団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

安倍首相辞任と孫の将来

2020年08月31日 | Weblog

  池江里佳子(20歳)さんが29日の競泳・東京都特別大会で約1年7月ぶりに実戦復帰した。彼女が「急性リンパ性白血病」と診断されたのは18歳の時だった。東京オリンピックで金メダルを期待されるほどの絶頂期にいた。

 28日金曜日安倍首相(65歳)が病気のため辞任すると発表した。彼は17歳で潰瘍性大腸炎だと診断された。首相として新型コロナウイルス対策、経済問題、中国問題など問題山積のさなか、誰もが予測していなかった辞任だった。写真家で探検家の故星野道夫さんが「人生とは何かを計画している時に、起きてしまう別の出来事のこと」と文芸春秋に書いていた。

 衆議院議員の甘利明さんがテレビで言った。以前安倍首相と二人きりで話していた時、安倍首相が「私の病気は治るわけじゃないから、コントロールしているだけだから…」とポツリと話したそうだ。

 私は40歳の時、糖尿病と診断された。長野県の佐久総合病院の「糖尿病教育入院」に妻の勧めで参加した。最初の日、担当の朔医師があいさつした。「皆さんの糖尿病は、一生治りません。もう皆さんは、糖尿病と一緒に生きてゆくしかありません。この2週間でどう糖尿病と一緒に生きてゆくかを学んでください。ここでこれから学ぶ一つひとつが必ず皆さんを長生きさせてくれます」 一緒に教育入院した20人の中から初日の夜、病室から出て行った人がいた。彼は「あれしちゃいけねえ、これくっちゃいけねえ。ふざけるなっていうの。俺は好きな物を喰って、飲んで生きてえように生きるんだよ。馬鹿馬鹿しくてこんなところにいられかって言うんだよ」とベッドまわりを片付け、風呂敷包みを肩にして大部屋から出て行った。

  病室から出てゆく彼を見て、私はこの教育入院を契機に糖尿病と生きることを決心した。2週間後、80㎏以上あった体重が64㎏になっていた。2週間ぶりに会った妻が、すぐに私だとわからなかったぐらいだった。大顏連会長と言われたほどの顔が痩せこけて確かに別人だった。その後、私は、自分の仕事を辞めた。多くの人から、「仕事を途中で投げ出すのか。無責任だ」と言われた。正しい決断だったと思う。あの時、仕事を辞めていなかったら、私は糖尿病が悪化して、もうこの世にいなかったかもしれない。私は仕事でなく、糖尿病との共生を選んだ。私と安倍首相を比べるなんておこがましいが、少しだけ安倍首相の気持ちが理解できる気がする。

 その後、妻は、外務省の医務官に採用された。医務官は、外務省の在外公館に派遣される医師である。私は、妻に同行して海外で暮らすことになった。仕事から離れてよくわかった。自分の仕事がいかにストレスで体に負担をかけていたかと。まわりの人々から、やれ逆玉だ、髪結いの亭主だと揶揄された。でも私の糖尿病は、うまくコントロールされていた。しかし糖尿病のコントロールが上手く行っているようでも、体内で合併症が潜に進行していた。やはり糖尿病は絶対に私を完治させなかった。2000年、チュニジアにいた時、狭心症の発作が起こった。そして2001年心臓バイパス手術を日本に帰って受けた。いまでも佐久病院で受けた教育入院で学んだことを続けている。私の糖尿病は、何とか表向きコントロールされて、コキゾウ(古稀+3歳)になった。

 今心配なことは、孫のひとりが15歳で安倍首相と同じ病気になったことだ。入退院を繰り返している。今回の安倍首相の動向を観ていて、思うのは孫の将来を見ている気がした。友人にメールで訴えた。友人が即、長い返事をくれた。「…あと10年もすればiPS細胞技術など最先端の医療も進むでしょうから将来は心配なく過ごすことができると思います。…」 そうだ、そう信じよう。「人生とは何かを計画している時に、起きてしまう別の出来事のこと」ならば、思いがけずに、良いことが起こることを期待しようと思う。


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クボタ 壁があるから。

2020年08月27日 | Weblog

 テレビのCMで好感を持てるものは、少ない。観たくないので、リモコンでそのCMの間、他局に移動することが多々ある。サプリメント、過払い金、肝炎賠償金、出演している嫌いなタレントなどなど。そんな中で私を引き込むCMが、“クボタ”である。女優の長澤まさみさんを起用して、海外でロケした『壁がある。だから、行く。支えられている 水』編などのシリーズものだ。世界各地で撮影されたものである。イタリア、東南アジアなどの、クボタの製品が使われている現場。海外での事業展開に“壁”があるけれど、人々の生活に役立ちたいという想いが、数分間に凝縮されて込められている。そして現地の人々の「クボタ」と、現地の言葉風に口にする場面が、私の海外で暮らした時の思い出につながる。しょうもないCMの多くは、商品名だけの連呼のようなもので、物語性がない。

 残念ながら、私が海外で暮らしていた頃、「クボタ」と口にした人と会ったことはなかった。初めての外国暮らしだったカナダは、1960年代後半でまだ安かろう悪かろうの「メイド イン ジャパン」の考えが、カナダの人々に浸透していた。よくカナダ人アメリカ人学生に、日本製の酷さをからかわれた。ただ車の「DATSUN」オープンリール録音機の「AKAI」は、人気があった。私はAKAIという会社の名前さえ知らず、恥ずかしい思いをした。

 再婚した妻の仕事の都合で、自分の仕事をやめて、妻の海外赴任に同行した。1990年代のことだった。まずネパールで暮らした。まだ日本の家電業界が世界を席巻した頃だった。ネパールにはインドからの輸入品が溢れていた。雇っていた庭師がある日、日本製のガーデントラクターを買ったと言った。私は井関かヤンマーかと思った。彼は「HINOMOTO」と言った。これはインド製で日本語の名前を付けることによって、販売を伸ばそうとする魂胆だった。このように日本が勢いのある頃、中国でもインドでも、日本製であるかのようにして怪しい商品名、それどころか会社名までそれらしく装った。

 それも、私たちがアフリカのセネガルに転勤になった頃から、様子が変わってきた。セネガルの道路脇の看板は、中国の「Haier」と韓国の「LG」が目立っていた。まだ何とか日本製品が持ちこたえていた。フイルムカメラで写真を撮るのが普及し始めていたセネガルには、多くのフイルム現像店があった。そのほとんどが何故か韓国人の経営だった。そしてそこで使っていた現像機が、「ノーリツ鋼機」社のものだった。こんなに遠くのアフリカで、活躍するノーリツ鋼機製の機械に感動した。

 1996年に東ヨーロッパの旧ユーゴスラビアへ移った。この頃から日本の家電は、転げ落ちるように勢いを失った。自動車でさえ、韓国の「現代」と「大宇」がもの凄い勢いで入って来ていた。

 2000年になってすぐチュニジアに移ると、日本の家電は白旗を上げたように衰退していた。驚いたことに、ショッピングモールの家電売り場の8割以上が韓国製品「SAMSONG」と「LG」の製品になっていた。ソニーの製品が、端っこにさみしそうに置かれていた。日本家電の衰退に凹んだ私を、友人がコンテナ型電話中継所の製造工場へ案内してくれた。大きな体育館のように広い工場内に、何十台という工作機械が整然と並んでいた。その機械に「AMADA」の表示。機械の横で工員がニコリと親指を立てて、「アマ~ダァ」と言った。まさに、帰国してから観た「クボタ」のCMと同じシーンだった。だから「クボタ」のCMを観るたびにジーンとくる。

 ガンバレ、ものづくり日本!


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姫リンゴ・crab apple

2020年08月25日 | Weblog

  山形県から“お取り寄せ”した旬の果物の詰め合わせの中に小さなリンゴが2個入っていた。日本では“姫リンゴ”と呼ばれる。英語では“crab apple”。妻は、「小さいね」と言って手に取った。水道水で洗ってから、小さなリンゴを齧った。「酸っぱい。それに渋い」

 それもそのはずである。もともとこの小さなリンゴは、今の大きなリンゴの原種と考えられている。いろいろ文献を調べてみたが、詳しい説明を見つけることができなかった。ただネパールの市場で梨の原種と言われる小さな梨を買ったことがある。ちょうど姫リンゴと同じくらいの大きさだった。固くて渋かった。しかし後味の中にほのかに梨の味を感じた。原種に接することができるのは、まるで川の源流をたどるような冒険心をくすぐる。

  日本では“姫リンゴ”と呼ばれる。英語では“crab apple”。酸味が強いためにジュースやゼリー、果実酒などの加工用に使われている。私が子供の頃、秋のお祭りで売られていた。食べるためと言うより、物珍しさが子供達の好奇心を後押ししたのか、結構売れていた。

  高校2年生でカナダの全寮制の学校に転校した。自給自足を目指す学校だった。カナダを映画で観たアメリカと同じで食事はぶ厚いステーキや丸ごと焼いたチキンが毎日食べられると期待していた。学校の食堂で出された食事は、禅寺の精進料理のようだった。朝食はトースト2枚とオートミール。昼食は、マッシュポテトにグレービーソースをかけたもの。夕食はスープとクラッカー。肉はほとんど出されず、マッシュポテトにかけるグレービーという肉汁が肉につながる唯一の献立だった。2,3カ月連続で来る日も来る日も同じデザートが出たことがあった。それが缶詰の姫リンゴのシロップ漬けだった。当時私は夕食後1時間学校の調理室で学費の足しになるバイトをしていた。姫リンゴのシロップ漬けの空き缶を片付けた。缶は業務用の大きなものだった。それが山のようになっていた。

  姫リンゴのシロップ漬けは、学生に人気がなかった。手をつけない者も大勢いた。私は見様見真似で姫リンゴに牛乳を入れた。シロップと牛乳が混じって、少しトロっとした。でも姫リンゴは丸ごと入っていたので種やその周りの芯が口に残った。調理室で耳にしたのは、姫リンゴのシロップ漬けの缶詰は、値段が安かったので大量に一括購入したらしいということだった。1950年代、学費寮費込みで年間授業料が700ドル(1ドル=360円)だった。肉など出るわけがなかった。

  子供の頃、お祭りの出店で売られていた姫リンゴが、カナダの学校の食堂でデザートとして出てきた。美味しいとは思わなかった。しかし変に懐かしい。そして姫リンゴがデザートと知って、「オェーッ」と言って騒いだ級友たちの、あの変顔をした一人ひとりを思い出す。あの学校で経験した不自由さ清貧さは、学外での自由や豊かさに感謝の気持ちを持てるようになった。

  カナダの全寮制の学校で経験したことは、後に妻と発展途上国で暮らした時にどれほど役に立ったことか。姫リンゴは、あの学校での経験の象徴だったのかもしれない。

  日本の果物は美味い。品種改良によって年々新しいものが世に出て来る。幸せなことである。姫リンゴを齧った。渋い、酸っぱい。でも太古の味がした。聖書の中のアダムとイブ。イブが食べたのは、姫リンゴ?


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鯖の干物

2020年08月21日 | Weblog

  友人がその朝釣りたてのサバを2匹届けてくれた。友人にどう食べたらよいか尋ねた。彼はこれから自分でシメサバにするという。思わず唾を飲みこむ。シメサバ!美味いシメサバが食べたい。私の妻は、酢が苦手。私はシメサバが好きだが、まさか自分だけシメサバを食べるわけにはいかない。市販されている魚の干物は、買わない。市販のものは、塩分が強すぎる。自分で塩加減して作ればいいのだが、手がかかりすぎるので敬遠してきた。

 友人のおかげで、コロナ巣ごもり老人に飛び入りでやることができた。異例の長い梅雨、1カ月くらい、来る日も来る日も雨だった。雨の日は散歩しない。気持ちも塞ぐ。梅雨が明けたら、今度は猛暑。あまりの暑さで、晴れても散歩ができない。雨が降れば、雨を理由にする。猛暑だと、暑さを理由に散歩に出ない。テレビやラジオで「60歳以上、特に70歳以上の高齢は、コロナと熱中症に気をつけ…」と連呼する。どうせそうでしょうよ。私は、“特に”が付く70歳以上の73歳コキゾウだ。雨だ、暑さだ、コロナだの生活が私のやる気と明るさを削ぐ。そんな退屈で非生産的な日常に鯖の干物づくりが降ってわいた。

 鯖を出刃包丁でエラと内蔵を除き、2枚におろした。塩をたっぷりまぶして15分放置。氷水の中で塩を洗い落した。紙タオルで優しく水分を拭き取る。ザルに鯖を並べる。ベランダに強い陽ざしがある。直射日光がまんべんなく当たる場所を選ぶ。後は太陽光が鯖の旨味を凝縮してくれる。長く干せば良いというものではない。私は干す時間を30分と決めている。今日作って今日の夜食べる。産地直送で食卓に上がる。

 本当なら、以前何かの雑誌で読んだようにしたい。それは日本人作家がフランスのパリに住み、日課で魚市場へ行き、魚を買って、屋根の上で読書しながら蝿を追って半日かけて干物にして、夜晩酌の肴にしたとあった。私はそういう生活に憧れていた。セネガルで真似をした。日本から持ち込んだ干物用ネット(5,6段の棚が青い網に覆われたもの)に市場から買って来て下ごしらえした魚を並べた。セネガルは赤道直下に近い。強烈な陽ざしがパリより旨い干物を作ってくれると期待した。中庭の陽当たり抜群の洗濯物を干すヒモにネットをかけた。しばらく経って様子を見に行った。青いかったネットが見当たらない。目を凝らして探した。あった。ネットは、全体が玉虫色に光り輝いていた。近づいて見た。蝿。何千匹いや何万匹という銀蝿がネットを覆いつくしていた。追っても逃げない。まったく『王様気取りの蝿』だった。干してあった魚はすべて捨てた。なぜなら目に見えなくても魚には、間違いなく銀蝿からバイキンが落ちている。とにかく病気の多い場所だった。それ以後2度と外に魚を干すことはしなかった。

 日本人作家のパリの干物の話、セネガルの干物づくりを思い出しながらベランダを家の中から見張った。30分にセットしたタイマーが鳴った。ベランダに出た。ムッと熱気が襲う。床に虫が仰向けになってもがいていた。手でつかんで上向きにすると元気よく飛び去った。虫にも過酷な暑さなのだろう。ベランダの端に干した洗濯物がヒラヒラと風にそよいでいた。長雨が続いた頃、洗濯物を干すのに苦労した。猛暑も悪いことばかりでない。新型コロナウイルスって太陽光で干物にできないものか。

 夜、帰宅した妻と鯖の干物で晩酌した。届けてくれた友人の顏が浮かんだ。

 


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マスク着用への国民性の違い

2020年08月19日 | Weblog

  8月13日木曜日。3時30分からラジオニッポン放送で『辛坊治郎ズームそこまで言うか!』を聴いていた。辛坊さんは、裏付けある取材をもとに話すので、ためになる。その中で辛坊さんが国民性に関してタイタニック号が沈没する想定で船長が、違う国籍の乗船客に船から脱出することをどう説得するかのジョークを引用してマスクの話をした。

  タイタニックジョークとは:【アメリカ人に「飛び込めばヒーローになれますよ」ロシア人に「海にウォッカのビンが流れていますよ」イタリア人に「海で美女が泳いでいますよ」フランス人に「決して海には飛び込まないで下さい」イギリス人に「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」ドイツ人に「規則ですので海に飛び込んでください」中国人に「おいしい食材(魚)が泳いでますよ」日本人に「みなさんはもう飛び込みましたよ」韓国人に「日本人はもう飛び込みましたよ」北朝鮮人に「今が亡命のチャンスです」関西人に「阪神が優勝しましたよ」】

  辛坊さんは、今回の新型コロナウイルス感染拡大する中、世界中でマスク着用を国によってどうとらえられているかをタイタニックジョークで説明した。日本人のマスク着用割合が高いのは、【日本人に対して・・・「みなさんはもう飛び込みましたよ」】の日本人の考え方があるというのだ。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」に通ずる。他人の目をどうしても気にしてしまうのである。だからまわりに合わせた行動をとる。私の中に根をおろしている行動基準がそこにある。

  私は旅行が偏見を生むが持論である。旅行は短期間の滞在である。どうしても滞在時の気候や接したサービス、人々という偶発的な事象によって感想が形成されてしまう。だから良い経験なら好印象を、酷いものなら悪印象を持つ。このような偏見を少し和らげるのは、実際にその国に住んでみることだ。しかしそれは難しい。国民性に関するジョークは、害もあるが、ある程度参考にすることができる。

  私がカナダに留学していた時、生まれて初めて接した国民性に関するジョークは、【この世の天国とは「日本女性を妻に娶り、イギリス風の家に住み、中国料理を食べながら、アメリカ人の給料をもらう」この世の地獄とは「アメリカ女を妻に持ち、日本のウサギ小屋に住み、イギリス料理を食べながら、中国人の給料をもらう」】だった。私はジョークと捉えることはできなかった。でも参考になった。

  妻がロシアのサハリンに赴任した時、聞いたジョーク。【レストランにて、スープに蝿が入っていたときの対応。イギリス人は、ウェイターに皮肉を言ってレストランを出る。ドイツ人は、スープは加熱してあるから大丈夫だろうと思って食事を続ける。アメリカ人は、衛生管理がなってないとレストラン相手に訴訟を起こす。日本人は、他の人間のスープに蝿が入ってないかを確認した後、無言でスープを残す。中国人はまったく気にしない。ロシア人は、「今すぐスープを吐き出せ!」と蝿に怒鳴りつける。フランス人は、スプーンで蝿を押しつぶして出汁をとって食事を続ける。】これをロシア国内で聞いた。日本で読んでいたら、ただ面白いで終わった。国民性に関するジョークは、大雑把であるが勉強になる。大切なのは、どの国民に対しても敬意をもって接することである。ジョークを言ってもらえる国々の国民は、ある程度生活に余裕がある。貧しい国々の国民性がジョークになれないのは、貧しく悲惨だからだ。

 私が今、気に入っているジョーク。【国際会議で「コロナ禍の今、何が必要か」について話し合われた。アメリカ人が言った。「勇気だ」ドイツ人が言った。「ルールだ」フランス人が言った。「愛だ」日本人が言った。「技術だ」最後にロシア人が言った。「ウオッカだ」みんなが不思議そうに聞いた。「ウオッカを飲むとウイルスを抑制できるのですか?」ロシア人が答えた。「ウイルスを抑制することはできません。しかし、不安を抑制することはできます」】『ニューズウイーク日本版』「ポストコロナを生き抜く日本への提言2020.5.5/12」早坂隆

 不安を酒で抑制できるか否かは、言えないが、この半年、晩酌が欠かせない。精神が痛んでいるのは、事実である。そのせいか、笑いを求める。今のテレビ芸人は、ちっとも面白くない。芸がない。笑えない。最近、YouTubeで今はいない落語家の落語をよく聴いている。巧い。笑える。笑っている時、不安は消えている。


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コロナ禍と我が家の訪問者

2020年08月17日 | Weblog

  先週東京に住み、私たちが住む町に別荘を持つ友人Nさんがメールをくれた。こちらに来るので、届け物を郵便受けに入れておくとの事だった。Nさんとは家族ぐるみのお付き合いである。Nさんの話を聞くのが楽しみで、こちらに来ると必ず招いて会っていた。それができなくなって既に半年。Nさんの優しさ気遣いが嬉しい。コロナ禍で家にこもる毎日が続く。誰にも会えない。いや会ってはいけないのだ。新型コロナウイルスを誰にもうつしてはならないし、うつされてもならない。買い物に出ても、ただ見るだけの人達である。話すこともなくお互いに空間を移動するだけ。何とも虚しい。

 そんな毎日であるが、我が家にも訪問者が来る。人ではない。昆虫、鳥類、爬虫類、人間以外の哺乳類である。妻が出勤した後、私は、この家にポツンと一人ぼっちになる。まず1羽の同じカケスがベランダの燦にやってくる。このカケスベランダの床にお土産を必ず置いてゆく。その1時間後くらいに今度はセキレイが1羽飛んでくる。せせこましく俊敏な動きでベランダの燦を行き交い、5分ほどで飛び去ってゆく。鳥が羨ましい。彼らは飛ぶことができる。凄いことだ。お昼近くになるとクロアゲハがやってくる。いつも1匹だけである。このクロアゲハが同じものなのかどうかは言えないが、きっと同じクロアゲハだと思う。なぜか必ずガラス戸のガラスにぶつかる。学習しないのかオツムが少し足りないのか。でも来てくれるだけで嬉しい。そして午後になると待望のオニヤンマがやってくる。このオニヤンマもクロアゲハ同様、ガラス戸に元気よくぶつかる。毎回ぶつかる。

  子供の頃、訳もなく昆虫採集をしていた。ただ捕獲するのが楽しみだった。近所の金持ちの子が、伸び縮みする金属製の柄に絹のように細かな目の網を持っていた。彼の家には昆虫学者が持っているような珍しい昆虫が針で刺されて保管された標本箱がたくさんあった。私の昆虫網は、柄は竹、網は固いナイロンでできていた。たとえ昆虫を捕えても金持ちの子のように防腐剤を注射して、三角紙に入れ、腰のベルトに付けた専用の三角ケースに入れることはなかった。私は捕ったキリギリスやカブトムシを安い金網でできた虫かごに無造作に入れていた。金持ちの子以外の他の子供は、みな私と同じ網と虫かごだった。

  そんな格差のあった子供の社会で、オニヤンマ、ギンヤンマ、クロアゲハは、それこそ最高の獲物だった。オニヤンマ、ギンヤンマ、クロアゲハを求めて、他の子が足を踏み入れない場所を駆け巡った。ついに私は秘密のオニヤンマが水を飲みに来る場所を見つけた。それは川の対岸の崖の下の砂地だった。周りは藪で蚊やブヨがいた。私は藪の中に野生動物を撮影するか写真家のように身を潜めた。持っていたのは、カメラでなく安物の昆虫網だった。脚は半分水の中。じっと待った。10分20分30分、時計は持っていなかったがそんな時間経過を感じていた。体中、蚊とブヨにやられていた。我慢した。その瞬間が訪れた。まるでアメリカ軍の爆撃機B-22のようなオニヤンマが飛来した。カッコイイ。水の中の足が固まった。網を持つ手が震えた。オニヤンマが砂地に降りた。水辺に近づいた。私の網が空を切って、降ろされた。入った。夢中で網の中のオニヤンマをつかんだ。右手の人差し指と中指にオニヤンマの大きな羽を2枚重ねて挟んだ。そして網と虫かごの存在を忘れて家に走り帰った。

 そのオニヤンマが我が家を定期的に訪れる。コキゾウは、この歳になってもまだオニヤンマを見ると興奮する。でもこのオニヤンマを獲ろうなんて思わない。私は東京青山の『青山昆虫』で購入した柄がアルミニウム製の伸び縮みする絹のように目が細かい最高級の網を持っている。これは昆虫採集のためのものではない。ネパールやセネガルでマラリアを媒介する蚊を捕えるために買ったものだ。日本の今住む家では、時々妻が恐がる虫を見つけた時、それを捕えるために私が使うのみ。

 新型コロナウイルスがこの捕虫網で一網打尽に捕まえることができたら、どんなに楽になれるだろう。まだまだ感染は拡がるばかり。こんなコロナ禍にも、我が家を訪れてくれる生き物を歓迎しよう。そんな矢先、今朝は窓の外に猿がやって来た。30分くらい留まった。私は猿に語りかけた。「お前さんたちにもコロナは危害を加えているかい。お互い気をつけて暮らそう」 猿がじっと私の目を見つめた。まるで「お大事に」と言っているように。


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沖縄の検疫

2020年08月13日 | Weblog

   コロナにひれ伏す日々である。そんな日常に変化をもたらすのが友人からのメールや電話である。関西に住む友人と電話で話した。友人は大学教授をつとめ、定年退職した。彼は退職した後も研究を続けている。年に何回も海外へ研究のために行く。ところがこのコロナ騒動で海外どころか、国内いや家の外へさえ出られなくなっている。程度に違いがあるかしれないが、彼も私と同じコロナウツのようだ。こんな時はコロナに関係ないことで彼が関心を持つことを話したほうがいい。しばらく話していると、みるみる彼が本来の元気を取り戻してきた。私と違って学識深く、話すほどに英知があふれ出す。直接会って話せたらと思うことしきり。今はこの方法しかない。先日のひきわり納豆の疑問を懇切丁寧に教えてくれた友人に続いての元大学教授の特別個人講義を受けることができた。こんなことをしてもらえる私は幸せ者である。

 私はこのところ疑問に思っていたことを次々に尋ねた。今回の新型コロナウイルスの日本国内での感染拡大は、検疫と保健所に問題があったと私は思っている。日本は島国なので水際での感染症対策が取りやすい。それなのに感染の発端になったダイヤモンド・プリンセス号の検疫で国内へのウイルス侵入を防げなかった、そう彼に私の不満をぶちまけた。私は世界の多くの国の検疫を通過した経験を持つ。ほとんどの国々で検疫とは名ばかりで大した仕事をしていないと思えた。過去にイスラム諸国で感染症があまり猛威をふるったことがないと聞いていた。多くのイスラム教国には、スークという地域があり、感染病が発生すると門を閉じて、人の出入りをできなくした。こうしてペスト、コレラなどの感染症の侵入を防いだ。このことを友人に話した。友人はまず“検疫”という言葉に関してこう話した。「ご存知だとは思いますが、検疫はフランス語でquarantaineと言い、これは40という数字を表します…。」 恥ずかしながら私は英語でも検疫はquarantaineとは知っていたが、それがフランス語で40に関するとは知らなかった。(調べてみるとquarantaineはイタリアのヴェネツィアの方言のquarantenaクワランテーナが語源) 以前検疫とは、疫病の侵入を防ぐために40日間の留め置きを意味した。

 彼が話を続けた。「それに近い話が沖縄にあったんです」 私は驚いた。なぜなら現在沖縄は新型コロナウイルスの感染が人口当たり日本で一番多いからである。私は彼の話にとても興味を持った。それが通じたのか、次の日彼はさっそく2つの論文をメールに添付して送ってきてくれた。普段、論文に関係することはない私だが、真剣に読んだ。

 毎日、テレビのワイドショーでは喧々諤々、多くの専門家が意見を述べている。思うに口で言いたい放題しているけれど、地道な論文検索もしていない。だから事態は一向に良くもならないし、終息の兆しも見えない。政治に指導力もないが、マスコミも勉強不足である。

 論文を読んで思った。人間は素晴らしい。研究というのは、目に見えないところでいかに多くされているのかと。そして沖縄で40日間の留め置きによって天然痘の侵入を防いだ事実を多くの人に知ってもらいたいと思った。特に沖縄の人々には、この過去の成功を誇りを持って学んで欲しい。

 新型コロナウイルスは、世界を変えた。そんな中でも多くの学者が過去を紐解きそこから学ぼうとしている。コロナウツの日常に、遠くで光が射し始めた気がする。

参考論文:http://hist-geo.jp/img/archive/197_047.pdf    https://www.mishima-kaiun.or.jp/assist/report_pdf/2011c/c_h23_13.pdf

 


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枝豆

2020年08月11日 | Weblog

  「日本人はここでは豚のえさにするsoybean(大豆)を人間が食べるって本当?Soyって豚という意味だぜ。」 これは私が十代の後半カナダへ留学していた時に同じ寮にいた学生に言われたことだった。カナダやアメリカで豚のえさであろうとなかろうと、私は子供の頃から枝豆が好きだった。枝豆の美味しさを知らない失礼な学生に、その美味さを教えたやりたかった。私は、きな粉も好き。味噌や醤油のない食生活など考えられなかった。後で知ったことだが、soyの語源は、豚ではなく醤油(soy sauce)だという。偏見にはガセネタが多い。

  カナダ渡航の前、日本の軽井沢でカナダ留学のための英語を学ぶためにアメリカ人宣教師の子供が学ぶ学校に在籍した。そこで宣教師の子供達から彼らが日本のことをどういう風にどの程度理解しているかを観察することができた。カナダの学校に入学しても軽井沢の宣教師の子供達と変わらぬ偏見に落ち込んだ。

 軽井沢の学校では、子供たちが醤油のことをbug juice(虫の汁)と呼んで喜んでいた。他にも味噌のこともある物に似ていると馬鹿にしていた。豆腐のことも何の味もない奇妙な四角の白い食べ物ととらえていた。何に対しても高ピーで日本を貶すのをみて、親はろくな教育をしていないと失望した。カナダの学校でも偏見と無知に振り回された。でもあれから50年も経った今、日本の食品は、世界に受け入れられてきた。枝豆もEDAMAMEの名で世界中に冷凍で輸出されるようになった。枝豆の現地生産もされるようになった。

 8,9,10日と妻は、3連休だった。コロナは収まるどころか感染者数が増加する一方である。巣ごもり生活は、1カ月が2ヶ月に。2ヶ月が4カ月になり、すでに半年が過ぎた。我慢の自粛生活をしてきた。妻が務める病院も患者数が激減して経営が苦しくなり、減給を余儀なくされた。勤務は続いている。それだけでも感謝しなければいけない。どこでいつ感染するかの恐怖を抱きながらも二人で支えあってきた。二人だけの世界になった。二人に残されている楽しみは、食べること飲むことである。

 住んでいる所でも気温が連日30℃を超えている。夜も熱帯夜となり気温25℃を下回らない。こんな時は枝豆を食べたくなる。いつも野菜を買う村の駅へ出かけた。お目当ては数週間前にそこで買った枝豆が旨かったのでそれを買おうと思った。探したが近隣農家が出荷した枝豆がなかった。売っていたのは、群馬産の枝豆だった。どうしてこんなことをするのだろう。この辺で採れた野菜を買うのが楽しみで村の駅にわざわざ買いに来るのに、なぜ他県の野菜や商品を売るのか。数年前には有り得ない事だった。経営者が変わったのだろうか。

 帰宅して夕食の準備に取り掛かった。買ってきた野菜の下ごしらえもした。枝豆は両端を切り、茹でる30分前に塩をまぶしておいた。買い物も楽しいが、妻と二人で食材の下ごしらえもいい。モヤシの根切りとおろのきに小1時間。他の野菜も洗い、おろのく。モロコシ、オクラ、ホウレンソウ、キクラゲ、明日葉などは茹でて小分けにして冷凍。ナスは焼いて皮を剥いて冷凍する。

 夕食。妻は、レモンをたっぷり絞り入れた氷の入ったジントニック。私はキンキンに冷えた250ccのアサヒスーパードライ。つまみは茹でたての枝豆。前回のモノよりうまくはなかったが、仕方がない。

 子供の頃、親戚の田のあぜ道に植えた枝豆をもらってきて食べていた。これが最高だった。今は新潟の黒崎の『黒崎茶豆』が好きだけれどなかなか手に入らない。パンパンに熟したものより、未熟と熟しすぎの中間くらいが一番うまいと私は思う。自分で育てるしかないのか。それが集合住宅ではできない。

  近年日本への観光客が増え、ますます日本食は世界の人々に認識され愛されるようになってきている。喜ばしいことである。それにしてもマッカーサーの呼びこまれて大挙して来日した宣教師たちは、日本への布教にも成果を上げられず、日本の文化、特に今世界中で支持されている大豆を使った健康食を本国へ紹介することもしなかった。残念なことである。早くコロナが世界中で終息して、また世界の日本好きな人々に日本の味を楽しんでもらえることを願う。醤油をBUG JUICEとおちゃらかすような不心得者は、日本へ来ることはない。

 


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ひきわり納豆

2020年08月07日 | Weblog

 我が家の朝食に納豆は欠かせない。海外で暮らしていた時、どんなに食べたくても、よほどのことがない限り、食べられなかった。日本に帰国してからは、いつでもどこでも納豆を手に入れることができる。

 土日や妻が休みの日は、一緒にメモを片手に買い物する。納豆売り場には驚くほど多種多様な納豆が並べられている。それはまさに海外で夢見た光景である。妻が選ぶ納豆と私が選ぶ納豆は異なる。妻の選んだ納豆の中に『ひきわり納豆』が含まれる。私は豆が中粒でゴロっとしたものを好む。お互い違う家に生まれ、育って結婚して一緒に生活している。好みや価値観など違って当たり前だ。

 私が子供の頃、納豆の包みは三角形だった。確か“ヘギ”と言ったと思うが、木を紙のように薄く削ったものにくるまれていた。量も現在の発泡スチロールの容器に入ったものの3,4倍は入っていた。我が家では刻んだネギをたくさん入れ醤油もたっぷりかけて量を増やして家族6人に行きわたるようにしていた。ごくごくまれに生卵が入ったひにゃ、朝から食欲全開で我先にと、どんぶりから取り分ける母ちゃんの顏近くに皆がご飯茶碗を差し出したものである。手元に引き寄せた茶碗を見る。黄身と白身の割合をはかる。他の家族の茶碗を覗き、自分の茶碗の黄身、白身の比率と量を見る。一喜一憂して賑やかに朝食をとった。ほっぺが落ちそうなくらい旨かった。食べるものを選べる時代ではなかった。今の選択肢の多さには戸惑うこともある。

 ひきわり納豆が出た朝、私は疑問を持った。ひきわり納豆は、はたして製造前に大豆を切り刻むのか、それとも発酵させて製品化してから刻むのか。友人のN君は、発酵や醸造の研究者で大学教授でもあった。今までにも彼に多くの疑問を解いてもらっている。何事においても、私の良き相談相手である。さっそくメールで今回も尋ねてみた。温厚な性格で優しい彼なら、きっと私でも理解できる答えをくれると思った。

 私の質問:一つ疑問ですが、納豆の刻み納豆は、刻んでから発酵させるのですか、それとも発酵した納豆を刻んでいるのですか?今朝我が家で珍しく刻み納豆を食べたので、疑問がわきました。いつか答えを教えてください。(この時点で私は、刻み納豆とひきわり納豆の区別もついていない)N君の答え:先日の納豆の件も。以前はひきわり納豆でしたが、最近、それよりさらに細かくしたものをきざみ納豆としているようですね。ひきわり納豆は粒を破砕して、きざみ納豆は、ひきわりよりさらに細かく破砕したものに、粒納豆と同様納豆菌を噴霧して増殖させたものです。大豆の処理が異なるだけで発酵方法は同様です。ただ、破砕すると、当然粒大豆の場合より表面積が大きくなりますから、納豆菌の増殖量が異なります(破砕したほうが増殖量(菌数)が多くなります)。そのため、食感はもとより、発酵により生ずる成分量も少し異なる可能性があります(もちろん使われている納豆菌の種類により異なりますが。ひとくちに納豆菌といってもそれぞれ少しずつ性質の異なる菌株がありますので、会社により味も香りも異なることになります)。

 幼稚な私の質問にN君は懇切丁寧に返事をくれた。私は質問の多い人間である。でも誰に尋ねるかを決めるのにたけている。そして金持ちにはなれなかったが、時間持ちと良い友達持ちになれた。何か疑問を持った時、これは誰に尋ねようかとまず決める。答えをもらって後悔したことは少ない。それが私の人生の自慢である。

 コロナ禍で気が滅入る。そんな中、簡潔明瞭なN君の優しく聡明な答えに救われた。テレビに映る国や県のお偉方のコロナに関する記者会見での質疑応答を観ていると苛立つ。なぜなら“心”と“科学”のバランスも自身の中でとることができない、肩書だけの存在に自分を賭けている救いようのない目立ちたがり屋にしかみえないからだ。テレビに出まくる専門家しかり。世界中の人の目に触れることもない所で納豆のように粘り強くコロナと日夜懸命に闘う人々がいる。私は、その人たちに、このコロナ禍から私たちを救出してもらうことを期待している。


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金喰い虫

2020年08月05日 | Weblog

  日頃私が経験した金喰い虫だと思うことが二つある。一つは広告代。もう一つは、自家用車を持つこと。

 6月24日ラジオやテレビででうるさいと思うほど「過払い金」「過払い金」と連呼していた東京ミネルヴァ法律事務所が倒産した。負債は51億円。破産の原因は、弁護士法人を実質的に支配していた広告会社による金の流用だという。過度な宣伝費も一因だったのだ。そこで私は合点できた。とにかくラジオやテレビ、特にラジオの消費者金融の過払い金と国の予防接種時の注射器の使いまわしが原因のB型肝炎の補償金請求代行の宣伝は、耳障り。私はなぜ法律事務所も司法書士事務所もあれだけ宣伝しても経営が成り立つのか不思議に思っていた。驚いた。ミネルヴァ法律事務所の2019年3月期の売上高は、17億8400万円だという。凄い売り上げである。それだけ消費者金融で借り入れをしている人がいることにも驚いた。過払い金やB型肝炎の補償金の宣伝は、ミネルヴァだけではない。他にも多数の法律事務所や司法書士事務所が行っている。面白いと思うのは、法律事務所は「平均150万円以上」と言い、司法事務所は「平均100万円以上」と言う。調べてみたら司法書士事務所が扱える額が100万円までで、法律事務所には金額の限度がない。あれだけの宣伝をしてもどこもそれなりに利益を上げていると言うことらしい。ただ司法書士事務所の宣伝で「法務大臣認定」と「司法書士の私でも…」の文言には嫌悪感を持つ。私もまだ事業をしていた頃、新聞の折り込みチラシに経費をかけ失敗したことがある。終いには、印刷代と折り込み代を支払うために働いていると思うほどだった。いわゆる自転車操業におちいった。一切の宣伝を止めて、やっと正気に戻れ、事業も健全化できた。

 もう一つの金喰い虫は、車である。他の人より排気量が大きく、馬力があり、カッコイイ車に乗りたい。運転免許証を取ってからずっとそう思っていた。なかなか実現しない。車は維持費がかかる。日本には、車検という天才が考えた制度がある。保険代も馬鹿にならない。毎年の税金も結構な金額である。ガソリン代も負担になる。それでもエエカッコシイは、むきになって愚かにも車を買い替えていた。今まで車にかけた金の合計額はとんでもない額になるに違いない。それこそ家を何軒も買えたかもしれない。夢に描いていたような車に乗ることもなく、コキゾウ(古稀+3歳)になってしまった。4,5年前からバックで駐車する際、以前のように的確にハンドルを操作できなくなったと感じた。車での遠出ができなくなった。夢の車は、本当に夢となった。妻の駅への送迎と近所のスーパーへの買い物ぐらいにしか車を使わなくなった。私にとって、もう車はただの移動手段でしかない。排気量、馬力、格好関係ない。

 一時期、車をコスモのリースにした。リースは決して節約にならなかった。次にトヨタの残価設定という制度を使って3年間乗った。これも宣伝とは違って契約書の小さい字で書かれた項目が後に利用者の大きな負担になることも分かった。トヨタは今KINTOという新しい方式をやたらと宣伝している。これもきっと後で利用者には不利になる方式なのだろう。今回やはり車を買い取りで買うことに決めた。1000ccのハイブリットでない車である。販売店はあの手この手で車両価格にオプションを上乗せしようとした。私が海外で車を買った買い方とずいぶん違う。ほとんどの国で、車はまず標準価格で売られていた。日本車も海外では日本とまったく違う現地慣習に合わせた方式で売られている。標準価格とは、販売店からそのまま買った車を乗っていける車の状態だそうだ。実際私は、その経験をした。今回販売店との商談していて、これって“羊頭狗肉”商売でないのかという不信感を持った。

 私もひどい金喰い虫だった。このところの政府のコロナ対策をみていると、政府も私と変わらない常に後手後手な怪物的金喰い虫にみえる。“羊頭狗肉”的な政策ではなくて、国民をコロナの恐怖から解放できる対策を講じてほしい。何をおいてもまずワクチンと治療薬である。けっしてウガイ薬のポビドンヨードで済む問題ではない。ワクチンと治療薬の開発は、明白な金喰い虫である。しかし人類を救うことのできる光り輝く虫である。この研究開発に関する金喰い虫を強く支持する。

 

 


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