団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ハドソン川の奇跡と豊洲市場問題

2016年09月29日 | Weblog

  映画『ハドソン川の奇跡』を妻と観た。監督がクリント・イーストウッドでトム・ハンクス主演だった。

  最近『健さん』という映画を観たばかりだった。『健さん』は高倉健の足跡を追うドキュメント映画である。アメリカ、日本、中国、韓国などの俳優や監督や脚本家にインタビューしている。多くの人が高倉健をあまりにも褒めちぎるので観ている私がこそばゆくなるくらいだった。しかし全般的には私が満足できる内容だった。映画『健さん』によると俳優高倉健がその才能を更に輝かせるきっかけになったのは、東映を辞めてやくざ映画から足を洗ってからだという。

  俳優としての健さんは褒められてもその資格がある。役作りにかける執念は尋常ではなかった。『ハドソン川の奇跡』で主演したトム・ハンクスもいい演技をする。監督がクリント・イーストウッドなのでトム・ハンクスの演技力を存分に引き出せたのであろう。良い原作に脚本と監督と配役で映画は決まる。妻も久しぶりに伝えたいことがはっきりしている映画を観たと喜んでいた。

 映画は制作、上映までに長い時間と多額な資金がかかる。その苦労は大変なものであろう。観客の私はただ座って観ているだけで済む。妻が言うように伝えたいことを明確にわかりやすく映画にしてもらえれば助かる。健さんはそれを一番追求した俳優だった。

  『ハドソン川の奇跡』の中で155名の乗客乗員全員をハドソン川に不時着させて救出したのは、トム・ハンクス演じるサレンバーガー機長である。救出当時は、英雄として国を挙げて讃えた。しかしその後彼はNTSB国家運輸安全委員会から乗客乗員を危険にさらした容疑で公聴会にかけられた。

  国家運輸安全委員会は映画の中で悪役のように映される。私は公聴会の模様を観ていてうらやましく思った。私には国家運輸安全委員会の面々が決して悪役には思えなかった。彼らは職務を忠実公正公平に果たしていたと受け止めた。英雄を執念の証拠集めで追い詰める。東京の築地市場が豊洲市場への移転で東京都がとった数々の隠蔽は、いまだに闇の中である。都が立ち上げた専門家委員会にしても、都議会の各会派の議員も、マスコミにしても隠蔽に気づくことはなかった。都知事が小池百合子さんになって、都政の闇への挑戦を宣言すると急に様子が変わってきた。今の東京都に必要なのは、アメリカの国家運輸安全委員会並みの調査審判機関である。

  組織ぐるみの隠蔽は、いまだに日本の大きな汚点である。長いものには巻かれろ、お上に盾突くな、という旧態依然の愚民化政策は、いまだに効力を発揮している。豊洲市場で事実は次々に明かされるが、バラバラでだれがいつ何をどのようにという真相が明らかにされることはない。日本の現状において政治や行政の世界には、結果に対して責任を取らなければならないという文法が存在しない。在るのは年功序列的猿山組織、ウヤムヤ、先延ばし、お手盛り特権などなど。アメリカが全てにおいて完璧な社会などとは言わない。多くの問題を抱えているのは誰もが認める。

  豊洲市場の隠蔽を小池都知事は、専門家委員会などを設置して真相を解明していくと言う。その気概に敬意を表する。魑魅魍魎の政治行政の闇に果敢に挑む姿は頼もしい。個人で成し遂げられるものではない。長い歴史を持つ日本、悪い因習だけではない。徐々にではあるが、変化の兆しはあちこちに見える。もうしばらく希望を捨てずにいようと思う。

  『ハドソン川の奇跡』は偶然の連続の賜物であった。一番大きな偶然は、あの日あのフライトがサレンバーガー機長であったことだろう。そして機長を支えた多くの人々のチームワークだった。私の耳に残った映画の音は、キャビンアテンダントたちが着水時、声をそろえて乗客に伝えた「Head down. (頭を下げて)Brace for impact!(衝撃に備えよ)」の叫びである。

  日本の未来を切り開くには、現状打破が必要である。国がだめなら、東京都がそのさきがけであってほしい。一般市民は頭を下げてその最初の突破の衝撃に備えなければならない。旧習を打ち破って新たな段階に進むことは、それくらいインパクトがあるに違いない。まずは小池機長に期待したい。

 


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妻暑く夫は寒い

2016年09月27日 | Weblog

  25日久しぶりに晴れた。気温も上昇した。昼食を食べた後、私は昼寝をすることにした。妻は毎週楽しみにしているテレビ番組を居間で観ていた。私はラジオ番組を録音してあり、好きな時に聴く。聴くというよりラジオの音を子守歌代わりにしていつしか寝てしまう。そんなまどろみが好きだ。

 妻が「今日のテレビ面白くない」と寝室に入って来た。入るや否や「暑い」と言う。私はちっともそう思わない。以前私は妻に湯たんぽ替わりにされた時代もあった。今では糖尿病の合併症で足の先が特に知覚異常で冷たく感じる。寝るとき、夏は薄い冬は厚い靴下を履く。足の裏は常に厚いスポンジを貼り付けられたようで歩きにくい。あれだけ冷え性で悩んでいた妻は「ほてる、ほてる」と逆に暑がるようになってきた。

 アメリカで離婚原因の一つがエアコンの温度設定だと聞いたことがある。夫と妻の求めるエアコンの温度が違い、それがこうじてついに離婚にまで発展してしまう。ありそうな話だ。

 妻は「今日は久しぶりに晴れて、気温も上がっているから、窓開けて空気入れ替えよう」と窓を開けようとして窓枠に置いてあるラジオとアンテナを移動させた。「アンテナをちゃんと放送局に向けて置いてあるから移動したら雑音が入る」と抗議した。妻は「じゃあ反対側開ける」と反対側の窓を開け始めた。

 「きゃっ」と妻が叫んだ。眠気がいっぺんに吹き飛んだ。私の目に飛び込んだのは、小さなトカゲだった。ピョ~ンと窓から部屋の床に飛んだ。そして一目散にライティングデスクの下に潜り込んだ。「獲って、捕まえて。お願い、お願い」の声に私は昼寝を中断してベッドから出た。「懐中電灯持ってきて」と妻に命令して、私は使い捨ての手袋を台所に取りに行った。いくらなんでも素手でトカゲは掴めない。私は爬虫類が苦手だし恐い。時間が過ぎる。妻が手渡してくれた懐中電灯が電池切れでつかない。私は妻に「ちゃんと逃げないよう見張っていて」と言い残し、書斎へ電池の予備を入れてある机の引き出しのところへ急いだ。電池はあったが、入れるのに手こずった。プラスとマイナスを逆に入れたのか、つかない。やっとついた。昼間でもライティングデスクの裏はやはり薄暗く、薄ネズミ色のトカゲは、壁と一体化しているのか見当たらなかった。

 トカゲは壁など平気で登る。忍者のようだ。相当上を懐中電灯で照らした。いた。妻に「いたっ」とまるで勝ち誇ったように報告。小さなトカゲだ。まだ子供なのか。しかしすばしっこい。妻が「補虫網取ってこようか?」と言った。手袋と補虫網。触らずに捕まえることができそうだ。「お願い、持ってきて」 私は身をかがめて机の下に身を縮めて潜り込んだ。子どものころ小川で魚を獲ったように、右手でトカゲを網に追い込んだ。入った。

 机の下から出て立ち上がろうとした時だった。「イタッ」 腰から光が宇宙へ少し遅れて鋭い痛みが天井へ飛んで行った。またギッグリ腰?もう嫌だ嫌だ。ギッグリ腰だと数週間杖を使うことになりそうだ。ギッグリ腰の痛さも痛さだが、私はギッグリ腰のいつ痛み出すか判らないタイミング、それも一瞬の腰への力加減や動きからの予測できない痛みが嫌いなのだ。

 トカゲは不安そうに網の中にいる。腰の痛みを警戒しながら、窓から網を外に出して、逆さまにしてトカゲが植え込みの中に落ちるのを確認した。窓はすぐ閉めた。トカゲは助かり、ギッグリ腰だけが私の腰に居ついている。


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バイオご乱心とウォーターベッド

2016年09月23日 | Weblog

  21日朝、バイオのパソコンに向かってブログを書いていた。書き終わり、投稿するためにブログの編集アプリへワードからコピーして移した。ところが突然節ごとにフォントが変わった。節ごとに網掛けになったり、太字になってしまった。修正できない。私のパソコン操作の能力を超えている。バイオにはウインドウズ7からある日詐欺にかかったように勝手にウインドウズ10がインストールされてしまった。それからバイオに異常が頻発した。『パソコン119番』に10を7に戻してもらった。それ以後も不具合がでた。ついにお手上げ状態。まだ朝の5時をちょっと回った時間。いつもパソコンの問題発生時に来て直してもらっている『パソコン119番』に電話するには早すぎる。担当者はいつでも24時間対応する、と言ってくれるが気が引ける。こんな時のためにと予備のNECのパソコンを使ってブログを書き直した。無事投稿。

 午前9時に『パソコン119番』に電話した。ソニーのバイオを富士通のエスプリモにセットアップしてもらった。富士通のパソコンはすでに購入してあった。そうそうバイオは使えなくなることを予想しての準備だった。ただ光回線への工事が10月5日までできないのでそれまで騙し騙し使うことにしていた。私はこだわりが強い人間である。やれデスクトップでなければ、写真機能が充実していなければとうるさい。バイオは使いやすかった。ところがソニーはバイオの生産販売をやめてしまった。バイオの写真取り込み機能は他社製品より優れていると思っていた。ソニーがバイオを切り捨てた時、怒りを覚えた。それが原因かどうか、バイオの処分を『パソコン119番』の担当者にどうしますか、と尋ねられた時、即「処分してください」と答えた。あまりに最後のバイオにてこずらされたことと、ソニーがいとも簡単にバイオを切り捨てた恨みがそうさせた。バイオへの愛憎が入り乱れた。書斎からきれいさっぱりソニーのバイオ関連の製品が消えた。

 私は35年位前にウォーターベッドを購入した。ひどい腰痛持ちだった。フランスベッド社の製品だった。25年前に再婚してもずっとそのウォーターベッドを使い続けている。妻が海外勤務になった時も、ネパール、セネガル、ユーゴスラビア、チュニジアとベッドを持って一緒に私も同行した。妻も腰痛持ちだった。ウォーターベッドのおかげで二人とも腰痛から解放された。ウォーターベッドの利点は引っ越しが楽ということである。6本あるシリンダーの水を抜いてしまうとコンパクトに荷造りできる。海外での引っ越しにも便利だった。35年も使い続けると愛着というより体の一部に思えてくる。何度も新しいベッドに買い替えようとしたが、踏ん切りがつかなかった。ソニーのバイオと同じでフランスベッドはこのベッドの販売をやめてしまった。バイオとの違いは、このベッド、故障と無縁だということだ。ただ数年に一度シリンダーの水を取り替えなければならない。ビニール製のシリンダーが劣化して水漏れして使えなくなるまではお世話になるつもりだ。

 ウォーターベッドの水を取り替えなければと数年間思いつつ、ずっと先延ばしにしてきた。ついに22日の秋分の日の祭日、妻と水の取り換えを実行できた。シリンダーには約35リットルの水が入る。シリンダーはビニール製で持ちにくい上に重い。風呂場で古い水を捨て、防腐剤を入れて、台所のシンクで水道の蛇口から水をシリンダーに入れる。約90分。二人とも汗をかいた。やろうやろうがやっとできたに変わった。達成感が半端ではなかった。その晩、水量調節され新鮮な水に満たされたウォーターベッドの寝心地は買ったばかりの時と変わりなく快適だった。

 それにしても日本製品も企業も地に落ちたものだ。情けない。この会社の製品ならという信頼感が失われている。ブランドとはただの会社名と変わりない。モノ作りニッポンは過去?何か私を喜ばせるメイド・イン・ジャパンはないのか。


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ざんねんなクモもっとざんねんな人間

2016年09月21日 | Weblog

 妻が「クモ!」と声をあげる。運転中の私はチラッと妻を見る。てっきり私はクモが妻にまとわりついているのかと思った。クモは窓の外。それも車の窓の上の日よけバイザーから自分の糸で3,40センチ空中にいた。ただ風に押し流されているのではない。糸がくっ付いている所を起点としてクモはほぼ円周を描いて回っているのである。グルングルンとそうとうな速さで回転。まるでそこに3Dの円錐形があるようだ。意地の悪い私はクモの糸が切れるようにアクセルを踏む。踏ん張るクモ。待てよ。このクモ、スピード狂。こやつ、もしかしてこのスリルを味わうためにここに巣を張ってるの。

 妻を駅に送り、帰路につく。「よし、駐車場に車を止めて降りたら、クモを退治しよう」

いつも私は思いつくことはできる。ただその記憶は一瞬にして消える。だからメモ帖はいつも持ち歩く。しかし車の中ではメモは書きこめない。記憶しかない。子どもの頃のお使いと同じで言われた買う品を繰り返し言う。そして店について「いらっしゃい」と言われると同時に品の名前が消えた。

 クモを退治することなく、何もなかったように私は家に入る。次の日、妻を駅に送る。妻が「クモ、まだいる」と言う。私は心で「今日こそは」とつぶやく。そして駐車場に入ると忘れている。

 本屋で『ざんねんな いきもの事典』(今泉忠明監修 高橋書店発行税別900円)を見つけた。購入。157ページに「クモは運を天にまかせて空を飛ぶ」がある。そこに「うまれた子どもたちがあるていど大きくなると、旅立ちのとき。多くのクモはバルーニング(風船飛行)という方法で各地に散ります。風の強い日、子どもたちはおしりを空に向かって風船のように飛んでいきますが、どこに連れて行かれるのかわかりません。いつまでも地上に下りられず飢え死にしたり、海に落ちておぼれて死んだりと、運命はハード。いい風に乗った幸運なクモだけが、新天地にたどり着けるのです。」 目が潤んだ。

 本を置き、私は駐車場に向かった。くまなく探したがクモはいなかった。私が知らないうちに、クモは風に飛ばされたのか。はたまた新天地に向けて車をあきらめ、どこかへ移動したのか。とにかく、私の素晴らしい記憶力がクモを救ったのだ。瞬間必殺忘却ワザも役に立つ。最近、以前読んだ本を読み返しても、内容をすっかり忘れているので、まるで初めて読む本のように読める。映画もアマゾンのファイアーテレビを購入して古い過去に観た映画も全て新鮮な気持でまっさらな封切り映画のように楽しめる。大発見である。

 『ざんねんな いきもの事典』は子供向けの事典だ。子供向けゆえ、全ての漢字にルビが打たれている。これが心地よい。歳を取るたびに子供に戻るという。私も着実にその段階に入ってきた。負け惜しみかな。初めからこの程度が私にちょうどよいのであろう。

 『ざんねんな いきもの事典』の各項目のページ右上に“ざんねん度”が“ざ”の刻印があるコインの数で示されている。ちなみにクモはざんねん度2個、右隣のページに「カメムシは、自分のにおいがくさすぎて気絶する」がありざんねん度が3個。自然を見ている方が楽。富山市議の不正、豊洲新市場のでたらめ。人間のざんねん度はいったいいくつ?


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日本人は決闘に弱い

2016年09月15日 | Weblog

 週刊文春9月15日号137ページに載った『「日本人は決闘に弱い」ハリルホジッチ監督 ネガティブ語録』が私の忘れたい過去を鈍い私の脳が鮮やかに蘇らせた。まるで私のことを非難されているとグサリときた。

 50数年前、日本の高校からカナダの私立全寮制高校へ移った。日本人は一人だった。ベトナム徴兵を逃れるために全校300人ばかりの半数以上はアメリカ人学生だった。当時日本といえば“フジヤマ”“ゲイシャ”“ハラキ~リ”“アッ ソウ(天皇陛下のお言葉だと言われていた)”ぐらいの知識しか持ち合わせていない生徒ばかりだった。

 ある日アメリカ人のトニーが私の部屋のドアをノックした。彼は私に挑戦状を頼まれたと言ってルーズリーフのノートに「○月○日午前10時体育館にて柔道の試合を申し込む ギブスン・ライト」と下手な字で書いてあった。英語にまだ問題が多かった私でもこれくらいのことは理解できた。

 それより少し前トニーに「柔道できる?」と尋ねられて「少し」と答えた。トニーとギブスンは同じテキサス出身だという。ギブスンは大学部の2年生の26歳でベトナム帰りの元海兵隊員とも聞いた。私は柔道を“少し”やったとはいえ小学生部の昇級試験で1歳年上の相手に抑え込みで負けた。相手は太っていて私の倍は体重があった。苦しくて殺されるかと思った。その後まもなく私は通っていた柔道塾を辞めている。そんな私が元海兵隊員と勝負して勝てるわけがない。死か生か。大げさと言われるかもしれないが、受け身もまともにできない私が軍人として訓練を受け、実際にベトナム戦争に参戦したギブソンと柔道とはいえ私が怪我もせずに生き延びられるとは思えなかった。私は“生”を選んだ。決闘の日、私は用事ができたとトニーに伝言を頼んだ。その日以来トニーは私を無視した。その噂は学校中に広まった。

 私はNHK総合テレビで木曜日に放送される『ファミリーヒストリー』を出演者によって観る。前回は高田万由子さんだった。父方の祖父の田中釜吉がドイツ留学中、大学の准教授のドイツ人に度重なる差別されたことが原因で准教授と馬が合わずにいた。ある日釜吉の足につまずき転倒した准教授が釜吉にピストルによる決闘を申し込んだ。当時のドイツでは男同士の争いの決着は決闘で白黒つけていたそうだ。18メートルの距離から双方がピストルを発砲した。釜吉は腕を打ち抜かれ、准教授は重傷をおった。釜吉の勝利となり、その後、大学で釜吉は誰からも一目置かれる存在となった。

 釜吉と私。えらい違いである。明治時代に日本からドイツに留学しただけでも大変なことである。不当で執拗な差別を受けたことは、両者同等でも決闘を受けた受けないには大きな違いがある。ますます落ち込む。番組の最後に司会の今田が「決闘、あの時負けていたら高田さんはここにいないことになりますね」と言った。私は「そうだ、そうだ。そうなんだよ。その通りだ」と独り言。沽券、体面、メンツ、プライドも大事だが、命を絶ってまでして守ることなのか。ここが偉人との違いである。

 ハリルホジッチ監督が言う決闘は、私の“決闘”とは違う。あるスポーツジャーナリストは「要は、相手との1対1の争いです。彼に言わせれば『日本人は決闘に弱い』ので、球際で負けるな、と選手たちに言い聞かせてきました。また『人がいいのはピッチ外だけにしろ』『ファウルを誘うプレーを増やしなさい』などとピッチにおける激しさや狡猾さも求めてきました」と“決闘”を解説した。鋭い日本人分析である。

 私はもう自分の生き方改造は無理である。人がいい、相手をファウルに誘わず、激しくもなく狡猾でもない、常に“決闘”から逃げ続けて凡人で終わりそうである。リオオリンピックでメダルを獲得した日本人選手は、決して“決闘に弱い日本人”ではなかった。私は『日本人は決闘に弱い』と言われない日本人がだんだん数を増やしてきているのを頼もしく思う。だがそれはスポーツの世界だけにしておいてほしいと願っている。


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「早くしろ」とアドレナリン

2016年09月13日 | Weblog

  「早くしろ」 スーパーのレジで小銭をそろえようと少しもたついていた私に後ろの男が怒鳴った。

 私の妻は支払いの時、例えば231円なら10円1円の単位まで細かくそろえる。以前私は小銭をポケットにジャラジャラ貯めるほど、平気で231円の買い物に千円札1万円札を出す人だった。エエカッコシイの見栄っ張り。レジでもたつく老人に心の一部で厳しい下品な言葉が行き来していた。再婚してからだんだん変わった。特に妻の海外勤務に同行して目が覚めた。

  最初の任地ネパールではカースト制度が人々の振る舞いに色濃く影響を与えていて、争いというものをあまり目にしなかった。ただアジアだなと思ったのは、映画館、バス乗り場、飛行場などで列を作っても横入りする輩が多かった。人々はそれを防ぐために列は前の人の背中に後ろの人は胸を押し付けた。私はとても列に加わる気がしなかった。セネガルは旧フランス植民地でフランス文化の影響が残っていた。マルシェと呼ばれる市場ではフランスのマルシェのように買い物客はきちんと列を作って順番を待った。話し好きのセネガル人は店の人と客が長話をすることもよくあった。でも誰も「早くしろ」などと言う人はいなかった。休暇でフランスなどヨーロッパのマルシェでも同じだった。セネガルのあと妻の転勤で旧ユーゴスラビアへ行った。社会主義の国では物資購入のために並ぶのが生活の一部だった。そのせいか何事も悠長だった。待つことを厭わず、当たり前としていた。順番が来れば客は待った分、全権を付与される。後ろは待つのみ。

  スーパーで私に「早くしろ」と言った男を見た。今度は「ガンつけたな」と来るかと予想したが、以外にも男は目をそらした。まさかこの男、私を女性と思った?私の残量わずかなアドレナリンが騒いだ。顔がほてった。テストステロン(男性ホルモン)はもうずいぶん前に消えた。

  私は会計を済ませてレジ袋に買った商品を入れた。ふと私は男がどれほど敏速に手際よくレジを済ませるかみたい衝動にかられた。私はレジに近いよく男を見ることができる場所に立った。男は財布のカード入れからカードを全部出して一枚一枚チェックしていた。今度はポケットというポケット全部に手を当てる。「ねえなあ」と男がつぶやく。私は思わず「早くしろ」と声を張り上げたかった。男は狼狽していた。もたつき度は私と五十歩百歩。どうしたアンチャン、いいとこ見せてよ。

  私は急いで車に戻った。笑いを噛み殺した。ドアを開け、座ってドアを閉めた。大きく深呼吸した。アドレナリンは雲散霧消。人の振り見て我が振り直せ。売られた喧嘩は絶対買うな。短気は損気。

  最近『「衣食足りて礼節を知る」は謝りか』(大倉幸宏著 新評論発行 2000円+税)を読んだ。良い本だと思い、妻にも読むよう勧めた。

  こんなことが書いてある:『日本人のマナー・モラルは、この約半世紀の間に飛躍的な向上を遂げました。かつて日本人に浴びせられた数々の汚名は、見事にすすがれた・・・変化をもたらした最大の要因と言えるのが、日本人の「ひろい世間」の拡大だったのです』 (228ページ) 世間をさらにひろげようと思う。偏見や先入観こそ世間を狭める原因なのだ。良い勉強をした。


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病院検査はエクササイズ

2016年09月09日 | Weblog

  「はい、大きく息を吸ってください。そこで止めて」「息を吸って、お腹を大きく膨らませて。はい、そのまま息を止めてください」 私は顔が熱くなるほど頑張って息を止める。「はい、吐いてください」「今度は小さく息を吸って、止めていてください」 気分は腹筋運動。うっすらと汗ばんできた。

 仰向けに診察台の上にいる私の腹の上を超音波プローブ(パソコンのマウスのような先端部分)が這いまわる。腹とプローブの間にはゼリーが塗られている。ただ平らなだけならスケーターワルツにのせて氷上を滑るように動くのだろうが。私の腹には脂肪、骨が段差を作っている。あちこちでプローブが脂肪のプチョプチョから固い骨に激突。滑るだけならいいのだが、時々ここぞという所で検査技師は、グリグリとプローブを押し込む。息が止まる。止まるのではない。私が痛さと不快さで息をこらえてしまうのだ。腹筋運動に加えてボクシングの軽い打ち込み練習の様相を呈する。みぞおちに一撃。私は「痛い」と言いそうになる。舌を噛んで我慢。プローブは次にあばら骨の下に潜り込もうとする。

 私は検査台の上で東京駅での自分の行動を反省していた。中央快速が人身事故で運転見合わせになっていた。病院の予約は11時15分。すでに10時35分だった。中央快速さえ動いていれば病院までは20分あれば行ける。駅員に尋ねる。「秋葉原へ行って総武線に乗り換えてください」 東京は子どもの頃からの憧れの地であった。東京で暮らしたことはない。だから交通事情に疎い。乗り換えは特に不得意である。駅の中を歩いていると方向がわからなくなる。それでも何とか時間に間に合ってしまった。だから無理をせずに中央快速が止まった時点で検査をあきらめれば、こんな痛い目に遭わずに済んだ。それ以前に家を出て電車に乗って途中駅で新宿へ直接行ける湘南新宿ラインに15分待てば乗り換えられた。その15分を惜しんであえて東京駅で中央快速に乗り換えることを選んだ。あの選択が間違いのもと。今日はこんなにツキのない日だから家に居ればよかった。と思った瞬間、「終わりました。お疲れさまでした」と彼女が言った。私も疲れたが、技師の彼女は仕事とはいえ重労働である。

 次に妻が強く私に受けるように勧めた聴力検査だった。妻は私の聴力に問題があると最近よく言う。小さな無音室に閉じ込められた。やけに重いヘッドフォンを付ける。手にボタンスイッチを渡され、「聞こえているうちはボタンを押し続けて聞こえなくなったら離してください」と言われた。私はこういう両手に旗を持たされて赤上げて、白上げて赤下げてのような命令に弱い。運転している時急に同乗者に「右へ曲がって」「左です」と言われるのと同じでどっちが右でどっちが左かの区別がつかなくなる。子どもの頃はサヤエンドウのサヤと豆を分けるお手伝いでサヤと豆を入れる器を間違えた。ようするに鈍いのである。しかし検査はそれほど不愉快なものでも自信を失うほどのものでもなかった。なぜならほとんど聞こえなかったのだ。悪いとは思ったが、ボタンは適当に押したり離したりしていた。難聴を苦にしない。テレビなど聞きたくないことが多すぎる。聞こえなくて便利なことが歳とるごとに多くなってきた。

 そのあと主治医の診察を受けた。昼食を病院内のレストランで妻と待ち合わせて食べた。メダイのソテーランチは美味しかった。良い勉強になった。いつか自分の料理に応用したいことをいくつか発見。帰りの電車でぐっすり寝入ってしまった。次の日も一日疲れでぐったりしていた。病院での検査には体力が必要だ。いつまで自分の足で診察に東京まで行けるのか。

  聴力検査の結果は前回より少し落ちているが心配ないそうだ。超音波検査では相変わらずフォアグラ化が止まらない脂肪肝を指摘された。


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サッカーとシンパ・えこひいき・差別

2016年09月07日 | Weblog

  9月2日ワールドサッカーアジア地区最終予選初戦UAE対日本は2:1で日本が負けた。勝負なので勝つか負けるかしかない。日本が絶対に勝たなければならないとは私は思わない。しかしUAE戦には不快感が残った。カタール人の主審にアラブびいきと思われる判定が多く見られた。

 以前私はスポーツは人間が発明した戦争を回避する理想的な勝敗のつけ方だと書いた。スポーツには規則があり、規則は審判によって判定される。スポーツの戦いにおいて審判の判定が信頼できなければスポーツはスポーツでなくなる。

 シンパという言葉がある。日本語の辞書で引くと『英語sympathizerの最初の部分sympaがシンパに略され:同情者、共鳴者。特に左翼運動などに直接には参加しないが支持援助する人』とある。英和辞書でsympathizerを引くと『原義:symは共にpathは苦しむでerは人を表し、同情者、共鳴者、支持者、シンパ』とある。

 世間はシンパで溢れている。親子、師弟関係、宗教、政界、などなど。

 私はカナダへ留学してニッポン人ゆえに差別された。ニッポン人として差別を受けると言うことは、私がカナダ人と称する白人とは区別された黄色人種であることを意味する。

 グレイハウンドバスで旅行していた時、こんなことがあった。バスは時間ごとにドライブインに停まり、給油や食事やトイレタイムをとった。私がトイレに行くとトイレは有料だった。小銭を探していた。突然、一人の少年がトイレのドアの下に潜り込んだ。カナダの公衆トイレの多くはドアの下に40センチほどの空間が開けられている。使用中かどうかわかるのと、防犯上と言われていた。少年は潜り込み中からドアを開けた。「Brother,please.(兄弟、どうぞ)」と言った。少年はアメリカインディアンだった。少年と私は知り合いではない。ただモンゴライドという同じ人種なだけだ。人間の心にはいろいろな“シンパ”が宿っているようだ。

 なぜかわからない。人種が同じというだけで有料トイレのドアを中から開けてくれるのか。同人種としてのシンパなのか。。私は「Thank you.」と言って中に入った。

 アラブ諸国の一つチュニジアに3年間暮らした。暮らしていて感じたのは、アラブの人々は国が違っても連帯しているということだった。イスラム教という同じ宗教を信仰するからだ。異教徒には冷たい人たちである。ただ気になったのが、同じイスラム教を信じるインドネシア人に対しても我々アジア人への偏見を持っていたことだ。

 カタール人の主審が同じアラブのUAEに審判の裁量を甘くすることで加担したかどうかは証明できない。ただ恐いと思うのは、特定の宗教が一般の規則にまで影響を持つことである。その点日本にも心配がある。

 中国が南シナ海の南沙諸島に進出したことでフィリピンがオランダ・ハーグの常設仲裁裁判所に訴えた。裁判所は中国の進出を違法と判決を下した。中国は判決を無視すると発表。

  ス ポーツでも国際法でも審判の権威は薄れてきているようだ。人間がどんな規則を作ってうまくやっていこうとしても、決めた規則を守らせるシステムが機能しなければ前に進めない。国際化が謳われるわりには、シンパ、えこひいき、差別、自国の利益のみを法を無視してまで得ようという野望ばかりが人間の心の中で増殖している気がしてならない。それでも私は正々堂々と戦い、終わったら恨みも不平も不信感も不満も帳消しにしてラグビーでいうノーサイドであって欲しい。


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あゆ・鮎・アユ

2016年09月05日 | Weblog

  知人が栃木の那珂川の鮎をたくさん送ってくれた。

 鮎にはいろいろな思い出がある。先日永六輔の資料を読んでいた時、「私は鮎が大嫌い。なぜなら小諸に疎開していた時、3食鮎を食べたから」というような記述があった。そう昔の千曲川にはたくさん天然の鮎がいた。千曲川は小諸から少し下ると上田に入る。

 父は川魚獲りの名人だった。釣りでも網でもない。素手で獲る。手づかみだ。千曲川で魚を獲るには漁業権の関係で許可証がいる。父が獲ったのは田圃の中の小川など許可証のいらない河川だった。鮎をたくさん獲れるのは台風の時だった。千曲川が水位を増し濁流が押し寄せる時だった。台風が通過すると父は私を連れて田圃の中の父が以前から決めていた場所へ行った。信じられないくらい細い小川だった。小川は千曲川から近く他所から水が流れ込まないところだった。いまでこそ農業用水は整備され水門もあり鮎も千曲川から一時退避できないだろう。

 父は小川に入って両手を水の中に入れた。そして次々に鮎を手づかみで捕えた。黙々と捕まえる姿はカッコ良かった。私は魚篭にピチピチ跳ね回る鮎の美しさに見入った。狭く浅い場所に父は私を立たせ鮎のつかみ方を教えた。川下から鮎を追い込み私の小さな手でも鮎をつかめられるようにしてくれた。鮎を両手でつかみ高々と空中に掲げ上げた。あの時の感触と喜びは忘れられない。食べても鮎は美味かった。永六輔のように3食食べるほどではなかった。たくさん獲れば近所にもおすそ分けした。

 父は獲るだけでなく下ごしらえ、調理、食べ方も私の期待をはるかに超えていた。七輪で炭を起こして鮎を塩焼きにする。笹の葉を敷いた大きな皿に鮎が並ぶ。鮎をむしゃむしゃ食べるのではなかった。父は箸を使って頭を押さえ尾びれ、背びれ、尾を外し鮎から骨を手品のようにきれいに抜いた。骨に何もついていない。芸術品であった。
 父は鯛でするように骨を火であぶって晩酌の酒を用意していた。母はこの時ばかりは炊事から解放された。鮎をほおばっていた。こんな日は配給の白い米を多めに炊いていた。鮎は貧しい我が家を明るくしてくれた。

 栃木の鮎は昔上田で食べた鮎ほど大きくはなかった。(写真参照)子どもの頃の鮎の大きさの記憶は落語に出てくる自慢話のようにサイズは時間が経つほど大きくなるものだ。現実を素直に受け入れよう。わざわざ送ってくれた方に感謝しよう。

 父に教えてもらったように鮎の下ごしらえをした。普段魚の下ごしらえを気持ちよくすることはない。鮎はウロコを引くことない。内臓もエラも取らなくていい。素手で串を通しヒレ、尾に塩をつけピンと張らせる。下ごしらえした手を鼻に近づける。普段こんなことはしない。鮎は別格なのだ。鮎は香魚ともいう。香りの魚。英語ではsweetfish。海外で鮎を見たことはない。英語でsweetも甘い良い匂いを表すこともある。炭火でといきたいところだが、集合住宅のベランダで魚は焼けない。ディロンギのグリルで焼く。

 妻の前で父から教わった方法で骨を抜く。以前スーパーで買って焼いて食べた養殖の鮎ではこれができなかった。脂が多くて骨が身と離れなかった。きれいに抜けた。魚の食べ方が上手ではない妻には手間が省け喜ぶ。妻は「美味しい。今度若冲の鮎の絵を観に行きたい」と言った。私はこの話のつながりがわからない。でも鮎のお蔭で私は頭の中で現在過去未来を浮遊できた。


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壺ひとつぽとんと沈め河川葬(おそうしき)小宮山量平

2016年09月01日 | Weblog

  理論社の創業者小宮山量平さんは4年前の2012年に95歳で亡くなった。亡くなる前、奥さんに「おかあちゃん、ちっともいい世の中にならなかったねえ」と言ったそうだ。

 理論社と言えば灰谷健次郎などの児童文学作家を数多く世に出した。私の母は小学校を卒業していない。その母は私が小学校中学校で習ってきた漢字をチラシの裏をノートに10回練習できる表を作って書き埋めて覚えた。私が高校生になったころから、母は遂に本が読めるほどになった。灰谷健次郎の本が好きで読んでいた。

 私は理論社という出版社も灰谷健次郎もずっと後になるまで知らなかった。小宮山量平さんが長野県上田市の出身だということも同じ上田高校の卒業生だったことも知らなかった。母がそのことを知っていたかはまだ尋ねてない。

 私が上田高校の生徒だった時、一人の教師が永六輔は私の教え子だと授業中によく話す教師がいた。教師も自分の教え子に有名人がいると自慢気に話す。私のようなミーハーはそんな話が好きだ。一般大衆は、「俳優の誰々を見た」だけでも自慢する。どこへパックツアーなどで行ってもガイドは郷土出身の偉人有名人の名を選挙運動のように連呼する。

 永六輔と小宮山量平さんは上田旧制中学(現上田高校)の同窓生の縁か出版関係で知り合ったのか付き合いがあった。小宮山さんが主宰するトークショーで講演したという。ある時の永六輔の上田での講演のタイトルは『僕は上田が大嫌いだった』と知って私はとても興味を持った。

 以前から永六輔の著書で疎開した長野県でイジメられたという話を読んでいた。だから永六輔は上田中学でもイジメられてそれで上田が大嫌いなのだろうと私は勝手に受け止めた。イジメも原因ではあるが、戦争そのものによるあの時代の艱難辛苦への嫌悪を語ったようだ。

 今年7月7日に亡くなった永六輔のお別れの会が8月30日に東京青山葬儀所で多くの著名人を集めて行われた。小宮山量平さんの葬式のことは知らない。永六輔と小宮山量平さんの葬式を比較してもしょうがない。私は二人の最後の言葉に注目する。永六輔はアイスクリームを娘に口に入れてもらって食べて「おいしい」が最後の言葉だったという。小宮山量平さんは「おかあちゃん、ちっともいい世の中にならなかったねえ」が最後の言葉だった。

 友人がわざわざ毎日新聞8月16日夕刊に載った小宮山量平さんの資料を送ってきてくれた。こういう友人がいてくれることはありがたい。資料の中に小宮山量平さんが詠んだ「壺ひとつぽとんと沈め河川葬(おそうしき)」があった。娘の荒井キヌ枝さんによるとこの句は、一つは母、一つは庭に埋め、一つは千曲川に落としてくれと言っていたことを詠ったものらしい。

 同窓生であろうが同郷の志であろうがなかろうが、永六輔、小宮山量平さんの死の迎え方、最後の言葉に心打たれる。

 小宮山量平さんが言う「いい世の中にならなかった」原因を私はこれからもっともっと掘り下げて考えながら生きて、最後は「壺ひとつドボンと沈め相模湾(お葬式)」と逝きたいものだ。


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