団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

てっちゃん

2010年03月03日 | Weblog
 てっちゃんが死んだ。2月26日のことである。中学校に入学して一番早く仲良くなったのがてっちゃんだった。私は西小学校から三中に入学し、てっちゃんは北小学校からだった。てっちゃんはお母さんを亡くしたばかりだった。母を亡くしたことにおいては、私が先輩だった。てっちゃんはお母さんの妹さんが継母として来て、何となくしっくりいかないと悩んでいた。どこからこういう話になったのかは、覚えていない。

 しかし私も4歳で母親が死に、数年間東京と直江津の親戚に預けられた。母親の妹が継母として家に来た。幼い妹2人はすぐ「かあちゃん」と言えた。でも姉と私は、どうしても「かあちゃんは死んじゃった。かあちゃんは二人いない」と「おばちゃん」と呼んでいた。てっちゃんにそのことを話した。てっちゃんは涙をこぶしでぬぐってた。

 それからてっちゃんとよく遊ぶようになった。てっちゃんの家にも行った。ごはんもよく食べさせてもらった。きれいでやさしい新しいお母さんだった。てっちゃんは鉱石ラジオを自分で作るほど機械いじりや理科数学が得意だった。

 私の家ではアンゴラウサギをたくさん飼っていた。餌の草取りは私の仕事だった。てっちゃんは手伝ってくれた。刈り取った草を麻袋2つにギュウギュウ詰めにして担いだ。家までけっこう距離があった。帰り道、てっちゃんの得意技の水の一気飲みをよくやって見せてくれた。水道の蛇口の下に顔を入れ、蛇口の真下に口を上に向け、ほとばしる水を飲み続ける。長い時間続ける。そして胃が水でパンパンになり、腹をゆすって胃の中の水がチャボンチャボンと音を立てる。私には到底できない芸当だった。

 やがて同じ高校の入試を受けた。発表の日、二人で見に行った。二人の番号が並んで記載されていた。二人でお祝いをすることにした。日昌亭に入った。そこは焼きソバが有名な店だった。二人のお金を合わせて、メニューの中の一番高いものを食べて、合格を祝うことにした。“あげわんたん”が一番高かった。あげわんたんがどういうものなのかも知らずに「あげわんたん2つ」と声を合わせて注文した。調理場からおじさんが出てきて「本当にあげわんたんでいいの?」と聞いた。私たち二人は顔を見合わせて同時にお金をおじさんに見せた。二人が考えたのは、おじさんは私たちが一番高い品を注文したので払えるかどうか心配になって「本当にいいの?」と聞かれたと決め付けていた。おじさんは「いいならいいんだよ」とわけのわからない事を言って調理場に戻って行った。

 やがて大きな皿の上にポテトチップのような油であげたワンタンが山のように盛り付けられて出てきた。これがあげわんたん! 二人でバリバリ音を立てて「美味しいね」と大見得をきって高校合格を祝った。あの日何をどう食べても旨かったと思う。

 おかげで以後てっちゃんに会えばあげわんたんの話で盛り上がった。高校2年生が終わった時、私はカナダの高校へ転校した。てっちゃんは、その後苦手の英語を猛勉強してストレートで東京工業大学に合格した。 もうあげわんたんの話をする相手がいなくなった。3月4日午前10時からの告別式に行く。合掌。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« デモクラシー | トップ | 日本橋高島屋 »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事