団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ミサイルと地下街地下道

2017年04月27日 | Weblog

①    旧ユーゴスラビア ベオグラード 地下道

②    オーストリア ウイーン 地下道

③    日本 東京 上野駅 地下道

①    日本政府は、北朝鮮からのミサイル攻撃を想定して国民に注意喚起を発表した。その中で攻撃当初は屋内に避難し、その後は行政機関の指示に従って適切に避難するよう薦めている。具体的な避難場所としては「堅牢(けんろう)な建物」や「地下街」が挙げられている。私はベオグラードの地下道を思い出した。地下道や地下街には、独特のニオイがある。妻がアフリカのセネガルから旧ユーゴスラビアのベオグラードに転勤したのは、1997年だった。もうそのころ旧ユーゴスラビアは、世界から孤立していた。現在の北朝鮮と同じように経済封鎖も受けていた。1999年NATO軍の空爆が始まる直前、私たちはベオグラードから避難した。それから6か月間オーストリア、日本、クロアチアでの避難生活を続けた。ベオグラードの家は、ミサイル攻撃や空爆から無事だった。数百メートル離れた共産党本部のビルは、アメリカのクラスター爆弾によりビルの真上から20数階建てのビルを直撃してほぼ貫通していた。(写真参照)その他政府の主な庁舎や誤爆で中国大使館(写真参照)もミサイルの攻撃を受けた。現地の友人たちは、地下室をシェルターにして夜の爆撃をしのいだと話した。ミサイル攻撃、戦闘機による爆撃は、人々にとって悪夢であった。友人の一人は毎晩攻撃が始まると窓からミサイルが飛び込んでくる妄想に苦しめられ、脂汗をかいたと語った。私は、空爆が終わった後に帰って行った。ミサイル攻撃や空爆で破壊された建物を見て、やりきれない気持ちになった。私は地下街であろうが堅牢な建物であれ、決して安全な逃げ場所ではないと思う。人間が作ったものをわざわざ爆弾ミサイルで破壊するのは、愚かである。爆弾やミサイルは、私がベオグラードで見た限り、被害範囲は狭い。実際、旧ユーゴスラビアへのNATOの空爆とアメリカのミサイル攻撃での死者は、少なかった。旧ユーゴスラビアは核保有国ではなかった。北朝鮮は原爆を持つ。4月13日に広島へ行って来たばかりである。私は、原爆が投下されてから70年経っても広島に残る重苦しさをなぜか駅構内の地下道で強く感じた。人間の愚かさ罪深さに直面し、意味もなくその犠牲になった人々の無念さを想った。

②    ウイーンで定宿にしていた小さなホテルがある。このホテルはウイーンの繁華街から地下街を抜けて行くと近道だった。華やかなウイーンの街で買い物や食事をした後、ホテルに戻った。ホテルへの出口の脇に、麻薬常習者に清潔な注射器を配布する事務所があった。ベオグラードでは内戦、空爆。ウイーンでは麻薬。人間の業の深さを感じた。

③    初めて私が東京へ行ったのは、実母が死んだ後、東京の親戚に預けられた時だった。その時かどうか記憶は定かではない。上野駅の地下道で大勢のホームレスを見たのを覚えている。あれからすでに60年以上。日本は戦後奇跡的に復興できた。2度と地下街、地下道に人間が絶望し哀れな姿であふれるのを見たいとは思わない。

 日本政府はミサイル攻撃への国民保護とうたって注意喚起をした。でも私には、それはただの気休めにしか感じない。日本という国家が地球上のいかなる国からも攻撃されない、そんな存在価値のある国になって欲しい。私はそうなる一つは、カールビンソン空母打撃群級の日本病院船群を持ち世界に貢献することだと信じる。地下街や地下道は、避難のためにあるのではない。市民の生活の一部でだけであってほしい。


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ベェネッイアに住みたい

2017年04月25日 | Weblog

住みたいところ

①    イタリア ベネチア

②    アメリカ カルフォルニア州 アプトス

③    英国 ロンドン

①    数か月前、イタリア北東部ベネチアの観光名所「リアルト橋」の爆破を企てたとして、コソボ出身のイスラム過激派グループとみられる男4人が逮捕されたニュースを読んだ。リアルト橋を爆破など絶対に認めない、許さない。リアルト橋のすぐ近くには、私の愛してやまないレストラン『トスカーナ』がある。地球で最後の食事をどこでとりたい、と問われれば、迷うことなくベネチアの『トスカーナ』と答える。私が初めてベネチアを訪れた時の衝撃を忘れることができない。多くの国の都市あちこち訪れたが、あれほどの「ここに住みたい。こういうところで一生を終えたい」と強く思ったところはない。理由などない。輪廻を信じているわけではないが、前世ここにいたのではと感じたほどだった。生まれ故郷に戻って来たようにしっくりベネチアに溶け込めた。住む場所の満足度という統計で1.起伏のある町2.川の流れている町3.緑の多い町4.伝統ある町 というのがある。ベネチアは4にあてはまるぐらいだ。本来ベネチアは人が住めるようなところではなかった。そこを人の力であれだけの都市をつくりあげた。まずその事実に圧倒される。車社会の現代、ベネチアには車がない。交通手段は船。『ヴェネツィアと水』(ピエロ・ベヴィラックワ著 岩波書店 3100円+税)を読んでさらにベネチアへの想いを強くした。

②    私がカナダへ留学する際、保証人になってくれたのは、アメリカ人のネルソン夫妻だった。アメリカのシアトルで退職した後、世界一周の旅に出る。途中、軽井沢のアメリカ人キリスト教宣教師のもとで一年間奉仕活動をした。その時上田で英語と聖書を教えた。アメリカへ帰国すると、シアトルからカルフォルニアのアプトスへ移り住んだ。私がカナダにいた時、2回アプトスへネルソン一家を訪ねた。アプトスはサンフランシスコから1時間ほどの小さな町である。多くの退職者が移り住む。花が年中咲きハミングバードがいる。当時は年寄りが住む町と魅力を感じなかったが、古希を今年迎える私にもアプトスのような町に住みたいと思う。

③    英国のロンドンは、妻が私と結婚する前に1年間留学したところである。ロンドン大学の学生寮が満杯で入寮できなかった妻はハイドパーク近くの家賃20万のアパートを借りなければならなかった。学費が免除されたとはいえ、月20万の家賃は妻には大きな負担となった。私は食費を切り詰めてまで懸命に学ぶ妻を励ますためにロンドンへ行った。外国人、特に有色人種には冷たい町だった。生活費も高い。でもそれさえ気にしなければ、博物館が多く、何より園芸大国である。見るところはいくらでもある。当時、大英博物館は無料だった。妻と博物館、バラ園を巡った。遠距離恋愛は、二人をぐっと近づけた。苦しい寂しい期間だったが、確実に二人の関係を育ててくれた。妻というパートナーさえいてくれれば、英国人に相手にされなくてもロンドンという環境は心地よい。

 住めば都という。仕事でしかたなしに住めるのも若さがあればこそ。老いれば安心して機嫌よく住めるところを求める。旅の醍醐味は、現地に足を踏み入れ、私がここに住んだらどうだろうという空想である。終の棲家を拠点にして、日本47都道府県すべてへの旅も制覇できた。世界中の国をすべて訪れるのは、もうとうにあきらめた。あとは限りなく空想の世界に遊ぶのみ。そうできるのも日本が住みやすい国である証拠かもしれない。


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ネオレスト、ブラーバ、IH

2017年04月21日 | Weblog

①    TOTOウオシュレット ネオレスト

②    iRobot 床そうじロボット ブラーバ

③    IH調理器 パナソニック

①    海外での13年の生活を終わらせて帰国したのが2004年だった。それ以来ずっとウシュレットの世話になっている。ウオシュレットのせいで海外旅行が億劫になった。歳をとって時差は、大きな障害になっている。1,2週間の旅行だと時差ボケが直らないうちに帰国して帰宅しても1週間ほど正常の時間感覚を取り戻せない。苦痛この上ない。それも現在では、時差よりトイレのほうが問題である。日本以外でウオシュレットに遭遇したことはない。妻の海外赴任した国々は、インフラ整備に問題があるところばかりであった。たとえウオシュレットを持って行ったとしても、停電、断水、下水道整備なしで使い物にならないのは明白である。日本で快適なトイレを使用できるのは、災害時を除けば、安定したインフラがあるからこそである。感謝。ただ“乾燥”機能がトイレットペーパーを使わずに済むまでになっていないのが残念。この機能がトイレットペーパーを必要としなくなれば、環境面でも資源保護にもつながる。習慣を断ち切るのは、困難だが進展を願う。

②    終活を本格的に3年前から始めた。本の処分が一番の難関だった。次が写真。家具も整理した。おかげで家の中が広く感じられる。ベランダも片づけた。我が家は畳がなく全て床は木である。終活を始めてから掃除する面積が増えた。テレビでiRobotのルンバのコマーシャルを観た。しかし掃除機を買え変えたばかりだった。妻は「掃除はロボットより人間よ」と関心を示さなかった。パックツアーで念願だった福井県の永平寺へ2月に行った。冷え冷えとした永平寺の階段、廊下などどこもかしこもピカピカだった。修行僧たちが毎朝雑巾がけをするという。感化された。できることなら私も雑巾がけをして我が家をきれいにしたいと思った。テレビでiRobotが拭き掃除専門のブラーバを観た。私は「これだ!」と思った。妻に話した。即、却下された。「便利なものほど不便」が妻の口癖。思うところがあって、私は独断で購入した。久々の良い買い物だった。役に立つ。使える。終活のおかげでiRobotの邪魔になるモノが少ない。どんなに寒くても黙々と拭き掃除をしてくれる。永平寺の廊下ほどではないが、我が家の板の間にもテカリが出てきた。凄いものを製品化したものである。

③    私は調理には、ガスが一番良い熱源だと今でも信じている。しかし私が住む集合住宅は、火災防止の観点からオール電化になっている。歳をとると忘れっぽくなる。ガス台で調理中、他のことをやっていて火事になりそうになったことは多々あった。今ではIH調理台のおかげで、吹きこぼれれば自動で電源が切れ、一定時間以上調理していればいたで電源が切れる。ガスより味やデキバイは劣るが、老人には優しい器具である。欠点を承知の上で料理を楽しんでいる。

 先日ラジオニッポン放送の『朝ラジ』で高島ひでたけアナウンサーが「今は誰もが殿様お姫様のような便利な生活をしている」と言った。そのとおり。環境は確かに便利になったが、相も変わらず人間は、愚かさを克服できていない。殺人、詐欺、強盗事件。全てが小さい嘘から始まっているように思えて仕方がない。嘘を防ぐには、規則正しい生活をして、清潔な環境に住み、美味しいものを食べる、に夢中になっていることではないかと私は思うが。


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中条あやみ(dポイント)本田翼(C1000)剛力彩芽(積水ハウス)

2017年04月19日 | Weblog

①    アマゾン ライオン フラフープ 最近

②    ナショナル トランジスタ テープレコーダー 1961年放送

③    剛力彩芽(積水ハウス)本田翼(C1000)中条あやみ(dポイント)

①    テレビのコマーシャルの劣化が止まらない。それとは逆にコマーシャルの時間が増えている。まだテレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器の時代は、テレビをはじめとするコマーシャルに夢があった。私が歳をとったせいか欲しいモノがなくなり、コマーシャルは邪魔なものでしかなくなった。だからなるべくコマーシャルのないNHKのテレビ放送を観る。コマーシャルがないということは、こんなにも気分が良いのだと嬉しくなる。テレビのコマーシャルが嫌なのでラジオを聴く。ラジオはラジオで明けても暮れても『過払い金』の司法書士事務所のコマーシャルばかりになった。4月に入ってやっとあのほとんどの番組を買い取ったのではと思われた司法事務所がきれいさっぱりコマーシャルを止めた。すわ旅行社の“てるみくらぶ”の二の舞かと思ったら、また新たな司法事務所のコマーシャルが始まった。しかし本数は以前の司法事務所よりずっと少なくなった。私は自分の経験からも宣伝費が会社経営を圧迫して、しまいには宣伝費で“てるみくらぶ”のように倒産する危険がありうると身に染みて理解できる。宣伝費は、それほど経営を左右するものなのだ。そうはいってもコマーシャルの中には、優れたショートストリーのようなものもある。昔からテレビで3D(Doctor 医師,Dog 犬,Detective 探偵)を扱えば、ある程度の視聴率を稼げるといわれている。アマゾンのライオンのぬいぐるみと遊ぶ赤ちゃんに近づく犬が赤ちゃんに恐がられて泣かれる。それを見ていた親が、アマゾンにライオンのたてがみを注文する。さらに最近では馬とポニーを使ってフラフープ編が秀作である。馬とポニーの名演は、人間を超えている。

②    私が中学生の時、テレビのコマーシャルでナショナルのトランジスタ テープレコーダーを見た。欲しくなった。そこで私は月1000円ちょっとの新聞配達を始めた。そして遂にそのテープレコーダーを手に入れた。あのコマーシャルを観なかったら、私は新聞配達を経験しなかった。テープレコーダーを自分の金で買うこともなかった。あのコマーシャルは高校生で私が英語をもっと学びたくてカナダへ留学する大きなきっかけとなった。

③    テレビのコマーシャルに選ばれて出演して好評だと芸能界デビューへの足掛かりになるようだ。積水ハウス 3階建てシリーズの剛力彩芽さん。ハウスウエルスフーズ C1000 駅のホーム編の本田翼さん。NTTドコモdポイントの中条あやみさん。私がそれらのコマーシャルを観た時、もしかしたらこの人たち活躍するかもと感じた。やはり売れてきた。それはそれで無名だった人への登竜門となり、親の七光りばかり目立つ世襲化している芸能界へ新しい風を吹きこんでくれるだろう。毎日これでもかと執拗に流されるコマーシャル。また観たいと思えるものが少ない。だからこそ秀作は、売る上げを伸ばし、企業名を知らしめられる。私が69年間の人生をかけて学んだことは、たやすく私は宣伝に踊らされるタイプで、自分は買わされる天才であっても、商売として何かを売ることがまずできない鈍才だということである。

2016年度のコマーシャル好感度ランキングが発表された。
【2016年度企業別CM好感度TOP10】
順位(前年) 企業名:代表銘柄名/代表作品名
1(1) KDDI:au/三太郎シリーズ 秋のトビラ・三太郎の出会い
2(2) ソフトバンク:Softbank/SUPER STUDENT 転校生
3(3) 日本コカ・コーラ:ジョージア/おつかれ、俺たち
4(9) NTTドコモ:NTT docomo/得ダネを追え!はじめてスマホ割
5(5) 花王:アタックシリーズ/30歳の挑戦
6(171) アマゾンジャパン:Amazonプライム/ライオン
7(6) 日清食品:カップヌードル/OBAKA’s大学 テラ幸子
8(4) サントリー食品インターナショナル:ボス/おまわりさん
9(7) P&G:ファブリーズ/布だったんだ
10(10) リクルート:タウンワーク/コーヒーショップ


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新幹線 弾丸列車 Bullet Train

2017年04月17日 | Weblog

 

①    秋田新幹線 『こまち』

②    カナダ ディーゼル機関車 エドモントン―カルガリー

③    旧信越線 夜行列車 『妙高』

①    ③子供の頃から列車が好きだった。小学生の時、時間さえあれば国鉄の上田駅へ行って、改札口から列車を見ていた。駅員と顔見知りになるほどだった。図画の授業で上田駅へクラス全員で行って写生をしたことがある。その時、私は下りホームと上りホームをつなぐ陸橋を描いた。その画が市の展覧会で賞をもらったことを覚えている。いまだに覚えているのは、よほど嬉しかったからに違いない。時代は変わった。今や上田にも新幹線が走る。昔、父が東京へ用事で行くとき連れて行ってもらった。上田を夜の11時ころ出て東京に朝の6時ころ着いた記憶がある。夜行列車だった。何と7時間以上もかかった。現在、北陸新幹線なら東京から1時間15分ほどで到着してしまう。鉄道の進歩は、まさに日本の発展の象徴のようである。

先週末、広島へ妻の用事で行って来た。名古屋で『ひかり』から『のぞみ』に乗り換えた。東海道新幹線の列車は、実用第一で華のない外見だが、やはり新幹線である。在来線では決してあじわうことができない推進力と安定性が私を魅了した。できれば私が新幹線で一番好きな秋田新幹線の『こまち』の真っ赤で先端が長い列車が走ればと願っている。

②    カナダの学校にいた私は、エドモントンの日本総領事館から日本紹介の映画を学校や教会で上映することを依頼された。まだメイド イン ジャパン=粗悪品のイメージが強かった。同じ学校の生徒は、日本の新幹線紹介の映画を観て、「特殊撮影だろ」と言った。学校の休みに都会のカルガリーの映画館へ友人3人と列車で行くことになった。4人で話し込んでいると、車掌が来て「日本人?そうなら運転手が君に運転席に来て欲しいと言っている」と言った。心配する友人を残して車掌に案内されて、客車に連結された貨物車の中を通り過ぎて運転室に入った。運転手が「ゴメン、びっくりした?私の奥さんは日本人です」と日本語で言った。家族のことを話し奥さんの写真と子供の写真まで見せてくれた。持っていた緑色の海苔を巻いたオムスビ1個とタクアンまでいただいた。汽笛を鳴らせと何度も「ボーボーッ」とヒモを引っ張らせてくれた。彼はいつか奥さんと一緒に日本へ行って、日本の弾丸列車に乗ってみたいとも言った。彼の名前も思い出せないが、きっと彼は奥さんと新幹線に乗ったと信じたい。でかい3両編成のディーゼル機関車は、カナダの大平原を新幹線に負けないくらい力強く走った。夢のような時間だった。


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オーバーブッキング引きずり降ろしと日本人は乗せない

2017年04月13日 | Weblog

 

①  スイス航空 東京―ジョネーブ―ダカール

②  オーストリア航空 東京―ウイーン―ベオグラード

③  タイ航空 東京―バンコック―カトマンズ

①  飛行機に初めて乗ったのは、カナダへ留学する時だった。羽田からカナディアン・パシフィック航空のバンクーバー行きに乗った。緊張していた。一睡もせずにバンクーバーに到着。バンクーバーからカルガリー行きに乗り換えた。すでに出発しようとしていたプロペラ機が私のために引き返して私を乗せてくれた。飛行機会社のサービスがどうのこうの言える段階ではなかった。何も知らない日本からの高校生は、緊張と恐怖で固まっていた。あれから50年以上が過ぎた。飛行機にどれだけ乗ったか思い出すことはできない。再婚した妻の海外勤務に同行した。数多くの飛行機会社の便を利用した。アフリカのセネガルに住んだ時は、スイス航空を利用した。スイス航空は2002年に残念ながら倒産してしまった。一時は世界で最も信頼できる航空会社とまで言われた。『空飛ぶ銀行』と呼ばれるほどの堅実経営を誇っていた。機内食も素晴らしかった。かつてのスイス航空と現存するスイス航空という会社は、まったく別である

②  スイス航空の次に良かったのが、オーストリア航空だった。機内食はスイス航空には及ばなかった。何が気に入ったかというと、ファーストクラスがなかったことだ。これは非常に珍しいことで、機内の雰囲気が和らいだ。安全運航にも徹していた。

③  アジア人として差別を受けないで気分よく旅できたのは、タイ航空である。欧米の飛行機会社の便では、嫌なことを数多く経験した。タイ航空でその経験はなかった。シカゴのオヘア国際空港で4月9日、ケンタッキー州ルイビル行きのユナイテッド航空3411便の機内で、オーバーブッキングにより飛行機から降りるよう求められた男性が拒否すると、警察官が無理やり引きずり出した。この顛末の動画がネットで配信された。事の詳細は、不明だがネットでは、飛行機から降りるように求められたのは、アジア系だったという。動画の引きずり降ろされた客の顔はぼかされていたのでアジア系だったか私にもわからなかった。悲しいことだが、自由の国移民の国のアメリカでもまだ人種差別は現存する。この事件を知った時、私は拙著『ニッポン人?!』に書いた「日本人は乗せない」を思い出した。50年経っても人間の意識は変わっていない。抜粋させていただく。

『ニッポン人?!』第2章71ページ~75ページ「日本人は乗せない」

 カナダのアルバータ州の学校でクリスマス休暇を迎えた私は、アメリカ東部へ同じ学校の学生の車で旅行した。ペンシルバニア州の友人を訪ねるためだった。その車の所有者は結婚している学生だった。この学生がペンシルバニア州のピッツバーグまでの同行者を学校の掲示板で募集した。私が留学していた学校はカナダだけでなくアメリカ、オーストラリアなどからも大勢の生徒が来ていた。クリスマス休暇や夏休みの時、よくこうしてガソリン代を割り勘で払う同行者を募集していた。

 カナダから国境を越え、アメリカのノースダコタ州に入った。同乗者は男4名女1名。私以外の男3名が24時間運転を代わりながら冬のハイウエイを突っ走った。途中山の中で鹿に激突した。それでも何とか予定通りオハイオ州まで到達した。ところが大雪で道路が閉鎖されてしまった。車の所有者以外は飛行機でそれぞれの目的地に行くことになった。名も知らない小さな飛行場で私ひとり降ろされた。飛行場は大雪で車やバスから急遽飛行機に変えた人びとで混雑していた。チケットを買うためにカウンターに並んだ。私の順番が来て、若い男性社員が私に応対した。「日本人?」と聞かれた。「はい、そうです」と答えた。「日本人は乗せない」と彼は冷たく言い放った。すでにカナダの学校から40時間以上狭い車の中に押し込まれていた。睡眠不足と疲れで頭がボーッとしていた。英語も完璧ではなかった。しかし自分が大変な状況に面していることはわかった。助けを求めるようにまわりの人びとに目を向けた。みな無視するように目をそらした。私は「理由を教えてください」と彼に言った。「私の父親は日本人に殺された」と彼は私をにらみつけて言った。「次の方どうぞ」と私の後ろに並んでいた黒人の紳士に言葉をかけた。紳士は黙って私の前に立った。

 私をフィラデルフィアの友人家族は一緒にクリスマスを迎えるために待っている。まだ戦争が重く人びとの心に影を落としている。私は小さな飛行場のホールの中で途方にくれていた。空いていたベンチに腰をおろした。隣に日本人と思われる老人が座っていた。「日本からですか?」と日本語で声をかけられた。こんな時日本語は砂漠で渇いたのどに冷たい水が通るように心にやさしく染みとおる。「はい。今カナダで勉強しています」「大雪で大変ですね。何時の飛行機ですか?」 私はさっきカウンターで起こったことを老人に話した。彼は「一緒に来なさい」と彼は歩き始めた。身長は低いが姿勢よく私の前を行く。カウンターでなく彼は航空会社の事務所に入って行った。彼は航空会社の責任ある人に事の一部始終をきれいな英語で説明してくれた。女性が呼ばれた。彼女が私の切符を手配してくれた。老人は会社の人と固く握手した。老人は私を搭乗口まで連れてきた。握手を求めて「私たちは戦争を5年すれば、その後始末に100年かかります。こんなことに負けちゃいけない。体に気をつけて勉強しなさい。さようなら」 彼はくるっと向きを変え、もといたベンチに歩いていった。そこに彼の奥さんと思われる白人の女性がやさしく微笑んでいた。私はその老人の名前も住所も知らない。けれど私の心から彼のことが消えることはない。

 


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時間持ちのkilling time

2017年04月11日 | Weblog

①    空想 迷想 邪想

②    料理

③    物書き

①    70歳を迎える私に正直時間がありすぎる。仕事をしていたころは、仕事をすることが暇つぶしだった。英語で暇つぶしをkilling timeと言う。何だか恐ろしい気もするが、よく考えれば言い得て妙である。やらなければならないことはいくらでもある。終活の第一段階として持ち物の整理は半分以上なし終えた。第二段階は先延ばししては、逃げている。そう言いながら「やることがない」と嘆く。一番逃げ込むのは読書、テレビ、映画で空想、迷想、邪想の世界だ。妻は私よりひと回り若く、まだ働いている。駅へ毎朝7時の電車に乗れるよう送れば、午後6時に迎えに行くまで家に私は一人でいる。できるだけ毎日同じパターンで過ごそうとする。努力はするが、何かきっかけができると現実から飛んでしまう。以前小説の登場人物やテレビ映画の役者や俳優を羨ましく思った。彼らはいろいろな役になって演技する。役が変わるたびに、セリフを覚え、違う職業、人格を演じる。良く考えてみるとそれを読み、観ている私も実はそのたびに違った世界に入り込んでいる。若かった時は、それぞれの世界に没頭して楽しめた。今は違う。70年生きて経験したあの時、あの事、あの人を本、テレビドラマ、映画の場面ごとにあてはめて思いにふけっている。これではいけないと散歩に出る。散歩で自然の中に一時的に溶け込める。道路を歩いていて、邪魔だと車にクラクションを鳴らされれば、それも儚く消える。現実の世界で私は、金持ちにはなれなかったけれど時間持ちだと自分に言い聞かせる。

②    ご馳走という表現が好きだ。料理は台所だけで完結することではない。私は月数回、客人を招いて我が家でご馳走する。誰を招くかによって献立が変わる。献立を決めたら食材を求める。東京の築地、麻布十番の日進、横浜そごうへ出かけることもある。それでも食材がそろわなければ、今はネットで取り寄せができる。イタリアの生のポルチーニでもアメリカ東海岸の生きたロブスターでもスコットランドのサーモンでも手に入れられる。私は料理でご馳走する。客人は私たちに話でご馳走してくれる。以前のように一度に数十人を招くことはできない。元気なうちは4人から10人を招きたい。準備は10日ほど前から始まる。献立を決め、食材を集める。サーモンマリネは24時間かかかる。ローストビーフのソースは3日かかる。Killing timeにこの期間は用がない。客人に喜んでもらえれば、どんな苦労も報われる。私の周りにいてくれる友は、ご馳走の意味をよく理解してくれている。歳には勝てない。設宴が終わると数日放心状態になる。

③    物書きは①の空想、迷想、邪想を文字に置き換えているだけのことだ。パソコンで好きなように書き込んでいる。数分前にちゃんと頭に浮かんだ言葉でもあっという間に消える。物を書くことは、忘却とのし烈な闘いである。物書きの合間に最近ではクロスワードで私の脳を覚醒させようと努めている。小学生レベルであってもなかなか手ごわい。

 昨夜、テレビを観ていて、妻の質問に答えようとした。アメリカのモルモン教についてだった。モルモンと言う言葉がどうしても出てこない。私は考えた。最初の“モ”さえ出ない。私の脳は“マ”で探そうとしていた。出ない。悲しくなった。5分くらいたって妻が「モルモン?」と発した。そう「モルモン」。“マ”ではない“モ”だったのだ。でも考えた。老化って最高のkilling timeではないかと。


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桜の花見と暁斎展

2017年04月07日 | Weblog

①    高田城 新潟県上越市

②    上田城 長野県上田市

③    アインドラハム チュニジア  

①    私が4歳だった3月6日に母が死んだ。しばらく私は母の妹が嫁いだ新潟県の直江津の親戚に預けられた。当時の思い出はあまりない。鮮明に覚えているのは、高田の花見に連れて行ってもらったこと。桜の名所は、日本各地にある。どこも見事だ。桜は一本だけで咲いていても美しい。4歳の私は、高田の桜、何千本もの桜が一斉に咲いている光景に圧倒された。ともすれば母を亡くした悲しみに打ちひしがれていた私を別の世界へ招き入れてくれた。満開の桜は、無条件に私を受け入れ、包み込んだ。あの高田の桜は、私の心に焼き付いた。

4月5日水曜日、友人夫妻に招かれて渋谷東急文化村のザ・ミュージアムで開かれているゴールドマン コレクション『これぞ暁斎!』を観た。素晴らしかった。こうした日本の美術品が外国の収集家の手に渡ってしまっているこがさみしいと思った。平日にもかかわらず、多くの人が観に来ていた。ただ展示法に問題があり、観覧順序がはっきりせず、逆行するは割り込みする人が多く不愉快な思いをした。美術鑑賞にわざわざ展覧会に出かけて来るほどの人達なのだから美術品に負けない品行を示して欲しい。

暁斎展の後、歩いて代々木公園の花見に連れて行ってもらった。たくさんの人々がそれぞれに桜を愛でていた。私は多くの外国人観光客がカメラ片手に嬉々として桜を背景に写真を撮っているのを見て嬉しかった。この桜の写真はやがて世界中に拡散して彼らの家族親戚友人知人に彼らの感想とともに伝えられるに違いない。キリスト教徒もイスラム教徒も仏教徒も宗教、イデオロギー、文化すべてを飛び越えて桜は人をひとつにしてくれる。

②    上田で育った私は、春になると上田公園の堀の周りをぐるりの取り巻く桜が満開になるのを多くの人々とは、違った角度から楽しんだ。小学生だった私は、堀での釣りに夢中になっていた。狙うはただ一匹、堀の主と呼ばれていた体長1メートルを超す大きな鯉。堀の周りの桜は枝をぐっと堀の水面に近づけ垂れ下がる。堀の水面から土手の上までは、7,8メートルあった。4月下旬ともなれば、水もぬるむ。堀の下から見る満開の桜、それを見て歩く大勢の人。釣れるはずもない大鯉を釣ろうとしていた私。

③    海外に暮らして4月になると桜の花見が無性に恋しくなった。日本は海外にも桜を寄贈し続けて親善に役立てている。アメリカのワシントンD.Cの桜は有名である。私が3年間暮らした北アフリカのチュニジアにも日本は桜並木を贈っていた。そこはアルジェリア国境近い標高800メートルを超す高原で桜には適している。アインドラハムの桜は、日本の桜と咲く時期がずれるが、それでも海外で日本の桜を見られるのは嬉しいものだ。

 家の前の桜並木も満開である。あいにく今朝は雨が降っている。それでも窓から桜が見える。日本に帰国したので、一年に一回必ず桜を見ることができる。桜はあっという間に散る。すると私はまた来年も、と活力が湧く。

 


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鯛やヒラメの舞い踊り

2017年04月05日 | Weblog

 

①    甘鯛

②    サンマ

③    オヒョウ

①    魚が子供の頃から好きだった。海のない、海から遠い山の中に生まれて育った。父親の影響で魚獲りについて行った。田んぼの小川でフナやドジョウを獲った。ケイサンという道具を使った。棒枠の楕円形を半分にして底が平で枠全体に網が補虫網のように付けられている。父は小川の下流でケイサンを川幅いっぱいに置ける所に刺すようにして待つ。私は注意深く小さな足で魚がいそうな川淵をかき回す。父が待ち受けるケイサンに達する。父がケイサンを引き上げる。中にはピチピチと跳ね銀色に光るフナがたくさん獲れた。そのフナは父が器用にさばいて甘辛く煮た。戦後の貧しい食料難の時期、貴重な蛋白源だった。嫌いな魚はない。京都でグジと呼ばれる魚を初めて食べた。こんなに美味な魚があったのかと感動した。グジは甘鯛のことだ。それ以来、甘鯛が魚好きの私の一番になった。塩焼きがいい。それは今も変わらない。

②    サンマは子供の頃貧しい海なし県の家庭でも買える数少ない魚だった。サバとサンマはその旬にだけ安く手に入った。私はサバも好きだが、サンマが好きだった。サバもサンマもウロコがない。サンマの刀のような形が気に入った。身と骨が簡単に外せて子供でも食べやすい。サンマをきれいに食べると母親が褒めてくれた。豚も褒めれば木に登る、ではないけれど褒められることが少なかった私はとても嬉しかった。給食が都合で出ない時、家から弁当を持って行った日があった。サンマの季節、母親は自分のサンマを夜食べずに私の弁当にきれいに骨を取ってご飯の上に入れてくれた。サンマはご飯の中にめり込んでいた。その弁当の旨かったこと。

③    シアトルの私の長女を預かって育ててくれた先輩夫婦は、私が訪ねると冷凍してあったオヒョウを料理してもてなしてくれた。オヒョウはアラスカで多く獲れる。釣り好きだった開高健がアラスカへオヒョウを釣った写真集を見た。大きなモノは4メートルを超すという。カレイのなかまになる。シアトルの先輩夫婦には5人の子供がいる。大学生になると子供はアラスカの鮭のイクラ工場へアルバイトに出かけた。大学の学費は全員がすべてこのアルバイトで稼いだ。そこで大量のオヒョウの切り身を買ってシアトルに戻って来た。私が好きだと言うので毎回必ず取っておいてくれた。私が好きだからといって、わざわざいつ来るかもしれない私のために冷凍しておいてくれる気遣いが、オヒョウの味を更に旨くした。

 私は魚が好きだ。煮ても焼いても刺身でも。魚屋に買い物に行くのは、私の楽しみである。毎日、新鮮な魚を買って食べる。我が家はカワウソ亭と私たちによって命名された。それでも最近日本人は魚を食べなくなってきている。多くが肉の方が魚より好きだという。それなのに地元の魚屋にはこんな小さな魚まで売るの、と思う小型の魚が多い。獲りすぎなのと近隣諸国の魚消費が増えてきているのが原因だ。日本でも何か手を打たなければならない。魚の種類別に隔年で漁獲制限をすることを提案する。ウナギもクロマグロも食べられなくなるより、一年我慢するほうがましである。こんな旨いモノは、ぜひ次世代にも味わってもらいたい。体重ダイエットもいいが、漁獲ダイエットも必要だ。くれぐれも飽食による魚資源の喪失は、防がねばならない。


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調理家電製品

2017年04月03日 | Weblog

①    ディロンギ オーブントースター イタリア

②    サンヨー クッカー炊飯器 日本

③    バーミキュラ ライスポット 日本

①    最近、炊飯器やトースターなどの調理家電の新製品が多く発表される。その値段も驚くほど高額である。私が一番気に入って使っている家電製品はディロンギのオーブントースターだ。ディロンギはイタリアの家電メーカーである。出会いは本に紹介されていたからだった。本とは『丸元淑生のからだにやさしい料理ブック 家庭の魚料理』(講談社 1800円 税別)のこと。料理レシピ本の中で好きな一冊でよく使う。我が家は「カワウソ亭」と呼ぶほど、魚料理が多い。私が糖尿病なので、できるだけタンパク質は魚からとるようにしている。最初のディロンギのオーブントースターは、日本でカタログハウス社から購入した。丸元淑生がディロンギを勧めたのは、❶小型である❷コンベンション機能❸2万円台で買える という3つの理由から。ディロンギに出会うまで私は、オーブンは、欧米並みの本格的大型ガスオーブンこそ調理に最適だと信じていた。再婚して妻の海外赴任に同行することになって1993年に最初の赴任地ネパールのカトマンズに暮らした。ここでは家電製品を持っていても電気が頻繁に停電して使い物にならなかった。プロパンガス用のガステーブルと私が理想とした大型ガスオーブンに頼った。しかしプロパンガスさえインドからの供給が止まって買えないこともあった。そんな事態で活躍したのは、日本から持って行った炭を使う七輪だった。ディロンギは次の任地セネガルのダカールからだった。ネパールと違ってセネガルは、良い魚を市場で買うことができた。2000年に帰国休暇で日本に戻った時、第一号のディロンギのオーブントースターを買った。このオーブントースターを海外で使うためには変圧器が必要だった。セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシア、そして帰国した後の日本ですでにディロンギのオーブントースターは9台使ってきた。2年前に大型のパンを自動で焼ける型を買ったが、やはり私には従来型のものが一番使い勝手が良い。この製品を作る側が、使う側のことを真剣に考えてくれているとちゃんと伝わってくるようで嬉しい。これからもディロンギのオーブントースターは、私の最高の調理パートナーである。

②    サンヨーのクッカー炊飯器は、炊飯器としてよりもクッカーとして抜群の使い勝手だった。スープや煮込み料理の材料を入れ、出来上がり時間をセットする。煮込み料理は好きだが、ひとつのことに集中できない私は、同時進行であれこれ手を出す。結果鍋で煮込み料理をしているのを忘れて鍋を焦がす。今までに何度こういう失敗を繰り返してきたことか。しかしサンヨーのクッカーを使うようになってこの失敗はなくなった。残念なことにサンヨーは中国の会社に買収されてしまい、クッカーも製造されなくなった。私のクッカーも使いすぎで壊れてしまった。同じようなクッカーを見つけられない。

③    バーミキュラの ライスポットを今年の2月から使っている。使い方は複雑で鍋の蓋の縁が鋭く手を痛めるが、このポットで作るローストビーフが美味いので我慢して使っている。本来の炊飯器としても客が来ると白米を炊くが、普段は玄米なので今までの炊飯器を使っている。確かに白米は美味く炊ける。料理は調理温度と調理時間のかげんがものをいう。素人の私には、強い見方ができた。

 便利で機能が優れた家電製品が次々から次へと発表発売される。いつも、作っている人たちは、自分で料理をしているのだろうかという疑問をいだく。なぜなら機能やスタイルにばかり気を使い、使う人の身になっていない欠点がある。文句を言いながらも、この調理分野にも新しい技術で改革が進んでいることは歓迎する。私はどんなに技術革新が進んでも、より良い食材を求めて駆け回り、その食材をいかす料理をして、一緒に食べることは、これからも変わることはないと信じる。良い食材、優れた調理器具道具、食べる人たちに喜んでもらいたいと思う気配りで料理はが出来上がる。私はこれからも、そのためにできる精進をしていきたい。


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