団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ゴールデンウイーク・田植え・カエルの合唱

2017年05月01日 | Weblog

①    ネパールの田植え

②    小学校の農繁休業の田植え

③    田植えの後のカエルの合唱

①    田植えという農作業は東南アジア独特のものらしい。日本では、いまでこそ機械化され人の手での田植えはほとんど見られなくなった。妻の最初の海外赴任地はネパールだった。収穫時季はどこの国でも農民の喜びの表情があふれる。田植えは希望と祈りの時季である。ネパールでも日本と同じように水田に水を入れ、家族総出で田植えが行われる。高校生の時渡ったカナダの学校は、大平原の真っただ中にあった。学校の名にPrairie(大草原)がついていた。見渡す限りの小麦畑だった。大規模農業なのですべて機械化されていた。そんなカナダで懐かしかったのは、日本のふるさとで、5月田んぼに水が引かれて田植えが始まる頃だった。カナダの大規模農業による切れ目のないどこまでも続く大平原は、私に異郷にいるという思いだけを強くした。ネパールで田植えを見た時、外国に住んでいるのだという思いがスーッと消えた。親近感を持った。貧しい国だが農業は盛んで食料不足ではなかった。田植えや稲刈りで人々が喜々として働いているのが印象に残っている。

②    私が小学生だった頃、年2回農繁休業という1週間ほどの休みがあった。農家の子供はもちろん自分の家の手伝いをする。そうでない子供は、学校が希望する農家へ子供を割り当てた。私の家は農家ではなかったので、学校から言われた農家へ行ってお手伝いをした。私はとても良いことだと思ったが、いつの間にかその派遣がなくなってしまった。農家で田植えと稲刈りをした経験は、私にとって大切な思い出となっている。左手の指3本の爪の下に鎌で切った傷跡が残っている。農家へ稲刈りの手伝いに行って切った跡である。田植えは、道具を使わず手だけで作業するので怪我をすることはなかった。何よりの楽しみは、農家でお昼に白い米の飯をたくさん食べさせてもらえたことだった。おかずだけ持参した。おかずはどうでも良かった。家では白いご飯がたらふく食べることができなかったのでご飯だけで満足できた。

③   30代前半で最初の結婚を解消して 離婚した後、私は家を売り、市営住宅に移った。私が引き取った子ども二人は、一人はアメリカへ一人は全寮制の学校へ入った。私一人が残り二人への仕送りをした。市営住宅は田園地帯のはずれにあった。田植えの季節、仕事を終えて自宅に戻る時、私は窓をいっぱいに開けて運転した。カエルの合唱を聴くために。そして車を止められる場所でカエルの大合唱に聴き入った。時には満天の星のもとでのこともあった。人家もなく暗闇でのカエルの合唱と満天の星。田植えの終わった田んぼは、カエルの楽園だった。

 現在住む町に田んぼがない。カエルの合唱は聴くことができない。電車に乗ると田園地帯へ行くことができる。田は区画整理され農業機械が使いやすくなった。しかし米の栽培方法は変わらない。五月になれば田んぼに水を入れ、田植えの準備が進む。田植えが終われば、カエルの合唱が始まるのだろう。またカエルの合唱の真っただ中に身を置いて空をみたい。

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