団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

あっ、同じ

2024年09月20日 | Weblog

  駅の中にあるスーパーへ買い物に行った。駐車場に車をとめて連絡橋を渡った。駐車場は冷房がない。その日も猛暑日だった。連絡橋を渡ってやっと冷房が効いている駅ビルの中に入った。エアコンが効いた車の中から出た途端、立ち眩みと吐き気を感じたほどだった。冷房がよく効いた駅ビルの中に入ってやっと正気を取り戻した。

 中廊下のような所を歩き始めた。反対方向から男性が歩いて来た。半袖のTシャツに半ズボン。私も半袖のTシャツと半ズボン。ただ反対側の男性の半ズボンは、カーキ色。私のは濃紺。私の目が釘付けになった。男性のTシャツ。どこかで見たことがある。白い手袋のようなものをはめた両手で、青と緑の地球を持ち支えている。私は自分のTシャツを見る。同じ。こんな事がある。だんだん私に近づいて来る男性も気が付いたらしい。でも視線をお互い外す。ここが海外の陽気で気さくな人々が暮らす国だったなら、お互いを抱き合ってこの奇遇を喜び合う場面であろう。恥ずかしやがりの両日本人は、ただ目を伏せて通り過ぎた。

 「あっ、同じ」という場面は、稀に起こる。車を運転していて、自分が運転している車の車種が同じ。色が同じ。ごくまれだが、何とナンバープレートの番号まで同じという事もある。今回のTシャツのように着ている服が同じという事もある。

 妻の海外赴任に同行していた時、飛行場での預け荷物を到着後の回収するターンテーブルで自分たちのスーツケースを見つけるのに苦労した。そこですぐ見つけられるよう、誰も持ちたがらない色のスーツケースをいくつか選んだ。サイケデリックと言っても良い代物だった。ピンクとブルーと黄色がごちゃまぜ。こんなの誰も使わないだろうと自負していた。あったのだ。世界は広い。全く同じスーツケースをターンテーブルで見たのである。

 誕生日が同じというのも気になることである。私と同じ誕生日で有名人は、私が知る限りいない。孫の一人が大谷翔平選手と同じ誕生日である。9月20日(日本時間)ついに大谷選手は50-50ホームラン50本盗塁50の前人未踏の大記録を成し遂げた。だから孫が大谷翔平選手のように凄い人になるかと言えば疑問である。でも意味もなく嬉しいことである。

 ただの偶然だろうがそれがどういう事であろうが「同じ」というのは、何となく人を喜ばせて連帯を生むことが多い。同じ地域に生まれる。同じ小学校中学校同じ高校同じ大学で絆も持てる。海外に暮らすときは、同じ日本人ということだけで距離が近く感じる。同じという事は、安心感を与えるのかもしれない。地球上の何十億という人の中、人間はそれぞれその中に鏡に映るような“自分”を探し求めているのかもしれない。

 たまたま駅ビルの中で同じTシャツを着たおっさんと出会った。このTシャツは、ユニクロのPEACE FOR ALL KAWSというブランドで売られている。きっと何万枚という大量のこのシャツが世界に出回っているに違いない。それでもそのTシャツを着たおっさんと同じ時間に同じ場所に同じTシャツを着たおっさんが鉢合わせするのも不思議な縁であろう。なかなかないことだが、こんな偶然を求めて街をさまようのも楽しみである。


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つんのめる

2024年09月18日 | Weblog

  15日日曜日友人夫妻と昼食を鮨屋でとった。駅で待ち合わせた。友人夫妻は、数か月前コロナに感染した。私はひどく心配した。ニュースでは、最近のコロナは、高齢者に肺炎を引き起こさせ、回復に時間がかかると言われていた。夫婦二人暮らしの友人が、夫婦でコロナになってしまっては大変だ。コロナがまだ5類だった時と違って、今では国も特別な対策を実施していない。二人の安否を心配した。そんな二人だったが回復してすっかり元気になった。もう友人も私も喜寿老になった。お互い励まし合って生きている。

 友人と私に今日共通しているのは、お互いに配偶者の年齢がひとまわり違っていることだ。友人は、腰痛持ちで重い物の持ち運びなどができない。力仕事は奥さんがするという。何を隠そう私もそうだ。ゴミ出し、危険物の片づけ、買い物したものの運びなど。私の場合脚が弱っていてバイデンアメリカ大統領歩きなのだ。

 去年、玄関で靴を履く時、つんのめって転倒してしまった。靴下を履くとき、つんのめって部屋の中をケンケンのように移動することも多い。散歩用と外出用以外はすぐ足が靴に入るスケッチャーズの『スリップインズ』を買った。これだとすぐに履けて便利である。しかし散歩や外出の時の靴は、かっこつけて未だにヒモの靴なのだ。私は壁に手をついて体を支え、妻に靴ひもをきつく縛ってもらう。すっかりそれが日常化してしまった。

 鮨屋での楽しい時間が終わった。部屋に靴を脱いで上がっていたので、靴を履かなければならなかった。支払いを済ませてすでに靴を履いていた妻が、私が靴を履くのを手伝って、靴紐も結んでくれた。何か視線を感じた。きっと何という男だ、妻に靴紐を結んでもらうなんて。

  妻が海外勤務していた時、私は一時帰国して日本で心臓バイパス手術を受けた。ある時、ドイツのフランクフルト空港で飛行機便を乗り換えなければならなかった。スーツケースを6個くらいカートの載せて長い距離を別のターミナルに移動した。その時、まだ私の開胸した手術跡はまだ完全に治っていなかった。カートを押す妻の前を私は、痛む胸をかばって上を向いて歩いた。それが世界に拡がった典型的な日本の夫婦の絵に描かれたような光景だったのだろう。次々にすれ違う多国籍の旅行客の批判的な視線の集中砲火を浴びた。あの人たち全員、誰一人として私が心臓バイパス手術を受けたばかりの者だとは理解できていなかった。それ以来、人を外観で判断してはならないと私の教訓にした。

  友人夫婦も違和感を持ったかもしれないが、私の体の状態を良く知っているので、あえて言い訳するのはよした。

  喜寿老となって体のあちこちに不具合が生じている。決して喜ばしいことではないが、現実として受け止めるしかない。9月16日の敬老の日、日本には約10万人の100歳以上の人がいるという発表があった。女性が約90%だという。将来自分が100歳になっているとは思えない。

  9月8日の日曜日いつものようにラジオを聴いた。「風呂あがりでパンツに足を入れそこなった父が、洗面所からつんのめって通り過ぎた」(9月8日ラジオ ニッポン放送 『三宅裕司のサンデーヒットパラダイス』番組の中の『Help!助けて!』のコーナーの中の『品川区 ハル』の投書) 笑った。もしろん三宅裕司の読み方の上手さもあるが、何より情景が目に浮かぶ。私も風呂上りにパンツを履くのに苦労している。私だけではない。仲間がいる。歳とって恥ずかしいこともたくさんある。でもそれだって笑ってしまえばいい。つんのめりながら、それでも前へ進む。


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ボールが見えない

2024年09月12日 | Weblog

  大谷翔平選手が46号ホームランを打った。今回はちゃんと大谷翔平選手がホームランを打った瞬間を観ることができた。でも46号が公式に認定されるのに時間がかかった。

  今はアメリカ大リーグの試合をテレビの実況放送で観られる。野球は、少し試合の進行がまどろっこしいと感じることがある。それは私だけが感じていることでなく、それが原因でアメリカでは最近、大リーグのテレビの視聴率やスタジアムへの観客動員数が、アメリカンフットボールやプロバスケットボールと比べて減少してきているらしい。そこで大リーグでは、投手が20秒以内に投げなければいけない規則など、時間短縮のための改定をしている。

  私はできるだけテレビの前にいて、大谷翔平選手がホームランを打った瞬間を観たいと思っている。しかし時々トイレ、宅急便、電話などでテレビの前から離れなければならない時がある。不思議なモノでこういう時に限って、事態が急変することが多い。観そこなった時のショックは大きい。試合時間の約2時間は、結局テレビの前でじっとしているしかない。正直大谷翔平選手の活躍を観たいだけで、大谷翔平選手が所属するドジャーズの熱狂的なファンではない。それは大谷翔平選手がエンジェルスに所属していた時と変わらない。

  9日の朝、46号をこの目でバッチリ観ることができた。でも打ったボールの軌道を見ることができなかった。あまりにも球速が早すぎ、またレフトのフェアかファールを見極めるポールの遥か上を通過したらしい。ボールを見失ったのは私だけでなかった。大谷翔平選手もしばらくボールの行方を、動きを止めて見ていた。観客も、実況中継のアナウンサーも、審判たちも。大谷選手は、ホームランと確信したのか、バットを投げ、ダイヤモンドを一周してホームベースを踏んだ。でもまだ正式判定はされていなかった。結局審判団は、ニューヨークのMLB本部にあるビデオ判定センターの判定を仰ぐことになった。ようやく公式に46号が認定された。テレビでは何度もビデオでホームランの軌道を示そうと再生をした。見えない。私はボールを探そうと画面に食い入るが見えない。

  今年6月運転免許証の書き換えで、自動車教習所で認知機能検査や動体視力の検査も受けた。認知機能検査は喜寿老に相応しい芳しくない結果だった。自分でも納得できた。ゆえに免許証は3年後に返納すると決心した。動体視力にいたっては、目が検査についていけなかった。妻と車で出かけると、妻は窓の外で妻が見たものの話をする。でも私は妻が言った物を見ていない。看板、犬、人、植物などなど。見ることもだが、だいたい妻の言葉が聴き取れない。後手後手になって、結局妻が言わんとする物・事・事象を見ることなく車はかなり前進してしまっている。

 そんな私があの大谷翔平選手の凄い球速で飛ぶボールを見られるわけがない。でもテレビ放送ではホームランの軌道を図で見せてくれることもある。46号ではそれがなかった。YouTubeで探したが見つけられなかった。最後の頼みの綱のチャットGPTで調べた。出て来た。明らかに46号はホームランと確認できた。私はやっと納得できた。大谷翔平選手のホームランに一点の疑いがあってはならない。

  グリコの「一粒で二度美味しい」ではないけれど、大谷のホームランは「一発で何度でも美味しい」 50-50が近く実現しますように!


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ていへんだていへんだ

2024年09月10日 | Weblog

  月曜日の朝4時55分に家を出て散歩した。私は散歩を4コースに分けている。土日に妻と歩くフルコースと呼ぶ5000歩を超すコース。普段一人で歩くときの2500歩から3000歩のコースを3コース。妻と歩くときは、妻がカメラを入れたバッグを持ってくれる。これは撮っておきたいと思う写真を妻が渡してくれるカメラで撮る。一人でカメラを持たないで散歩している時に限ってああ、この場面撮りたいと思う事が多い。月曜日もそうだった。小学校の近くにある歩道橋の桟にたくさんの猿が並んで座っていた。まるでご来光を拝んでいるかのように。日の出で東の空はオレンジ色に染まっていた。歩道橋の後ろから見ると猿の姿がオレンジ色の光に縁どられ何とも言えない美しい絵のようだった。カメラを持参しなかったことを悔いた。しかし凄い時代に生きている。家で試しにチャットGPに日の出と歩道橋と猿のイメージを描いてと聞いてみた。(絵は桟に座る猿と日の出の感じは、私が見たのと似ている。ただ歩道橋が違った)

 家に戻り妻を駅に送った。午前9時から何気なく窓の外を見ると猿の大群。きっと歩道橋にいた猿の一群だろう。いるいる子猿が12匹、他にも17匹数えた。木に登り、テラスを走り回り、寝そべって毛づくろいしてもらったり、まるで自由奔放に振舞っている。私が住む集合住宅の隣の寺の駐車場に観光客らしいカップルが寺から戻って来た。猿を見つけた。男性は携帯で猿を撮ろうとしていた。女性は悲鳴をあげて車に逃げ込んだ。桜並木の桜に登って枝を揺する。道路を我が物顔で歩く。私は9時過ぎに買い物に出かけるつもりでいた。猿は集合住宅の中に入ることを知ってしまった。前回は我が家の玄関の前に立派なマーキングの物的証拠を液体と固体で残していった。猿に襲われたら私は彼らの敵になりえない。一匹ならともかくこれだけの数の猿に襲われたら私なぞひとたまりもない。小一時間猿の群団は我が家の窓の前のテラスでのんびりしていた。いなくなった頃を見計らって、丁度出勤日だった管理人を探しに行った。案の定、猿は今回3階に入り込んでマーキングをしていった。やはり私は玄関から外に出なくて正解だった。猿の来訪は予期できない。どんどん数を増す猿の群れが恐ろしい。

 猿の恐怖が去った。携帯にメールがきた。孫の一人からだった。これから会いに行ってもいいかと言って来た。メールをやり取りしているうちに詳細が見えてきた。東京からデートで彼女と来ているらしい。もちろん会いたいので来るように言った。観光公園から歩いて来るらしい。猿が心配だったので一応メールで猿に警戒して歩いてくるように伝えた。

 孫の彼女と言われても困る。どう対応して良いモノか。猿であたふたして、今度は孫の彼女にあうことでドギマギする。今日はいったい「何ていう日だ」。考えた。なぜ孫は彼女を私に会わせたいのかと。私が若かりし頃、好きな彼女がいたとしても親はもちろん祖父母に何て会わせようなどと考えもしない。恋はいつも秘密から始まっていた。最近の若者は、アメリカ人のように恋愛は開けっぴろげなのだろう。

 私は孫3人男で女子がいない。自分の子に女の子が一人いるが孫とは違う。チャイムが鳴った。玄関を開けた。孫が入ってきて、その後ろから女性が入って来た。私は短パンにTシャツ、忘れずに入れ歯も入れてあった。でもシドロモドロ。居間に通しテーブルに座った。何を話して良いのかわからない。短い滞在時間だった。孫に彼女。孫が生まれた時、東京の病院で対面。あれから18年。私が喜寿老(77歳)であることを強く実感した。嬉恥ずかしではあったが、孫が彼女を連れて私に会いに来てくれた歴史的事実を戸惑いながらも現実として受け止めた。


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野球の監督

2024年09月06日 | Weblog

  私の父は上田市のある私設野球チームの監督をしていた。私が小学校3年生の時、父のチームが市の大会で優勝した。市営球場のダイヤモンドを優勝旗を持って一周する時、父は私に優勝旗の片端を持たせて一緒に歩かせてくれた。

 父が33才の時、私は生まれた。昭和22年である。いわゆる団塊世代の最初の年代である。父は徴兵されて満州に渡った。日本が敗戦した後、いろいろあったが何とか舞鶴へ帰還した。母が疎開していた上田市に戻った。そして私が生まれた。

 父は尋常小学校に数年通った後、宇都宮の羊羹屋へ丁稚奉公に出された。父親が早くに亡くなったので、母親を助けるためだった。その後長野の酒屋、東京のパン工場で働いた。長野にいた時、野球を始めた。背は小さいが運動神経抜群でチームで活躍したそうだ。東京でも会社のチームで活躍したそうな。野球好きが高じて後楽園球場の売店をやるようになった矢先、徴兵されて満州へ渡った。母は私の姉を連れて実家がある長野へ疎開していた。戦争が終わって、東京の家も店もすべて失った。

 野球のチームを率いる父は、かっこよかった。かっこだけでなく、優勝を何回もしたことが父の良き監督としての証だった。父は「野球の監督は、試合での采配も大事だが、試合をする前の選手も育成が一番大事」とよく言っていた。映画好きだったので、「映画で一番大事なのは、配役を決める事。野球も同じで、スタメンを決めた時点で勝敗はついている」とも言っていた。

 私は運動神経抜群の父の遺伝子を受け継げなかった。音痴で運動神経もダメ。それでも中学に入学した時、父を喜ばせようと野球部に入部した。団塊世代のはしりだった。部員は90名を超していた。当時の野球部は、先輩後輩の上下関係がうるさく、特にレギュラーでない先輩の後輩イジメはひどかった。新入部員は、校庭を隅にギッシリ配置され、大きな声を出し続けさせられた。福島先生という監督だったが、この人雲の上の人で、レギュラーなどの優れた選手とは口をきいたが、下々に声をかけるなどということはなかった。父が言う選手の育成の枠にも入っていないことを察知して1年で野球部を退部した。父には長い間、やめたことを黙っていた。

 そんな父もすい臓がんを患って、72歳で亡くなった。父との最後の会話が「悪いが報知新聞を探して買ってきてくれ」だった。野球好きの父親は、最後までプロ野球のことが気になっていた。私と言えば、中学で野球部を途中で止めて以来、野球は観るのもやるのも嫌いになった。野球とは縁のない人生だった。

 ところが老人の域に達した頃から、大谷翔平選手の活躍が話題になり、テレビのニュースで頻繁に「大谷」が大きく扱われるようになった。大リーグに行ってから中継が早朝から午前なのでテレビを観やすい。そんなわけでアメリカの大リーグを観るようになった。野球を観ていて面白いと思えるようになった。人はちょっとした事で変わるものだ。野球はひとりでやるスポーツではない。大谷翔平選手が所属するドジャースには、監督はじめ多くの選手がいる。試合を観ながら、父が言っていたことを思い出す。あれだけの高額で契約して集めた選手の中からスタメンを決めるロバーツ監督の苦しみが伝わる。個人個人がどれ程優秀であっても、9人の選手の集合体としての力がまとまらなければ勝てない。ロバーツ監督の采配を観ては、ユニフォーム姿の父親を、最近思い出す。今私は喜寿老(77歳)となり、何とか生き続けている。


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水たまり

2024年09月04日 | Weblog

  台風10号は結局私の住む場所を通過しなかった。今回初めて遠隔豪雨という言葉を聞いた。台風と言えば個体の厄介者だと思っていた。自然のことである。私ごときに自然現象の解析などできるはずもない。しかし以前と比較して明らかに多くの点で変わってきている。猛暑しかり。台風の進路しかり。線状降水帯しかり。今年喜寿を迎えた。77年生きてきて、今までに経験したことのない恐ろしいことを、今更経験してもいい迷惑だ。

  怖いものと言えば、昔から地震・雷・火事・オヤジとなる。地震は恐い。でも地震そのものの形態は変わっていない。私が子供の頃から地震は突然起こるモノと認識している。雷にも変化はない。火事は相変わらず多いが、火事の形態に変化はない。オヤジが恐いのは、キレて暴言を吐いたり高速道路を逆走したりブレーキとアクセルを踏み間違えて事故を起こすオヤジたちであるが、地震・雷・火事・オヤジの頑固オヤジとは違う部類である。

  今回の台風10号の影響で私が住む町でも遠隔豪雨にみまわれ、被害が出た。鉄道が運転見合わせになり、道路が閉鎖されて数日間陸の孤島となった。妻も通勤の足を奪われ、欠勤することになった。家の前に川が流れていて、数年前の台風通過時に堤防が決壊した。今回も川の水位が上がって、上流から流されてくる大きな岩がぶつかり合う音がいやがうえにも恐怖心を募らせた。

  そんな中、雨が小降りになる間隙をぬって散歩を続けている。いつも渡っている橋のたもとに大きな水たまりがあった。(写真の水たまりは小さくなってからのもの)どんなに雨が降っても今までは何とか靴を濡らさずに渡ることができた。今回は水たまりがあまりに大きくかった。仕方なく水たまりに入って渡った。靴の中に水がしみわたった。靴下がビショビショになった。一気に半世紀以上前の子供の頃に戻ったように愉快になった。そう、子供の頃、私は水たまりが大好きだった。雨が上がると長靴を履いて外へ出かけた。道路に水が溢れると側溝も道路も見えなくなって、一面水の世界だ。カンだけを頼りに、水の中を進む。そして必ず側溝にはまる。落ちるかな、大丈夫かな、が冒険心をくすぐった。終いには深みにはまってしまうことを知っていて、それでも水の中を歩き回った。全身ビショ濡れ、長靴の中はビチョビチョ。歩くたびにピチョンビチョンと長靴の中の水が音を立てた。それがまた楽しかった。

  喜寿老は長靴を持っていない。ウォーキングシューズを履いている。水たまりの深さは、足のくるぶしまであった。ウォーキングシューズは、まんべんなく水に浸かった。水たまりを出ると、靴の中の水がグジュグジュした。あの長靴の中の水とは違う。でも感覚はまごうことなくあの時のものだった。

  遠隔豪雨もあがり、また猛暑が戻ってきそうだ。それでも今朝の散歩で少し気温が涼しく感じた。川を見ると、川の堰の魚道に詰まっていた岩が今回の増水で押し流されていた。(写真向かって左側の岩が上の堰の魚道から流された岩)喉元に刺さっていた魚の骨が取れたように嬉しく感じた。これで魚は以前より楽に上流へ上がって行けるだろう。

  台風10号は、全国に大きな被害をもたらした。今日は何もなかったように青い空にギラギラ太陽が輝いている。橋のたもとの水たまりも小さくなっていた。


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帰宅困難者

2024年09月02日 | Weblog

  先週1週間は、猛暑の閉じこもりから、台風10号の影響による豪雨の予報に翻弄された。台風は遠く九州にまだ上陸していないのに、ほぼ日本列島全域に雨を降らさせていた。遠い台風と住む町の豪雨の関係がしっくり受け止められなかった。予報が現実となり、8月28日水曜日、雨の影響で新幹線が動いたり止まったりしていたので、妻は在来線で帰宅した。ほぼいつも通りの時間に帰宅出来た。翌木曜日、仕事を終えて、定時に病院を出て東京駅に行った。28日と同じ在来線で帰宅すれば、問題はなかった。妻は、新幹線に乗り込んで発車を待った。しかし1時間待っても2時間待っても新幹線は運転再開されなかった。私にメールしてきた。「在来線で帰った方が良い?」 私は「在来線で帰ってきて」と返信した。妻から在来線に乗ったとメールが来たのが6時22分。普段ならすでに帰宅している時間だ。妻はまだ東京駅。いったい何時なったら帰宅できるのやら。

 私は、2011年3月の東日本大震災の日の事を思い出した。妻は多くの人々と同じく帰宅する手段がなかった。病院に留まって一夜を過ごした。翌日、何度も乗り換えて帰宅した。お互いの無事を喜んだ。妻が言った。「今度同じようなことがあったらどんな手段を使っても帰宅する。歩いてでも帰って来る。どうせ死ぬなら貴方と一緒に死ぬ」

 おそらく妻は、あの東日本大震災の時の事を思い出したに違いない。28日結局妻が帰宅したのは、職場を出てから5時間後の午後9時ちょっと前だった。私は常日頃待つのが私の仕事だと言っている。そうは言っても日常の生活は、ほぼ時間正確に同じことを繰り返している。体は、しっかりその時間を覚え込んでいる。それが狂うとストレスになる。

  まだ日本がまともな国だった頃、日本の鉄道は、その発車・運行・到着時間の正確さが世界に知られていた。それに慣らされ知ってしまった国民は、時間正確に鉄道は運行されるものだと思い込んでしまっている。もうそんなことはない。JRを始め鉄道会社は、信じられない事故事件の連発である。8月22日未明、保守点検作業中の作業車が衝突した。電柱が燃えたり、発火事故もあった。人間だから間違いを犯して当たり前ではない。一度に大勢の人を運ぶ鉄道や交通機関は、間違いは多くの犠牲をうむ。交通機関の安全は、重要性が高く、優先的に行うべきことである。鉄道関係者が手を抜いているとは思いたくない。しかし何か歯車がうまく回っていない気がしてならない。

  新幹線の運行が乱れ、ニュースで外国人旅行者が途方にくれている様子が流れる。日本政府は、2035年までに外国人観光客を7000万人を超えると予想しているという。2024年の予想訪日外国人旅行者は、2000万人を超す。今でさえ新幹線が止まっても、それで足止めされた観光客をほったらかしにしてしまう国が、7000万人もの観光客が押し寄せてきたらどう対応するのか疑問である。JRはみな不動産を多く持っている。ホテルも多く経営している。切符を売るなら、売った切符の後始末を考えておくべきである。駅構内もしくは近場に臨時避難的宿泊所などを設けることも一案である。災害時にもそれを避難所として使えればいい。多くの日本人が帰宅困難者になっている時、海外からの旅行者は日本でホームレス状態になっていることを私たちは、見て見ぬふりをするわけにはいかない。

 海外から旅行者を呼ぶのはかまわない。呼ぶなら日本で何か事故や災害が起こった時、対処できる施策は必要である。それが観光立国としての務めである。自民党総裁選でも立憲民主党の代表選でも、候補者の中に2035年の日本を見通しているような候補者が見当たらない。残念である。


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ツバメが少なくなった

2024年08月29日 | Weblog

  今朝の日の出は5時14分だった。4時50分に家を出て散歩に出かけた。天気予報では曇りだったが雨がパラついていた。大きめの傘を杖代わりにした。傘より杖としたかったので濡れるのを覚悟していた。さすがにこの天気、ましてや台風10号が“いままでに経験したことがないほどの強烈な台風”と言われ、九州を直撃すると言われているせいか、散歩する人が少ない。

 散歩途中、毎年多くのツバメが来るボーリング場のツバメの数がずいぶん少ないことに気が付いた。今年も3月の下旬頃からツバメが来ていた。10以上の巣がボーリング場のビルのヒサシにある。やがて子供が生まれる。餌を運ぶ両親ツバメが忙しく巣に出入りする。ツバメは働き者である。やがて子供ツバメが親から飛び方や餌の捕まえ方を習う。ぎこちなく飛んでいたが、じきに親と変わらぬ素早い動きができるようになる。ボーリング場の前の電線は、3月末よりずっと数を増したツバメが止まっていた。8月末の今日、電線に止まることもなく数羽のツバメが巣を出入りしていた。他の多くのツバメは、すでに長旅して他の地へ飛び去ったのだろう。何だか置いて行かれたようなちょっぴり寂しい気がする。

 猛暑で日中は家の中でジッとしているだけの私である。体を動かすのは、朝の散歩だけ。日中は、パソコンかテレビの前に座りっぱなしである。精神上健康上こんな事が良いわけない。わかっちゃいるけどどうしようもない。何かしようと思っても集中力が続かない。エアコンは朝からフル稼働。それでも足りなければ、ネッククーラーと湿らせた布で頭を包む。ネッククーラーは持って15分程度、湿った布は1時間持てばいい。冷凍庫でネッククーラーを交換する。布を水道で濡らし絞って頭に巻く。これを一日中繰り返す。

 パリオリンピックは時間をもてあそぶことなく私をテレビに釘付けにさせた。高校野球も大社高校をこれまでにないほど熱を入れて応援した。加えてアメリカの大リーグでの大谷翔平選手の試合も猛暑で監禁状態の私の娯楽である。パリオリンピックが終わって、今は大谷翔平選手の活躍が私を生かしてくれている。彼へのあまりのホームラン打っての願望が度を越し、打たないと舌打ちしたり暴言を吐く。猛暑の所為だと言えば言い逃れである。私の本性だ。でも冷静になれば、野球は3割打てればオンの字なのだ。ましてや大谷翔平選手はホームラン40本と40盗塁を成し遂げている。もっと冷静に試合を観て楽しめないモノかと反省しきりである。

 散歩の途中、まだミンミンゼミも他の虫も鳴いている。路上にセミがよく落ちている。川面にトンボが飛ぶようになった。ツバメもこの地を離れ始めた。早朝でなくて、日中に散歩できるといい。毎年秋に菊の花を咲かせる家の前に多くの菊の苗の鉢が並んだ。もうダメだと言って愚痴ばかりこぼしている私にもこちらで一つ、あちらで二つと秋の気配が近づいてきている。

 地震・雷・火事・オヤジ全部が恐い。加えて台風やゲリラ豪雨線状降水帯である。そんな中、自由民主党の総裁を誰にとか、立憲民主党の代表選がどうのこうのと大騒ぎ。自然も恐いが人間社会に迫りくる危機が不気味だ。マイナス要因の渦に過度に反応してしまう“オヤジ”である私自身がこの渦から脱出せねばと反省している。まずは台風10号の被害が最小限に収まることを祈る。


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エリザベスカラーを付けた犬

2024年08月27日 | Weblog

  セネガルへ妻が赴任した時、前任地のネパールから2頭のシェパード『ウィ』牡と『ラン』雌を連れて行った。ランはネパールで生まれた。ウィはランのお父さん。セネガルのダカールは、治安が悪いと聞いていた。シェパード2頭が良き警護をしてくれることを期待していた。

  ネパールでは、赴任直後すぐ家に泥棒が侵入した。ウィはまだ子犬で泥棒が侵入したことを検知できなかった。泥棒は、私のニコンの一眼レフのカメラや下着などを持ち去った。一番ヒヤッとしたのが妻の革製のドクターズバッグをネパールのククリという蛮刀で真っ二つに切られていたことだった。下手すればククリで首を切り落とされていたかもしれないのだ。それから半年後には立派な成犬になり、雇っていたネパール人の元グルカ兵だったガードマン以上の警護を担って私たちを守ってくれた。

  セネガルでも親子2頭でやはり雇った警備会社から派遣されたセネガル人ガードマンと一緒に警護し当たってくれた。雇っていたセネガル人の運転手にセネガル人ガードマンは犬に警護を任せてほとんど寝ていられるので楽な仕事だと言っていた。

  こうしてセネガルでも夜は2頭が警護してくれたおかげで泥棒にやられることはなかった。でも違う問題が発生した。ランが成熟してきて繁殖期を迎えた。ウィの様子が父親から牡になった。妻と相談してランに不妊手術を受けさせることにした。良い獣医を紹介してもらおうといろいろな情報を集めてある獣医にたどりついた。ランの手術が終わって治療室から出て来たランの首の周りにプラスチックの大きな白いモノが巻かれていた。私たち夫婦の介護でランはまた元通りに元気になった。術後の抜糸などで再び獣医を訪ねると、なんとその獣医は偽獣医で逮捕されたという。白いランの首の周りのモノと獣医が偽獣医だったことが記憶に残った。

  同じ集合住宅の友人から連絡が来た。出張で留守にするが、飼い犬が先日手術を受けて首に『エリザベス』をしているので抜糸が済むまで心配なのでできるだけ家に置いときたいと言う。『エリザベス』ってなあに?早速検索した。「エリザベスカラーとは、手術、皮膚病、怪我などによる外傷を持った動物が、傷口をなめることで傷を悪化させることを防ぐ為の、円錐台形状の保護具である。呼称は、16世紀イギリスのエリザベス朝時代に衣服に用いられた襞襟から来ている。」  そうだったのか。セネガルでランが偽獣医の手術を受けた後付けられていたのは『エリザベス』だったのだ。私は今までに犬をたくさん飼った。友人の犬とも仲がいい。快諾した。

  出張前日に友人宅で鍵を預かって、餌の事トイレの事などの打ち合わせをした。友人の犬はあと数日で抜糸するのでまだエリザベスカラーを付けている。まだ8カ月なのでやんちゃな牡犬だ。台風10号が襲来しそうなので、友人の出張が予定通りにいくかわからないが、久しぶりに犬と時間を過ごせる。日本に帰国して犬を飼おうと何度も思った。チュニジアに年老いたウィを友人に託して置いて来たことが、また犬を飼うという事を許さなかった。すでにあきらめていた犬と過ごす時間、たった1日だが楽しみたい。


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チュニジアの本マグロ

2024年08月23日 | Weblog

  昨日行きつけの魚屋で「チュニジア 本マグロ」と表示されたマグロの刺身を見つけた。165gで1151円(税込み1244円)。チュニジアと書かれていただけで、迷うことなく買い物かカゴにパックを入れた。夜妻が帰宅して、チュニジアの本マグロだよと言って食卓に並べた。妻は「えっ、チュニジアのマグロ。本当に。」と半信半疑の様子。大間のマグロじゃあるまいし、わざわざチュニジアと書いて客の気をひくこと必要もないだろう。どこのマグロだろうと美味しければ文句はない。妻がすりおろしてくれた生わさびと醤油をつけて口にした。

 妻の海外任地の中で、私が一番食材の良かったと思う国は、ぶっちぎりでチュニジアである。地中海沿岸に位置していて、温暖な気候で野菜や果物が豊富で、豚を除く羊や牛や鳥などの肉、海の新鮮な魚も安かった。チュニジアのほとんどの人がイスラム教徒なので、豚肉は食べない。暮らしているといろいろな情報が入る。ついには市場の片隅で、ほんの一部しかいないキリスト教徒が経営する豚肉店を発見した。イスラム教国で途切れることなく質の良い豚肉まで入手できた。私は、セネガルで日本人の元フランスの一つ星のレストランで働いていた主婦の料理教室に6カ月通った。セネガルで習ったすべての料理をチュニジアで問題なく調理できた。食材が問題なく揃ったからだった。私の料理は、セネガルで習ったフランス料理をチュニジアで実践したことで格段の進歩が可能になった。

 私は調理の腕は怪しいが、食材選びの目利きの自信は、すべて海外で培われた。多くの失敗が、私に教えてくれた。食材が優れていれば、少しくらい調理が下手でも何とかなるモノである。妻が言うのに私は“ずく”があるそうだ。“ずく”とは長野県では“こまめ、あきらめない、粘り強い”と肯定的な意味が強い。“ずく無し”のような否定的でダメな意味を持たないと私は勝手に思っている。

 “ずく”を総動員して海外でどこに国に暮らしても、食生活を充実させることに奔走した。チュニジアでは、季節ごとに旬の食材の情報を集めた。在住の日本人、アメリカ人、中国人などから、そして最高の情報は、食材を売る店の人からもたらされた。店の人と仲良くなる。良い食材を手に入れる一番の方法である。そしてどこの国でも同じ食材でも産地によって質や味が異なることも知った。どこの産地が良いのかなど、外国人には知る由もない。人間の美味しい物を食べたいという気持ちは、万国共通である。チュニジアの流通業は、ほとんど市場などに出店している個人営業の形態である。多くの店の中から良い店を選ぶことから料理は始まる。

 チュニジアで最高の魚の店は、チュニジアの首都チュニスから車で1時間のビゼルトの漁港の魚市場にある。魚好きの私は週1回そこへ通った。お目当ては地中海マグロである。信じられない値段で買えた。チュニスの市場の中の魚屋は日本人がマグロ好きだと知って当時でも高値で日本人価格をつけて売っていた。ビゼルトの魚市場に日本人はいなかった。マグロはどこの部位でも同じ価格だった。トロでも頭でも尻尾でも同じ価格。

 今でもチュニジアのビゼルトのマグロの味を覚えている。昨日食べたチュニジアのマグロとは違う。でも普段忘れていたチュニジアのあの“ずく”全開だった食材集めに奔走した生活を思い出すことができた。コロナだ、猛暑だと言って家に籠っている私にも“ずく”に輝く過去があった。そんなことを税込み1244円のチュニジアの本マグロが思い出させてくれた。


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