孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

バングラデシュ  非合法キャンプで暮らすミャンマー難民

2008-12-26 18:22:29 | 世相

(バングラデシュ・コックスバザールの難民キャンプ 学校があるので正式の難民キャンプでしょうか。 Photo by Ruben Flamarique/Austcare “flickr”より By Austcare - World Humanitarian Aid
http://www.flickr.com/photos/austcare/2776556619/in/set-72157606824816963/)

【ロヒンギャ族非合法難民】
20日ブログでは、タイで暮らすミャンマーからの難民(主にカレン族)について、日本政府が第三国定住を認めたことを取り上げました。
(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20081220)
ミャンマー軍事政権によって難民となったのはタイに暮らすカレン族だけではありません。
62年にネ・ウィン政権樹立すると国内の少数民族の抵抗が激化し、タイへ逃げたカレンニー族、ミャンマー東部からバングラデシュへ逃げたイスラム系ロヒンギャ族、また、インドに逃げたグループなどがあります。

*****バングラデシュ:ミャンマーから「非合法」難民20万人****
バングラデシュ南東部には、ミャンマーから逃げ出してきた「ロヒンギャ族」の人々が多数、生活している。だがUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の報告書(07年5月)によると、その中で難民として正式に登録してキャンプで居住するのは約2万6000人でほんの一部という。
それ以外に10万~20万人がキャンプからあふれ、「非合法」の状態で貧困に苦しんでいる。彼らは「ミャンマーに帰ると、また迫害される。早く難民と認めてほしい」と口々に訴えている。
ロヒンギャ族はミャンマー西部ラカイン州に住むイスラム教系の少数民族。軍事政権の弾圧を受け、1991~92年に25万人以上がバングラデシュに逃げ込んだとされる。【12月23日 毎日】
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なお、【ウィキペディア】では“1996年と1997年に発生した10万人規模のロヒンギャ難民は、宗教的迫害や強制労働を理由としてミャンマーから流出してバングラデシュに逃れたが、同国政府はこれを歓迎せず、ほとんどが送還された”とあります。
以下に、ビルマ情報ネットワークのサイトに掲載されているミャンマー政府によるロヒギャン族迫害の経緯を引用します。

******ロヒンギャ 迫害の歴史 ******
ロヒンギャの迫害が始まったのは1942年からである(注1)。ミャンマー軍とともにモッグ族(注2)により、10万人が殺され、50万人が家を失った。
その後も迫害が続き、1978年ネ・ウィン政権のもとで operation king dragon作戦(編注:「ナーガミン作戦」とも)により30万人のロヒンギャが難民としてバングラデシュにのがれた。このときは国際的な救援活動が不十分だったため、1万人ものロヒンギャが亡くなり、その大半はこどもであった。のちに両国の合意が成立し、3年間ほどかかり20万人がビルマに帰国した。

しかし、1982年の市民権法が成立し、ビルマのロヒンギャは無国籍(guest citizen)としてあつかわれるようになってしまった。ミャンマー政府は「彼らはバングラデシュからの違法移民なので、とりしまっている」という見解を示している。市民権が与えられないため、教育の機会や医療を受ける権利もない。職業も限られ、その多くは農民である。税金と称し作物・米をとりたて、それを払うことができなければ、強制労働に従事させられ、拒めば投獄されていた。ビルマ民族の入植もしだいにすすめられ、ロヒンギャはもとから住んでいた土地をおい出されていった。

1988年アウンサン=スーチー氏らの民主化運動をロヒンギャは支持したため、ビルマ軍事政権はアラカン地方に7~8万人の軍隊を集結し、モッグ族とともに再び迫害・襲撃を開始した。また軍事施設や道路・橋を建設し始め、労働力としてロヒンギャをかりたてた。彼らは、強制労働させられるだけでなく、家の財産や家財道具・食料・家畜も略奪され、反抗すれば暴行や強姦もうけ、場合によっては殺されることもあった。この軍事行動はpia Taych作戦とよばれた。その結果、1991年12月末から1992年3月にかけてロヒンギャは1~2kmの川幅のナフ川を小船でわたり、あるいは山々を歩き、国境を超えバングラデシュにのがれた。その数は、28万人であった(注3)。当時としてはカンボジア難民(約35万人)にせまる数であり、このような急激な大量難民の発生は、最近の10年間についてみると、アジアにはなかった。
注1: 外部に知られ始めたのはこの頃であるが、以前から迫害はあったのだろう。現在もロヒンギャが各国に散らばっているのもそのためである。
注2: アラカン地方の仏教徒少数民族でロヒンギャとの対立はあり、ミャンマー政府はその対立を利用している。
注3: バングラデシュ政府発表である。UNHCRの発表では23万人となっている。
【2001年5月19日 山村淳平 ビルマ情報ネットワーク】より
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いずれにしても、大量のミャンマー難民を抱えることになったバングラデシュ自身が非常に苦しい経済状態ですから、“厄介者扱いする”あるいは保護しきれない事情は想像に難くありません。
バングラデシュから送り返されると、今度はミャンマー軍事政権によって「彼らはバングラデシュからの違法移民なので、とりしまっている」と弾圧されるのではたまりません。
難民が厄介なのは日本政府も同じで、日本は“ミャンマー国内に戻っても政治的迫害を受ける危険はない”となかなか難民認定を行いません。

また、少数民族統治に対立する民族を利用するというのも、古今東西よく取られる手法です。
ヤンゴンなどでのビルマ族の反政府活動には、少数民族からなる治安部隊が動員され、厳しい鎮圧が断行されます。

【合法、非合法難民の格差】
バングラデシュ政府が難民として受け入れている人々の正式な難民キャンプに隣接して、非合法の難民たちが大勢暮らす“非合法キャンプ”があり、公的支援を受けられない“非合法キャンプ”の人々を、公的にある程度支援されている難民たちが救いの手をさしのべ、助け合って暮らしているそうです。

*****バングラデシュ:「非合法キャンプ」で助け合う難民たち*****
「見てくれよ、こんなに違いがあるんだ」。男性たちが、私たちを非合法区域内に呼び込んだ。彼らは、正式キャンプ内で教師や医師を務める難民たちだった。男性教師(21)は「本当は禁じられているけど、あまりの格差に黙っておれず、こっそり来て子どもたちの面倒を見ているのだ」と話した。
両キャンプの様子は残酷なほど対照的だ。正式キャンプでは、建物の屋根は新しいトタンが用いられ、立派なモスクや学校があり、井戸や太陽光発電装置もあった。一方、非合法キャンプでは、竹や草を使ってかろうじて住宅を作り、壁は破れてボロボロだ。水はため池を使い、医療や教育のサービスはもちろんない。当局の目を逃れながら、拾った薪(まき)を街で売るなどして生計を立てているが、1日に1食しか食べられないことも珍しくないという。

私たちが訪れた日の朝、10代の少女が高熱で苦しんだあげくに死亡した。墓地では、少年たちが墓穴を掘る。ある男性は「1日1人は死んでいる。ほとんどが子どもだ」と嘆いた。1人暮らしの男性、アブルカシムさん(60)が建物の脇で横になったまま、動けなくなっていた。心臓病を患い、やせ細り、いつ命を落としてもおかしくない。「とにかく楽になりたい」。そう声を振り絞った。
正式キャンプの男性医師(62)は「キャンプ内の薬は分けているが、まったく足りない。バングラデシュ政府は資金不足で新たに登録難民を受け入れられないというが、なんとかならないのか」と険しい表情で訴えた。
しかし、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の報告書によると、バングラデシュ政府は国際機関などと協力して問題解決を図ろうとはしているが、そのめどは立っていないという。 【12月23日 毎日】
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実際は記事のような美談的“助け合い”だけでなく、待遇の違いは正式難民と非合法難民の間で対立や憎しみを生むこともあろうかとも思われます。
深刻化する世界不況のなかで、最初に切り捨てられるのはこうした弱い立場に起かれた人々です。

【イスラム女性難民を支える難民IDカード】
また、ロヒンギャはイスラム系ですが、「女性はわれわれ(男性)に委託された存在だ。」とするイスラム社会では女性の地位が日本人的感覚では認められていませんので、難民キャンプでの負担のしわ寄せの多くが彼女らにのしかかります。
そうしたなか、UNHCRが発行する名前・写真の入った個人ごとのIDカードは、彼女達の生活・生命を支える数少ない支えとなります。



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