団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

イクラが泳いでる

2018年12月28日 | Weblog

  12月20日木曜日に高校の同級生のN君からメールが届いた。そのメールに3枚の写真が添付されていた。いまだに私は、メールに写真を添付することがうまくできない。N君やるな、と思った。N君のメールに写真が添付されたのは初めてだ。

 メールの文章を読む前に、添付された写真をクリックして拡大した。うむ。これは何?まさか!鮭の赤ちゃん。どうしてN君が鮭?メールの文章を読んだ。N君はかつて大學で教えていた。でも鮭に関係する学部の教授ではなかった。定年退職後、日本全国あちこちの講演会に招かれ講演を行っている。市や地方自治体主催の子供理科実験教室などでも積極的に指導講演活動にも協力を惜しまない。ある子供理科実験教室で他の講師と知り合った。その講師は、鮭の受精したイクラを孵化させて育てていた。N君はその講師に受精したイクラを分けて欲しいと頼んだ。そうして手に入れたイクラを小さなメダカ用の水槽を購入して水道水を入れ、イクラを中に放した。ある日水槽の中の茜色がかった、それこそサーモンピンク色したイクラが動いているのに気が付いた。時間が経つにつれて、水槽の中のイクラのほとんどが孵化した。もともと科学者のN君、注意深く観察した。その様子をメールで私に知らせてくれた。相当感動した内容だった。私は根っからの文系人間である。私が鮭のイクラの孵化に感動するならまだしも、大学の実験室で多くの生物微生物の研究をしてきたN君が感動する。私はこれって、よほど凄いことだと理解した。返事を書いた。できれば私も鮭のイクラから孵化した鮭の赤ちゃんを見たいと訴えた。返事がきた。講演会で東北へ23、24、25日と行くので26日以降に来てという。私は27日にN君を家に訪ねることにした。

 N君の娘さんがお産で奥さんは留守だった。水槽は玄関の靴箱の上に置かれていた。こんな小さな水槽とびっくりするほど小さかった。玄関は薄暗くなっていた。電灯をつけると鮭の赤ちゃんが興奮して動き回るので普段はできるだけ刺激しないようにしているという。餌は?水の交換は?水槽の掃除は?私にもたくさん聞きたいことがあった。目を見張った。私はロシアのサハリンで鮭の遡上を見ている。体中傷だらけの一匹のメスにメス以上にボロボロなオスが数匹メスを追いかける。川というよりセンゲ(方言:どぶ)のような小さな流れにまで入り込んでいた。海から何十キロも幾多の難関難所を遡上して、産卵場所にたどり着いても他のオス鮭と自分の子孫を残すために闘わなければならない。その壮絶さ、一途さに圧倒された。私は泣いた。涙が止まらなかった。自然の命をつなぐ営みの前に立ち尽くしていた。

 N君の家の玄関で私はサハリンで見た産卵光景を思い出していた。鮭の卵を狙ってイワナ、ヤマメが川に群れていた。海に戻れる鮭の赤ちゃんは、1%だという。水槽は鮭の赤ちゃんにとって安全である。おなかにくっついているイクラがある限りエサはいらないという。イクラがなくなったら、メダカや金魚のエサを食べるという。N君はすでにそのエサも準備している。N君も私も70歳の高齢者、人生の最終コーナーにさしかかっている。生まれたての鮭の赤ちゃんとは立場が逆。私たち二人がそれを自覚しているからこそ、このイクラの孵化に感動を禁じ得ないに違いない。

 鮭の赤ちゃんを放流する日、また連絡してくれるとN君が約束してくれた。楽しみである。N君がこんな私に孵化を知らせ、見に来るように声をかけてくれ、この感動を共有させてくれたことが何より嬉しい。


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食器洗い

2018年12月26日 | Weblog

  カナダで学んだ学校には、日曜日以外毎日学校へ2時間の奉仕が義務付けられていた。最初の年、私は食堂の洗い場に配属された。在校生職員合わせて2800人の学校だった。そのうち家庭がある500人を除くと朝、昼、晩と1回に2300人の人が3回食事する。作る方も大変だが、あと片付けも大仕事である。学校が用意したゴム長靴に首から足元まで覆うゴムの前掛け熱湯に耐える分厚いゴム手袋をして働いた。洗い場には大きな自動食器洗い機があった。熱いお湯でまずざっと食器の主な汚れを洗い流す。それを食器洗い機の入り口に人の手で置く。ベルトコンベアに乗せられて食器がまず洗剤の噴霧を受ける。ブラシが回転している所2か所を通過する。熱湯消毒されて出てきた食器は、ここでまた学生の手で籠に入れられる。その籠を専用の押し車に積んで食器をしまう場所に運ぶ。2時間ですべて終わらせた。

 日本でもレストランや料亭などで修業する人たちも、初めは洗い方としてしばらく働くようだ。私はカナダの学校で食器を洗う仕事ができたおかげで、今でも食後の食器洗いをいとわない。2300人分洗っていた過去は、夫婦の二人分など物の数ではない。妻の海外赴任で暮らした国々でも客を招いて設宴を多くした。

 洗うだけでなく主夫になってから、調理は私の担当となった。食材の調達、調理、接待、後片付け、食器洗いの繰り返しだった。とても良い経験になった。嫌なこともたくさんあったが、招いた客からいろいろな話を聞けた。さらにたくさん話が聞けるように料理の腕も上げようと努力した。人間、美味しいものを食べたり、楽しく酒を飲むと、厄介な自我の壁を取り除き、旧知の仲間のようになれる。任地によっては、通いのお手伝いを雇うことができたが、設宴の後の片づけは夫婦二人でやった。客が帰った後、午前1時2時まで片づけ洗い物をした。

 歳をとり古稀を過ぎた。以前のような大人数を一度に招くことはない。せいぜい10人が精一杯である。誰を招くか決まれば、まず献立を決め、食材を集める。日本は本当にすごい国だと実感する。海外に暮らしていた時は、ある食材で献立を決めなければならなかった。今は違う。何でも欲しいものは、近所のスーパー、行きつけの魚屋、肉や、どうしても見つけられなければ、ネットで検索すればすぐ申し込み、宅配便で調達できる。常温、冷蔵、冷凍でも日時指定で入手できる。こんな国他にあるだろうか。

 12月に入って毎週末客を招いた。いつもの通り、客からたくさんの話が聞けた。食材を吟味してあちこちから調達した。客に喜んでもらいたい一心だった。客が帰った後、夫婦二人で酔ってふらつきながらも後片づけした。私は食器洗いをしながら、客の皿を点検する。綺麗な皿ほど私を嬉しがらせるものはない。残してあれば反省する。

 客が持ってきてくれた自分で育てた土がついたカブと大根を水で洗った。水が冷たかった。私が幼い頃の母ちゃんを思った。お湯がない洗い場で母ちゃんは手を真っ赤にして野菜を洗い、みんなの食器を洗っていた。50年前のカナダの学校は、体育館さえ暖房されていた。熱いお湯で食器が洗えた。あれから50年、日本も便利になった。それでも私は面倒なことを面倒だと思わないで片づける。自分のできることを淡々と最後までやっていたい。それで良いとやっと思えるようになった。


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ウガイ・手洗い・出歩かない

2018年12月20日 | Weblog

  外出後のウガイと手洗いが習慣になっている。それでも1カ月前に風邪をひき、3週間ほど臥せった。体力の衰え、免疫力の低下を感じる。

 古希になる前までは、ウガイも問題なくできていた。最近ウガイにも障害がでてきた。私は、ウガイにイソジンを薄めて使う。イソジンに付いてきた計量カップをコップ代わりにしている。そこへイソジンのまるで交換せずに使ったエンジンオイルのよう色をした原液を少し注ぐ。水道の蛇口から原液の3倍ほどの水を加える。琥珀色に変わる。それを口に含む。含むと天井を見上げる。この瞬間、私は首の骨の固さを思い知る。首だけでなく上半身もぎこちなく反る。自分ではフィギャアスケートの金メダリストの荒川静香並みの反りと自負。そして右手は壁に固定されたタオル掛けに掛かった手拭き用のタオルの端をつかんでいる。何かに掴まっていないと倒れそうになってしまう。口にはイソジン液が入っている。まだ問題がある。誤嚥である。私はウガイで「ガーㇰワガーガーガラガー」と喉でイソジンを踊らせる。30まで数える。以前は30まで途中で息をしなくても数えられた。今はだいたい20で息継ぎが必要となる。肺活量が縮んできたらしい。これが災いの元。息をしようと喉近辺の筋肉が難しい動きを試す。イソジンがチョロっと喉から食道に流れる。流れたイソジンが気管支に接近する。誤嚥。誤嚥を防ぐ方法を私は幾度となく苦しい思いをしてついに発見した。なるべく首を前に倒すように飲み込むのである。しかし、その方法は、天井を見上げてガラガラするこのウガイに適用されない。だから抑えきれずにむせることがある。何とかウガイを無事終わらせることができれば、役目を終えたイソジンを計量カップに静かに吐き出す。それを流しの排水口に注意深く捨てる。以前は洗面台の水槽にまき散らすように吐き出したが、イソジンの強力な色素が水槽を茶色にするのが嫌で排水口に直接捨てることにした。これをすると、いつも罪悪感が頭をもたげる。このイソジン、下水処理場でちゃんと処理できるのだろうかと。川や海を汚して他の生物に悪影響を与えていないだろうかと。

 手洗いはネパールで3年間暮らして以来習慣づいた。気をつけていないと糖尿病で免疫力が低い私は感染症になりやすい。水道水も汚染されていたが、それでも石鹸を使えばある程度除菌できるとアメリカ大使館主催の衛生講習会で教わった。アメリカ人講師が言った。レストランでボーイやウエイトレスは、料理を運ぶが、一緒に病原菌も運ぶのだと。シャーレーの寒天に手の指に当てた綿棒をつけ、培養させた結果を見せられた。手の指の細菌の驚異的繁殖力に圧倒された。ほとんど毎日家に客を食事に招いていたので衛生管理には気を遣った。一日に何十回と手を洗ったので、その習慣は今でも続いている。ただ困るのは、手を洗ったのに、それを忘れていて、またすぐ手を洗うことが多くなった。手洗い、病気予防にしすぎるはないと思うので気にしないようにしている。

 ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアと妻の赴任地で暮らしたが、そのどの国にもしっかりとした下水処理場はなかった。人間は自分の排泄物でも自分の環境を汚染している。日本は下水処理場でも世界最先端の技術を持っている。それでも細菌や病原菌は目に見えない。だから恐ろしい。いつどのように感染するかわからない。感染の一番の可能性は、自分の手だという。自分の手から自分の口へと知らず知らずに菌を送り込む。できるだけ手を口に近づけないようにしているが、手は口が好きらしく、接近を繰り返す。予防に越したことはない。

 出歩くことが大好きな私だが、感染症が流行ると、出歩くことをひかえる。これは妻の勧めである。それにしても妻は丈夫である。インフルエンザも風邪もひかない。病院には病気の人が集まる。それでも妻には病気がうつらない。ただ菌を運んでくるので、私が素直に反応して病むことが多い。だからウガイ、手洗い、出歩かないは、私の病気の防波堤である。


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クリスマスセール

2018年12月18日 | Weblog

  「牛一頭お買い上げいただければ、豚半身をサービス」 日本では聞いたこともなければ見たこともない宣伝文句。これはカナダ アルバータ州のDidsbury(デツベリー)当時人口3千人あまりの小さな町のクリスマスセールでの出来事だった。53年前の事だった。今でもこのような売り出しがあるかどうかはわからない。招かれてクリスマス休暇をこの町に住む一家と過ごすために訪ねた。夫婦と子供が5人の家族。

 なんとこの家族、豚半身付き牛一頭を購入した。早とちりの私は、牛一頭と豚半身がそのまま配達されるのかと思った。よく話を聞いてみると、セールをした店が、牛も豚も客の要望で切り分けて配達してくれるそうな。家族の主人の弟家族と共同で購入して半分づつ分ける。納得。もう一つ気になったのは、牛と豚の内蔵だった。日本では普通に売られているモツ、レバーなどカナダの店でそれらが売られているのを見たことがなかった。そのことを主人に聞いてみた。答えはNo。その家族は一切内蔵を食べないと言った。それ以上聞けなかった。あれから53年経った2018年、テレビの料理番組で内臓を食べるのはヨーロッパとアジアやアフリカなどでカナダやアメリカでは食べられないと言っていた。食文化の違いを感じた。

  その家族が住む家には、地下室があった。地下室の一部が食料倉庫になっていた。そこに大きな冷凍庫があった。日本の私の家には冷凍庫などなかった。畳一枚はどの大きさで、上のフタが開閉できる。日本の冷蔵庫を倒して置いた感じだった。牛肉と豚肉双方の包みには、どこの部位で枚数が書かれていた。毎年クリスマス前にそれら全て食べつくすと聞いた。学んでいた全寮制の学校の食堂で肉、牛、豚、鶏は、食事に入っていることがなかった。一年に数回、“ステーキ”とあり、喜んだが出てきたのは“レバーステーキ”でがっかりしたものだ。カナダ人の学生は、レバーは肉でないと、口にしない者も大勢いた。寮生は、休暇時に家へ戻って、たらふく肉が食べるのが何より嬉しいと言っていた。休暇に学生に招かれて訪問した家では肉、肉の攻勢に圧倒された。その量が半端なかった。農家では朝から分厚いステーキが出てきてびっくりした。

  カナダ渡航前、欧米のクリスマスといえば七面鳥と先入観を持っていた。当然クリスマスセールなら七面鳥がセールの対象であろうと思い込んでいたが、やはり百聞は一見に如かず。カナダの小さな町でクリスマスは、一年で一番盛り上がる行事なので、普段では見られないことがたくさんあった。

  忘れられないのは、カナダの西部のクリスマスには、日本のミカンが欠かせないものであったこと。日本の正月に小さな木箱入りのミカンを買ってもらいコタツでミカンを剥いて食べた。そのミカンが海を渡ってカナダのクリスマスを祝う必需品になっていた。Didsburyのスーパーに日本からはるばる運ばれたミカンの木箱が山になっていた。そのミカンを見て日本が恋しかった。牛一頭豚半身を買うこともなく、ケーキぐらいで迎えているであろう私の両親、姉妹を思った。

  私は古稀を過ぎ今、あのカナダのクリスマスを盛り上げたミカンを輸出した産地に住んでいる。日本からカナダのクリスマスを懐かしむ。


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エレベーター

2018年12月14日 | Weblog

 私が住む集合住宅では、大規模修繕が12月から本格的に始まった。まず北側の1階と2階の境目の外側に建物からせり出した3メートル幅の植栽部分をコンクリートで固める。型枠がめぐらされた。コンクリートが流し込まれ順調に工事が進んでいた。

  12日の朝、昨夜振り出した雨がまだ降っていた。窓からまだ暗い北側のコンクリートを流し込んだせり出しを見た。まるでプールのように水が溜まっていた。型枠に排水口を作らなかったに違いない。雨が降ることを想定していなかったのだろう。妻を駅に送ろうと玄関のドアを開けた。何か水と薬品が混じったニオイがした。普段はまったく人の気配はない。我が家は集合住宅の2階にある。1階は玄関ホールになっていて、表玄関からは道路へ、裏の2か所から駐車場に出ることができる。我が家の玄関を出てすぐ右側にエレベーターの乗降口がある。エレ    ベーターのドアの前に「使用禁止」の看板が置かれていた。私たちはいつもエレベーターを使わない。歩いて階段をおりた。踊り場があり、そこで階段が北から南へ方向転換する。その踊り場は水浸しになっていた。踊り場からおりていくとエレベーターの前に12月の管理組合の総会で理事長になったばかりのTさん夫妻がいた。エレベーターの床が外されモーターがある2メートル下の場所にエレベーター会社の人が何やら作業をしていた。理事長夫妻が事の説明をしてくれた。午前3時ころエレベーター会社から理事長宅に電話があり、エレベーターに浸水している警報が届いたのでこれから行くと言われた。エレベーターの所に来てみると、玄関ホール、踊り場から下の階段、エレベーター付近が水浸しになっていた。理事長夫妻は、床用水切りワイパーで水を玄関から外へかきだしていた。妻はさきの総会で副理事長になっていた。妻の電車の時間があるので、お詫びして駅に向かった。

 11日の夜、駅へ妻を迎えに行った。妻が車に乗り込んですぐ、雨が強く振り出した。車を駐車場に止め、家に向かった。階段を上り、踊り場のシャッターをおろした。その時外を見ると雨粒が跳ねて踊り場の中まで飛び込んできていた。私は妻に言った。「台風やゲリラ豪雨になれば、ここからきっと水が入ってくるよ」 その時雨が一晩中降り続けるとは思わなかった。何か胸騒ぎしたり、嫌な予感を持ったら、もっと賢明な行動をとるべきだと反省した。

 それにしてもエレベーターに設置された警報装置とやらは、優れた機能である。深夜3時にエレベーターの下の床に設置されたモーターにつけられたセンサーがちゃんと浸水を感知してそれを会社の管制部へ送信した。送信するだけなら機械ならできるであろう。会社の管制室の当直が送信された警報に対応したのも感心した。昨今、人為的なミスによる事故が多い。私たちが眠っている間でも、機械や人々が24時間体制で守ってくれているのは、心強い。 世の中は、機械化、電子化、人工知能化により複雑化高度化するばかり。その進化の速度に管理運営する人間がついてゆけなくなっている。今回のエレベーター浸水の騒動も、施工会社がもっと注意深く手立てを取っていれば起こらなかったであろう。私が胸騒ぎを、嫌な予感を施工会社かこの住宅の管理会社に機敏に伝えていたならと悔やむ。

  「一方はこれで十分だと考えるが、もう一方はまだ足りないかもしれないと考える。そうしたいわば紙一枚の差が、大きな成果の違いを生む。」松下幸之助


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留学生争奪戦

2018年12月12日 | Weblog

  駅の売店で「留学生争奪戦」と大きく書かれた雑誌のポスターを見た。“Wedge”という雑誌の12月号の目玉記事らしい。買うことにした。税込みで500円だった。

 表紙に「罪深い留学生30万人計画 留学生争奪戦「金の卵」に群がる産業界と大学」と書いてあった。新聞の刷り込み広告や電車の中刷り広告に私は強い関心を持つ。13年間の海外生活で日本から送られてくる新聞をなめるように丁寧に読んだ。特に週刊誌の刷り込み広告での掲載記事の目次見出しに目を奪われた。どんなに買って読みたくても買えない。ロンドン、パリ、ニューヨークなどの大都市の書店で売っていることはあったが、日本の価格の3倍4倍した。ずっと目次の見出しだけで、自分勝手に内容を想像していた。帰国して自由に週刊誌、雑誌、書籍を買えるようになると、どれも広告の見出しほどの内容でなかった。いかに見出しを書いている人の才能がすごいことか。

 Wedgeの記事を読んでいて思い出したことがある。私がカナダで学んでいた時、ある日学校の学長室に呼び出された。何か校則を犯して罰せられるのかと学長室に入った。学長室に学長と制服を着た人がいた。学長がその人を紹介した。移民局の役人だった。私は20歳を超えていた。役人が学長の横で私に言った。「カナダの市民権を取りませんか。学長推薦があるので問題なく交付できます」 私はあまりに急なことで戸惑った。私は日本へ帰国したら、学校の教師になることを夢見ていた。カナダに住むことをまったく考えていなかった。日本で懸命に働いて私の留学費用を出してくれている両親姉妹を思った。躊躇する私に移民局の役人が「今すぐに返事が欲しいのですが、でもよく考えて答えが出たら学長に伝えてください。それと市民権を取ったからといって、日本へ帰れなくなるわけではありません。そこをきちんと理解してくださいね」と言って面談が終わった。後日、私は学長にカナダの市民権は取らないと伝えた。

 カナダは移民の国である。あの広い国土に当時2千万人弱しか人口がなかった。少しでも移民を増やしたいと躍起になっていた。現在日本は出生率の低下で労働力が不足している。後手後手で付け焼き刃的な日本は、ここにきて外国人労働者の受け入れの法を見直して増加することにした。先を見越して周到に時間をかけて準備することができない短絡的なやっつけ仕事である。ここでWedgeが読者に留学生争奪戦を提起した。以前からWedgeは他にはない視点で記事を書いていると私は評価していた。大学の数は増えたが、人口減少で大学によっては入学生を定数確保できなくなっている。大学は外国人留学生に門戸を広く開放してきた。設備、教員などの問題は多々あるが、悪いことでない。なぜなら大学は、教育機関である。程度の問題があっても学ぶことに違いはない。大学でせめて日本語の習得さえできれば、外国から突然日本に来て働くよりはマシである。日本人学生にとっても外国人が留学生と一緒に学ぶ意義は大きい。いきなり日本語もわからずに労働に従事するより、このような一段階おいて日本の生活や文化に慣れてもらうことは必要である。カナダで私が在籍した学校のように日本に学長自らが学生を推薦してくれるようなことはないと思う。しかし日本で働いて欲しいと願う気持ちを相手がわかるように手をつくすのは当然である。日本の会社が留学生の入社に積極的になったことは、良い兆候である。大学もさらに留学生が望む教育環境を整えて欲しい。日本は世界でガラパゴスのような稀有な国としてみられている。その日本に興味を持ち、好きになってくれる外国人もいると聞く。日本を好きになってくれる外国人が増えることを願う。

 「その国が貧困なのは、そこでは訓練され、教育を受け、あるいは経験を積んだ技術ならびに行政関係の人材をかいているからだ。……経済発展は、腐敗した、愚かな、あるいは無定見な官僚による過度の課税ないしは首尾一貫しない規制によってその芽をつまれてしまう。……対策3。貧しい国から先進工業国へ移住する」 ガルブレイス著 『大衆的貧困の本質』 発行CCメディアハウス 1058円(税込み) 

  はたして日本は先進工業国なのか疑問である。まだまだやらなければいけないことがたくさんある。

  何度でも言う。日本で暮らして働くには、まず、それなりの日本語習得が不可欠である。


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もみじ・枯れ葉・落ち葉

2018年12月10日 | Weblog

 『地の色となるまで枯葉掃いてゐる』 野木桃花

 住む集合住宅のセコイアが葉を落とす。建物を隠すように並べて植えられたセコイア。通いの管理人が箒でセコイアの落ち葉を掃く。掃くはじから細かいセコイアの葉が落ちる。それでも掃きためられた葉が小さな塊になる。駐車場から車が出てくる。4つの車輪が葉を巻き上げ、雪国のラッセル車のように葉を蹴散らす。車の輪の後が線になって残る。管理人が何事もなかったように、また箒を「サーッサーッサーッ」と機械的に動かす。

 金曜日、東京の巣鴨の蕎麦屋「菊谷」で寄り合いがあって東京に出かけた。風邪をこじらせ3週間臥せっていた。やっと体調が戻ってきたので出席することにした。駅まで歩いた。雲が多いが所々陽があたっていた。まわりの山の木々の陽があたっているところの紅葉が美しい。何度も足を止めて、山を仰いだ。今年は、気象異変で紅葉が綺麗に出ていないと聞いていた。そんなことはない。特に陽があたっている紅葉は見事である。特にハゼノキかウルシかわからないが、その赤が他の茶色、緑色、黄色の中で浮き立つほど鮮やかだ。陽が陰る。それはそれでまた風情があった。再び陽が射す。歌舞伎座の緞帳があがり、照明が当った花形役者の金襴緞子の衣装のように紅葉が輝き始める。

  電車に乗った。電車はどんどん自然から離れた。家が密集してきた。東京駅で電車を乗り換えた。人、人、人。人混み頭痛が始まった。肩がぶつかる。向こうとこっちのフェイント動きが同調してしまい正面衝突しそうになる。かわせた。今度は前を行く女性のゴロゴロキャリアバッグに当たってつまずく。前を行くおじいさんが急に旋回。私はつま先立ちして急停止。疲れる。毎朝、妻はこんな混雑を切り抜け通勤しているのだ。偉い。

  巣鴨に到着。午後5時を過ぎていた。寄り合いは、午後6時受付開始だ。時間がたっぷりあった。巣鴨のとげぬき地蔵で賽銭を上げ、お参りした。寺の前のベンチに腰をおろして休んだ。境内には何本か木があった。紅葉していたが私が住むところの紅葉とは違う。

  蕎麦屋「菊谷」の会合に一番乗りだった。すでに8時30分発の帰りの電車の指定席券を購入してあった。途中で退席するので出口に近い席に座った。高校で同級だったN君の到着を待った。私より20分遅れでN君が到着。電車が止まっていたらしい。都会はいろいろ大変だ。N君と近況を話せた。「菊谷」の材料を吟味した料理を楽しんだ。7時45分に店を出ないと電車に間に合わない。途中で退席。「菊谷」の美味しい蕎麦をこの店独特の味噌つゆで食べたかったが、間に合わなかった。手間をかけて丁寧な仕事をする。私ひとりのために丁寧な仕事の手順を曲げて欲しくなかった。

  新宿駅に発車5分前に着いた。駅のホームは人であふれていた。12月、それも金曜日だ。もう忘年会もあるだろう。キャンセル待ちの自動切符販売機の前には長い列ができていた。現役の勤め人の苦労を思った。駅からタクシーに乗った。タクシーを降りると、管理人が掃いて集めたセコイアの葉が新たな落ち葉の中で「ここにいるよ~」と言わんばかりにぽっこり盛り上がっていた。地面一面セコイアの葉でおおわれていた。ここが私の終の棲家。目をあげると妻が待つ、我が家の白色電燈の灯が窓から漏れていた。


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金利・利子・利息・手数料

2018年12月06日 | Weblog

  金持ちの友人が言った。「金利は払うものではなく、もらうものだ」

 今年の12月から住む集合住宅の大規模修繕が始まった。一時金が発生。その支払いのため生活を切り詰め定額貯金をしていた。満期がきた。300万円になった。普通預金に振り込まれたとの連絡を受け、私はスキップしたいほどルンルンな気持ちで銀行のATMに並んだ。順番がきた。心臓がバクバク。タッチパネルの“通帳記帳”の表示を押した。通帳をパカパカ明かりが点滅する差し入れ口に入れる。スーッと機械の中に吸い込まれる。預金を崩して降ろすとき、機械が通帳に印字する音は、つれなく突き放すようにツーチャンチャカチャカスーッ。今日は音が違う。軽快にスーキーッスーキーッスースースーッと聞こえた。桁が多いので音が長く続く。「ポンポン、ポンポンおとり忘れにご注意ください」の女性の声の合成音がATMに響き渡る。私を老人だと思ってしつこいな、のいつもの老人性のヒガミを振り払った。「入金されているかな」 老眼鏡の焦点を記帳された数字に合わせた。「3、000、220」 気持ち良い桁数。う、最後の三桁の220ってもしかして利息。嘘だろう。300万円で220円。がっかり。全身から力が抜けた。

 手続き続行。“振り込み”の表示を選ぶ。振込先を入力。金額を打ち込む。“実行”を別れを惜しむ気持ちで強く押す。銀行カードと明細書が出てきた。後ろに並んでいる人がいたので、通帳記帳専用の機械に移動した。通帳を入れた。あっという間に通帳が出てきた。300万円が減っていない。おかしい。私は窓口へ行って案内係に説明を求めようと思った。案内係が不在。誰も使っていないATMに再び通帳を入れた。「新しいお取引はございません」の音声とともに通帳がひょっこりたんのように顔を出す。つまり振り込みはされていなかった。私は最初の操作で振り込みが終わったと勘違いしていたのである。最初の明細書を見直した。「お振込み限度額が超えています。窓口でご相談ください」 早く言ってよ。窓口へ行った。通帳、カードを見せて事の説明をした。答えは、私の口座では一日に100万円以上引き出しと振り込みができない。その上私の年齢が70歳以上なので振り込みは一日に50万円までしかできない。窓口で書類を書き込んで、振り込みの手続きをした。

 「振込料はATMと同じ額の680円にさせていただきます」 私の体内の怒りのマグマが爆発寸前まで膨張。3年がかりで貯めた定額積み金の300万円の利息が220円で振り込み手数料が680円。更に火に油を注ぐ言葉を浴びた。「お客様のご年齢が70歳以上なので一回のお振込みは50万円までです。2回に分けてのお振込みなので両方のお振込みで1360円かかりますが、いかがいたしましょうか」 これってぼったくりじゃん。

 冒頭の金持ちの友人は、振り込みや送金は銀行への電話一本で済むそうだ。手数料も無料。「金利は払うものではなく、もらうものだ」は、「手数料は払うものでなく、もらうものだ」にもなる。金持ち友人の徹底した節約は見習いたい。でも金持ちはますます金持ちとなる仕組みは、私には、どうすることもできない。

 ささやかながら蓄えた自分の貯金をおろしたり、振り込んだりするのに、制約を受け、その上、手数料を払わされるのは、見えないが大きな何者かに搾取されてるとしか思えない。


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妻、還暦

2018年12月04日 | Weblog

  私の胸にグサリと刺さる歌詞がある。「♪あの日あの時あの場所で君に会えなかったら 僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま♪」(作詞:小田和正 作曲:小田和正 唄:小田和正)

  私が小学生の時、学校の規則でいわゆる演歌のたぐいを口ずさむことは禁止されていた。私は掃除や休み時間に何気なく歌ってしまい、誰かがそれを先生に告げ口して何度も罰を受けた。高校生になってもロックバンドはおろか軽音楽部さえ学校側からある意味、偏見視されていた。途中でカナダのキリスト教の厳格な全寮制の高校へ留学したが、そこでの厳しさと日本の学校での音楽に対する捉え方に通ずるものを感じた。カナダの学校では、寮の部屋の抜き打ち検査があって今は日本の学校も大きく変わり、運動会や音楽会でも各種の音楽が受け入れられ、その上、踊りまでが認められるようになった。

  学校を離れ、制約なく音楽に接しられるようになると、自由というのはこういうことなのかと、わかったような気がしたものである。私は楽器の演奏ができない。その上音痴である。だから歌手や演奏家の音楽を聴くだけである。演奏できない、歌えない私はメロディーや歌詞に過敏な反応を示す。好き嫌いも激しい。どんな良い曲も続けて何回も聴けば、飽きてくる。自ら選曲して、そのCDを探すのも億劫になった。ラジオやテレビから流れて来る曲にこちらが同調する機会がめっぽう増えた。

  我が家の目覚まし時計は、午前5時にけたたましく鳴る。私の手は、犯人逮捕の警察官のごとく俊敏に正確に目覚まし時計のボタンをOFFにする。数秒遅れでラジオからニッポン放送の『上柳昌彦 あさぼらけ』が目覚まし機能で始動。まず目覚まし時計を止め、数分間ラジオを聴くともなく聴いている。だいたい妻が先に目を覚ます。私は最近寝つきが悪い。目覚めてもいつも睡眠不足を感じる。二度寝三度寝は無上の喜び。妻は「おはよう」を皮切りに話し始める。夢見つつ、聞いている私。妻はよくあそこへ行った、そこで何を見た、何を食べた、誰と会った、何を話したと過去に暮らした任地のこと旅行した場所のことを話す。コキイチ(71歳)の私はその地名は何とか認知できる。でも妻には申し訳ないが、その詳細はまったく思い出せない。妻は、朝のこの時間が好きだと言う。私も妻と一生ずっと話したいからと思って結婚した。私は口から先に生まれてきた、と言われるほどおしゃべりで、話し好きである。でも最近私の脳と口の連動がうまくいかない。思う、と話すがかみ合わない。それは噛み具合が悪い入れ歯のように不快なものである。耳も悪くなった。妻の言葉が聞き取れなくても生返事してしまう。女性は感が鋭い。「聞こえていないでしょう」「適当に答えたでしょう」「補聴器つけたら」 私の理解度は、妻に筒抜け。

  先日、妻が出勤したあと、私一人でテレビを観ていた。「♪あの日あの時あの場所で君に会えなかったら 僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま♪」(作詞:小田和正 作曲:小田和正 唄:小田和正) テロップが出たわけではない。でもこの私がその歌詞をはっきりと聞き取った。歌詞が私の走馬灯に点火した。どうして私の過去をそのまま歌詞にできるの、と思ってしまう。いやそうではない。多くの人々がそういう過去を持っているからこそ、小田和正の唄に感動するのだ。

  妻の誕生日がくる。私より11年遅い還暦を迎える。俺、還暦の先輩。還暦のことなら何でも尋ねて。


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