団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

プルプル・プルンプルン

2024年05月27日 | Weblog

  子供の頃からプルプルな食感が好きだった。生みの母が亡くなって、しばらく新潟県直江津の母の妹の嫁ぎ先で育てられた。叔母は、小さな食料品店をやっていた。夏になると、一斗缶の水の中に入っている羊羹のような棒状のプルンプルンなものを、客が注文すると、そのたびに、木製の四角い筒の中に入れ、それを上から、押し出し棒で突くウドンのようなトコロテンが売られていた。叔母は、暑い日、店の売り物のトコロテンを私に食べさせてくれた。おそらくこれが私のプルンプルンの最初の出会いだった。継母が父に嫁ぐと、私は長野県に戻って来た。

  年に数回、親はうさぎやという甘味店に連れて行ってくれた。そこのクリームあんみつの中の寒天は、歯ごたえが最高だった。その寒天も直江津で知ったトコロテンと同じ原料からつくられたものだと知って驚いた。私のプルプルの歴史は、寒天が始まりだった。

  高校の途中からカナダの高校へ留学した。全寮制の高校だった。食事代も学費に含まれていた。朝はオートミールとトースト1枚、昼はマッシュポテトにグレービーソースをかけたもの、夜はスープとクラッカーが主だった。時々、デザートにゼリーが出た。赤いゼリーでプルンプルンだった。私はトコロテンやうさぎやのクリームあんみつの中の寒天を思い出した。学校の食堂だけでなく、友人宅に招かれた時も、ゼリーがデザートによく出て来た。後にプリンという美味しいデザートも知った。学校の食堂でプリンが出ることは一度もなかった。休みで旅行したり友人を訪ねた時、プリンを食べることができた。

  カナダから日本に帰国すると、日本もあらゆる面で変わってきていた。中でも食べ物が種類豊富になり、生活も豊かになってきていた。外国からいろいろな物が輸入されたり、日本で生産されるようになっていた。ゼリーやプリンもどこででも買えるようになった。マンゴプリン、ワンタン。コンビニが増えたことも普及に役立った。トコロテンもあんみつも西洋の食べ物に押され気味だった。やがてナタデココというフィリピンのココナツから作る寒天のようなものが流行った。私はこれも好きになった。その後、アロエというサボテンの果肉をサイコロ状にしたものも普及した。日本に以前からあったが、私の口に入らなかった葛餅、葛切り、水ようかん。中華の店のマンゴプリン、ワンタン、腸粉。どんどんプルプル、プルンプルンなものが増えて来た。

  私が再婚した相手が海外赴任するために、私は仕事を辞めて、同行した。5ヵ国に暮らした。妻の仕事上、多くの人々を食事に招いた。私が料理をすることになった。食材の調達も大事な仕事だった。特に日本食の材料は、入手が困難だった。代用の品を探すのも楽しかった。

  26日の日曜日、友人夫妻を夕食に招いた。秋田からじゅんさいを取り寄せて、じゅんさい鍋を共に楽しんだ。友人の奥さんの母親が秋田の出身で子どもの頃じゅんさいをよく食べたそうだ。日本の宅配便の素晴らしい発展のお陰で、摘みたての生じゅんさいが翌日の配達で手に入る。じゅんさいは、究極のプルプル食材である。秋田の湖沼で春に芽を出す水草の新芽である。船から身を乗り出し、一芽一芽爪で摘み取る。大切に収穫されたじゅんさい、一つとして無駄にはできない。

  昆布で出汁をとり、比内鶏の薄切りとじゅんさいをしゃぶしゃぶ風に食べた。じゅんさいのプルプルがたまらなかった。デザートは、ナタデココとアロエと寒天をココナツミルクで混ぜ、アイスクリームを添えた。これぞ世界のプルプルフルコース。

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