世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日清戦争開始120年に考える。(27)

2014-09-12 00:00:00 | Weblog

7、明治19年1886年8月1日、清国の日本威嚇と長崎事件勃発

清国海軍の北洋艦隊は、ロシアのウラジオストックを訪問した後、艦艇修理を名目に1886年(明治19年)8月1日長崎に入港させている。定遠、鎮遠、済遠、威遠の4隻である。定遠と鎮遠は、清国がドイツから購入した装甲戦艦で7,300トンの巨艦であった。その時の日本海軍の最大艦は、「高千穂」でその半分の3,700トンであった。これは明らかに清国の威嚇のための示威行動であった。更に8月13日には上陸した水兵達が遊郭で暴れだし警察官とお互いに抜刀して切りあう乱闘を起こし、双方に死傷者を出している。更に15日には、前日の士官の監督の下に上陸すると言う協定に反して300人の水兵が上陸し、武器を持ち交番を襲撃しそれぞれに死傷者を出している。

これを長崎事件と呼び甲申事件と共に、日本の感情を大いに刺激し反清感情が極限までに高まり、これも日清戦争の引き金のひとつとなっている。そのため民権論を主張する政治結社の玄洋社の頭山満は、国権論へと転向している。また長崎事件の2ヵ月後の1886年10月24日にはイギリス貨物船「ノーマントン号」が紀州沖で座礁し沈没している。イギリス、ドイツ、中国、インド、日本人(25名)が乗船していたが、白人はほぼ全員が助かったのに、日本人全員とインド人乗組員も全員が死亡した。この人種差別に日本人の怒り頂点に達したが、当時は不平等条約で外国人には治外法権があり日本での裁判は実施できなかった。これを「ノルマントン号事件」と呼んでいる。この長崎事件とノルマントン号事件の二つは明治期の重大な外交事件と言われている。

定遠、鎮遠の舷側装甲の最大厚は305mm、主砲も30.5cmと、日本海軍から見ると化け物のような巨大戦艦であった、とWikipediaには記載されている。1886年4月末に就役した高千穂の装甲は、Wikipediaによると平坦部51mm、傾斜部76mmで26cm単装砲4基などであった。日本が本格的に定遠、鎮遠に対抗する軍艦として建造された軍艦は、松島、厳島、橋立であり、三景艦と呼ばれた。三景艦は1888年に起工し、1892年(明治25年)4月に就役している。それでも甲板上部の主砲部分が300mmで他の部分の装甲は40~75mmであった。Wikipediaによると小さな船体に定遠の30.5cmを上回る巨砲32cm一基積んだ背伸びしたものであった。そのため子供に大型拳銃を持たせ、撃たせるようなものであった、と言われ日清・日露戦争ではそれなりの働きはしたようだが、決定的な働きは出来なかった。むしろ艦隊行動の高速機動性を有する12cm砲以下の速射砲を備えた軍艦による戦果のほうが大きかった、と記されている。

壬午軍乱の起きた1882年、その12月に、政府は「軍拡8カ年計画」を決定している。

その総額は、8ヵ年で5,952万円であった。この年の一般会計歳出決算額は、7,348万円であった。そのため一般会計の歳出決算額に占める軍事費は、20%以上で推移し、「軍拡8カ年計画」が終わっていた1892年(明治25年)度の31%がピークであった。これは当時の日本を取り巻く状況、例えば清国の砲艦外交長崎事件などを見れば、至極当然の成り行きであった。

当時は軍事力が直接的に物を言う時代、現代もそのことは通用しているが、では、軍事力が不足すると、非が相手国にあっても外交問題では負けてしまうのであった。そのため日本は散々苛められてきたのである。その点日本の軍拡8カ年計画は、今の中国のアジア一極支配を目論んでの軍拡とは、根本的に異なるものである。

中国は現代にその定遠、鎮遠を蘇らせ日本を威嚇し属国化しようとしている。中国は1986年に海軍発展戦略を発表し、航空母艦の保有を宣言しいてる。その前年の1985年にはオーストラリアから空母メルボルンを購入し研究を開始し、1990年にはソ連からワリヤーグ他3隻の空母を購入している。そして2016年には新造の2隻の中型空母とワリヤーグで3隻体制のとると宣言している。この空母機動部隊こそ現代の「定遠、鎮遠」なのである。2010年9月7日に発生した中国漁船衝突事件はその尖兵である。どうする、日本よ。中国は必ずや第2の尖閣諸島事件を起こし、尖閣諸島に居座ろうとするであろう。どうするか、だから集団的自衛権が必要となるのである。

ちなみに1891年(明治24)には、定遠、鎮遠をはじめとする清国北洋艦隊の6隻が、更に一応親善目的で日本を訪問している。6月30日に神戸、7月には横浜港に入港している。横浜港には清国軍艦6隻のほか、日本の軍艦も6隻が停泊していた。その6隻を次に列挙する。

定遠(7,430t)、鎮遠(7,430t)、経遠(2,850t)、来遠(2,850t)、致遠(2,300t)、靖遠(2,300t)、

これに対して日本側は、

扶桑(3,718t)、高千穂(3,650t)、浪速(3,650t)、高雄(1,760t)、葛城(1,476t)、大和(1,476t)、

これを見れば、清国の軍艦6隻が同数の日本軍艦に比べて優越しているのは一目瞭然であり、日本人がこれを見て驚愕したであろうことは想像に難くない。

この軍艦の列挙は、「鎮遠定遠下駄に履き4」から転載している。下記URLを参照願う。
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Nagasaki_riot/nagasaki_riot4.htm

しかし明治の為政者はこの困難を直視して、完全ではなかったにしても確実に対処していった。
(当ブログ「日韓併合100年」2010.11.09~より引用している。)

このように中国(清国)は、朝鮮では日本人婦女子を陵辱し多くの日本人を虐殺していた。そして更に北洋艦隊を訪問させて、日本を威嚇し続けていたのであった。清国の砲艦外交は清国兵の狼藉にもつながり、長崎事件をひきおこした。当然、日本人の反清感情は極限にまで高まっていた。そんな状況下で朝鮮に農民の反乱が発生した。

(続く)
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