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映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

石井裕也監督作品(下)

2010年05月26日 | DVD
 前日に引き続いて、石井裕也監督作品のレビューです。

ハ)『ガール・スパークス
 石井裕也監督による長編映画の第3作(2007年制作)(注1)。



 映画の冒頭では、主人公の女子高生が、交通量の多い道路脇に現れて空を見上げると、それと判別できるロケットが右から左から飛んでいて、中には空中で衝突するものもあります。
 これはSF映画かなと身構えると、それ以降は極めて現実的なストーリーが面白おかしく描き出されます(話の合間には、空にロケットが飛ぶものの!)。
 有体にいえば、田舎の高校に通うこの女子高生に接近してくるする男性は、皆が皆ダメ人間で(「男って、チョーダサイ!」)、彼女は「ロケットにも、親父にも、学校にも、工場にも、チョーむかつく」と叫び出さざるを得なくなってしまうのです。
 なにしろ、父親はネジを製造する零細企業の社長ながら、母親のいない彼女のためを思って、割烹着を着たり、果ては化粧までしてしまいます。また、彼女に気のある男子生徒は、彼女へのプレゼントを、ほかの生徒を脅して調達したりします。学校の担任は、性教育の授業中に、わざわざ彼女に教科書を読み上げさせようとします、などなど。
 それで、彼女は、ここを離れればもっと世の中のことが分かり、この世を変えられるかもしれないと、東京に出て下宿生活をしますが、5kg太っただけで何も分からずに1か月で舞い戻る羽目に。
 そうこうするうちに、父親の会社の経営状況が思わしくないことがわかり、そんなことならと今度はネジ製造の仕事に一生懸命になります。
 ところが、空にロケットが飛ばなくなると、そのロケットにこの工場のネジが使われていたこともあって、父親の会社は倒産してしまいます。

 ロケットの意味するところを別にすれば、この映画は他の石井作品と比べても、かなり分かりやすく出来上がっているなと思いました。男性陣は皆ダメ人間ばかりで、彼らに「チョーむかつ」いている女子高生が、最後には頑張ってしまうというストーリーがくっきりと描かれています〔最後の最後では、その頑張りも無意味になってしまいますが〕。

 さて、そのロケットですが、もちろん各人各様に受け止めればいいと思います(注2)。たとえば、日本経済の中核(大企業とか大銀行など)と考えてみてはどうでしょうか?地方の零細企業ならば、直接に関係しないものの、その中心部分が失速してしまうと、早速倒産という影響をもろに受けてしまうのです。
 となれば、このロケットこそがモウ一方の主役なのではないでしょうか?そして、一時代前の無様な形で今にも墜落しそうに空を飛んでいる姿からすると、日本社会に対する石井監督の見方もそんなところなのかなとも思えてしまいます。




(注1)「Intro」掲載の「インタビュー」によれば、この映画は50万円で制作されたとのこと。
(注2)「映画芸術DIARY」に掲載された「インタビュー」では、石井裕也監督は、「不誠実や悪が現実に存在してるのに、それがわからないように隠蔽されている。そういうことのシンボルって言うか、具現的な表現があのロケットなんです。意味わかんないけど、でも現に飛んでるっていう」と語っています。


ニ)『ばけもの模様
 2007年制作の本作品は、専業主婦の順子が主人公。海で一人息子の清が溺死するという事故に遭ってから、精神に幾分変調をきたし、夫の喜一との関係もギクシャクしています。



 ある日、順子は、パチンコ店の駐車場を走る車にもう少しのところで轢かれそうになります。その若い運転手は、石井監督の映画によく出てくる“ダメ人間”というか、大変気の小さな人間。近くのスーパーの入り口で、叔母さんと一緒にメロンパンを車を使って販売しています。
 他方で、順子との生活に疲れた夫の喜一は、会社の女子事務員と不倫旅行に出掛けてしまいます。順子の方も、自分を轢きそうになった運転手とばったり会ったのをいいことに、彼を強迫してメロンパン販売用のバンに乗って、当て所もない旅に出ます。
 ここらあたりまでは、まあ普通の物語の進み具合といえるでしょう。

 ところが、全然別口で出発したにもかかわらず、二人は、息子を亡くした海辺で巡り会ってしまうのです。それで戻って再び一緒の生活を始めるのですが、スッキリしない順子は、衝動的に夫をバットで殴りつけてしまいます。その上、順子はあの運転手を家に連れてきて、瀕死の重傷を負ったはずの夫の介抱に当たらせるのです。
 ただ、暫くすると、夫は何事もなかったように起き上がり、最後はメロンパンの販売に携わるようになっています。
 順子の方は、再び海の方に出て空を見上げると、重い便秘が治ってしまい、死んだはずの息子が現れて、その後片づけをするところでジ・エンド。

 前半は、子どもを事故で亡くした夫婦の重苦しい関係が中心的ですが、順子が夫をバットで殴りつけた辺りから物語は酷くオカシナ様相を呈してきて、結局、順子はズット苦しめられてきた便秘も治り、また死んだ息子との関係も折り合いが付いた感じになるのです。
 もしかしたら、『反逆次郎の恋』の主人公のように、バットで重圧をはね除けろ、そうすれば局面が打開されるかもしれない、と映画は言っているのでしょうか?といっても、メロンパンの販売に携わる夫にしても、便秘が治った順子にしても、アカルイミライが待ち構えているとはトテモ思えないのですが。

 ところで、この映画のラストの方では、主役の順子(元宝塚劇団華組トップスターの大鳥れいが扮しています)が、海岸で“野糞”をする場面があるところ、上記の『ガール・スパークス』でも、父親の大きな便が浴室にあったと女子高生が騒ぐ場面があります。『川の底からこんにちは』では、木村佐和子(満島ひかり)が糞尿を川岸に撒く姿が何度も描かれています。
 石井監督の糞便に対する拘りの表れなのでしょうが、決して糞便を汚いマイナスのものとして扱っていない点が面白いなと思いました。

石井裕也監督作品(上)

2010年05月25日 | DVD
 22日の記事で取り上げました『川の底からこんにちは』が大変素晴らしい出来栄えだったことから、その制作に当たった石井裕也監督の他の作品にも興味が出てきました。
 幸い、これまでの長編の作品についてはDVD化されていてTSUTAYAで借りて見ることが出来ますので、2回に分けてレビューしてみようと思います。

イ)『剥き出しにっぽん
 石井監督が21歳(2005年)のときの作品(2008年レイトショー公開)。製作費400万円ながら、第29回ぴあフィルムフェスティバルでグランプリと音楽賞を獲得しています。




 映画では、主人公は、高校卒業後何をやっても駄目だからと、自給自足の生活をすべく、高校で同級生のヒロインを誘って、畑の中の一軒家を借りて引っ越しますが、ちょうどリストラされた父親も、母親の目が厳しくて家に居づらいからと一緒についてくることになります。3人によるオンボロ農家における共同生活が始まるものの、うまくいくはずがありません。ですが、紆余曲折を経て、最後には、一応の格好のとれた形におさまってジ・エンドです。

 この映画に登場する男性陣は、ダメ人間ばかりで、その最たるものが主人公。格好は付けるものの、畑仕事などとてもできず、最後は、これまたダメ人間の父親(息子と同じように強がりを言っても、妻ときちんと向き合って話すことができません)と一緒に、交通誘導員のアルバイトをする羽目に。
 さらに、主人公は、ヒロインに対しても強がりを言いますが、結局は牛耳られてしまいます(なにしろ童貞なものですから!)。
 この映画では、母親は、主人公と一緒の場面ではほとんど登場しません。ですが、父親を含めて一家全体を包み込んでいるのは、その母親ではないかと思えてきます。そして、それをヒロインが引き継ぐのではないでしょうか。なにしろ、夫と息子が出て行ってしまった家を守っているのは母親ですし、畑で農作業をしているのはヒロインなのですから。
 それでも、皆がなんとか真正直に生きようとしているのが、「下ネタ」の多いこの映画の救いのように思われます。


ロ)『反逆次郎の恋
 前作「剥き出しにっぽん」において、映画の中のTV画像ながらサッカー少年役で出演した「とんとろん」こと内堀義之が主役の次郎を演じている作品です(2006年)(注)。




 この次郎は、営業マンとはいえ、絶えず顔面をピクピクひきつらせ、のべつ煙草を吸い、かつスムースな会話ができない内に閉じこもりがちなダメ青年。当然のことながら営業成績が悪く、そのため先輩から色々イビられます。
 さらに、ひょんなことから恋してしまった工場労働者の倫子(松谷真由美)を家に連れてきたところ、次郎は彼女からも酷い扱いを受けます(倫子もまた相当ひねくれた性格の持ち主で、世間にうまく入っていけません)。
 また、次郎には、ロックバンドでヴォーカルとギターをやっている友人がいるものの、彼ともスムースな会話ができていません。
 要するに、肉体の面でも性格でもダメ人間の次郎がこの映画の主人公のところ、ある日、倫子とピクニックに行った森の中で、偶然女性の他殺体を発見してしまうのですが、そこらあたりからこの映画は俄然ミステリアスな様相を呈してきます。
 次郎は、倫子と一緒にいる時もこの他殺体のことが気になってしまい、何度もその現場に出かけることになります。すると、その現場に、彼の友人が、女性を連れてきているのに遭遇するどころか、なんとその女性は殺された女性とウリ二つなのです。
 なぜでしょうか?ですが、ここから先は、見てのお楽しみということにしておきましょう。

 この作品も、前作同様ダメ人間を中心的に取り扱っていますが、コミュニケーションがうまく取れない設定となっていることもあって、前作で見られたギャグとかコメディー・タッチは、この作品では影をひそめています。
 それでも、現状を脱出すべく、“やられる前に相手をやっつけてしまう”という方向性が打ち出されているところが注目される点でしょう。

(注)「シネマトゥデイ」の記事によれば、この映画の製作費は7万円とのこと!


愛のむきだし

2010年05月23日 | DVD
 前日のブログ記事で書きましたように、TSUTAYAから『愛のむきだし』のDVDを借りてきて見てみました。
 この作品は、昨年さまざまの賞(注1)をもらって注目されていましたから是非映画館で見たいものだと思っていましたが、余りにも長尺のため二の足を踏んでいたところ、とうとう劇場公開は終わってしまい、そうなるとまあいいやとなって、DVDもそのまま見ずに終わるところでした。

(1)園子温監督の作品は、映画館では『ちゃんと伝える』しか見たことがありませんが、その映画のAKIRA(EXILE)といい、この映画の西島隆弘(注2)といい、歌手を俳優として使うのがとてもうまい監督だなと思いました。
 また、DVDで見た『紀子の食卓』は、この映画ほどではありませんが160分の長さの作品ながら、この映画同様その長さは少しも気になりませんでした。監督の類い稀なる長編制作力によっているものと思われます(注3)。

 そんなことはさておき、この映画は、長いだけあってストーリーはかなり複雑で、それを把握するだけで精一杯になってしまいます。大雑把には次のようでしょう。

 母を幼い時分に亡くしながらも、主人公の本田ユウ(西島隆弘)は、神父の父テツ(渡部篤郎)と二人で幸せな生活を送っていたところ、自由奔放なカオリ(渡辺真起子)が突然彼らの前に現れます。テツは神父でありながらカオリに溺れてしまいますが、そんな日は長く続かず、カオリは立ち去ります。
 ある日、ひょんなことから「女装」していた最中に、ユウは、街のチンピラに絡まれていたヨーコ(満島ひかり)に出会い救出しますが、彼女に「マリア」を見出し恋に落ちます。ヨーコも、自分を助けてくれた女装のユウ〔謎の女(サソリ)〕に恋をしてしまいます。
 そうしたところ、いなくなったはずのカオリが再び現れ、父はそのカオリと再婚すると言い出します。おまけに、カオリの連れ子がまさにヨーコだったのです。ヨーコは幼少期に父から受けた虐待で男という男を全て憎んでいますから、サソリの正体がユウだとは知らないこともあって彼を酷く毛嫌いします。
 同じころ、「ゼロ教会」という新興宗教団体が世間を騒がせていました。そこにはコイケ(安藤サクラ)という敏腕ながら性格の曲がった女性信者がいて、信者数を増加させるべくユウたちに近づいてきます。ついには、ヨーコに自分がサソリだと思わせ、ヨーコの信頼を勝ち得るとともに、ユウの家庭の中にまで入り込んできて、ユウのいない間に皆を「ゼロ教会」に引き連れていってしまいます。
 ユウとその仲間は、ヨーコをゼロ教会から救い出そうとし、ヨーコを拉致して監禁しますが、監禁場所にコイケたちがやってきて、ヨーコは取り返されてしまい、さらにはユウもゼロ教会に入信することを強要されてしまいます。
 仮面入信したユウは、隙を突いて教団本部に忍び込みヨーコを助け出そうと試みます。ですが、洗脳にされてしまった彼女は簡単には元に戻ることができません。
 むしろ絶望的になったユウは、精神的なダメージを受けて精神病院に入らざるを得なくなります。
 他方、救出されたヨーコは、親戚の家で従妹たちと一緒に暮らすうちに、次第に洗脳が解けてきてユウの気持ちが理解できるようになり、入院先に行ってユウと面会します。
 はじめのうちユウは、ヨーコに何も反応せず、ヨーコも病院を立ち去らざるを得なくなるものの、次第に記憶が蘇ってきて、とうとう全てが分かるようになり、ヨーコの乗るパトカーを追いかけ、ついには二人が固く握手するシーンでジ・エンドになります。

 こんな簡単な要約からでも、この映画が、カルト教団、親と子の葛藤、精神病院などといった現代的な問題をビビッドに取り上げていることが分かると思います。
 そうした状況をヨコ糸として、何よりもユウとヨーコとの関係がタテ糸として、4時間という上映時間の中で、様々な側面からじっくりと強い説得力を持って描き出されていきます。
 ユウは、普通の高校生、父親と対立する息子、女装したサソリ、精神が崩壊した病人などの面を見せますし、ヨーコも、女子高生として、サソリに同性愛を抱く女性として、カルト教団の信者として、洗脳が解けた人間として、ユウを病院から助け出そうとする女性として、というように様々に変化します。
 普通であれば、これだけ錯綜した面を中心人物が見せれば〔さらには、カオリとコイケが絡んできます〕、作品から混乱した印象を受けてしまうところでしょうが、監督の傑出した手腕と、彼らを演じた西島隆弘と満島ひかりの演技力によって、映画は見る者を圧倒します。

 特に、満島ひかりは、この映画に初めて登場する場面では、街のチンピラと格闘しスカートを翻す大胆なカットまであり、またユウに拉致されて壊れたバスの仲に監禁される場面では厳しく縛められていますし、ラスト近くではユウを殺そうと首を絞めたりまでするなど、まさに体当たりと言っていいほどの活躍振りです。
 そして、最後にユウと手を握り合う場面での嬉しそうな顔は出色の表情です。
 これからもイロイロな映画に出演して様々な物を見せてもらいたいものだと思いました。

(注1)たとえば、第59回(2009年)のベルリン映画祭にて、「カリガリ賞」及び「国際批評家連盟賞」を受賞。
(注2)彼が所属するAAAがごく最近リリースした「逢いたい理由/Dream After Dream ~夢から醒めた夢~」がオリコン(5月17日付け)の第1位になったとのことですが、この歌を作曲したのが、ナント小室哲哉だとは!
(注3)長尺の映画としてこれまで見たものには、3時間37分の『ユリイカ』(青山真治監督)とか3時間22分の『沈まぬ太陽』がありますが、この作品は3時間57分で、それらよりも20~30分以上長いのですから!


(2)この映画で興味を惹いたのは、些細なことですが、ヨーコとカオリの右の二の腕にタトゥーが見られる点です(注)。



 ただ、実際にこのタトゥーが何を表しているのか(十字架は分かりますが)、どんな経緯で二の腕に入れることになったのかなど何も映画から伝わってこない点が残念なところです。

(注)なお、報道によれば、新しい英国首相夫人の足首には、小さなイルカのタトゥーが入っているとのこと。


(3)映画評論家の評価は二つに分かれるようです。
 渡まち子氏は、「アブノーマルな行為が、信仰というフィルターを通して高純度の愛へと至る物語に、心から感動した。ふやけた笑顔の西島隆弘と挑発的な満島ひかり。共に適役である。ダンスのような盗撮テクはギャグすれすれで、かなり笑える」などとして80点の高得点を与え、
 また、福本次郎氏も、「ほとばしるような激情が圧倒的なパワーとなって、4時間近い上映時間を一気に突っ走る。先の読めない展開は一切の予断を許さず、俳優たちの熱演と緻密に練られた演出は細かい齟齬を力業でねじ伏せる。破壊的な情熱をフィルムに焼き付けたかのような物語は、園子温監督の魂を投影しているかのよう」として90点も付けています。
 ですが、前田有一氏は、「要するに、なんでもありの世界でなんでもありのストーリーをやっても、観客は驚きも感心もしない」のであって、「虚構の世界にまずは現実感を構築し、そこに配置してこそ突飛な内容も生きてくる。だが、この映画はそうしたプロセスを(あえて)踏んで」おらず、「めくるめく不条理&変態ワールドに酔いしれ、そこから各自、何かをつかみとって帰りましょう、という映画」だ、として45点しか付けていません。
 ただ、前田氏は、一方で「観客は驚きも感心もしない」と言っておきながら、他方で「めくるめく不条理&変態ワールドに酔いしれ」と述べていて、はたしてその両者は並立可能なのかどうか頗る訝しいところですが?


★★★★☆

象のロケット:愛のむきだし

松本清張原作映画

2010年01月09日 | DVD
 お正月のお昼の時間に、松本清張生誕100年記念と銘打って、WOWOWで彼の小説を原作として制作された映画が連続して放映されました。

 その中で興味があったのは、昨年見たばかりの映画『ゼロの焦点』の旧版のものですが、時間があったので1日に放映された『砂の器』も見てしまいました。



 この『砂の器』は、1974年に野村芳太郎監督の下で制作されたものです。映画の公開時には丁度秋田県の大館市にいましたので、わざわざ列車に乗って秋田市に出かけ、そこの映画館で見た記憶があります。

 その後、何回かTVで放映されたものを見たこともあるのでしょう、今回実際に見てみますと、かなりイロイロな場面を覚えていました。特に、幼い和賀英良が父親(加藤嘉)と手を取り合って雪の日本海沿岸を歩くシーンと、世界的な指揮者・作曲家となった和賀英良(加藤剛)が自分が作曲したピアノ協奏曲「宿命」を演奏するシーンとが交互に映し出されるクライマックスは、何度見ても感動します〔ただ、このピアノ協奏曲は、余りのロマンチックで古めかしく、主人公が現代作曲家ならば、こんなベタベタした曲など書かないのでは、と当時思ったことでした!〕。
 今回見てもう一つ印象深かったのは、和賀英良を追い詰める刑事役の丹波哲郎が、随分と颯爽としていたことです。

 さて、2日に放映された『ゼロの焦点』です。この映画は1961年に上記の野村芳太郎監督によって制作されています。面白いことに、この映画の脚本を書いた橋本忍・山田太一もまた、上記の映画を手がけています。過去に大きく囚われる人間が引き起こす悲劇といった点で共通するところがあるからでしょうか?



 それはともかく、この旧版と昨年公開された新版とはかなり違っているところがあります。新版でも鵜原禎子(広末涼子)が事件の謎を追いかけますが、旧版では禎子(久我美子)の役割がもっと大きくなっています。新版では、むしろ室田佐知子(中谷美紀)のウェイトがずっと重くなっているところ、旧版の主役の久我美子の存在感は、映画の中で遙かに大きなものなのです。
 これは、広末涼子と中谷美紀との演技力の差、久我美子と旧版で室田佐知子を演じた高千穂ひづるとの女優としての力量の差によるところもあるかも知れませんが、もう一つは、新版は、旧版なら常識とされていたことを説明的に描き出さなくてはならないということも与っているのではと思われます。
 例えば、「パンパン」です。1961年当時であれば、戦後15年くらいしか経過していませんから何も説明せずともかまわなかったと思われます。ですが、新版が公開された2009年時点では、「パンパン」についてきちんと説明しないと、実際の様子が分からない人が大部分となっています。
 そのためもあって、新版では、海岸の崖の上で室田佐知子と田沼久子(木村多江)とが対決したときに、回想シーンを長々と挿入せざるを得なかったと考えられます。その結果、室田佐知子を演じる中谷美紀の存在感が新版では増大したのではないでしょうか?

 この他、新版では、室田佐知子の夫である室田儀作(鹿賀丈史)は、唐突に拳銃自殺してしまいますが、旧版ではそんなことはありません(この点は、旧版の方が良いでしょう。なお、興味深いことに、『砂の器』で父親役を演じていた加藤嘉が、旧版でこの室田儀作を演じています)。
 また、新版では、室田佐知子は、原作通り日本海に小舟で漕ぎ出し自殺してしまいますが、旧版では自動車もろとも崖下に転落するとされています(これはどちらでも構わないでしょう。とはいえ、日本海に小舟で漕ぎ出すのを崖の上から夫が見守ると言うのが原作のラストですから、その前に夫が拳銃自殺してしまうのでは、この光景の意味がないことになってしまいますが)。

 こうした違いを取り出せばいくらでもありますが(旧版はモノクロで新版はカラーなど)、この辺で止めておきましょう。
 何も説明なしに映画造りに邁進できた1961年という時点と、何故今頃このような映画を制作する必要があるのかを問わざるをえない2009年という時点との差を、TVを見ながら感じざるを得なかったところです。

まぼろしの邪馬台国

2009年08月23日 | DVD
 映画「まぼろしの邪馬台国」をDVDで見ました。  

 この映画は、昨年秋に劇場公開されましたが、そのときはパスし、本年5月にDVD化されたものが最近TSUTAYAで「準新作」としてレンタルできるようになったことから、借りてきたわけです。  

 作品は、島原鉄道の社長の宮崎康平竹中直人)と後妻の和子吉永小百合)とが、一緒になって邪馬台国の場所を九州のあちこち旅行して探し回り、ついには『まぼろしの邪馬台国』という著書を書き上げ(第1回吉川英治賞を受賞)、その後もさらに調査を進めた、という夫婦愛をメインにしたストーリーで、大筋は実話に基づきながら作られています。    

 評価できる点がないわけではありません。例えば、
イ)吉永小百合が出演する映画は、生真面目で堅苦しい感じが彼女の演技から漂ってくるのではないかとの予感が見る前からしてしまい、このところ敬遠気味でした。   
 ただ、この作品の場合、相変わらずの演技ながら、わがままきわまりない夫を支える妻の役としては、かえって打って付けなのかもしれないと思わせ、余り違和感なく受け入れることが出来ました。  

 なお、今も健在な宮崎和子氏によれば〔2008年3月30日放送のRKBインタビュー番組「元気by福岡」〕、竹中直人の演技(素人目には演技過剰に見えるところ)は宮崎康平にそっくりだったとのことです!   

 また、Wikiによれば、宮崎康平は、映画が描くように島原鉄道の社長ではなく常務であり、さらに、古代史研究にのめり込みすぎ事業を顧みなかったために解任されたわけでもなさそうです。それを今回の映画のように脚色したのは、わがままで一徹な宮崎康平の姿にある程度の説得力を持たせようとしたためではないか、と思われます。

ロ)脳梗塞を患ったせいか台詞回しに若干難が見受けられるにせよ、江守徹の元気な姿が見られたこと、「ディアー・ドクター」で良い演技を見せている余貴美子が、ここでも凄い演技力を発揮していること、宮崎康平の孫娘が和子の少女時代を演じていること、など話題満載の作品になっています。

ハ)宮崎夫妻が、邪馬台国を探しに九州の各地に足を運んだことから、映画では関係各地の光景が映し出され、それがなかなか綺麗な出来映えであり、それだけでも一見の価値があると言えるかもしれません。  

 とはいえ、ちょっと考えてみれば、問題点が多い映画ではないかと思われます。例えば、
イ)映画のタイトルと同名の原作が出版されたのが昭和42年と、今から40年以上も昔にもかかわらず、なぜ今の時点で映画化するのか、制作者側の意図がうまく汲み取れません。  
 あるいは、現代では見失われてしまっている真の夫婦愛を実話に基づいて描くことが目的だから、その実話の古さは問題にならないと言うのかもしれません。とはいえ、描き出される夫婦愛それ自体が如何にも古めかしいものですから、今の人には共感を呼びにくいのではと思われるところです。

ロ)映画の原作を書いたのは宮崎康平で、原作の内容も彼の生活記録と自説の展開であるにもかかわらず、映画の主演は妻の吉永小百合の方に替わっており、その内助の功を描き出すことに主眼が置かれています。  

 そのためと思われますが、あまり十分な説明もなしにいきなり宮崎康平が邪馬台国の位置の探求に乗り出すような具合に描かれることになります。
 ですが、学界の中に限られていたとはいえ、それまでに邪馬台国の位置などに関しては熱い議論が積み重ねられており、宮崎康平の研究もそれなくしてはあり得ませんでした。  

 とにかく、早稲田大学で津田左右吉の授業を受けたこと、島原大水害による線路の復旧工事の際に多数の土器が見つかったこと、こんな事情を背景にするだけで、突然、邪馬台国を探すのだ、と竹中直人に叫ばれても、観客の方は戸惑うばかりです。  
 なにより、夫の研究の客観的な意味合いが観客に旨く伝われなければ、そんな夫に黙って従う妻の行動に共感を寄せることが難しくなってしまいます。宮崎夫妻ともに、心の奥底にそうした情熱があったことをなにかで説明できなかったのでしょうか。

ハ)やはり一番の問題は、邪馬台国の位置に関することでしょう。  
 宮崎康平の著書『まぼろしの邪馬台国』については、それまで学界の中でしか議論されてこなかった問題を一般の人々に広く開放し世の中の関心を集めたことの意義は高く評価されているものの、彼の見解(邪馬台国は「諫早湾南岸地帯」にあった―『まぼろしの邪馬台国』〔講談社文庫版第2部〕P.328)そのものをサポートする研究者は、現在では見出しがたいようです。  
 それは、学問には必須の検証・裏付けという過程が宮崎説に欠けているからではないかと思われます。他の諸説でも同様なものがありますが、思いつきや言いっぱなしだけではダメだということです。  

 にもかかわらず、映画では、結局そのことには触れずに、彼の葬儀のシーンで終わってしまいます。  

 勿論、この映画は、邪馬台国論争を描いたものでもなく、また宮崎康平の主張を描くことに主眼を置いているわけでもないのでしょうから、これでもかまわないともいえましょう。  
 でも、そうであれば、なぜ今頃このような映画をわざわざ制作するのか、という最初の疑問に再度ぶつかってしまいます。女性をヒロインにするのなら、多少ともフィクションを入れて、たんなる内助の功だけでなく、亡き夫への情熱も邪馬台国への情熱も、ともに持ち続けて生きる女性に描かれなかったのでしょうか。

CASSHERN

2009年07月29日 | DVD
 5月17日のTBSTV「情熱大陸」にて映画監督・紀里谷和明氏が取り上げられたので、早速録画して時間があったら見てみようと思っていましたが、ついついそのままになっていたところ、意を決して最近になって見てみました。

 この番組自体が、今度の「Goemon」の一つのPVなのでしょう。監督が、中学2年生の時に単身渡米して、あとはがむしゃらに自分を信じて生きてきた人物であるかの様に描き出されています(「和」の精神から最も遠いところにいる人物でしょうか)。
 ただ、実際にも、写真家、PV制作者としてかなりの実績を残してきたことは間違いないようです。にもかかわらず、日本ではこうした「独学」の人(独りよがりの人)を正統的ではないとして酷く嫌ってしまうのでしょう(なにしろ、下積みの苦労を何もしていない人ですから!)。

 そこで、評論家達に酷評された前作の「CASSHERN」もDVDで見ることにしました(実際には興業成績は良好で、制作費が6億円のところ、興行収入は15億円とのこと!←「Goemon」は15億円)。

 確かにこの映画も、「Goemon」と同様、平和、平和とうるさいくらい登場人物に言わせていながら、実際の画面では戦闘場面ばかりというイヤらしいところがあります(ハリウッド的にメッセージ性を強調したいがためなのでしょうが)。
 特に、大亜細亜連邦共和国とヨーロッパ連合の両陣営による長く続いた戦争という古色蒼然とした設定に、大亜細亜連邦共和国内の反乱と、さらには新造人間との争いまで加わるのですから!
 ただ、時代劇の「Goemon」と違い近未来SFということで、CG画像をたくさん取り入れてもマッタク違和感がありません。
 また、上記の「インスタント沼」など本当にアチコチの映画にヨク出演している麻生久美子が、この映画でもヒロインを演じている点も興味深いものがあります。

 そんなことはともかく、「Goemon」について、あるブログは、「全体にフォーカスの緩んだ、ぼけたような映像で、赤一色かと思えば濃い灰色の世界に変わったりはするが、いずれも色彩の変化に乏しいイメージの連続である」云々とし、「これは意図的なものなのか、あるいはVFX技術が未熟で、このような画面しか作れなかったのか。いずれにしても、特撮大国日本の名は、遥か昔の伝説に過ぎなくなってしまった」と批判しています。
 また、粉川哲夫氏も「Goemon」について、「VFXとしての質がそれほど高くないので、その質にあわせてナマの映像の質を落としている。画面が全体に暗く、レゾルーションが粗いのも、そのためだ」云々とかなり否定的です。

 ただ、こうしたVFXは、前作の「CASSHERN」とマッタク同様で、制作費が低いせいによるところもあるでしょうが、専ら監督の意図するところではないかと考えられます。
 それに、「色彩の変化に乏しいイメージの連続」等といった点は、「ブレード・ランナー」などのSF映画の伝統にも繋がるのではないかと思われます。

 いずれにせよ、「Goemon」については、前田有一氏の「監督独特のビジュアルセンスはそのままに、退屈しらずのアクション時代劇として成立しているアクションシーンは、これが実写映画だったことを忘れるほどのクォリティだ」とする批評が当たっているのでは、と思っているところです(尤も、前田氏は、「キャシャーン時の批判を研究したか、ある種のまとまりの良さが見受けられる点」が残念だとして60点しか与えていませんが!)。

闇の子供たち

2009年07月26日 | DVD
 映画「闇の子供たち」のDVDを見ました。

 映画で取り上げられる題材がセンセーショナル過ぎるのではと思えて劇場には行かなかったのですが、これまでタイを舞台とする映画をいくつか見たこともあって、こうした映画も見ておく必要があるのではと思い、TSUTAYAから借りてきました。

 予想したように、タイにおける幼児買春、臓器売買など目を背けたくなるようなシーンが頻出します。闇の組織の人間が、エイズに罹った幼児を生きたままゴミ袋に入れて捨て、ゴミ収集車がそれをゴミ処理場に運ぶなど、とても信じられないことです。

 この映画は、そうしたことを背景に、日本から派遣されている新聞記者(江口洋介)とかカメラマン(妻夫木聡)、あるいは現地のNPOに加わるためにやってきた若い女性(宮崎あおい)などの活躍を描きます。

 ただ、実にいろいろな事柄を1本の映画の中に押し込もうとしたために、焦点がかなりボケてしまい、話題性はあるものの映画のドラマとしての出来はあまり評価できないところです。

 たとえば、最後の方で、幼児買春撲滅を謳うNPOを潰すために闇の組織からスパイとして送り込まれた男が、NPOの集会を混乱させるために突然発砲して、監視に来ていた警察と銃撃戦になりますが、なぜわざわざそんな過激な手段に訴えるのか、そしてその結果がどうなったのか、映画からはよくわかりません。

 そのあとで、なぜか闇の組織が警察によって摘発されて、囚われていた子供たちが解放されますが、その経緯は何も説明されません(そんなことが簡単にできないからこそ、この映画では、江口洋介の新聞記者たちは、事実を報道することに力点を置くのだと言っています)。

 また、江口洋介はラストで自殺しますが、その理由は、彼自身が幼児性愛者だったからと仄めかされても(カーテンで隠れされた壁に、多数の幼児を殺害した幼児性愛者の記事がいくつも貼り付けられています)、彼のそれまでの生き方が映画では何も描き出されてはいませんから、単なるエピソードとしか受け止められません。

 さらに、妻夫木聡のカメラマンは冒頭に現れるために、これから彼が活躍するのかなと思っていたら、そのあと1時間20分近くは全然登場せず、やっと後半3分の1くらいに出てくるものの江口洋介の手足となって動くだけの役回りなので、いささか驚きました。

 宮崎あおいのボランティアも、幼児売春を行っている店の前に停められている車で店の人たちの動きを見張っていたら、いくらなんでも闇の組織の人間にすぐに見つかってしまうのでは、と思ってしまいます。

 要すれば、描き出された問題があまりにも深刻なために、それを背景に人間のドラマを描こうとしながらも、結局はその問題に飲み込まれてしまっただけではないのか、という感想を持ちました。

博士の異常な愛情

2009年05月06日 | DVD
 『ニューズウィーク日本版』誌(ゴールデンウイーク合併号)には、特集「映画ザ・ベスト」が掲載されています。
 これは、米国の映画人(監督、脚本家、批評家など)1,500人が10年ぶりに選んだ名作ベスト100とされていて、10年前と同様にトップには「市民ケーン」が選ばれています。

 このようなランキングにどれだけの意味があるのかはさておいて、上武大学の池田信夫氏が、そのブログで自分のベスト10を掲げ、そのトップに、同誌で39位の「博士の異常な愛情」(1963)を持ってきています(4月30日)。

 同誌の掲げる映画の8割を見たと豪語する池田氏―こちらは数える気が起こらないほどごくわずかの映画〔せいぜい3割程度〕しか見ていません!―が、ベスト中のベストとする作品にもかかわらず、私は見たことがありません(さらに、同誌では「ホットな監督が掲げる「わが人生の映画ベスト5」というコーナーもあり、イギリス人のマイク・ニューウェル氏も、池田氏と同じ作品をトップに掲げています!)。

 そこで、TSUTAYAのDISCASでそのDVDを取り寄せて見てみました。
 この映画の原題は、「Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb」で、邦題は誤訳ではないかと当初から言われていたとのこと。
 ただ、映画は、その副題(「または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」)にあるように、核戦争の回避を巡るドタバタコメディと言ったところ。なにしろ、ピーター・セラーズが一人3役の大活躍なのですから、面白くないわけがありません。

 こうした見逃していた面白い作品に出会える効果くらいはランキングにもあるのでしょう!

インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国

2009年04月11日 | DVD
 この映画は、今更「インディ・ジョーンズ」でもないだろうとして映画館では見ませんでしたが、2008年の興行収入は57億円で洋画部門で第1位だったとされているところから、DVDで見てみた次第です。

 ですが、やはりたとえば次のようなことから、退屈な感じしか残りませんでした。
・もはや激しい動きなど出来ないハリソン・フォード(66歳)が主役を演じていること。
・時代設定を、ソ連のスパイが活躍していた1950年代として辻褄を合わせていますが、今どきソ連の 諜報組織と言われても酷くかったるい感じになってしまうこと(尤も、以前のシリーズではナチスとの対 決が見られましたから、この点は仕方のないことかもしれませんが)。
・アマゾンとか、ナスカ、イグアスの滝など南米各地が登場するものの、例によって観光巡りの域を出ていないこと。
・〝幻の黄金都市〟といっても、今やCGでいくらでも描くことが出来、あまり衝撃を受けないこと(ニコラス・ ケイジの「ナショナル・トレジャー」と同じような映像にしか見えませんでした)。

譜めくりの女

2009年04月04日 | DVD
 この映画は、昨年春に公開され、予告編などから是非見てみようと思ったものの、時間がなくてパスしてしまった作品です。

 ただ、実際に見てみると、期待したほどの映画ではないのでは、と思いました。

 大雑把なストーリーは、ある若い女性が、小さい時分に、権威ある音楽学校でピアノの実技試験を受けたところ、審査員が無遠慮な振る舞いをしたがために演奏に集中できず、結果としてピアニストになる夢を絶たれ、そのことを酷く恨みに思い大人になってからその審査員に復讐するというものです。

 確かに、自分の人生を狂わせた人をいつまでも恨むことはあるでしょう。ただ、審査員の振る舞いがおかしかったからといって、大人になってから審査員の家に入り込んで(審査員の方では、個別の受験生の顔など覚えておりませんから)、一家から全幅の信頼を受けるや否や、たちどころにそれを裏切る行為に出てその一家を絶望のどん底に陥れるという酷いことまで人はするだろうかという感じになります。
 まして、その振る舞いというのが、ピアニストとして高名な審査員が、受験生がピアノを演奏しているにもかかわらず、ファンから求められたサインをするというだけのことですから、大して無遠慮なものでもないように思われます。

 この基本的な動機について納得できないと、作品全体についても、主人公は随分と大袈裟なことをするものだなと思ってしまい、いくら魅惑的な俳優が演じていても共感できないことになってしまいます。