駅の中にあるスーパーへ買い物に行った。駐車場に車をとめて連絡橋を渡った。駐車場は冷房がない。その日も猛暑日だった。連絡橋を渡ってやっと冷房が効いている駅ビルの中に入った。エアコンが効いた車の中から出た途端、立ち眩みと吐き気を感じたほどだった。冷房がよく効いた駅ビルの中に入ってやっと正気を取り戻した。
中廊下のような所を歩き始めた。反対方向から男性が歩いて来た。半袖のTシャツに半ズボン。私も半袖のTシャツと半ズボン。ただ反対側の男性の半ズボンは、カーキ色。私のは濃紺。私の目が釘付けになった。男性のTシャツ。どこかで見たことがある。白い手袋のようなものをはめた両手で、青と緑の地球を持ち支えている。私は自分のTシャツを見る。同じ。こんな事がある。だんだん私に近づいて来る男性も気が付いたらしい。でも視線をお互い外す。ここが海外の陽気で気さくな人々が暮らす国だったなら、お互いを抱き合ってこの奇遇を喜び合う場面であろう。恥ずかしやがりの両日本人は、ただ目を伏せて通り過ぎた。
「あっ、同じ」という場面は、稀に起こる。車を運転していて、自分が運転している車の車種が同じ。色が同じ。ごくまれだが、何とナンバープレートの番号まで同じという事もある。今回のTシャツのように着ている服が同じという事もある。
妻の海外赴任に同行していた時、飛行場での預け荷物を到着後の回収するターンテーブルで自分たちのスーツケースを見つけるのに苦労した。そこですぐ見つけられるよう、誰も持ちたがらない色のスーツケースをいくつか選んだ。サイケデリックと言っても良い代物だった。ピンクとブルーと黄色がごちゃまぜ。こんなの誰も使わないだろうと自負していた。あったのだ。世界は広い。全く同じスーツケースをターンテーブルで見たのである。
誕生日が同じというのも気になることである。私と同じ誕生日で有名人は、私が知る限りいない。孫の一人が大谷翔平選手と同じ誕生日である。9月20日(日本時間)ついに大谷選手は50-50ホームラン50本盗塁50の前人未踏の大記録を成し遂げた。だから孫が大谷翔平選手のように凄い人になるかと言えば疑問である。でも意味もなく嬉しいことである。
ただの偶然だろうがそれがどういう事であろうが「同じ」というのは、何となく人を喜ばせて連帯を生むことが多い。同じ地域に生まれる。同じ小学校中学校同じ高校同じ大学で絆も持てる。海外に暮らすときは、同じ日本人ということだけで距離が近く感じる。同じという事は、安心感を与えるのかもしれない。地球上の何十億という人の中、人間はそれぞれその中に鏡に映るような“自分”を探し求めているのかもしれない。
たまたま駅ビルの中で同じTシャツを着たおっさんと出会った。このTシャツは、ユニクロのPEACE FOR ALL KAWSというブランドで売られている。きっと何万枚という大量のこのシャツが世界に出回っているに違いない。それでもそのTシャツを着たおっさんと同じ時間に同じ場所に同じTシャツを着たおっさんが鉢合わせするのも不思議な縁であろう。なかなかないことだが、こんな偶然を求めて街をさまようのも楽しみである。