お知らせ:私が投稿するyahooブログ『胴長下短豚』のタイトルを『気配り目配り手配り・ひざくりげ』に替えることになりました。4月27日に『コウモリ』を載せました。投稿は土・日・祭日を除いた3日おきです。両ブログ共々ご愛読いただけたら幸いです。
『せったかせわねかせってみよ』
「せったかせわねかせってみよ」これは私が子供の頃知った信州の言い回しである。標準語で「言ったのか言わなかったのか言ってみて」ということだろう。言った、言わないは人間の争いの常である。動物は言葉を持たない。動物の争いは種の保存のための交配相手の奪い合い、食料の争奪、領地の保持という生存をかけた本能に引き起こされる。殺すか殺されるかの真剣勝負である。
13日菅首相が官邸で松本健一内閣官房参与と会談した際、「原発周辺10年住めないのか、20年住めないのか」と菅さんが言ったと松本参与がだれかに打ち明けたらしい。それをどこかの記者が記事にして大騒ぎとなった。何のことはない、「せったかせわねかせってみよ」論争である。人間は嘘つきである。どんなことでも相手の話を自分の都合よく曲解する。人間は言質を簡単に翻す。長いものに巻かれろは、役人の生き延びる知恵である。権力の強い者は、目下の者を服従させる。そこに正義とか真実はなく、あるのは都合だけだ。これを防ぐ方法は、速記、映像録画、録音などの記録であろう。
多くのアメリカの大統領を描く映画が面白いのは、カメラが大統領の執務状況を普段見ることができない聖域の中で、事細かく実写のように追い回すからに違いない。観客は、絶対に見ることができない権力の中枢に何の障壁もなく同時に存在できるからだ。この日本国の存亡がかかる危機的状況において、仲良しクラブの記者たちのブラさがり会見など国民はだれも見たくない。ただ見たいのは、国家元首である菅さんが、官邸執務室において命がけで指揮をとる姿に他ならない。だれも伸子夫人と仲むつまじいプライベートな姿を覗き見たいのではない。松本内閣官房参与と口角泡を飛ばして、原発周辺の日本国国民のために、いかにして安全を確保するかを論じている姿を見たいのである。ここで「せったかせわねかせってみろ」の争いや言い訳は、だれの心をも揺り動かさない。テレビ、映像がダメなら、せめてラジオか新聞で、まず小さなありのままを伝えてほしいと願う。
東京電力、原子力安全委員会、経済産業省原子力安全・保全庁どこの組織にも同じことが言える。雁首揃えて、ひな壇に並ぶだけなら、毎日民放テレビの番組でお笑いタレントだか芸能人だか知らないが、学芸会のように数だけ並べて騒いでいるのと何も変わらない。だれもが見たいのは、会見する内容を決める現場である。それができなければ、せめてその過程を事実のままに詳細に発表したらいい。演技はいらない。いるのはありのままの真実である。これは隠して、ここはぼかして、あれはここまで発表して、あそこは知らぬ振りを押し通そうとする三流映画のような脚本と演出が哀しい。聖域とタブーばかりが、まかり通るのが今の日本である。だからだれが首相を勤めてもかわり映えがしないのである。この5年間に10人の首相が入れ替わっても、もう国民は驚かない。国民が待ち望むのは「私が自分で覚悟を持って決めました。みなさん、私を信じて、私にこうさせてください」と日本を引っ張る指導者の決意である。「せったかせわぬかせってみよ」の茶番劇は、当事者双方だけで、だれも見ていないところでどうぞ。同じ茶番でも、あれだけ数のいる国会議員のだれ一人として、避難所で被災者と寝食を共にして東京を行き来する者がいない。避難所へ「行ったか行かぬか言ってみよ」。 避難所で「寝たか寝なかったか言ってみよ」。