映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

南極料理人

2009年09月13日 | 邦画(09年)
 「南極料理人」を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。

 この映画は、むしろ押しつけがましいストーリー展開がほとんどないために、逆に芸達者な俳優たちが持っているそれぞれの味が十分出ることとなり、見ながら至極楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 なかでも、今や注目度が非常に高い堺雅人の演技は出色でした。“薄笑いをしているような顔つき”が嫌だという向きもありますが、この映画では、かえってそれが効果的となっています(彼の出演した映画では、「ジェネラル・ルージェの凱旋」や「ジャージの二人」での演技が印象的です)。

 こういった映画についてはアレコレ言い立てても始まらないかもしれません。

 それでも、“つぶあんこ”氏は★一つで、「劣化『かもめ食堂』コピー男性版。全く笑えない極寒ムービー」との酷評をわざわざ与えています。
 確かに、フィンランドという寒冷地で日本人がレストランを開店するという『かもめ食堂』の話に、通じるところがないわけではないでしょう(どちらもめざましいストーリー展開はありませんし)。
 ですが、そちらは対フィンランド人向けのレストラン開業という外向きのベクトルなのに対して、こちらは越冬隊員向け食堂の話であって、ベクトルは内向きですから、果たして「コピー」とまでいえるかどうか疑問です。
 それに、こちらは料理の内容がかなり重視されていますが(特大イセエビのフライ!)、『かもめ食堂』では、料理というよりレストランという場を通じての人の交流の方に重きがあるように思われます。
 ですから、“つぶあんこ”氏が『かもめ食堂』をわざわざ持ち出すのは、ややピントはずれではないかと思います〔とはいえ、劇場パンフレットによれば、映画に登場する料理をこしらえたスタッフには、「かもめ食堂」の料理も手がけたフードスタイリストが入っているとのこと!〕。

 そんなに目くじらを立てず、この映画については、あるいは次のような評価で十分なのかもしれません。

 「ロケは南極ではないと知っていても、平均気温マイナス54度の空気はちゃんと伝わってくる。食材は缶詰や冷凍食品なのに、料理はどれも極上に見える。特に、知恵を絞って作った手作りのラーメンの、なんと美味しそうなことか。それを食べる隊員たちの満足そうな顔を見ていると、こちらまで幸福な気持ちになった」(渡まち子氏〔70点〕)。
 
 主人公の「西村が材料を工夫して打った麺を全員ですするシーンは、普通に食事できる幸せと、その幸せを誰かと共有することでさらなる満足感が得られると実感させてくれる。物言わずひたすら箸を動かす隊長の表情が素晴らしい」(福本次郎氏〔80点〕)。



 とはいえ、強いラーメン依存症に陥っているような人(「きたろう」が演じている隊長)がこの世に存在するとは、余り信じられないところです!

 それに、この程度の論評では、あまりに常識的で見たままな感じがしてしまいます。

 映画の舞台となった「ドームふじ基地」と同じような状況(昭和基地からも1,000㎞離れています)、すなわち自分が以前に所属していた共同体から隔絶したところに閉じ込められて、別の仲間と共同体生活を営んでいるような状況を考えてみましょう。

 例えば、この間若田宇宙飛行士が活躍した国際宇宙ステーションの場合が思い浮かびますが、そこでの食事の役割はどうでしょうか?
 もとより、料理を専門とする飛行士などおりませんし(通信担当とか車両担当の飛行士もいないでしょう―操縦担当の飛行士が相当するのかも?)、また、食事といっても、予め調理されたものが袋に入っていて、それをチューブを使って飲み込むだけのようです。『南極料理人』のように、テーブルを囲んで、共同生活者が談笑しながら食事をするわけでもありません。
 映画と同じような状況に置かれているからといって、食事が中心的になるとは限らないようです。
 では、宇宙飛行士は何をやっているのでしょうか?若田宇宙飛行士の場合は、「きぼう」に船外実験施設を取り付けるなど大忙しでした。他の宇宙飛行士にも、それぞれ様々な業務が山のように与えられているようです。

 翻って、この映画において越冬隊員は何をしていたのでしょうか?車両担当の隊員は、いつも雪上車の中でマンガを読んでいますし、通信担当の隊員はバターをこっそり食べている始末です。映画において仕事らしい仕事をこなしていたのは、雪氷学者の生瀬勝久くらいです。ただ、それも遊びの片手間にやっているように見えました。

 元々、この基地は氷床コア掘削をメインに行うために設けられているようです。ただ、その業務にどんな意義があるのでしょうか(注)、また、わざわざ人が極点近くで越冬しなければできない作業なのでしょうか(自動計測で必要な情報が得られることから、富士山の測候所も5年ほど前に無人化されました)?

 映画ではそうした辺りがごくサラッとしか説明されていないために、この映画から漂ってくるのは、なんとなく集まった8人の男たちが、一応は閉じ込められた状況の中ではあるものの、美味しい食事を食べながら楽しい共同生活を送っている、などといった随分とノーテンキな雰囲気です。
 やはり、〝人はパンのみに生きる〟ではなく、何か切実な目的があってこそ初めて食事にも意義が出てくるのではないか、そこら辺りをもう少しこの映画は描き出すべきではなかったか、と言いたくもなってきます。

 とまあグダグダ書いてしまいましたが、こんなどうしようもなくつまらないことは一切考えずに、この映画は、単純にそのホノボノとした雰囲気を楽しむべきでしょう!

(注)Wikiによれば、概略次のようです。
「氷床コアとは、氷床(陸地を覆う氷河の塊)から取り出された筒状の氷の柱で、コア掘削機によって掘り出され、樹木の年輪など他の自然物の記録のように、気候に関する様々な情報を含んでいる。氷床コアの上層は一枚一年に相当するが、氷の深度が深くなるにつれ、自重により一年分に相当する氷の層は厚さは薄くなり、年縞は不明瞭になってゆく。ただし、適切な場所から得られるコアは撹乱が少ないので、数十万年にさかのぼる詳細な気候変化の記録が得られる」。




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2 コメント

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孤立した地での食事はなにが美味しい? (難局ペンギン)
2009-09-14 13:06:08
  人生、食べることだけが目的ではないけれど、僻遠・極寒の地に数人の仲間と暮らすことになったら、自ずと食事のウエイトが生活のなかで高くなりそうである。だから、きちんと食事さえできれば、それでよいということにはならないのだろう。映画ではよく分からなかったけれど、「ドームふじ基地」ではインターネットができるのかしら(本作映画の舞台となった時点では、Windowsも初期の段階ではなかったかと思われるが、今はということですが)。
こういう舞台設定だから、あまり大きな事件は起きず、物語はたんたんと進行する。私にはやや苦手な展開であるが、それでも我が身に置き換えて、伊勢エビはうまそうかなぁ、ラーメンはどうかなぁという個別の出し物に関心がないでもない。むかし、外地で暮らしたとき、東京にでも出張があったときには、「生ラーメン」を勝ってきてもらった記憶もある。体力も含めて人間の活力を保持するためには、食べることの重要性もまた実感する。それが、仲間の和にもつながるのだから、こういう貴重な体験が紹介されることも良いことだ。
  ゆったりまったりとして、映画と人情の機微を思いたい人にはお勧めの映画である。
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南極ネット (クマネズミ)
2009-09-15 05:35:40
「難局ペンギン」さんコメントをありがとうございます。
 なお、この映画のオフィシャルサイトにある「南極新聞」の「パート1 南極&観測隊」の「通信手段」の項目には次のように書いてあります。
 「公衆電話はあるが1分740円(1997年当時)。現在はインターネットの設備が整い、メールでのやり取りが可能。昭和基地では現在はインテルサット衛星回線により、快適なインターネット環境にある。ドームふじ基地はインマルサット衛星回線があり、家族と電話やメールはできるが、インターネットはできない」。
 これからすると、当時は勿論、今でもインターネットは出来ないようです(現在は常駐の隊員はいないようですが)。
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