孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ  分裂傾向を強める総選挙結果

2014-10-15 23:20:16 | 欧州情勢

(7月20日 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年~1995年)で死亡した犠牲者のうち新たに遺体が見つかった284人の葬儀が、北部プリエドルで数千人が参列して行われました。写真は葬儀前日、棺の前で涙を流す遺族。 
遺体は、クロアチア人1人のものを除き、周辺の町村出身のイスラム教徒(ボシュニャク人)のものでした。
内戦初期、民族浄化作戦の一環としてセルビア人勢力により殺害され、同地域では約3500人が死亡し、未だ地元住民700人の行方が分からないままとなっています。
ただ、同様の非人道的行為はセルビア人以外にもあったとも言われています。 写真は【7月21日 AFP】)

ともに難しい融和と分離
スコットランド独立を問う住民投票に続いて注目されていた、スペイン・カタルーニャの住民投票につては、スペイン憲法裁判所の“合憲性を審査する間、凍結すべき”との決定を受けて、カタルーニャ自治州政府は11月9日の実施を目指していた独立住民投票を事実上断念し、法的な裏付けのない非公式な投票を同じ日に行うことを決めました。

スコットランドやカタルーニャのような分離独立を目指す動きというのは、各地に存在します。
ベルギー、北イタリアにも同様の動きがありますし、ウクライナ、モルドバ、グルジア(ジョージアと日本表記が変更されるようですが)にはロシア帰属を求める親ロシア派の地域があります。

更に、世界の多くの国がいわゆる少数民族問題を抱えており、その多くは分離独立運動と重なります。

背景には、民族・文化の違いのほか、カタルーニャやベルギーのように経済的に優位な地域が他の地域による足枷を嫌うという経済的な問題、スコットランドように北欧型社会を目指すといった政治的な問題もあります。

個人的には、いたずらに民族的・文化的差異を強調する方向よりは、異質なものが協調・融和することで新しいものを生み出す方向を是とします。
差異を強調する流れは、往々にして憎しみや対立を生みます。

ただ、いろんな事情によりどうしても別々の道を選びたいというのであれば、それを力で封じ込め、既存の国家の枠組みを維持するというのも意味のないことに思われ、そうした場合にはスコットランドような住民の意思を問う形で方向を決定するのが賢明でしょう。

その場合、分離した際にも良好な関係を維持していくという前提での話ですが。

スコットランドのケースは、結果的に分離独立が否定されたことで、スコットランドにとっても、イギリスにとっても、また同様の問題を抱える多くの国にとっても、“穏当な”結果となりました。

一方で、“きれいに別れる”という意味においては、分離独立の結論が出て、民主主義国イギリスにその範を示してもらいたかった・・・という思いもありますが。

現実問題としては、民族・文化の違いを超えて強調・融和するというのも難しく、一方で、“きれいに別れる”のもまた非常に難しいのが多くのケースでしょう。

ボスニア・ヘルツェゴビナ 埋まらない溝
多くの民族が入り組んだ旧ユーゴスラビアは、セルビア人主導の“統一”から各民族の分離独立に向かい、その解体の過程で夥しい流血を伴いました。

1995年のデイトン合意の結果生まれたボスニア・ヘルツェゴビナは、更に国内に三つの民族を抱え、未だに融和が難しいのが現実です。

国家の枠組みもボシュニャク人とクロアチア人中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」とセルビア人中心の「セルビア人共和国」という準国家に分かれており、政治・社会・教育現場などの日常生活も民族ごとに分かれているのが実態です。

内戦を戦った各民族、特にセルビア人と残りのボシュニャク人・クロアチア人の間の溝は容易に埋まることはないようです。

第1次大戦の引き金を引いた「サラエボ事件」に関する評価も、6月29日“「サラエボ事件」から100年 「民族の英雄」と「テロリスト」のあいだで埋まらぬ溝”(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20140629)で取り上げたように大きな差があります。

「サラエボ事件」は、“1914年6月28日、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻が、当時領有していたボスニアの都サラエボを軍事演習視察のために訪れ、市庁舎での演説後、オープンカーでの帰途、銃撃されて死亡した。実行犯はセルビア人青年、ガブリロ・プリンツィプ。オーストリアは事件後、セルビアに対して最後通告を突きつけ、1カ月後に宣戦布告。第1次世界大戦へと発展した。”【6月29日 朝日】というものです。

****サラエボ事件、遠い和解 「テロリスト」「英雄」…政治が利用 欧州、消えぬ戦火の影****
現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都でオーストリア皇太子が暗殺され、第1次世界大戦勃発の引き金となった「サラエボ事件」から28日で100年を迎えた。

暗殺犯はテロリストなのか英雄なのか、隣国セルビアとの間で1990年代の紛争ともからんで論争が蒸し返されるなど、和解がなお進まない現状が際だつ一日となった。(中略)

サラエボでは28日、平和構築をテーマにしたパネル展が暗殺現場からも近い遊歩道で始まった。同夜には、オーストリアからウィーン・フィルを招いた記念コンサートが開かれる。

だが、首都を舞台とした国家主導の行事は開かれなかった。欧州連合(EU)各国の首脳らのサラエボ訪問もなかった。

一方、内戦をひきずってボスニア国内を二分する「準国家」の一つであるセルビア人共和国の側は、民族主義をアピールする機会としてこの日を設定。

同共和国のビシェグラードで、暗殺実行犯のセルビア人青年をたたえる式典を開き、セルビアのブチッチ首相やセルビア人共和国のドディック大統領らが出席した。

首都サラエボで国家レベルの行事が開けなかった背景には、サラエボ事件の位置づけをめぐり、ボスニア内部や近隣旧ユーゴスラビア諸国間にある歴史認識の溝が作用している。

セルビア人側の指導層は、オーストリアによる支配からの解放をめざした実行犯の青年を英雄視する。この日の式典でも「彼が放ったのは自由への一撃だ」(ドディック大統領)と位置づけた。

一方、旧ユーゴ内のほかの民族勢力の間では「テロリスト」との見方が大勢。そうした説に対してセルビア人側は、大戦の開戦責任を自分たちに押しつけるものだ、と反発してきた。

ボスニアは国家の中に「セルビア人共和国」と、それ以外の主要民族であるボシュニャク人、クロアチア人で構成する別の政治体制が並立し、互いに牽制(けんせい)しあう状態が続いてきた。

このいびつな状態が最大の障害となり、事件についての統一した見解もまとめられずにいる。現地が和解を描けない以上、EU首脳らの訪問も不可能だった。

歴史の政治利用が続く中、歩み寄りの模索もある。サラエボではこの日まで、セルビアも含め欧米各国の学者らが出席し、サラエボ事件を学際的にとらえなおす国際会議が開かれた。

ノビサド大(セルビア)から参加したボリス・クルシェフ教授は「事件をめぐり、全く異なる解釈ばかりが強調される現状は、歴史の事実とは関係ない政治の反映だ」と語った。【同上】
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ボスニア・ヘルツェゴビナの人々にとってより生々しいのは、100年前の「サラエボ事件」よりは、つい20年ほど前の内戦の記憶でしょう。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992~1995年)当時、セルビア人勢力を指導した政治家ラドバン・カラジッチ被告(69)の罪を問う裁判が今も行われています。

紛争直前、カラジッチ被告率いるセルビア人勢力は独自の議会・自治区をつくり、1991年にその領域内での住民投票を行い、圧倒的多数でセルビア人が主導するユーゴスラビアへの残留を決めました。

一方1992年には、ボシュニャク人、クロアチア人主導でユーゴスラビアからのボスニア・ヘルツェゴビナの独立の可否を問う国民投票が行われ、セルビア人はこの投票をボイコットし、98%が独立を支持するという結果になりました。

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ボスニアの法律・憲法では、3つの民族グループすべての合意が求められていたが、1992年4月6日、ボスニア・ヘルツェゴビナは欧州共同体から独立国として認められることになった。

これに不満を抱いたセルビア人勢力のボスニア・セルビア議会は翌日の7日、ボスニア・ヘルツェゴビナ内でセルビア人によるスルプスカ共和国の独立を宣言、ボスニアはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと突入した。

カラジッチは1992年12月17日にはスルプスカ共和国の大統領、12月20日には軍の最高司令官となり、ボスニアの多くの地域で、セルビア人以外の民族であるイスラム系ボスニア人(ボシュニャク人)やボスニア系クロアチア人の殺害を指示したとされている。

特に1995年7月にスレブレニツァで起きたボシュニャク人に対する民族浄化(スレブレニツァの虐殺)を指揮したとされている。【ウィキペディア】
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カラジッチ被告は2008年7月、セルビアで逮捕されました。
“カラジッチが逮捕された夜、サラエヴォの通りにはボスニア・ヘルツェゴビナの旗を持った人々が多く集まり、逮捕を祝った。一方、カラジッチの支持者たちが警官隊と衝突するといった出来事も起きた”【ウィキペディア】

****無罪」、自ら最終弁論 ボスニア紛争時の指導者****
1992~95年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を裁くオランダ・ハーグの国連旧ユーゴスラビア国際法廷で1日朝、集団殺害などの罪に問われた当時のセルビア人勢力指導者ラドバン・カラジッチ被告(69)の最終弁論が始まった。

ロイター通信などによると、事前に提出された書面では、7千人以上のボシュニャク人住民が殺害された95年7月の「スレブレニツァの虐殺」などについて「命令せず、気づいてもいなかった」と無実を主張している。

カラジッチ被告は公判で弁護人を立てておらず、長時間にわたって自ら最終弁論した。公判は09年10月から続いてきた。検察側は9月29日の最終弁論で、終身刑を求めた。【10月2日 朝日】
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これまでの公判でカラジッチ被告は、「私は、私の行った全ての善行で表彰されてしかるべきだった。なぜならば私は、紛争を阻止し、人の苦しみを減らすため、人間の能力で可能な範囲内で全力を尽くしたからだ」「私のみならず私の知る誰もが、セルビア人以外へのジェノサイドが起きるとは思っていなかった」と抗弁しています。

また、1991年のユーゴスラビア解体以後、ボスニアに住むセルビア人たちは、武装を始めたイスラム教徒とクロアチア人たちがセルビア人のジェノサイドを計画していると信じるようになったと主張し、「公然の事実だった。われわれは袋小路に追い込まれたのだ」とも述べています。【2012年10月17日 AFPより】

なお、国連旧ユーゴスラビア国際法廷では、セルビア人武装勢力司令官ラトコ・ムラディッチの裁判も行われています。

クロアチア人にも「準国家」設立を求める動き
ボスニア・ヘルツェゴビナでは10月12日に総選挙が行われましたが、融和よりむしろ分裂を志向する動きが強まっています。

****ボスニア、分裂傾向が鮮明 総選挙、民族派が優勢****
旧ユーゴスラビアの多民族国家ボスニア・ヘルツェゴビナで12日、国、構成体、地方の大統領、議員などを一斉に選ぶ総選挙が行われた。

憲法で定められた主要3民族から各1人選ばれ、輪番で大統領に相当する国家元首を務める幹部会員の選挙でクロアチア人の「準国家」設立を求める民族派のチョビッチ氏が当選を確実にするなど、分裂傾向が鮮明になりつつある。

1992~95年の内戦後、和平協定で国を二つの構成体に分け、3民族間の権力均衡を図る現行憲法ができた。構成体はボシュニャク人とクロアチア人中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「セルビア人共和国」だが、このうちセルビア人共和国は中央の権限強化を嫌い、「準国家」的な色彩を強めている。

13日午後の中央選管の発表では、人口が最大のボシュニャク人の幹部会員選で、開票率92%の段階で現職のイゼトベゴビッチ氏がリード。セルビア人の幹部会員選では、上位2候補の激戦となっている。

一方、構成体の一つのセルビア人共和国では独自の大統領選があり、ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離独立を掲げた現職のドディック氏がやや優勢な情勢だ。

クロアチア人の幹部会員選では2006年と10年、民族を超えて政治的団結を訴える社会民主党のコムシッチ氏が当選。当時はボシュニャク人の間でも支持を集めた。

しかし、今回は同党が分裂。3民族の中で最も人口比率の低いクロアチア人にも構成体の設立を認め構成体を三つに増やすよう求める民族重視のチョビッチ氏の勢いが強まった。

失業率は44%とされ、今年2月には各地で暴動が発生。5月の水害被害からの復興も遅れているが、民族グループへの帰属とその均衡を基本とする政治のしくみが国レベルの合意形成を困難にし、制度改革が立ち遅れる状態が続いている。【10月15日 朝日】
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現在のボスニア・ヘルツェゴビナは、水と油を無理やり一緒の容器に入れたような感じで、いくら振ってもまじりあわない・・・そんな感もあります。

これ以上融和への展望が開けないなら分離もひとつの選択肢かとも思いますが、最低限、前回紛争のような惨事にならないようにしないと・・・。その保証が分離のための絶対条件です。
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