団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

寒波

2022年12月29日 | Weblog

  私は、極寒地2か所で暮らした。カナダとサハリン。私が経験した最低温度は、マイナス42℃。

 12月14日から21日にかけて、日本の各地で大雪に見舞われた。そうしたらクリスマス前後に今度はカナダ・アメリカが大寒波と大雪で大混乱が起こった。日本の大雪は、カナダやアメリカほどの気温の低下がない。それでも日本全国で雪による死者は、17人にのぼった。そのほとんどが雪下ろしや雪の片づけ作業中のものだという。カナダ・アメリカでも死者が25日までに38人の死亡が報告され、犠牲者は、更に増えると言われている。

 私は、10代後半からカナダへ留学していた。今回のような大寒波を伴う大雪を経験したことはない。学校は、太平洋岸からロッキー山脈を抜けた大平原にあった。日本では経験したことがなかったマイナス20℃から40℃の寒さに最初は凍死してしまうのではと恐れた。案ずるより産むが易し。学校も寮も暖房が完備され、教室や寮の中では、夏の身支度で過ごせた。ただ外は寒く、カナダの防寒服を買わなければならなかった。日本から持って行った冬服も靴も用をなさなかった。靴は、乾燥に悲鳴をあげた。歩くたびに「キュッキュッ」と音を出して周りの学生たちを驚かせた。部屋の窓の外にミカン箱のような木の箱を置いた。これは自然の冷凍庫として役に立った。朝マイナス40℃でも昼にマイナス20℃くらいまで上がると温かいと感じた。日本で今住むところは、マイナスになることは、ほとんどない。そこに暮らしていて、2℃とかになるとカナダで経験したマイナス20℃よりずっと寒く感じるのは、歳のせいだろうか。いずれにせよ寒いのも暑いのも苦手である。

 暑い方でいえば、アフリカのセネガルで暮らした2年間は、日本で経験したことがない暑さだった。40℃の日もあった。カナダのマイナス40℃との差は、80℃だ。数字だけだとどうやっても生きていられない、と思ってしまう。赤道直下ではなかったが、赤道に近かった。1年中夏。雨はほとんど降らなかった。雨季があったが、数週間という短さだった。雨が降った後、植物が一斉に花を咲かせる光景は、壮観だった。雨季以外で雨の心配は、まったくなかった。傘も雨合羽も必要なかった。

 暑くても寒くても、そこで生きる人々は、工夫して生きている。カナダでびっくりしたのは、厳寒期、家々の前に止めた車が家の中から引かれた電気コードで繋がっていたことだ。車の中に、暖房する電熱器を置いている。勤め人の多くは、朝出勤時に車の中を温かくしておきたい。そしてエンジンのオイルゲージにも電熱ヒーター入りのモノがあった。エンジンもどんなに寒い日でも一発で始動する。タイマーを使ってわざわざ寒い朝外へヒーターのスイッチを入れるために出ていく必要をなくしている人もいた。必要は発明の母。面倒くさいことは、発想の源といえる。

 日本国内の大雪のニュース、カナダ・アメリカの大寒波大雪のニュースを、冬でも花が咲くところに住む私は、他人事のように見聞きする。雪や寒さで苦労している人々には、申し訳なく思う。誰一人知人もいない、縁もゆかりもない地に、医者の心臓のために温暖な地で暮らしなさいという勧めで、終の棲家をここに決めた。すでにこの地に住んで19年になる。


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使い切ることの難しさ

2022年12月27日 | Weblog

  毎日の生活で使う物は、だいたい決まっている。今は、大量生産大量消費の時代である。豊かであるということは、幸せな事。団塊の世代が、子どもの頃に戻りたいと思わないだろう。終戦直後で皆貧しかった。物がなかった。トイレットペーパー、ティッシュペーパー、チューブに入った歯磨きなど高嶺の花の高級品だった。

 今はどうだろう。洗面所の棚には、多くの商品が並んでいる。子どもの時住んでいた家に、洗面所などなかった。どこで歯を磨いていたか記憶がない。今は、水道からは蛇口レバーを動かせば、お湯が出る。それだけでもありがたい。お湯ばかりではない。家自体の気密性が向上して、どこにいても温かい。子どもの頃、家に居ても隙間風が入り込んだ。手もほっぺも、しもやけになった。洗面所の鏡に映る自分が、まるで別世界の人に見えることがある。洗面所だけにいるだけでも、子どもの頃の自分がいた環境との違いに圧倒されてしまう。

 あまりの多くの日用品があるので、補充も大変だ。歯磨きチューブが終わりそうなので、新しいのを買った。店の歯磨き売り場には、多くの会社のいろいろな種類が並んでいる。新しもの好きな私は、テレビのCMなどの影響をまともに受け、次々に新しい商品に手を出す。今までにどれ一つとして、CMで唱っているような効果を感じたことがない。それでも80-20(80歳で自分の歯が20本残っていること)を目指して毎日相当な時間を歯磨きに費やしている。歯医者でよく磨かれていると褒められたこともない。一生かかっても歯医者に褒められるような歯磨き術は、会得できそうもない。

 さて終わりそうだった歯磨きチューブだが、すでに1週間は過ぎても、まだ絞り出すと出てくる。性格的というか育った環境からか、モッタイナイの支配下にある。使い切るまでは、新しいチューブに手が出せない。不思議だ。終わったと思っても、指に力を込めて、チューブの口の周りを押し絞ると、ちゃんと1回の歯磨きに十分な量が出る。今日こそは、今度こそは使い切れると押す。まだ出る。こうなると手品や魔法に思える。

 歯磨きチューブを製造販売している会社に提案したい。お願いだからチューブを透明にして中が見えるようにして欲しい。寝ぐせ直しのリーゼ ミントシャワーもハナうがいも容器が透明なので、歯磨きチューブのように「もう終わるだろう」の当て推量の必要がない。歯磨きチューブをあたりかまわず押して使う妻でも、モッタイナイ信者なので、最後まで使い切ることにこだわる。妻は、朝、私より先に歯を磨く。私がチューブから歯磨きを絞り出せるということは、私より力がある妻も出せたに違いない。もう終わりそうで、なかなか使い切れないチューブから、同志的な小さな伝言を受け取ったような気持ちに苦笑い。

 今年も一年ずっと同じ洗面所で、同じことを来る日も来る日も続けてきた。歯磨きチューブを何本使い切ったのだろう。コロナに行動を制限されて、健康寿命の貴重な時間を無駄にしている。洗面所の小さな空間で歯磨きチューブを、どうしても使い切ろうとしている自分が笑える。物のない貧しい子どもの時代、♪もういくつ寝るとお正月♪と心底正月を待った。あの頃の1日は長かった。今75歳になって1週間が1日のような時間に感じることが多い。私の人生も、歯磨きチューブの使い切る寸前のように、もう終わるかな、まだかなの状態なのかもしれない。もう少し手品と魔法が効きますように。


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防衛費増額と増税

2022年12月23日 | Weblog

  こんな記事をネットで見つけた。『政府は年間約5.5兆円の防衛費を当面5年間で総額43兆円に増額し、段階的に現在の2倍(GDP比2%)に向けて増やしていく方針だ。そのためには年間5.5兆円の新たな財源が必要になるが、今回の防衛増税ではそのうち1兆円分の財源しか手当てできない。残りの4.5兆円分もいずれ増税で賄われることになるのは明らかだ。』

 私は、軍事費の増額に反対である。なぜなら軍拡競争は、イタチごっこに他ならないからである。中国の2022年度の国防費は、2294億7000万ドル(1ドル=132円換算で約30兆円)で日本の6倍。アメリカのバイデン大統領は、議会に2023年度予算の内の8133億ドル(日本円で約100兆円)を要求。中国をここまでの強国に押し上げたのは、アメリカ、ヨーロッパ、日本などの企業である。安くて優秀な労働力を求めて中国に工場を移転して、製造コストを下げ、莫大な利益をあげている。中国抜きにして世界の多くの企業は、利益を得ることはできなくなった。一方中国共産党政府は、工場誘致によって得た富を着々と軍拡や覇権戦略につぎ込んだ。尖閣諸島、南西諸島、一路一体政策と次から次へと手当たり次第である。何を言ってももう遅い。ここまで中国をのさばらせたのは、日本を含めた先進国連合である。アメリカが中国と角を突き合わせるのは仕方がない。そこに日本が予算も経済力もなくて参加することは、やめた方が良い。

 逆転の発想をする指導者は、日本にいないようだ。今更、防衛費増額など焼き石に水。増税は、国民を苦しめるだけ。小学校か中学校でスイスが永世中立国だと習った。当時の生徒の理想で、あこがれの国は、ダントツでスイスだった。今のスイスにその印象が薄れてしまった。日本が生き残る道は、防衛費の増額でも、増税でもない。島国であること。造船技術に優れていること。医学が進んでいること。これを活かせるのが病院船だ。

 コロナが世界を恐怖におとしめて、すでに3年が過ぎた。この間に失われたものは、あまりに多い。人命、経済、国際交流などなど。

 2021年6月11日にいわゆる『病院船推進法「災害時等における船舶を活用した医療提供体制の整備と推進に関する法律案」』なるものが可決成立している。ところがその後何の進展もない。法律は、成立したが調査費だけで造船するまでには、至っていない。理由は、病院船に必要経費が大きすぎるというのだ。

 防衛費を増額して購入しようという敵地攻撃できるミサイル・トマホークは、1発2~3億円だ。病院船の建造費は、船体に700億円と試算されている。維持費を含めても、防衛費の増額分年3兆円でまかなえる額だと思うのだが。

  今年もあと1週間。コロナ、ロシアのウクライナ侵略、日本の政治の経済の停滞。そんな中私は、夢をみる。日本の病院船が、世界の感染病、災害、紛争、戦争の地に派遣されて多くの助けを必要とする人々に手を差し伸べることを。敵に立ち向かって闘う兵士より、医療関係の自衛隊員を増員されている。船に世界中から招聘された医療関係者もいる。感染症が蔓延する、憎み合い殺し合う地域に、割いるように、日の丸を立てた病院船が、静かに突き進む。


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並ぶこと

2022年12月21日 | Weblog

  今では少なくなったが、電車などをホームで待っていると、時々横入りする者がいる。東京へ行って、駅前でタクシーを待って並んでいても、横入りする者がいる。

 中学校か高校の英語の教科書に、“欧米では並んで待つという礼節がきちんと守られている”というような話しを習った気がする。内容は、老婦人が街を歩いていると、たくさんの人が並んでいた。その婦人も並んでみた。自分の順番が来た。そこは、工事現場だった。作業員にその工事が何の工事か尋ねるための列だった。私は、ずいぶん欧米の人々は、ずいぶん気が長いのだなと感心した。自分を含めて、周りには、待つことがイライラとなる人が多かった。

 私は、高校の途中からカナダの高校へ移った。ある時、級友の家族に招かれて泊りがけで訪ねた。皆で、町の人気のあるステーキレストランへ行くことになった。すでに大勢の人が入り口に長い列を作っていた。横入りする者はいなかった。並んでいる人たちは、知り合いも知り合いでなくても皆話をしながら待っていた。私は、英語の教科書の話を思い出した。あれは本当だったのだと思った。どういうステーキを、ステーキの味はどうだったのかは、覚えていない。ただきちんと並んで楽しそうに話をしながら1時間近く待っていたことを鮮明に覚えている。

 妻の海外赴任に配偶者として同行した。最初の任地は、ネパールだった。世界の最貧国のひとつといわれていた。でも人々に活気があった。驚いた。映画館などの前で、列を作って並ぶ並び方が凄かった。前の人の背中に、後ろの人は胸をくっつけて並ぶ。横入りを防ぐためだという。生活の知恵だ。

 妻の任地が東ヨーロッパのセルビア(旧ユーゴスラビア)に移った。社会主義国だったということもあって、平等主義が徹底していた。食料の配給などで並んで待つということが習慣化されていたせいか、どこでも列は、整然としていた。待つことは、生活の一部という感覚でゆっくり流れる時間が、心地よかった。

 約14年間の海外生活を終えて、日本に帰国した。バブルが弾け、経済が落ち込んでいた。政治は、相変わらず旧態依然で進歩が見られなかった。国の勢いは、削がれてきていたが、人々に変化が見られた。どこに行っても、きちんとした列がある。鉄道の駅のホームでも列。人気ラーメン屋でも列。だんだん欧米並みになってきたと思った。まだ、たまにとんでもないヤカラを見るが、以前よりずっと数が少ない。おかしな奴は、どこの国にもいる。

 家の近くの川で工事が始まった。何の工事か知りたかった。数日後、工事現場の脇に立て看板が立った。工事の内容が表示されていた。世の中変わった。日本が変わった。人々が知りたいことを、わざわざ看板にして出してくれる。良いことだと思う。これに予算が幾らかも加えられたら、もっといい。列を作って何の工事かを訪ねる程、人口はいないが、人々が知りたいことを公開してくれることは、嬉しい。

 カタールのワールドカップサッカー会場で日本人サポーターの試合後のゴミ片づけ、選手控室の清掃と感謝の折り鶴。もともと日本人が持つ礼節は、まだ残っていた。増えよ、まっとうな日本人!


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孟母三遷

2022年12月19日 | Weblog

 ネットのニュースに次のような記事が出ていた。『2018年3月、滋賀県守山市の河川敷きで両手、両足、頭部のない、遺体が発見された。遺体の身元は、58歳の女性だった。河川敷きから歩いて数分の家に住む女性だった。その女性は、31歳の娘と2人暮らしだった。この娘は、医学部を目指し9年間浪人を続けていた。遺体発見から3カ月後、警察は、この31歳の娘を死体遺棄容疑で逮捕した。その後死体遺棄、殺人容疑で起訴した。』

 私は、『…医学部…9年間浪人…』に関心を持った。私は、15年医学部合格を目指して浪人していた人を知っている。その後その人がどうなったかは、私が日本から出てしまったので分からない。妻が知っている医者でも長年浪人をして医学部に合格した人がいたと聞いている。

 私は、長年、塾で英語を教えていた。本当は、英会話だけを教えたかったが、経営上、受験英語に力を入れざるを得なかった。受験に関わると、生徒の家庭の事情というものが、どうしても絡んでくる。日本では、母親が自分の子どもに対して強い影響力を持っていると実感した。「孟母三遷」という言葉が時々頭に浮かんだ。子どもの教育のためなら、住む場所を変えてでも、子どもに教育を受けさせたい。住む場所を変えるまではいかなくても、教育熱心な母親に多く接した。成績が上がらなければ、さっさと私の塾を辞めさせて、違う塾へと移っていった生徒もいた。そういう母親の熱意に圧倒された。母親がどれほど子どもに影響力を持っているのかと驚いた。

  私は4歳で実母を失った。後に実母の妹が、私の継母になった。継母も実母同然教育は、家が貧しく兄弟姉妹が多かったので、尋常小学校を途中退学して、子守や働きに出ていた。継母は、小学校に通っていた私から漢字やアルファベットを習った。新聞のチラシで、裏が白いものを集めて、糸で閉じノート替わりにしていた。私は、習ったばかりの漢字などを継母に家で教えた。このことは、私の復習となった。とても私の成績に役立った。

  高校の同じクラスに大変成績優秀な女生徒がいた。聞くところによると彼女の兄弟は、皆東京大学に合格しているという。この女生徒が後に「自分は、結婚して初めて、母親にマインドコントロールされていたと悟った」と話した。つまり彼女があれほど成績が良かったのは、母親にマインドコントロールされていたからだったということらしい。彼女は、結婚後とても幸せになれたそうだ。自分の子どもたちには、自分がされたような事はしなったそうだ。だから子どもたちは、それなりにしかならなかったと語っていた。

  滋賀県守山市の31歳の女性は、母親を殺害した後、ツイッターに「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と書き込んだ。翌日、彼女は、ホームセンターで買った工具で、母親を解体して河川敷に遺棄した。

  受験産業に関わった人間として、私は、31歳の女性にとって、9年間の受験勉強がどれほど苦しく大変だったか分かる気がする。女性が自らの希望で医学部を目指したのでなければ尚更だ。親子関係においても、バランスの取れた、お互いの意志の尊重と理解が必要だと思う。同級生が言った「だから…それなりにしかならなかった」という悟りのような深い言葉に安堵する。


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高校同級会記念誌とワールドカップサッカー

2022年12月15日 | Weblog

  コロナで家に籠ったこの3年、終活が進んでいても良いはずだった。学生時代、試験の前に「今回は仕方がない、次の試験で頑張ろう」と大した準備をせずに試験を受けた。コキゴロウ(古稀+5歳)になっても、先延ばし体質は変わっていない。進歩の無さに情けなくなる。

  先日、書斎の片づけをした。棚に積み上げられた書籍を降ろして、整理した。薄汚れ劣化した表紙の冊子が出て来た。何だろうと中を点検した。中表紙に写真と『古城の門をいで入りて  上田高等学校64期8組 30周年記念同級会』とあった。高校の同級会の記念誌だった。ページをめくっていくと私の寄稿文が出ていた。読んだ。

  「S様 たった今、日本対ユーゴスラビアのサッカーの試合が終わり、0対1でユーゴが勝ちました。善戦しましたが、もう少し日本の粘り、ボールへの執着が欲しい気がします。日本人がたった40人前後しかいないユーゴスラビアですが、とても親日的で、日本への関心が強いし、また知識もあります。サッカー選手では、名古屋グランパスのストイコビッチ、浦和レッズのペトロヴィッチ、そうして福岡のチームにも一人、計3人がユーゴスラビアから行っています。とにかくスポーツの盛んな国で、サッカーの他にもテニス、バレーボール、水球、バスケットボール、ハンドボール、卓球など強いです。社会主義だったので、平等主義が浸透していて、また男女平等も守られています。ネパール、セネガルでの生活は大変でしたが、個々の生活は満足しています。さて同級会の様子、断片的ではありますが、伝わり嬉しく思っています。またお便りします。どうぞご自愛ください。」1998年6月5日午前9時12分12秒 これは代表幹事を務めてくれたS君へのメールだ。私には、まったくこのメールを送った頃の記憶がない。書いてある内容は、もちろん一字一句覚えていない。まるで過去の自分にタイムマシンを使って出会った気分である。

  15日、私は朝4時に起きて、ワールドカップサッカー準決勝のフランス対モロッコを観た。モロッコは妻の兼轄国だった。チュニジアに住んで、モロッコとリビアの3カ国が妻の医務官としての任地だった。妻のモロッコとリビアの出張に数回同行した。モロッコでの良い思い出が、対フランス戦でモロッコを応援する気持ちにさせた。しかし残念ながら、2対0で負けた。今回のワールドカップサッカーには、過去に住んだ国々が出場した。どこの国を応援して良いのか迷った。それらの国々の試合を観ては、そこに住んでいた頃の記憶がよみがえった。残念ながら、住んだ国で決勝に進めた国はない。それでも今回のワールドカップサッカーを楽しむことができた。

  高校の30周年記念誌が発行されてからすでに24年が経った。記念誌に投稿していた同級生の多くが鬼籍に入った。担任の先生も亡くなった。こうして記念誌に同級生の文章が残っている。多くの過去が消えてゆく中、記念誌のように過去に生きた証の記録が残されている。記念誌を見つけて、同級生それぞれの文章を読んで彼彼女を思い出す。

  ワールドカップサッカーを観戦して住んだ国を想い、同級会の記念誌を見て、同級生との高校時代を思い出す1カ月になった。広大で久遠な過去にすっかり飲み込まれてしまった。思えば遠くに来たものだ。


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莫妄想

2022年12月13日 | Weblog

 恐れていたことが現実になった。家族で初めてのコロナ感染者が出た。この3年間身近な家族に感染者が出ていなかったのは、奇跡だと思っていた。友人の家族、特に友人の嫁いだ娘さんたちの幼い子を持つ家庭の感染に心を痛めていた。重症化することなく回復したとの知らせに胸をなで下ろしていた。なにせ政府の新型コロナ対策分科会の会長が、5回のワクチン接種を受けていたにもかかわらずコロナに感染したほどである。

  最初の感染者は、長男だった。そして難病を持つ孫への感染も判明。孫は、大学2年生だ。持病がコロナに過剰に反応すると言われている。病院への入院が、空きがなくできなかった。看護師が常駐しているホテルへの隔離が決まった。長男は、症状が軽かったので自宅療養することになった。さあ大変だ。コロナは、いよいよ我が一族にも襲い掛かって来た。長女に長男と孫がコロナ感染したとの連絡メールを送った。中々返事が来ない。再度メールを送った。便りがないのは、良い便り、というが、今回はそう思うことができない。次から次と妄想が私を襲った。娘一家がコロナ感染して、メールに答えられない状態に置かれている。孫が重症で娘が付きっ切りで看病しているのでは。悪いように悪いようにと妄想が、私を引き込む。3回目の安否確認メールを送った。返事はない。ますます妄想が膨らむ。夫婦喧嘩でもしてどこかに隠れているのでは。会社で不倫とか使い込みとか横領とかをしでかしたのでは。妄想に歯止めがかからない。

  妻に相談した。「電話すればいいじゃない」 電話をかけることは、私がもっとも苦手なこと。口下手でもあり、電話の受話器を持つと、落ち着きを失い、シドロモドロになる。耳も悪いのか、相手の言ってることが聴き取れない。電話で直接娘から真実を知ることは、小心者の私には無理。そうこうしているうちに1週間が過ぎた。さすがに私も疲れてきた。覚悟した。妻に娘に電話をしてもらった。なんと娘が出た。会社にいた。娘はびっくりしたという。それはそうだろう、急に会社に電話がくれば、私に何かあったと思うのは、当たり前。妻が受話器を私に渡した。娘が無事であると知って、全身から力が抜けた。この1週間の妄想狂騒曲に振り回され続けた。案ずるより産むがやすし。帰宅した娘からメールが届いた。娘は、アメリカの会社の日本支社で働いている。このところ忙しくアメリカからの出張者の対応に明け暮れていたという。一家は無事。携帯電話をどうやらいくつも持っているらしい。一番連絡がつくアドレスを教えてくれた。  

  私は、小心者である。小心者は、妄想に囚われやすい。坐禅を2年間した後、禅の指導僧から掛け軸を贈られた。そこに『莫妄想』と書かれている。「妄想」とは、禅の世界では、考えや想いに囚われている状態のこと。この「妄想」は執着心とも言う。「妄想」の根源にあるものは何か?それは物事を対立的に考える事であり、比べること。美しい物、醜い物。良い物、悪い物。自分の中で勝手に決めつけ比べ、それをいつまでも失いたくないと思うこと。確かそう坐禅で教えられたはずだ。

  すでに75歳。坐禅をしていた時から45年以上過ぎた。いまだに妄想に振り回されている。何も悟っていない。コロナも恐いが、こんな自分も恐い。


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待つのが仕事

2022年12月09日 | Weblog

  2ヶ月前に、右脚のふくらはぎ痛くなった。夜ベッドに入って脚をベッドに接すると痛みが激しくなった。良く眠れなくなった。今年の夏、右脚の動脈硬化でカテーテル施術を受けた。おそらくカテーテル施術の影響であろうと思い、施術を受けた病院へ行った。医師の診断は、カテーテル施術とは関係がないだった。その後も脚の痛みは消えなかった。

  近くの病院の整形外科で診てもらうことにした。初診の受付をして待った。待合室には、数百人が待っていた。3時間36分待ってやっと診察室に入ることができた。私の話を聞いた医師は、レントゲン検査をすると言った。レントゲンを撮った。待合室で20分待った。診断は、異常なしだった。医師曰く「歳をとるとあちこち痛くなるものです。骨の癌の可能性もあると思いましたが、それはありませんでした。時間が経つと消えるでしょう。」 この診断が出るのに、4時間以上かかったが、それでも一安心できた。

  病院へ行くと日本人は実に辛抱強いと思う。カナダで何回か病院にかかった。予約時間が守られていた。診察時間は5分を基本としていて、それ以上になると1分刻みで加算されると聞いた。日本でなぜそれができずに、患者は、ただひたすら待たなければならないのか分からない。日本の健康保険制度で患者が病院に行きやすいのも事実だが、何かもっと待たせられない方法はないのか。外国でできるなら日本でもできる気がするのだが。

  待つのは、病院だけではない。最近JRの列車の遅れがひどい。普段、私はほとんど家に籠っている。毎日、妻の送り迎えをする。5時から6時の間のメールは、ほとんどが列車遅延で駅到着時間の変更である。私は、夕飯の支度で調理中の事が多い。温かいモノを温かいままを心掛けている。時々この気持ちが、メールによって振り回される。

  12月8日、11時40分の予約で、糖尿病の定期健診に東京の病院へ行った。途中からどこどこで人身事故が発生したので、この列車にも遅れ、もしくは運行中止になる可能性もある、というアナウンスが繰り返し入った。結局電車は、品川で止まってしまった。「大変申し訳ございませんが、山手線への御乗り換えをお願いいたします」 私は、脚が悪い。階段はつらい。山手線に乗り換えた。すし詰め。私は、他人と接触するのが苦手。病院へ行く駅に到着。降りるのも大変。やっとホームに出た。私が押し分けて直接触れた人の数は、コロナが始まって3年間で一番多かったであろう。

  病院へは、予約時間の3分前に到着した。診断結果は、変わりなし。良かった。一安心。気持ちよく帰りの電車に乗った。途中で降りて買い物をした。駅に戻った。何ということか。「今度の…時…発の電車は、…駅でドアの点検のため只今のところ50分遅れの見込みです。お急ぎのところ、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません」 結局1時間20分遅れになった。

  最近、歳の功か、待つことに腹が立たなくなった。待つのが当たり前に感じる。若い頃だったら、瞬間湯沸かし器のように湯気を立てて怒りくるったであろうことも、諦めの境地に達したようで、結構待てる。漢字パズルを携行して、待ち時間は、パズルに没頭している。頭の中では、あみんの「♪…私待つわ いつまでも待つわ…♪」が静かに響く。


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深夜のピンポーン

2022年12月07日 | Weblog

私は、このところ寝つきが悪い。隣の妻は、ベッドに入ると何かと話をしたがる。私は、睡眠時間にこだわる。毎日最低7時間寝なければ、体調というか頭が正常に働かない気がする。一方妻は、結婚前は、産婦人科でお産を担当していた。当直だと不眠不休で朝まで働き、続けて午前中外来診察、午後手術をしていたという。もともとナポレオンのように睡眠時間が短くても平気だったらしい。結婚当初、私はこの人いつ寝るの、と思った。私は、子どもの頃から寝るのが何よりの楽しみだった。睡眠時間は、長ければ長い程いい。そんな妻が最近は、ベッドに入って、話していたと思ったら、寝息をたてる。置いてきぼりにあった私は、たまったものではない。

 12月2日深夜、我が家の玄関チャイムが鳴った。目覚まし時計のボタンを押した。押すと文字盤の灯が点く。午前1時を過ぎている。私は、寝ぼけ眼。「オイオイ、こんな時間にピンポンダッシュかよ。勘弁してよ」と目を擦る。妻も起きる。こんな時、病院で当直医のように反応が素早い。ガバッとベッドを飛び出す。台所脇にある玄関呼び出しモニターに走った。会話が聞こえる。どうやらピンポンダッシュではなさそう。集合住宅の中の誰かが急病で妻を呼んだのか。妻が寝室に戻った。パジャマの上にガウンを羽織った。「302号室から救急車の要請が来たのだけれど、何度302号室を呼び出しても応答がないんだって。玄関を開けてくれと言っているから、行ってくるね」と言って部屋を出て行った。私は窓に行って外を見た。救急車が赤いライトを回転させながら玄関前に止まっていた。

 妻が玄関を出て、救急隊員と話している。そこへ頭にライトをつけた消防隊員が5人やって来た。消防車を近くの駐車場に止めて、歩いて来たらしい。これは大事だ。何が起きているのか。火事ではなさそう。では302のTさんが病気。Tさんは80歳以上でひとり暮らしである。

 前々回の集合住宅の総会でKさんが、ある提案をした。Kさんは、大変先見の明のある方だ。「ここにもひとり暮らしの方が多くなってきたので、いざという時のために、各部屋の鍵を一括管理したらどうだろう」 反対意見もあったが、ほぼ全員が管理会社経由で警備会社がいざという時、各家庭の鍵を使えるようになった。

 妻は、その鍵を使おうと考えた。しかし玄関が開き、302に急行した隊員は、302の玄関が開いていると下の隊員に報告してきた。下にいた隊員たちが、302に行った。

 救急車は、サイレンを鳴らさずに静かにTさんを搬送して行った。妻が戻って来た。エレベーターにストレッチャーが入らず、Tさんはシートにくるまれて、3人の隊員に持たれて玄関ホールに運ばれたそうだ。

 2日午後妻は出勤していたが、管理会社から電話が来た。Tさんの訃報だった。妻の携帯に連絡した。

 Kさんにもメールした。「あなたの総会での危惧が現実になりました。Tさんが昨夜亡くなりました。」 Kさんからの返事。「奥さまが外で救急隊員と話していたので、てっきりあなたが搬送されたのかと心配していました。Tさん残念です」 そうだ。いつ私がTさんのようになるかわからない。そうなる前にやっておかなければならないことが山とある。

 夕方、買い物に行こうと駐車場に出た。Tさんが、最近買え替えたばかりの黒く光る車が止まっていた。合掌。


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ワールドカップサッカー

2022年12月05日 | Weblog

  ワールドカップサッカーの中継や報道が始まってから、毎日、私たち夫婦は、かつてお互いが暮らした国の名を耳にするようになった。試合を実況ライブで観ることはできない。しかし今は本当に便利な時代である。YouTubeでハイライトをいつでも好きな時に観られる。私は、日本、カナダ、アメリカ、セネガル、セルビア、クロアチア、チュニジアで暮らしたことがある。妻は、日本の大学を卒業してからオーストラリア、英国へ留学して、その後ネパール、セネガル、セルビア、クロアチア、チュニジア、ロシアに仕事で赴任した。今回の32カ国出場中夫婦で9か国に暮らしていたことになる。何か凄い数だと思ってしまう。

  住んだことのある国の試合のハイライトを観ると、その国で暮らした時の事を思い出す。選手の名前が画面に出ると、同じ名前の知人たちの事を思い出す。顔、姿で重なる知人たちもいた。観客席が映し出されると、暮らした国々で出会った市場や店や通りにいた人々と重なる。夫婦で9ヵ国ともなると、思い出も多い。試合そのものより、過去にその国で暮らした良いこと悪いことも出てくる。

  12月5日早朝イングランド対セネガルが対戦した。結果は、3対0でイングランドが勝った。セネガルに住んでいた時、海岸や砂漠のような砂地の空き地で子どもたちが、サッカーで遊んでいた。セネガルは、世界最貧国の一つである。今回のカタール大会の中継の冒頭に出てくる棒切れで組んだゴールが映し出される。セネガルで子どもたちが興じていたサッカーのゴールと似ている。ボールは、ちゃんとしたサッカーボールではなかった。ボロキレやビニールをヒモで巻いた物だった。砂地を走りまがい物のボールを蹴り、ゴールに砂煙を上げてシュートを打つ。今回出場したセネガル代表の選手の中にも、きっとそういう悪い環境の中から、代表になった選手もいるだろう。悪い環境の中、砂地で走り回ることで、体幹が鍛えられる。不出来な飛ばない、転がらない手製のボールを、長い期間使っていることによって、正式なサッカーボールを使えるようになった時、ずっと楽にボールをコントロールできるようになるであろう。セネガルの子どもたちは、サッカー選手になって外国のチームでプレイすれば、セネガルでは絶対得ることのできない富を手に入れることができることを知った。しかしそのような成功を手にできるのは、極々少数だ。夢を持つことは、素晴らしい。世界の貧しい国々の中から、サッカーなどのスポーツで活躍成功する選手が出てくることは、良いことだ。そして彼らが母国のためにその富を使って、発展につなげられればと願う。

  今回全試合を無料で配信したABEMAに感謝する。旧態依然で既得権益の巣窟の放送界が、絶対できないことをやってのけた。解説者に元日本代表の本田圭佑を選んだのも快挙だった。大相撲の解説を白鵬がするくらい聞きごたえがある。

  本田佳祐が言った。「サッカーは、人生そのものだ。人生のすべてがそこにある」「リスクのない人生なんて、逆にリスクだ。僕の人生なんてリスクそのものだ。」「ライバルに差を付けたいなら、環境を変えてほしい。なんだかんだ言っても、一度ぬるま湯に浸かってしまうと、なかなか抜け出せない。何か物足りないと思ったら、自分の知らない環境に飛び込んで行ってほしいと思う。」「日本でのヒーローはアイドルやバラエティー番組のタレントというかたちになっているけれど、そういうアイドル文化は、日本、厳密にいうと、アジア圏くらい。オレがいいたいのは、日本では日本の政治家がスターであるべきだていうこと……」 私が常日頃思っていることが多く含まれている。本田圭佑のような若い日本人がいることに希望を持つ。


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