団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

日めくり・日暮し・過去巡り

2017年12月29日 | Weblog

①    日記

②    ブログ

③    運動

①     今年もあと残すところ3日となった。3年日記(2015年~2017年)[写真 参照]を一日も欠かさずに書き通した。再婚した時、自分に誓ったことがある。一つ、日記を毎日つける。一つ、妻と最後まで添い遂げる。一つ、いつもニコニコ現金払い。

 日記は小学生の頃から、三日坊主そのものだった。特に新年を迎えるたびに、「今年こそ・・・」と決意した。それが数日後には「明日こそ・・・」になり、大晦日を迎えた。その繰り返しが、私の学業にも影響を与えた。中学生になり中間テスト、期末テストなどのテストが増えた。私は計画を立てる天才だった。詳細なテスト前の学習計画をぶち上げる。日記のパターンが私を支配した。「明日からやろう。だから今日は早く寝よう」 中学まではそれほど試験勉強をしなくてもそこそこの成績を保てた。高校ではそうはいかなかった。そして中三から肝炎を発症、高校に入学すると今度は胃潰瘍が加わった。病院に入院して病院の弁当を持って高校へ通った。日記など書こうとも思わなかった。

 私が42歳の時、父が逝った。父の日記を見つけた。私は44歳で再婚した。日記をつけ始めた。小中学校で3日坊主だった私が毎日書き続ける。59歳の時、再婚した妻の父親が逝った。義父も日記をつけていた。更に背中を押され、途切れることなく日記をつけている。

②     ブログは現在、月水金・翌週火木の順に掲載日としている。開設してから今日で3875日が過ぎた。掲載したブログは、1281である。文字数にして256万2千字となる。まさにチリも積もれば山となる、である。ブログを始めたきっかけは、私と妻の歳の差を意識し始めたからである。2017年3月1日発表の日本人の男の平均寿命が80.75歳、女性が86.99歳。私が81歳の時、妻は69歳になる。妻は読書家だ。私が死んだ後、私のブログを妻に読んでもらいたい。最初は毎日掲載した。しかし私の集中力は持たなくなった。土日祭日を休み2日おきに掲載している。

 パソコンの前に「何を書いてもいい。真実を語り、簡潔で、窮地における勇気と気品を肯定する限り。ヘミングウェイ」「言葉は浅く意(こころ)は深く。堀内大學」と貼り紙して、それを仰ぎ見ながら心してブログを書く。

③     毎朝起きてすぐ体重を測る。私の理想体重は68㎏である。今朝の体重は66.6㎏だった。糖尿病の薬をベイスンからジャディアンスに替えてから体重が減り始めた。日記にはこの10年、毎日万歩計の歩数、体重、運動をしたかどうか記入している。午後7時にNHKのニュースを観ながら、骨盤と脚の筋肉体操を20分やる。そのあと歯磨き、歯ブラシ8種類を駆使して15分以上する。

 

こうして今年も終わる。毎日英国人のようにほとんど同じルーティンで暮らす。その生活は、日めくり・日暮し・過去巡りである。終活でやり残していることはまだまだたくさんある。来年もそのやり残しの山を毎日コツコツ崩し続ける。


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年末の大掃除

2017年12月27日 | Weblog

①    1950年代の私の家の大掃除

②    海外の大掃除事情

③    2017年12月の大掃除

①     子どもの頃12月に入ると、♪もういくつ寝るとお正月♪がメロディから時計の針へと気が移る。なんと時計の進み方が遅いのかと苛立った。父親から大掃除の号令が下った。それは天気で決まる。畳を外で叩き、日干しするからだ。12月の中旬の学校が休みの日だったと思う。手伝うのを嫌だと思ったことがない。それはこの大掃除が終われば、いよいよ正月だという期待だった。そして何より、自分の成長に伴って、手伝いの質が毎年向上する実感が嬉しかった。去年は父親と畳を部屋から庭へ出すとき、よろよろしたが今年はしっかり支えて運び出せたとか。母親が子ども全員に手拭いで姐さんかぶりにしてくれた。格好も大掃除の気構えを高めた。5部屋全ての畳を上げ、床の新聞紙を取り替え、DDTだったか薬を撒いた。障子戸も庭に運んだ。紙を剥がす前に、子どもたちは、障子紙をブスブス、バシバシと穴をあけた。快感。母親、姉、妹二人が水で障子紙と糊を洗い落した。障子紙を貼るのは器用な父親だった。本職のようにきれいに貼った。みんなで見惚れた。両親と子供4人計6人が、力を合わせて大掃除に取り掛かった。同じ日、近所のあちこちの家から畳を叩く音が聞こえてきた。アフリカのセネガルのトーキングドラムのように各家庭の小さな物語を伝えていた。

②     私は今年70歳になった。このうち20年以上を海外で暮らした。高校からカナダへ渡った。全寮制の高校だった。驚いたことに生徒全員による教室などの掃除はなかった。掃除は、すべて業者まかせだった。公立だと業者は、外部への委託になるが、私が在籍した私立学校では、希望する生徒がアルバイトとして請け負うことができた。学費寮費を軽減することができた。日本では小中高すべて生徒全員が学校内の掃除をする。この経験は役に立った。ただ妻の海外赴任に同行して海外に暮らした時、戸惑うことが多かった。ネパールのようなカースト制度がいまだに残る国では、掃除はカーストが低い人の仕事とされている。カーストによってできる仕事とできない仕事が分かれている。掃除が低い仕事と言っているうちは、清潔な暮らしはできないだろう。日本の学校には、掃除に関して更に科学的に改善して、生徒を訓練して欲しい。これは役に立つ。

③     23日(土)24日(日)の二日間、妻の休みを利用して大掃除をした。我が家には畳の部屋がない。子どもの頃のように畳を外に運んで叩くことはしなくて済む。人が暮らせば、家は必ず汚れる。普段目を向けないところが大掃除の対象となる。ダイニングテーブルの下がカビで汚れていた。妻冷蔵庫冷凍庫の整理と掃除をしている間に私は、テーブルの下に潜り込んでカビをふき取り、蜜蝋を塗った。テーブルは大きく重いのでひっくり返して作業できない。仰向けになって背中を移動させながら作業した。しばらくすると眩暈がして心臓に異常を感じた。中断して休憩を取った。妻が聴診器で心臓の音を聴き、血圧計で血圧を測ってくれた。もう無理はできないようだ。一時間ほど休憩してテーブルを仕上げた。テーブルが、子どもの頃の一家総出の大掃除の日のように清々しく光っていた。

 日本には良い伝統がたくさんある。それがひとつ、また一つと消えてゆく。改革、革新と政治屋と役人が騒いでも、結果は良くならない。失われつつある日本人が受け継いできた宝ものを再検証して取り戻していかないと。日本は世界のガラパゴスで良い。ガラパゴスが世界標準になる時代が来るかもしれない。たとえ来なくてもガラパゴスには、ガラパゴスの誇りがある。

 


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あわてんぼうのクリスマス

2017年12月25日 | Weblog

①    24日と25日の早とちり

②    お寺の保育園でのクリスマス

③    1950年代我が家のクリスマス

①     10代後半でカナダの学校へ入学して初めてのクリスマス休暇を迎えた。学校が空っぽになった。私はずっと一人で他に誰もいない寮にいた。カナダと日本の学校の一番の違いは、年間登校日数であろう。カナダの学校は、とにかく休みが多い。土日祭日が休み、夏休みが3か月、クリスマス休暇が2週間、春休みが2週間だった。クリスマス休暇は、皆が一番楽しみにしていた。学校が休みに入ると2000人以上いた学生が一斉にいなくなった。残ったのは学校内に住んでいるスタッフとその家族だけだった。クリスマスは、家族が集まる1年でとても大切にしている休暇である。日本の盆と正月を合わせたような休暇だ。

 当時私は24日がクリスマスだと思い込んでいた。寮に一人残っていた私は、休暇中学校内でのアルバイトをした。直接金銭は支払われないが、次年度の学費寮費から相当額を減額してくれる。貧乏留学生にはありがたいアルバイトだった。教室の床掃除、窓ガラスの補修などが主な仕事だった。それも24日25日は休みになった。24日の夜、英語教師のランディーン先生の家へクリスマスプレゼントのバラの花を届けに行った。先生は、英語がわからない私を優しく丁寧に根気強く教えてくれていた。おかげで英語はずいぶん上達できた。心の中で、もしかしたらクリスマスの食卓に招き入れてくれるかも、という打算もあった。先生は小学校の教師をしている夫と二人暮らしだった。ドアのチャイムを鳴らした。エプロン姿のランディーン先生が旦那さんと玄関に現れた。居間に通された。もしかしたら・・・。その思いはテーブルの上を見て消えた。ごく質素な普通の食卓だった。厳重にクリスマス包装された赤いバラ一本を渡した。とても喜んでくれた。後にわかったことだが、クリスマス・イブの24日は、日本人が思っているクリスマスではない。25日午前中に教会へ家族そろって行き、帰宅してからクリスマスが始まる。あわてんぼうの私は、とても恥ずかしい初めてのカナダでのクリスマスデビューをした。

②     私が通った保育園は仏教の寺が経営していた。クリスマスには、園長である住職が、サンタクロースの支度をして大きな白い袋にたくさんお菓子の袋をいれて園児に配ってくれた。日本は八百万の神の国。仏教も神道もキリスト教もどんな宗教も区別なく受け入れられる。

③     私の父は、毎朝、太陽に向かって神妙に頭を下げ、神棚に柏手を打って参拝し、仏壇のローソクを灯して線香をあげ、神妙に手を合わせた。そんな父もクリスマスには、モミの木を買ってきてクリスマスツリーを飾り、おもちゃのプレゼントを4人の子供に贈った。クリスマスは、カステラの切れ端でなく、本物のフランスベーカリーのデコレーションを食べた。家族6人の暖かいクリスマスだった。

    妻と形だけのクリスマス・イブを過ごした。カナダ人のように家族が集まることもなく静かないつも通りの夜。七面鳥もケーキもない。いつもの時間午後10時きっかりにベッドに入った。昨夜、カナダで24日の夜ランディーン先生の家に、もしかしたらクリスマスの豪華な食事にありつけるかもしれないとちょっと思ったことが、更に何倍にも大袈裟にされた夢をみて寝汗をかいた。


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全員集合

2017年12月21日 | Weblog

①    設宴 日本

②    設宴 海外

③    シアトル 家族会

①    人がたくさん集まって食べたり飲んだりするのは、楽しいものだ。最初16日土曜日に計画していた恒例のミカン狩りは、天気予報で雨とのことで17日日曜日に延期された。結局16日は一日中天気が良かった。かえって17日は天気が悪く、ミカン畑で今年初めての雪のちらつきに見舞われた。O君は、定年退職後に耕作放棄されたミカン畑を再び手を入れ維持している。私の礼状メールへのO君の返信である。

「こちらこそ、急坂を登る難行苦行を乗り越えて、ミカン畑までお越しいただき深謝・深謝です。その上、手づくりのリンゴ料理に高価なメロンまでお持ちいただき、重ね重ね御礼申し上げます。併せて寒さ一番の山からオロシに、ダイコンおろしの前菜で

カラダが冷え切っていらっしゃるにもかかわらず、君の付き合いの良さに、感謝感謝です。

年に1回、元気なお顔をお互いに見せ合うことで、この集まりは良いのではとも思っています。ミカンは付け足で。また、来年は。急坂の送り迎えの車を用意せねば、と妻と話し

合ったところです。なお、来年の春は茶摘みを計画しています。お茶の先生に教わって、すこし製茶にも上達しましたので、暖かくなった5月八十八夜、また是非足をお運びください。

キャラ蕗と、そらまめもご用意してお待ちしています」原文

 毎年12月初旬に我が家に仲間が集まっていた。多いときは30人も集まってくれた。しかし寄せる年波には、抗えなくなった。今ではできても6人が精いっぱいである。それでもご馳走の字のごとくに、みなさんに喜んでもらえるよう食材を探しあちこち出かけ、献立を考え、調理を幾日も前から進めるのは、私の楽しみである。

②    1993年に始まった13年間の海外生活、ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア・サハリンでは、設宴を繰り返した。大相撲のモンゴル人力士が、集まるのと同じで同じ言葉で話し、食べたり飲んだりカラオケで歌うのは楽しいものだ。異国で食材も異なり、調理器具も不慣れな物を使いながら、仕事で苦労しているみなさんを元気づけるために13年間できる限りのことをした。その経験があったので、季節ごとに食材があふれ、調理環境も良い日本に帰国して設宴しても楽だった。

③    長女をシアトルの私の学校の先輩家族に預かって育ててもらった。当時その家族をシアトルに訪ねると必ずクリスマスのように一族全員が集まって私を、再婚してからは私と妻を歓迎してくれた。この集まりは後の妻の海外赴任に同行した私の生活に影響した。人が集まり一緒に話し、食べることが人と人とを結びつける。ましてや異国での生活においては尚更である。

 私の体のあちこちに故障や老化が目立つ。同じ歳でも老化の程度は異なる。ミカン畑の急坂を普通に上り下りできるO君やN君。あの坂を途中何十回も休みながら登る私。羨ましいが我が身の現実を認める。それでもできる範囲で友を招き時間を一緒に過ごしたい。私の最後のあがきかもしれない。ミカン畑に放置されていた椅子と運搬車に目が止まった。(写真参照)


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朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。

2017年12月19日 | Weblog

①    長女の里帰り

②    長女の養母の来日

③    ブルガリアの朋

①     15日の夜、友人の次女がカナダから子供二人を連れて里帰りしたので、我が家で歓迎の食事会を持った。去年4歳と2歳だった女の子は、大きく成長していた。日本語と英語を話す。孫たちに頬が緩みっぱなしの友人を見て、私も嬉しかった。

   私は長男12歳長女7歳の時、離婚して二人を育て始めた。家を売却して小さな市営住宅での三人暮らしを始めた。無理があった。このままだと三人ともダメになってしまうと思った。長男は全寮制の高校へ進学させると決めた。長女は、アメリカの私のカナダ留学時代の先輩夫婦に預けることにした。子どもたちに苦労させたが、結果的に良かった。長男は、寮で親元を離れて来ていた生徒たちの中で一人親のこと両親が離婚したことから解放された。長女は、男親に谷に突き落とされたが、アメリカの育ての両親は、自分の親と違って、仲睦まじく理想的な家族を築いていた。子どもの異なった環境への適応能力は、凄い。やがて長女は、アメリカの生活に慣れ、言葉も習得した。私は、ほぼ毎日彼女に手紙を書いた。それがせめてもの親としての義務だと思い続けた。長女は、夏休み3か月間は日本に帰国した。私は、二人のための仕送りのために懸命に働いていた。3か月の短い間だけでも親子三人で暮らす事が出来た。歓喜で破裂しそうになりながら空港へ迎えに行き、見送りに空港へ行った後は、長く落ち込んだ。

   お互いに住む場所が遠く離れれば離れるほど、再会の喜びは大きくなり、別れの悲しみは深くなる。

   私たち親子三人は、離れたことで何とか家族崩壊を免れた。これには、長男が入学した全寮制の学校やそれを支えるスタッフ、長女を育ててくれたアメリカの家族のおかげである。

②     長女を育ててくれた夫妻は、日系2世と4世だった。二人とも戦争中収容所で辛い経験をした。何度も日本に招待を申し出たが、頑として受けてもらえなかった。その後、旦那さんが亡くなった。奥さんも癌になりステージ4から奇跡のように再起した。2014年、奥さんだけだったが、やっと日本に来てくれた。私の家に2泊3日という短い滞在だった。私は富士山を見てもらいたかった。ちょうど梅雨だった。3日間車を走らせた。最後の日、箱根から雲が晴れて、富士山のふもとの稜線が見られた。彼女は喜んだ。アメリカの日系人を苦しめた日本をやっと許してくれたのかもしれない。

③     アフリカのセネガルでNさん夫妻に会った。親しくなり夫婦ぐるみでお付き合いした。商社を定年退職して奥さんのふるさとブルガリアに住んだ。私たち夫婦も一度ブルガリアを訪ねた。ソフィアの観光もそこそこに3日間彼らの家でワインを飲み朝から晩まで話し込んだ。その後2回日本の我が家にも来てくれた。楽しい時間を過ごした。

 「朋有 自遠方来 不亦楽」


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童謡

2017年12月15日 | Weblog

①    浜千鳥

②    ふるさと

③    月の砂漠

①     カナダの学校にいた時、アメリカとカナダを旅して、あちこちで多くの日系1世の人々に出会った。カナダ・ブリティッシュコロンビア州のオカナゲンの日系移民Oさんの果樹園でひと夏アルバイトをした。Oさんに気に入られて「私の養子になってこの果樹園を継いで欲しい」とさえ言われた。私の人生で「もし、あの時・・・」という場面がいくつかあるが、心の中でほんの一瞬「果樹園も良いかな」と思ったのは、事実だった。Oさんの子供は、弁護士とか歯医者とか医者になって果樹園を継ぐ者はいなかった。1世と2世には、大きな溝があった。親は、肉体労働で子供を育て、日本へお金を送り、英語も片言の人が多い。子供たちは、勉強して大学へ行き、高学歴になり、言葉も日本語に封印して英語を話す。高学歴の子供は、学歴のない親を敬遠することもある。Oさんの苦悩が伝わった。

   Oさんの果樹園の中の家の前に幅5メートルくらいの川が流れていた。川の岸に大きな柳の木があった。枝が川の水面スレスレにレースのように垂れていた。その脇にトイレの小屋があった。トイレは腰かける板に穴があるだけのトイレだった。庭の大きな木にOさんが子供のために作ったブランコが二つ並んであった。奥さんは、数年前に亡くなってOさんは一人で果樹園をやっていた。収穫期だけアルバイトを雇っていた。仕事が終わって夕方、ブランコに乗り、Oさんと話した。Oさんは、日本の童謡を歌った。私にも一緒に歌うよう言ったが、歌詞を全部知っている歌はほとんどなかった。Oさんは歌詞を完璧に覚えていて『浜千鳥』が大好きだと言った。Oさんは、滋賀県の琵琶湖のある村の出身だった。Oさんは「親をたずねて海こえて」で声を詰まらせていた。

  ♪青い月夜の浜辺には
       親を探して鳴く鳥が
       波の国から生まれ出る
       濡れた翼の銀の色

      夜鳴く鳥の悲しさは
      親をたずねて海こえて
      月夜の国へ消えてゆく
      銀のつばさの浜千鳥♪    (作詞:鹿島鳴秋 作曲:弘田龍太郎)

②     カナダの学校の寮は一人一部屋だった。日本の4畳半くらいの広さで2段ベッドと勉強机と洋服の収納棚しかなかった。日本の家族から手紙が届くと『ふるさと』や高校の校歌を口ずさんだ。『ふるさと』でうさぎを追った事はないが他はほとんど経験がある。校歌はふるさとの周りが目に浮かぶほど山、川、歴史がてんこ盛りで勇気を与えてくれた。

③     『月の砂漠』は、友人が癌で入院していて、亡くなる2日前に二人でチュニジアの砂漠でラクダに乗った夜のことを思い出して歌ったと奥さんから聞いた。

 

   童謡は、日本人の心を歌う。日本には良い童謡がたくさんある。私たちの誰をも納得させ、黙らせ、想いに沈める歌詞がちりばめられている。年齢を重ねるごとに私を突き刺す童謡の歌詞が増える。私はCDでクラシックを聴いて宇宙へ飛び出し、レコードで童謡を聴いて過去を浮遊して、カセットテープで落語と浪曲を聴いて笑い泣く。

 


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マンウォッチング 親子の景色

2017年12月13日 | Weblog

①    ブルガリア マクドナルド 親子

②    ネパール 盲人とその娘

③    カナダへ出発の日 私の両親

①     ブルガリアへ友人を訪ねた時の事だった。ブルガリアの首都ソフィアにアメリカのMcDonaldのハンバーガーショップが開店したと友人が喜んでいた。当時私たち夫婦は旧ユーゴスラビアのベオグラードに住んでいた。まだマクドナルドの店はなかった。糖尿病をもつ私は、できるだけ外食を避けていた。ダメと言われる食べ物ほど食いしん坊の私を惹きつける。さっそく友人夫婦とマクドナルドへ行ってみることにした。

 店内は親子連れでいっぱいだった。世界に店舗展開するマクドナルドは、どこの店も統一されている。同じメニュー同じ雰囲気が、なぜか私を外国にいても緊張をほぐしてくれる。落ち着ける。妻はフライドポテトが好きだ。普段私が調理するジャガイモ料理は、わざわざジャガイモを私の皿に移動させる。そんな妻も自分の自慢料理がポテトサラダである不思議とファーストフード店のフライドポテトが好きなのは私の中の“妻の七不思議”の一つである。

 友人があるテーブルの親子を見るよう目くばせして私に知らせた。がっしりした体格のお父さんとこれまたふっくらとしたお母さんが一人の男の子と座って居た。私は良い光景だと見ていた。友人が「ブルガリアの人にとってマクドナルドのハンバーガーは高い。だからあの親たちは子どもの分だけ買って子どもにハンバーガーを食べさせ、それを見て喜んでいるのです」と言った。私は自分のノウテンキさに恥じ入った。確かに3人で座っているテーブルの上には、一つのセットしかなかった。ビックマック(日本で380円)、ダブルチーズバーガー(320円)、エッグチーズバーガー(200円)でもないハンバーガー(100円)がのっていた。フライドポテトとコカ・コーラ。男の子は満面に笑みを浮かべて、フライドポテトのケチャップで頬っぺを赤く汚していた。両親は、子どもを見つめて優しく微笑んでいた。それはまるで栗良平の『一杯のかけそば』ブルガリア版のようだった。

②     ネパールは世界最貧国の一つである。ネパールでは、児童労働がどこでも目に付く。就学率は非常に低く、学校へ行く事が出来ない子どももたくさんいる。ある日カトマンズの街中で女の子が目の見えない男性の手をひいて歩いていた。男性は、時々立ち止まって、行きかう人々に器を差し出し何か言っている。男性の横に少女は黙って立っていた。少女は学校へ行かず、一日中父親であろう男性の物乞いに付き添う。私がその時、考えたのは、「もし、私があの少女なら・・・」だった。でもいまだに答えを持たない。生まれる時、誰も親も環境も選べない。何もかも偶然の絡み合いかもしれないが、割り切れない。

③     私がカナダへ出発する日、父親はいつの間にかいなくなっていた。母親が自転車の後ろに小さなトランクを積んで駅まで二人で歩いた。駅で母は、涙ながらに言った。「父ちゃんは気が小さいから来られないけど、一番心配しているからね。わかってあげて」私は列車が動き出して、町を離れるまで、車窓から父の姿を探した。

 世界の各地でいろいろな親子を観察してきた。駅や空港や港での別れ再会のシーンをたくさん見た。好きな景色だ。いつも思う。“かわいい子には旅をさせろ”と。お父さん、お母さんガンバレ!


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急病人と医者としての妻・医者でない夫の行動

2017年12月11日 | Weblog

①    電車内

②    ベッド

③    新幹線

①     11月のある妻の休日のことだった。二人で近くの町へ買い物に電車で行き、帰りの電車の中で事が起こった。シルバーシートに差し向いに座っていた3人連れの男性と一人の女性、と言っても皆70歳を過ぎていたと思われる。耳が遠いのか、席が離れているせいか、とにかく大きな声で話していた。私たちが下りるひとつ前の駅で男性たちが下りた。中のひとりは、歩きかたがゆっくりで電車の自動ドアが閉まる前に降りられるかと私は心配だった。私が心配しても仕方がないのだが、何とか間に合い電車が出た。静寂が訪れた。

 連結部のドアが開いて、前の車両から若い女性が入って来た。3人掛けのシートの隅に座った。間もなくして女性が崩れるようにへたり込んだ。それまでシルバーシートの反対側に静かに座って居た老夫婦の奥さんが突然、「誰か車掌さん、呼んで」と叫んだ。私たち夫婦は、7人掛けのシートのシルバーシート近くに座っていた。私は妻に「行って診てあげたら」と言った。妻が若い女性のもとへ急行。「ここあけてください」とさっきまで喋くりまくっていた老女に言う。何が何だかわからない様子でしぶしぶ立ち上がりオロオロしていた。電車内のすべての乗客が一斉に妻の一挙手一投足を固唾を飲んで見守った。その日の妻の服装は、どう見ても医者とわかるものではなかった。おそらく乗客の多くは「あの人何なの」と見ていただろう。気にしない。人に命が最優先、と私は自分に言い聞かせた。テレビの悪影響で女医は、みな米倉涼子のような女性だとでも思い込んでいるのだから。妻は若い女性に「私の首に手をまわして」と言うと女性を持ち上げ、仰向けにシートに寝かせた。すると前の車両から友人らしき女性が入って来た。妻はその女性と話した。電車は私たちが下りる駅に到着した。二人の女性もその駅で下りると言う。妻と友人女性が両側から女性を支えて電車から降ろした。女性が「もう大丈夫ですから」と言ったので、妻は私と駅を出た。

 私は医者ではないので、どうしても今回のような緊急事態に遭うと妻に出動を要請してしまう。しかし妻は普段から人の生死に関わる仕事で神経をすり減らして働いている。妻は中途半端が嫌いな真面目な性格なので、常に最悪の事態を想定して医療に携わっている。病院の仕事から離れた時は、できれば、医者であることを忘れていたいと思っている。そんなこともわからず私は、人助けだからと安易に「行って診てあげて」と言ってしまう。

②     真夜中、私の右脚のふくらはぎがこむら返り起こした。「イテ」と唸る。寝息をたてて眠っていた妻がガバっとベッドに仁王立ちになる。条件反射。妻は私の攣った脚を持ち上げ、まっすぐに伸ばす。リング上の女子プロレスラーが技をかけるようだ。息が止まりそうになった私は最後の力を振り絞って叫ぶ。「イ  ・・ テ ・」 数秒後、嘘のように脚の攣りが消える。夜中、起きてすぐ私はとてもあんな行動をとれない。そして何もなかったように妻は、眠りに戻る。夜の静けさとリズミカルな妻の寝息が、私を安堵と感謝で包み込む。

③     新幹線に乗っていた時、車内放送で「お医者様が乗車されていたら、11号車でお越しください・・・」とあり、私が「行ってあげて」と言い妻は先頭車から11号車まで急行。何と7人の医者が来ていたそうだ。新幹線の車内通路を往復した妻は、とても不機嫌な顔で私に報告した。

  テレビ界には、3Dという言葉があるそうだ。刑事(Detective)、犬(Dog)、医者(Doctor)の頭文字Dを指す。現在でも「ドクターX」「コウノドリ」など医者が主役のドラマが多い。妻はそれらを好まない。あんなことありえない、と言ってチャンネルを替える。家では仕事のことを一切忘れてくつろいでいたいのだろう。人の命に関わる仕事をする妻に時々無理な要求をしてしまう。普段、私はできるだけオヤジギャグなど連発して妻の緊張をほぐそうと試みるが、だいたいは更に妻の顔をひきつけさせる結果となる。妻に必要な良質の笑いを提供できるようになりたいものだが…。


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リンゴ

2017年12月07日 | Weblog

①    レッド デリシャス

②    紅玉 国光

③    インドリンゴ

①     カナダの全寮制の学校の食堂でデザートに「crab apple」(ひめりんご)のシロップ漬けがよく出た。生徒には不人気だった。多くの学生が「これじゃあ、開拓時代に逆戻り。家の食事が懐かしい」とぼやいていた。私は甘ければ何でも受け入れ喜んで食べた。

 カナダで初めてレッド デリシャスを食べた時、こんな旨いリンゴ食べたことがないと思った。私が生まれ育った信州は、青森県に次ぐリンゴの大産地である。子どもの頃、リンゴといえば、国光や紅玉だった。国光や紅玉も日本ではうまかった。しかしカナダやアメリカで食べたレッド デリシャスはもっとうまかった。レッド デリシャスは、皮ごと食べ、芯の中心だけ残すところ、ギリギリまで食べるのが私の食べ方だった。皮を噛む時の歯触りが良かった。その色、姿形にもほれ込んだ。このリンゴの尻は、特徴がある。底に凹凸が有り、上から尻にかけてキュッと絞り込まれている。

カナダの公立学校の給食は、全員が学校給食を強制的に食べるのではなかった。昼休みに家が近い生徒は、家に戻って昼食を食べてくる子もいると聞いた。学校の食堂で昼食を食べることもできた。その場合、毎回現金を払う。また弁当持参もできた。弁当のランキングを読んだことがある。1位 ピーナッツバター サンドイッチ 2位 リンゴ ニンジン だった。確かにアメリカ映画やテレビドラマで昼休みにリンゴやニンジンをかじっている光景をよく観た。アメリカの小学校へ行った私の長女は、アメリカの小学校の昼食事情をランキング通りの話しをしてくれた。

②     現在日本では、“ふじ”が市場を席捲している。ふじは、世界にも“Fuji”の名で拡がっている。旧ユーゴスラビアにいた時、経済封鎖されていたため、買い出しにオーストリアのウイーンへ行かなければならなかった。ウイーンにナッシュ・マーケットという食料品の市場通りがある。そこの果物屋にFujiが山積みされて売られていた。シールを見るとKorea(韓国)のプリント。ウイーンの寿司屋もリンゴも日本は、影が薄かった。

 私は中学生の時、野球部に所属していた。秋から春までは、リンゴ園が広がる畑地帯をランニングした。リンゴの収穫期に紅玉や国光が鈴なりになっていた。先輩のひとりがリンゴ園の子で、親の許しを得て、ランニング途中でリンゴを食べさせてくれた。うまかった。

③      私の姉は、好みが父親とよく似ていた。リンゴといえば、インドリンゴを二人は好んだ。私は、インドリンゴのキメのギュッと詰まった感じが好きでなかった。インドリンゴはインドのリンゴだとずっと思っていた。小学校3,4年の担任だった小宮山先生の実家は大きなリンゴ園をやっていた。先生はリンゴの話を良く聞かせてくれた。インドリンゴは、インドのリンゴではなくて、アメリカのインディアナ州のリンゴだと教えてくれた。インドリンゴは好きではないが、名前の由来で忘れられないリンゴである。

 

 今年も伊那の友人がたくさんリンゴを送ってくれた。吉田兼好曰く「よき友三つあり、一つには物くるる友、二つにはくすし、三つには智恵ある友」 毎年同じものを同じ時期に送ってくれる友は、間違いなくよき友である。感謝して頂戴している。今年のリンゴもうまい。


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鉛筆

2017年12月05日 | Weblog

①    小学校 入学祝い 文房具セットの中の1ダースの鉛筆

②    高校受験の日 筆箱の中の父が削った鉛筆

③    三菱鉛筆UNI HB

①     カナダの高校へ転校して初めて受けた数学のテストが0点だった。日本の高校でも数学は追試を受けるほど成績は悪かった。しかしカナダの高校の数学は、ゆっくりしていてまだ日本の中学レベルだった。確か二次方程式のテストだった。0点の横に英語で何か書いてあった。Pencilとball-point penの単語は読めた。私が在籍したカナダの高校では、各教師の下に大学部の生徒がstudent work(毎日学校のために2時間の奉仕時間がある)で補佐に入る。日本にもこの制度があれば多くの教師を激務から救うに違いないと思うのだが・・・。テストの採点などは、この奉仕学生がやっていた。0点の理由が分かった。私がテスト用紙に鉛筆で答えを書き込んだからだった。そのカナダの高校では、鉛筆の使用が禁止されていた。何も知らない日本からの留学生の私は、日本でやっていたことを、そのままカナダへ持ち込んだ。ボールペンを使って追試を受けた。海外のボールペンもインクがゆるく紙を汚すことが多い。「郷に入っては郷に従え」「所変われば品変わる」の洗礼をさっそく受けた。

  日本人にとって学校で鉛筆を使うのはごく普通の当たり前のことである。しかし一歩海外で出れば、鉛筆は、ありふれた文房具ではない。日本でこれだけ鉛筆が普及したのは、その品質による。妻の海外赴任に同行して13年間5ヵ国で暮らした。そのどの国でも私は鉛筆を買い使ってみた。ドイツのステッドラー社の鉛筆以外、使えなかった。芯が初めから折れていて、削っても削っても芯がおさまらない。特にアフリカの東南アジア製の鉛筆は、ひどかった。現地人の知り合いの子ども達にたくさん鉛筆をプレゼントした。鉛筆を敬遠していた子どもたちも日本の鉛筆の凄さに驚いていた。

 現在もあるのか知らないが、私が子どもの頃、小学校入学前に文房具セットというのがあった。このセットには小学校で使う文房具がたくさん入っていた。中でも鉛筆が1ダース、箱に入っていたのが嬉しかった。夢あふれるセットだった。

②     私は中学3年生の12月肝炎で倒れた。ちょうど高校受験前の追い込み勉強のさなかだった。試験日、入院していた病院から会場へ行った。試験場で筆箱を開けて驚いた。私が削ったのとは違う鉛筆が入っていた。父が削った鉛筆だとすぐわかった。父は器用でナイフや彫刻刀で木彫りを楽しんでいた。私は、不器用で鉛筆を削っても不揃いで芯の出し方も汚なかった。父の鉛筆を握って試験問題を解いた。12月以降受験勉強をしていなかった。それでも合格してしまった。

 私の長男が高校受験する時、私は父の真似をして鉛筆を削って息子に渡した。離婚して私が子ども二人を育てて3年経っていた。息子は地元で私が通った高校へ行きたがった。私は彼を全寮制の他県の私立高校へ行くことを勧めた。多感な時期、転地療養が必要だと私は確信していた。息子の長男が中高一貫校を受験するとき、息子も鉛筆を削って渡したと聞き、嬉しかった。

③     歳をとっても私は鉛筆を多用する。私の一番好きな鉛筆は、三菱鉛筆のuni のHBである。これをナイフで削る。そうして父を想い、息子を想い、孫を想う。鉛筆を握った時、私は日本に生まれ、日本の高品質の鉛筆を使えることを嬉しく思う。それを知ってか知らずか、妻は私にアイライナーペンスル(目の周りを黒くする鉛筆のようなモノ)を削ってと頼む。妻が出勤した後、ひとり家に残る私は、CDを聴きながら、カッターナイフで妻の化粧鉛筆を削る。


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