映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

女の子ものがたり(映画)

2009年09月22日 | 邦画(09年)
 「女の子ものがたり」を渋谷のシネクイントで見てきました。

 予告編ではマアマアかと思っていたところ、友人の評価があまり高くなく、また少女趣味的な他愛ない映画かなという懸念もあり、見るのを取りやめようかと考えましたが、こちらの時間に旨く適合する作品が他にはみあたらないことや、映画の原作者の漫画『毎日かあさん』を以前読んだことがあり原作者に関心がありましたので〔ネットでも読めます!〕、見に行ってきた次第です。

 実際に映画を見てみますと、主人公の少女時代の交友関係と現在の漫画家としての仕事ぶりとが巧みに交互に描き出されていて、不覚にも感動してしまいました。
 深津絵里は、そう大して美人ではないながらも、「博士の愛した数式」とか「ザ・マジックアワー」に引き続いて大層良い演技をしているな、と感心いたしました。

 とはいえ、この映画には様々な問題点もありそうです。
 主人公の女性漫画家が仕事をまともにしないことの原因や事情が映画でうまく説明されないため、怠惰なのかスランプなのか分からない、との指摘があります。
 確かに映画では、その点につきコレといってキチンと説明されておりません。
 
 ただ、主人公と担当編集者との会話を手繰りよせると、主人公は、雑誌編集長の意向に迎合すべく自分を殺して連載の漫画を書いているらしいことがわかり、その結果極度のスランプに陥ってしまった(ペンを握っても描けなくなってしまった)、と考えられます。
 自分でもそれに薄々気づいて、もう一度原点に立ち帰るべく愛媛に戻って旧友の家に行ったところ、自分を嫌っていたと思っていた“きいちゃん”が実は自分を強く慕ってくれていたのだと判明し、ここを起点としてスランプからの脱出が示唆されます。
 そして描き上げられたのがこの映画の原作となっている漫画『女の子ものがたり』というわけですから、映画冒頭の深津絵里のぐうたらぐうたらしたシーンは、格別重要な意味を持っているのではないかと思われます。

 言ってみれば、この映画は、ある女性漫画家の“死と再生”の物語ではないでしょうか?むろん、これは大仰すぎる言い方で、主人公は“死ぬ”わけではありませんが、漫画家としては死んだも同然の状態に陥ってしまいました。それが、昔の親友との真の関係を田舎に戻って見つけ出したことから生き返ることができ、新たな気持で漫画に取り組めるようになった、というお話ではないかと思います。

 さらにまた、主人公の父親や親友達は、主人公に対して“あなたはみんなとは違う”と言いはるものの、なぜそうなのかについて映画の中では十分に説明されていないため、主人公が自分でそう思い込んでいるだけのこととしかみえないとの指摘もあります。
 確かにこの点も説明不足だと思います。ですが、私には、他の二人の親友と違って、主人公は人(特に男性)に頼って生きていこうとする雰囲気が漂っていない点(モット言えば、自分というものを確固として持っているという点、あるいは庇護してやろうと他人に思わせない点)が、他の人からは特異に見えるのではないか(特に、女性としては)、と思いました。

 これらの点が映画の中で十分に説明されれば、その受容はヨリ容易になるものと思います。ただ、余り観客に一方的にストーリーを押しつけるのではなく、わざと曖昧にしておいて観客の様々の解釈に委ねるというのも方法としてあり得るのではないか、むしろその方が文芸作品としては面白いのではないか、とも思えるところです。

 ですが、私には次のようなことが気になりました。
・板尾創路は主人公にとって継父のはずのところ、主人公が彼をまるで実父のように素直に受け入れてしまっている点(幼い主人公が継父の体を揉んでいるシーンなど)。
 ただ、最初の引越しの場面で、お母さんが主人公を、“そんなにうるさいと新しいお父さんに嫌われるよ”と厳しく叱ったために、逆に板尾創路に取り入ろうとしているのかもしれません(無意識ながら)。
・反対に、主人公の実母が主人公に対する接し方に、かなりの冷たさが感じられる点(主人公が自分の手元を離れるように促すシーンなど)。むしろこの女性が継母ではないか、とも思ったりしてしまいました。
 ただ、手元に置いておくよりも、突き放した方が主人公のためになると考えて、このお母さんは、あえて冷たい態度をとったとみるべきなのかもしれませんが。
・主人公とボーフレンドとの関係が、結局はどうなったのかが省略されている点。
 主人公の性格から、彼女がボーイフレンドに積極的にアプローチするなど考えられませんから―他の二人の親友は逆の性格でしょう―、離れてしまうのは明らかながら(海岸でのキス・シーンを見てもわかりますが)、それにしてもいま少し描いてくれても良いのではないかと思いました。
・総じて、駄目な男性ばかり登場する映画という点。継父の板尾創路はフラッとどこかに消えてしまいますし、“みさちゃん”の両親も犯罪に手を出します。また二人の親友の結婚相手は、いずれもDV加害者です!
 尤も、女性がメインとなる映画は、話をあまり複雑化しないようにするためでしょう、大体このようになる傾向があります。
 なお、唯一まともなのは主人公担当の編集者ながら、消えてしまった主人公の行く先を探し当ててしまうほど主人公のことを理解しているにもかかわらず、主人公との間には距離を置いています。マア、狂言回し役ですから仕方のないところですが!

 誠にくだらないことばかり書き並べましたが、実のところ映画を見ている最中はこうした点はさほど気にならず、この映画の他愛ない様々の場面に感動してしまったというのが実情です。


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2 コメント

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男の子の視点 (鹿皮服ボーイ)
2009-09-22 23:39:32
  「女の子ものがたり」は、一言でいえば、ダメで貧乏な少女3人の奇妙な友情のものがたりという感じでしたが、クマネズミさんは楽しめたようで、結構なことです。
  本作にはいろいろ欠けているようなところがありますが、これを脳内で適宜補ってみると、たしかにそれなりのレベルになるものと思われます。私は、この辺の作業を要することが映画作品として不親切だと感じ、良い印象を持たなかった事情にあります。それにしても、貴兄が言われるように、出てくる男達が「ダメ男君」ばかりで、唯一まともそうな主人公のボーイフレンドのほうは尻切れトンボ気味に映画ではどこかに消えてしまって、あちらはどうなったのかという指摘がほかでも見ました。二人の友人も含めて女性もあまりしっかりしない人たちが多かったのですが、母親の二人がしっかりしていたようでもあり、それなのに子どもたちはどうして、とも感じて、全体の中で不調和な感じもありました。

  女の子漫画・女の子映画はあまり共感できないと感じたところですが、この辺は原作ではなく、脚本の問題もあるようです。主人公の家にあまり寄りつかなかった義理の父親も、周りの女の子達も、主人公の少女が「みんなとは違う」ということをいうのですが、それも映画のなかでは説明不足ないし描写なしですから、作者が自分でそう思い込んでいるだけではないかとしか思えません。ご指摘のように、男に対して毅然としていて溺れない、思い込んだ道をしっかり進むという主人公の姿勢は周りとは違っていますが、こんなことはいわば現代ガールとして当たり前のことであり、ここら辺りに共感ができなかったこと、そして最初の場面で主人公のスランプ状態らしきことにもまず違和感を覚えたのが、映画に入り込めなかった基礎にあるのでしょう。
  ともあれ、ふらりと入った映画で、サイバラ(西原)という女性漫画家を知ったというのが、収穫でした。物語の背景となる田舎(愛媛県大洲市あたりのようです)の自然も綺麗でよかったです。帰るところがある人は立ち直りやすいということでもあるようですが、いま日本で自殺者が多く推移しているのは、そうした拠り所のない状態のままで生活する人々が増えてきたからなのでしょうか。ふと、余計なことまで考えてしまいます。
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Unknown (クマネズミ)
2009-09-23 06:49:11
「鹿皮服ボーイ」さん、興味深いコメントをありがとうございます。
 おっしゃるように、主人公の姿勢は「現代ガールとして当たり前のこと」でしょう。ただ、30~40年前の地方都市で、それも貧乏でDVが横行する階層に属していた主人公が醸し出す雰囲気は、回りとは微妙に異なるものがあったのではないか、とナントナク納得したりしているのですが。
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