映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

アニメにおける監督

2009年09月06日 | 
 前日のブログで長編アニメ「サマーウォーズ」を取り上げましたが、その際にこの作品における細田守監督のクリエイティヴィティについて少々疑問を感じると書きました。
 とはいえ、こうした長編アニメにおける監督の役割について、こちらに誤解があるのかもしれません。アニメ映画では画像こそが一番重要で、手塚治虫の作品のように、基本的な画像は監督が自分で作成する(アニメーターがそれを動かす)ものと当然の如く思っていましたが、どうやらそうでもなさそうなのです。

 そこで、丁度先月末に、キネ旬ムック「Plus Madhpuse」の3番目として『細田守』が出版されたので、簡単に目を通してみました。



 同書では、「『時をかける少女』から『サマーウォーズ』までの1000日」について、監督を含めた関係者の証言が時系列的に集められています(p.33~p.74)。 
 監督を中心に進行具合を拾い出してみると、あらまし次のようです。

 まず、細田監督と渡邊プロデューサーが『サマーウォーズ』に繋がる企画検討を開始したのは3年も前の06年7月21日(『時をかける少女』大阪公開日の前日)、今度は賢い男の子を主人公にしてはどうか、仮想空間と現実の世界を行き来するのはどうか、などを検討。
 8月には、渡邊プロデューサーと脚本家の奥寺氏との最初の打ち合わせ。
 年末に結婚して親戚が急に増えた監督から、翌年の07年4月頃、「例えば、ご親戚たちが世界と渡り合う話って、ちょっとおもしろそうじゃないですか?」という話が出る(注1)。
 07年4月に『サマーウォーズ』の脚本会議が本格スタート。
 8月末までにプロットが固まり(監督が自分で書いた)、最終的に「〝ラブマ〟で、家族アクション映画」という企画で行くこととなり(タイトルは渡邊プロデューサーの発案)、9月10日から奥寺氏に脚本の第1稿に入ってもらう。
 脚本の初稿が12月3日にできあがり、これを監督がプロデューサーらを交えて検討、以降この作業を繰り返して、翌年の3月10日の8稿で決定稿。
 08年1月から2月にかけて3回にわたり「キャラクターデザイン合宿」が行われ、監督が付きっきりで一つ一つのキャラクターがデザインされる。
 2月に、監督らが長野県上田市にロケハンに行く(同市は、戦国武将の末裔の話や、真田遺族の話などがあるだけでなく、監督の夫人の実家があるところ)。
 4月13日から、監督がミニコンテの作成にとりかかる。それに1ヶ月くらいかかった後、このミニコンテを元に監督が絵コンテを作成、11月7日にすべての絵コンテが完成。プロデューサーとの調整のうえ仕上げられる。
 この後監督は、声優を選定し(12月~翌年1月)、アフレコを行い(09年4月)、ダビング(09年6月)をして映画の完成(09年6月末)。

 こうしてみると、このアニメ作品における監督は、原作者としてのウエイトが相当大きいように思われます。勿論、プロデューサーも色々アイデアを出したり、挙げ句はタイトルまで発案していますからその役割は無視できないとはいえ、基本的には細田監督のオリジナルな物語に基づいて制作されたと言えそうです。

 ただ、そうなると、アニメ映画の要となる肝心の画像の方はどうなのでしょうか?
 キャラクターごとの原画作成は、キャラクターデザイン合宿で行われ、監督がソバにいたとはいえデザイナーの貞本義行氏が行ったようです(背景は、武重洋二・美術監督による)。
 そして、背景の中でキャラクターを動かしていく(キャラクターに〝演技〟をつける)のは、作画監督の青山浩行氏が中心となって行っています〔なお、以上は専ら、『サマーウォーズ』における「現実」の世界に関してで、もう一つ「OZ」の世界についても同じような役割を担った人がいます〕。

 要すれば、画像については、作画監督の青山氏が俳優であり(その顔はキャラクター・デザイナーが制作)、演技を指導しながら映画の中に納めていくのが細田監督ということでしょう。
 ですが、実写映画ならそれでも結構ですが、アニメ映画の場合には、なにか腑に落ちない感じがしてしまいます。原作とかコンセプトも確かに重要でしょうが、なんといってもアニメ映画なのですから画像が第一であって、それを監督が手がけないなんて、という思いが依然としてぬぐえません(煎じ詰めれば、漫画家ではない者がどうして監督になるのか、という疑問でしょう)。

 とはいえ、こうした見方は昔のやり方にとらわれ過ぎていて、現在のアニメ制作においては分業化が相当進んでいるようです。 
 昨年8月に見た『スカイ・クロラ』でも、その監督の押井守氏は、大雑把な絵コンテを作成しているだけで、脚本以下のことはそれぞれの専門家に任されているようです。

 少しばかりそちらを覗いてみますと、『スカイ・クロラ』には、押井監督やキャラクター・デザイナー、作画監督のほかに「演出」を担当する西久保利彦氏がいるのです。
 同氏によれば、「押井監督とは棲み分けがはっきりできているんです。建築でいえば、設計は押井監督、現場監督は私で、押井守が最初に絵コンテを描いて設計図を作り、それを僕が具体的にフィルムにしていく、という分担ですね。…押井監督は、…基本的には余り現場には来ない」とのこと(注2)。


 
 こうしてみると、『スカイクロラ』は、『サマーウォーズ』よりももっと分業体制が進んでいるといえそうです。

 結局、現在制作されているアニメでは、誰が画面を描いているかはさして重要ではなく、実写映画との違いは、極端にいえば、手書きのキャラクターが画面で活躍するということだけ、ということになると思われます(もしかしたら、同じようにデザインされたキャラクターが違う監督のアニメの違うストリーの中で動き回るということもあり得るのでしょう!)。

 私としては、そんな分業化が進んだアニメよりも、昔ながらの手塚アニメの方が楽しめる感じなのですが!

(注1)『サマーウォーズ』劇場用パンフレットには、「結婚した相手は親戚が多くて、しかもみんな仲がよさそうで。それまで一人だった人間が突然、大家族と出会ったときに感じる〝異文化体験〟を身をもって感じたんです。…そこで、家族というものを肯定的に描く映画を作りたいと考えるようになっていったんです」との細田監督の談話が掲載されています。
 とはいえ、「家族というものを肯定的に描く」ことと「大家族を肯定的に描く」こととの間には随分と隔たりがあるように思われるのですが。

(注2)『スカイ・クロラ ナビゲーター』(日本テレビ、2008.8)p.99。

サマーウォーズ

2009年09月05日 | 邦画(09年)
 吉祥寺のバウスシアターで長編アニメ「サマーウォーズ」を見ました。



 アルファブロガーの小飼弾氏が、そのブログで、「これは間違いなく、映画史に残る作品。その意味において本作品の重要性は、Star Warsに勝るとも劣らない」とか、「本作を観ずにして、この夏は終わらない」とまで言っているので、それではと出かけてきました。
 土曜日に行ったせいかもしれないところ、2時間前に売り出される整理券を買うのにもズラッと人が並んでいるのには驚きました(おそらく毎回満席のようです)。

 確かに、映画は、画像が素晴らしく綺麗で、かつストーリーもなかなか面白く(コミカルなタッチのところが随分とあります)、大人が見てもこのアニメにぐいっと引き込まれてしまいます。

 ただ、気にならないところがないわけではありません。

 このアニメに対しては、映画評論家の面々は総じて高い評価を与えています。

 上記の小飼氏は、「まず、大家族というものをこの21世紀に堂々と持ってくるということ自体がすごい」とします。

 精神科医・樺沢氏も、その「まぐまぐ」の「映画の精神医学」(8月11日第340号)において、次のように述べます。
 「「サマーウォーズ」がおもしろい。予告編を見ると、何か高校生を主人公にした青春映画の雰囲気ですが、実際はもっともっと奥深いテーマが描かれています。日本人が失いつつあるもの。あるいは既に失われているかしもれない、人と人との結びつきの大切さ。古き良き日本の文化。そうしたテーマが、インターネット上の仮想世界OZ(オズ)のトラブルといった最も日本的ではない、ある種、テクノロジーの最先端とのコントラストの中であぶりだされていきます」。
「「サマーウォーズ」における陣内家のような大家族というのは、別にそれほど珍しいわけでもなく、何十年か前ではごく当たり前の風景。あるいは、今、お盆の時期、10人以上の親戚が集まっているという家もあるはずです。失われつつある日本の風景ではあるけども、まだ完全に失われたわけではない、日本の大家族。こうした誰もが共通体験として懐かしさを感じられるシーンが、「サマーウォーズ」にはちりばめられています」。

 渡まち子氏は、「核家族は当たり前、隣に住む住人の顔も知らず、隙あらば引きこもってネットの世界に埋没する日々。人間関係の温もりと煩わしさのどちらも知らない、イマドキの若者にとって、総勢30名に及ぶ旧家一族が顔を揃える“個性豊かなご親戚”という構図こそ、ミラクル・ワールドではあるまいか。この物語は、秀作アニメ「時をかける少女」のスタッフが再結集して放つ、人呼んで“大家族アクション・ムービー”」と述べて、80点もの高得点を与えています。

 どうやら、長野県上田市の陣内家の屋敷に参集する30人もの大家族のお話に評論家諸氏は皆感動しているようです。
 この陣内家は、室町時代からの武家の家系で、「当主」の90歳になる陣内栄(ヒロインの曾祖母)の誕生日会が数日後に開かれるとのこと。それで一族が集まったわけです。



 ですが、陣内栄の息子達は一人でやってきているからかまわないものの(結婚相手が存命なのか死んでいるのかは不明)、その子供達(栄の孫)となると結婚相手を伴って来ています。
 この場合、いうまでもありませんが、栄の孫にしても、栄の息子達の結婚相手の方の家族にも入っているわけです。まして、栄の曾孫ともなれば、モットたくさんのよその家族の一員でもあるわけです。

 男系の家制度(家父長制)が守られていた戦前ならともかく、今や殆ど「家」といっても結婚式に使われる符牒の意味合いしか持たなくたってしまっている中で(注)、どうして夫婦という単位を越えた「大家族」というアナクロがここにきてプレイアップされ、かつまた評論家達が絶賛するのか、いくらノスタルジアに浸りたい人が多くなってきているとはいえ(欧米の市場原理主義から日本を守れということでしょうか!)、実に不可解な感じがします。
(よくTV番組で「大家族」がとりあげられますが、その場合は、夫婦と大勢の子供達といった意味合いしか持っていないのではないでしょうか)。

 例えば、ヒロインの高3の女子高生が、恋人役として主人公(同じ高校の2年生)をつれて上田の屋敷に行きますが、最初に話題になるのが、主人公が「当主」のお眼鏡にかなうかどうかという点なのです。ですが、「当主」とは?

 (注)評論家の小谷野敦氏が、そのブログで、今年の芥川賞直木賞贈呈式の模様を書いていますが、その中に、「前方左手には「磯崎家」「北村家」と書かれたテーブルがあって、まるで披露宴のようだ。モブ・ノリオの時は「モブ家」だったのだろうか。だいたい北村さんって本名じゃないし」とあり、笑ってしまいました(モブ=mobとのこと!)。

 さて、この映画にはもう一つ気になるところがあります。
 すなわち、70点を与えている前田有一氏が言うように、この作品では二つの世界が描かれています。すなわち、「映画ではこのOZと現実社会が交互に描かれるが、その両者の質感の違いが強調されていて面白い。OZ内はいかにもCGといった硬質な描写で、アクションシーンはたいていここで行われる。一方現実世界は、手描き絵画風の暖かいもの。美しき日本の田舎風景を堪能できる」。

 また、服部弘一郎氏も、この「OZと現実社会」について、それぞれ「『デジモン』や『ぼくらのウォーゲーム』のアクション・アドベンチャー路線」と「『時をかける少女』の甘酸っぱい思春期ドラマ」だとして、今回の映画ではそれらが組み合わされ、「細田監督にとってこれまでの集大成となる作品なのだ」と述べています。



 ただ、この二つの世界はそれぞれ出所があるようなのです。
 Walkerplusのニュース記事(7月24日)には、次のように書かれています。
一方で、「劇中に登場する「OZ」と呼ばれる仮想都市のビジュアル。PCや携帯電話の中で、白を基調とした楕円のキャラが飛び交う仮想世界は、細田監督がかつて現代美術アーティストの村上隆とともに手がけたルイ・ヴィトンのイメージ映像「SUPERFLAT MONOGRAM」(03)を彷彿とさせる」。
 他方で、「古きよき日本家屋や美しい自然のビジュアル。こちらは『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』といったジブリ作品で美術監督を務めた武重洋二が手がけており、背景画の美しさを見ているだけでも心が洗われるかのようだ」。

 となれば、映像に関しては、村上隆と武重洋二に負っているということになり、勿論それらをうまく接合した監督の手腕は認めるものの、監督のクリエイティブな面はどこを探せばいいのか、ということにならないでしょうか?

 というようにこの作品について2点ばかり気にはなりましたが、まあそれはそれとして、久しぶりで上質のアニメを見たなと楽しい気分で映画館を後にしたところです。

不灯港

2009年09月02日 | 邦画(09年)
 渋谷ユーロスペースで「不灯港」を見ました。

 それなりの資金が投下され有名俳優も出演し商業ベースに乗って公開されている映画ばかりでなく、ミニシアターで細々と上映される劇映画も少しは見てみなければと、出かけてみました。

 制作されても公開されずに〝お蔵入り〟になってしまう映画も随分あるとのことですから、こうしてミニシアターながら公開された映画はそれなりの出来映えなのだと思います。加えてこの映画は8月末まで40日間ほど上映されましたから、評判もマズマズなのでしょう。

 監督の内藤隆嗣氏は、弱冠29歳、都立大学理学部数学科卒という変わりダネで、「ぴあフィルムフェスティバル」にて企画賞を受賞したことからスカラシップを受けられることとなって、長編物としてはデビュー作となるこの作品を制作したとのことです。

 初めての作品となると誰しも肩肘が張って、独りよがりのシーンが多くなりがちなところ、この映画にはそういった面は余り見受けられず、オシマイまで違和感なく見ることが出来ます。
 とはいえ、監督の意図として、「とことんお芝居をおさえる、抑揚をおさえる」ようにしたことから、主人公の台詞回しが幾分不自然な感じになっていますが(主人公に扮するのは、作家・演出家・役者の小手伸也氏〔36歳〕)。

 もう少し申し上げると、映画の主人公の万造(38歳)は、父親の残した漁船に乗って漁師稼業をやっていますが未だ一人暮らし。風貌は漁師そのものながら、身のこなし方などはダンディという妙な人物に設定されていて、漁師町で開催された集団お見合いパーティーに、洋品屋の口車に乗せられて超ダサイ格好で現れ、誰にも相手にされない悲惨な目にあったりします。
 その彼が、ある日思いもよらない偶然から都会的な女性に出会い、一緒に暮らすことになります。可愛い女性をゲットできたために有頂天になり、彼は彼女の要求を何でも黙って聞いている内に…、というよくある話の通りに事態は進んでいきます。

 まさに〝面白うて、やがて悲しき〟というありきたりのストーリーなのですが、そしてこの映画のストーリーの難点をいくつも挙げることは簡単なのですが、そんな野暮なことをせずに、今や殆ど見かけなくなってしまったこんな朴訥なロマンチストがいたらなという若き監督の思いを素直に受け止めてあげるべきなのかもしれません。