goo blog サービス終了のお知らせ 

映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

レポゼッション・メン

2010年07月25日 | 洋画(10年)
 『レポゼッション・メン』を新宿武蔵野館で見ました。といっても、単に、待ち合わせの時間まで2時間近くあって、うまく当てはまるのがこれしかないという理由で見たにすぎませんが。

(1)ちょっとした近未来物ではないかと思ったのですが、そうには違いないものの、かなり社会性も帯びているようです。
 すなわち、この作品では、ほとんどあらゆる種類の人工臓器が作られている近未来において、それを製造・販売する企業・ユニオン社が、移植にかかる高額の費用を患者に融資しながら営業を拡大しているとされます。
 ただ、他方で、融資した資金の返済が一定期間滞ると、直ちに回収人(レポゼッション・メン:Repo Men)が出動して、抵抗する場合には麻酔銃で大人しくさせてから、人工心臓とか人工肺などを顧客の体内から取り出して回収するとされています(この点は、移植にかかるローンの契約を行う際には、あまり触れないようにしている、とされています)。

 この映画の主人公は、回収に練達した手腕を発揮するレミーであり、『シャーロック・ホームズ』での活躍ぶりを見たばかりのジュード・ロウが扮しています。また、その同僚のジェイクも重要な役割を果たしますが、『ラスト・キング・オブ・スコットランド』で印象的なフォレスト・ウィティカーが演じています。こうした芸達者な俳優が登場しますし、ふんだんにアクション場面も取り入れられていて(ジュード・ロウのナイフさばきは実に見事なものです!)、面白いことは折り紙つきといえるでしょう。

 ただここには様々な問題がありそうです。

イ)直ちに連想されるのが住宅ローンであり、この映画の背景にあるのが、下記の前田有一氏に言われるまでもなく、世界的な金融危機を引き起こした米国におけるサブプライムローンであるのは誰でもスグニわかることでしょう。

ロ)とはいえ、サブプライムローンの場合は、返済が滞ると住宅が差し押さえられて競売に付されますが、こちらの方では人工臓器そのものが回収されてしまうのです。いずれも、ローンの対象となった物件が取り上げられてしまうものの、人工臓器の場合はそんなことをしたら顧客の命も同時に失われてしまいます(ただ、眼、耳など生命維持に直接関係しない部位については、そんなことに直ちにはなりませんが)。
 従って、常識的には、いくら近未来物とはいえ、このような映画が成立するとはとても思えないところです。
 回収人が人工臓器を回収するとしても、そのあとには元の臓器に戻す必要があるのではないでしょうか?そうしなければ原状復帰とは言えないでしょう。
 あるいは、人工臓器の提供を受けた患者は、ローンの返済が難しくなった場合には、自己破産をすればいいのではないでしょうか?
いずれにせよ、ジュード・ロウらのレポ・メンが、格好良くぶっ放した麻酔銃で眠らせた人の胸をメスで切り裂いて手際よく人工臓器を取り出すなんてことは、それこそ“ありえない映像”としか思えないところです。

ハ)むろん、SF映画なのですから、別の可能的世界にあってはそうなっているのだ、“ありえないこと”を描くのがSFなのだ、としているのかもしれません。でも、そんな無茶苦茶な世界のことを知りたいとは誰も思わないことでしょう!

 劇場用パンフレットの「イントロダクション」で、「本作は人間の尊厳を問い、人命の価値を軽くする営利主義の実態をもリアルかつシニカルに暴き出す」と述べていますが、そんなご託宣の前に、この映画の設定自体が成り立つのかどうかをまずもって十分に検討すべきではなかったのではないでしょうか?

(2)ジュード・ロウの作品は、何のかんの言いながら結構見ています。
 最近では、『シャーロック・ホームズ』や『Dr.パルナサスの鏡』ですし、少し前では、『スルース』、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』、『ホリディ』や『こわれゆく世界の中で』といったところでしょうか。
 単なるクマネズミの偏見なのでしょうが、ジュード・ロウは、『リプリー』(1999年)や『コールドマウンテン』(2003年)などからしても、どちらかといえば主演するよりも脇で登場する方が生き生きとしてその真価を発揮しているのでは、と思ったりしています。
 『スルース』(2008年)は全編二人の俳優によって演じられていて、ジュード・ロウは主役といってもいい活躍ぶりですが、なんだか演劇を見ているような感じを受けましたし、『こわれゆく世界の中で』(2007年)は悪くはないものの、酷く地味で深刻な印象の映画で彼の良さが生きてはいないような印象でした(共演したジュリエット・ビノシュの影響があるのかもしれません)。

(3)映画評論家の論評はまずまずといったところでしょう。
 前田有一氏は、「いかにもいまどきのアメリカ人向きブラックジョークに満ちたSF映画」であり、「斬新な世界観、中国語があふれる近未来のアメリカの風景、容赦ない回収から、必死に逃げ回るハードアクションなど見所はたくさん」として70点を、
 渡まち子氏は、「ミュージック・ビデオ出身という新鋭ミゲル・サポチニク監督のテンポのいい演出が、ダーティな“ハッピーエンド”も含めて、シャープな印象を醸し出していた」などとして60点を、
 福本次郎氏は、映画は主人公の「男の心境の変化と、彼に降りかかる危険を振り払いつつ真実に近づいていく過程を通じて、肉体の機能は機械に代替させると同時に、人格を損なわずに心を入れ替えることも可能なのかを問う。しかし、歪んだ世界では正義や良識が排除の対象になるのだ」として50点を、
それぞれ与えています。

 どの評者もSF物に野暮なことは言わぬが花と決め込んでいる感じですが、しかしクマネズミとしては、この作品の設定自体が気になってしまうのです。



★★☆☆☆

象のロケット:レポゼッション・メン


ボローニャの夕暮れ

2010年07月22日 | 洋画(10年)
 ロマンティックなタイトルについ惹かれて、『ボローニャの夕暮れ』を渋谷のユーロスペースで見てきました。

(1)タイトルから、この映画はイタリアの古都を背景とする心温まるヒューマンドラマかなと思ってしまいました。なにしろ、「ボローニャ」といえばヨーロッパ最古の大学のある都市として有名ですから、日本で言えば京都嵯峨野あたりを舞台とするラブストーリー物に相当するに違いないと先入観をもってしまったわけです。
 ですが、実のところは、第2次大戦の末期のイタリアを舞台とするかなり深刻な作品でした。

 原題が「ジョヴァンナの父」というように、主役は、高校の美術の教師ミケーレ。
 彼には同じ高校に通う娘ジョヴァンナがいますが、なぜかいつも父親がそばに寄り添って、色々娘の面倒を見ようとします。
 そして、「もっと自信を持って接すれば、男の子とも仲良くなれる」などとポジティブに生活するよう説得します。
 それで娘の方も、イケメンで人気のある男の子と話をするようになり、それを見つけたミケーレは、ひそかにその生徒を呼びつけて、私の娘とうまく付き合ってくれたら成績評価の方もなんとかしよう、などと言い出す有様。

 とここまでは、まあ取り立てて言うべきことはないのですが(過保護が過ぎるとは言え)、突然、ジョヴァンナの親友である女子生徒が体育館で殺される事件が持ち上がり、アレヨアレヨという間にジョヴァンナが犯人となって、と話が急展開し、まさかこの映画で殺人事件が取り扱われるなんて、とアッケにとられてしまいます。

 こうした話の上に、イタリアにおけるファシスト党の躍進と凋落という歴史的社会状況が重ね合わされます。たとえば、ミケーレが住んでいるアパートの隣人で年来の親友の警察官セルジョが大のムッソリーニ支持派で、ジョヴァンナの事件においても様々にミケーレをサポートしてくれるものの、最後にはパルチザンにつかまって悲惨な運命に見舞われることになります〔こうした反体制の動きは、同じ枢軸国だったドイツや日本では全く目立ちませんでしたが、ファシズムを標榜する党が最初に誕生した国で反ファシスト派パルチザンが活躍したとはなかなか理解しがたいことです〕。

 予想とはだいぶストーリーが違ってしまったものの、まあこんなところであれば十分に受け入れ可能です。ですが、この映画でとても理解し難いのが母親デリアの行動なのです。

 父親ミケーレの風貌にはそぐわない美貌のデリアは、ジョヴァンナに酷く冷淡なところがあり、彼女が警察につかまって結局は精神病院送りになったところ、ミケーレの方は足しげく面会に行くものの、ジョヴァンナが母親と会うことを強く求めているにもかかわらず、なぜか一度も行こうとはしないのです。

 あるいは、ジョヴァンナに会うと、耐え難い真実を彼女が口にするかもしれないと恐れていたのでしょうか。というのも、病院の医師によれば、彼女がこうした精神状態に陥った原因は母親にあるようだからです。すなわち、母親が、ミケーレ以外の男性(具体的には、警察官のセルジョ)を好きになっていることをジョヴァンナがひそかに感じて、そういう錯乱状態になっているのでは、と医師は指摘します〔医師によるこの説明は理解不能ですが〕。

 そのことを医師から聞いてミケーレは納得し、自分はジョヴァンナの面倒を見ることに専念するから、セルジョ(妻を空襲で失って独り身になっていました)と一緒になった方がいいとデリアを説得すると、あろうことかデリアはそれを受け入れてしまうのです。
 そればかりか、終戦直後、セルジョがパルチザンにつかまって処刑されそうになっても、じっと見守るだけで彼を救出しようとはしません。
 加えて、しばらく経ってから、ミケーレと一緒に入った映画館でジョヴァンナ(そのころまでに、精神病院から解放されていました)がデリアを見つけ微笑みかけると、同行していた男性とは別れていともあっさりと元の鞘に収まってしまうのです。これはこれでハッピーエンドとはいえ、“エーッ!それでいいの”という感じになってしまいます。

 確かに、この映画の主人公は父親のミケーレかもしれないところ、母親のデリアの特異過ぎる行動が全篇を隅々まで支配しています。ですから、それを一般人にも納得いくように説明してもらわないと(あるいは理解できるように描いてもらわないと)、とてもこの映画を評価する気にはなれません〔イタリアでは大ヒットした映画とのことですから、おそらくクマネズミの理解力が劣っているがためにこの映画の良さが分からないのでしょう!〕。

(2)この作品では、母親デリアの行動とともに、ジョヴァンナの精神状態が中心的な位置づけを持っています。
 親友を殺してしまうという事件を引き起こしたジョヴァンナは、結局、精神障害によって責任能力なしと判定され、裁判では無罪を宣告されますが、代わりに精神病院への入院が義務付けられます。
 映画から受ける感じからは、一度てんかんの発作を引き起こしたり、思い込みが激しすぎるといったところが見受けられるものの、それほど酷い精神障害があるとは思えません。
 ですが、酷く汚れた精神病院に入れられると(注)、なぜか次第におかしなふるまいをするようになります。そこから受ける印象では、無理やり一定の枠組みの中に彼女を押さえつけようと病院側が対応したことや、もっと奇矯な振る舞いをする患者と一緒に隔離され彼らの影響を受けたのではないか、などと思えてしまいます。
 とはいえ、終戦直後には精神病院から解放され、父親との落ち着いた日常生活を取り戻していますから、病院でどういった治療を受けていたのか映画からはわかりませんが、かなりの程度治ってしまったのでしょう(7年余り入院していたことになります)。

 いったいこの精神病院は何なんだと気になっていたところ、次のようなネットの記事(2007年3月30日)に遭遇しました。同記事によれば、イタリアでは精神病院の大部分が公立のものであるところ、「3年ほど前に、ついに全土で公立精神病院が廃絶された」そうなのです!
 すなわち、「1960年代から精神病院の開放運動が始まったイタリアでは、78年に公立精神病院の廃止をきめる法律180号(運動の中心だった医師の名からバザーリア法とも呼ばれる)が成立しました。といっても、それですぐに全国で病院が閉鎖されたわけではなく、脱施設化と地域への開放は条件の整った町からすすめられていき、20数年かけてようやく完全に実施された」とのこと。
 非常に興味深い話なので、『精神病院を捨てたイタリア―捨てない日本』(大熊一夫著、岩波書店、2009.10)を読んでみようかと思っています(この本については、評論家の柄谷行人氏が読売新聞に書評を掲載しています)。


(注)なんだか『愛のむきだし』の後半において主人公ユウが隔離される精神病院に雰囲気がとてもよく似ている印象を受けました。そして、それらは、松尾スズキ監督の『クワイエットルームにようこそ』(2007年)で描かれている閉鎖病棟の明るく綺麗な様子とは正反対の感じです。ちなみに、後者の作品については、渡まち子氏が、「内田有紀が魅力的で、脇を固める個性的なキャラも豪華。拒食症の患者を演じた蒼井優が特に印象深い。精神病棟という密室空間にふさわしい狂騒に、舞台のような演出がさえまくる。寂しいのに前向きになれるラストが秀逸」と絶賛し85点をつけています。

(3)映画評論家はこの作品に対して、総じて好意的です。
 小梶勝男氏は、「いろんなことを考えさせるが、少しも難解な映画ではない。プーピ・アヴァーティ監督の演出は娯楽色豊かで、むしろエンタティンメントとしてよく出来ている。女子高生殺人事件をめぐるサスペンス、意外な犯人とその動機。娘や妻の性。戦争によって次第に壊されていく日常。それらがボロネーゼソースのように混じり合い、酸味も甘みも苦みも旨みも、様々に感じさせてくれる」として85点を与え、
 福本次郎氏も、「あらゆるものを犠牲にしても娘に無償の愛をそそぐ父親と、彼らから少し距離を置いている母親の姿が対照的だ。映画は第二次大戦をはさんだ激動の時代を生きぬいた親子を通じて、家族の絆とは何かを問う」として60点を与えています。

 小梶勝男氏は、哲学者ハイデッガーを持ち出しながらも「少しも難解な映画ではない」としていますが、どうして母親デリアの行動に疑問を持たないのでしょうか、ジョヴァンナの精神状態についてよく理解できるのでしょうか、不思議な感じがします。


★★☆☆☆



象のロケット:ボローニャの夕暮れ

闇の列車、光の旅

2010年07月11日 | 洋画(10年)
ブラジルに3年間いたことがある因縁で、中南米の映画が上映されると出来るだけ見に行くようにしてきたことから、『闇の列車、光の旅』もTOHOシャンテシネで見てきました。

(1)この映画の中心人物は、自分たちを取り囲んでいる厚くて高い塀を何とか乗り越えようとする若い二人です。
一人は、メキシコの田舎のギャング集団(ストリートギャング集団「マラ・サルバトゥルーチャ」のサブグループなのでしょう)から何とか逃れ出ようとするヒーローのカスペルであり、もう一人は、ホンジェラスの首都の貧民窟から逃れ出てアメリカに行こうとするヒロインのサイラです。
当初二人は、何の関係もなしに別々の生活を営んでいましたが、ヒロインらがアメリカに行くべく乗り合わせた列車(といっても、その屋根に不正乗車しているにすぎませんが)を、ヒーローがボスと一緒に襲撃した際に、離れていた二つの線が一つの線に合わさります。
その際にボスがサイラを暴行しようとするのをやめさせようとして、ヒーローはボスを殺してしまうことから、彼は「マラ・サルバトゥルーチャ」の仲間からつけ狙われます。はたして二人はアメリカに無事入国できるでしょうか、……。

この映画が興味深いのは、色々な出来事が複線的に描かれていることではないかと思いました。たとえば、
イ)ヒーローとヒロインが、メキシコとホンジェラスと、全然別の国で無関係に生活しているところから物語が始まります。
尤も、中米という酷く狭いところに人為的にひかれた境界線で別の国になっているだけのことで、言葉もスペイン語が共通ですから、それほど隔絶した感覚ないのかもしれませんが。

ロ)カスペルは、列車を襲撃する前に、自分の恋人をボスが暴行しようとして誤って殺してしまったことを知っていて、そのボスが再度サイラを暴行しようとしているのを見て抑えが利かなくなったのでしょう、思い余ってボスを殺してしまいます。ところが、ヒーローは、このボスの取立てで、このギャング集団の仲間になり、その後も目を掛けられてきたようなのです。

ハ)この列車襲撃の際に、カスペルは、自分が目をかけてきたスマイリーという少年を同行させますが、ボスを殺した後、スマイリーのためを考えて自分と同行させずにギャングのもとに戻します。その結果、逆にスマイリーは、ギャング団に忠誠心を示そうと、ヒーローを殺そうと追跡するようになります。

ニ)サイラは、自分を救ってくれたヒーローに好意を持ちますが、彼は、ボスに殺された恋人のことが忘れられないこともあって、ヒロインを遠ざけようとします。ですが、彼女はくじけずあくまでもカスペルについていこうとします、そして、……。

この映画を監督した日系アメリカ人のキャリー・ジョージ・フクナガ氏は、弱冠33歳で、これまで2本の短編映画しか製作していないにもかかわらず、無名の俳優たちを使いながら、初長編のこの作品を頗る感動的なものに仕上げたのは素晴らしいことだと思います(ちなみに、大層感動的な長編第1作目の『息もできない』を製作したヤン・イクチュンも35歳です!)。

(2)この映画では、メキシコのグアテマラよりに位置する町のストリートギャング集団「マラ・サルバトゥルーチャ」が登場します。
これは現実のギャング団であり、元々は、アメリカのロサンゼルスに住み着いたエルサルバドル難民を守るために結成されたエルサルバドル人だけのグループだったそうですが、現在ではアメリカだけでなく、中米全域にその活動拠点を広げる強大なグループとなっています(このように勢力が拡大したのは、アメリカ政府が多くのマラ・サルバトゥルチャを本国のエルサルバドルに強制送還してしまったことによるとされています)。

劇場用パンフレットに掲載されている川崎美穂氏の解説によれば、彼らは、「自らが凶暴なギャングであることを示すためのタトゥー」をいれています(「映画の中でも、彼らのアジトには専属の彫師がいて、稚拙なデザインを極めて不衛生な環境下で仲間に入れている場面がある」)(注1)。



また、「人を殺めた者は目の下にティアドロップス(注)のタトゥーを入れる場合が多い」とのこと(注2)。下図では見難くて恐縮ですが、右目の横下に小さな刺青が描かれています。




(注1)同じように国境を巡る物語である『フローズン・リバー』でも、その女主人公レイの腕にはタトゥーが入っていました(尤も、レイがギャング団の一味というわけではありません)。
(注2)映画の中では“ラグリマ”とスペイン語で言われていますが、そのタイトルをつけた非常に有名なクラシック・ギターの曲がF・タレガによって作曲されています。


(3)評論家諸氏は、総じてこの映画に対して好意的です。
渡まち子氏は、「劇中には、中南米の移民問題と犯罪組織の実態がリアルに描かれ社会性を感じさせるが、同時に、青春映画のみずみずしさをも放っている。容赦ない結末の中に、かすかな光が見えるのは、真っ直ぐに前を向くサイラの瞳のおかげかもしれない」として75点を、
福本次郎氏は、「映画は経済格差の底辺からなんとか這いあがろうともがく少女と、組織を裏切った少年の逃避行を通じて、中米の貧困の現実に迫る」作品であり、「貧しさが犯罪を生み、犯罪が産業を衰退させて更なる治安の悪化を生むという負のスパイラル。先のことなど考えず、今だけしか見つめられない彼らの現状が切ないほどリアルに再現されている」として70点を、
前田有一氏も、「ほのかな意外性を感じさせるラストシーンは、パウリナ・ガイタンのパーフェクトとしかいいようのない素晴らしい表情のおかげで、観客も一気に涙が噴出する。過酷極まりない長い旅の、そのつらさ全てがこの数秒間、一気に感動に変換されて押し寄せ」、「人々の満足度を大いに高める優れた締め方であった」として65点を、
それぞれ与えています。



★★★★☆



象のロケット:闇の列車、光の旅

マイ・ブラザー

2010年06月22日 | 洋画(10年)
 『マイ・ブラザー』(原題は「Brothers」)を恵比寿ガーデンシネマで見てきました。
 予告編で見たときからこの映画はいい作品ではないかと思っていましたので、公開されると早速出向いてみました。

(1)実際にも、マズマズの出来栄えだなと思いました。.
 戦争で傷つく若者と彼を支える家族とに関わりを取り上げているのですから、普通の描き方でも十分なところ、この映画ではさらに、兄と弟との関係、父親とその息子たちとの関係(ある意味で映画『エデンの東』以来おなじみのものとなっていますが)などが濃密に描かれているので、一層感動が深まるように作られています。

 簡単に内容に触れれば、海兵隊に所属する出来が良く父親の自慢の息子サム(兄)、強盗の罪で服役し最近出所したばかりの不肖の息子トミー(弟)、それに兄嫁のグレースが主な登場人物です。サムは、急に戦地アフガニスタンに出向いたと思ったら、戦死〔乗っていたヘリコプターがタリバンの攻撃で墜落〕の訃報がグレースのもとに届きます(注1)。トミーは、兄夫婦の子供の面倒を見ているうちに、グレースとの関係が親密になりかかるところに、突然トミーが帰還します。そこで、……というように、話は進行します。

 最近『ニューヨーク、アイラブユー』で見たナタリー・ポートマン演じるグレースが、当初は嫌っていたトミーを次第に憎からず思うようになっていく様子、折角恐ろしい戦地から帰還できたというのに弟が自分の妻を寝とったのではないかという疑念にさいなまれて荒れていくサム(トビー・マグワイア)の姿、自分はどこまでも父親に嫌われていると思い続けるトミー(ジェイク・ギレンホール)の荒み方、など実に念入りに描かれていて、そこにサムの戦地における悲惨な体験までも加わるのですから、漠然と見ていると何となく感動してしまいます。

 ですが、いろいろ問題があるのではと思います。
 弟のトミーと兄嫁のグレースは、お互いに思いを募らせてキスをするところまで至りますが、それ以上は踏み込みません。
 ある意味で、その点が、この映画の限界なのではという気がしないでもありません。兄夫婦の二人の子供たちは、十分にトミーに懐いていますし、なにより長年トミーを嫌っていたグレースが、トミーのことを悪い人ではないと思うようになったのですから、2人が愛し合うようになるのは自然の成り行きではないかとも思われるところです。
 その一歩手前でブレーキがかかることで、いくら兄サムになじられてもトミーはそれを毅然と跳ね返すことができ、そのことを通じてサムのトミーに対する信頼が蘇り、、最終的なサムの立ち直りを予感させるところにつながっていくのでしょう。
 しかしながら、映画的にはそうだとしても、それでは十分に詰め切れていないのではという違和感が残るのもやむを得ないのではないでしょうか?

 また、帰還したサムは、最終的には精神病院に入院することになります(いわゆるPTSDによるのでしょう)。そこで妻のグレースが、夫のサムに向かって、戦地で起きたことをすべて話してしまうべきだ、と言います。そうすれば強いストレスから解放されると信じて。そこで、やっとのことで、サムは自分が犯した恐ろしい出来事を告白することになるのですが、この映画は、そのことによって、あたかもサムが、そしてサムとグレースの夫婦が救われるだろうとの期待を観客に懐かせてしまいます。
 ですが、果たしてそんな告白によってサムはPTSDから救われるのでしょうか?そこにはかなりの飛躍があるのでは、と思えて仕方がありません。

 さらに、この映画では、サムが出向くアフガニスタンで戦うタリバン兵が出てきます。ところが、これらの兵士を演じる俳優については、劇場用パンフレットでは一切何も触れられてはおりません(おそらくクレジットでも)。まあアメリカに敵対する勢力に関することですから、ある意味で仕方のないことかもしれませんが、そうした扱いに対応するのでしょう、実に型どおりに非人間的な敵兵士像になってしまっています。アメリカ人兵士は、一人一人の背後に家族がいて、一人一人が様々なことに悩む姿が描かれるのですが、その一方でタリバン兵は、十羽一絡げの「その他大勢」扱い、非人道的なことばかりをする姿しか描かれません。

 よく考えてみると、何もタリバン兵による非道な仕打ちをサムが受ける場面をわざわざ設けずとも、この映画は十分成立するのではないでしょうか?単に、乗っていたヘリコプターが撃墜され、かろうじて助かったサムがケガの治療で1年くらい入院生活を送らざるを得なかったという状況でも、トミーとグレースの接近という事態はあり得るでしょうから(注2)。

 以上のような点が引っ掛かり、サムを演じるトビー・マグワイアやトミー役のジェイク・ギレンホールの熱演もあって映画全体の出来栄えはまずまずだとは思いますが、今一乗り切れませんでした。


(注1)つまらないことですが、米軍によるサムの戦死の確認方法がかなり杜撰な感じです。映画では3人もタリバンに拉致されるのですから、乗員数と死体の数との不一致にスグニ気がつくでしょうし、現地がタリバン支配地域でそうした確認が困難というのなら、戦死と断定するのにもっと時間をかけるべきではないでしょうか?
(注2)ヘリコプターの墜落という事故に遭遇すれば、それだけでサムのようなPTSDの症状を呈することは十分考えられます。


(2)この映画でサムとトミーの兄弟の父親役には、あのサム・シェパードが扮しています。以前ヴィム・ヴェンダーズ監督の『アメリカ、家族のいる風景』(2005年)で主役を演じていたときからそれほど経過してはいないのに、随分と老けてしまったなという印象を受けました。
 ところで、その映画も家族にまつわる話で、家族を顧みないで映画俳優として生きてきた男(サム・シェパード)が、急に気が変わって、砂漠ロケの真っ最中に30年ぶりに母を訪ねていくと、その母が、「ある女から電話があって子どもがいると伝えてきた」と話し、そんならその女の元に行くかということになって、と物語は進みます。
 今回の映画で描かれているしっかりとした家族とは180度異なる有様ですが、これもまたアメリカの家族の一つの典型なのかもしれません。

(3)映画評論家は総じて好意的だと思われます。
 町田敦夫氏は、「大きな困難に直面した家族が、愛の力で再生できるのかを問う普遍の物語だ。誤解してならないのは、「愛の力で再生する家族を描く映画」ではなく、あくまでも「それができるかを問う映画」だということ」だ、として70点を、
 渡まち子氏は、「映画は、戦争や戦場を直接的に描かないことで、悲劇はどんな人間にも起こりうると感じさせる。と同時に、どれほどのダメージからも生まれ出る希望があり、必ず帰る場所があるのだと、ジム・シェリダンは訴えているのだ」として60点を、
 福本次郎氏も、「戦争がもたらす黒い影といった題材にいまさら新鮮味はない。いや新鮮味がないことで、この作品はいまだ戦争の悲劇が繰り返されている愚かさを改めて告発しようとしているのだ」として60点を、
それぞれつけています。クマネズミにはヤヤ甘めのレビューだなと思えるのですが。


★★★☆☆


象のロケット:マイ・ブラザー

プレシャス

2010年06月17日 | 洋画(10年)
 映画『プレシャス』に出演したモニークという俳優が、アカデミー賞助演女優賞を獲得しているというので、それならばいい映画に違いないと見込んでTOHOシネマズ・シャンテで見てきました。

(1)この作品の主人公プレシャスは、恐ろしいほどの肥満体質に加えて、読み書きが出来ず、いつも一人でいます。
 おまけに16歳という年齢でありながら、映画の開始の時点では2度目の妊娠中。それも、母親がとっかえひっかえする父親のレイプによるとのこと〔最初の子供―なんとダウン症なのです!―は、お祖母さんが養育中〕。
 失業していて麻薬中毒の母親は、そんな事情もあってか、彼女に酷く冷たく当たります。
 さらに、プレシャスは、通っていた学校を妊娠のせいで停学になり、オルタナティブ・スクールに通うことになります。
 そこでプレシャスは若い女性教師レインと出会うのですが、これが彼女の転機になります。その親身な指導のおかげで彼女は読み書きを覚え、次第に希望の光を見出し始めます。
 とはいえ、そのまま一本調子で進むわけではなく、ラスト近くになると、プレシャスは、父親にレイプされた際にエイズをうつされたことがわかったり、マライア・キャリー扮する市福祉課職員の前で母親と対決するなどのさまざまの試練が待ち受けています。



 ですが、主役を演じるガボレイ・シディベの類い稀なる資質によるのでしょう、そんな厳しい状況に置かれているプレシャスにも何かいい未来があるのかもしれないと、観客に希望を持たせてくれます。

 また、プレシャスが出会う教師レインを演じたポーラ・パットンは、黒人ですがなかなかの美貌で、教師役としての演技も素晴らしいものがありました。



 確かに、プレシャスの母親を演じたモニークは、難しい役を実にうまく演じていますが、映画からは、こちらのポーラ・パットンの方が強い印象を受けました。



 なお、映画の設定は、1987年のニューヨークのハーレムとなっているところ、米国社会の詳しい事情のわからない者にとっては、20年前と今との差はあまり分かりません。このお話は、まさに現代の状況ではないかと思えてしまいます〔黒人極貧層を巡る状況は、現在でもあまり変わってはいないのではないでしょうか?〕。

(2)プレシャスは、通常の学校では授業についていけないこともあって、「イーチ・ワン・ティーチ・ワン」というオルタナティブの学校に入りますが、そこで先生が、各人にアルファベットを順番に黒板に書かせるシーンがあります。
 ところが、驚いたことに、皆、筆記体ではなく活字体でアルファベットを書くのです。

 しばらく前のことになりますが、日本でもそんなことが言われていて、3月15日のTV番組「ズームイン」では、この話題が取り上げられました(注)。
 本家でも分家でも、同じ事態になっているのかもしれません。
 尤も、日本の場合、パソコンの普及で、筆記体アルファベットどころか、易しい漢字さえも、書く必要がなくなってきたためもあって書けなくなっているようで、むしろそちらの方を嘆くべきなのかも知れません。


(注)同番組では、「今、英語の筆記体を書けない若者が増えているそうです。学力が落ちているわけではなく、英語が得意でも筆記体だけ出来ないのです。2002年から学習指導要網が変わり、筆記体は教えなくなってもいいことになったため、この時、中学生だった、現在の22歳より下の世代は筆記体を学校で習ってこなかったのです」云々という問題意識から、この話題を取り上げたようです。


(3)映画評論家は、この映画に対して、総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「主人公を演じる新星ガボレイ・シディベの問答無用の力強さ、彼女を導く教師役ポーラ・ハットンの凛とした美貌。そして、嫌悪感そのものを体現するような母親役モニークの凄みはどうだ。怠惰で暴力的、精神的に病んでいるとしか言いようのない母親メアリーの終盤の独白は、すさまじい迫力で圧倒される」として80点もの高得点を、
 福本次郎氏も、「映画は彼女に明るい未来を示唆するような甘い結末を用意するわけではない。それでも運命は切り開いていくものだという人生の真実をプレシャスは学び、己の力で歩きだす決心は前向きな希望を与えてくれる」として80点を、
それぞれ与えています。

 ただ、前田有一氏は、「別に実話じゃないのだし、下手な先入観を持たぬためにもテーマの普遍性を強調する意味でも、舞台はもっとぼかしてもよかったろうと思う」として60点しか与えていません。
 とはいえ、「舞台設定をぼかす」ことによって「テーマの普遍性が強調」されるというのは、前田氏の酷い思い込みであって、逆に時代性を強調することによって、テーマのリアルさが強調され、ひいてはその普遍性も確保されるのではないかと思われます。
 さらに、「87年のハーレムというのは、今の日本人からするとあまりに遠い世界で現実味がない」と前田氏が言うのは、どういう意味合いなのでしょうか?ハーレムの年々の変貌ぶりなど知らない日本人が大部分であって(アメリカ人だってそうかもしれません!)、20年前のハーレムの世界が「あまりに遠い世界で現実味がない」などと言いうる日本人は、前田氏を含めごくわずかではないでしょうか?

(4)なお、この映画について、神戸女学院大学の内田樹教授は、そのブログにおいて、概要次のようなことを述べています(注)。
 「これまで作られたすべてのハリウッド映画は、本質的に「女性嫌悪」映画だったが、『プレシャス』はその伝統にきっぱりと終止符を打った。
 本作は、たぶん映画史上はじめての意図的に作られた男性嫌悪映画である。
 本作の政治的意図は誤解の余地なく、ひさしく女たちを虐待してきた男たちに「罰を与える」ことにある。だが、その制裁は決して不快な印象を残さない。それは、その作業がクールで知的なまなざしによって制御されているからである。
 本作は、アメリカ社会に深く根ざし、アメリカを深く分裂させている「性間の対立」をどこかで停止させなければならないという明確な使命感に貫かれている。その意味で、本作は映画史上画期的な作品であると私は思う」。

 ここまで大仰に言えるのかどうかは別として、仮にそうであるならば、その日本版が、あるいはひょっとして石井裕也監督の『川の底からこんにちは』ではないかとも思えてきます。
 何しろ、同映画に登場する男性陣はみなダメ人間ばかりで、逆に女性陣は、主役の木村佐和子をはじめとして皆がんばりやで、シジミ工場の再生に取り組もうとしているのですから!社歌を歌う女性従業員の姿は、内田氏が言う「女性たちだけのホモソーシャルな集団」に該当しないでしょうか?
 それに、「男性のクリエイターが男性嫌悪的なドラマを進んで作り出すようになった」結果が『プレシャス』だとしたら、『川の底からこんにちは』を製作したのは、主に監督・脚本の石井裕也氏以下の男性スタッフで、その意味でも通じるものがあるといえるかもしれません。

 尤も、『川の底からこんにちは』のプロデュサーは女性(天野真弓)ですし、映画には男性陣もかなり登場します〔『プレシャス』では、先生のレインがレズビアンという設定をすることなどによって、徹底的に男性が排除されています〕、また「ダメ人間」の男性を、女性陣は「罰を与える」ことなく、結局は許してしまっている節も見受けられるところで、『プレシャス』ほどの筋が入った作品になってはいないといえるかもしれません。
 また、それが「辺境」に位置する日本という国で映画を製作することなのかもしれませんが!

(注)劇場用パンフレットにも、その中核部分が掲載されています。



★★★☆☆


象のロケット:プレシャス


オーケストラ!

2010年06月12日 | 洋画(10年)
 『オーケストラ!』を渋谷のル・シネマで見てきました。

 この映画は連日大入りで、ル・シネマで別の映画を見た時でも、ロビーはこちらを見ようとする人で溢れ返っていました。我々が行った時も、公開されてからかなりの日が経過していましたが、ほぼ満席でした。たぶん、PRというよりも口コミなどで、この映画の良さが浸透しているからでしょう!

 さて、この映画は決してミステリー作品ではなく、どこまでもファンタジックなお話ですが、重要な真相がズット隠されたままでストーリーは進行し、最後に至ってはじめて明らかとなります。ですから、その評価に当たっては、どうしてもタバレしないと難しいところがあるものはと思います。
 ただ、簡単にネタをバラしてしまうと、この映画に対する興味が半減してしまうかもしれません。そこで、以下では、節を改めてネタバレをした上で、評価(酷く個人的で偏っていますが)をしてみたいと思います。

(1)この映画(原題は、”Le Concert”)の大掴みなストーリーは単純です。
 主人公のアンドレイは、30年前までは、ボリショイ交響楽団の有名な指揮者でしたが、ブレジネフ政権の人種政策(非ユダヤ化)によってそのポストから仲間とともに追放され、今は同交響楽団の劇場清掃員として働いています。
 そうしたところ、ある日、パリのシャトレ劇場からFAXが同交響楽団の事務所に届いているのを偶然目にします。その文面は、急に出演できなくなった楽団の代わりに出演してくれないかとの依頼でした。
 FAXを目にしたアンドレイの頭に、ある計画が閃きます。すなわち、彼と同様に楽団を追放されて落ちぶれてしまった昔の仲間をかき集めて、偽のボリショイ交響楽団を結成し、パリに乗り込んで公演を実現させようという計画です。
 早速、親しい元チェロ奏者にその計画を話すと、それからはトントン拍子に事が運び、ついには実現に至ってジ・エンドです。

 こうした中心的なストーリーの脇に様々なエピソードが配置されます。
 なにしろ、30年前にユダヤ人の楽団追放を実際に指揮した元ボリショイ劇場支配人が、この計画実現に一肌脱いで、パリのシャトレ座支配人との話をまとめてしまうのです(無論、彼には彼なりの別の思惑もあるのですが)。
 また、アンドレイが競演を熱望した著名なアンヌ=マリー・ジャケ(『イングロリアス・バスターズ』で映画館の支配人役を演じたメラニー・ロランが扮します)が、コンサートの出演を了承してしまいます。
 さらには、ラストの公演の場面では、一度も事前練習をしたことがないのに(特にソリストと一度も一緒に練習をせずに)、満員の聴衆を沸かせる演奏をこの偽楽団が披露してしまうのです!

 こうした大きなエピソードのみならず、小さなユーモアのよく利いたエピソードもあちこちにちりばめられていて(アンドレイの奥さんが、集会等の人数確保のための代理出席者を斡旋するサービス業を営んでいるとか、パリへ行った楽団員の中に携帯電話機の行商を行う者が出てきたりするなど)、大層楽しくこの映画を見ることができました。

(2)この映画でなんといっても中心的なのは、ラストの12分間に及ぶチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏でしょう。
 というのも、その演奏もさることながら、演奏にかぶさって、なぜアンドレイがこの曲をアンヌ=マリーをソリストにして演奏したがったのか、その理由が明らかにされるからです。

 以下はネタバレになります。
 実は、30年前アンドレイたちが楽団を追われたときに演奏していたのがこの曲で、ソリストがアンヌ=マリーの母親だったのです。アンドレイたちは楽団追放で済みましたが、彼女の父親と母親はシベリア収容所送りとなり、そこで相次いで亡くなります。ただ、収容所に送られる前に、2人は自分たちの子供をアンドレイに託します。さらに、その子供をヴァイオリンのケースに入れてパリまで運んだ女性が、その後アンヌ=マリーのマネージャーをやっています。

 というのが真相ですが、ラストの演奏のシーンまではこのことは明らかにされません。むしろ、関係者はその真相を極力隠そうとします。マネージャーの女性は、アンヌ=マリーには、両親は飛行機の墜落事故でスイスの山中で亡くなったと話していたものですから、今度の話が持ち上がってくると、パリに到着したアンドレイに、「真実」を話さないように、わざわざ頼みに来ます。
 また、アンドレイの右腕とも言うべき元チェロ奏者も、あのことをパリに行ったらアンヌ=マリーに話すのか、と思わせぶりな発言をします。

 こうなると、映画を見ている方は、てっきりアンヌ=マリーがアンドレイの実の子供であって、だから誰も真相を話せないのでは(あるいはそれに近い話があるのでは)、と思ってしまうことでしょう!

 ですが、そうではありませんでした。
 としたら、どうして事の真相を誰もアンヌ=マリーに話せなかったのでしょうか?両親がすでに亡くなっていることは、彼女は前々から知っているのですから、今更亡くなった場所がスイスの山中ではなくシベリアだったとわかっても、それほど大きなショックを受けないのではないでしょうか?むしろ、共産党政権下において権力の犠牲になった、誇りに思うべき崇高な死と考えるのではないでしょうか?
 とすれば、どうしてそんなことを最後の最後までアンヌ=マリーにも映画の観客にも隠そうとするのでしょうか?

 映画の核心部分についてこうしたわだかまりがあるものですから、この映画に対しては、その大部分は大変面白いにもかかわらず結局のところ大した評価をすることができないでいます。
 むろん、親娘関係などは強制収容所にまつわる話に比べたらズッと下世話なことで、そんな真相が明かされたとしてもだからどうしたということになりかねませんが、逆に強制収容所での死は崇高であるが故に隠すべき事柄ではないと思われるのです(この点がうまく説明出来るのであれば、随分と面白いこの映画に対する評価ももう1ランク高くなるのですが!)。

(3)映画評論家は、まずまずの評点を与えています。
 佐々木貴之氏は、「寄せ集めオーケストラが公演に出場して演奏を完璧にやり遂げるというサクセスストーリーである本作。真面目な音楽ドラマかと思いきや、前半ではドタバタ風のコメディーが観られ、後半ではシリアスな雰囲気を漂わせたりといった見応えのある演出で楽しませてくれる」として70点を、
 渡まち子氏も、「アンドレイがなぜフランスの売れっ子女性バイオリニストと共演したがるのか。歴史の悲劇であるその理由が、クライマックスの演奏会と共に語られる場面がすばらしく感動的だ。ラストに演奏されるチャイコフスキーの名曲ヴァイオリン協奏曲のドラマチックなメロディで興奮が沸点に達してしまう」として70点を、
 福本次郎氏は、「予想通りの大団円に少し悲しい過去、30年前に始まった運命のいたずらがチャイコフスキーのダイナミックな旋律に乗って壮大な叙事詩のように紡ぎあわされ、清涼な後味を残す」として50点を、
それぞれつけています。



★★★☆☆


象のロケット:オーケストラ!

冷たい雨に撃て、約束の銃弾を

2010年06月06日 | 洋画(10年)
 『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』を、新宿武蔵野館で見てきました。

 長すぎる邦題が思わせぶりであり〔原題は「vengeance (復讐)」〕、上映館が都内でわずか1館だけなのが何となく気になったものの、予告編で見た時にマズマズだなと思い、また映画評論家の評価もかなり高いので、映画館に足を運びました。

(1)ですが、何となくの予感が当たりました。
 予告編で見ると銃弾が飛び交うアクション映画のようだからうるさいことは言わず楽しめばいいのだと、見る前に自分に言い聞かせましたし、それどころか、『サガン―悲しみよこんにちは』で主役のサガンを演じたシルヴィー・テステューとか、『Plastic City』でオダギリジョーと共演したアンソニー・ウォンとかが出演しているので、それだけでもいい映画のはずだと思ったりもしました。
 とはいえ、私にはこの映画は駄目でした。

 冒頭、マカオで幸せそうに暮らしている一家が、突然殺し屋の集団に襲撃され、夫と二人の息子が殺され、フランス人の妻(シルヴィー・テステュー)が半身不随ながら辛うじて助かります。
 この事件を知ったフランスでレストラン経営をしている彼女の兄・コステロ(ジョニー・アリディ)が、マカオの病院にやってきて、復讐を妹に誓います。
 コステロは、宿泊していたホテルで、ある殺し屋グループと偶然に遭遇したことから、彼らを復讐のために雇い入れます(そのリーダー格の男クワイがアンソニー・ウォン)。彼らのようにマカオの裏社会を知る者からすれば、コステロの妹の家族を襲った殺し屋たちを見つけるのはいとも簡単です。そこで早速、殺し屋同士の対決と相成ります〔中国人としては3対3ですが、一方のグループにはコステロが加わります〕。
 冒頭のシーンからここまでは、かなり手際よく話が進行します。特に、冒頭のシーンは、いかにも幸福な家族の食事風景が、突然の銃撃で地獄に様変わりするのですから、かなりショッキングでした。コステロたちは、悲劇が引き起こされた妹の家に行きますが、現在とその時の殺戮の場面が入れ替わり描き出されるところは、さすがに凄いなと思いました(注)。

 ですが、この殺し屋グループ同士の銃撃戦はいただけません。相手のグループは家族を連れてピクニックにきていたところから、その家族が先に全員引き揚げるまで、コステロのグループはじっと見守るだけです。これはまあ、その後の銃撃戦との対比ということで許せるでしょう〔やや間延びした感じはあるものの、動の前の静でしょうか〕。
 ところが、さあ銃撃戦だと思ったら、夜になったせいもあって、双方の銃弾は激しく飛び交うものの全く当たらないのです!お互い闇雲にブッ放すだけで、時折月明かりによって位置関係がわかり、それによって撃たれる者はいるものの致命傷にはならず、ピストルの音が空しく響き渡るばかりです。
 これでは見ている方は酷く退屈してしまいます。

 それに、主人公のコステロに問題があります。現在はパリでレストラン経営を行っていますが、以前はやはり闇の世界の人間、その時に頭部に銃撃を受け、まだ銃弾が入ったままで、その影響で次第に記憶がなくなってしまうだろうと医者に言われているというのです。
 それで、コステロは、自分が雇い入れた殺し屋グループを見間違えないように、普段から持ち歩いているとおぼしきポラロイドカメラで写真を撮って、一人一人の名前を、出てきた写真に書きつけます。
 ですが、そうなると、肝心の復讐のことはどうなるのでしょうか?そうなのです、そのことも殺し屋グループの顔と同じように次第に忘れてしまうのです。その点は、雇われた殺し屋グループも気がついて、どうしようかとなるものの、一度約束したものはどんな事情があろうともやり遂げるのが俺たちなのだ、ということで復讐は継続されます。
 とはいえ、自分がやっていることが何なのかしっかり把握できない中心人物による復讐とは一体何なのでしょうか?元々、復讐とは敵についての「記憶」が要でしょう。その記憶がなくなってしまったら復讐など無意味ではないでしょうか?単に社会的制裁が行われるだけのことではないでしょうか?

 加えて、最後に事件の張本人(妹たちの殺害を指令したマフィアのボス)を倒しに行く時に、コステロは神に祈りを捧げます。海岸で「神様、私をお助けください」と祈ると、今回の事件で犠牲になった者たちのシルエットが海面に浮かびあがってくるのです。こうなると、もうマッタクこの映画についていけなくなってしまいます。

 というような具合で、アンソニー・ウォンは相変わらず格好がよく、またジョニー・アリディが単身、敵のボスがいるところに乗り込んでいく様子は、あるいは日本のヤクザ映画と見紛うばかりの感じさえします。
 そうです、高倉健とか鶴田浩二が刀とか短刀を振りかざして敵の親分のところに乗り込んでいくのと同じことだと思えばいいのでしょう。ですが、ある種の美学に裏打ちされた日本のヤクザ映画とは全然違う印象を受けてしまいます。

 とはいえ、以上のようにこの映画がダメに思えてしまうのは、ジョニー・アリディの若い時分の活躍を知らず、またこれまでこうした種類の映画をあまり見たことがないせいだからでしょう。もっと同種の映画をいろいろ見て勉強した上で見るか、あるいはそんなに嫌なら自分の世界とは違うと割り切って見に行かなければよかったのですが!


(注)この映画に対して星4つをつけている粉川哲夫氏も、「契約が成立したクワイたちとコステロとが、惨劇のあった家に「現場検証」に行くシーンが実にいい」。「妹が夫と子供のために料理をしていた台所を片付け、冷蔵庫に残された食材を使って、コステロがもくもくとパスタ料理を作り、クワイたちに食べさせるシーンは、ほかでは見たことがない。いっしょに食べながら、コステロの過去、3人の殺し屋たちの性格もあらわになる。実にいい。ここにこの映画のすべてがある」と絶賛しています。


(2)この映画で、コステロが、自分の記憶がなくなっていくのに対処しようとポラロイドカメラを使っているところを見れば、誰しも『メメント』(クリストファー・ノーラン監督、2000年)を思い浮かべることでしょう。
 同作品では、主人公は、妻を強盗犯によって殺害されたショックから記憶障害(事件の前までの記憶はありますが、それ以降は10分間しか記憶が続きません)に陥ってしまいます。そこで彼は、ポラロイドカメラで撮った写真にメモを書き、さらには体中に刺青を彫って、忘れても何とかなるようにしながら、妻殺しの犯人を追っていきます。

 同じようなシチュエーションは、『博士の愛した数式』(小泉堯史監督、2006年)でも見られます。ただ、こちらでは、記憶が続くのは80分間と、幾分長くなっており、またポラロイドカメラは使われず、メモ書きを着ている洋服のあちこちにくっつけるというやり方がとられています。

 この両作品とも、ある時点までの記憶は鮮明だという点では、今回の作品とは異なっているといえましょう。なにしろ、コステロの記憶は、何から何まで次第に薄れていくののですから。
 そうなると、『明日の記憶』(堤幸彦監督、2006年)における渡辺謙のような、介護してくれる妻のことも分からなくなってしまう「認知症」に近い事態になっているといえるかもしれません。

(3)冒頭に書きましたように、映画評論家の評価はかなり高いので驚いてしまいます。
 まず、小梶勝男氏は、「ストーリーはよく出来ているとは言えない」が、「なにせ、「間合い」の映画なのである。男同士が敵になるのか、味方になるのか。撃ちあうのか、撃ちあわないのか。どのタイミングで銃撃戦が始まるのか。全ては相手と向き合い、「間合い」を計ることで決まる。映画はその「間合い」をじっくりと見せる。男たちが黙って顔を見つめ合う緊張感。それが一気に凄まじい銃撃戦へと転じる瞬間のエクスタシー。脚本では絶対に分からないトー作品の醍醐味だ」などとして83点もの高得点をつけます。
 また、渡まち子氏も、「フィルム・ノワールの本家フランスの香りと、香港ノワールの雄ジョニー・トーの独自の美学の出会いは、芸術的なハードボイルド映画を生んだ」のであり、「ジョニー・アリディが漂わす乾いたムードと哀愁、トー作品常連の俳優たちの不敵な面構えこそが、この映画最大の魅力と言えよう」として75点も付けています。

 そこまで、皆さんがおっしゃるのであればそうかもしれませんが!



★★☆☆☆


象のロケット:冷たい雨に撃て、約束の銃弾を

運命のボタン

2010年06月02日 | 洋画(10年)
 『私の中のあなた』で好演したキャメロン・ディアスが出演するというので、『運命のボタン』を日比谷のTOHOシネマズ・スカラ座で見てきました。

(1)映画は、1976年12月 のある日、ルイス家のノーマ(キャメロン・ディアス)が呼び鈴に応じて入口のドアを開けると、玄関先には奇妙な箱が置かれていた(このことから、映画の原題は「The Box」となっています)、というところから始まります。
 その箱の中には、「Mr.Steward will call upon you at 5:00p.m.」と書かれている手紙が入っていて、実際にその時間に、顔の半分が焼けただれて失われているスチュワードと名乗る男性が現れ、「この箱についているボタンを押せば、あなたの知らない人がどこかで死ぬが、あなたは100万ドルを手にすることができる。ただし、ご主人以外の人にはしゃべってはならず、また猶予の時間は24時間だけ」と言って立ち去ります。
 さあ、そんな事態に追い込まれたらあなたはどうするでしょうか、というわけです。

 なかなか面白い導入の仕方であり、その後のキャメロン・ディアスの好演もあって、最後まで映画にひきつけられます。

 ですが、この映画には、様々な問題があるのでは、と思われます。
イ)映画全体からは近未来の雰囲気が濃厚に漂っているものの、実際は、その時代設定を30年以上も前の「1976年」としているのです。
 これは、1976年に、アメリカの火星探査機バイキング1号から切り離された着陸機が、世界で初めて火星に着陸して地表の写真を撮影した、という事実を踏まえてのことなのでしょう。
 そして、スチュワードの顔が変形しているのは、そのバイキングから最初の送信があった直後に雷に打たれたせいだとされています。

 加えて、被雷した際に、エイリアンが彼の体に入り込んだようなのですが、そのエイリアンは、箱の装置を使って、人類が生存させておく価値のある生物なのかどうか判定しようとしているのです。

 ですが、その判定の基準がいわゆる道徳律めいていて、その馬鹿馬鹿しさにすっかり白けてしまいます。要すれば、人類は、利他的な行動をする生き物なのか、利己的な行動しかできない生き物なのかというわけなのでしょう。
 しかし、そんな詰らない基準による判定など、エイリアンごときにしてもらいたくないものです!まさに人類の勝手でしょう!

 また、エイリアン自体は実際には登場しませんが、この話がとても30年前のものだとは思えないのも、背後にその存在が前提とされていることにもよっています。

ロ)そもそも、ギリギリの窮地に追い詰められてもいない一般の人が、高額のお金が得られるからと言って、簡単に殺人に手を貸すようなことをするものでしょうか?
 まして、夫はNASAで働いており、また妻も高校教師というルイス家のような健全な一家で、それも小奇麗な家に住んでいながら、同じ高校に通う息子に対する授業料優遇措置の適用が受けられなくなると、途端にお金が必要だとして、ノーマや夫が箱を前にアレコレ悩んでしまうものでしょうか?

ハ)その上、そうした選択をしてしまうと、更なる選択が迫ってくるのです。突然、息子に異変が起こり、目が見えず耳も聞こえなくなってしまいます。その時に、スチュワードが再び現れて、別のより厳しい選択肢を提示します。すなわち、100万ドルが得られるものの息子の異変は治らない道か、息子の異変は治るがある重大事を敢行しなくてはならない道か、そのいずれかを選べと迫ります。
 しかし、そんな羽目に追い込まれるとは当初の条件では何も言われておらず、後出しジャンケンのような実にアンフェアーな感じがしてしまいます。

 単なるファンタジックなお話なのですから、いろいろと難癖をつけずにそのまま楽しめばいいのでしょうが、全体を道徳的な雰囲気に包みこもうとしている点が、この映画の一番いやらしいところではないかと思いました。

(2)この映画には原作があります。リチャード・マシスン著『運命のボタン』(尾之上浩司編、伊藤典夫・尾之上浩司訳、早川書房、2010.3)に収められている短編「運命のボタン」です。
 とはいえ、その短編で死ぬのは、「本当にはよく知らなかった」夫であって、今回の映画とは意味合いが全く違っています。
 ですから、下記の前田有一氏のように、「このエンディングを(非常にミニマムな)原作と比較すると、この短編をふくらませて映画化するならこうすべきだよねと合点がいく」などと考えずに、ぜんぜん別物だと考えるべきではないでしょうか?
 というのも、肝心要の点、“一番身近だからよく知っていたと思っていたにもかかわらず、本当はよく知らなかった”という恐ろしい事実が、映画ではサッパリ描かれてはいないのですから!
 そして、かわりにいかさま道徳哲学じみた雰囲気が全体に漂うわけで、「こうすべきだよねと合点がいく」どころではありません。元の短編の持っている切れ味を、錆だらけにしてしまったというべきではないでしょうか?

 なお、このハヤカワ文庫の書評が、5月23日の朝日新聞に掲載されました。評者の横尾忠則氏は、「僕はホラー文学なんて一度も読んだことがなかったけれど、これが実に面白い!テンポの速い会話と、視覚表現はまるで映画だ。特に人間の五感や自然現象への眼差(まなざ)しが鋭く、ぐいぐいと肉体感覚に攻 撃を加えてくる。だから冒険小説でもないのに血が湧(わ)き肉が躍り出す。さらに体の奥で惰眠をむさぼっていたアンファンテリズム(幼児性)がにわかに目 を覚まし原初的な死の恐怖と快感がギシギシ音を立てながら開扉するその感覚がたまんない」と述べています。

(3)映画評論家は、総じて好意的にこの映画を見ているようで、
 前田有一氏は、「この映画が抜群に面白いことには、おそらく誰も異論はなかろうが、私が高く評価するのはそのメッセージの普遍性の高さ」であり、「いろいろな解釈が乱れ飛ぶと思うが、私がうまいなと感じたのはこの作品が人間の身勝手な本質をこの上なくシニカルに描いている点」だとして80点もの高得点を、
 渡まち子氏は、「人類滅亡さえ思わせる大掛かりな展開はアブノーマルなのだが、人間の本質と、倫理観を問うテーマは、意外にも古典的だったりする。何かをあきらめているよ うな、それでいて懸命に幸福を求めてもがくノーマを演じるキャメロン・ディアスが、いつもの明るいキャクターとは違って本格的な演技をみせて素晴らしい」として65点を、
 ただ、福本次郎氏は、「無表情な視線、突然の鼻血、諜報機関の関与。追い詰められていく主人公夫婦が体験するじわじわと真綿で首を絞められるような感覚が、思わせぶりな映像の連続で再現される。ところが、彼らに“運命のボタン”を贈った謎の男の過去が明らかになるにつれ、怖さよりもばかばかしさが先に立つ」として40点を、
それぞれつけています。

 このお三方の論評では、私は福本氏のものを評価したいと思います。


★★☆☆☆


象のロケット:運命のボタン

月に囚われた男

2010年05月16日 | 洋画(10年)
 『月に囚われた男』を恵比寿ガーデンシネマで見ました。

 普段SF映画をあまり見ない上に、前日に『第9地区』を見たばかりにもかかわらず、低予算で制作されながらも随分と面白いとの評判が聞こえてきたので見に行った次第です。

(1)映画は、貴重な資源を月で採掘して地球に送るという業務を会社から一人で任された主人公が、あるとき自分とそっくりの人間と月面基地内で出会うというところから、俄然ミステリアスな様相を呈し、面白くなってきます。いったいそれは誰なんだ、と主人公は調査に乗り出します。
 こういう場合、主人公の仕事ぶりを監視するロボットは、敵対的な動きを取るのが普通でしょう。ところが、この映画では、ケヴィン・スペイシーがその声を担当していることからもうかがえるように、主人公が仕事をしやすい環境を作り出すのが自分の役目だという理屈に立って、主人公に何度も助け船を出したりします。
 その挙句突き止めたことは、……。ここで種明かしをしてしまうと、この映画の面白さは半減してしまいますから、あとは映画を見てのお楽しみ。

 至極簡単なセットで、登場人物はほとんど一人、という一風変わったSF映画ながら、最後まで大変面白く見続けることができた映画です。

(2)この映画は、どうしても、先に見た『第9地区』と比べてみたくなってしまいます。
 というのも、どちらも、かなり低予算で制作され、かつ民間企業の社員が主人公であり、さらには女性の役割が余り重きを置かれていない等の点が共通していると思えるからです。

 まず、この映画の制作費はわずかに500万ドル、『第9地区』は3,000万ドルとされますが、それでも3億ドルかかったとされる『アバター』と比べるとかなりの低予算映画です。

 次に、この映画では、貴重な月の資源(「ヘリウム3」)を採掘して地球に送る事業を営んでいる会社「ルナ産業」(Lunar Industries ltd.)が登場し、『第9地区』でも「MIMU」という世界最大の企業が描かれますが、いずれの映画の主人公も、これらの会社に雇われているのです。

 このことから、二つの映画の主人公はどちらも、会社から過酷な取り扱いを受ける羽目になります。この映画の場合には、3年間が終了すると地球に帰還できるという契約を会社と結んでいますが、そんな契約は意味をなさないことがわかりますし、『第9地区』の主人公の場合は、無理やり生体移植のドナーにされそうになります。

 結局のところ、二つの映画の主人公はどちらも、まっとうな人間ではなくなってしまいます。この映画の主人公は、途中で自分が正真正銘の人間ではないことに気づきますし、『第9地区』の主人公は、ついにはエイリアンに姿を変えてしまうのです。

 さらに、この映画では、地球にいる主人公の妻から月面の基地に送られてくる映像が重要な意味を持っていますが、実際に彼女が主人公のところに現れることはありません。他方『第9地区』でも、主人公は、妻の父親によって妻と引き離されてしまい、それでも妻と連絡を保とうと必死に務め、最後はその繋がりだけが生き甲斐となりますが、ここでも実際に主人公の前に妻が現れることはありません。

 勿論、この映画はイギリス映画ですし、『第9地区』はアメリカ映画、またこの映画は月世界の話であり、『第9地区』は地球での話、さらに、この映画の登場人物はほとんど一人と言ってもいいでしょうが(ロボット・ガーティが重要な働きをするものの)、『第9地区』にはなにしろエイリアンが多数登場します、といった相違点は多々あるでしょう。
 
 とはいえ、別々のところで別々の時点で制作した映画に共通する点が少なくとも5つはあるということは、実に興味深いと思いました。

(3)映画評論家の論評は総じて好意的です。
 渡まち子氏は、「ひらめきを感じる映画で、最小限の素材で最大の効果を上げることに成功している」、「ハリウッドの大掛かりなSFとは明らかに違う手触りの小規模・低予算の映画だが、アメリカ映画を含めた名作SFへのオマージュが垣間見えて、監督のSFへ の愛情が伝わってくるようだ。山椒は小粒でもピリリと辛い。サスペンスフルでありながら哀しくて優雅な英国映画の佳作だ」として70点を、
 福本次郎氏も、「危険で孤独なミッションを遂行する主人公がアイデンティティクライシスに直面し、克服していく過程で、恐るべき事実に突きとめる。無機質なモノトーンの世 界で繰り広げられる静謐な悲劇、捨ててもいい命などあってはいけないことをシャープでスタイリッシュな映像が再現する」として70点を、
 前田有一氏もまた、「凡百のSFとは比較にならぬ時代性と知性を感じさせる出来栄え」として70点を与えています。

 ただし、前田氏は、この映画からうかがわれる労働問題の「根幹には、実質的にコストが日本の30分の1といわれる中国の半「奴隷」労働者がいる。それを利用する他企業とノーハンデで競争せねばならないのだから、自分の社員の待遇をよくする余裕など企業にだってあるはずがないのだ。本来なら、いまこそ先進国の労働者は連帯して、中国の不当な「奴隷」使い放題制度や元安維持政策を批判し、改善要求を出すべきだと思うがなぜかやら」ず、「本作品にもそんな視点はなく、その意味では問題の表面を軽くなでただけだ」と、凄い高見にたった別世界のようなそれこそSF的とも言いうる問題を提起しています。
 ですが、「労働問題というものは、派遣切りする大企業を批判しても何ら本質的解決には至らない」のは確かなことだとしても、果たして、「中国の不当な「奴隷」使い放題制度や元安維持政策」が改善されれば、先進国が抱える「現代の底辺労働者の境遇」が改善されることになると言えるのでしょうか?
 この議論は、大昔、アメリカなど西欧諸国が日本の低賃金労働を非難したのと同じ理屈を述べているに過ぎないように思われます。なにより、リカードの比較生産費説ではありませんが、どんなに中国の賃金が安かろうとも、すべての商品について相対的に安価に生産することなど出来る話ではないのですから!


★★★★☆



象のロケット:月に囚われた男

第9地区

2010年05月15日 | 洋画(10年)
 『第9地区』を渋谷東急で見てきました。

 おすぎが、「いろいろな所で、書いたり、喋ったりしています。「第9地区」は“今年度ナンバー1”の映画だと…。早々と今年も始まったばかりの2月に、この作品を見 て、私は他にどんなスゴイ映画が来ても「第9地区」ほど蘊蓄のある映画は無い、と断言出来ます」とまで書いているので、それならばと見に行ってきました。

(1)おすぎが言うように、「とにかくファーストシーンからド肝を抜かれます。巨大なUFOが空に浮いているからです」。
 それも、その中にエイリアンが何十万人もいて、みな栄養失調で苦しんでいるという具合では驚く他はありません。
 H・G・ウエルズ原作の『宇宙戦争』(最近ではスピルバーグ監督の映画〔2005年〕があります)ならば、火星人は、散々地球人を痛めつけた後、逆にウィルスにやられてしまうのですが、この映画では、最初にエイリアンがダメージを受けてしまっているのです。
 また、『宇宙戦争』と違って、この映画の主人公・ヴィカス自身がエイリアンの持ってきたウィルスに感染してしまうのです。
 それに、地球にやってきたエイリアンたちは、地球人よりもずっと威力のある武器を持ってきているにもかかわらず、『宇宙戦争』のように、地球人と対立して戦争を引き起こそうとはせずに、地球人の設けた地区に隔離されて、おとなしく28年もの間そのママの状態を続けています。
 ただ、後半になると、主人公は、地球人に追われるようになり、逆にエイリアンの中に見方を見出して、エイリアンが自分の星に帰還するのを助けるべく大活躍をします。

 様々な点で、従来のSF物とは違った筋の運びなので、見ている者を面食らわせます。確かに、辻褄の合わない点も散見されますが、そんなことはお構いなしにどんどんストーリーが展開され、その面白さに引き込まれてしまいます。アカデミー賞の様々な部門にノミネートされたことはあるなと思いました。

 としても、南アフリカのヨハネスブルグの上空に宇宙船を出現させて、宇宙人を一定の地区に隔離するという設定は、余りにもあからさまに“アパルトヘイト”を連想させてしまい、この映画を通じて“人種差別”問題を云々する気力を失わせてしまいます。
 それに、この映画では、最近の映画には珍しく女性が主だった役割を与えられていません(尤も、ラストシーンは、主人公の未来に対する希望を表現しているのでしょうが)。

 というようなこともあって、実に面白い映画とは思いましたが、おすぎのように“今年度ナンバー1”と言うほどのこともないのではと思いました。

(2)この映画は、場所もあろうに南アフリカのヨハネスブルグ上空に宇宙船が出現したところから始まりますから、最近見たクリント・イーストウッド監督の『インビクタス』における飛行機の出現を思い出さずにはいられません。



 なにしろ、ラグビーのワ-ルド・カップの決勝戦が開始される直前に、競技場の上空に巨大な旅客機が出現するのです。マンデラ大統領が観戦するというので、万全の警備体制を敷いていた当局も、そんなことが起きるとは予測の範囲外で、皆唖然として上空を見上げるばかりでした。
 実際は、テロでも何でもなく、飛行機の翼の裏に「頑張れ ボカス」と書いてあって、空から南アフリカ・チームを激励した者であることが分かり、観衆は総立ちとなってそれに答えていました。
(なお、上記の写真は「ブログ・南アフリカへようこそ」の2月6日の記事より)

(3)映画評論家も総じて好意的です。
 佐々木貫之氏は、「インタビュー映像を取り入れ、立ち退き作業を手持ちカメラで捉えた臨場感溢れるドキュメンタリー・タッチの作風でリアリズムを追求しており、これが大きな魅力の一つでもある。なおかつ、独創的なSF作品として仕上がったのである」として90点を、
 渡まち子氏は、「実際に見てみると、語り口が実に新しい。ワケがわからないままにグイグイ惹きこまれる感覚は、虚実の境界線を意図的に曖昧にした序盤のインタビューの場面からパワー全開で迫ってくる」、「物語の軸は格差社会と不寛容。これはエイリアンを差別の対象とした、もうひとつのアパルトヘイトなのだ」などとして80点を、
 福本次郎氏も、「映画は価値観の違う者とのトラブルに対して、人間はどこまで寛容になれるかを問う。予想を裏切る展開の連続はオリジナリティにあふれ、まさに「アイデアの勝利」と言える出来栄えだ」として同じ80点を、
それぞれ与えています。


★★★★☆


象のロケット:第9地区