本当に「知らなかった」では済まされないことである。彼ら(34人)は、どんなつもりで統一教会と関係を持ったのであろうか、と疑問が湧くものである。
きっと単なる「集票マシーン」として(簡単に)関係を持ったもとの、単純に考えたいものであるが、これが「統一教会国教化計画」を知っていて(又は賛同して)関係を持っていたとしたら、これは大問題である。
そうでなくても、いつの間にかそのことに加担してしまうことになり、にッちもさっちに行かなくなってしまっては大変困るのである。困るどころか、国家存亡の一大事となるのである。
あの馬韓国面の文鮮明と韓鶴子なんぞに手玉に取られるようでは、まことに情けない。
選挙活動にボランティアとして無償の協力を受ければ、政治家はそのお返しを無意識にでも考えてしまうという。これは「返報性の原理」という「マインドコントロール」の一種だという。
また、政治家の先生から祝電や挨拶などを受ければ、その団体は「反社会的団体」であっても、信用できる団体と一般人には感じられてしまうものである。これも「権威の原理」という「マインドコントロール」の一種なのである。
この「返報性の原理」と「権威の原理」という「マインドコントロール」で、政治家の先生たちは統一教会の信者集めに使われてしまっているのである。
そのためこの論考は、「それがもっとも大きな問題として露出したのが、安倍晋三元首相と統一教会の関係だった。」と断言している。
統一教会のフロント組織であるUPF(天宙平和連合)の2006年6月に日本で開催された「祖国郷土還元日本大会」に、安倍晋三は祝電を送っていたことがわかっている。
そして2021年9月には、UPF(天宙平和連合)の「'22希望前進大会」というイベントにビデオメッセージまで送っていたのである。(11/24の当ブログNO.29参照のこと)
「反社会的団体」とこのように関係することは、最も危険な行為となるものであることを、心底から自覚する必要がある。
その点安倍晋三の国葬まで、統一教会は利用することになる。一寸長いが次の論考を参照願う。
「何が問題か分からない」自民党議員に教えよう、統一教会と関係する意味を
宗教団体でありながら反社会的行為を繰り返してきた組織をまだ賞賛するのか
2022.7.30(土)青沼 陽一郎
統一教会(現・世界平和統一家庭連合)創設者の文鮮明と妻で現総裁の韓鶴子(写真:ロイター/アフロ)
(作家・ジャーナリスト:青沼 陽一郎)
安倍晋三元首相の襲撃事件をきっかけに、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)と政治家の関係が取り沙汰されるようになった。
ここへきて自民党を中心に統一教会との関係を報道で指摘されるばかりでなく、率先してカミングアウト(告白)する国会議員まで出てきた。
ところが、統一教会との関係を認めたはいいが、その国会議員たちに悪びれる様子は一切無い。むしろ淡々としていて、まるで「そのどこがいけないのか」とばかりに開き直っているようだ。少なくとも戒めの言葉は聞いたことがない。
そこでサルにもわかるように、事件から3週間が経つ間に、私がこの事件と統一教会に関する問題について書き綴ってきた内容から、問題がどこにあるのか、説いてみたい。
宗教法人である以前に反社会的団体
まず、統一教会の位置づけだ。統一教会は日本の宗教法人法に基づく、日本の宗教法人だ。
ここでわけのわからない輩は、政治と「宗教」の関係を問題とまくし立てる。だが、信教の自由や表現の自由が憲法によって保障されている日本において、宗教団体や信者が政治家を支持することがあってもおかしくはない。政治家が宗教団体の信者であるのなら、なおさらだ。
ところが、統一教会は宗教である以前に「反社会的団体」である。そのことは、他でもない自民党の幹部が主張している。
自民党の安倍派で参院幹事長の要職にある世耕弘成参議院議員が、統一教会の学生組織である「原理研究会」の出身であるような書き込みをツイッターにされたことを、名誉毀損として3年前に訴えている。訴状には「原理研や統一教会に対して、反社会的な団体であるとの印象を抱く者が少なくない」ことから、社会的評価を低下させるものであると明記している――この詳細については、すでに7月18日に配信している*1。
*1 「統一教会は反社的」自ら起こした訴訟でそう論じていた世耕参議院議員(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71020)
この件について、世耕氏は26日の記者会見で、訴状で指摘した「反社会的な団体であるとの印象を抱く者が少なくない」との認識について問われると、「変わっていない」と述べている。
また、公明党の北側副代表は28日の記者会見で、こう述べている。
「旧統一教会は過去にさまざまな事件があり、宗教団体に限らず反社会的な団体と政治家との関わりについては、支援を受けたり行事に参加したりということは、慎重でなければならない。団体に利用されることにもなりかねない」
(続く)