団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

借りた本

2008年06月30日 | Weblog
 妻に頼まれて図書館へ本を借りに行く。ボーヴォワールの『人はすべて死す』上・下2巻。何でも学会で発表講演した先生が読むことを推薦した本だという。

 もう一冊は、絵本で佐野洋子の『百万回生きたねこ』だった。あまりのギャップの大きさに驚きながらも、言われたとおりに役目を果たそうとするのが私である。

 大阪の友人が、少し前に佐野洋子の『シズコさん』という佐野洋子と母親の確執を書いた本を送ってくれて、読み終わったばかりだった。奇遇さを感じながらどんな絵本か興味を覚えた。

 図書館のサービスは素晴らしい。探している本をコンピューターで検索すれば、有無、貸し出し中か否か、どこにあるか、まで直ちに調べることができる。私はコンピューターで調べようと操作をした。カウンターの脇にコンピューターはある。カウンターの女性が「よろしかったら私がお調べいたしますよ」と声をかけてくれた。昔から図書館司書にあこがれている私は、即お願いすることにした。妻が書いてくれたメモ用紙を渡した。以前も書き物に必要な資料を集めるのにここの図書館の方に協力してもらった。ここになかった資料を、わざわざ県内の違う図書館に問い合わせて見事に揃えてもらったことがある。

 「“百万回生きたねこ”は人気があるので、確か今は貸し出し中だと思います。私が最近取り扱ったので。ありました!よかったですね。ボーヴォワールの方は絶対あります。ほとんど動きませんから。あります。私が持ってきますのでしばらくお待ちください」そう言って、彼女はカウンターから出て行った。まもなくするとニコニコして本を両手で抱くようにして戻った。ほとんど妻以外の人と話すこともない私は、このような事態に心がうきうきする。とても嬉しかった。

 『百万回生きたねこ』は絵本なので私のカバンに入らない。ボーヴォワールは文庫本なのでカバンに入れ、絵本を手で持って家まで歩いて帰ってきた。

 早速絵本をソファに寝転がって読んだ。『シズコさん』を読んだばかりで、あまりの佐野洋子さんの個性に圧倒されていたので先入観が強かった。でも絵本を読み終わるととてもさわやかだった。

 ボーヴォワールは妻が読んだ後、やさしく噛み砕いて私にわかるように内容を要約してもらうことに初めから決めていた。図書館の女性の「ほとんど動きませんから」の言葉で私には難しすぎる本だというランプが私の脳に点灯点滅した。裏表紙の貸出期間表なるものを見る。過去における貸し出しは、3回だけ。平成9年、10年、12年。今は平成20年だから前回の貸し出しから8年たっている。『百万回生きたねこ』はもう貸出期間表がびっしりである。

 図書館というものは、本当にありがたい存在である。人気のある本も、たとえほとんどだれも見向きもしない本であってもちゃんと保管されている。

 妻はさっそく通勤時にボーヴォワールの『人はすべて死す』を読み始めた。『上』を読み終えたという。尋ねるととても内容が重い本で、はじめは眠くなるほどだったそうだ。私はやはり正しかった。何事も自分の能力以上のことは、他の能力ある人にお任せするのも方法である。『下』を妻が読み終えたら、ゆっくりわかりやすく話してももらうことを楽しみにしている。きっと妻の話しを聞きながら、鼻チョウチンで寝てしまうことは、いまからはっきりしているが。

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日本女子バレーボール

2008年06月25日 | Weblog
 柳本ジャパンと呼ばれる日本女子バレーボールチームの対セルビア戦をテレビで観た。

 1999年ベオグラードの日本大使公邸でユーゴスラビアのバレーボール選手団の日本大会への壮行会に出席した。当時旧ユーゴスラビアは世界から孤立して、経済制裁を課されていた。

 セルビア人は世界で国民の平均身長がもっとも高いといわれている。当日も大使公邸はまるで巨人の館と化した。座っていると皆座高はさほど高くないので、身長174センチの私とたいして変わりはない。ところが立ち上がると見上げるほどである。2メートルを超えている選手が数多くいた。ほとんどの選手は英語がうまく会話に困ることはなかった。

 私は「この国の女子チームはどうですか?」と尋ねた。ひとりの選手が「この国の女性は練習が嫌いなので、世界ランキングが低い」とズバッと答えた。この答え方があまりに短刀直入だったので大いに気に入った。

 今回日本とセルビアの女子バレーボールの対戦を見ながら、ベオグラードの壮行会のことを思い出した。“練習が嫌い”と決め付けられたセルビアの女子バレーボールチームの実態を見られると興味深々だった。

 世界トップレベルのセルビア男子バレーボールチームの選手から見れば、女子はまだまだかも知れない。実際セルビア女子バレーボールチームは世界ランキングで30位だ。ちなみに日本女子バレーボールチームは7位。

 試合は素晴らしい接戦だった。日本人女子選手たちの体型は、セルビアの女子選手に負けず劣らず見事である。日本人選手のりっぱな体には、どこにでもいる普通の日本の女性の顔がちょこんとのっていた。おひな様のような日本女性の顔である。日本人がこれから先、ずっとずっと先であろうが、進化をとげた後に到達するのであろう未来の姿なのか。

 ジャンプしスパイクを打ち込む。相手チームがレシーブしてトスを上げアタッカーがスパイクする。長身の日本人女子選手がブロックするために両手を挙げ、強烈なスパイクを止めようとする。観ていて小気味良かった。何だかとても嬉しかった。

 私が在学したカナダの学校では、バレーボールは人気がなかった。理由はバレーボールが網で区切られて、お互いの選手がいり乱れて戦うことがないからだと聞いた。バスケットボールやアメリカンフットボールと違い、バレーボールは女々しいスポーツと毛嫌いされていた。

 今やルールも大きく変わり、バレーボールもそれなりに攻撃的で知的なスポーツと評価されている。また身長が高い選手の中に小柄でもトスをあげる選手も混じり、チームワークが物言うスポーツでもある。そのコンビネーションが観る人びとに感動を与える。

 日本人の平均身長は、まだまだ世界では小さいが未来の理想とする日本人の姿がみられるのが嬉しい。そして大きい人は大きいなりきに働き、小さい人は小さくてもできることを懸命にする姿に、人間の共同社会の本来あるべき姿をみる。勝敗はともかくとして、一生懸命練習を重ねて、真剣に戦う彼女たちに大きな励ましをもらった試合だった。

 女子に続いて男子も北京オリンピックへの切符を手に入れた。体型的に日本人には不利といわれているスポーツで、男女共にオリンピック出場を見事に決めた。日本の未来を夢見て、勇気付けられた。

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乳搾り

2008年06月20日 | Weblog
 NHKの日曜日朝6時15分からの番組『たべもの一直線』を楽しみに観ている。

 6月1日、東京都八王子の酪農家磯沼正徳さんの牛乳とヨーグルトが紹介された。私は17歳から乳絞りを2年間した経験がある。何事も経験を共有するとお互いに親近感を持つ。私は磯沼さんの話しに同感することが多く、遠い過去の思い出を懐かしんだ。まず磯沼さんが飼っている牛すべてに名前をつけていて、ことあるごとに牛の名前を呼んでいる。

 私も自分の担当だった牛に名前をつけた。『すみえ』朝牛舎の重く大きなドアをあける。全部で56頭いた乳牛、私が入ってきたことをいち早く感知した『すみえ』は、「モゥーゥーゥー」と興奮して迎えてくれる。どれほどこの歓迎がうれしかったかしれない。寂しく慣れない異国でいつも私を慕ってくれた『すみえ』は、家族であり恋人であった。『すみえ』の出産には徹夜でつきそい、逆子を泣きながら、獣医に言われるままに一緒に引っ張り出した。

 磯沼さんは八王子で酪農家の家に生まれ、跡を継いだ。昔は八王子で牛を飼っていても問題は起こらなかった。やがて八王子も住宅ができ都心の住宅地として人口が増えた。近所からニオイの苦情が相次いだ。アメリカの先住民のインディアンと同じように、後から押し寄せた移住者はわがままで自己主張が強い。

 磯沼さんはあきらめなかった。工夫した。ニオイを消す努力を怠らなかった。ついにコーヒーかすやカカオの殻に行き着いた。

 ネパールで私たちが出張で家を留守にしたとき、10日間以上の停電で冷凍庫の中身が全滅した。亜熱帯のネパールの夏、食料品は腐り熔け、異臭が家中に漂った。腐った高額なタイやシンガポールから調達した食料品を整理廃棄することも大仕事だったが、異臭をとることはもっと大変だった。私も試行錯誤してコーヒーにたどり着いた。ネパールでコーヒー農園を経営している友人からコーヒーのカスを分けてもらった。あの異臭が消え、家の中にほのかなコーヒーのニオイが漂った。以来コーヒーが飲めない私は、コーヒーのニオイが大好きになった。

 磯沼さんはカカオの殻を牛舎や牛の運動場に敷いた。それが糞尿の混じりよい肥料になる。今ではニオイの苦情は減り、牛糞は評判の肥料として園芸店が買ってくれるという。ニオイは厄介なものである。

 私は乳搾りをしていたので、相当体にニオイが染み付いていたと思う。学校の食堂で心無い生徒は、私と同じテーブルに着くことを拒んだ。私と一緒に食事をするのはいつも牛舎で働く人だけになった。

 磯沼さんにもニオイは染み付いていると思う。でも彼は自分の仕事に打ち込んでいる。天職だと言い切る。私は偉いと思う。現在バターが店頭から消えたという。チーズが足りないと人びとは騒ぐ。いい気なものである。自分が不利になると声高にヒステリックに騒ぐだけの消費者は、テレビに出まくり、ただ裏付けも庶民の経験と気持ちも持ち合わせない、政治屋さんたちと大して変わらない。

 いつでも静かな名もない末端の生産者や農民、職人は、糞尿まみれニオイまみれ騒音まみれ油まみれで働く。自分の日々の仕事の中、改善工夫改良にささやかな喜びを感じつつ。今世界は手を汚すことのない収奪者たちに振り回されている。投機が真面目な実際生産者を侮辱し痛めつけている。自分ができない仕事をする人々に対して、せめて感謝の気持ちを忘れたくないものである。

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父の事

2008年06月17日 | Weblog
 父の日、娘夫婦からカードをつけた花が届いた。嬉しかった。私たち夫婦は、どちらも父、義父がもういない。父の日と無縁だと勝手に思い込んでいた。

 父の事で忘れられない思い出がある。カナダ留学へ出発する日の朝、父親に挨拶をしようと探したが、家の中に父の姿はなかった。母は、きちんと荷物を鞄の中に入れたのか、何度も心配そうに尋ねた。その鞄は、何十年も前に父親が使っていたものであった。鞄が父親と繋がるパイプであるような気がした。その古い鞄が唯一の荷物であった。すでに、日本銀行から外貨持ち出しの許可を受けて一年間の寮費、学費、雑費などの七百ドルがパスポートと一緒に腹巻に入っていた。

 母親の自転車の荷台に鞄を載せ、母親は自転車を曳いて、私はその横に並んで歩いて、駅に向かった。 「父ちゃん、どこへいったのかね?」と母親に聞いた。 「どうせ、別れが言えなくてどこかへ行ってしまったんだよ」 母親は、何からも逃げることなく、常に物事に正面から立ち向かう。何か話そうと思うのだが、なかなか言葉が出なかった。駅までずっとなだらかな坂が続く。母親も、何も喋ろうとしなかった。

 公園の前を通って、第二中学校の坂を下り、駅に着いた。切符を買って改札口の前で母親に、「じゃー、行ってくるよ」と言った。 母親は、そっと涙をぬぐって、「体に気をつけるんだよ」そう言って、鞄を手渡してくれた。不思議に私の目に涙はなかった。それは、決してこの留学が夢のようないいこと尽くめでないことを、アメリカ人宣教師宅での半年の滞在が、暗示していたからだ。駅の改札の向こう側にいた母親は、ずいぶんどっしりとして見えた。父親の気持ちもなんとなく理解でき、心の中で「しょうがねー親父だな」と思いつつ、上野行きの電車に乗った。

 羽田空港には、高校の同窓生が五人見送りに来てくれた。生まれて初めて乗る飛行機、カナダ太平洋航空のDC9は、私を異次元の世界へ連れ去るタイムマシーンに見えた。

 あれからいろいろなことがあり、私はもう還暦を迎えた。父が他界して20年経つ。私がカナダへ出発する日、雲隠れした父の心情が良くわかる歳に、私もなった。自分が父親に良く似ていると今では素直に思う。容貌も性格も。洗面所で鏡を見たり、咳払いをすると、自然に私は父と会っている。

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ひも?

2008年06月12日 | Weblog
 やはり居た。ここに移り住んでからずっと思っていた、“絶対ここには蛇がいる”と。

 日曜日アジサイ祭りに行った。帰宅して駐車場へ入る。我が家の割り当ての23番の枠の中に黒い1メートルを越す黒いひものようなものがクニャっと横たわっている。よく見る。わからない。窓ガラスを降ろす。顔を出して見る。「降りて見れば」と妻。降りる。かすかにさきっぽが動いたような気がした。でもまだ私は声に出さなかった。近づく。「蛇だ」と私は確認し断言した。「車に戻って。危ないわ!」妻は蛇も虫も大の苦手である。いままで何度彼女の突然の叫び声に心臓が止まりそうになったことか。そんな人が手術して血を見ても平気なのだ。今回も妻はあっち向いてホイを決め込んで蛇の方を見もしない。

 私は嬉しかった。やっと4年待ってご対面である。ここに蛇がいないわけがない、とずっと思っていたことが実証された。

 私は運よくカメラを持っていた。カメラのシャッターの音は、なぜか動物は嫌う。家の前を流れる川に来るアオサギなどは、40,50メートル離れていても、シャッターの音を聞くと逃げてしまう。近づいて蛇の写真を撮り始める。まったく動こうともしなかった蛇が、動き始めた。まるで竹細工の蛇のようにコキコキ角張っていた体が、すーっと蛇らしくすらっとして蛇行して富士山の火山岩でできた石垣に向かう。

 前に50センチの高さの水止めがある。首を押し上げ、難なくそれもつるりと通り越した。石垣は20メートルの高さがある。2.5メートルの駐車場の天井と交差している部分がある。駐車場の上は竹林になっている。蛇は石垣を見事に登りきり、駐車場の天井に消えた。

 蛇を見ていて、今日の午後秋葉原の通り魔事件の犯人のことを思った。「誰でもいいから殺そうと思った」と犯人は混雑する秋葉原を犯行現場に選んだ。「ひとりでコンビニ弁当さかなに酒を飲む」 携帯の書き込みサイトに犯人は吐露する。なぜ孤独を嫌うのか。蛇や多くの動物はいつもひとりでいる。人間を社会動物と呼び、群れなすことが人間の当然な姿なのか?群れていることだけが幸せなのだろうか。楽しそうに暮らしている人を見ると、自分が惨めに見えて、こんなはずではなかったと社会や他人を怨む。こんな日陰の広い駐車場に一匹で迷いこんだ蛇。普段もどうせ単独でいる。黙々と生きている蛇のほうが人間より偉く見えてしまう。嫌がられ気味悪がられても、そ知らぬふりで生きている。

 サハリンで見た鮭の遡上。一匹のメスについた5,6匹のオス。子孫を残す目的を達成できるのはたった一匹。チンパンジーやゴリラの群れでもメスと交尾できるのはボス一頭だけ、あとの2番手3番手は群れの外でボスを倒すチャンスだけを狙う。トドもアザラシも同じである。だからといって自暴自棄にはならない。淡々とその時が来るのを待って生きている。人間の男は、宙ぶらりんの存在に成り果ててしまった。

 今人間の女性の多くは、人間のオス的要素喪失に幻滅してか、結婚をあきらめている。動物園ではなく、自然の中に生きる動物は、どれも人間にきっと本来の生き方を教えてくれる。最近の飼い犬と人間の堕落に、今日出会った蛇もあきれ果てていることだろう。(写真:石垣を登る蛇)

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百科事典

2008年06月09日 | Weblog
 全36巻の平凡社『世界大百科事典』を姉夫婦からもらいうけた。

 今日、車で私の家に運んでくれた。辞典を入れた車のトランクは、重さで深く沈んでいた。管理人事務所から手押しカートを借りた。生憎の雨降りで地下駐車場に車を入れて、運び出しに濡れないようにした。

 思わぬ姉からの申し出に私は嬉しかった。子供の頃、きっと姉も私と同じことを考えていたに違いない。私たちが子供の頃、百科事典は夢のまた夢であった。食べるのさえやっとの状態であった。あの頃成金や小金持ちが家を新築すると、応接室に百科事典を飾るのが流行った。

 百科事典は不思議な力を持っている。百科事典のセットが家に備えられているだけでどんなことでも疑問が解けてしまう、そんな気持ちにさせてくれる。知識教養の象徴である。

 カナダで付き合った女の子の母親が、百科事典のセールスをやっていると聞いた。5人の子供を育てるには金がかかる。ちょうど彼女は歯の矯正を始めていた。当時の金で百万円くらいかかる。彼女の母親は車で懸命にセールスを続けていた。当然彼女の母親はセールスをしている人にはよくあるように自分の家のリビングにも百科辞典を並べていた。歯の矯正と聞くと、どうしても百科事典と結びついてしまう。

 どこの親も子どもに対して夢を持つ。それはとても貴いことである。しかし応々にして子どもは極楽トンボのようなもので、目の前にあればそのまま内容が自分の脳に納まる夢を見るだけだ。そして百科事典があることさえ忘れ、ゲームや漫画に夢中になる。

 私は幸い、子供の成長期に一緒に暮らすことがなかった。一緒に住んでいればきっと姉のように買っていたかもしれない。姉は「ほとんど開いてない」と静かに呟く。姉の夫は「ブックオフでもリサイクルショップでも冷たく“要らない”と断られた」と頭を掻いた。

 どんな理由で百科事典を手放す気になったのかは、見当もつかないし、知りたくない。今になって私の子供の頃からの夢(百科辞典が家にあれば)が叶った。 あのホリエモンは子供の頃、百科辞典を読破したという。妻の両親も積み立てをして『ジャポニカ大百科事典』全巻を買ったという。貧しい中、あれほどの買い物は最初で最後だったそうだ。妻は初めから全部読むことはあきらめ、写真とイラストは全部見ようと決めた。それは実行したという。たいしたものである。百科事典が来た日はとても嬉しかったと妻は語る。

 私は山と積まれた百科事典を前にこれから夢を見続けたいと思っている。早速“夢”を引いて読んだ。61歳の誕生日は目の前に来ている。まだ遅くない。

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災害時の排泄物処理

2008年06月04日 | Weblog

 ここに横井庄一著『横井庄一のサバイバル極意書“もっと困れ!”』がある。横井庄一は、グアム島のジャングルで28年間隠れて暮らした元日本兵だ。

 妻が外務省の医務官として勤務した間、私は配偶者の待遇で14年間5カ国を妻についてまわった。私たち夫婦が仲良くずっと暮らせてこられたのは、過酷で孤独な任地での生活があったからと今は感謝している。とにかく二人が力を合わせて生きなければ、とても続けられる仕事ではなかった。

 横井さんの本は、私達の海外生活にとても役立った。一カ国として下水処理施設のある国に住んだことはない。昔の日本のように糞尿が肥料として活用されるならともかく、汚いものにはフタをしろ式に扱われれば、必ずどこかで糞尿問題は噴出してしまう。それが現代人の弱点でもある。

 かつて私の人生で最も辛かった離婚後、私は坐禅を2年間続けたことがある。この時学んだことは、坐禅を苦しくするのは、自分の体重であることを知った。神は、もしかしたら人間をおごりたかぶらせないために糞尿問題を人類すべてにおわせたのではないだろうか。どんな金持ちでも独裁者でもこの問題から逃れることはできない。老人介護においてもっとも大変なのは、この問題だと聞いている。

 今回のミャンマーのサイクロン、中国四川省の四川大地震などの大災害で助かった人々にとって、自分たちの糞尿問題は、二次災害の引き金になりかねない。ましてや日本の現状では糞尿問題はほとんどの人びとにとっては、「どうしてそんなことが問題になるの」とそんなことを問題提起する者の頭が、おかしいとしか思われないだろう。それほど今の日本人は、水洗トイレに洗脳されてしまっている。多くの社会問題も実は、“水洗トイレで自分の糞尿を流す”行動が原因になっていると思うことがある。多くの現代人は、流してしまえばすべて後はまったく知らん顔である。

 先日の足立区の同じマンションの女性住人の殺人事件では、犯人の男は、死体を切り刻んでトイレに流したという。殺されるだけでもその行為は被害者への冒涜である。その上切り刻まれてトイレに流されるなんて、これはもう悪魔の仕業としか言いようがない。捜査の警察関係の人々が下水溝に入って糞尿まみれになって捜査するのを見て、私は怒り心頭である。できるなら犯人にすべての作業をさせるべきとまで思う。

 私が住んだ国々では、どこの家にも水洗トイレがあったが、どれも簡易水洗で、下水は外にパイプで流されるのではなく、自分の家の敷地内での地下浸透式であった。十分な水があれば問題はない。水はなかった。水道が24時間使えた国はほとんどない。ひどい所では一日たった2時間しか給水されなかった。最長2週間の断水もあった。これではもう大災害と同じ環境にある。水洗トイレに水がなければ、これはポッチャントイレより始末が悪い。さらにエコトイレなんていう考えがないので、こういう国の水洗トイレは、一回あたりの流す水量が恐ろしく多い。汲み置きしてある水などあっと言う間に終わってしまう。

 非常時役に立つのは、尿瓶(シビン)とオマルである。まったなしに、また所構わずに尿意と便意は襲いかかる。まずは済ませて、それから処理を考えてもいい。今の日本人が、自分の排泄物を、自分の手でどの程度処分できるかは、大きな疑問である。これだけは自分で自分を訓練経験するしかない。下水や地下浸透式が使えなければ、十分な深さの穴を掘り処分するしか方法はない。できるだけ深く掘るのは言うまでもないが、それさえ都会の人びとには難しいことだと思う。

 とりあえず尿瓶とオマルを常備しておくことをお勧めする。 横井庄一の本を読んで勉強しておくのもいいだろう。毎日ただ水洗トイレを当たり前のように使っていれば、災害時に一番困るのは、自分では何もできない人びとであろう。生きている限り、人間は食べれば、必ず排泄するということをくれぐれもお忘れなく。


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