団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

ミサイルと地下街地下道

2017年04月27日 | Weblog

①    旧ユーゴスラビア ベオグラード 地下道

②    オーストリア ウイーン 地下道

③    日本 東京 上野駅 地下道

①    日本政府は、北朝鮮からのミサイル攻撃を想定して国民に注意喚起を発表した。その中で攻撃当初は屋内に避難し、その後は行政機関の指示に従って適切に避難するよう薦めている。具体的な避難場所としては「堅牢(けんろう)な建物」や「地下街」が挙げられている。私はベオグラードの地下道を思い出した。地下道や地下街には、独特のニオイがある。妻がアフリカのセネガルから旧ユーゴスラビアのベオグラードに転勤したのは、1997年だった。もうそのころ旧ユーゴスラビアは、世界から孤立していた。現在の北朝鮮と同じように経済封鎖も受けていた。1999年NATO軍の空爆が始まる直前、私たちはベオグラードから避難した。それから6か月間オーストリア、日本、クロアチアでの避難生活を続けた。ベオグラードの家は、ミサイル攻撃や空爆から無事だった。数百メートル離れた共産党本部のビルは、アメリカのクラスター爆弾によりビルの真上から20数階建てのビルを直撃してほぼ貫通していた。(写真参照)その他政府の主な庁舎や誤爆で中国大使館(写真参照)もミサイルの攻撃を受けた。現地の友人たちは、地下室をシェルターにして夜の爆撃をしのいだと話した。ミサイル攻撃、戦闘機による爆撃は、人々にとって悪夢であった。友人の一人は毎晩攻撃が始まると窓からミサイルが飛び込んでくる妄想に苦しめられ、脂汗をかいたと語った。私は、空爆が終わった後に帰って行った。ミサイル攻撃や空爆で破壊された建物を見て、やりきれない気持ちになった。私は地下街であろうが堅牢な建物であれ、決して安全な逃げ場所ではないと思う。人間が作ったものをわざわざ爆弾ミサイルで破壊するのは、愚かである。爆弾やミサイルは、私がベオグラードで見た限り、被害範囲は狭い。実際、旧ユーゴスラビアへのNATOの空爆とアメリカのミサイル攻撃での死者は、少なかった。旧ユーゴスラビアは核保有国ではなかった。北朝鮮は原爆を持つ。4月13日に広島へ行って来たばかりである。私は、原爆が投下されてから70年経っても広島に残る重苦しさをなぜか駅構内の地下道で強く感じた。人間の愚かさ罪深さに直面し、意味もなくその犠牲になった人々の無念さを想った。

②    ウイーンで定宿にしていた小さなホテルがある。このホテルはウイーンの繁華街から地下街を抜けて行くと近道だった。華やかなウイーンの街で買い物や食事をした後、ホテルに戻った。ホテルへの出口の脇に、麻薬常習者に清潔な注射器を配布する事務所があった。ベオグラードでは内戦、空爆。ウイーンでは麻薬。人間の業の深さを感じた。

③    初めて私が東京へ行ったのは、実母が死んだ後、東京の親戚に預けられた時だった。その時かどうか記憶は定かではない。上野駅の地下道で大勢のホームレスを見たのを覚えている。あれからすでに60年以上。日本は戦後奇跡的に復興できた。2度と地下街、地下道に人間が絶望し哀れな姿であふれるのを見たいとは思わない。

 日本政府はミサイル攻撃への国民保護とうたって注意喚起をした。でも私には、それはただの気休めにしか感じない。日本という国家が地球上のいかなる国からも攻撃されない、そんな存在価値のある国になって欲しい。私はそうなる一つは、カールビンソン空母打撃群級の日本病院船群を持ち世界に貢献することだと信じる。地下街や地下道は、避難のためにあるのではない。市民の生活の一部でだけであってほしい。

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