女子パラレル大回転で竹内智香選手が銀メダルを勝ち取った。今朝のニュースでは浅田真央選手のショート16位のほうが竹内智香選手の銀メダルよりずっと大きく扱われている。日本にはジャパンドリームはないようだ。これでは日本のスポーツの将来は暗い。スポーツだからこそオリンピックだからこそ勝者を英雄と讃える、そういう環境が必要だ。競技前は静かにしている。結果を出したらそれ相当な評価と賞を与え、それこそ大騒ぎして讃える。

 ハワイでアメリカ人のTさんと一緒にオリンピックを観戦していて、競技そのもの、選手の健闘ぶりを観て、公平に応援する姿に感動した。2020年オリンピック、パラリンピックが東京にやってくる。そのころまでには日本のメディアが少しでも成熟へ向かい始めていることを望む。メディアの影響力は恐ろしいほど強大である。


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大雪。行くか、引き返すか。

2014年02月18日 | Weblog

 大変なおもいをして妻の勤務に支障をきたさないようにとハワイから帰国できたら、今度は大雪ときた。相変わらず早とちりの私はテレビの天気予報士たちが「弾丸低気圧」と連呼するのを聴いて、“弾丸”というからには相当な速さで進む低気圧なんだな、と受け止めていた。妻と話していて、“弾丸”ではなく、南の岸と書く“南岸低気圧”だと知った。最近、聞き間違いが多い。ソチの冬季オリンピックでの“キン(金)”と“ギン(銀)”聞いただけでは区別がつかない。その都度、間違いに変に納得してしまう自分が情けない。

  2月15日関東地方の交通網は大雪と強風のために大混乱となった。ずっと楽しみにしていた高校の同窓会が正午から新橋の居酒屋で開かれる予定だった。

 その日の朝、妻の出勤は情報に振り回された。改札で電車が来ると言われホームへ出たが結局来なかった。私の「もしや」のカンが働き、駅の駐車場で待機していた。妻に電話をかけた。「1時間20分遅れだって」と途方にくれていた。「車で送るから外に出て」と言った。新幹線は平常運転していた。幸い私が住む町には積雪もなく道路も閉鎖されていなかった。新幹線駅のある近辺の道路にも積雪はなかった。妻を無事新幹線駅まで送ることができた。

  帰宅するとテレビやラジオでは甲信越地方と関東地方各地の大雪による被害が次々と報告されていた。その後、何とか勤務先に行きついた妻から「駅から病院まで信じられないくらいの積雪があり、雪の下部は水になり歩きづらく滑る危険にハラハラしながら靴も靴下もスラックスもビショビショになった」とメールで報告してくれた。私を気遣って「こんな日に東京に出てくるなんていう気がしれない。まだ出かけていなければ家にいたほうが絶対にいいよ。そうしてくださいね」と結んだ。

 とにかく同窓生に会うのをずっと楽しみにしていた。あの人にもその人にもこの人にも会いたいと彼らの顔がちらつく。東京で本当にあんな大雪が降ったのかを見たいという好奇心もうずいた。パソコンで交通情報を調べた。東海道新幹線なら東京まで行けそうだ。東海道本線も動き出したようだ。ずぶぬれになってもよい支度をして、靴下の予備を持って家を出た。奮発して往復、新幹線の切符を買った。約7千円だった。年に一度だし、普段会えない人たちに会えるのだから、金にはかえられないと思い切った。妻からメールが入った。「まさか出かけていないでしょうね」 まさかの予想は見事に当たっていた。私はすでに新幹線に乗り換える駅に向かうやっと運行再開した東海道本線の電車の中にいた。

 新幹線のホームに立った。一年に数回しか鳴らない携帯電話がカバンの中で震えた。まさか妻が私が家を出たのを察知して電話で東京行きを阻止しようとかけてきたのか。出た。同窓会の幹事のM君だった。「今日の会中止になった」 それを聞いたのと同時に“こだま”が入ってきた。

 同窓会が中止なら東京へ行く理由はない。「家に帰ろう」と開いた“こだま”のドアの前で踵を返して階段に向かった。改札で事情を正直に話した。「すでに改札を通っているので払い戻しには手数料が加算されます。それでもよろしければそこの窓口へ行ってください」「それでもよろしいです。ありがとう」

 手数料と言っても驚くほどの額ではなかった。東海道本線は間引き運転だったが運行を回復し始めていた。窓から太平洋が見えた。少し青空も出てきた。ぽっかり穴が開いたような気持だった。大雪で多くの人々が大変なめに遭っている。ハワイから帰ってくるときの苦労と比べたらまだマシだ。妻に同窓会が中止になったとメールした。

 「私が言った通りでしょう。幹事はまともな決断をしたと思う。偉い」と安心してくれた返事が昼休みになった妻から届いた。妻の言う通り。現場からの直接情報は一番信頼でき、有り難いものだ。これから増えつつある災害や変動や騒動は、夫婦で自分の家を起点として考えて、あらゆる決断を下していきたい。


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三連続 ヌカヨロコビ

2014年02月14日 | Weblog

 私の長女を預かって育ててくれたアメリカの恩人とハワイで5日間過ごした。楽しい時間はあっという間だった。彼女に空港まで送ってもらった。別れは辛かった。ハワイのカウアイ島リフエ空港からオアフ島ホノルル空港へは約30分だった。

 日本への乗り継ぎまで7時間あった。妻と市バスに乗ってアラモアナショッピングセンターへ行った。日本出発前から買うものを決めていた。調理用具専門店のウイリアムズ‐ソノマと書店バーンズ&ノーブル ブックセラーズでの買い物を済ませた。荷物が大きかったのでタクシーで空港へ戻った。

 少し早かったが日本航空のカウンターへ行った。カウンターに2人の女性係員がいた。私が口を開く前に、私の目がカウンターの前に貼られた紙を読んでいた。「キャンセル」の言葉がやけに大きく見えた。「本日乗務員の手当てができないために17:35発JL089便羽田行きはキャンセルされました」“嘘だろう”と20メートルはあるだろう高い天井を見上げた。「お客様、申し訳ございません。本日の便はキャンセルされましたので、明日の便にご搭乗していただくようになりました」「私はかまいませんが、妻はどうしても仕事の都合で帰らなければならないのです」「他の便に変更できないか調べてみますので、少々お待ちください」

 私たちの後から三々五々と乗客がカウンターに来るようになった。便のキャンセルを聞いて「やったー。もう一日ハワイに居られる」と喜ぶ若者たちが多い。日本人も世代交代し、物事の受け止め方がずいぶん変わってきた。来る人来る人みな静かに現実を受け止め、どこへ行くのか、どうするのかの私の疑問に後ろ足で砂をかけるように空港から出て行った。

  だいたいどこでも“少々”と言われると2、30分と私は経験上予測する。32分後女性がカウンターから20メートルぐらい離れたところで待つ私たちに笑顔で近づいてきた。「良かったです。全日空さんの便に2席確保できました。今書類を作りますので、それを持って全日空のカウンターへ行ってください」 私たち夫婦は両手を握り合って目を見つめあい小躍りするように「良かった。良かった。やはり早く空港へ戻って良かったね」とお互いの運の良さを祝った。

  全日空の羽田便への受付が始まった。列の先頭にいた私たちは意気揚々とカウンターの前に立った。5,6分経った。女性係員が襟に付けた小さなマイクに話しかけた。上司を呼んだ。ちょっと恐そうな女性上司が来た。「申し訳ございませんが、本便はすでに満席でございましてお客様の席はお取りできません。日本航空さまにお戻りなって事情をおはなしください。私どもはこの件に関して日本航空さんから電話さえいただいておりません」 言葉は丁寧そうだが、意地の悪さが、日本航空へのライバルとしての対抗心がメラメラと燃えたぎっていた。

  日本航空のカウンターに戻った。例の50歳近辺の優しい女性係員が、さらにいろいろ方法を探ってくれた。「ハワイアン航空で1席だけ取れました。お二人一緒でなければだめですよね」私「いいえ、妻だけでもいいので乗せてください」 妻も同意した。荷物を整理して妻が持ち帰らなければならない物を小さいほうのスーツケースにまとめた。女性が戻り「取れました。2席。離れて座るようになりますがよろしいでしょうか」 私内心で“貨物室でも、床に座れと言われても乗ります”と叫んだ。まあよくこの女性私たちのためにここまでやってくれるものだと感謝した。二人で全日空のときよりもっと幸運を噛みしめた。

  ハワイアン航空での手続きは全日空と違いハワイ独特のアロハとマハロの待遇だった。私たちは47番のHJという一番機内奥の席についた。機体が駐機場所を離れた。私たちは赤ワインで祝杯をあげようと手を握り合った。機長が「ブレーキの警告灯が点滅しているので機を駐機場に戻します。安全運航上、ご理解をお願いします」 握られた二人の手は汗ばんだ。20分後私たちは機内から出された。他の飛行機を飛ばすことになった。予備の同型機があったのは幸運だった。こうして3時間遅れでホノルルを離陸した。

  ヌカヨロコビを繰り返すことで二人の疲れは限界を超えた。無事我が家に戻れた。今回も二人の結論は「我が家が一番」で意見は一致した。


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あった、日本製品

2014年02月06日 | Weblog

《お知らせ:都合により2月12日水曜日分を本日投稿します》

 

  私にはテレビや映画を楽しむ方法がある。海外ニュースや最新封切り映画を見れば、画面に映る製品がどこの国のメーカーのものか目を凝らす。画面に映る製品で世界の動向が見えてくる。

 よく見るシーンに新聞記者やテレビの記者がカメラやビデオカメラを持って取材攻勢をかけているのがある。取材されている人物よりも私の眼はカメラやビデオ機器がどこの製品かを見極める。いまだにカメラはNIKONが圧倒的で、ビデオもSONY,CANON、PANASONICなどが多い。それを確認しては安堵している。

 アフガニスタンでテロがあって現場が映るとトヨタのランドクルーザーが国連のマークを付けて走っている。タイのデモを伝える町の道路は、いすずや日野のトラックや日本車に埋め尽くされている。ベトナムの通勤時間帯の道路には、日本のオートバイが溢れる。一方中国や韓国からの道路の映像の中に日本車を見つけるのは困難である。

 私は日本製品が国際競争力を失っていることを残念に思っている。私ごとき一般庶民が思い煩うことでないことは重々承知している。私には日本製にこだわる理由がある。17歳でカナダの全寮制高校へ転入した。学校で寮で嫌というほどメイド イン ジャパン=粗悪品と馬鹿にされた。悔しかった。全校でたった一人の日本人だった私の存在が生徒たちのうっぷん晴らしにされた。私と日本製品とは何の関係もなかった。ただ私が日本人というだけで、まるで私=日本国のごとくに扱われ、ことあるごとに嘲笑の種にされた。

 その後、日本は目覚ましい発展を遂げる。いくつもの会社が世界的ブランドになった。バブル崩壊を期に日本製品の凋落が始まった。1990年から妻の海外勤務に配偶者待遇の立場で同行した。ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアに住んだ。どこに暮らしても、日本製品の浸透度、評判が気になった。カナダの高校で散々馬鹿にされたことへの反発があった。日本だってできるんだ、と信じたかった。12年続いた海外生活の最初の数年間は、日本製品には勢いがあった。そんな状況を実際に自分の目で見て耳で聞いて嬉しかった。セネガルあたりから様子が変わってきた。セネガルには中国のHAIER、韓国のLGが進出していた。いたるところにこの2社の看板があり、日本の家電品は影がうすかった。住んだ国々が発展途上国だった所為もあって、品質よりもとにかく値段が問題だった。

 日本に帰国すると12年前の日本とは別の国のようになっていた。浦島太郎になった気がした。とにかく日本は元気を失っていた。帰国して10年になる。3年前には東日本大震災に遭遇した。疲弊した日本の中に日本人本来の姿を再び見ることができた。大震災後、日本が変わってきた。

 世界には親日的な国もある。そうでない国もある。200近くの国家とそれに準ずる地域がある。すべての国から好かれることはありえない。国と製品は異なる。日本の製品によっては、世界の誰からも好かれるようになることは可能である。日本製品で日本を嫌いな人々を日本好きに変えることもできるかもしれない。妥当な価格、優れた品質、好まれるデザイン、アフターサービス。競争は激しい。しかし日本人の真面目さ、器用さ、我慢強さ、繊細さ、美的感覚があれば、とことんモノづくりを追及できるはずだ。期待している。


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変身、シャッター街

2014年02月06日 | Weblog

 《お知らせ:都合により2月10日月曜日分を本日投稿いたします》

 住む町の商店街のアーケードが取り外された。シャッター街はずっと廃墟のようだった。シャッター街になって久しい見慣れた活気のない街並みの風景が違って見えた。取り外された理由は分からない。アーケードが古くなって危険になった。アーケードの天井に付けられた照明の電気代の負担ができない。理由はどうであれ、暗くて重い雰囲気の商店街がアーケードを取り除いただけで、明るく空間の拡がりを感じる。そんな変化を目の当たりにして、3つの妄想が湧いた。

①    シャッター街をスクリーンに

  去年の暮も改修復元工事を終えた東京駅に“東京ミチテラス”というCGを使った光の祭典があった。東京駅の外壁全体が美しく幻想的な大スクリーンになって観客を魅了した。CGや映像の投影技術進歩は目覚ましい。東京駅で使われたような大規模な機器装置でなくもいい。簡易な投影機をシャッター街のあちこちに設置して暗くなったらシャッターをスクリーンにして、シャッター街の陰気な雰囲気を吹き飛ばせないだろうか。

②    シャッター街をキャンバスに

  ヨーロッパによくある狭い道の両脇に立ち並ぶ商店街が好きでよく歩いた。ヨーロッパの建物は煉瓦造りが多い。私の住む町のシャッター街の建物はほとんどが新建材で建てられている。①は夜しか使えない。ならばよく工事現場のまわりを絵や写真を印刷してある遮蔽用の囲いのようにシャッターをキャンバスにしてしまう。そこにその街の江戸時代、明治時代、大正時代、昭和時代などの商店街の風景を描く。

③    シャッター街を博物館に

 住民は冷たい。自分たちの生活を安定させるために大企業が経営する安くて駐車場が広く品ぞろえが豊富なスーパーやコンビニで買い物をするが、個人商店を平気で見捨てる。それがシャッター街出現の原因である。シャッター街は店舗兼住宅が圧倒的に多い。ということは店舗部分はそのまま空いているということだ。この空間の利用を考える。シャッターを上げないことには、商店街の廃墟化は防げない。どんどんゴーストタウン化が進む。ではどうするか。まずシャッターを上げる。アーケードを外しただけでこれだけ街があかるくセイセイとした。アーケードの次はシャッターが邪魔だ。このシャッターを取り外して商店街博物館にする。1商店に1枠の展示ブースを設ける。どの市町村にも歴史があり地元出身の偉人文化人有名人がいる。本来、博物館を建てて保存保管しなければならないモノは役所の倉庫にも商店にも家庭にもあるはずだ。各商店の枠は小さくてもよい。現にヨーロッパの路地にある商店街などの店もショーウインドーも小さいものが多い。何が展示されているのかと小さなショーウインドーを覗くのも楽しいものである。数十軒の商店の小さな展示場にその商店街にまつわる、その市町村にまつわる展示品は観る者の興味をひく。シャッター街の敵は、人通りのなさである。出歩く人の数を増やさなければ、それこそ町の中さえ“限界集落”になってしまう。

 無責任なただの思い付きかもしれない。シャッター街を見るたびに哀しくなる。何とかならないかと考える。商売の難しさは私も身に染みて体験している。客がいて、商品が売れなければ商売は成り立たない。商店街はフリーマーケットだの福引だのと企画する。企画すればするほど経費がかかり、月日が経つにつれて閉じたままのシャッターが増えていく。ここは発想を転換させてみたらどうだろう。人が戻れば、商売は自然発生するに違いない。アーケードを外しただけで、街の景色が変わった。もっと変わってもっと明るい街になってほしい。


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大発見、STAP細胞

2014年02月06日 | Weblog

  理化学研究所の小保方晴子(30歳)博士のSTAP細胞の発見が大きな話題になっている。私にはその発見の内容を理解するだけの知能も知識もない。大発見の科学的詳細を知ることをハナからあきらめている。ただ若い女性研究者が大発見をしたことを素直に喜んでいる。小保方さんの話の中で「ピンチに陥ると必ず助けてくれる人が現れて、助けていただけた」には自分の耳を疑った。私が自分の人生を総括する時に思うことと同じだったからである。

 私は自分の人生のいくつかの絶体絶命のピンチで助けてくれた人が現れている。4歳で実母を亡くした。残された4人の幼子たちの面倒を見るために実母の妹が継母になってくれた。「あの時、幼いあなたたちを見て、放っておけないと何も考えないで飛び込んでしまった」と今でも笑う。継母が来る前、東京と新潟の2家族に預けられたが、結局長野県に戻った。理由は分からないが、たぶん、私は貰われていくにはあまり可愛くない子だったに違いない。

 その後、家の近くの農業用水に流された捨て猫を助けようとして私は水の中に落ちた。農繁期以外はチョロチョロとしか水が流れていなかった。田植えの季節で水は満々と川渕にまで迫っていた。たまたまそれを見ていた近所のおじさんがいて、流される私と私が抱いていた猫を助けてくれた。私はこの事故の記憶はまったくない。親から何度も「あの時あのおじさんが助けてくれなかったら、お前は死んでいた」と聞かされた。

 高校に入って通ったアメリカから来ていたバイブルクラスの講師ネルソン夫人はカナダの高校へ留学するのに煩雑な手続きを引き受けてくれ身元保証人になって助けてくれた。

 日本に帰国して結婚したが、10年も続かずに離婚した。手元に残された2人の子供。長男は全寮制の高校が彼の面倒をみてくれた。長女はアメリカの友人一家が預かって育ててくれた。

 私は長野県に残り、働けるだけ働いた。子供が大学を卒業するまではと歯を喰いしばって仕送りした。息子には週1回、娘には毎日手紙を書いた。

 最後に幸運のキューピットが弓の矢を私の心を打ちぬいた。私の人生における大発見であった。40歳を過ぎてから出逢いがあって再婚した。今の妻は私の人生を変えた。妻は大学医学部を卒業してから私と結婚するまで、不妊治療の勉強をしていた。そのためにオーストラリアそして英国にも留学した。小保方さんにも同じような女性に対する思い遣りが研究の根底にあると聞いた。

 妻の研究は発見やいかなる賞にも結び付かなかった。けれども妻に後悔はない。私はそういう妻を尊敬する。今回の小保方さんの大発見のニュースにも妻は何回も目頭をティッシュで押さえていた。「ピンチに陥ると必ず誰かが現れて、助けていただいた」と小保方さんが言うと妻は「彼女には周りには傍から見たら無駄としか思われない研究を毎日何度も繰り返すたくさんの研究者がたくさんいるんだろうね」と言った。いかなる科学的な研究に従事したことがない、もともと理系でない私には彼女たちの研究の実際を理解することは難しい。でもそれを聞いて母の言葉を思い出した。

 「10人の人がいたら、そのうちのせめて3人くらいからは、お前をどんなことをしても助けてあげたいと思われるような、そういう性格の良い好かれる人になりなさい。お金より勉強より大切なことだよ」


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バレリーノ

2014年02月04日 | Weblog

  第42回ローザンヌ国際バレエコンクールにおいて、長野県松本市の高校2年生の二山(にやま)治雄さん(17歳)が優勝した。新聞記事を読み進めると、私を驚かせる事実が出てきた。二山さんがバレエを習うために通うのは白鳥バレエ教室とある。私には3人の姉妹がいる。その3人ともが父の勧めでバレエを小中高と通して白鳥バレエ教室の主宰者塚田たまえ先生に習った。バレエ教室に何十人もの女の子がいたが、私が知る限りではその教室に在籍した男の子は一人しかいなかった。その男の子も数年でやめてしまった。世間でバレエは女の子が習うものと決めつけられていた。正直私もそう思っていた。父も私にバレエを習えとは言わなかった。

 バレエ教室では毎年市民会館で発表会が行われた。私が高校生の時、請われてその発表会に出演したことがある。どうしても男性の踊り手を手当てできず急きょ塚田先生に請われて特訓を受けることになった。父親が後援会の会長をやっていた。断ることができなかった。今では想像することもできないが、当時私は身長167センチ体重49キロだった。バレエの舞台に立っても、邪魔になる体形ではなかった。運動神経はごく普通だったが、力持ちでもなく自信はなかった。女性の踊り手を舞台中央で雲を抱き上げるように支えるリフト、時間にして1,2分の出演だった。

 今回優勝発表直後の喜びをインタビューで語る二山さんのように厚い化粧を私もしていた。化粧した私の姿容貌は誰が見ても私と判らないに違いない。何より私が演じたのは真っ黒な衣装を着けた悪魔だったので、化粧もナマハゲのようだった。幸い、私の手元にあの発表会の写真はない。化粧は我慢できても、あのタイツ姿は誰にも見せたくない。恥ずかしい姿だった。

 女性をバレリーナ、男性をバレリーノとイタリア語で言うそうだ。私はバレリーノになろうとは思わなかった。その才能もない。しかし何事も経験である。たとえ1回だけであっても発表会に出演したおかげでバレリーノになる道を見限ることが迷わずできた。あの当時私の気持ちは数えきれないほどの憧れの職業ではちきれそうに膨らんでいた。消去法は次から次へと可能性をしぼませた。

 上田で生まれた私の長女も白鳥バレエ教室でバレエを習った。そして私は後援会長も勤めた。塚田たまえ先生は後継者に道を譲ったのか新聞記事に名前を見ることはできない。しかし60年以上長野県でバレエの普及とレベルアップに貢献され、見事に今回のローザンヌでの優勝するバレリーノ誕生に至らせた功績は大きい。二山さんは週5回松本と長野の教室に通い、午前2時まで練習して教室から高校に通うこともあるという。インタビューで言った「僕を応援して支えてくださったすべての人々に感謝する」は、彼の苦難と支えた人々の犠牲が報われた瞬間であった。

 日本の小さな17歳が世界で活躍する。痛快だ。嫌なニュースが多い中私たちの溜飲を下げてくれる。今度のソチの冬のオリンピックでも活躍が期待される。多くの平凡で小さな者の果たせなかった夢を背負い込んで日本の若者が世界で闘う。“ニッポン人”をどんなふうにでも、肯定的に受け止め、“ニッポン人で良かった”と思えることは幸せなことである。


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