団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

熱海のゴリアテ

2012年05月31日 | Weblog

 東京へ行った帰りのことだった。18時12分新幹線の『こだま675号』が熱海駅の6番線ホームに滑り込んだ。降りる客、乗り込む客、発車ベルが鳴り始めた。停車時間はわずかに1分。ところが時間を過ぎても発車のベルは鳴り止まない。ホームの駅員がスピーカーを使って普段より高い声で叫ぶ。「4号車付近のお客様、直ちに安全柵から外に出てください」 注意して見ると安全柵と新幹線車両の間に男の姿が。年齢は60代後半、身長は低く150センチ台、カメラマンベストと呼ばれるポケットがやたらに多く付いているベージュのチョッキを着て、リュックを背負っている。酔ってはいないようだが、ここがどこなのかわかっていないようにぼんやりしながら、辺りを見回している。駅員の注意にも自分のことだと全く気がついていない。外見は、普通の人に見える。私を含めて状況を見守っていた乗客は、なす術もなく立ちすくんでいた。

 そこへ外国人男性、まるでゴリアテのような30代のムキムキマンで身長190センチ以上、体重120キロ超えの男性が、柵の中の日本人男性につかつかと近づいた。スピーカーからただ「安全柵の外に出てください」と流れる。マイクで、がなるだけの日本人駅員。私を含めて誰一人行動を取らない周りの日本人乗客。直接行動に立ち向かう国籍も判らないゴリアテ。ゴリアテは平たい顔族の男性の胸ぐらをつかんで、安全柵の外側へいとも楽々引きずり出した。外国人男性は、何もなかったようにその場から立ち去った。『こだま675号 名古行き』は、数分遅れで発車した。引きずり出された男はまだ何が起こったのか分からない顔だった。平然とリュックを立ちすくむ群集に向け、出口さえ判らないのか、なぜか出口とは逆方向へと歩を進めていた。駅員は駆けつけもせず、注意もなく、事の次第を調べさえしなかった。

 ゴリアテにスタンディング・オーベイション(立ち上がってする拍手喝采)をしなければならない場面である。ゴリアテの体格がよく、柵の中に訳もなく留まる小柄な日本人をつまみ出せただけの話ではない。体格はまったく関係ない。瞬時の決断力と行動力である。教育と訓練の賜物だ。悲しいことだがこのような反応力の多くは、軍隊経験で身につくものだ。平和憲法を掲げる日本は、このあまりにも重い理想に押しつぶされて、日常的な人間関係にさえ、あらゆるイザコザを避けるようになった。結果、自己中心主義がはびこり、自分さえ、自分の家族さえよければと思う考えに満ちている。体格がゴリアテほどよくなくても、日本人なら柵から出ない日本人に日本語という共通語で語りかけ、そっと男の肩を押し、柵から出すこともできた。他人との関わりを拒むなら、個人が、他人に迷惑をかけない強い意思を持つ責任がある。日本の家庭教育,学校教育が原因と言うは簡単だ。身体的に見劣りしても、日本人としての強靭な精神力があれば、肉体的な欠点や弱点を補い超えることができる筈だ

 柵の中の男を助けられないと主張できる理由は、山ほどあると屁理屈を並べる私自身が嫌になる。柵から出ない男を助けることが出来ないならば、せめて助けたゴリアテに「よくやってくれた。ありがとう」と伝えられるようになりたい。「ゴリアテさん、遅くなりましたが、ありがとうございました」


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鍵穴

2012年05月29日 | Weblog

 私は玄関の鍵を開けるとき、この数年間ずっと極度に緊張した。妻が一緒だと、余計に緊張した。あるとき妻は、私に鍵を念力で曲げて使えなくするようなユリ・ゲラー並みの超能力があるのではと言った。そんなことは絶対ないと私は知っている。今日まで生きて、自分に何か人並み以上の力があると感じたことなどない。

 鍵を鍵穴に入れようとするがこの数日前からいよいよ差し込むのも引き抜くのもままならなくなった。私の後ろでドアが開くのを待つ妻がいる時は、状況は更に悪い。妻の視線が背中に痛く突き刺さる。ため息が漏れ聞こえることもある。「仕様がないわね」と私から鍵を取り、妻が挑戦する。入らない。妻は鍵を目の前に持っていき「強く回しすぎるから、鍵が曲がちゃったんじゃない」と言う。ユリ・ゲラーと言われるよりはましか。数回の挑戦のあと、妻は渾身の力で鍵を開けた。抜くときは、抜けた反動で、私にぶつかるように後ろに跳ね戻された。妻と私の違いは、大胆さと思い切りのよさがあるかないかだ。とにかく開いてよかった。

 昨日の朝、妻を駅に送り家に戻った。やはり鍵の調子がおかしい。もし鍵が開かなくなると、この集合住宅の私の家に入ることはできない。窓やベランダから入るには、5メートル以上のハシゴガ必要となる。家に入れるか否かは、玄関だけがたよりである。玄関の鍵が開かなければ、共有スペースの玄関ホールかどこかで待つことになる。朝の私のしたくは、とても他人に見せられる格好ではない。鍵屋さんを呼んで来て開けて貰うにしても、まだ7時である。このまま世の中が動き出す時間を待つしかない。

 そう思った瞬間、鍵が開いた。決心した。今日こそ鍵屋に来てもらおうと。9時にこの集合住宅の管理会社に電話した。「鍵は個人の管理事項になるので、私どもでは。でも鍵の会社の契約会社がお近くにあるので電話番号をお教えしましょうか」 その電話番号にすぐ電話した。「分かりました。今日行くことができると思います。行く前に電話しますから、お客さんの電話番号教えてください」 良かった。でもずっと家で待つことになるな。

 待つことは、私の仕事のうちである。昼食を簡単に済ませ、常に電話の呼び出し音に耳を傾けながら待った。午後2時、電話がなった。「これから会社を出ますので、そちらに20,30分で着くと思います」

 2時33分集合玄関のチャイムが鳴った。普段は絶対にしないが、玄関の鍵を開けたまま、階段を数段とばしで駆け下り、集合玄関を開けた。年齢は私と同じか少し下か、痩せて作業着に身を包み、道具ベルトを凛々しく締めていた。清潔感がある。ずっとこの仕事をしているのか、退職後についた仕事なのか。技術者という雰囲気に包まれていた。

 玄関のドアを開けたり占めたり、脚立の上から、床に立ったり、黙して仕事をしていた。1時間が過ぎた。「終りました」と呼ばれ、玄関を出て、ドアの前に立った。丁寧に鍵に何が起こったのか説明してくれた。私は妻にユリ・ゲラー並みの鍵を曲げる超能力があるのではと言われたと話すと「鍵に問題はまったくありません。問題は錠前の方です」とニヒルに笑った。料金は8千円だった。高いとこれぽっちも思わず感謝の気持いっぱいで支払った。

 夕方妻を駅に迎えに行った。急いで戻り、家の玄関の前に立ち、おもむろに鍵を鍵穴に入れた。スッと鍵は鍵穴に吸い込まれ、かすかに「カッチャン」と音をたて羽のように軽やかに開いた。背後に息を呑む音がした。私はドアを開け、騎士のごとくドアを開け拡げ、片脚を一歩引き腰を下げて、妻を招き入れた。私はユリ・ゲラーではない。


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バス停

2012年05月25日 | Weblog

 「そこ濡れていますよ」私は咄嗟に声を出した。朝、駅へ行くバスを待っていた時のことだった。

 私は5分ほど前の7時14分にバス停に来ていた。屋根つきのベンチに座ろうとした。奥行き60センチ、横幅140センチ
、高さ60センチくらいか、御影石の値段が高そうな重さも1トンはありそうなベンチが設置されている。いつからか腰を降ろす前にズボンの尻を汚さないように、念入りに点検するようになった。御影石の色と風合いに同化した行き場を失った昨日の雨水が、ぬたっと溜まっていた。「よかった。点検は大事。これからも続けなければ」と内心思った。座らずバス停の裏の家の花壇をながめていた。この家の住人は、10坪ばかりの花壇に四季を通じて手入れし、花を絶やさない。

 しばらくすると坂の下からバスに乗るのか人が来る。きれいな花々を観て私の目は、研ぎ澄まされたような審美眼になっていた。ぺちゃんこの学生カバン。とういうことは、この人は通学する高校生。ズボンが胴と頭を足した長さの3分の1しかなく、それもケツの下でずり落ちそうになっている。よく見ると、ちゃんとやけにでかく開けられたベルトの穴が並ぶ太いベルトで止められている。アイロン糊付けはされていないが、ワイシャツは真っ白に洗濯されている。その白いシャツの下にロック歌手なのかオレンジ色のでかい顔がプリントされたTシャツが透けていた。足を引きずるような歩き方が若者らしくない。でもあのズボンではちゃんと歩けないに違いない。そして目が見えた。寝不足なのか寝すぎなのか、目に精彩はなかった。

 以前、交差点で若者と目が合って、「何見てんだよ」とすごまれた事がある。東京渋谷駅では階段でぶつかっただけでナイフで刺された事件もつい最近あった。私は目線を仕舞い込むように細め、眩しそうな昨日とはうってかわった快晴の空に向けた。少年は脇に薄いカバンを挟み、ポケットに両手を入れ、ベンチを確かめもせず、座ろうとしていた。私は咄嗟に「そこ濡れているよ」でなく「そこ濡れていますよ」となぜか丁寧語で言った。「あ、すみません」 少年は、尻を完全座る体勢に後ろに突き出した状態から、バネで元に戻すようにスッとまっすぐに立った。「ありがとうございました」と寝ぐせなのか、そういうヘアスタイルなのか跳ね上がった髪の毛がのる頭をペコンと下げた。

 「人を絶対に見た目で判断するな」と私の父がよく私に言った。改めて父の教えに感心した。気持のよい少年の反応に嬉しくなった。バスが来た。少年に先に乗ることを手で勧められ、バスのステップを軽くあがった。スイカをかざし、運転手に「お早うございます。お願いします」と元気よく挨拶した。運転手もニコッと微笑み、「お早うございます」と返した。そう気持ちのよい関係は、みるみる伝染する。

 朝の善事は、その後電車で行って参加した鎌倉の勉強会でも私の気持を高ぶらせた。一日中機嫌よく過せた。夕食の時、妻に今日のバス停での出来事を話すのが待ちきれなかった。


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テルマエ・ロマエ

2012年05月23日 | Weblog

 「平たい顔族」これは最近私が読んだ本『テルマエ・ロマエ~小説版』(伊豆平成著 KCG文庫600円+税)の中に出てくるローマ時代のローマ族以外の民族として日本人を呼称する言葉である。もともとはこの『テルマエ・ロマエ』はヤマザキ・マリ原作の漫画なのだそうだ。映画化されたので、小説に書き換えたという。道理でとにかく話にテンポとトンデモナイ飛躍がある。好感をもてなかったが、読み進むと不思議に引きこまれた。まるで映画の脚本のようで、頭の中で絵になった。

 ヤマザキ・マリさんの夫は、イタリア人だと聞いた。小説に出てくる多くの逸話は、きっと夫のイタリア人が実際に感じたことだと推察する。その観察と感想が面白可笑しく随所に散りばめられている。日本人のことを“平たい顔族”と呼ぶ、その感覚がにくい。私も留学先のカナダの学校で、質問された。「日本人はどうしてそんなに身長が低いの?」「日本人の目はどうしてつり上がっているの?」「日本人はどうして出っ歯なの?」「日本人はどうして鼻がぺちゃんこなの?」「日本人の髪の毛はどうして針金みたいなの?」私は「いいかげんにせい。日本人がどうだろうと大きなお世話だい」と言いたかった。キリスト教の学校だったのでダーウィンの進化論は、御法度だった。私は生物すべて現在ある結果は、すべて進化の所為だと思っている。そうなることが必要だったからだと信じている。父親と母親の遺伝子の強い方、もしくは双方の遺伝子がバランスを保つための妥協とか、偶然の結果として子に残され、それこそ天文学的に何代にもわたって繰り返されてきた結果である。映画『テルマエ・ロマエ』では俳優の阿部寛、北村一輝、市村正親、宍戸開が“濃い顔”の俳優としてローマ人を演じている。“濃い顔”があるなら“薄い顔”もあるのだろう。“平たい”は“凹凸のない、薄い”を意味するらしい。

 先日電車の中で女子高生の会話が耳に飛び込んできた。二人ともマスクをしていて気になる咳をしていた。本当は席を移動したかったが、話に興味があり、そのまま聞かせてもらった。「あたしさ、ハーフに生まれればよかった。コンコン」「それってお父さんかお母さんが外人っていうことでしょう。ゴホゴホ」「かっこいいと思わない?コンコンクシュッ」「いいよね。ゴホンゴホン」「そしたらさ、目も鼻もこんなじゃないでしょう。コン」「ハーフっていいよね。ゴホン」「でも父ちゃんか母ちゃん外人だと言葉大変じゃねえ。クシュン」「私たち英語できねえもんな。ゴホンッ」「じゃ日本語できる外人と結婚して子どもをハーフにするか。コンコン」「ハハハハッゴホンゴホン」

 私の喉も異変が生じてきたが、ついに降りる駅まで二人の会話に聞き入ってしまった。できれば二人の女子高生と話し合えればよかった。そうできたなら、私は「恋せよ乙女、若さはだれでも持てる最高の美しさじゃ。今あるあなたは、なんと先祖を10代さかのぼっただけでも2048人の遺伝子の結合の結果であるぞ。誇れよ乙女、外見ではないのじゃ。今の自分はもうどうすることもできない。整形したって心は、変えられない。外見ではない。中身じゃよ。自分に自信を持ちなさい。外国語を習いなさい。その上で世界に出なさい。お相手は日本の数千万男性から世界の何十億の男性が結婚対象になるんだぞ」と言えるであろうに。彼女たちに「キモイジジイ」と逃げられるだろうが。

 家に着くと洗面所に直行した。イソジンで3回うがいした。鏡に映った「平たい顔」は、私が64年かけて熟成させてきた顔である。私は平たい顔が嫌いではない。それに自分の目で直接自分を見たことがない。不便を感じていない。いつも鏡や写真など凹凸のない平たい自分しか見ていないから。

 映画『テルマエ・ロマエ』は、2週連続、観客動員ランキングで1位を独走している。イタリアでの上映も決まった。私が大好きな国イタリアでこの映画が多くのイタリア人に受け入れてもらえることを切に願う。欧州経済危機をしばし忘れて楽しんで欲しい。日本人もイタリア人もお風呂が大好きだ。家の風呂でなく、それこそテルマエ・ロマエと銭湯のような大勢が一緒に入浴することが、経済再生の第一歩になるかもしれない。

 「やはり、自分の未来など知らないほうがいい。いつどこで死ぬかを気にするよりも、最後の瞬間までどう生きたかのほうが大事なのだから・・・・・・。」『テルマエ・ロマエ』241ページ この文章で私は大嫌いな時代を超え、過去と現在を行ったり来たりの物語の手法を今回に限って許すことにした。


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日食

2012年05月21日 | Weblog

 日曜日のことだった。洗面所で顔を洗っていて、フトしたことから、左手の薬指の結婚指輪がないことに気づいた。就寝中に指から抜けたのかもしれない。急いで寝室に行く。ベッドのフトンをはぐ。シーツの上を目を皿にして探す。ない。ベッドのヘッドボードとマットの間も手を入れた。ベッドの下、部屋の床。寝室に家具は置いてない。あるとすれば、探すのは楽のはずだ。妻に正直に話した。

 妻も加わってあちこち探し回る。トイレ、キッチン、洗面所。シンクのゴミ止めパットも引き抜いた。ない。妻は「忘れた頃きっと見つかるからダイジョウブ」と慰める。「いつまで指にあったか考えてみて」 それがわかれば苦労しない。私は2,3秒前のことさえ、マジックのように忘却できる。まして数時間、一日前のことなど憶えていられるわけがない。それでもと考える。やはりだめ。昨日という日があったのは、憶えていても、指、それも左手の薬指のことなど、まったく意識もなかった。

 結婚指輪は、なにか特別なシバリがあるようだ。私はヨリによって2個の違う結婚指輪を最初はキリスト教教会で「死が二人を分かつまで」と誓約して、次は神道の社で「3個目は絶対になし」と自分に誓って指にはめてもらった。それなのにあの誓いを象徴する結婚指輪を失くしてしまった。不吉な予感に押しつぶされそうになった。私の経歴を知る妻だって心穏やかであるはずがない。

 結婚指輪は、私の太くなるばかりだった薬指に喰いこんで指の肉の一部になっていた。去年の12月に始めた体重管理食事制限で半年かかって80数キロから理想体重の64キロまで落とした。最近またズボンが自然にずり下がり気味だった。先週の木曜日、1箇月前に日曜大工の店で68円で買った“革ポン”というベルトに穴を開ける道具で、金槌で叩いて、ベルトの穴をまた2つ増やしたばかりだった。このところ体重は計ってない。おそらく62キロぐらいになっているのだろう。

 結婚指輪を失くすくらいなら、食事制限などしなければよかったと悔やんだ。太った指なら、振ったって、グルグル回したって簡単に抜けやしない。抜こうと思ったって、そう簡単に抜けやしない。反省、後悔に身が縮む。しばらくの間、左手の薬指は、私に警告を発し続けるだろう。「いい歳して、結婚指輪を抜き取って、何をたくらんでいる」 それとも私のバツイチを知る人々は、指輪のない薬指を見て、「やっぱりな。最初からあの結婚は無理だったんだよ。あいつは身持ちの悪い男だ」とでも言うのだろう。できれば数日中に結婚指輪を探して、何もなかったような顔をしていたい。あせれば、あせるほど記憶は戻らない。

 世間は今日21日に170何年ぶりの金環日食だと大騒ぎ。テレビを観れば、私の結婚指輪のような太陽と月が重なり合った過去の完全日食の映像が何度も何度も映し出される。私にはどうしても指輪がメラメラと怒りあらわに「早く探せ、でないと大変なことになるぞ」と言っているように見えてしまう。フトンをかぶって、日食が過ぎるのをじっとベッドの中で頭を抱えて待つ。終ったら、心を落ち着けて、また結婚指輪を執拗に捜す。


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母の日の憂鬱

2012年05月17日 | Weblog

 30数年前のことだった。塾で英語を小学生に教えていた時、クラスにH君がいた。とても聡明な生徒だった。お母さんは中学校の英語の先生だった。シングルマザーだった。お母さんも夜間の私の塾の大人の英会話のクラスで熱心に学んでいた。夕方のH君のクラスで父の日のカードを英語で書くことになった。気がつくと、H君がシクシク泣いていた。「僕にはお父さんがいません。どうすればいいんですか?」と泣きじゃくった。私は気遣いに欠けていた。H君を別室に連れ出し謝った。「H君、先生もお母さん4歳で亡くしたからH君と同じ気持を母の日に経験した」「ゴメンね。先生今度気をつけるから、今日は許してくれる」H君はにっこり笑って首を縦に振ってくれた。

 やっと今年も母の日が過ぎた。私は母の日が苦手である。母の日より母という存在をきちんと理解できていないのだ。生母を4歳で亡くした。私を残して死んだ母を怨んだ。幼かった私は、ことあるたびに押入れに逃げ込み「かあちゃんのバカ、バカ、バカ」と泣きじゃくった。母への怒りは、長い間消えることがなかった。4歳で東京、新潟の親戚へと預けられた。「可哀想」と「憎たらしい」が預かった家族の中で葛藤する毎日だった。結局父が生母の妹と再婚したので信州へ戻った。戻ったが私は余計に混乱した。下の二人の妹たちは、すぐに継母を「おかあちゃん」と呼んだ。私の姉は、「かあちゃんは一人しかいない。だからあの人はおばちゃんだ」と私に強要した。私は母という存在から遠ざかった。

 アメリカの人間関係で最悪の関係は、夫と妻の母親つまり義母との関係だというのを聞いたことがある。私も義母との関係に苦しむ。私はバツイチなので、義母は二人持つことになった。義母という存在に苦手意識が先行する。おそらく義母側は、そんな私の心の奥深くにうごめく暗黒の想いを知る由もなく、ただ私のことをかわいくない冷たい婿だととらえているに違いない。

 母の日が近づくと、テレビで母の日を意識した宣伝や番組が増える。観ると、美しい娘と母、もしくはイケメンな息子と母との密接な関係を今最も売れているタレントやスポーツ選手が演じている。私は、場違いな感じを持つ。妻も親子関係を重く感じているようだ。妻と妻の母親の関係もけっしてテレビに映し出されるようなまるで姉妹かと見まがうような関係ではない。だから余計私の心は乱れる。これを劣等感というのかもしれない。

 井上靖の自伝が映画『わが母の記』(主演樹木希林 役所広司)になったそうだ。私はこのような映画をどうしても避けてしまう。性格がひんまがっている。自分の心の中に母への言い知れぬ欲求不満と失われた甘い親子関係へのない物ねだりの想いが強い。実際に経験したことがないので想像するしかない。苦労して育ててくれた継母に感謝の気持ちは強い。1年の364日は、ありがとうと心から言える。しかし母の日にだけ、私の心に巣くう「もしも・・・」は、私をたじろがせる。割り切れない。何が割り切れないのかも判らない。これが現実なのだから受け入れるしかない。

 「母の日」は、私を憂鬱にさせる。もっと素直な人間でありたかった。この日を純粋な気持で祝える人でありたかった。私の子どもには私の複雑を引き継がせたくなかった。申し訳ないことだ。母の日になぜかH君のことを久しぶりに思い出した。もうH君も父親になっているだろう。H君がH君の子どもが、私のような人間になっていないことを願う。母の日が過ぎると正直ホットする。


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低頭族

2012年05月15日 | Weblog

 台湾ではスマートフォンやタブレット型の機器の操作に夢中になっている人々を「低頭族」と呼ぶそうな。さすが漢字の国である。低頭には、うつむくという意味があるという。私が初めてこの低頭族という言葉を見た瞬間、閃いたことは、手をモミモミしながらペコペコするオベッカ族、もしくは私がそうだったように学校の成績が良くない人の連想だった。説明を読んで感心した。これを英語で言ったら、動物などの名前を持ってきたり、頭文字だけ並べて新語らしくする以外、3つの英単語では納まらないだろう。改めて漢字の絵文字のような表現力におそれいった。

 町に出れば、どこもかしこもスマートフォン、携帯、i-podを操作しながら歩いたり、車を運転する人で溢れている。時々自転車で携帯を使いながら走っているのさえ見かける。ここまでくると曲芸の世界である。電車に乗れば、低頭族が車内を制圧している。本を読んでいる人を見かけると、嬉しくなり声をかけたくなる衝動にかられる。日本から遠く離れた外国で、同胞に会ったような気持になる。

 私はスマートフォンなどの高機能端末を持たない。持たない、というより持てない。なぜなら高機能がゆえに私の知能と技能では操作できない、もしくは高機能を到底、使いこなすことが出来ないと判っているからである。現在持つ携帯電話でさえ、電話とメール機能以外使えない。不便を感じていない。日常生活に支障もない。ただ携帯電話にかけてくる人々から「どんなにかけても繋がらない」と始終、文句を言われる。妻には「あなたの携帯は、不携帯」とまで決め付けられている。

 私は歩く時、電車に乗って席に腰掛けている時、立っている時、姿勢に気を使う。背筋をピーンとさせていたい。普段机に向かって読んだり書いたりして猫背でいる時間が長い。せめて机から離れたら、背筋を伸ばしてやらないと可哀想と思うからだ。背筋を伸ばす一番の方法は、頭を高い位置にすることだ。つまり「高頭族」になればいい。「低頭族」と「高頭族」。中国語に「高頭族」という表現があるかどうか分からない。でもこれは何となく、高慢不遜な人々を連想させてしまう。東京電力、AIJ、オリンパス、官僚、天下り族、政治屋、宗教屋などなど。これから「高頭族」を大いに使ってみようという意欲がなくなった。二番煎じは、やはり浅はかであった。結論、「高頭族」は使わない。

 私のように、一日中ずっと一人で部屋にこもっていると人恋しくなる。だから知人や親族が訪ねてくれると嬉しくて、ついはしゃいでしまう。相手の存在を目で確認できることが何より嬉しい。相手の反応を顔色などで直接、判断できるのもこころよい。電話ではそうはいかない。外に出れば、私の内なる好奇心が暴れ出す。キョロキョロ、ウキウキ落ち着かない。道すがら、また車窓からの眺めも見逃せないスポットが多い。そんな時、私の頭の位置は高く背筋も伸びる。

 人間が自然に対するとき、心理作用でそっくり返ることもうつむくこともない。ただ視覚の都合だけである。素晴らしいことだ。できるだけ自然に目を向けることをこれからも心掛けたい。


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大往生

2012年05月11日 | Weblog

 知人の父親の話だ。癌と宣告されると彼女の父親は、いかなる延命治療も拒否した。取り乱すことなく、今までの日常を変えることもなく、身辺整理を精力的にこなした。戦後、食料難を見越し、鶏卵事業を立ち上げ、自分ひとりで鶏舎をつくった。やがて人口増加に転じ、住宅不足が起こると、鶏舎を壊してアパートを建設した。日本の高度成長期の波に乗り、5人の子ども全員を大学卒まで面倒をみた。圧巻は、死への旅立ちだった。知人の父親は、死が迫り来るのを感じると、摂食を自ら断ち、数日で死を迎えた。知人の父親は大往生だったと知人は言った。壮絶。私もそうできたらと強く願った。

 この話を思い出したのは、新聞で『大往生したけりゃ医療とかかわるな』中村仁一著 幻冬舎新書の実に内容を詳しく知らしめる広告を見たからである。この広告、本の内容を第一章から最終章までの全六章の内容を箇条書きにしている。その第二章の9番目に「食べないから死ぬのではない。「死に時」が来たから食べないのだ」と書いてあった。まさに知人の父親のことではないかと私は唸った。全部で63項目の箇条書きの中村仁一医師の見解の中で、私は一番納得できるものだった。

 私の父は、25年前、末期の膵臓癌で亡くなった。手術するには、癌はあまりにも進行していた。結局抗癌剤の治療もなく約2週間で旅立った。担当の山田医師が「多くの患者を診てきたが、あなたのお父さんは、もののふだった。絶対に相当な痛みがあったに違いなかったのに、一回でも「痛い」と言われなかった。凄い方ですね」と父の死後私たち家族に語った。父の人生への何よりの、肯定だった。学歴も財産もなく、戦争で多くを失い、シベリアに送られ、帰国後5年で妻に先立たれた。入院最後の2週間の父は穏やかだった。眠ってばかりいた。体中、特に下肢は、パンパンにむくんでいた。目を覚ましていれば、見舞う人々に、看護師さんに、ただ「ありがとう」を繰り返した。涙を流すこともなかった。愚痴も不平も取り乱すこともなかった。私は馬鹿みたいに父の象の足のように太くなった脚をさすりながら、子供の頃の話をくりかえした。

 最近、私の身辺整理を進捗させている。知人のN氏が写真のアルバム60冊をCD3枚にまとめたと話した。なんと3日間でやり遂げたという。影響された。このところ、我が家のゴミの量は増えるばかりだ。ちまたでは『エンディングノート』なるものが流行っているそうだ。私はすでに心臓バイパス手術を受けた11年前に『辞世ノート』と題して、大学ノート1冊に思いの丈を私が残す大切な人々に書き残して保管してある。思いのほか手術後の“おまけの人生”が長引いているので、ところどころ修正が必要になってきている。それでも大筋は変わることはない。

 人の死にざまは千差万別である。死に対して恐怖を持たない人間はいない。中村医師が死の準備を、心構えを解くのも道理にかなう。知人や身内にも親族の介護でボロボロになっている人が多い。自分の死の準備どころの話ではないだろう。頭が下がる。だからこそ私は自分の死でまわりに、いかなる負担も残したくない。そのために念仏のように「最後を意識したら“絶食”」と唱えている。それが私の史上最大の作戦だ。病気で死ぬことができればであるが。


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ラドン?

2012年05月09日 | Weblog

 散歩の楽しみのひとつが増えた。海岸近くに松の並木がある。高さ20メートルぐらいの松が10数本、2本の道路に挟まれて並んで立っている。松の木そのものは、元気がない。今、松の木を枯らす害虫がはびこっているという。もしかしたらここの松にも害虫の被害がでているのかもしれない。そんなことにお構いなく、その松の木のてっぺんが賑やかなのだ。耳を澄ます。「ガーガー」「ギャーァギャーァ」 昔観た映画『ラドン』に出てきた怪鳥ラドンのような鳴き声である。元気がいい。その鳴き声の数およそ10数種類。争っているふうにも聞こえる。

 最近私は、双眼鏡をリサイクルショップで見つけた。1780円だった。散歩コースの川にカワセミを見ようと思ったからだ。安かったけれど、この双眼鏡やたらと重い。並木の上部を双眼鏡で見るために少し離れた場所に移動した。双眼鏡を覗く。焦点が合わない。裸眼でも近視メガネと老眼メガネを使い分けなければ、モノがきちんと見えない。家のあちこちに天眼鏡も配置しているほど視力に問題がある。調節ダイヤルを回す。双眼鏡が重たく、腕が疲れる。目の周りを双眼鏡の接触部分が強く押していて痒くなってきた。あきらめようとしたその時、見えた。はっきり見えた。アオサギの巣。巣の中にヒナが3羽いる。親が上空を大きな羽を拡げて旋回している。木のてっぺんにある巣にホバリングしながら降り立つ。ヒナの鳴き声がラドンを通り越して壊れたラジオのような雑音に変わった。親が取ってきた魚を吐き出す。ヒナの中の一番大きな、そのサイズはすでに成鳥のニワトリの大きさを超えているが、ヒナがまず他をさておいてゲット。味わうこともなく激しく飲み込む。脇の2羽はスキあれば掠め取ろうとしているが不成功。

目が疲れた。双眼鏡を目から離した。すると巣らしきモノが隣の木にも、またその隣の木にもまたまたその隣の木にもある。並木の松の上に5箇所確認できた。それぞれの巣にヒナがいるらしい。その数は大変なものである。うるさいわけだ。親はオスメスどちらかがエサを取りに行き、どちらかが巣を守る。まわりはトンビやカラスもたくさんスキあらばと、虎視眈々とヒナや卵を狙っている。生き抜こう、育て切ろうという熱意というか執念がオーラのように漂っていた。

佐渡のトキが新聞やテレビに華々しく大きく扱われる。私は大いに疑問を持っている。トキは美しい鳥である。日本人は、日本に生息する日本種のトキを乱獲して絶滅させた。中国から中国種のトキを天文学的国家予算を使って、まるで北朝鮮の核施設のように広大な敷地内に厳重警戒網をしいて、巨大なトキ専用繁殖施設を建設し、専従要員を雇用している。私には理解できない。中国種のトキはどんなに繁殖させても中国種のトキで、けっして日本種のトキではない。毎年、卵を抱いている、ヒナが孵(かえ)った、イタチが侵入してトキが殺された、カラスに卵を盗まれたのニュースにヘキヘキしている。

 アオサギは自然の中で、ほとんど関心ももたれず、黙々とたくましく時系列に従って生きる。私は、アオサギを立派だと思う。応援している。 写真:松の木のアオサギの巣


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「轢かれる」

2012年05月07日 | Weblog

 気持よく晴れた日だった。陽気に誘われるように散歩に出た。交差点で信号が青なのを確かめ、いつもするように右手を挙げて横断歩道を渡り始めた。真ん中辺で右側前方に私が嫌いなイボイノシシのような面構えの箱型の黒い普通乗用車が左折の方向指示器を点滅させながら交差点に進入しようとしていた。運転手は完全に首を左側に向けていた。運転手は20代後半から30代前半の男性だった。警戒するべきだった。何も信じてはいけない。信号も、横断歩道も、手を上げても。次の瞬間、車は急発進した。「轢かれる」と私は思った。私は飛びのいたが、ほんの数十センチのところで固まり、身構えた。運転手も私に気がつきハンドルを大きく左に切った。運転手の顔が引き攣れ蒼白で時間が止まったかのように見えた。私をよけた車は「キキキーキィキィ」とタイヤ痕を残しながら、駅方面に走り去った。私は力が抜けてしまい、しばらく立ち止まって、息を整えた。

 このところ交通事故、それも悲惨な大事故が続いている。逮捕された数人の運転手が「ボーっとしていた」とその原因を供述しているという。京都の祇園で暴走した運転手は、病気を持っていてそれが原因かもしれないと捜査されているが、究明されていない。京都府亀岡市の集団登校の列に飛び込んで4人(新聞報道では亡くなった集団下校に付き添っていた母親のお腹の赤ちゃんを数えていないので3人とされている)が轢き殺された大惨事では、運転していた若者は、一晩中遊んで歩いていて、居眠り運転したという。しかも無免許だった。

 これらの事故を防ぐ方法を考えてみた。1.集団登下校より登下校の道路の時間封鎖を考える。2.集団登下校を通学バスに変える。3.道路際の住宅の塀を取り除き、芝か花壇に変える。4.車だけでなく、自転車や歩行者の取締りを強化する。

 1は緑のおばさんなどの交通指導員やボランティアや、今回の亀岡市の事故の犠牲になった付き添いについたお母さんなど、登下校に大人が動員されるなら、大人の動員を違う方法に転化する。危険な、ある一定以上の幅の歩道がない道路は、遠回りになっても、登下校路から排除する。それでも危険な道路は通学時間を決めて通学時間に限って封鎖する。そのために大人が完全に道路封鎖を行う。10分20分のことである。人の命は何より大切と言っている割に、少子化問題を大きく取り上げ、担当大臣ポストまでつくっているのに、貴い幼子の命が集団で奪われる事故が絶えない。もっと子どもの命を大切にして守ることをするべきだ。

 2は、たとえ近くてもバスに乗れば、直接、車という鉄の塊である強固な凶器に轢き殺される危険はなくなる。確かに公共バスでさえ信頼できない昨今であるが、歩道もない、側溝にフタをして代用するような危険な道路を歩くよりましだ。バスを安全に乗降できる場所を決めて学校の敷地の中まで運行したらいい。

 3は、多くの集団登下校の事故が凶器となった車と人家の塀などに挟まれている。これは悲惨である。もし塀がなければ、子どもたちは逃げ込むことができただろう。日本人は、自分の家を昔の武家屋敷のように塀で囲んでしまう。そうでなくても狭い国土に狭小な家を持つ。最近治安はますます悪化している。防犯上、家を塀で囲んで守ろうとすることが、悲惨な事故を助長するという連鎖になってしまった。少子化の問題を真摯に受け止め、授かった貴い一つひとつの命を守らなければならない。自分の家屋敷を守ることから塀を失くすとか、塀を1メートル下げるとかの篤志家が大勢出てきて欲しい。

 4は、車ばかりを責めるのではなく、最近の自転車や歩行者にも厳しい取り締まりをするべきである。横断歩道を使う。歩道を歩く。信号をまもる。だれもかれも横柄で面倒くさがる風潮ばかりがまかり通る。自分の身は自分で守るしかないが、それさえも出来なくなってきている。

 車の運転は、性能の向上や機器の進歩により、容易になってきている。加えて狭い道路でも、軽自動車などの極小サイズの車は、まるで運転者自身の体を制御しているかのような感覚で運転できる。それが運転者にあたかも運転技術があるかのように過信させている。事故に遭わないようにするには、どうしたらいいのか。まず規則を守ろう、守らせよう。考えよう。頭を使おう。事故の原因が「ボーっとしていた」では、死んでも死に切れない。ボーっとしないためには、きちんとした食事をとり、十分な睡眠をとり、迫り来る自分への危険回避を毎日考え、実行することしかない。ある程度だが、安全は金で買うこともできる。そのことも十分考慮していきたい。命を失われた被害者の無念、被害者の家族を思うと私の体が震える。

 私は加害者にも被害者にもなりたくない。何とか私の死を誰とも関わりなく、誰のせいにするでもなく、ただ私自身が自然の成り行きにまかせて、それが寿命であったと享受して完結できることを願うのみである。


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