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映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

ソルト

2010年08月29日 | 洋画(10年)
 『チェンジリング』以来のアンジェリーナ・ジョリーを見てみようと思って、『ソルト』を渋谷のシネパレスで見てみました。

(1)お話としては、アンジー扮する女スパイ・ソルトの八面六臂の働きによって、勃発寸前にまで突き進んだ世界大戦をなんとか未然に防ぐことができた、というものですが、スパイ物らしく、目まぐるしく立場が入れ替わったり破天荒な出来事が起きたりして、アレヨアレヨといううちにラストになってしまいます。

 例えば、ギリギリまで追い詰められたソルトが、高層マンションの窓をつたって逃亡するシーンが映し出されますが、無論セットでの撮影であることは分かっていても、見ている方はハラハラします。何しろ、下を見たら足がすくんで一歩たりとも動けなくなることは必定の高さなのですから!
 また、ソルトは、追手から逃れるために、トレーラーの屋根に飛び乗り、それが追手に見つかると、別の車の屋根に飛び移ります。両方の車ともスピードを出して走っているわけですから、そんなことをしたら簡単に振り落とされてしまうはずですが、類い稀なる運動神経の持ち主なのでしょう、ソルトは屋根にしがみつくことに成功してしまいます。
 さらに、手錠を嵌められて乗せられたパトカーの中で、ソルトは、警固の警察官を倒した上で、電気ショックを運転手に与えながら、ものすごいカーチェイスに挑みます。これだけ様々の車に衝突したら、中のソルト自身がお陀仏になるに相違ありませんが、スパイとしての教育の成果でしょう、ナントカ脱出に成功します。

 この映画は、元はトム・クルーズがやるはずだったところ、彼が降板したために、アンジーにお鉢が回ってきたとのこと。ただ、こうした激しいアクションも、男性俳優ならば最早見慣れたものでしょうが、アンジーだからこそ見ごたえがあるというものです。
 それに、映画は、ソルトが北朝鮮に捕えられて拷問を受けるシーンから始まり、スパイ交換で西側に連れ戻されたとき、左目がやや潰されてしまっているところ、アンジーだからこそ見られるのではないでしょうか?
 また、追手から逃げおおせると、今度は、典型的なロシアン・ファッションで船のデッキに立ったりしますが、これはトム・クルーズではまったく様にならないでしょう。

 というような具合で、アンジーを見て楽しむ分には、大変面白くできた映画だと思いました。
 ですから、上の階からシャンデリアとともに落下してきたロシア大統領は、それだけで助かるはずはないと思えるところ、さらに銃弾を撃ち込まれたにもかかわらず、しばらくしたら元気な姿がTVに映し出されるなんて(弾の中にはクモの毒が注入されていたから一時的ショックを受けただけって、ニホンザルの捕獲に使われた麻酔銃じゃあるまいし〔注〕!)などとチャチャを入れたりせずに、おおらかな気持ちで映画を楽しむべきでしょう!

 それにしても、「今度のアンジーは300万カラットの煌きだぁと大声で叫びたくなるほど、“華麗な容姿”と“アクション”を見せてくれる」と言うのは全然かまいませんが、「必見!!」とまで言うとなると、熱中症にでも罹ってしまったのかとおすぎのことが心配になりますが!

〔注〕時事通信の記事によれば、台東区内で見つかったニホンザルに対して、上野動物園の職員が「麻酔銃や薬品を塗った「吹き矢」をそれぞれ2発ずつ打ち込み」捕獲したとのこと(8月13日)。

(2)この映画は、前日の記事で取り上げた『フェアウェル/さらば、哀しみのスパイ』と対比させると面白いかもしれません。

 まず、この映画の主人公ソルトは、米国CIA職員ですが、『フェアウェル』の主人公グリゴリエフ大佐はソ連KGBの幹部です。

 次にソルトは、諜報組織の業務の一つとされる要人の暗殺に取り組みますが、グリゴリエフ大佐は、本来的業務である機密情報の略取に長けています。
 その暗殺の対象が米ロの大統領とされていますから、この映画にも、『フェアウェル』同様、トップが登場します。ただ、『フェアウェル』は30年ほど前の設定ですが、こちらは近未来の設定のためソックリさんは不要というところで、『フェアウェル』のように緊張感が途切れてしまうことはありません。

 さらにソルトは、本来的にはソ連の特務機関で教育を受け米国に送られたスパイのはずですが、最終的には米国に忠誠を尽くします。他方、グリゴリエフ大佐も、各国の組織に潜入しているスパイのリストを西側に渡すことによって、ソ連の崩壊をもたらそうと努めます。

 また、ソルトを最後まで庇う上司ウィンターが実はということになりますが、グリゴリエフ大佐の場合も、ことが発覚して彼の取り調べに当たっている元の同僚が実はということが明らかになります。

 といった具合に、映画から受ける印象は180度違うといってもいいものの、内容的には意外と関連する部分があるのだなと思いました。

(3)評論家のこの映画に対する見解にはばらつきがみられます。
 小梶勝男氏は、「アンジェリーナ・ジョリーが、走り、飛び、格闘し、銃を撃つ。全編、アクションが全く止まらない。この疾走感は実に見事」であり、「このスピード感を支えているのは、ジョリーを徹底的にアクションだけで見せる演出」であって、「むしろ、正体も内面も分からないまま、男女の違いなど超えて、精密機械のように行動するソルトを描くことで、サスペンスを維持しているのだと思う」が、ただ「残念だったのは、カメラが動きすぎて、せっかくのアクションがはっきりと見えないことだ」として74点を、
 佐々木貴之氏は、「本作で観られるアクションは、ド派手で迫力満点な作品に比べるとややおとなしめではあるものの、目を見張るようなシーンがそれなりに用意されていて良いと言える」し、「もう一つの魅力は、アンジー姉さんの変化ぶりだ。最初は金髪だが、逃亡開始後に黒髪のクールビューティーに変身!! そんな黒髪アンジーが魅せるアクションは実にカッコいいし、決まっていると言い切っても良いほどだ」として70点を、
 渡まち子氏は、「ヒロインの超絶タフネスぶりが際立つこの物語」だが、「つい最近でもスパイ同士の引渡し劇という、まるで映画のような事件が起こったばかり」、「こんな荒唐無稽な作品が、計らずも現実とリンクしてしまうところが、映画の面白さであり不確定要素だ」として55点を、
 前田有一氏は、「いろいろと問題点はあるが、アンジェリーナ・ジョリー主演作らしい個性がない点が一番まず」く、「リアル系スパイアクションとしては、アイデアも格闘のスピード感もボーンシリーズの足元にも及ばず、007のような色気もしゃれっ気もない。ちんちくりんな細いオンナがちょこちょこ逃げ回るだけの、悲しいほどに迫力に欠けたシーンが延々と続くのみ」で、「ストーリーは単純なわりにテンポが悪く、少々退屈するが、見ようによっては笑える部分も」などとして55点を、
 福本次郎氏は、「頬がこけるほどシェイプアップしたアンジェリーナ・ジョリーの鋭い眼光以外はバカげた印象しか残らない作品だった」として40点を、
それぞれつけています。


★★★☆☆




象のロケット:ソルト

フェアウェル

2010年08月28日 | 洋画(10年)
 冷戦が終わってしばらく経つのにスパイ物かとも思いましたが、フランス映画『フェアウェル―さらば、哀しみのスパイ』を渋谷のシネマライズで見てきました。

(1)物語は、ソ連のKGBの幹部のグリゴリエフ大佐(そのコードネームが「フェアウェル」)が、各国のソ連スパイから送られてくる西側の最重要機密情報を、フランス人技師ピエールを通して西側に渡し続け、最後には、西側に潜入しているソ連スパイのリストを渡すことによって、ソ連のスパイ網を崩壊させてしまい、ソ連の崩壊の切っ掛けを作った、というものです。

 初めのうちは、グリゴリエフ大佐が、西側では極秘扱いとされている情報が記載されている文書(スペースシャトルの設計図とかフランスの原子力潜水艦の航路図など)をピエールに手渡すのを見て、なんでそんなことをするのだろうと、不思議な感じになります。せっかく自分たちが集めた情報を、どうして本の西側に戻そうとするのか理解できませんでした。
 しかし、次第に、これはグリゴリエフ大佐の提供する情報に対する信頼度を高めるためのやり方なのだ、ということがわかってきます。
 そして、グリゴリエフ大佐の真の目的も、次第に分かってきます。要するに、今のソ連体制では国がダメになってしまうから、ソ連のスパイ網を破壊することによってソ連体制を崩壊させようとしているのです。

 ここでもまた、破壊することだけを考える人間が登場するわけです(『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』!)。実際に、彼の行動も一つの切っ掛けとなってソ連は崩壊しますが、その後の体制作りについてはビジョンを持っていませんから、はたしてその後のエリツィン→プーチンと続く政権の下で採られた政策は、どの程度グリゴリエフ大佐が望んだものに近いものなのか、疑問なしとしないところです。

 とはいえ、グリゴリエフ大佐が、西側諸国に潜むソ連スパイのリストを小型カメラに収めるシーンとか、グリゴリエフ大佐がソ連当局に捕まり、迫る追及の手からピエールが逃れようとするシーンなどは、これまでのスパイ物同様、随分とスリルに溢れています。
 ただ、いくらなんでも、ソ連スパイのリストが掲載されている最重要文書が、幹部の机の鍵のかかっていない抽斗の中に無防備に収められているとは思えないところですが(あるいは、その時までにはソ連の組織は弛緩しきっていて、誰もそんなことに意を用いなかったのかもしれませんが!)。

 それはさて置き、グリゴリエフ大佐を演じるエミール・クストリッツァは、カンヌ映画祭で2度もパルム・ドールに輝いている映画監督ながら、重厚な演技が冴えわたっていますし、またピエールを演じるギヨーム・カネも監督歴がありますが、この映画では家族とグリゴリエフ大佐(ひいては国家でしょうか)の間に挟まり悩みぬく役柄を実に巧みにこなしていると思いました。

(2)この映画もまた「true story」病に取り憑かれているのでは、と思ってしまいました。
 というのも、レーガン大統領、ミッテラン大統領、それにゴルバチョフ書記長が画面に登場するのです。完全なソックリさんではないにせよ、雰囲気は随分と似ています。
 ですが、本物に似せようとすればするほど、政府要人のものまねをする「ザ・ニュースペーパー」が日本では受けていますから(注)、せっかくの重厚で真面目な映画の雰囲気がぶち壊しになってしまう恐れがあります。
 それになによりも、米・仏・ソのトップを画面に登場させずとも、そんなことをしてこの映画の物語は「true story」であることを強調せずとも、この映画は十分に成立するのではないでしょうか?


(注)そういえば、彼らが登場した邦画『ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発』(河崎実監督、2008年)を見たことがあります。おまけに、「洞爺湖サミット」関連ですから、各国のトップのソックリさんも映画に登場するのです!こうした「怪獣映画」ならばソックリさんでかまわないでしょうが、今回のような映画では場違いではと思ってしまいました。
 ちなみに、『ギララの逆襲』を見たのは、この映画に対する“つぶあんこ”氏の評価が著しく高かったことによるものですが、その際、友人に送ったメールに、「面白いことは面白いものの、この映画を積極的に評価するのはやはり「特撮好き」な人に限られるでしょう」との感想を述べたことがあります。

(3)映画評論家の論評はまずまずと言ったところです。
 渡まち子氏は、「名監督であるエミール・クストリッツァが、屈折した祖国愛を抱えるKGB高官で、息子を愛する父親を、深い皺と不敵な面構えで堂々と演じきっている。ストーリーは、ごく普通の人間がいつのまにか国家を揺るがす機密にかかわっていく過程がリアルだ。スパイというのは、映画で描かれるような、派手で見栄えのするものではなく、現実では地味でさりげなく大仕事をこなすものなのだろう」として65点を与え、
 福本次郎氏は、「フランス人技術者のピエールは KGBのグリゴリエフ大佐から接触を受け、西側のトップシークレットを手渡される」が、「映画は2人の間で行われる文書の受け渡しだけでなく、彼らの家族にまで言及し、世界をよりよくするために働く自覚と、父親としての責任の間で苦悩する姿を追う。ただそのあたり表現法にアクセントが乏しく平板な印象は免れない」として50点を与えています。


★★★☆☆


象のロケット:フェアウェル

フローズン

2010年08月25日 | 洋画(10年)
 B級映画ながらも大層面白い作品だと耳にして、それならばと、『フローズン』を見に渋谷のシネクイントに出かけてきました。

(1)物語は、こんな粗筋です。
 日が落ちかかってから、ダンとジョーとパーカーは、スキー場の3人掛けリフトに乗って山頂に登っていきますが、その途中で突然リフトが止まってしまいます。終業間際に無理に頼み込んで乗ったために、周囲には他に人が見あたりません。スキー客は全て下山したと勘違いしたリフト係員が、電源を切ってしまったようです。真っ暗で酷い寒さの中、彼ら3人だけが地上15mの高さのリフトに取り残され、果たしてこのシチュエーションから脱出出来るでしょうか、……。

 3人の関係は、ダンとジョーとは幼馴染み、パーカーはダンの彼女。いつもは、ダンとジョーの二人でスキー旅行をしていたのが、今回はパーカーが加わることになり、ジョーは余りいい気がしません。何かにつけて、パーカーに皮肉を言ったり当てこすったりします。

 もう少し彼らが置かれた状況を言ってしまうと、最後に1回だけ滑ろうとしたためでしょう、一応の防寒具とスキーとかスノボー以外は何も身につけていませんし(何より携帯電話は置いてきてしまっているのです)、トイレにも行かずにリフトに飛び乗ってしまいました。
 さらには、スキー場は金曜日~日曜日の3日間しかオープンしておらず、この日は日曜日ですから、ここに人が現れるまでに1週間程度待たなくてはなりません。下の森の中からは、どうもオオカミの吠える声も聞こえてくるようです。
雪もかなり降ってきて、気温は下がる一方です。果たして、……。

 最初の設定のユニークさ、途中経過のもの凄さ、に比べると、ラストは今一何かがあってもと思いますが、B級映画としたらないものねだりであり、全体として上出来の仕上がりと言えるのではないでしょうか?

 ところで、この映画の劇場用パンフレットには、「『フローズン』から学ぶ、「リフトに乗る際の注意事項」」が10も記載されています。なかば冗談なのでしょうが、いくつかの項目につき、チョット検討してみましょう。

・「飛び降りない」……この映画でリフトは「15m」の高さとされているところ、マンションでいえば大体4、5階の高さに相当し、そんな高さから飛び降りれば、地上の状況によるものの、重傷を負うことは免れないでしょう(死亡する可能性もあります)。
 『フローズン』の場合、ダンがリフトから飛び降りてしまいますが、夜間ですから下の雪は凍結していてコンクリートと同じ状態であって、酷い両足骨折を招いてしまったというのも当然でしょう。

・「手袋は外さない」……パーカーは、外した右の手袋を下に落としてしまい、にもかかわらず睡眠中安全バーを強く握っていたために、寝て目が覚めると安全バーから手が外せなくなってしまいます。無理矢理引きはがそうとしたら、手のひらと指の皮膚が酷く剥けてしまい、以後右手が使えなくなってしまいます。
 ただ、夜の冷たい外気に手の先を晒していたわけですから、かなりの凍傷になっていた可能性が強く、安全バーから手を剥がすどころではないのでは、とも思えるのですが?

・「うっかり寝ない」……これが、「『フローズン』から学ぶ、「リフトに乗る際の注意事項」」として挙げられているのは意外な感じがします。
 というのも、ダンが飛び降りて一騒動あった後、リフトに残されたジョーとパーカーは朝まで眠ってしまいます。常識的には、そんなことをすると死に至ってしまうのではと思えるところ、彼らは二人とも朝の光を受けて目を覚まし、2日目の行動に取りかかります。とすれば、この映画から“学ぶ”点としては、「寝てしまってもナントカなる」ということになってしまうのではないでしょうか?

・「トイレは乗る前に必ず行く」……それはその通りでしょうが、『フローズン』の場合、2日以上経過するわけですから、そんなことはどうでもよくなってしまいます。

・「携帯電話をロッカーに置いてこない」……この点が、今回の映画の一番の問題点ではないかと思います。今の若者は、どんなシチュエーションに置かれても、携帯電話だけは肌身を離さないのではないかと思えるからですが。
 特に、今回の映画ではリフトに3人取り残されますが、その3人が3人とも携帯電話をロッカーに置いてきてしまったというのもオカシな感じがします。
 それに、ジョーは、スキー場で知り合った女性から電話番号を聞き出して、それを忘れないように何度も反芻するだけでなく、他の2人にも番号を覚えてもらいます。ここまで電話番号がクローズアップされながらも、それが使われることが全くないというのも、ストーリー展開としては腑に落ちません(ただ、電話が通じてしまえば、その時点で物語は終了してしまい、何の面白味もない作品になってしまうことでしょうが)。

・「スキー場の営業時間を確認する」……この映画では、若者3人組は、終業間際であることは十分承知しているのです。
 ただ、リフト係員に100ドルも支払っていることから(正規のチケットを買わずに、そのお金を係員に直接あげて何回も乗ろうとします)、あと1回だけ乗せてくれと頼み込んだわけです。そのお金を受け取った係員は、用事があって別の係員に交代しますが、3人がリフトに乗っていることは次の係員に伝達します。ただ、この新しい係員は、3人を知りませんから、偶々滑り降りてきた3人組を見て、てっきり伝達を受けた人たちだと思い込み、リフトの電源を落としてしまいます。
 というような経緯からすれば、「スキー場の営業時間を確認する」ことは当然にしても、この映画から学ぶべき点とは考えられません。

(2)リフトそのものの事故ではありませんが、この映画の状況で大きな問題となる「寒さ」がもたらした事故といえば、最近では、昨年7月16日に北海道・大雪山系のトムラウシ山(2141m)で起きた遭難事故が思い出されます。
 その事故では、中高年の登山ツアー客15人とガイド3人のうち、なんとガイド1人を含む8人が低体温症で死亡したとされています。

 この、「低体温症( ハイポサーミア)」は、この事故が起きるまでは殆ど耳にしませんでしたが、この事故以来マスコミで取り上げられることも増えてきました。

 低体温症とは、直腸など中心的な臓器の体温が35度以下になった状態とされます。
 人は寒冷に晒されると、一方で皮膚血流を低下させて熱の放散を抑えるとともに、他方で「ふるえ」などの発熱反応が起こります。
 ですが、中心体温が30℃以下になると、ふるえすら起こらなくなり、加速度的に体温は低下し続けます。それにつれて、精神活動や運動能力はともに低下し、なかでも判断力は早い時期から低下するとのことです。
 そして中心体温が、20度以下に下がると心停止となります(このあたりのことについては、例えば、このサイトを参照)。

 映画『フローズン』では、「凍傷」は随分と取り上げられていますが、この「低体温症」には言及がありません。
 ネットで調べてみても、両者の関係を述べているサイトは余り見あたりません。ただ、こちらのサイトによれば、「凍傷の処置方法を低体温症に対して行うと、助かる人間をかえって殺す事にもなりかねません」とありますから、両者が同時に襲いかかることもあるのでしょう。
 『フローズン』のようなシチュエーションでは、一体どうなのでしょうか?

(3)映画評論家箱の作品に対して比較的好意的のように見えます。
 佐々木貴之氏は、「インパクトが強いゴアな描写が観られたり、驚愕させられるようなシーンでもリアルな設定も手伝って恐怖や戦慄を存分に味わわせてくれる。とにかく見応えは十分であり、しっかりと楽しめる作品として仕上がっているのだから他に言うことはなしだ」として70点を、
 小梶勝男氏は、「基本的に、サスペンスで押して成功している。高さも寒さも伝わってきて、なかなか手に汗握る展開だった」が、「リフトの上に取り残されるというアイデアはいいものの、ただそれだけで、展開がいき当たりばったりの印象なのだ。いくら何でも、もう少しストーリーにひねりが欲しい」として67点を、
 渡まち子氏は、「不満なのは、リフトに乗るまでの出来事や会話が脱出劇に役立っていないこと」だが、「それでも、ほんの少しの不注意とわがままが恐ろしい状況を生むという、このバッド・シチュエーション映画はかなり怖い。アダム・グリーン監督は本作が日本初公開。限定空間での恐怖を上手く維持した手腕を評価したい」として60点を、
 福本次郎氏は、「エレベーターのように閉じ込められているわけでもなく、漂流ボートのように移動しているわけでもない、そんな開放された空中で動きが取れない状態からの脱出劇というアイデアは非常に洗練されていた。ただ、男2人の最期を違ったパターンにしてほしかったが。。。」として60点を、
それぞれ与えています。



★★★☆☆


象のロケット:フローズン

小さな命が呼ぶとき

2010年08月22日 | 洋画(10年)
 昨年4月に見たDVD『インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国』以来のハリソン・フォードですが、冒険活劇ではない作品での彼はどうかなと思って、『小さな命が呼ぶとき』をTOHOシネマズ・シャンテで見てきました。

(1)物語としては、不治の難病(ポンペ病)の子供を二人も抱える父親ジョン(ブレンタン・フレイザー)が、その病気の権威であるストーンヒル博士(ハリソン・フォード)と組んで、治療薬の開発に突き進み、遂には試薬のテストを子供たちに施すまでに至るというものです。

 こうした類いの映画は、通常であれば、中心的に描かれる子供が難病のため死の淵に立たされながらも奇跡的に蘇る感動のお話、というのが通り相場であって、私もそんな作品なのかなと思いながら見ていました。無論そういったことは描かれてはいながらも、物語は、子供が中心というより、むしろ父親ジョンの取った特異な行動、ジョンとストーンヒル博士との対立、企業と個人との関係などといった方面に重点が置かれているように思われました。

 まず、ジョンは、選択の岐路に立たされます。
 すなわち、ジョンは、子供たちに現在の高額な治療を受け続けさせるために、今の会社のポストにいて健康保険を継続すべきとする考え(成績優秀なので、スグニ昇進して報酬の40%アップが見込まれると同僚にも言われます)と、早期の治療薬開発のために今の会社を退職してベンチャー企業を立ち上げるべきだとする考え、との間で悩みます。

 もっと言えば、前者の考えによれば、治療薬が開発されないために子供はごく近い将来に確実に死に至りますが、そこまでは子供らと十二分な環境の下で暮らすことができます。
 逆に、もう一つの考え方による場合は、仮に治療薬の開発に成功すれば子供の命は長らえるものの、新薬の開発の成功率はごく小さく、子供はすぐに死ぬだけでなく一家が無一文になる可能性の方がずっと高いのです。
 幸福というのもが仮に数量で表されるとして、前者から得られる幸福の分量と後者から得られるそれとでは、どちらが大きいのかという問題になるといえるでしょう。
 前者の場合、それが得られる確率はほぼ1ですから、予測可能といえます。
 ところが後者の場合は、大きなリスクが伴いますから、子供が長生きする場合の幸福の量は前者よりもはるかに大きいものの、事前の予測値が果たして前者を上回るかどうかは判断が難しいところです。
 これは、現在のビジネス界でヨク耳にする話と類似しているところがあります(長年勤務してきた年功序列的な今の会社―自分の将来をある程度描ける―に居つづけるべきなのか、それとも自分の才能を信じて、多額の報酬アップが見込める外資系企業―成績が悪ければ簡単に解雇されてしまう可能性が高い―に飛び出すべきなのか、など)。

 ジョンの場合は、嫌も応もなく会社を飛び出して、ゼロの地点から治療薬の開発のためにベンチャー企業を立ち上げることにします。
 この場合、アメリカにあっては日本と違い、ベンチャー企業の設立を支援するベンチャー・ファンドがしっかりしていて、持ち込まれる企画にかなりの将来性があれば投資資金が与えられるようです。
 そういう背景もあり、さらには、ポンペ病の権威であるストーンヒル博士と組めたこともあって、むろんその猪突猛進型の性格にもよっているのでしょうが、ジョンの決断は素早かったのだと思われます。

 ただ、ベンチャー・ファンドが、ジョンたちから説明を受けるに当たり、プレゼンテーションに自信のあるジョンの説明を退けて(様々のグラフなども用意したにもかかわらず)、科学者であるストーンヒルに説明を求めたりします〔ベンチャー・ファンドの幹部は科学者で、科学者は科学者の話しか聞かないなどと言ったりするのです〕。
 また、立ち上げたベンチャー企業を身売りした製薬会社においても、そこで研究している科学者たちは、自分の上司に科学者でない人間が就くことを拒否します。
 ここには、日本で言う“理系と文系の対立”といったようなものが垣間見れて興味をひかれました。すなわち、“文系”の人間には“理系”の人間がやっていることは理解できない、といった姿勢が、米国の科学者の言葉の端々からうかがえるのです〔以前このブログで書いたこの記事この記事を参照して下さい〕。

 また、その製薬会社では、同じ治療薬を開発するのに、何組かのチームを同時に立ち上げ、その間のコミュニケーションは禁じて一斉に競争させるやり方をとっています。ですが、自分の経験からなのでしょう、そういうやり方はジョンには非効率的に見え、チームの間での情報交換の場を設けるよう社長と掛け合ったりします。
 この問題は、もっと広くとらえれば、会社経営において、本部制がいいのか、事業部制がいいのかの問題ともつながってくるのではないでしょうか?

 というように、この映画では、ジョンがとる様々の行動が大変面白く描かれていると思いました。他方、ストーンヒル博士については、最後のところで、彼のチームが開発した治療薬ではなく、別のチームのものが製薬会社で製造されることになってしまい、そうなると彼の果たした役割は一体何だったのかと幾分疑問に思えてきたりします。
 それに伴って、お目当てだったハリソン・フォードも、ブレンタン・フレイザーの前に霞んでしまいます(クレジットをよく見ると、ブレンタン・フレイザーの方がハリソン・フォードヨリも先に置かれているのです!)。

(2)この映画の原題は「Extraordinary Measures」とされています。
 この原題をどう訳すべきかよくわらないものの、おそらく治療薬の開発面を指しているのでしょう。他方で、邦題の『小さな命が呼ぶとき』は難病の子供の方を指していますから、両者はかけ離れています。

 原題の方が実際に映画から受ける印象に合致している感じながら、それでも、仮にタイトルを『特別措置』といったようなものにしたら、観客の入りはトテモ悪くなってしまうかも知れません。ですから、邦題でも仕方がないのでしょうが、ややミスリーディングな感じを受けるところです(これは、娘を演じた子役が可愛らしくなく、観客に良い印象を与えないせいによるのかもしれませんが)。

 なお、この映画の基になった本『The Cure』も、新潮社から映画の邦題と同じタイトルで翻訳本が出版されています。

(3)加えて、この映画は、「inspired by a true story」とされています。それで、単純に「実話」なのかと思うとそうではなく、劇場用パンフレットに掲載されている「production notes」によれば、主人公ジョン・クラウリーやその家族は実在の人たちにしても、ハリソン・フォードが扮するストーンヒル博士は、ジョンが関わった複数の科学者や実業家を1人のキャラクターに集約して造形されているとのこと。また、実際の時間の進み方と映画のそれとは大きく異なっていて、映画の方は随分と短縮されているようです。

 さらに、同じパンフレットの掲載されているブレンダン・フレイザーのインタビュー記事によれば、主人公のジョンは、元は「ハーバードのMBAを取得している公務員」であり、映画のようなビジネスマンではなかったようです〔といっても、Amazonの原作本の「内容説明」では“financial consultant”ともされているので、実際のところはよく分かりません〕。

 そういうことも考慮して、普通であれば「based on」とあるところが「inspired by」となっているのでしょう。
 としたら、なにもわざわざ「true story」という点を持ち出さずとも良かったのではとも思えてきます。
 というのも、「production notes」を読むまでは、ジョンよりもむしろストーンヒル博士の方が実在の人物であり、その名前を冠した研究所まで設立されているものと思い込んでいましたから!「inspired by a true story」とはされていても、かなりの点で「実話」であって、俳優の演技などの面で実物とは違った様に強調されたりしているのかな、と思っていました。

 なお、「true story」に関して杓子定規に言ってしまえば、もともとどんな映画だって(ファンタジー映画でさえも)一般人が鑑賞するものであれば、「inspired by a true story」でない作品はないのではないかと思います〔特に歴史物などは〕。「true story」を全く考慮しない映画を作ってみても、現実との繋がりが掴めないことから、恐らく見ても何が何だかわからないことでしょうから。
 この点は、『しあわせの隠れ場所』についての記事の中でも触れましたので、そちらも参照していただければ幸いです(同作品は、「ひとりぼっちの黒人少年と、ある家族の心の絆を描く感動の実話」とされています!)。

(4)映画評論家は総じて好意的です。
 町田敦夫氏は、「難病の娘のキャラがあまりカワイくないのが難点だが、あえてそこには目をつぶろう。なぜなら本作は、難病ものとしての側面よりも、バディ映画としての側面の方がずっと魅力的だから」として65点を、
 渡まち子氏は、「子供たちの明るい笑顔が印象的で、難病や車椅子生活にいじけることなく、かけっこしたりパーティを楽しんだり、生を謳歌している姿がいい。時に生意気なセ リフを吐くところも逆に可愛い。絶対にあきらめず自分のことは自分でなんとかする“自立自助”こそが、アメリカ人の最も尊い精神だ。いい意味でアメリカら しい物語である」として60点を、
 福本次郎氏も、「ジョンの家族の闘病や苦悩より、ロバートの人間として成長のほうがある意味興味深い作品だった」として60点を、
それぞれ与えています。



★★★☆☆




象のロケット:小さな命が呼ぶとき

トイ・ストーリー3

2010年08月19日 | 洋画(10年)
 大評判の映画は、なんだか巨額の宣伝費に踊らされた感じがして敬遠していたところ、最近の『借りぐらしのアリエッティ』も『告白』も実際に見てみるとなかなか良くできていて、それならと『トイ・ストーリー3』を見に、近くの吉祥寺プラザに出かけてみました。
 この映画館の場合、3Dではなく、かつ吹き替え版ながら、映画の中で表示されている文字でまでもが日本語になっているのには驚きました。
 夏休みということもあって、大勢の子どもたちが父兄と一緒に映画館に来ていましたが、もしかすると、子供たちよりも父兄たちの方が映画を楽しんだかもしれません!

(1)映画は、おもちゃの世界のお話。いままでおもちゃを使って遊んでいたアンディがとうとう大学生となり、家を離れて寄宿舎に入ることになり、その子が持っていたたくさんのおもちゃの運命が危機に瀕します。ですが、皆の努力によって、ずっと小さい子供の家にもらわれて再び遊んでもらえることになり、目出度し目出度しとなります。

 と言ってしまうと身も蓋もありませんが、おもちゃたちがハッピーエンドに至るまでには、実際のところ人間顔負けの紆余曲折があるのです。
 イロイロ経緯があって、アンディのおもちゃはまとめて保育園に引き取られます。
 保育園児と遊べるようになって良かったと思ったのも束の間、人間がいなくなった夜間の保育園は、ロッツォという熊のぬいぐるみが支配する恐ろしい世界だったのです。ロッツォがそうなるのには一定の事情があったことは描かれていますが、それにしても酷く狡猾な行動をします。

 そこを脱出して自由の身になるまでに、これまでのシリーズでは見られなかった大規模な冒険シーンが描かれます。
 なにしろ、恐ろしい保育園空の脱出ルートとしてゴミ投棄口をみつけたのはいいのですが、おもちゃたちは、グズグズしている内にゴミ収集車に投げ込まれ、とどのつまりはゴミ焼却炉の中に落とされてしまうのです!サア、一体どうやってこの危機を逃れることが出来たのでしょうか?

 この脱出に際しては、おもちゃの一つ一つに重要な役割が与えられていることがトテモ素晴らしいと思いました。たとえば、ミスター・ポテトヘッドは、トルティーヤに変形しながらも偵察行動に力を発揮しますし、ミス・ポテトヘッドも、取り外しのできる目を使って、様々な情報を収集します。また、これまであまり注目されてこなかったエイリアン人形までもが、焼却炉からの皆の救出に大きく寄与するのです。
 こうなってくると主人公は誰というも愚か、おもちゃ一つ一つに個性が与えられ、おもちゃであることの意義が認められています。
 ですから、当初は、カウボーイ人形のウッディだけが、大学生となったアンディについていくはずでしたが、結局は、元の通り全員が新しい持ち主・ボニーの家に貰われていくことになります。

 こういった様々の要素が盛りだくさんに詰め込まれている上に、それが実にすばらしいCGの技術によってスムースな動きをするアニメーションとなっているのですから、見るほうは堪えられません。まさに子供だけでなく大人の目にも十分鑑賞に耐える作品になっていると思いました。

 それと、今度の映画を見るに当たって、これまでの『トイ・ストーリー』や『トイ・ストーリー2』をDVDで見直してみましたが、描かれている世界が『トイ・ストーリー3』ではグット広がっていることに驚きました。
 『トイ・ストーリー』では、カウボーイ人形のウッディが、新しく仲間になったアクション・フィギュアのバズに嫉妬したことから持ち上がる騒動が描かれていますし、『トイ・ストーリー2』では、おもちゃ店のオーナーに持ち去られたウッディを、バズを中心に仲間が救出するというものです。
 これに対して、今回の『トイ・ストーリー3』では、保育園における大規模なおもちゃの世界が描かれるだけでなく、焼却寸前に至るスリルと迫力満点の冒険譚までも描かれているのです!このシリーズの最後を飾るアニメとして実に相応しいと思いました。

(2)この映画で興味をひかれた点の一つは、保育園のおもちゃの世界に築きあげられている強力な監視体制です。
 保育園の中には所狭しと監視カメラが設置されていて、そのモニター画像を中央でモンキーのおもちゃが見守っています。変な動きがあると、モンキーからの連絡で車が出動し、同時にロッツォの側近のおもちゃも現れて(その中には、片目の潰れたホラー映画に出てもおかしくはなさそうなキューピッド〔ビッグ・ベビー〕もいます!)、変な動きをしたおもちゃを捕まえ、牢獄のような用具入れのカゴの中に閉じ込めたりします。
 これはもうヒトラーも顔負けの恐怖政治といえるでしょう。

 ところで、朝日新聞の8月3日の記事によれば、「400万台以上といわれる監視カメラの設置や警察官による身体検査などの施策をめぐり、英政府は全面的な見直しを始めた」とのことです!同記事によれば、「英国で監視カメラが増え始めたのは、都市犯罪が社会問題化した1990年代から」で、「街角の至る所に監視カメラが設けられるようにな」り、「「1人が1日に300回、姿を写される」といわれるほど」なそうです。
 ですが、別のサイトの記事によれば、ロンドン警視庁の幹部が、「CCTV〔有線テレビ〕カメラでは、裁判で容疑者を有罪に持ち込むのに十分なほど質の良い映像を撮ることができず、その結果として、犯罪抑止効果をもたらすことにも成功していない。英国におけるCCTV カメラの利用は、膨大な資金の無駄遣いとなっている」との発言を行っているとのこと。

 日本の英国に見倣ってかなりの数の監視カメラを設置してきていますが(注1)、そのお手本国が見直しをしようというのですから、ここらで立ち止まってその功罪をヨク吟味してみる必要があるのではないでしょうか(注2)?


(注1)昨年8月19日の日経新聞には、「防犯カメラの製造を手掛けるTOAにも問い合わせると、国内で稼働する防犯を中心とする監視カメラの台数は推定約330万台に達」し、「英国は街路など公共空間を撮影する監視カメラだけで約430万台あり、国民千人当たりにすると約70台にのぼる。日本はTOA推定をもとに計算すると約25台で英国の3分の1の水準」とあります。

(注2)なお、当ブログの6月14日の記事にも関連したことを書きましたので、参考にして下さい。


(3)映画評論家の評価はすこぶる高いものがあります。
 前田有一氏は、「3歳時から50歳児まで、見て損なしの文句なし大傑作。ピクサーの本気がつまった「トイ・ストーリー3」は、この夏の最高のチョイスのひとつである」として95点を、
 渡まち子氏は、「ピクサーアニメが世界を魅了するのは、映像のクオリティの高さと共に、物語が素晴らしいからというのは、言い尽くされた褒め言葉かもしれないが、あえてここでも繰り返して言おう。ストーリーが本当に素晴らしい」として85点を、
 福本次郎氏も、「自分たちが「価値のないもの」のレッテルを張られてしまったと誤解するおもちゃたちが哀れだ。彼らの冒険と人間との関係のなかで、持ち主の思い出がしみついたおもちゃは心を持っているのではと思わせるほど、豊かな感情が描き込まれている」として70点を、
それぞれ与えています。

 ただ、前田氏は「具体的にいうと、かつてちやほやされながら捨てられるおもちゃたちには、リストラ渦巻くアメリカの労働者たちの境遇が重ねられている。現在オバマ政権は必死に数字合わせでカバーしているが、かの国の失業率は最悪レベルである」と述べていますが、どうして前田氏は、様々な視点から見ることができるこの作品を、わざわざ焦点を絞り込んで見ようとするのでしょうか?評論家の役割は、視野の狭い一般人に対して、むしろこんな見方もあるよと斬新な切り口を示すことにあるとも言えますが?


★★★★☆



象のロケット:トイ・ストーリー3

アデル

2010年08月16日 | 洋画(10年)
 フランス版インディ・ジョ-ンズもあるいはおもしろいかもしれないと、『アデル ファラオと復活の秘薬』を丸の内ピカデリーで見てきました。
 実は、7月31日の記事の冒頭で、「あるフランス映画を見ようと思って出かけたところが、狙った時間帯には上映されていないことがわかり」見逃してしまったというのがこの作品だったわけで、それが打ち切り間際だったところから、慌てて別の映画館を探して見た次第です(現在は、既にここでも違う作品が上映されています)。

(1)単に“フランスの冒険映画”ということで見てみたわけですが、あにはからんや、かなり面白い映画になっているので驚きました。

 舞台は1911年。ちょっとした手違いで、双子姉妹の妹・アガットを植物人間にしてしまった姉・アデル(ルイーズ・ブルゴワン)は、死の淵にある妹を助けるべく、古代エジプトで使われていたとされる「復活の秘薬」を手に入れようとして、まずラムセス2世の侍医と思われるミイラをエジプトからパリに持ち帰ります。
 そして、大昔の翼竜の卵を孵化させることに成功したエスペランデュー教授ならなんとかなるだろうと、処刑寸前だった彼を救出します。そして、その力でそのミイラを蘇らせようとしますが、……。

 前半は、まさにインディ・ジョーンズばりに、アデルは、盗賊やマッドサイエンティストにギリギリのところまで追い詰められながらも、ミイラの棺の中に入り込んだりして、なんとか追及を逃れます。その追っかけごっこは、大きな石の玉が転がってこないにせよ、なかなかスピーディで楽しめます。
 ただ、盗賊はわかるにしても、アデルの宿敵とされるマッドサイエンティストの出現は酷く唐突で、何でこうもしつこく彼女のあとを追いかけてきて殺そうとまでするのかよくわかりません。
 でも、ラストシーンに突如として姿を見せるところからすれば、続編ではその正体が明らかになるのでしょう。

 後半になると、インディ・ジョーンズから離れて、古いものの復活という点に焦点が当てられます。その中心がエスペランデュー教授で、彼の蘇生法によって、なんと翼竜の中でも古いものとされる「プテロダクティルス」が現代に復活してしまいます。
 その点はファンタジーとして大層面白いのですが、孵化して出てきた翼竜が、馬車を橋からセーヌ川に突き落として中に乗っていた政府高官を殺してしまったことから、その責任を教授が負わされてたちまち死刑の判決が下る、というのは余りに話の展開が急すぎる感じがしてしまいました。
 とはいえ、これは1911年の設定ですし、さらには、問題の翼竜が空から飛んできて、ギロチンの前に立たされた教授を足で捕まえて救出するのですから良しとすべきでしょう!

 という具合に、この映画は見どころを2つも持っていて、それぞれでアデルが男性顔負けの活躍をするのですから、面白くないわけがありません。
 若干、パリの観光案内といった側面が強調されているところがあるものの、国外の観客に対するサービスだと鷹揚に構えましょう。

 それに、翼竜の捜査のためにわざわざエッフェル塔を使うのも、1889年の第4回万博に合わせて建造されたのだという点を皆に分からせるためでしょうし、ラストでルーブル美術館の全景が映し出されるところ、当然あるべきメインエントランスのピラミッドが映っていないのは、それが1989年に作られたものであることを強調したかったためでしょう(パリ万博からルーブルのピラミッド建設まで丁度100年とは!)!

 ところで、映画の冒頭の会話からすると、アデルは元々ペルーに行くと会社の方には言っていたようです。続編は、今回の映画のラストからするとタイタニック号の話になりそうですから、あるいは南米での冒険はその次になるのでしょうか。その際には、マチュピチュのみならず、20種類近くの翼竜プテロザウルスの化石が発見されているブラジルのアラリペ高原にもアデルには足を延ばしてもらいたいものです!

 アデルに扮するのは1981年生まれのルイーズ・ブルゴワン。期待の若手女優とされてはいるものの、30歳が目の前。本作の主人公のような気の強い女にピッタリにしても、これからどんなふうに役の幅を広げていくのか楽しみです。

(2)この映画では、現代に復活した翼竜が大活躍するところ、ちょうど職場近くの日本橋の三越7階ギャラリーでは「恐竜展」が開催されていたので、ちょっと覗いてみました(~8月9日)。
 デパートで開催されるものですから期待は持ちませんでしたが、大きなトリケラトプスの全身骨格が展示されていたりして、夏休み中の子供たちが大勢見に来ていました。
 お目当ての翼竜も展示されています。「アンハングエラ」という翼竜で、ブラジルのアラリペ高原の白亜紀前期末(1億1千年前)の地層から発掘されたもののレプリカです。


〔「日本橋三越本店「恐竜展」」より〕

 ただ、展示の説明に「大型翼竜」とあったのでアレッと思いました。展示されているものは、体長が1.5mくらい、翼を広げたときの長さが5 m程度で、他の恐竜に比べたら随分と小型です。そして、これで「大型翼竜」ならば、『アデル』に登場するプテロダクティルスは、いったいどんな大きさだったのだろうと疑問がわきました。
 そこで『恐竜』(小学館の図鑑NEO POCKET4)を調べると、プテロダクティルスは、翼を広げたときの長さが「約0.5~2m」となっているではありませんか!どうも、三越の恐竜展で展示されているアンハングエラよりもずっと小さかったようです。


〔「恐竜のデジタル図鑑」より〕

 これでは、エスペランデュー教授を救出するどころではありません。馬車を橋から川に落とすことさえできないでしょう!

 むろん『アデル』は純ファンタジーですから、こんなことは全くどうでもいいのですが、どうせなら、これまで地球上に現れた空を飛ぶ生物の中で最も大型だったとされる「クェツァルコアトルス」を復活させるお話にしたらよかったのにと思いました。なにしろそれは、翼を広げたときの長さが約10mもあり、4人乗りの小型飛行機と同じくらいの大きさとされているのですから!

(3)映画評論家の意見はやや分かれているようです。
 渡まち子氏は、「本作はヒロイン・アドベンチャーでたっぷり楽しませるエンタメ映画」で、「ハリウッド映画ばりの冒険アクションと、フランス映画らしいおしゃれなセンスが効いて」いて、「元はお天気お姉さんだというルイーズ・ブルゴワンのキュートな魅力と共に楽しみたい、のどかな冒険映画」だとして60点を与えていますが、
 福本次郎氏は、「抜群の行動力と胆力・鼻柱の強さを持つ彼女に次から次へと危機が襲いかかり、間一髪で難を逃れる姿は手に汗を握る。そんな導入部に、血沸き肉躍る冒険が彼女を待ち受けているのかと期待するが、舞台をパリに移すと急にトーンダウン。作り手はエスプリを効かせているつもりなのだろうが、まったくセンスが合わないコメディを延々と見せられるハメになる」として40点しか与えていません。

 恐らく福本氏は、翼竜とかミイラ男といった類いのものにマッタク興味がないのではと思われます!


★★★☆☆


象のロケット:アデル

あの夏の子供たち

2010年08月14日 | 洋画(10年)
 恵比寿ガーデンシネマで上映されていたときは見逃してしまった『あの夏の子供たち』が、吉祥寺バウスシアターで再度公開されるというので見に行ってきました。

(1)この映画は、ちょうど真ん中あたりで主人公シルヴィアの夫グレゴワールが死んでしまうため、前半と後半に分かれるような印象を受けます。

 前半部分では、映画のプロデュース業務を行う会社を経営しているグレゴワールの生活状況が描かれます。
 一方では、グレゴワールのワーカホリック的な仕事ぶりが映し出されます。
 これまでかなり良心的な作品を手がけてきていることもあって、グレゴワールに対する評価は高いものの、実際の収益は少なく、おまけにスウェーデンで撮影中の映画にさらに多額の資金が必要なことが分かってきたりと、会社の台所は火の車。その金策や雑務に追われ、グレゴワールは、携帯電話を片時も手放せない状態なのです。
 他方で、会社がそういう危機的な状況でありながら、グレゴワールは、家族に対してはあくまでも100%良き夫、良き父親であろうと努めます。週末にはパリ郊外にある別荘に家族で行き、周囲の散策の折には、子供たちに、付近に散在する史跡についてこまごまと説明したり、一緒に水遊びをしたりします。
 でも、銀行からの融資が受けられないことが判明するなど倒産寸前に立ち至ると、グレゴワールは、事態を絶望視してあっけなくピストル自殺してしまいます。

 後半部分では、自分たちを心底愛してくれながら置き去りにした父親を家族はどうやって受け入れていくかといったことが、前半同様にじっくりと描かれています。
 そしてシルヴィアは、夫の会社を再建しようとしますが、難しいことが判明し倒産してしまいます。残された家族は、パリを離れることにします。シルヴィアの故郷のイタリアに行くことになるのでしょう。

 この作品は、グレゴワールの自殺によって前半と後半に分かれてしまう感じがしますが、後半においても、不在の父親を巡る物語が展開されるわけですから、作品全体は一応まとまりを持っているといえます。
 とはいえ、前半部分は後半部分を引き出すための序論的な位置づけであって、メインとなるのは、残された家族(妻と3人の娘)一人一人の様子が細やかな神経で描き出される後半と思われます〔この映画の監督・脚本が女性(ミア・ハンセン=ラブ)であることにもよるでしょう〕。
 なにしろ、この映画の原題は「Le p醇Qre de mes enants (The father of my children)」であって、あくまでもシルヴィアが主人公なのです。

 ですが、やはりクマネズミが興味をひかれるのは前半部分です。
 ストーリー面では、いくら仕事に時間を投入しても、こんな杜撰な経営管理をしていたのでは、グレゴワールの会社が資金的に行き詰まるのは当然と思えます。先ず以て全体を徹底的に整理し、ゼロから再出発すべきだったのでしょう。ですが、これまで築いてきたものを壊したくない、手放したくないと言う強い思いから、自殺の道を選んでしまったのでしょう。
 また構造面では、映画の中で映画制作のことが描かれ、さらに、ごく一部分に過ぎませんが、グレゴワールがプロデュースした映画が画面に映し出されもします〔入れ子構造!〕。特に、それが韓国人が出演する映画となると、一層興味が湧いてきます(ただ、それがどんな映画なのかは分からないのですが)。
 さらには、前半でプラスのイメージだったものが、後半になるとマイナスのイメージに逆転します。たとえば、あんなに家族思いだった父親に、子供たちの知らない男の子がよそにいたことがわかって、長女は強い不信感を抱きます。経営にノータッチだったシルヴィアが、グレゴワールの死後、長年の友人であった現像所の幹部に債権放棄を交渉に行くと、難しいと拒否されてしまいます。また、スウェーデンで撮影していた監督も、グレゴワールのことを、芸術が分からない人間だと批判したりします。
 でも、最後にはそうした問題が解きほぐされて、マイナスではなくなるものも出てきます。たとえば、父親の息子については、シルヴィアより前の女性との間に生まれた子供で、父親はコンタクトを取っていなかったことが判明します。

 この作品を構成する様々のエピソードの出来栄えは非常に優れていると思います。ですが、やはりグレゴワールが自殺する真ん中で前後が分断されてしまい、確かに主人公はシルヴィアなのでしょうが、観客が受ける印象はどうしても自殺するグレゴワールの方が強く、全体のまとまりが今ひとつという感じになってしまいます。

 なお、劇場用パンフレットの記事を読むと、ミア・ハンセン=ラブ監督に類似の事件があったようなのです。すなわち、同監督の処女作をプロデュースしようとしたアンベール・バルザン(注)が、その準備中に自殺しています。同記事によれば、自殺する1年ほど前から鬱病を患っていたとのことですが、今回の映画ではグレゴワールにその兆候は読み取れません。編集上の都合でそういった場面をカットしたのかも知れませんが、グレゴワールの自殺が酷く唐突であっけない印象を受けるのは、あるいはそこら辺りによるのかも知れません。


(注)バルザンは、2005年2月に亡くなりましたが、本年1月に見た『倫敦から来た男』をプロデュースしようと準備していたとのことです。


(2)映画の主人公グレゴワールは、プロデューサーとして、スウェーデンで撮影している監督と経費面について調整しようとしますが、うまくいきませんでした(使うなと言ったはずの小切手をこの監督が使ってしまったり、更に必要な資金の出資者として、胡散臭いロシア人を出資者だとして連れてきたりします)。

 そこで思い出されるのが、田草川弘著『黒澤明vs.ハリウッド 「トラ・トラ・トラ!」その謎のすべて』(文藝春秋社、2006.4)です(注)。

 この本は、著者によれば、今や幻となってしまった黒澤明の手になる『虎 虎 虎』を巡って、「何が黒澤に起こったのか。監督は辞任したのか、解任されたのか。黒澤は病気だったのか。もし病気でなかったのならば、どうして病気とされたのか。この混乱の責任は誰にあるのか。真実はどこに求めたらよいのか」ということについて、「アメリカ側に残された資料を調査・研究することにより」、「日米双方の視点から、『虎 虎 虎』」に懸けた黒澤明の夢と無念の軌跡を事実に即して辿ろうとする試み」とされています〔文春文庫版P.23、P.27〕。
 要すれば、映画『虎 虎 虎』を巡って、制作者側の20世紀フォックス社(特に、社長のダリル・ザナックとプロデューサーのエルモ・ウィリアムズ)と監督・黒澤明との確執によって、映画の制作が頓挫してしまったことの真相解明です。

 本書では、前半部分で、両者の関係が破局に至るまでの経緯が克明に辿られ、後半部分は、この事件を巡る3つの謎の解明に当てられています。
 すなわち、「思いこみの謎」、「診断書の謎」、そして「契約書の謎」。

 例えば、本書によれば、映画作りのシステムに関して日米で相当違いがあることにつき双方とも認識が不足していたようです。徹底した分業制をとる米国側の二十世紀フォックス社からすれば、「黒澤監督の相対的な位置は、同時進行する数ある映画企画の中の「雇われ監督」の一人に過ぎな」かったようですが(編集権はプロデューサーのエルモ・ウイリアムズが持つ)、他方黒澤の方では、「自分は作品全体の総監督であると思いこみ」、「編集・ダビングも自分でするつもりでいた」ようなのです〔文庫版P.366~P.367〕。
 そんなことではうまくいくはずもなく、結局この映画は、米国側はリチャード・フライシャー監督が、日本側は舛田利雄監督と深作欣二監督が制作することによって完成にこぎつけ、1970年9月に公開されるに至りました。

 なお、本書には、「監督解任事件から3年後の1971年12月22日。クロサワが“仕事に行き詰りを感じて”自宅の浴室で剃刀自殺をはかったというニュースは、世界中を駆けめぐった」とあるところ〔文庫版P.547〕、プロデューサーのグレゴワールの自殺が想起されるところです。

(注)本書については、朝日新聞に書評が掲載されています。


(3)映画評論家の論評はあまり見かけませんが、福本次郎氏は、「映画は大げさな演技で苦悩を表現するわけでもなく、センチメンタルな音楽で感情を押し付けるわけでもない。主人公の日常と死、そして残された妻子や同僚を淡々とスケッチし、登場人物の心理を想像させる余白を残す」として60点を与えています。



★★★☆☆

象のロケット:あの夏の子供たち

インセプション

2010年08月12日 | 洋画(10年)
 色々喧しく議論されているようなので、それではと『インセプション』を渋谷ヒューマントラストシネマで見てきました。

(1)なかなか理解が難しい映画だと聞いていたものですから、冒頭から心して見たせいか、それほど混乱せずになんとか見終わることができました。むろん、全部がわかったと言うつもりもありませんが。

 お話のあらましは次のようです。主人公コブ(デカプリオ)は、人の意識からアイディアを盗む仕事を請け負う企業スパイ。ある大企業トップのサイトー(渡辺謙)から、ライバル企業のトップとなる予定のロバートにあるアイディアを“思いつかせる”仕事の依頼があります。
 サイトーのコブに対する成功報酬は、その犯罪歴の抹消。というのも、コブは妻を殺害したカドで国際手配されていて、移動の自由が奪われています。実際には、妻は自殺したにもかかわらず(コブが、妻の潜在意識にある考えをインセプションしたがために、自殺してしまうわけですが)、殺害容疑が消えないために、コブは自分の子供に会えないのです。そこで、犯罪歴が抹消されれば入国管理を通過できるので、それを条件に、困難で危険な仕事に取り組むというわけです。
 この仕事を達成するために、卓越する専門的知識を持つ者から構成されるチームが結成されます。そして、目的の人物ロバートの潜在意識に入り込むには、ロバートを含め全員が共通する夢を見る必要があり、そのため、彼らとロバートとが同じ小型飛行機に乗り合わせる機会が利用されます。

 潜り込む潜在意識は3階層あって、植え付けたアイディアが自発的なものとロバートに思わせるには、危険な3番目の階層に辿りつかなくてはなりません。
 ところが、ロバートの方でも、自分の潜在意識を守るために強力な守備部隊を配置している上に、コブの自殺した妻も第3階層に出現して、コブの行く手を妨げます。
 サイトーが守備部隊の放った銃弾によって瀕死の重傷を負ったりするものの、ロバートを含む全員が、なんとか所定の時間内にリアルな意識に戻って、笑顔のうちに小型飛行機から降り、コブも無事に入国でき、そして、……。

 この映画は、を共有するとか、人の潜在意識に潜入するとか、その潜在意識には3つの階層があるとか、なんとかかんとか、いかにも心理学的な専門知識に裏打ちされているかのごとく装ってはいますが、全くのファンタジーであって、そんなおどろおどろしい専門用語じみた言葉遣いに惑わされる必要は何もないと思います。

 だいたい、潜在意識とか無意識は、意識化できないからこそ“潜在”とか“無”というわけで、その有様を夢によってせいぜい間接的に把握するというのが精神分析あたりでしょう。ですから、ビル群とかなんとか目に見えるもので表されている夢を如何に解釈するかが問題であり、「設計士」が外側から夢を作り替えてしまえば、潜在意識など補足できなくなってしまうのではないでしょうか?

 また、潜在意識の間では時間の進行が異なるというので、橋から落下する車はスローモーションで映し出されますが、これはどの意識段階から眺めた光景なのでしょうか?だって、その階層にいるのであれば、自分たちの動きが遅いとは意識しないはずでしょうから!とすると、違う階層から別の階層の光景を見たというのでしょうか?ですがそんな神様みたいなことができるのでしょうか?その神様にしても、いったいどの地点からこの光景を見たというのでしょうか?

 すべては、話を観客に分かりやすくするために絵解きしているに過ぎないものばかりですから、どんなルールに従って映像化されているのかを掴んでさえしまえば、話の筋の大体のところは把握できるはずです。
 それに、ラストシーンの駒は回り続けるのかそうでないかは、その先がカットされてしまっているためにどうなるのか分からず、そんな点を議論してみても仕方がないのではと思います。

 この映画は、こんな心理学的な装いを捨て去ってしまい、最近のSF物のように、いろいろな可能的世界を渡り歩く話と理解してしまえば、ずっと受け入れやすいのではないでしょうか?
 そんな可能的世界ならば、都市の半分がめくりあがったり、また無人のビルが無数に立ち並んでいたり、海岸沿いのビルが次々と崩壊しても、少しもおかしなことではありません!
 あるいは、村上春樹氏の『1Q84』が描いている物語―月が一つの世界から月が二つある世界へ行き、また元の世界に戻るお話―を若干複雑化したものと思ってもいいのかもしれません。なにしろ、『1Q84』は、月が二つある世界で、オーム真理教のカリスマ教祖のような人物を暗殺した「青豆」という若い女性と「天吾」という小説家が、元の月が一つある世界に手を携えて戻るというストーリーで、雰囲気としては、今度の映画によく似ているのではと思えるのですが。

 余計な虚仮威し的なところを取っ払ってしまえば、この映画はいつものアクション物であり、第1階層でのカーチェイスとか第3階層における守備部隊との銃撃戦とかは、十分楽しめるものではないかと思いました。

 俳優陣では、デカプリオはいつもながらの持ち味を発揮していますが、今回特に興味を惹いたのは、彼の相棒アーサーに扮したジョゼフ・ゴードン=レヴィットです。第2階層におけるエレベーター内での作業を実に黙々とこなしている様は、この映画でも出色ではないでしょうか?
 さすがに、あの『(500)日のサマー』の主役を演じた俳優だけのことはあるなと、いたく感心いたしました。

(2)映像に映し出されているのが、現実なのか主人公の想像によるものなのか、実際のストーリーはどのように進行しているのか、と言ったことが曖昧模糊として良く分からないという経験は、以前見た『脳内ニューヨーク』でも味わいました。



 最近そのDVDがTSUTAYAで借りられるとわかり、早速見てみました。依然として理解しがたい感じに包まれるものの、もしかしたら主人公ケイデンフィリップ・シーモア・ホフマン)の後半生を描いた作品で、その中に彼が妄想で作り上げた劇作が紛れ込んでいるのでは、と思えてきた次第です。
 主人公ケイデンは戯曲の演出家ながら、ある日突然、愛する妻が娘を連れて家を出てしまう一方、これまでの業績から、多額の賞金が付いた賞を受賞します。
 ここで、妻の個展にケイデンが出かけるエピソードや、娘が全身にタトゥーを入れた姿でヌードモデルとなるものの難病にかかって死んでしまう話、ケイデンが劇場の受付嬢ヘイゼルと親しくなったり、女優との間で子供をもうけたりしながら、最後に死亡するに至る話は、一応リアルな世界の出来事ではないか、と思われます。
 他方で、受け取った多額の賞金を使って、マンハッタンにある巨大な倉庫を購入し、その中にニューヨークの街のセットを作り、そこで自分自身の真実の人生をありのままに描き出そうとする話は、ケイデンの脳内の妄想によるものではないかと思われます。

 ただ、そう振り分けても、うまく理解できないケースがいくつも出てきます。
 たとえば、ケイデンは、自分が作ろうとする劇に、自分自身も登場させようとして、ケイデン役を募集すると、これまでたえずケイデンのことを追跡してきたという男性サミー・バーナサンが現れます。すると、彼がケイデン役を演じればサミー役は誰がやるのか、ということになり、それではということでサミー役の男性が現れます。映画ではこれ以上は追及されませんが、本格的に辿れば、無限にこの役を募集する必要が出てくることでしょう!
 それはともかく、ケイデン役になったサミーは、実際のケイデンと同じようにヘイゼルと親しくなろうとします。すると、本物のケイデンは、どうしてサミーと親しくするのかとヘイゼルを叱りつけます。すると、それを見ていたサミーが、人生に絶望して飛び降り自殺してしまいます。
 いったいこれはどこまでがリアルな世界で、どこまでが妄想の世界の話なのでしょうか?

 この映画は、『インセプション』と違いアクションなど娯楽的要素が全くないため、こうした疑問にはまり込むと出口がなかなか見つからず、放り投げるか考え続けるかどちらかせざるをえなくなってしまいます!
 でも、『インセプション』のような虚仮威し的な感じはマッタクしませんでした。

(3)映画評論家は、総じてこの作品に対して好意的であるように思われます。
 福本次郎氏は、「もはや夢と覚醒の境界線は曖昧になり、夢の中の夢の中の夢の中の夢という恐ろしく複雑で壮大な構成に、主人公が軸足を置いている現実でさえ夢なのではという疑問にさらされる。時間も空間も歪み重力さえなくなる夢の情景を描いた映像は細部にまでリアリティが宿り、圧倒的な情報量は視覚的表現の可能性のさらなる進化を実感させる」として、80点という高得点を、
 渡まち子氏も、「夢という無形で無限の素材を使い、犯罪、アクション、ラブストーリーまで組み合わせた前代未聞のこの映画、“邯鄲の夢”にも似た物語はなるほど複雑だが、思わず唸る面白さだ」として70点を、
 前田有一氏は、「凄いものを作ったものだと頭では理解できるものの、感情に響くものは少なく、改めて鑑賞したいという欲求はあまり起こらなかった」として65点を、
それぞれ与えています。

 ただ、前田氏は、「現実と非現実の境界。真実(と信ずるもの)を知ったほうが幸せなのか否か。そんなややこしい哲学的問題を描く『インセプション』は、映画の内容もかなり複雑」と述べたり、「『インセプション』は本来、前日には十分な休養をとり、ワンシーン、ひとつの台詞たりとも見逃さない覚悟で、3回くらいは見ないと作品の真意を理解するには至らないであろう、重厚な作品である」とか、「ユング心理学でいう、集合的無意識の共通、の概念をモチーフにしているのかなと思う」とか述べたりしているところ、こういう物言いこそが、この映画を神棚に祭り上げているのだと言うべきではないでしょうか?




★★★☆☆


象のロケット:インセプション

ハングオーバー

2010年08月09日 | 洋画(10年)
 予告編から大層面白そうな映画だなと思ったので、『ハングオ-バー/消えた花ムコと史上最悪の二日酔い-』をシネセゾン渋谷で見てきました。

(1)ストーリー自体は、いたって他愛ないものです。
 ダグと称する男性が、ロサンジェルスでの結婚式を2日後に控えて、友人3人と独身時代の最後を過ごすべく、義理の父親のベンツに乗ってラスベガスに繰り出します。ただ、ホテルでのパーティーでクスリの混じった酒を飲んだため、3人は翌朝目が覚めると酷い二日酔い。前夜の記憶は、皆の頭から一切失われています(なんと花婿ダグは行方不明!)。

 前の晩の騒ぎは超弩級だったらしく、ホテルの部屋の中は凄まじく破壊されています。そこには、なんと猛獣のトラまで!調べてみると、マイク・タイソンの邸宅から自分たちの部屋までそのトラを連れてきてしまったようです。
 また、現金が8万ドル入った鞄を、カジノで間違えて持ってきたらしいのです。暫くすると、その持ち主である中国人マフィアのボスが、金を返せと仲間を連れて脅しに来ます。しかしそんな鞄はどこにも見当たりません。困った3人は、奥の手としてカジノでイカサマギャンブルをやったところ、なんと8万ドル儲けてしまいます。それで、人質のダグを取り戻せると思いきや、戻ってきたのは名前が同じでも別人。
 このほかにもあれやこれやの騒ぎが盛りだくさんに持ち上がりますが、それでもなんとか花婿ダグを探し出して、無事に結婚式が執り行われました、という次第。

 友人たちも元に戻って一件落着かと思うと、そうでもなさそうです。
 友人の一人は、婚約者らしき女性に、良きアメリカ人としての行動をとるよういつも事細かに小言を言われているところ、ラスベガスでのドンチャン騒ぎの中で、あろうことか子持ちのストリッパーと結婚式を挙げてしまいます。二日酔いから覚めたら婚約者のところに戻ると思いきや、どうもこのストリッパーと正式に結婚しそうな雲行き。“水商売をしている女性の方にこそ本当の愛がある”、真実は外観ではない、というわけでしょうか。

 このように言ってしまうと身も蓋もありませんが、ストーリーの展開振りに観客の意表を衝くところもあって、これで彼らが話している言葉をもっと十分に理解できたなら、ズット面白さも増すのにな、と思った次第です。
 というのも、米国ではコメディ映画がたくさん制作されているにもかかわらず、日本ではそのほんの一部しか公開されないのは、一つには言葉の問題があるとされていて、クマネズミも、そうしたことから、この映画は見るには見てみたいものの、幾分及び腰でもありました。

 それでも、あのタイソンが出演してピアノを演奏しながら歌うという場面があるなど、見どころも多く、愉快に楽しめる作品だと思います。

 なお、ラスベガスのホテルなどでのドンチャン騒ぎは、本編では映し出されずに、クレジット・ロールの中で静止画像としていくつも映し出されるという、心憎い構成になっています。帰り支度をしながらその画像を見ていると、この映画のすべてがわかったような気がしてきて、一層愉快な気持ちになって家路につくことができるという具合です。

(2)この映画では、3人がラスベガスカジノで8万ドルを簡単に儲けてしまう様子が描かれています。こんなシーンを見ると、またラスベガスに行ってみようと思う人が増えてしまうかもしれません。
 最近刊行された柴田元幸責任編集の文芸誌『モンキービジネス』(2010 Summer)には、「休み時間をカジノで」(リン・ディン)と題するエッセイが掲載されていて、そこには次のような文章が見られます(平塚隼介訳)。

 「ものを作ることが済むと、僕らはお互いに製品やサービスを売った。……それにも見込みがないと判明すると、僕らは博打にむかった。かっての教会がカジノになっている光景さえ見たことがある。……けれども、この国最大のカジノは、ウォール街にある。巨額のリターンを渇望する僕らは、スーツを着たイカサマ師―連中は僕らが選出した詐欺師どもの後ろ盾を得ている―にあっさりカモにされる。……ラスベガス。農業にも工業にも向かない砂漠の町は、大恐慌の時代にギャンブルのメッカとなった。まぶしい光と歌でラスベガスは君の目をくらませ、君のグラスに酒を注ぎ、君のポケットをすっかり空にしていき、君の元には土産物のキーホルダーと二日酔いが残る。」

 なお、4月14、15日の産経新聞には、次のような記事が掲載されていました。
 「日本でのカジノ合法化などを目指す超党派の「国際観光産業振興議員連盟(カジノ議連)」は14日、参院議員会館で設立総会を開き、民主、自民、公明、社民、国民新、みんなの各党から74人の議員が参加した。議連は民主党のカジノ合法化法案原案をもとに検討、早ければ秋の臨時国会に議員立法で提出、成立を目指す」。
 「カジノが合法化されれば「どこに設立されるのか」が関心の的になる。民主党案は施行地域について「当面2カ所、最大10カ所とし、段階的に実施する」としており、議連内では当面の施行地域に東京都、沖縄県、北海道が上がっている」。

 この記事は参院選前のものですから、現時点での動向は気にかかるところですが、野球賭博問題で相撲協会をやり玉に挙げるのはやむを得ないにしても、他方でこういった方面に道を開いていく必要はあるのではないでしょうか?


(3)映画評論家の評価も高いようです。
 前田有一氏は、この映画は、「ゴールデングローブ賞受賞など、本国で評価が定まった手堅い一品であり、「本当によくできた映画をみたな」と感じたい方には、今週真っ先にすすめたい一本であ」り、「ただの行き当たりばったりのギャグ映画では決してない。ミスリードのうまさ、計算づくの構成など、あまりにテクニックが上手すぎて鼻につく。それだけが不満という、なんとも贅沢な一品である」として75点を与え、
 福本次郎氏は、「映画はコメディタッチの中にも時折リアルな暴力を盛り込んで、本来笑うべきシーンに不吉な予感を漂わせ、腹の底から笑うのが後ろめたいという不思議な感覚を味あわせてくれる」として60点をつけています。



★★★☆☆


象のロケット:ハングオーバー

華麗なるアリバイ

2010年07月31日 | 洋画(10年)
 あるフランス映画を見ようと思って出かけたところが、狙った時間帯には上映されていないことがわかり、それなら別のフランス映画を見ようということになって、『華麗なるアリバイ』を渋谷のル・シネマで見てきました。

(1)邦題を見て、この映画はいわゆる“アリバイ崩し”物かもしれないと思い、それも「華麗なる(grand)」というわけですから、ポアロ探偵も酷くてこずるのではと大層期待させます(アガサ・クリスティの原作によっていることが前もってわかりましたから)。

 ですが、実はそんなことは全然ありません。まず、期待したポアロ探偵はいっさい現れず、代わりに登場するのは風采の上がらない刑事であり、別段彼がこの事件を解決するわけでもありません(ラスト近くで、犯人らが一つの家に集まるのを見ていながら、何の手も打たないボンクラなのです!)。

 また、犯人と目された人のアリバイが映画の中で重要な争点となるわけではなく、従って“アリバイ崩し”がなされているわけでもありません。

 一番犯人らしいのが、殺された精神科医ピエールの妻のクレール。なにしろ、遺体のそばでピストルを持ってしゃがみこんでいたのですから!
 そこで、彼女は警察に連行されますが、彼女が申し立てたアリバイが成立したからというわけではなく、単に使われたピストルと彼女が手にしていたピストルが違っていたという理由から、結局釈放されてしまいます。
 それに彼女は、事件の舞台となった屋敷を所有する上院議員の妻と一緒にキノコ狩りに行っていたとされますが、なぜ上院議員の妻と別れて遺体のそばにいたのかという点については、映画では何ら問題にされません!銃声を聞いて飛んで行ったというのであれば、上院議員の妻も同行したのではないでしょうか?ここでは当初から「アリバイ」など問題視されてはいないのです。

 そこで、クレールでないとしたら犯人と目されるのが小説家フィリップ。というのも、酷いアルコール依存症で、飲んだ時の記憶が全くなくなってしまうことから、特に第2の殺人事件(ピエールの昔の愛人レアが殺されます)について自分の無実を証拠立てられないという点が問題となります。
 とはいえ、これでは身を守ってくれる「アリバイ」自体がまったく存在しないわけで、そんなものを「華麗なるアリバイ」とは言えますまい。
 それに彼には、最初の殺人事件についても、特に第2の殺人事件については、十分な動機がこの映画からはうかがえません〔最初の犠牲者ピエールに対しては、自分が愛する女性エステルが愛する男性だということで嫉妬はするでしょうが、だからといってまさか殺してしまうとは考えられないところです〕。

 そこで彼は、警察に捕まる前に自分で犯人を探さざるを得ないとしてアチコチ走り回ることになり、ついにエステルの仕事場に行って、……。

 最後になって、誰が犯人で、どうやって殺人事件を引き起こしたのか、動機は何かというごくオーソドックスな点が解明されます。なにしろ、犯人が現れて、まだ完結しない復讐行為を継続しようとして自分からいろいろ喋るのですから!
 それですべては明らかになり、フィリップも、晴れて、この事件のことを小説に書こうとして「fin」というわけです。
 とはいえ、ラストで目覚ましい事実が明らかになるわけでもなく、解き明かされるのは酷く地味な事柄でした。こういう地味な結末になるのも、やはり、ポアロ探偵がいて皆のいる前でなぞ解きをしないからではないでしょうか?

 ということで、最近見た『オーケストラ!』で天才ヴァイオリニストのマネージャー役を演じていたミュウ=ミュウ(上院議員の妻の役)とか、“華麗な”肉体を披露するカテリーナ・ムリーノ(ピエールの昔の愛人レアの役)などが登場するものの、全体としてフィット感のしない作品だと思いました。

(2)アガサ・クリスティ原作の映画は、以前同じル・シネマで『ゼロ時間の謎』を見たことがあります(2007年の年末)。



 その際に友人に書き送ったメールに、次のような感想を書いています。
「ストーリー自体は他愛ない感じですが、出演者の中に、今年の夏ごろル・シネマで見た「マルチェロ・マストロヤンニ―甘い追憶」に登場していた娘のキアラ・マストロヤンニ(母親はカトリーヌ・ドヌーブ)と、同じ頃渋谷Q-AXシネマで見た「石の微笑」に出演していたローラ・スメットとが入っているので、なにか本年最後に見る映画に相応しい感じがしてしまいました。
 ところで、こういう正統派ミステリ映画の場合、犯人は主役(もしくはそれに準ずる役)の俳優が演じます。ただ、最後のギリギリのところまであくまでも真っ当な人物として行動し、他方いかにも何か裏がありそうな雰囲気を漂わせている人物は決して犯人ではないというのが、大体どの作品にも当てはまりますから、見ているうちにおのずと犯人は絞られてしまいます。
 これはミステリ映画の宿命かもしれません。ですから、見どころは、謎解き以外の点で映画がどのような魅力を発揮しているのかではないでしょうか?この映画の場合は、フランスの金持階級の豪勢な生活ぶりと、上記した女優の出演とが見どころと言えるでしょう。」

 そうだとしたら、今回の『華麗なるアリバイ』についても、謎解きというよりももっと他の点に注意を向けるべきなのかもしれません。
 劇場用パンフレットに掲載されている監督インタビューでも、アガサ・クリスティーの原作の「本を読みなおしたところ、推理的要素よりも、登場人物たちの感情が緻密なのが魅力的に思えたので、(監督を)引き受けました」と述べられているところです。

 確かに、エステルは、実際に犯行に使われたピストルを、警察より先回りして見つけ出して隠してしまいますし、上院議員の妻もクレールに対して色々気を使ったりします。ただ、この映画に何人も登場する女性の心理状況をうまく観客に伝えるには、1時間半の長さでは大層難しいのではないかと思いました。

(3)映画評論家の論評はあまり見かけませんが、前田有一氏は、「ミステリとしては伝統的な舞台立てだが、それにしても刺激が足りない。かといってクラシカルな風格があるわけでもなく、この古典を引っ張り出して何をしたかったのかが伝わりにくい」し、「もう何もかもが賞味期限切れ。超ベテラン監督の、悪いところばかりが強く出てしまった印象だ」として40点しか付けていません。
 その評点は頷けるものの、前田氏は、「のっけから連発される登場人物名の羅列に、原作未読者はついていくのも大変だ」と述べているところ、こうしたサスペンス映画を前にしたら、まず登場人物の名前を何としてでも早めに覚えてしまうというのが当然の了解事項ではないでしょうか〔せいぜい10人くらいのことですから〕?
 それに原作は英語であり、舞台も人名もまるで違っているので、仮に原作を読んでいたとしても、名前を覚える努力を払わなければ映画のストーリーについてはいけないことでしょう〔本作はクリスティの手によって「戯曲」化されているとのことですから、あるいはそちらは映画と同じ設定になっているのかもしれませんが〕!



★★☆☆☆

象のロケット:華麗なるアリバイ